白い旗 火野葦平
白い旗
ぬるまこい流水に足をひたしてゐると、みづかきの問に水藻がさはるのがわかる。川は淺いのである。落葉松(からまつ)の密生した前方の峯々の上をゆるやかに卷くやうにして動いてゐた霧が、やがて紗(しや)をかぶせるやうに靑い峯をつつみ、こちらの方に降りて來る。この川には水のきれいなくせに魚はゐないのか、さつきから水面をみつめてゐるが、たえまない水のゆらめきの底に絲くづのやうな水藻と硝子玉のやうな小石が見えるばかりである。
河童は背を鳴らした。それから振りむいて、もう秋が近いといつた。それは別に愁傷のひびきをおびてはゐなかつたが、かれらが先祖から負うて來た傳説の宿命をかれらのこころの中に感ずるともなく感じたものがなしい調子があつた。背を接してうしろの深い谷に眼をおとしてゐたもう一匹の河童が、やがて秋の花がたくさん咲きはじめるだらうといつた。かれらは全山がことごとく紅葉(こうえふ)するのを指折りかぞへて待つてゐるのである。
かれらはさまざまの種族を輕蔑して、かれらの矜持(きようぢ)を胸いつぱいにふくらませる。筑後川の水底に棲む頭目九千坊に統率されてゐる多くの河童たちは、この二匹の河童から見ればまことに下賤なるものであり、教養も思想もなく、勇氣もないものである。阿蘇の那羅延坊(ならえんぼう)に伺候する輩(やから)にいたつては沙汰のかぎりである。かれらは第一になにごとかあればすぐに嘴を鳴らすやうなはしたない所業をする。第二にその身體の色は草に似てゐる。そして生を終るときには靑いどろどろの液體となつて溶け流れ、その不潔さと臭氣とはたへがたい。なまぬるい水に足をひたしてゐる二匹の河童はやがて自分たちの上におほひかぶさつて來た霧のなかに自分たちのからだをかくし、二本の腕をたかくさしあげてうちふる。それはひらめく二本の赤い旗のやうに見える。かれらは胸をはり眉をうちふるふことによつて、自分のからだをどのやうにも赤くすることが出來る。それはしまひに眞紅のひらめく長旗のやうにみえはじめる。この術をたびたび行ふことは生をちぢめるといふことによつて禁じられてゐるにもかかはらず、かれらの矜持のこころはおさへがたく、名門の紋章のまぼろしを追ふたへがたいよろこびはこのやうにうつくしい霧の舞臺のときには生死の觀念をのりこえてしまふのである。かれらのからだのいろは褐色(かつしよく)である。かれらは下賤の河童たちの草色の皮膚を笑ふけれども、實はかれらの褐色の肌もかれらの考へてゐるほど立派ではない。しかし、かれらが禁ををかして眞紅のほむらとなるときは、そのあざやかな赤の色はなめらかな水氣のあるからだのためにきらきらと光り、うちふる二本の手はひるがへる旗のやうにみごとなのである。筑後川の九千坊一族は河底の水藻から簇生(そくせい)した。植物を先祖とするかれらにくらべて、この二匹の河童の先祖はもと位高くやんごとなき公達(きんだち)であり、あるひは武士(もののふ)であつたが、一の谷にやぶれ、壇の浦に落ち、つひに壇の浦の海底深く沈んで亡んだ。さかまく潮流がはげしい音をたてて流れ去りゆく壇の浦の水底に、かれらはひとつの歴史を終るとともに、男たちは蟹となり、女(をみな)たちは河童(かむろ)となつた。男たちはその背にまで滅亡の悲愁を負うてあるいたが、女たちは皿に水をみたし、長髮をひるがへして遠い國々にさまよひ出た。かれらは傳説を負うて花さく野べに、水ぬるむ河畔に、小鳥うたふ森にいこうた。
船べりに立つて靑空をあふぎ、雅(みやび)やかな歌曲をうたうた思ひ出や、絃(いと)ふるふ琴の音色や、銀扇のかげりなどへの追憶が、すべて赤い旗につつまれてかれらの腦裡にうかぶ。赤の旗こそはかれらの矜持の柱である。かくて、かれらはかれらのいのちをけづるといふ禁斷の妖術への誘惑をおさへることが出來ない。
かれらは流れる霧の中を飛んで、あかい虎杖(いたどり)の上にやすんだ。それからまた肩を組んで、あかい百日紅(さるすべり)の花びらの上に降りた。
かれらはまなこをあげて秋ちかい野邊をさぐる。すると、かれらはふと見た遠景のながめに愕然(がくぜん)となる。ふたりは同時にけたたましいおどろきの聲をあげた。かれらは見た。見はるかす亭々たる杉並木の前方にへんぽんとひるがへる數十旈(りう)の白旗を。その仇敵の旗は流れる霧の中にひらひらとひるがへり、光りながらしだいにこちらに迫つて來るやうに見えた。今やいつさいの矜持を喪失した二匹の河童はいろ靑ざめ、うちふるへ、背を凍らせて百日紅の花びらの上からいつさんに飛び立つた。かれらは長いあひだのがれ飛び、やうやく曼珠沙華(まんじゆしやげ)のあかい葩(はなびら)を見つけてそこに降りた。かれらは息を切らし、はづれさうになつた背の甲羅をかきしめた。しかし見合はしたかれらの眼の中にはおたがひの恐怖の感情を相手に見せまいとする強がりのこころがあり、なんであのやうに同じ行動をしたかについてもその原因をかくさうとする見榮があつた。さうしてかれらは奇妙な微笑をとりかはしたのである。したりげな顏つきをして、ふたりは鷹揚(おうやう)にうなづきあひ、おなじやうに下の方に眼を轉じたが、ふたたび、かれらは凍りつくやうに思をつめ、無意識のうちに肩を組み曼珠沙華の花をはげしく散らして飛び立つた。眼をむけた野邊のはづれにまたもかれらに迫る白い旗を見たからである。しかしながら、かれらの敵はなほもかれらの行くところに待つてゐた。もはやかれらの行かんとする地上は、いづこも白旗をもつて滿たされてゐたのである。かれらは、かぎりなき失意と寂寥(せきれう)のこころをいだいて海底にかへつた。すると、そこにはむらがる蟹の群とともに、さきにかへつた多くのともだちがむつつりとなにもいはず膝をいだいてうづくまつてゐた。その樣子からは聞いてみるまでもなく、かれらが一樣に遭遇した旅での運命が感じとられた。二匹の河童が水をあわただしく搖るがしてかへつて來たのを見ても、ちよつと背を鳴らしただけである。
秋ちかく、地上では黑々と水をふくんだ土の上に、いたるところに白々とした蕎麥(そば)の花が咲いてゐた。
[やぶちゃん注:底本末尾の火野葦平の後記「河童獨白」の中の記載に、本作は第二次世界大戦中の作であると記されてある。源平の合戦の描写に、何かそうした時代の冥い影が読み取れるように私には思われる。
「簇生」植物が群がって生えること。叢生。この前後、河童生物学上の新たな知見を我々に語っている。即ち、「筑後川の九千坊一族は河底の水藻から簇生した」ものであり、彼らは「植物を先祖とする」のである。河童にはそのルーツを植物由来とする一族がいる一方、本記述から、例えば平家の落武者と言った、ヒト由来の河童群が存在するという驚天動地の事実である。河童生物学者火野葦平版「鼻行類」である。]
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