耳嚢 巻之五 壯年の血氣に可笑しき事もある事
壯年の血氣に可笑しき事もある事
予が同寮(どうりやう)其の側にて召仕(めしつかひ)たる若者、申合(まうしあはせ)て錢湯へ至りて風呂へ入、あがり湯を取りて手足を洗ひ居しが、隣は女湯にて上の方は羽目にて境ひせしが、下は格子也しが、右女湯へ入りし女子(をなご)、隣より見へん事はしらず、陰門をかの格子の方へむけて微細(みさい)に洗濯するを風與(ふと)見付て、壯年の勢ひ男根突起して中々忍び難く、さながら人の見んも恥かしく、早々風呂の内へ飛入て暫くして立出(たちいで)みれば、やはり最初の通り故、見まじと思へ共彌(いよいよ)男根踊起(をどりおき)る故、詮方なく又々風呂の内へ入りしが、餘りに長く風呂に有し故、湯氣(ゆき)にあがり暫く忘然(ばうぜん)として氣絶もなさん樣子故、連(つれ)の傍輩(はうばい)兎角して介抱なし漸々(やうやう)ともなひ歸りし。老來我黨(らうらいのわがたう)浦山(うらやま)しき元氣也と一笑しぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。「耳嚢」では比較的珍しい下ネタである。湯屋(ゆうや)艶笑譚であるが、一つ気づくことは、当時の男湯と女湯の仕切の造作はそれぞれの湯屋によって相当に異なっていたことが窺える。そうでなければ、かくその構造を巨細に描く必要はないからである。なお、現代語訳では、主話のコーダに私の山椒を利かせておいた。
・「同寮」底本には右に『(同僚)』と傍注する。
・「銭湯」銭湯ではまず、江戸前期の男女混浴の事実を挙げねばなるまい。ウィキの「銭湯」の相当箇所には以下のようにある。『男女別に浴槽を設定することは経営的に困難であり、老若男女が混浴であった。浴衣のような湯浴み着を着て入浴していたとも言われている。蒸気を逃がさないために入り口は狭く、窓も設けられなかったために場内は暗く、そのために盗難や風紀を乱すような状況も発生した』ため、寛政三(一七九一)年に男女入込(いれこみ)禁止令『や後の天保の改革によって混浴が禁止されたが、必ずしも守られなかった。江戸においては隔日もしくは時間を区切って男女を分ける試みは行われた』とある。また、風呂の世界史から日本史まで絵図も添えて書かれた優れた「風呂の話」(個人HP「シルバー回顧録」内)では、この辺りからの記述が詳細を極めてまことに面白いので引用させて頂くと(アラビア数字を漢数字に代えた)、『ざくろ口のために浴室内は湯気がもうもうと立ちこめ、窓が無いので暗く、男女が混浴のために現代風にいえば痴漢・痴女が横行し、商売女がなじみ客と顔を会わせると人目もはばからず風紀を乱すこともありました。そこで風呂屋の営業日を男女別に定めて、今日は男性専用日に、翌日は女性専用日にすることにしましたが、この制度はやがて崩れてしまい、元の「男女混浴の入れ込み風呂」になりました』。寛政の混浴禁止令以降も『男女混浴(入れ込み)は何度も禁止されましたが、必ずしも守られずに継続し、天保一三年(一八四二年)には、幕府が
一つしかない浴槽に仕切りを作り、男湯、女湯の分離を設けさせましたが、仕切りは表面に近い部分だけで底の方は共通していたので、潜水して隣の浴槽に移る不心得者がいたそうです』。『日本では昔から男女混浴についてはおおらかであり明治になってからも何度も混浴禁止令が出されましたが、実際に都市部の公衆浴場での男女混浴が減少したのは、明治二三年(一八九〇年)からで、七歳以上の男女の混浴は禁止という内務省令が出されて以降のことで』、『これでも長年の混浴習慣はなかなか変えられずにいたので、明治三三年(一九〇〇年)にも混浴禁止令が出されましたが、昭和三四年(一九五九
年)に私が北海道を旅行した当時は、脱衣所は別でも中では混浴の温泉風呂が数多くありました。その習慣は現在も各地のひなびた温泉宿に残り、混浴風呂があります』と美事に銭湯考現学が語られてある。以下、銭湯のアカデミックな歴史について平凡社「世界大百科事典」より、晴山一穂の記載の相当箇所を一部表記を改変して引用する(それにしても何故、この記述は男女混浴の事実を語っていないのであろう。これがアカデミズムというものなのであろうか?)
《引用開始》
銭湯には蒸気浴と温湯浴の二種類があり、古くは前者が風呂屋で、後者が湯屋とはっきり区別されていた。室町末の上杉家本《洛中洛外図》には風呂屋が描かれている。土塀に囲まれた板屋根の粗末な建物で、入った左手が脱衣場、右手が洗い場らしく、垢(あか)取女が客の背中を流している。奥には、板で囲い出入口に垂壁(たれかべ)のついた蒸気室のようなものが描かれている。この形式の風呂屋は江戸初期まで盛んだったらしく、慶長~寛永(一五九六-一六四四)ころの風俗画にはしばしば描かれている。外観については特別に銭湯らしい装置というものもなかったようで、大衆向けの風呂屋はごく粗末な板屋根の小屋のようなものである。ぜいたくな風呂屋では蒸気室の入口に唐破風(からはふ)をつけたり、洗い場を広くとり、休憩室を設けたりしているが、外観は一般の町屋と変りはない。蒸気室の出入口を引戸に改良したのが戸棚風呂であるが、これが湯屋にとり入れられるようになった。すなわち、引戸の中の小室に湯槽を据えて、膝ぐらいまで湯を入れ、湯と蒸気により熱効率をよくしようとするもので、〈風呂六分湯四分〉といわれる。このあたりで風呂屋と湯屋の区別があいまいになった。これがさらに改良されたのが柘榴口(ざくろぐち)である。柘榴口は出入口の引戸をまた垂壁式に変え、湯槽の湯を深くしたもので、〈風呂四分湯六分〉といわれる。柘榴口の場合も唐破風がつけられたが、なかには垂壁の部分に牡丹(ぼたん)と唐獅子などの極彩色浮彫をつけたものもあった。こうした形式になるのは幕末ころと思われるが、このころには外観も二階建てで、男湯、女湯と分かれた湯屋らしい特徴のある建物となり、二階は男湯の休み場となっていた。柘榴口は、内部が狭くて暗く、不衛生であったため、明治に入ると禁止されるようになり、ほぼ明治三十年(一八九七)ころにはなくなった。柘榴口が撤去されたかわりに出てきたのがペンキによる風景などの壁画で、一九一二年が最初という。(中略)
[江戸の銭湯]近世初期、江戸では丹前(たんぜん)風呂の名が喧伝され、〈丹前風〉と呼ぶ風俗を生み出した。この銭湯は、現在の神田須田町付近、堀丹後守の邸前にあった何軒かの湯女(ゆな)風呂で、丹後殿前を略して〈丹前〉と呼んだ容色のすぐれた湯女をかかえて、浴客の垢をかき、髪を洗い、酒席にはべるなどさせて人気を集め、一六二九年(寛永六)吉原の夜間営業が禁止されたこともあって繁昌した。とくに、津の国屋の勝山という湯女が男装したことにはじまり、町奴、旗本奴などの〈かぶき者〉の間に伊達(だて)で異様な服装や動作が流行した。これがいうところの〈丹前風〉で、厚く綿を入れた広袖のどてら(丹前)や歌舞伎の六法の演技などにいまもその面影をとどめている。湯女風呂は風紀上の理由で一六五七年(明暦三)に禁止され、以後江戸の銭湯はそれぞれの町内の共同入浴施設といった性格をもつようになった。そして、狭い地域内の人々がたえず顔を合わせるところから、銭湯は町の住人たちの社交場としての役割を果たすようになった。式亭三馬の《浮世風呂》など銭湯を舞台とする小説が書かれたゆえんである。五月五日の菖蒲湯(しようぶゆ)、冬至の柚子湯(ゆずゆ)などはいまも行われているが、明治以前は盆と正月の藪入り(やぶいり)の日にはその日の売上げを三助の収入とする〈貰湯(もらいゆ)〉も行われていた。なお、これは江戸にかぎらず船の出入りの多い港ではどこでも見られたものだが、一種の移動式銭湯とでもいうべき〈江戸湯船(えどゆぶね)〉、あるいは単に 〈湯船〉と呼ぶものがあった。小舟の中に浴室を設け、停泊中の船の間を漕ぎまわり、湯銭をとって船員たちに入浴させたものである。西鶴の《日本永代蔵》にも書かれているように、それ以前にまず〈行水船〉というのがあり、それを改良して据風呂(すえふろ)を置いた〈据風呂船〉ができ、さらにそれが〈湯船〉になったものであろう、と山東京伝はいっている。(後略)
《引用終了》
如何であろう? これら三つの記述の内、リアルに銭湯の歴史を正しく面白く伝えて呉れているものは非アカデミックなジャーナリスト「シルバー回顧録」氏であると、私は思うのであるが。……
・「あがり湯」風呂から上がる際に浴びたりするために湯舟の湯とは別の湯桶に入れてある湯、またはその槽。陸湯(おかゆ)。かかり湯。
・「忘然」底本には右に『(茫然)』と傍注する。
・「老來我黨」「老來」は年をとること、「我黨」は、ここでは話者であるところの、この若者の主人である根岸同僚の言であるから、その主人自身を示す一人称代名詞である。但し、これを記す根岸もその「黨」(同類)というニュアンスも感じられて面白い。
■やぶちゃん現代語訳
壮年の血の気が多い者には如何にも可笑しなこともあるという事
私の同僚の側にて、召し仕えられておる一人の若者、朋輩らが声を掛け合って銭湯へ参り、風呂へ入(い)って御座った。
さて、まずはとて、かかり湯を取って手足なんどを洗っておったところが、隣りは女湯にて、上の方は羽目板にて仕切られておったものの、下の方はと申せば、これ、申し訳程度の格子ばかり。
……ところが……
……この隣りの女湯に入って御座った女子(おなご)、これ、隣りより丸見えなること、丸で気づかずにおって……
……その火登(ほと)を……
……これ、その格子が方へ
――バッ!
……と向け……
……これまた……
……微に入り、細を極て……
……洗い濯いで……御座った――
……それが、かの若者の目(めえ)に……
……ふと……
……飛び込む――
……そこは壮年のことじゃ……
……勢い
――ニョッキ!
……と一物(いちもつ)突き出で……
……どうにもこれ、納まらずになって御座った――
……そのままにては、これ、人の見んも恥ずかしく、かの者、早々に
――ドンブリ!
と、風呂内へと飛び入って御座った。……
暫く致いて、湯舟をたち出でて見るも……
……これ……やはり……
……女子(おなご)の様……
……最初の通りなればこそ……
……見るまいと思えども……
……いよいよ一物(いちもつ)は、これ
――ニョッキニョキ!
……と踊り上がる体(てい)なればこそ……
……仕方のう……
……またまた、風呂内へと
――ドンブリ!
と入(い)る…………
……そのまま……
……納まりのつかざるままに……
……ずーっと……
……ずーーうっと……
……まんじりともせず、風呂に身を沈めて御座った……
……あまりに長(なご)う風呂に浸(ひと)うておった故、湯気(ゆうき)に当たって、これ、朦朧と致いて御座って、今にも気絶致さんまでに相い成って御座った。
されば、ここでやっと、連れの朋輩らも若者の様子のおかしきことに気づき、湯槽(ゆおけ)より引き揚げて――水を掛けるやら、呑ませるやら――手拭で煽るやら、平手打ちを致すやら――と、あれこれ介抱致いて、ようよう、連れ帰って御座って御座った。……
……話によれば……その介抱の最中(さなか)にても……かの若者の一物……これ……荘厳に……そそり立って御座った……とか……
「――いや! 全く以って――老いの我が身には――これ――羨ましき――血気で御座るわい!……」
と、我が同僚の一言に、我らも一笑致いて御座った。