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2012/10/20

耳嚢 巻之五 相學的中の事

本話を以って「巻之五」の半分、五十話となるので、これより一括HPテキストの構築に入ることとする。



 相學的中の事

 

 予が許へ來る栗原某は相術(さうじゆつ)を心掛しが、誠に的中といへる事も未熟ながらある事也と退讓(たいじやう)して語りけるは、近頃夏の事成しが、築地邊へ行て歸りける時、護持院原の茶店に腰懸て暫く暑を凌けるに、町人躰の者兩人、是も茶店に寄て汗など入(いれ)て、何か用事ありて是より戸塚とやら川崎とやらんへ出立する由咄し合しを、栗原つくづくと彼者の面(おもて)を見るに、誠に相法に合(あは)すれば劍難の相(さう)顯然たる故、見るに忍びず立寄(たちよ)て、御身は旅の用事いかやう成事也(なることや)と尋ければ、我等不遁者(のがれざるもの)の娘を被誘引出(さそひいだされ)、川崎の宿(しゆく)の食盛(めしもり)に賣りし由、依之(これより)かしこへ至り取戻す手段をなす事也(なり)と語りけるにぞ、左あらば人を賴みて遣(つかは)し候共(さふらへども)、又は知る人もあらば書通(しよつう)にて、能々(よくよく)糺して其後行(ゆき)給ふべし、我等相術を少々心掛けるが、御身の相(さう)劍難の愁ひ歴然に顯れたれば、見るに忍びず語り申也(まうすなり)といひしに、彼(かの)者大きに驚き厚く禮謝して住所抔尋ければ、禮を請(うけ)んとの事にはあらずとて立別れしが、彼栗原は施藥をもなしける故、右町人にも不限(かぎらず)同じく涼(すずみ)し者へ施藥などいたしけるが、右包帋(つつみがみ)に宅をも記し置(おき)ける故にや、五七日過(すぎ)て右町人、肴(さかな)を籠(かご)に入(いれ)て栗原が許へ來り、誠に御影(おかげ)にて危難をまぬがれし也(なり)、其日の事也しが、彼旅籠屋(はたごや)にては右女(むすめ)の事に付(つき)大きに物言ひありて、怪我などせし者ありしと跡にて聞(きき)けるが、我等彼(かの)所に至りなば果して變死をもなさん、偏(ひとへ)に御影也と厚く禮を述(のべ)て歸りし。是等近頃の的中といふべしと自讚して咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。恐らくはニュース・ソース栗原幸十郎話の一つ。本話は本巻(底本東北大学図書館蔵狩野文庫本)の折り返し点、丁度、五十話目に当たる。

・「相術」相学。人相学。

・「幸十郎」「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』とある人物と同一人物であろう。本巻でも既に何度も登場しているが、本話では彼は医者まがいの熱中症患者への無料の施薬なんぞもしており(今のTVでもよくある手では御座らぬか!)、その薬包にはちゃっかり名前と住所が書いてあったり、話柄の最初では根岸、「退讓」としながら、掉尾では鋭く「自讚」と表現している辺り(語るうちに栗原が饒舌自慢となってゆくさま見て取れる優れた額縁である)……「栗原、お主も、なかなかじゃのう……♪フフフ♪……」……

・「護持院原」元禄元(一六八八)年に第五代将軍徳川綱吉が湯島にあった知足院を神田橋外(現在の千代田区神田錦町)へ移して、隆光を開山として新たに護持院としたが、この寺は享保二(一七一七)年に火災で焼失して火除け地となり、護持院ヶ原と呼ばれた(護持院は音羽護国寺の境内に移されている)。底本の鈴木氏の注によれば、当時、御寺院ヶ原自体は閉鎖されていたらしく、『夏と春は一般人に開放し、各春は将軍の遊猟に使用した』とある。

・「汗を入て」ひと休みして汗の出るのを抑える、また、ひと休みして汗を拭くの意。

・「不遁者(のがれざるもの)」は底本のルビ。

・「食盛(めしもり)」は底本のルビ。飯盛女。ウィキの「飯盛り女」の記載がここでの刃傷沙汰を自然に納得させて目から鱗であるから引用しておく(アラビア数字は漢数字に代え、注記号は省略した)。『盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場にいた、奉公人という名目で半ば黙認されていた私娼である』。『その名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者も指しており、一概に(売春婦)のみを指すわけではない』。『また「飯盛女」の名は俗称であり、一七一八年以降の幕府法令(触書)では「食売女」と表記されている』。『十七世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。もともと遊女を置いていたのを幕府の規制をすり抜けるために飯盛女と称したとも、給仕をする下女が宿駅間の競争の激化とともに売春を行うようになったとも言われる』。『当時、無償の公役や競争激化により宿駅は財政難であり、客集めの目玉として飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。一方、当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府も、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限の無い拡大は未然に防いだ。一七七二年には千住宿、板橋宿に一五〇人、品川宿に五〇〇人、内藤新宿に二五〇人の制限をかけている』。『また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒などアウトロー集団が出入り、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすく、一方で目明かしなども料理屋に出入りし、公権力とも関わりをもっており、料理屋における飯盛女雇用は公権力への協力の見返りに黙認されるケースであったと考えられている』(但し、末尾の一文には要出典要請が掛かっている)。

・「書通」書面を以って相手に意を通じること。

・「帋」は「紙」に同じい。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 相学的中の事

 

 私の許をしばしば訪れる栗原某は相術をも独学致いておるが、

「……まっこと――ズバリ的中――と申すことも……これ、未熟ながら、御座いましてのぅ……」

と謙遜しつつ、語ったことには……

 

……近頃の夏のことで御座った。築地辺へ出かけての帰るさ、護持院原の茶店に腰掛けて暫く暑さを凌いで御座ったところ、町人体(てい)の者二人、これも茶店に寄って、我らが近くに座り、汗を静め、何やらん用事のあって、これより戸塚とやら川崎とやらへと出立する由、話し合(お)うて御座いましたが……我ら、その出で立たんと申した男の顔をよう見るに……これ、相術相法に照らし合わせますると――まっこと、剣難の相――歴然たる故、見るに忍びず近くへと参り、

「……失礼乍ら、伺い申す。……貴殿、これより旅をなさるようじゃが……その用向きは、これ、如何なることにて御座るかの?」

と訊ねたところ、我らがこと、さまで不審にも思うさまもなく、

「……へえ、旅と言やぁ、旅でござんすが……儂(あっし)の身内の者の娘が、これ、体(てい)よく、甘い話に乗せられてかどわかされ、川崎の宿の飯盛り女に売られたって聴きやして、そいつは一大事と、これから、おっつけそこへ行って、この娘を取り戻そうってえ、算段でごぜえやすが。……」

と答えて御座った故、我ら、

「……さあらば、仲に人を頼み、相手方へ遣わしなさるるか……或いはまた、仲介に立って下さる御仁のあらば、貴殿の認(したた)めし書状を以って、よくよく、かく至った経緯を糾いた上、その後(のち)、先方へ出向かるるが、これ、よろしゅう御座る。……何とならば……我ら、相学を少々心得て御座るが……御身の相には、これ――剣難の相――歴然と出でて御座る。……見るに忍びず、かくお声掛け致いた次第。……」

と真摯に申したところが、当の男、これ、大いに驚き、厚く礼を申して、我らが住所なんどを訊ねました故、

「我ら、謝礼を請わんとて、今の事実をお話致いたわけにては、これ、御座らぬ。」

と固辞致いて、我ら、そこを立ち去って御座った。……

……ところが、それ、我ら、片手間に諸人(もろびと)に施薬なんども致いておりますのはご存知のことで……この折りも実は、この男らと話を致す前に、その当の町人に限らず、そこな茶屋に涼んでおった町人どもへ、例の我ら秘伝の暑気払いの薬、これ、ただで配って御座いまして、の――まあ、さればこそ、この町人も話しかけた我らがことも胡散臭くも思わずに御座ったものでしょう――ところが、その折りに配った藥包(やくほう)に、我らが住所を記してあったがためか……五日七日(いつかなぬ)ほど経って、かの町人が、鮮魚を籠に入れたものを手土産にして、我らが元を訪ねて御座った。

「――いやぁ! まっこと、お侍(さむれえ)さまのお蔭を以て、危難を、これ、免(まぬが)れやして、ごぜえやす! あの日のことでごぜえやすが――何でも、かの旅籠屋にては、かの娘のことにつき――売り飛ばしに関わった不逞の輩との間の悶着ででもごぜえやしたものか――大きに、ひと騒動御座って、怪我なんど致いた者もおったとの由、後になって聴きやしてごぜえやす。儂(あっし)も、もし、その場に居合わせてごぜえやしたら……これ、果たして巻き添えを食って、哀れ、変死の憂き目に逢(お)うておったところでごぜえやした。……これは偏えに、お武家さまのお蔭に、ごぜえやす!」

と厚く礼を述べて帰って行きまして御座る。……

 

「……と、まあ、これなんどは、近頃の的中致いた一つとは申せましょう。……」

と、栗原、最後は自画自賛となって語って御座った。

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