生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 (一)逃げること~(1)
一 逃げること
「三十六計逃ぐるに如かず」とは昔からよくいふことであるが、生物界に於ても敵に優つた速力を有すること、及び敵の來り得ざる處へ速に逃げ移ることは、食はれぬ法の中で最も有功なものである。およそ速に飛び、走り、游ぐ動物は、多くはこの方法を用ゐて居る。しかし、またこれらを餌とする動物は、更にこれに優つた速力をもつて居るので、かやうな敵に出遇つては無論成功を期せられぬ。獸類等では兎・鼠等の齧歯類、鹿・羊等の食草類がその最も著名な例であるが、これらは毎日逃げることによつてのみ、その身を全うし得るもので、萬一足が弱くなつた場合にはい一刻も生存は覺束ない。鳥類の如きは殆ど全部速力を賴みとして居る。山間の渓流で美しく鳴く「かじか蛙」、夏草の間を走る「とかげ」、「かなへび」を始め、捕へようとしても容易に捕へ難いのは皆巧に逃げるからである。池の表面に游ぐ「めだか」でも、水の上を走る「あめんぼ」でも、なかなか網で掬へぬことは誰も子供の頃の經驗で知つて居る。
[やぶちゃん注:「かじか蛙」両生綱無尾目ナミガエル亜目アオガエル科カジカガエル
Buergeria buergeri。日本固有種。鳴き声は「兵庫県立人と自然の博物館」のここで。
「かなへび」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目トカゲ下目カナヘビ科カナヘビ属ニホンカナヘビ
Takydromus
tachydromoides。日本固有種。ウィキの「ニホンカナヘビ」によれば、「ニホンカナヘビ」という和名は日本爬虫両棲類学会の二〇〇二年一〇月六日に行われた『総会で承認採択された標準和名であるが、過去の文献では専門書・一般書をとわず単に「カナヘビ」と表記しているものも多い。カナヘビの語源については詳細不明であるが、可愛いらしい蛇の意で「愛蛇(かなへび)」と呼んだという説がある』とある。
「あめんぼ」昆虫綱有翅昆虫亜綱半翅(カメムシ)目異翅(カメムシ)亜目 Heteroptera に属する昆虫の内、長い脚を持って水上生活をするものの総称。本邦ではアメンボ上科アメンボ科アメンボ亜科に属する
Aquarius paludumに「アメンボ」の和名が当てられているが、他にも多くの種類があり、いくつかの科に分類されている、漢字では「水黽」「水馬」「飴坊」などと表記する。参照したウィキの「アメンボ」によれば、『外見は科によって異なるが、翅や口吻など体の基本的な構造はカメムシ類と同じである。カメムシ類とはいかないまでも体に臭腺を持っており、捕えると匂いを放つ。「アメンボ」という呼称も、この匂いが飴のようだと捉えられたことに由来する』。『幼虫・成虫とも肉食性で、主に水面に落ちた他の昆虫に口吻を突き刺し、消化液を注入・消化された液体を吸汁する。魚の死体やボウフラなどから吸汁することもある。獲物を探す際は、獲物が水面で動いた時に発生する小さな水面波を感知して獲物の位置を掴む。そのためアメンボがいる水面を指で軽く叩くなどして波紋を作ると、アメンボが波紋の中心に近寄ってくる』。食物連鎖における天敵は魚類や鳥類などだが、アメンボ科エサキアメンボ
Limnoporus esakii、ウミアメンボ亜科シオアメンボ
Asclepios shiranui など、『生息環境に人の手が入ったことで減少し、絶滅危惧種となってしまった例もある』とある。]
速に逃げる動物に必要なことは、敵のまだ近くまで寄つて來ぬ中にこれを知ることである。それには視るための眼、若しくは聽くための耳、または嗅ぐための鼻が大に發達していることが肝要である。兎は耳の長いので有名であるが、他の獸類でも速に逃げるものは皆相應に耳が大きい。鳥類が鐡砲打ちを容易に近づかせぬのは眼が鋭いからであるが、鹿などは少しでも怪しい香がすると、忽ち遠くへ逃げて行く。それ故風上からは到底近づくことは出來ぬ。かやうに逃げる動物には運動の器官の外に、感覺の器官も必ず發達して居るから、これを捕へて食ふものは必ずそれ以上に發達した運動・感覺の器官を具へねばならぬ。逃げる動物と追ふ動物とは、常にこの兩方面の競爭をして居るわけで、これに負けたものは、食はれて死ぬか食はずに死ぬか、いづれにしても生存が出來ぬ。
[ももんが]
[とびとかげ]
[印度諸島に産する 肋骨が長く左右に延び出て皮膚はその間に膜狀をなして張つてゐるから恰も開いた蝙蝠傘の如くに働き身體の急に落ちるのを防ぐ]
單に敵と速力を競ふだけでは恰も競馬の如くで、若し少しでも敵より早く疲れたならば、必ず敗れねばならぬが、敵の追ひ掛けて來られぬ處へ移れば一時はとにかく安全である。例へば狼に追はれて樹に登るとか、虎に攻められて水中に潜るとかいふ如き法を取れば、當座の危難を免れ、疲れを休め、力を囘復することも出來る。動物の中には、この法を用ゐて敵から逃れるものが頗る澤山ある。樹の茂つた山に住む「むささび」・「ももんが」などはその一例で、常に樹の枝を昇降して果實を食つて居るが、「てん」に追ひ詰められたりすれば忽ち枝を飛び離れ、前足と後足とを開いてその間の膜を張り、空中を滑走して谷の向ふにある樹までも逃げて行く。「とかげ」の類にも肋骨を左右に開き、その間の膜を用ゐて空中を滑走するものがあり、雨蛙の類には、四足共に指が長く蹼が廣くこれを開けば恰も蝙蝠傘の如き形となつて、稍々遠い處まで枝から枝へ空中を飛び得るものがあるが、これらはいづれも昆蟲を捕へ食ふもの故、その空中に飛び出すのは、敵から逃げるためのときもあり、また自ら餌を求めるためのときもあらう。飛ぶ「とかげ」も飛ぶ蛙も共にインド熱帶地方の産である。
[飛蛙]
[やぶちゃん注:「むささび」齧歯(ネズミ)目リス科モモンガ亜科ムササビ
Petaurista leucogenys。日本固有種。ウィキの「ムササビ」によれば、『長い前足と後足との間に飛膜と呼ばれる膜があり、飛膜を広げることでグライダーのように滑空し、樹から樹へと飛び移ることが』出来、一六〇メートル『程度の滑空が可能である。長いふさふさとした尾は滑空時には舵の役割を果たす』。
頭胴長 二七~四九センチメートル
尾長 二八~四一センチメートル
体重 七〇〇~一五〇〇グラム
と、同じモモンガ亜科に属するモモンガに比べ、遙かに大柄である(次注参照)。ただ、『漢字表記の「鼯鼠」がムササビと同時にモモンガにも用いられるなど両者は古くから混同されてきた。両者の相違点としては上述の個体の大きさが挙げられるが、それ以外の相違点としては飛膜の付き方が挙げられる。モモンガの飛膜は前肢と後肢の間だけにあるが、ムササビの飛膜は前肢と首、後肢と尾の間にもある。
また、ムササビの頭部側面には、耳の直前から下顎にかけて、非常に目立つ白い帯がある』とも記す。『日本に生息するネズミ目としては、在来種内で最大級であり、移入種を含めても、本種を上回るのものはヌートリア位しかいない』。その蒲団の様な形態から「野臥間」「野衾」(のぶすま)という異名を持つ、とある。
「ももんが」リス科モモンガ亜科の内の数属に属する滑空飛翔能力を有する小型哺乳類の総称。本邦では特にニホンモモンガ
Pteromys momonga を指す。
頭胴長 一四~二〇センチメートル
尾長 一〇~一四センチメートル
体重 一五〇~二二〇グラム
と、前掲のムササビよりも遙かに小さい。参照したウィキの「モモンガ」によれば、『モモンガは、平安時代にはムササビと区別されておらず、「モミ」または「ムササビ」と呼ばれていた。このうちの「モミ」が転じて「モモ」となり、そこに鳴き声の「グァ」が加わ』った後、『江戸時代に「モモングァ(漢字の当て字は『摸摸具和』)」という語形が生まれ、「モモングァー」「モモンガー」を経て、最終的に「モモンガ」になったと推測されている』とある(但し、一部に出典要求が示されている)。『ちなみに、「モミ」から変化した「モモ」や「モマ」は今も各地に方言語形として残っているが、モモンガの意味で使用する地域は少なく、多くはムササビや化け物の意味で使用されている。
漢字による表記では前述の「摸摸具和」以外に「鼯鼠」が用いられることがあるが、後者はムササビについても用いられる』。『本州では妖怪扱いされていた時代もあり、子供を脅かすときや、誰かの悪口を言ったりするときに、「ももんがあ」ということがある』。『北海道のアイヌ民族からはエゾモモンガが子守する神として知られていたという』とある。
「てん」食肉(ネコ)目イタチ科イタチ亜科テン
Martes melampus。テンはアオバズクなどのフクロウ類やイタチなどと並ぶムササビやモモンガの天敵である。
『「とかげ」の類にも肋骨を左右に開き、その間の膜を用ゐて空中を滑走するものがあり』爬虫綱有鱗目トカゲ亜目アガマ科トビトカゲ属
Draco に属する滑空飛翔能力を有するトカゲ類を指している。属名
Draco はラテン語で「竜(ドラゴン)」の意。インド南部東南アジア全域・中華人民共和国南部・フィリピンなどに分布、アリを主食とする。
「雨蛙の類には、四足共に指が長く蹼が廣くこれを開けば恰も蝙蝠傘の如き形となつて、稍々遠い處まで枝から枝へ空中を飛び得るものがある」両生綱無尾目カエル亜目アオガエル科アオガエル亜科アオガエル属に属するワラストビガエル
Rhacophorus
nigropalmatus(マレーシア・ボルネオ産)やその仲間(丘先生はインド産と注しておられるが、世界自然保護基金(WWF)が二〇〇八年八月一〇日に発表した一九九八年から二〇〇八年に東ヒマラヤ地域で発見された三百五十三種の新種生物の中にもトビガエルの仲間が一種含まれている)、及びアマガエル科
Hylidae に属するカエルの内でも、水かきを広げることで中長距離を滑空することが可能なカエル類を含む、凡そ数十種の滑空能力を有するものの謂わば俗称である(標準的なカエル類では三メートル以上の高さから落下すると内臓破裂や骨折で死亡するが、これらは一〇~一五メートル以上の高さからでも飛翔可能とされる)。ワラストビガエル
Rhacophorus
nigropalmatus の飛翔実験映像“Slow Motion of Frog Jumping (Rhacophorus reinwardtii)” 及び自然界の飛翔時(種不詳)の映像“Flyng frog in Flight (high-speed Video)”。]