耳嚢 巻之五 太田持資始て上京の時詠歌の事
太田持資始て上京の時詠歌の事
持資上京せし時、歌道を好む由(よし)雲卿(うんぎやう)の好み給ひしに、關東の田舍に住(すま)ひて堂上(たうしやう)などの可掛御目(おめにかくべき)歌などあるべくもなし、田舍にて詠(よみ)し歌也とて奉りければ、
武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
皆々どよみ笑ひける時、一首かくもよみ侍るとて奉りぬ。
露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原
一同感心ありしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:太田道灌和歌技芸譚二連発。
・「雲卿」月卿雲客のこと。公卿や殿上人。「月卿」は中国では天子を日に臣下を月に擬えて大臣を言う語であるが、本邦では公卿(「公」は太政大臣・内大臣・左大臣・右大臣を指し、「卿」は大納言・中納言・参議及び三位以上の朝官と四位の参議を指す)、「雲客」は殿上人(雲上人)。
・「武藏のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ」分かり易く書き直すと、
武藏野の折(を)るべは草は多けれど露すぼこくて折られないも
岩波のカリフォルニア大学バークレー校版に載るものの方が分かり易い。
武蔵野の折(をる)べい草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
この歌は関東方言に似せて詠まれたもので、「折るべは草」「折るべい草」は「折るべき草」で推量の助動詞「べし」の連体形のイ音便、「すぼこくて」は恐らく「すべつこくて」等を疑似転訛(方言っぽく似せた)したものかとも思われ「滑っこくて」(滑り易くて)の意で、「折られないも」「折られないもさ」は「折られないものさ」である(「も」には別に「万葉集」等に上代東国方言での推量の助動詞「む」に相当する用法がある)。但し、本文の「折るべは」の「は」は、「い」の書写の誤記の可能性が高いと思われる。敢えて当時の標準語表現に直すならば、
武藏野の折るべき草は多けれど露に滑りて折られざるまじ
という感じか。原歌を敢えて雰囲気を出して訳すなら、
――武蔵野はヨ、そりゃ、広れえ広れえ、八重葎の原また原だんベ――だからヨ、折らずばなんねエ草は多いんだけんど、ヨ――そいつはヨ、露にヨ、えれえ、滑っこくって、ナ――そう簡単にゃヨ、折れねえもんサ――
となろう。
バークレー校版の「べい」は、表記の通り、助動詞「べし」の連体形「べき」のイ音便であるが、厳密には関東に限らず、平安時代の会話文等には普通に使用された形であるが、中世以降、東国で文末終止の用法が次第に多くなった結果、「べいべい言葉」等と呼称されて、東国方言を特徴づける一要素となった。近世の上方の歌舞伎作品等でも専ら、関東訛の奴言葉(江戸時代、伊達男や侠客が使った言葉。「涙」を「なだ」、「冷たい」を「ひゃっこい」、「事だ」を「こんだ」という類)、田舎言葉として用いられている。「もさ」は「申さん」の変化したものとも言われ、やはり、近世関東方言を特徴づける間投助詞。文節末に配して親愛の情を込めるが、「もさ言葉」などと称して上方で関東人を蔑称する言葉、転じて広く田舎者や野暮な人間を嘲る語ともなった(以上は主に「日本国語大辞典」に拠った)。
以上から、実はこの如何にもな関東(東国)方言(若しくはそれに似せた)の和歌は、名歌人でもあった道灌が詠んだ歌とはおよそ思われない代物であり、底本の鈴木氏の注でも、『この種の田舎ことばによって和歌を綴ることは、伊勢物語にも例があって歴史が古い』が、『都人士や文字ある階級が鄙の下﨟ならばこうもあろうかと、愚弄するためにわざと作った戯歌であろう』と切り捨てておられる。
・「露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原」分かり易く書き直すと、
露置かぬ方も有りけり夕立ちの空より廣き武藏野の原
――夕立ちが降ったが――その雨露を微塵も葉末に置かぬ場所さえあるものだ――天空の夕立ちを降らせた、その空よりも広い――この天然自然の広大なる武蔵野の原野……
と言った意味であろう(詠想の割にスケールの広がらない技巧的な和歌であると私は思う)。但し、底本の鈴木氏の注には、『この歌の古い出典を見ない』とされ、「塩尻」(十三)に「太田持資入道道灌上京の時勅答のうた」として出ているのが最古のものらしいと記され、この時、この和歌を聴いた後花園天皇は『叡感あって、「むさし野は高かやのみと思ひしにかゝることばの花やさくらむ」と勅答のうた一首を下されたとある』とある(この勅詠もまた、如何にもなつまらぬ歌である)。また、岩波版の長谷川氏注には、「神代余波」(上)及び「三省録」(八)にも見える、と記されておられる。「塩尻」は尾張藩士国学者天野信景(さだかげ)が元禄一〇(一六九七)年頃に起筆し没年(享保一八(一七三三)年)まで書き続けた随筆(長谷川氏の挙げる二随筆は「耳嚢」よりも遙か後代のもの)であるから、根岸の本巻執筆推定下限の寛政九(一七九七)年からきっちり一〇〇年以上は遡らないことになる。道灌上京の時期は私には分からないが、仮に文明年間(一四六九年~一四八六年)とするなら、「塩尻」との間はやはり凡そ一〇〇年。残念ながら、少なくとも、本話全体の史実性は疑わしいと言わざるを得まい。
■やぶちゃん現代語訳
太田持資道灌初上洛の際の詠歌の事
太田持資道灌が初めて上洛した際、彼が歌道を嗜むということを聴きつけた公卿や殿上人が頻りに詠歌をお促しになられたところ、
「……関東の田舎に住まい致いておりまする野鄙の輩にて御座いますれば、堂上(とうしょう)の御方々などの御目に掛くる如き歌など、これ、あるびょうも御座らぬ。……なれど、強いてとの仰せなればこそ……」
とて、
武蔵のの折べは草は多けれど露すぼこくて折られないもさ
と高らかに詠じた。
これを聴いた場の公卿・殿上人、これ、こぞって、その文字通り野鄙なる歌柄に、声高く笑ひ合った。
すると、道灌は臆することなく、
「……今、一首、こうも詠んで御座る。」
と、今一首を詠じ奉った。
露をかぬかたもありけり夕立の空よりひろきむさしのゝ原
一転、場が静まり返った。
……そうして次に
――ホウ!
と、場にあった公卿・殿上人、こぞって感心致いた、と申す。
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