北條九代記 鎌倉新造の御館
○ 鎌倉新造の御館
同年十二月鶴ヶ岡の東の方大倉の郷に新御館(しんみたち)を建てらる。大庭景義同じく奉行を承る。奇麗大廈(きれいたいか)の構(かまへ)は合期(がふご)の沙汰致し難ければ、先(まづ)暫く知家事(ちけじ)兼通が山内の宅(いへ)を遷(うつし)立てたり。往初(そのかみ)正曆年中にこの宅を造りし時、安倍晴明鎭宅(ちんたく)の符をおしけるを以て、遂に囘祿の災なしとかや。同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ。前陣は和田小太郎義盛、後陣は畠山次郎重忠なり。斯(かく)て寢殿に入り給へば、御供の諸將等(ら)十八間(けん)の侍所に二行に對座し、義盛中央に候(こう)す。凡(およそ)出仕の侍三百十一人御家人等(ら)皆思ひ思ひに家造(いへづくり)し館(たち)を構へ、命を守り、忠を勵(はげま)す、有道順理の政(まつりごと)に四方悉くその風に懷(なつ)きて、推(をし)て鎌倉殿と稱し奉る。その所は本より遠境邊鄙の事なれば、海郎(かいらう)野人の外には住人(すむひと)少かりしに、今この時に方(あた)つて大名小名多少の人集り、或は市を立て或は店(たな)を飾り、家居更に軒を轢(きし)り、賣買諸職の輩町(まち)を立て、小路を通して、山谷村里夫々(それぞれ)に號(な)を授け、絶えたるを繼ぎ、廢れるを興し、鎌倉の荒蕪を刈拂つて天下草業(さうげふ)を立て給ふ。武威の輝く事、抑(そもそも)頼朝は源家中興の英雄たり。
[やぶちゃん注:「合期」間に合うこと。
「知家事」政所の職掌の一つで、案主(あんじゅ)とともに事務を分掌した。
「知家事兼通」「吾妻鏡」治承四年十月九日の条に基づくが、そこでは「兼道」とある。この人物、不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「同月十一日土木の功を遂げしかば、賴朝即ち渡御し給ふ」治承四(一一八〇)年十二月十二日に移徙(わたまし)の儀が行われている(ここはその条に基づいて書かれている)。「吾妻鏡」には前日の竣工記事はないが、自然ではある。
「十八間」約三二・七メートル。
「大名」鎌倉時代のそれは、多くの名田(みょうでん:荘園や国衙領(こくがりょう)の構成単位を成した田地。開墾・購入・押領などによって取得した田地に取得者の名を冠して呼んだ。)を所有した大名主(だいみょうしゅ)で、家の子・郎等を従えた有力な武士。
「小名」大名主に比して、有意に規模の小さい名田しか領していない武士。]