耳嚢 巻之五 太田持資童歌の事
太田持資童歌の事
太田持資(もちすけ)の十三歳なる時、初陣に武州小机の城を攻めし時詠める由。
小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん
□やぶちゃん注
○前項連関:滑稽の和歌技芸譚。滑稽と言っても、この場合、殺戮の予感を交えるから、「童歌」(童子の戯れ唄の謂いであるが、後注するように主人公太田道灌の史実には反する)と言っても「マザー・グース」のようなブラック・ユーモアである。
・「太田持資」太田道灌(永享四(一四三二)年~文明一八(一四八六)年)のこと(元服後は資長を名乗ったが、その初名は持資であったとも言われる)。以下の文明一〇(一四七八)年の小机攻めの時は数え四十七歳で、勿論、これは初陣なんどではなく、この歌も自軍の兵士達を鼓舞するための戯れ歌である。なお、彼の初陣はよく分からないが、「十三歳」直近ならば、鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実の対立に端を発する永享一〇(一四三八)年に起った永享の乱がある。但し、この時、道灌は未だ数え七歳である。
・「武州小机の城を攻めし時」「小机の城」は武蔵国橘樹郡小机郷(現在の神奈川県横浜市港北区小机町)にあった上部の平坦な低い山城。山内上杉家家宰長尾景春が父の死後に家宰職を相続出来なかったことを遺恨として主家へ反乱を起こしたが、この際、景春の味方をした豊嶋氏がこの小机城に立て籠ったため、太田道灌がこの城を攻撃した。以下、参照したウィキの「小机城」に以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた)。『この時、道灌は近くの集落の松の大木の下に腰掛け、「小机はまず手習いの初めにて、いろはにほへとちりぢりとなる」と歌を詠んで味方を鼓舞した。程なく、鶴見川対岸の亀の甲山に陣をとり、約二ヶ月をかけて落城させたとされる。道灌が歌を詠んだ松は、以後「硯松」と伝えられ、三度の植えなおしを経て現存(羽沢町)する』。
・「小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん」書き直すと、
小机は先づ手習(てなら)ひの初めにて「いろはにほへとちり……」散(ぢ)りにせん
で、恐らく、この山の形状からついた「小机」城を、実際の(たかが)小机に掛けて、更に「小机」「手習(の初め)」「いろはにほへとちり」という縁語を配し、引き出した「いろは歌」の途中の「ちり」の部分を、敵を散々に殲滅するの意の「散り散りにす」に掛けた。
――小机と言うたら――我らが幼き日、初手の手習いを致いたちっぽけな机じゃ――そのいっとう最初の文句は――ほうれ、「いろはにほへと ちり」……「ちりぢり」……散り散(ぢ)り! 奴(きゃつ)ら! 散り散りにして呉れるわ!
■やぶちゃん現代語訳
太田持資童歌の事
太田持資の、十三歳の折りの、初陣に武州小机の城を攻めた際、詠んだ和歌の由。
小机はまづ手習の初めにていろはにほへとちりぢりにせん
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