清流 火野葦平
淸流
水藻(みづも)のあひだにゆらめきただ絲くづのやうなみぢんこのすがたさへも、はつきりと見わけられるこの川底では、晝間の時折はまぶしくて兩眼とも開けて居られないことがある。河童たちは水底のやはらかい砂地によこたはつて片眼をとぢ、きらきらと水を透して屈折しながらさしこんで來る陽(ひ)の光の中に、またも生まれたばかりの車蝦(くるまえび)が群れをなして弾(は)ねてゐるのにほくそ笑む。この直角の運動をする蝦たちが次から次に無數に生まれながら、このあまりひろくない流れのなかにいつぱいに滿たされることの決してないのは、かれらがすべて河童たちの唯一の食餌(しよくじ)となるからである。蝦のからだはほとんど透明に近く、からだを通して水面にゆらぐ波紋も見わけられるほどであつて、このやうな淸潔な食物がほかにあらうとは考へられない。しかし、この美しい餌が時にはうすぐろい髭だらけのみぢんこと區別することが出來ないやうにきたなく見えることがある。それは太陽の光がささず、天には黑雲が蔽(おほ)ひかぶさり、はげしい風が吹き、すさまじい雨が落ちてゐるやうな天候の時である。潔癖な河童たらはそのやうな時には、眼の前に游弋(いうよく)してゐる蝦が晴天の日には美しく透明に見えるからだを持つた蝦とまつたく同じものであつて、黑く見えるのは單に天候のせゐにすぎないとわかつてゐても、その薄ぐろく見える蝦を食べない。どんなに空腹の時でもさうなのである。
いつたい、この蓮は雨風がつよく嵐(あらし)の多い地方であつた。海拔六千尺の天拜山(てんぱいさん)から源を發してゐる白魚川(しらうをがは)は、そのやうな時にはしばしば河岸を越えて氾濫(はんらん)をする。いくつかある瀧は溢れたつ水量をうけかねてすさまじい飛沫を散らし、岩をたたき、つんざくやうな物音を立てて迸(ほとばし)る。しかし、このやうな時でも河童たちのゐる川底は割合に靜かであつた。川面は雨にたたかれ風になぶられて亂れるけれども、水底ではただ暗く流れが少しばかり早くなるにすぎなかつた。
河童たちは川底の砂地に寢そべつて嵐のすぎるのを待つ。嵐が過ぎる。すると嵐の間にも、暗澹たる水底で蝦といふものは間斷ない繁殖をつづけてゐるのか、明るい日ざしがさしはじめた水中には、意外にも多くの蝦の群が直角の運動をしながら游弋してゐるのである。
しかしながら、このやうな川底を見棄てて、多くの河童たらが遠くの地方へさまよひ出た。白魚川の淸流に殘つた河童たらは、常に去つて行つた友だらのことを忘れることができない。遠國の友だちのことは風のたよりによつてかれらの耳に入る。河童たちが水底を棄てて飛翔(ひしやう)をこととするやうになつたために、さまざまの悲劇が起つた。千軒岳(せんげんだけ)では噴火口の上を飛びまはつてゐた多くの河童たちが、火山の爆發とともに熔岩の中にまきこまれて生命を終つたといふことである。また、高塔山(たかたふやま)では、河童同士ではしたない爭をはじめ、人間の山伏の法力に敗れて多くの河童たちは靑いどろどろの液體となつて溶けながれ、また、多くの河童たちは一本の釘によつて永遠に地中に封じこめられたといふことである。また、或るものは飛翔中放屁をしたために、天帝の怒りに觸れて一本の樹の中に閉ぢこめられてしまつたといふことを聞いたこともある。このやうに河童としての純粹さを失つた友だちが、遠い國々で受けてゐる懲罰の笞(しもと)が、ひとごとではなく、白魚川の水底に殘つてゐる河童たちのからだにも、鞭をあてるがごとくにひびいて來るのであつた。かれらは友だちが一日も早くこの淸流に歸つて來ることを日夜願つてゐたのであるが、ひとたび出て行つた友だちは、どうしたものか、誰ひとり歸つて來るものがなかつた。
或る日、嵐(あらし)あげくの雨水をはげしく落下きせてゐた瀧から、ひとりの美しい人間の女が落ちて來た。
きらびやかな衣裝につつまれ、水々しい髮を結び、あでやかに化粧をほどこしてゐた若い娘は、落下するとともにその生命を失ひ、流れのままに下流の方へ押し流されて行つた。河童たちは呆氣にとられ、ただぼんやりとその方をその生命を失ひ、流れのままに下流の方へ押し流されて行つた。河童たちは呆氣にとられ、ただぼんやりとその方を見送つたのみである。ところが、このやうなことがそれから相ついで起つた。幾人もの若く美しい女が瀧壺に落ちて死んだ。後(のち)になると、河童たちはそれらの女たちは、決して自分で好んで瀧に落ちるのではなく、多くの人々から強要されてやむなく水中に投じてゐるに違ひないと考へるやうになつた。
それらの儀式を水面から首を出して眺めたことがある。そのおごそかな式は、たいてい嵐が來て水が溢れ、さうして水がひいたあとに行はれるやうであつた。瀧の上に多くの人々があらはれ、色々の旗を立て、神主のやうな烏帽子水干姿の男が出て來てなにごとか長々と唱へる。瀧口のまへには着飾つた若い娘がゐる。やがて娘は掌を合はせ眼を瞑(と)ぢて瀧の中に飛びこむ。それはある時には水干帽の男によつて突きおとされたやうにも見えた。百二十尺もある瀧から落ちて生命のあらう筈がない。屍になつた若い娘は長い黑髮を水面にただよはし、奔流にのせられてまたたく間に下流に見えなくなつてしまふ。
或る時、河童たちは氣になる言葉を聞きとがめた。それは人間の言葉ではつきりとわからなかつたが、なんでもそれはたしかに、ガラッパよ、汝の美しき花嫁をかはることなく愛(いつく)しめ、といふ意味に相違なかつたのである。河童たちは顏見合はせ首をひねつたけれども、どうしてもそのことの意味をさとることができなかつた。やがてその美しい娘が瀧から落らることが止まつた時になつて、はじめて河童たらは一切を理解した。それはこの地方をしばしば襲ふところの暴風雨は、すべてガラッパ(河童のことをこの地方の人はさう呼んでゐた。)のせゐである。そのたびに水害があるのは、なにかガラッパの氣を損じてゐるからに違ひない。ガラッパにきれいな花嫁をあたへたなれば災(わざわひ)を避けることが出來るであらう。そこで村中からもつとも美しい娘が選拔され、瀧から身を棄てたのである。人々の犧牲となつて河童の花嫁となるといふやうな決心は、若い娘にとつてはたぐひなく美しい浪漫精神であらうか。ともあれ、白魚川の河童たちはこのことを知るに及んで茫然となる思ひであつた。しかしそのことは間もなく止まつた。都から流されて來たひとで、位高く情に滿ちた人がこのことを中止させた。その人の名は和氣(わけ)の淸麻呂(きよまろ)といひ、その流謫(るたく)の寓居が瀧を眞正面に望む山腹の杉林の中にあつた。この智慧ある人はこの儀式が良からぬ神主たちの陰謀であることを看破した。災をおさめるための花嫁を買ふ金だといつて、近郷の人達から多くの金品を捲きあげてゐたのである。惡神主たちは和氣淸麻呂のために瀧壺の上から落され、幾人もの花嫁が辿つたと同じ運命に落ちた。彼等は瀧の上で和氣公からお前たらがまづ行つてガラッパを迎へて來い、結婚式は水中で行ふ必要はない、といはれたのである。
河童たちはこのやうな人間たちのいとなみによつて、たいへんな迷惑を蒙つた。かれらの唯一の淸潔な食餌である車蝦の中で、落ちて來た人間をつつくものができてきて、河童たちがかれらを食餌とせんとする時に、はたしてその蝦がけがれてゐるかゐないかといふことを、見きはめなければならないやうな面倒を生じたからである。
このごろ、瀧の上で奇妙なことが行はれる。瀧口のところに舞臺が組まれ、多くの人々が思ひ思ひの服裝をしてその上で踊つたり歌つたりする。太鼓や笛や鉦の音がし、夜になると篝火(かがりび)が焚(た)かれ、舞臺を踏み鳴らすみだれた音が聞える。それから瀧の中に胡瓜や茄子や西瓜や玉萄黍(たうもろこし)などの野菜がしきりに投げこまれる。水面からちよつと顏を出してみるが、河童たちはつまらないのですぐ川底にかへつて寢ころんでしまふ。人間たちのすることが、河童たちには腑に落ちない。これはガラッパ祭といふもので、嵐をしづめ水害を防ぐ目的をもつて、河童を慰め河童の心を和げるために行はれてゐるものだと聞いたこともある。さうして河童の好物である胡瓜や玉萄黍を投げこむといふのである。河童たちは人間のいだいてゐる傳説にあきれる。暴風雨をおこす自然の法則について、河童たちはなにも知らない。また車蝦といふたぐひない食餌があるのに、生ぐさい胡瓜や茄子などがすこしもここの河童たちは好きではない。いろんなものを放りこむので水がよごれるばかりだ。瀧口の上の得體の知れない騷ぎは、ただうるさくて仕方がない。河童たちはほとんど何日もつづけられるガラッパ祭の間、淸流の底にふかく沈んで退屈し、砂の上に寢ころんで欠伸(あくび)ばかりを連發してゐるのであつた。
[やぶちゃん注:
二箇所の「みじんこ」は底本では傍点「ヽ」。
「車蝦」甲殻亜門軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目根鰓(クルマ)亜目クルマエビ上科クルマエビ科クルマエビ Marsupenaeus japonicas。『波が穏やかな内湾や汽水域の砂泥底に生息する。昼間は砂泥の中に浅くもぐり、目だけを出して休む』。『夜になると海底近くで活動するので、夜間に海岸の海中を照明で照らすと、クルマエビ類の複眼が照明を反射し光って見える。食性は雑食性で、藻類や貝類、多毛類、小魚、動物の死骸等を食べる。天敵は人間の他、クロダイ、マゴチ、タコ』、ガラッパ等である。『クルマエビ、サクラエビ、ヒゲナガエビなどを含む根鰓亜目(クルマエビ亜目)のエビは、受精卵を海中に放出し、卵の時期からプランクトンとして浮遊生活を送る。卵を腹肢に抱えて保護するエビ亜目に比べて産卵数が多いが、放出された時点で他の動物の捕食が始まるため、生き残るのはごくわずかである』。『クルマエビの産卵期は六月―九月で、メスは交尾後に産卵する。産卵数は体長二〇センチメートルのメス一匹で七〇万―一〇〇万に達する』。『受精卵は直径〇・三ミリメートル足らずの靑色で、海中をただよいながら発生し、半日ほどで孵化する』。『孵化直後の幼生はノープリウス幼生(Nauplius)とよばれる形態で、成体とは似つかない丸い体に大きな三対の遊泳脚がついた体型である。大きな遊泳脚で水をかいて泳ぐが、この脚は後に触角と大顎になる。なおこの時期の数日間は餌をとらず、蓄えられた卵黄だけで成長する』。『ノープリウス幼生を過ぎるとゾエア幼生(Zoea)となる。腹部がやや後方に伸び、成体に近い体型となる。ゾエア幼生では遊泳脚が増えるが、これらは後に顎脚や歩脚となる。なおクルマエビ亜目のゾエア幼生後期を、アミ類(Mysis)に似ていることから特に「ミシス幼生」と呼ぶ』。『孵化からおよそ一〇日後、ミシス幼生が成長すると、今までの遊泳脚が顎脚や歩脚などに変化し、腹部に腹肢ができ、ポストラーバ幼生(Postlarva)となる。ポストラーバ幼生は腹肢で水をかいて泳ぎ、最初のうちは浮遊生活を送るが、やがて海底生活を送るようになり、脱皮を繰り返して稚エビとなる。産まれた年の秋頃にはもう漁獲サイズの一〇センチメートル以上になる』。『クルマエビの稚エビは海岸のごく浅いところにいて、夏から秋にかけて潮の引いた干潟などで見ることもできるが、成長するにつれ深場に移動し冬眠する。寿命は一年半―二年半とみられる』(以上はウィキの「クルマエビ」から引用したが、アラビア数字を漢数字にし、記号の一部を変更した)。なお、本作品により、カッパは(少なくとも本作中のガラッパは)河口直近の汽水域でも棲息可能であることが分かる(一般的なカッパは純淡水産のイメージが強い)。
「弾ねて」の「弾」はママ。
「游弋」定まったルートをもたずに徘徊することを言う語で、特に軍艦が縦横に航行して敵に備える行動に用いる。河童の遊泳にこれを用いるのも、戦争文学の火野ならではという感じがする。
「天拜山」この名の山は福岡県筑紫野市(太宰府市の南方)にある。但し、標高二五八メートルである(尺換算なら約八五一尺になり、本文の「海拔六千尺」はおかしい。これでは一八一八メートルになる。もしかするとこ本文の尺は一尺を四・三センチメートルとするガラッパ尺なのかも知れない)。その名は大宰府に流された菅原道真が自らの無実を訴えるべく幾度も登頂して天を拝したという伝記に由来する。古名は天判山(てんぱんざん)と言った(但し、これらの同定推理は恐らくハズレである。後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)。
「白魚川」不詳。「昇天記」に既出。そこでは『江戸時代から白魚漁が盛んな福岡市の博多湾に注ぐ室見川があるが、ここか?』と注したが、ここでは「天拜山から源を發している」とあり、室見川は福岡県糸島市瑞梅寺を水源としているので違う。天拝山を水源とする川として知られるものは地蔵川というのがある(但し、これらの同定推理は恐らくハズレである。後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)。
「千軒岳」同じく「昇天記」に登場するも、不詳。噴火口とあるところを見ると、阿蘇山か雲仙岳か、若しくは霧島山(ここまで南下させる理由は後の「和気の淸麻呂」の注を参照されたい)などがイメージされているか?
「高塔山では、河童同士ではしたない爭をはじめ、人間の山伏の法力に敗れて多くの河童たちは靑いどろどろの液體となつて溶けながれ、また、多くの河童たちは一本の釘によつて永遠に地中に封じこめられたといふことである」先行する「石と釘」に描かれた伝承である。実在する高塔山(福岡県北九州市修多羅)を含め、同作と私の同注を参照されたい。
「百二十尺」約三十六メートル。
「ガラッパ(河童のことをこの地方の人はさう呼んでゐた。)」以下、ウィキの「ガラッパ」より引用する(主人公であり、詳細をイメージする必要性からほぼ全文の引用を行ったが、注記号は省略し、記号の一部を変更した)。『ガラッパは、南九州に伝わる妖怪。河童に似た名前の通り、単に河童の訛りとも言われるが、河童に似た別の妖怪という説もある』。『川辺に住み、頭に皿があり、春と秋に山と川を行き来するといわれていることなどは、河童と共通している。目に見えずに声や音だけが聞こえる正体不明の化け物とも言われている。特定の人にしか見えないともいう』。外見の形状は『一般の河童より手足が長いのが特徴で、座ると膝が頭より高い位置にくる』。性格は『悪戯が大好き。山中で驚いたり道に迷ったりするのはすべてガラッパの仕業とされる』。『人間から理不尽な攻撃を受けた場合は必ず仕返しをしたと伝えられている。山でガラッパの悪口を言うと必ず仕返しされ、特に悪口を言った者が靴を履かずに裸足だった際には、その悪口は数キロメートルまで離れたガラッパの耳にも届くという』。『悪戯好きの反面、恩義を忘れない性格とされる。熊本県では、川で悪さをしたガラッパをある者が懲らしめ、もう悪さはしないよう言い聞かせた上で許して逃がしてあげたところ、その川では水難が起きなくなったという』。『かつて数多くの悪戯を働いたガラッパたちも、現在ではいつも考えごとをして静かに振舞っているという説もある。これについては、かつてガランデンドンというガラッパの神が、鹿児島の神社でガラッパたちを集めて悪事を働かないよう説得し、戒めの文字を石に刻み、その石がある限りガラッパは悪さができないとされている』。『人間の仕事を手伝う話も多い。熊本には薬売りに膏薬の作り方を教えた話や、魚採りを手伝ってくれる話がある。特に魚については、ガラッパと友達になることで面白いように魚が沢山取れるという。また鹿児島の薩摩川内市では、田植えを手伝った話が残されている』。「声」の項。『ヒョーヒョーと鳴くとされる。実際にはこの声の主は小鳥のトラツグミとされるが、一説によればガラッパの神秘性を保つため、敢えてこのことは公にされていないという。他に大正時代に鹿児島で、夜来て倒木や矢を射る音をさせたり、フンフンフンと鳴いたという話もある』。「嗜好」の項。『一般の河童に増して女好きであり、鹿児島の伊佐郡などでは、ガラッパが人間の色気に惑わされて川に落ちたという、「河童の川流れ」ならぬ「ガラッパの川流れ」の伝承がある』。『同じく鹿児島の熊毛郡屋久島町では、ガラッパに犯されて妊娠した女の話が伝わっており、その女は胎内のガラッパに肝を食べられたため、やがて死んでしまったという。産まれた子は焼き殺されそうとしていたところ、どこかへ消えたという』。「趣味」の項。『種子島には、ガラッパに相撲で挑まれた子供の逸話がある。その子供はガラッパを投げ飛ばしたものの、次から次へとガラッパが現れ、何度投げ飛ばしてもきりがない。遂に相撲に負けた子供は、妙な色を口に塗られて家に帰り、長い間目を覚まさなかったという』。『薩摩川内市の五代町では、何日もガラッパの相撲につきあっていた者が、やがて病気になって死んでしまったとも伝えられている』。「弱点」の項。『仏飯(仏壇に供えるご飯)が弱点。熊本では、仏飯を口にしたガラッパが力を失ってしまったという伝承がある。また伊佐郡や薩摩川内市では、仏飯を食べた人間や動物に対しては、ガラッパは恐れて近寄らないと言われている』。『光り物の金属類も大の弱点のひとつで、ガラッパの難を避けるにはこれを身に付けると良いとされる』。『その他、伊佐郡では人間の歯を恐れているとも言われている。また、鹿児島の大島郡では網が嫌いとされ、網をかぶることでガラッパの難を逃れた者の話が伝わっている』。最後の「その他」。同『大島郡の瀬戸内町では、善行を行なわなかった人間が海で死ぬと、その霊魂がガラッパになると伝えられている』。『川内市(現在の薩摩川内市川内地域)では、赤ちゃんの歯が生え始める際に下より上の方が先に生えると、川でガラッパに引きずり込まれるとされ、赤ちゃんの名前を改名すると共に、人形を作って川に流すという』。なお、本文の火野の( )注の位置はママ。同段落の最初の一文中に「ガラッパ」は初出するのであるが、ここは一種の直接話法部分であるため、火野は注括弧の挿入が興を殺ぐと嫌って、後ろへ回したものと思われる。何気ないことであるが、私は、火野の読者への優しい心遣いが知られて、心和む思いがするのである。
「和氣の淸麻呂」(天平五(七三三)年~延暦一八(七九九)年)奈良末期から平安初期の貴族。従三位・民部卿、贈正三位、正一位。以下、ウィキの「和気清麻呂」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『備前国藤野郡(現在の岡山県和気町)出身。七六九年(神護景雲三年)七月頃、宇佐の神官を兼ねていた大宰府の主神(かんつかさ)、習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が宇佐八幡神の神託として、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になる、と称徳天皇へ奏上する。道鏡はこれを信じて、あるいは道鏡が習宜阿曾麻呂をそそのかせて託宣させたとも考えられているが、道鏡は自ら皇位に就くことを望む』。『称徳天皇は側近の尼僧和気広虫(法均尼)を召そうとしたが、虚弱な法均では長旅は堪えられぬため、弟の和気清麻呂を召し、姉に代わって宇佐八幡の神託を確認するよう、命じる。清麻呂は天皇の使者(勅使)として八幡宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出て、与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ九メートルの僧形の大神が出現し、大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は与曽女とともに大神の神託、「天の日継は必ず帝の氏を継がしめむ。無道の人は宜しく早く掃い除くべし」』『を朝廷に持ち帰り、称徳天皇へ報告した(宇佐八幡宮神託事件)』。『七六二年(天平宝字六年)道鏡は孝謙上皇の病を宿曜秘法を用いて治療し、それ以来、孝謙上皇と道鏡は密接な関係があったとされる。七六四年(天平宝字八年)孝謙上皇は藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)鎮圧の後、淳仁天皇を廃して自ら称徳天皇として重祚すると、道鏡の権勢は非常に強まり、七六五年(天平神護元年)太政大臣禅師、翌七六六年(天平神護二年)には法王となった。こうした状況に、道鏡に欲が出たのではないか、とも推測されている。さらに、称徳天皇も道鏡を天皇の位に就けたがっていたとも言われ、清麻呂の報告を聞いた天皇は怒り、清麻呂を因幡員外介にいったん左遷の上、さらに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させて大隅国(現在の鹿児島県)に流罪とした』。神護景雲四(七七〇)年八月、『称徳天皇は崩御し、道鏡失脚後、光仁天皇により従五位下に復位した。その後、播磨・豊前の国司を歴任する。この時清麻呂は自ら強く望んで、美作・備前両国の国造に任じられている』。『七八五年(延暦四年)には、神崎川と淀川を直結させる工事を行い平安京方面への物流路を確保した。その後、七八八年(延暦七年)にのべ二十三万人を投じて上町台地を開削して大和川を直接大阪湾に流して、水害を防ごうとしたが工事を行ったが費用がかさんで失敗している(堀越神社前の谷町筋がくぼんでいるところと、大阪市天王寺区の茶臼山にある河底池はその名残りとされ、「和気橋」という名の橋がある)。清麻呂は桓武朝で実務官僚として重用されて高官となる。平安遷都の建設に進言し延暦一二年(七九三年)自ら造営大夫として尽力した』。『また、延暦五年(七八六年)民部卿として民部大輔菅野真道とともに庶政の刷新にあたった。桓武天皇の勅命により天皇の母・高野新笠の出身氏族和氏の系譜を編纂し、和氏譜として撰上した。子の広世・真綱らは、父の没後に官人として活躍した。広世は最澄を招聘して高雄(たかお)の法華会(ほっけえ)を開き、天皇へ最澄を斡旋して勅を蒙り、唐へ留学させ、五男・真綱と六男・仲世は高雄山で最澄と共に空海から密教の灌頂を受けて仏法に帰依し、新仏教興隆に一役買っている。また、姉の和気広虫(法均尼)は夫・葛城戸主(かつらぎのへぬし)とともに、孤児救済事業で知られる』。以上の事蹟から、本件は和気清麻呂が大隅国(現在の鹿児島県霧島市)へ配流となっていた間の出来事として描かれていることが分かる。すると、実はこの本文に現れる「瀧」やそこを源流とする「白魚川」の実在モデルが明らかとなる。MORIMORI氏の鹿児島観光ページの「犬飼滝(犬飼の滝)」をご覧頂きたい。この鹿児島県霧島市牧園町下中津川にある犬飼の滝の落差は三十六メートルとあり、本作の「百二十尺」の「瀧」と完全に一致する。「犬飼滝とゆかりの人々」の部分を見て頂こう(アラビア数字を漢数字に代えた)。『史実によると西暦七六九年(称徳天皇の御世)には、皇位争いをめぐり、道鏡の怒りにふれ和気清麻呂公がこの地に流され一年間滞在している。この間、和気公は、村の美女を生贄に供える河童祭の陋習を止めさせたほか、中津川の開削工事をし、人々や田園を守るため河川変更の大事業を行った』とある。従って、少なくともこの伝承に従うなら、「天拜山」のモデルは天孫降臨神話を持つ(「天拜」とはその謂いか)霧島山であり(標高は最高峰の韓国一七〇〇メートルで本文の「海拔六千尺」の一八一八メートルに近い)、「白魚川」とは霧島山を源流として鹿児島湾へ注ぐ天降川がモデルということになる。天降川はウィキの「天降川」によれば、古くは上流部から中流部にかけては金山川又は安楽川、下流部は大津川又は広瀬川と呼ばれていたとあり、更に『江戸時代初期以前の河口は現在の河口より約二キロメートル東方にあり、現在霧島市の中心市街地となっている地域は海へと続く河道あるいは湿地帯であった。下流部は大雨によってしばしば洪水が発生したことから、江戸時代初期の寛文元年(一六六一年)、薩摩藩藩主島津光久によって大規模な流路変更工事の命令が下され、翌年から約四年間をかけて現在の河口に至る放水路が開削された』(アラビア数字を漢数字に代え、記号も変更した)とあって、本作の洪水被害の甚大な河川という設定とも完璧に一致する。因みに、MORIMORI氏の記載によれば、この美しい犬飼の滝は、坂本龍馬が妻お龍と日本初の新婚旅行で訪れた場所である。]
« 鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 称名寺 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(2)ニオガイ/イシマテ »