鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 巻首/瀬戸明神
鎌倉日記
甲寅五月二日辰ノ刻、上總ノ湊ノ旅寓ヲ出、鎌倉ヲ歴攬セントテ金澤ノ浦ヘ渡ル。松平山城守重治、送錢ノ爲ニ船數艘ヲ飾リテ海ニ浮ブ。群船順風ニ䌫ヲトヒテ前後ニ行ク。船中ニテ燈寵崎ノ前海馬嶋ヲ望ミ、旗立山ヲ過ル。番所アリ。大岡次郎兵衞守之(之を守る)。走水ノ觀音堂ヲ見ル。金澤ノ御代官坪井次郎右衞門ヨリ、案内船三四艘ヲ出シ迎フ。北ノ方二本目ノ出嶋アリ。南方猿嶋ヲ見テ、夏嶋ノ北ヲ廻リ、野嶋崎へ入ル。野嶋又ハ百間嶋卜云。此所ニ紀州南龍院ノ鹽風呂ノ舊地アリ。南方ニ笠島・烏帽子嶋・箱崎・雀浦ヲ望ミ、瀨戸ノ辨才天ノ社ヲ見テ瀨戸橋ニツキ、明神ニ至ル。橋ノ北三松一本アリ。俗二傳フ、照天姫ヲフスべシ所ナリトゾ。
[やぶちゃん注:「送錢」は見送りの意の「送餞」(「餞送(せんそう)」の方が一般的)の誤りであろう。
「松平山城守重治」上総佐貫藩第二代藩主松平重治(寛永一九(一六四二)年~貞享二(一六八五)年)。当時は奏者番、延宝六(一六七八)年に寺社奉行、天和元(一六八一)年には修理亮に遷任したが、この光圀来訪の十年後ノ貞享元(一六八四)年十一月、濫りに身分の低い者と交わって綱紀を乱したとして改易され、身柄は陸奥会津藩主保科正容(まさかた)に預けられた。重治は三〇〇俵高となって佐貫城は破却、貞享二(一六八五)年二月に身柄を江戸から会津に移送されたが、直後に病に倒れて同年八月二日に享年四十四歳で死去した。貞享二年は奇しくも「新編鎌倉志」が成った年である(重治の事蹟はウィキの「松平重治」に拠った)。
「燈寵崎」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)
「海馬嶋」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)
「旗立山」不詳。識者の御教授を乞う。(以下の追記参照)
【二〇一三年一月二十日追記】本日未明、近世史の研究家であられる金沢八景近くに在住されておられる「ひょっとこ太郎」氏よりメールを頂戴し、以下の事実が判明した。まず、光圀の金沢への経由ルートに問題を解く鍵があった。底本では単に延宝二(一六七四)年『五月二日に上総から船で金沢に渡ったが』、『三浦半島の走水の観音堂を過ぎた頃には、金沢の代官が案内船三、四艘を出してい』た、とあたかも直線コースで金沢へ向かったように記すだけなのだが、本文の『走水ノ觀音堂ヲ見ル』に着目すべきであった(これは現在の観音崎であり、実は彼らは、ここで一時下船している可能性さえ見えてきた)。以下、「ひょっとこ太郎」氏のメールから引用させて戴く。
《引用開始》
光圀一行が、房総半島の上総湊を船出したのが、延宝二年五月二日で、金沢に同日到着したようです。
「徳川光圀」(鈴木暎一著・吉川弘文館)では、海上を直線コースで来ているように書かれていますが、光圀は金沢に来るときに、日記から、走水→猿島→夏島→野島というルートを辿っていることから、観音崎(走水)方面から北上してきていると考えられます。
ですので、「海馬嶋」は、久里浜沖にある「海驢(アシカ)島」のことだと考えています。
「燈寵崎」とは、その目前に「海馬嶋」があるということは、浦賀の「燈明崎」のことだと考えています。
地元で「旗立山」といえば、葉山(鎌倉時代に三浦氏の城があった)と鎌倉(光圀が行った英勝寺の裏)にある山の名前で、これらは東京湾側からは絶対に見えません。
この日記が時系列で記述されているとすれば、久里浜と走水の途中に「旗立山」があるわけで、この辺りで山といえば観音崎の灯台がある山くらいしか思い当りません。
ここを「旗立山」と呼んだという記録は見たことがありません。
ここに、旗でも立ってあったのでしょうか……。
光圀は、その後二回も家臣を金沢、鎌倉に派遣してから日記を完成させていますので、誤記は無い筈なんですが。
《引用終了》
これで、「海馬嶋」は久里浜沖の海驢(あしか)島であり、「燈寵崎」は浦賀の燈明崎と同定された。後は「旗立山」であるが、これは「ひょっとこ太郎」氏もおっしゃられている通り、漁師などは旗を立てた山を目印に操舵することが多いから、もしかすると、同船していた船頭が名指した土地の通称の山名などを、そのままに記したのかも知れない。以上、「ひょっとこ太郎」氏の御協力に深く謝意を表したい。
【二〇一三年一月二十二日追記】本日、前記の「ひょっとこ太郎」氏より再度メールを頂戴し、以下の事実が更に判明した。
《引用開始》
ここ数日、「旗立山」が気になって、「新編鎌倉志」を読み直してみて、ようやく理解ができた気がします。
「旗立山」とは、江戸時代に走水奉行所があった「旗山崎」のことではないかと考えます。
「散策コース1(東京湾眺望コース) 10 御所ケ崎・走水番所跡」
旗山崎の名は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が上総に渡る時海が荒れて進めず、臨時の御所を設けて軍旗を立てたことに由来するそうで、ここを「旗立山」と言ったかは不明ですが、光圀の頃にも伝説はあったのでしょうね。
延宝二年当時の奉行が大岡次郎兵衛直政だそうです。
リンク先の写真は、走水小学校方面から、岬の小山を見たものですが、この小山が「旗立山」になると考えます。岬の小山を船で過ぎると、すぐ走水番所のある海岸に出ますので、ここで上陸して大岡に引見し、走水観音を見てから、船で金沢方面に向かったのだろうと思います。
《引用終了》
これを以って、上記三つの不詳は美事に氷解したと言ってよいと思う。「ひょっとこ太郎」氏に多謝!
「大岡次郎兵衞」当時、走水奉行(はしりみずぶぎょう)であった人物(大岡直成?)。走水奉行とは、江戸湾(現在の東京湾)の水上交通の拠点であった走水(現在の神奈川県横須賀市)を支配した江戸幕府の遠国奉行。三崎奉行や下田奉行と連携して江戸から出る船舶の監視取締に当たった。元禄二(一六八九)年に廃止。
「金澤ノ御代官坪井次郎右衞門」底本の編者注によれば、「壺井」が正しい。]
瀨戸明神〔瀨戸或ハ作迅門(迅門に作る)〕
社司ガ云。此浦ハ治承四年四月八日、源賴朝豆州三嶋大明神ヲ勸請アリ。社司ハ千葉ノ氏族ナリト云。社領百石、御當家四代ノ御朱印アリ。其文ニ武州久良岐郡六浦郷ノ内云々トアリ。額二正一位大山積神宮ト、二行ニアリ。裏書ニ、延慶四年辛亥四月廿六日〔戊□〕沙彌寂尹トアリ。神殿ニ是ヲ納ムトゾ。舊記ニ正一位第三赤神宮卜云ハ誤也。社ノ左ニ大ナル古木ノ柏槇アリ。里民蛇柏槇卜云。金澤八木ノ一也。其外此邊ニ柏槇ノ大樹多シ。
寶物 龍王ノ面、拔頭ノ面〔倶ニ古物ニテ妙作ナリ〕 左右二隨身アリ。安阿彌作卜云。二王ハ運慶ノ作卜云。鐘アリ。銘別紙ニ載タリ。
[やぶちゃん注:「迅門」は「新編鎌倉志卷之八」の「瀨戸明神」では『或作迫門(或は迫門に作る)』とある。「迫門」で「せと」、「迫」の誤字のようにも見えるが、瀬戸は潮汐の干満により激しく早い潮流が生じるから、速い意を持つ「迅」を当てて「せ」と読ませているとすれば、表記の一つとして認めることは可能である。
「戊□」は戊辰。
「別紙」少なくとも底本の「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」には「別紙」相当のものは所収しない。この「鎌倉日記」には失われた付属資料があるものと思われる。]
« 芥川龍之介 澄江堂日録 附やぶちゃん注 | トップページ | 生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (二)隠れること~(1) »