僕は 三好達治
さう、さうだ、笛の心は慰まない、如何なる歌の過剩にも、笛の心は慰まない、友よ、この笛を吹くな、この笛はもうならない。 僕は、僕はもう疲れてしまった、僕はもう、僕の歌を歌つてしまつた、この笛を吹くな、この笛はもうならない、―― 昨日の歌はどこへ行つたか? 追憶は歸つて來ない! 春が來た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。
昨日の歌はどこへ行つたか? 思出は歸つてこない! 昨日の戀はどこへ行つたか? やさしい少女は歸つてこない! 彼女はどこへ行つたか? 昨日の雲は歸つてこない! ああ、いづこの街の黄昏(たそがれ)に、やさしい彼女の會話があるか、彼女の窓の黄昏に、いかなる會話の微笑があるか、僕は、僕はもう知らない、春が來た、友よ、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。
僕は今日、春淺い流れに沿つて、並樹の影を歩いたのだ、空は曇つてゐた、僕は、野景に、遠い畑や火見櫓(ひのみやぐら)を眺めたのだ、森の梢に鶫(つぐみ)が光つて飛んでゐた。風に、高壓線が鳴つてゐた。それから、いろいろの悲しい憧憬(あこが)れが、僕に、僕の頰に、少し泪(なみだ)を流したのだ、僕は、僕は疲れて歸つて來たのだ、僕はもう追憶の行衞(ゆくへ)を知らない、友よ、春が來た、君らの歌を歌つて呉れ、君らの歌の、やさしい歌の悲哀で、僕の悲哀を慰めて呉れ。
(三好達治「測量船」より)