耳嚢 巻之五 おた福櫻の歌の事
おた福櫻の歌の事
いつの頃にや六位の藏人(くらうど)の詠(よめ)るよし。或日右藏人二條家へまかりてけるに、何か案じ入給へる樣子故其事を伺ひしに、此頃禁中の御慰みに難題を出して歌よむ事なりしが、おたふく櫻といへる題をとりて案ずるよし、汝もよむまじきやとありければ、しばし考へて、
谷あひに咲る櫻は色白く兩方たかし花ひきくして
かくよみければ、二條殿も殊のふ感じ給ひし也。
□やぶちゃん注
○前項連関:連関を感じさせない。十六項前の「和歌によつて蹴鞠の本意を得し事」以来の和歌技芸譚。
・「おた福櫻」仁和寺に咲く御室桜(ソメイヨシノの八重で、丈が低く、這うような枝振りの遅咲きである)の愛称として今に伝わり、
〽わたしゃ、お多福、御室の桜、花が低(ひく)うても、人が好く
という歌謡もで知られる。
・「六位の藏人」五位蔵人に次ぐ殿上人。位階が六位で特に蔵人に任ぜられた者を指す(通常の蔵人は五位)。本来の殿上人は五位以上であるが、メッセンジャー・ボーイとしての職務が必要であったため、特に許された。一日交代制で天皇の膳の給仕及び宮中の雑事に奉仕した。
・「二條家」五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)の一。藤原氏北家九条流。鎌倉時代の九条道家二男二条良実を祖とする。執筆推定の寛政九(一七九七)年の近くの当主ならば、二条吉忠(元禄二(一六八九)年~元文二(一七三七)年)から宗熙・宗基・重良・治孝・斉通(なりみち 天明元(一七八一)年~寛政一〇(一七九八)年)辺りとなる。戯れ唄の感じや話柄全体からは、そんなに古い出来事ではないように思われる。
・「谷あひに咲る櫻は色白く兩方たかし花ひきくして」「ひきく」は「ひきし」で「低し」に同じい。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では(一部に送り仮名を補って読み易くした)、
谷あひに咲ける櫻は色白く兩方たかく花ひきくして
である。これは、先の戯れ唄同様、お多福の左右の頰の膨らみと間に座れる鼻という奇顔と、谷合の桜の景、更には低木で下に花を附ける御室桜を掛けたもので、私なりに通釈するなら、
……谷合いに咲く桜花……その美しい白さ……これは谷合いなればこそ、際立つもの……谷は両方(両頰)高くして――花(鼻)は低きにあればこそ……
といった感じか。
・「殊のふ」「殊無(ことな)し」(殊の外だ・格別だ)の意の形容詞ク活用連用形のウ音便を「のふ」と表記したもの。
・「まじきや」中世以降、打消推量の助動詞「まじ」は単純な推量にも普通に使用されるようになったが、ここはやはり「難題」を受けている以上、不可能の推量で訳すべきであろう。
■やぶちゃん現代語訳
お多福桜の歌の事
何時頃の事やらん、六位の蔵人が詠んだ歌との由で御座る。
ある日、かの蔵人、二条家へと参って御座ったところが、御主(おんあるじ)、何やらん、考え込んでおらるる様子なれば、
「……何にか御懊悩(おんおうのう)おはしまする……」
とお伺い申し上げたところ、
「……この頃……禁中にて難題を出だいて歌を詠むことの流行(はや)っておじゃる。……今度(このたび)の題は、これ、『おたふく桜』という題にて案ずるとのことでおじゃる。……そなたでも、とてものことに、詠めまいのぅ……」
とのお言葉が御座った故、蔵人、しばし考えて、
谷あひに咲る桜は色白く両方高くし花ひきくして
と詠んで御座った故、二条殿も殊の外、感心なされたとのことで――おじゃる……
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