鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 海蔵寺
海 藏 寺
武田屋敷ヨリ北ノ入也。ヱゲガ谷卜云。寺門ニ入、西北ノ方ニジャクグハイガ谷見ユ。山號ハ扇谷山、開山ハ玄翁、中興ノ祖トス。初玄翁ノ師空外ト云僧居住ス。玄翁相嗣テ居之(之に居す)。寂外ト云。曹洞宗也。後ニ那須野ノ殺生石ヲ祈テヨリ以來、大覺禪師ノ五世ノ嗣法ニテ臨濟派トナル。故ニ今建長寺ノ塔頭也。建長寺領ノ内、昔繩一貫二百文收ルト也。本尊ハ御腹藥師ト云テ春日ノ作也。初此藥師ノ像土中二有テ、毎夜小兒ノ呼聲シケルヲ、玄翁異ク思ヒ、其所ヲ見ルニ金色ノ光リヲ放ツ小墓アリ。異香四方ニ薫ズ。立寄テ袈裟ヲヌギ、墓ニオホヘバ泣聲止ケリ。明テ此墓ヲ掘ケルニ、一寸八分ノ藥師ノ像アリケリ。依之(之に依りて)藥師ノ像ヲ彫リ、其腹中二納置シト也。今モ有卜云。故ニ土人ハ啼藥師トモ云也。
寺寶
玄翁自畫自讚像 一幅
贊ハ文字湮滅シテ其ノ字、誠ノ字等一二字ノミ能ミユル。繪ハ分明ナリ。
二十五條ノ袈裟 一ツ
玄翁授法ノ時及殺生石ヲ祈タル時ノ袈裟ナリ。
五部大乘經 是ハ全部ナラズ 二十箱
[やぶちゃん注:「ヱゲガ谷」は會外谷。
「ジャクグハイガ谷」寂外谷。「新編鎌倉志卷之四」の「海藏寺」の「寂外菴跡」の項には「蛇居谷」と書いて「じゃくがや」とも呼んだとある。
「昔繩」底本では「甘繩」の誤りかという旨の傍注が附されるが、建長寺は寺領の記録が殆んど伝わらず、海蔵寺の割当が鎌倉の「甘繩」であったかどうかは分からない(「鎌倉市史 資料編第三」の資料番号二二二の天正一九(一五九一)年の「建長寺朱印領配分帳案」によって海蔵寺分が「二百文」であることは確認出来る)。]