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2012/10/30

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 淨光明寺/網引地蔵/藤為相石塔

   淨光明寺

 泉谷ノ内、藤谷ノ南也。山號ハ泉谷山。此寺古ヘハ四宗兼學ナリシヲ今ハ禪律ノミニテ泉涌寺ノ末也。四貫八百文ノ寺領アリ。武藏守平長時、建長年中ノ建立、開山ハ眞聖乘國師ナリ。本尊ハ寶冠ノ阿彌陀卜云名佛也。寺内三慈恩院卜云有。其内ノ寶物

[やぶちゃん注:以下の解説部が二行以上に及ぶものは底本では二字下げになっている。]

 愛染明王  願作ノ作也

 寺僧云、願行ハ禪僧ニテ一生泉涌寺ニ居住ス。

[やぶちゃん注:「愛染明王」の下の「願作」は「願行」の誤り。]

三千佛繪  弘法筆  一幅

地藏木像〔矢拾ヒノ地藏卜云。錫杖ニハ矢ガラヲ用ユ。長時ノ守リ本尊也。一戰ノ時分ニ、矢ダネツキケレバ、敵陣ヨリ小僧一人走リ來テ、放チ捨タル矢ドモヲ拾ヒ捧ゲルト也。アヤシク彼地藏ヲミレバ、矢一筋杖ニ持ソヘケルト云傳タリ。〕

[やぶちゃん注:「長時」は北条長時(赤橋長時)で第六代執権であるが、「新編鎌倉志卷之四」の「淨光明寺」の「慈恩院」の項に載る「矢拾地藏」でも、また現在の伝承でも、この主人公は北条長時ではなく、ずっと後の足利直義である。異伝承があったものか、単なる光圀の聴き違いかは不明。]

 大塔宮位牌

  表ニハ沒故兵部卿親王尊靈

  裏ニハ建武七年七月廿三日トアリ。

[やぶちゃん注:「建武七年七月廿三日」「建武七年」は西暦一三四〇年であるが、この元号はおかしい。後醍醐天皇は建武三(一三三六)年二月に延元に改元しており、建武の元号を使い続けた北朝方でも建武五年八月に暦応に改元している。誤記か、そもそもこの位牌自体が偽物である可能性も疑われる。]

 寺内華藏院ノ寺寶

 八幡御影 畫像    一幅

 弘法影  畫像    一幅

 右是ヲ互ノ御影卜云也。文覺上人高雄ヨリ此寺ニ移スト也。八幡ノ御影ハ弘法ノ筆、弘法ノ影ハ八幡ノ筆ニテ、互ニ容ヲウツサレケルト云傳フ。

 八坂不動       一軀

 文覺鎌倉ニ負來ルヲ、後此寺二安置ス。淨藏貴所、八坂ノ塔ノ傾クルヲ祈リ直セシ時ノ本尊ナリト云。此年延寶二年甲寅ニ至テ七百八年也トゾ。

 壒嚢抄曰ク。神護寺ニ幡ノ御影アリ。是ハ大師、昔、東大寺ノ南ノ大門二行ケル時、對面有テ相互三和影ヲ寫シ玉ヘリ。神納メ冷房ニアリ。細筆ノ神影ハ初ヨリ高雄寺ニ安置セラレシヲ、近衞院ノ御宇ニ、東大寺ノ鎭守ニ祝ヒ進ゼントテ、南都ヨリ頻ニ申請ク。又八幡ヨリ去ル保延六年正月廿三日ノ炎上ニ、延書帝ノ勅定ニ依テ、敦實親王造作シ玉ヒシ僧俗二體ノ外殿ノ御神體燒失セシ故ニ、社家ヨリ強チニ望ミ申ケレバ、鳥羽上皇聞召テ不思議ノ重寶ナリトテ、鳥羽ノ勝光明院ノ寶藏ニ召納メラレシヲ、後人修造ノ時、又申請テ返シ納メラルヽト也。其大菩薩ノ徹影ハ僧形ニテ、赤蓮華ニ坐シ、日輪ヲ戴ヒテ勅袈裟ヲ掛テ錫杖ヲ持シメ玉フト云云。今按ズルニ、是モ亦文覺鎌倉ニ持來スルナルべシ。後ニ此寺ニ納メ置タリト見へタリ。此事浮屠ノ説ニハカク云傳タレドモ、信ズルニ足ラズ。八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也。辨ズルニタラザル事ナレバ詳ニ書セズ。

[やぶちゃん注:「壒嚢抄(あいのうしょう)」からの引用の内、「神納メ冷房ニアリ」の部分は、「神筆ノ影像ハ納冷房ニアリ」が正しい(新編鎌倉四」の「淨光明寺」の項の「八幡并弘法の畫像」に拠る)。

「保延六年」西暦一一四〇年。

「八幡宮ヲ僧形ニ畫クルモ疑ガハシキコト也」とあるが、当たらない。ウィキの「八幡神」によれば、八幡信仰は、東大寺の大仏を建造中の天平勝宝元年(七四九年)に宇佐八幡の禰宜の尼が上京して八幡神が大仏建造に協力しようと託宣したと伝えたという記録が残っており、早くから仏教と習合していたことが分かっている。天応元(七八一)年には、朝廷が宇佐八幡に鎮護国家・仏教守護の神として八幡大菩薩の神号を贈っており、これにより、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになり、八幡神が全国に広まる契機となった。後の本地垂迹説にあっては阿弥陀如来が八幡神の本地仏とされ、平安時代以降、武士の尊崇を集め、同時に本地垂迹思想の拡大によって八幡神は僧形で表されるようになる。これを僧形八幡神と呼び、明治の廃仏毀釈までは僧形八幡神の図像は寧ろ、一般的なものであった。]

 

   網引地藏〔又滿干地藏トモ云〕

淨光寺ノ本堂ノ後ニアリ。ミチヒノ窟トモ云。巖窟ノ内ニ石地藏ヲ安置ス。地藏ノ後ニクボカナル所アリ。潮滿候ニ從テ往來スルト云ドモ、今ハ塵ノミ埋ミ乾タル處也。藤爲相卿ノ建立ナリト云。或曰、昔由比ノ濱ニテ網ニ懸テ上リタル故ニ網引ノ地藏卜云也。

[やぶちゃん注:「クボカ」「窪か」で窪んだ箇所の謂い。]

 

   藤爲相石塔

 網引地藏ノ後ノ山ヲ上リ、巓ニ有リ。此山上ヨリ西北ニ大友屋敷・飯盛山・藤谷等眼下ニ見ユル也。此東峯ヲ打越テ多寶寺谷・泉井アリ。多寶寺谷ニ寺ハナシ。忍性菩薩ノ石塔トテ大ナル五輪アリ。文字ハナケレドモ、淨光明寺ニ云傳タリ。泉井谷ノ邊ニ潔キ水涌出ル也。淨光明寺ノ門ノ向ヒ南ニ内藤帶刀忠興ガ屋敷有、茂林鬱々タリ。歸テ壽福寺二詣ル。

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