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2012/10/08

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 電子テクスト化始動

「新編鎌倉志」及び「鎌倉攬勝考」の完全テクスト化終了を受けて、カテゴリ「 鎌倉日記(德川光圀歴覽記)」を創始し、「新編鎌倉志」の原型である同記録の電子テクスト化を始動する。

本日は、まずその「目録」部分。



鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 德川光圀

 

[やぶちゃん注:本日記(德川光圀歴覽記と通称)は私の全テクスト化注釈を終えた「新編鎌倉志」(リンク先は巻一)のプロトタイプである、水戸藩主徳川光圀(寛永五(一六二八)年~元禄一三(一七〇一)年)が、延宝二(一六七四)年五月(水戸出発は四月二十二日、五月二日上総から乗船して金沢に入った)に、相州金沢・鎌倉の名所旧跡を歴遊した際の家臣に記録させた日記である(因みに、ドラマで水戸黄門諸国漫遊は知らぬ者とてないが、実際には彼の大きな旅行は、この鎌倉行たった一度きりであったと言われていることは知っておいてよかろう)。

 底本は吉川弘文館昭和六〇(一九八五)年刊「鎌倉市史 近世近代紀行地誌編」を用いたが、私のポリシーに則り、恣意的に漢字を正字化したが、正字化に際しては影印本「新編鎌倉志」の表記に準じた(例えば「跡」は圧倒的に「跡」で「蹟」とするものは少なく、「天台」という記す場合は「臺」ではなく「台」である)。従って原本を確認したわけではないが、この方がより原本に近いものと考えよいと思われる。割注は同ポイントで〔 〕表記とし、ルビはブログ版では( )で示した。なお、本文中に底本編者によるママ表記や誤字正字注があるが、そのままでは編集権を侵害するので、私が確認にした上で、私の注として直後に配した。

 底本解説によれば、鎌倉では水戸家所縁の英勝寺(徳川家康側室英勝院(お梶の方)の菩提を弔うために創建された。光圀は英勝院の庇護の元で成長し、寛永一一(一六三四)年にはこの英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に謁見している。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の項及び私の注なども参照されたい)の塔頭春高庵を宿所とし、七日間に亙って歴覧した。その際、勿論、諸社寺に於いても種々の供応がなされ、特別な開帳が行われた場合もあり、当時の一般庶民の鎌倉遊覧とは自ずと異なるものではある。

 光圀は若き日より、歴史への関心がいや増しに深く、明暦三(一六五七)年、水戸家の世子教育を受けていた江戸小石川藩邸に於いて、早くも史局を設置、紀伝体歴史書「大日本史」の編纂作業に着手している。寛文元(一六六一)年、常陸国水戸藩二十八万石の第二代藩主となった後、寛文年(一六六三)年には史局を小石川邸に移して彰考館としている。

 この祖父家康が尊崇した最初の武家政権を樹立した源家鎌倉幕府(家康の愛読書は「吾妻鏡」であったとされる)、東国武士団の本拠であった本鎌倉来訪は、光圀満四十四歳で時であった。

 その二年後の延宝四(一六七六)年の秋、この資料をもとに彰考館館員であった河井恒久に鎌倉の社寺名刹の来歴に就いて本格的に調べるよう命じ、当時、鎌倉の地誌に詳しい鎌倉英勝寺に療養中であった現地医師松村清之に自身の記載の補正をさせたが、業半ばにして河井が亡くったため、同館員力石忠一が代わって、実に十一余の歳月を費やして貞亨二(一六八五)年に書き上げられたのが、「新編鎌倉志」全八巻十二冊からなる史上初の本格的な鎌倉地誌であった。

 これは私の「新編鎌倉志」及びそれに継ぐ幕末の植田孟縉の手になる鎌倉地誌書「鎌倉攬勝考」(リンク先はそれぞれ巻一)の全テクスト化(注釈附)を受けて、電子テクスト化を開始するものである。【テクスト作業開始:二〇一二年十月八日】]

 

 鎌倉日記 乾

 

鎌倉日記目錄

[やぶちゃん注:目録は底本では四段組。改行されていると判断される部分や、下巻標題の前後は一行空けとした。]

 

 瀨戸明神

 稱名寺〔附金澤文庫〕

 能見堂〔附金岡筆捨松〕

 

 光觸寺

 鹽嘗(シホナメ)地藏

 五大堂

 梶原屋敷

 馬冷場

 持氏屋敷

 佐々木屋敷

 英勝寺

 源氏山〔附藥王寺〕

 泉谷

 扇井

 大友屋敷

 藤谷

 飯盛山

 阿佛屋敷

 智岩寺谷
[やぶちゃん注:「岩」は、現代の鎌倉地誌資料では「岸」とする(以下、「現代の鎌倉地誌資料では」の部分は省略して「現在、~。」と表記する)。]

 尼屋敷

 ホウセン寺舊跡

[やぶちゃん注:「ホウセン寺」は現在、「法泉寺」。]

 靑龍寺谷

[やぶちゃん注:これは位置と音の類似から見て、「清涼寺谷(しょうりょうじがやつ)」のことである。]

 景淸籠

 山王堂跡

 播磨屋敷

 六國見

 六本松

 假粧(ケハイ)坂

 葛原岡〔附唐絲籠(カライトノロウ)〕

[やぶちゃん注:ママ。「唐絲籠」は釈迦堂ヶ谷の南でここでは位置がおかしい。]

 梅谷

 武田屋敷

 海藏寺

 淨光明寺

 網引地藏

 藤爲相石塔

 壽福寺

 鶴岡八幡宮

 鐵井

 鐵觀音

 志一上人石塔〔附稻荷社〕

 日金山

 岩不動

 鳥金原

[やぶちゃん注:「金」は現在、「合」。原本記載の誤りであろう。]

 賴朝屋敷

 キドブン

[やぶちゃん注:本文には頼朝屋敷の北西の田の呼称とし、頼朝の同時代の人名としつつ、『未だ審らかならず』とあり、私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]

 報恩寺

 永福寺

 西御門

 高松寺

 来迎寺

 法華堂

 東御門

 荏(ヱ)柄天神

 天台山

 大樂寺

 覺園寺

 大塔宮土籠

 サン堂

[やぶちゃん注:本文に、大塔宮土籠の北東の田の呼称とする。私は初耳の(「新編鎌倉志」には所収しない)現在に伝わらない貴重な地名である。当該項で考証する。]

 獅子谷

 瑞泉寺

 鞘阿彌陀

 杉本觀音

 犬翔谷

[やぶちゃん注:これで「いぬかけがやつ」と読ませているものと思われる。]

 衣張山

 封國寺

[やぶちゃん注:「報國寺」の誤りであろう。]

 滑(ナメリ)川

 淨妙寺

 鎌足大明神〔附鎌倉山里谷七郷〕

 十二郷谷

[やぶちゃん注:十二所の別称(旧称とも言われる)。]

 胡桃谷

 中谷

[やぶちゃん注:本文参照。釈迦堂ヶ谷のことらしい。]

 大御堂谷

 歌橋

 文覺屋敷

 屏風山

 畠山屋敷

 

是ヨリ下卷

 

 寶戒寺

 葛西谷〔塔辻〕

 大町小町

 妙隆寺

 妙勝寺

[やぶちゃん注:廃寺。「新編鎌倉志」に所収しない。]

 大行寺

 本覺寺

 夷堂橋

 妙本寺

 田代屋敷

 田代觀音

 辻藥師

 亂橋

 材木座村

 丁子谷

[やぶちゃん注:本文には、乱橋橋の東の谷とするが、不詳。「新編鎌倉志」に所収しない今は失われた鎌倉の谷戸名である。]

 紅谷

 桐谷

 補陀落寺

 逆川橋

 光明寺

 道寸城

[やぶちゃん注:住吉城址のこと。]

 景政石塔

[やぶちゃん注:景政を祀る御霊神社内の石塔(若しくは様のもの)を指しているように思われるが、後に「御靈宮」があるので違う。本文では由比ヶ浜の北にある、としている。]

 荒井閻魔

 下若宮

 裸(ハダカ)地藏

 畠山石塔

 巽荒神

 人丸塚

 興禪寺

 無量寺谷

 法性寺屋敷

 千葉屋敷

 諏訪屋敷

 佐介谷〔附稻荷大明神隱里〕 

 裁許橋

 天狗堂

 七觀音谷

 飢渇畠

 笹目谷

 塔辻

 盛久首座

 甘繩明神

 水無瀨

 大梅寺

[やぶちゃん注:光則寺の別称。]

 大佛

 御輿嶽

 長谷觀音

 御靈宮

 星月夜井

 虛空藏堂

 極樂寺

 月景谷

[やぶちゃん注:現在は「月影ヶ谷」。]

 靈山崎

 針磨橋

 音無瀧

 日蓮袈裟懸松

 稻村崎

 袖浦

 十一人塚

 七里濱

 金洗澤

 腰越村

 萬福寺

 袂浦

 龍口寺

 龍口明神

 片瀨川

 西行見歸松

 笈燒松

 唐原

 砥上原

 江嶋

 杜戸

 小坪村〔附多古江〕

 鷺浦

 飯嶋

 龜井坂

[やぶちゃん注:亀ヶ谷切通の別称。]

 長壽寺

 管領屋敷

 明月院

 禪興寺

 浄知寺

[やぶちゃん注:「浄智寺」。原本の誤り。]

 松岡山

 圓覺寺

 建長寺

 地藏坂

[やぶちゃん注:本文には建長寺の前を出て、南に行く路の路傍に伽羅陀山の地蔵堂がある所とあるが、不詳。当該項で考証する。]

 小袋坂

[やぶちゃん注:巨福呂坂切通のこと。]

 聖天坂

[やぶちゃん注:これは巨福呂坂切通の旧道を言っているか。]

 佐竹屋敷

 安養院

 花谷〔附蛇谷〕

 松葉谷

 妙法寺

 安國寺

 名越入

[やぶちゃん注:本文によれば材木座村と名越切通を結ぶ道の呼称。]

 長勝寺

 日蓮乞水

 名越坂

 名越三昧場

[やぶちゃん注:本文によれば、古い記録に、名越切通の北方の山巓に少し開けた場所があり、そこに石塔が一基立つとも、男石塔・女石塔の二基があるとも記すが、今は場所さえ不明である、と記すもの。これも初耳の、光圀の時代には失われていた古跡のようにも見えるが、これはどうも現在のまんだら堂を指しているようにも思われるが、如何?]

 法性寺

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