鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 梅谷/武田屋敷
梅 谷
海藏寺へ行道也。尻引櫓ノ東ノ畠ヲ云。或云、ツヾキノ里ニアリトゾ。今按ニ夫木集ニツヾキノ原、相摸トアリ。
タカ里ニツヽキノ原ノ夕霞 姻モ見エス宿ハワカマシ 從二位家隆
此地ノ事ヲヨメルカ。ツヾキノ里卜云所、不分明。
[やぶちゃん注:私はこの地名に何か麗しい響きを覚えてならない。「新編鎌倉志 卷之四」では、
◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(ムメガヤツ)は、假粧坂(ケワヒザカ)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(ツヾキノサト)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(ツヾキノハラ)を相模の名所として、家隆の歌あり。「誰(タ)が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」と。此の地を詠るならん。
とするだけで、ここは「鎌倉攬勝考卷之一」の「地名」の記載の方が考証を含んで詳細であるから、特別に以下に私の注とともに転載する。
綴喜(ツヾキノ)里 假粧下の北の谷をいふと。【夫木集】に、相模の名所とせしゆへに此里なりと土人等は傳えければ、【類字】に綴喜の里山城綴喜郡とあり。又【歌林】には綴喜里、山城・武藏に同名ありと載たり。【名寄松葉】には載せず。按ずるに、武藏の都筑は同名なりといへども、文字も違ひ、鎌倉よりは東に當り三里半許、山城に綴喜郡の稱名に綴喜と【和名抄】にも見たれば、【類字】の載る所當れるならん。茲にいふべきならねど後の考へに出す。
【夫木】
誰さとにつつきの原の夕霞、烟も見へすやとはわかまし[家隆卿]
【新拾遺】
やかて又つつきの里にかきくれて、遠も過ぬ夕立の空[爲世卿]
[やぶちゃん注:「假粧下の北の谷」大きな扇ヶ谷の西、化粧坂に登る小さな谷に当たるが、現在では、この「綴喜の里」という呼称は廃れているように思われる。美しくいい字の地名なのに、惜しい。
「【類字】」「色葉字類抄」(平安時代末期に成立した橘忠兼編の古辞書)のことか。本書冒頭の引用書目には「假名字類抄」とあるが、こういう書名はない。
「綴喜郡」は「つづきのこおり」と読む。山城国に属した郡で、現在も京都府の郡名として存続している。
「【歌林】」「類聚歌林」(伝山上憶良編著の奈良時代前期の歌集で正倉院文書)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。
「武藏の都筑」現在の横浜市緑区・青葉区・都筑区の全域と瀬谷区・旭区・保土ケ谷区・港北区・川崎市麻生区の各一部を含む旧武蔵国の郡名。
「【名寄松葉】」「松葉和歌集」(江戸前期の内海宗恵編になる歌枕名寄なよせの和歌集)のことか。本書冒頭の引用書目には所載しない。この引用書目ははっきり言って杜撰である。
「家隆卿」藤原家隆(保元三(一一五八)年~嘉禎三(一二三七)年)。鎌倉初期の公卿・歌人。歌の下の句「やとはわかまし」は、よく意味が分からない。宿は見つかるだろうか、の意の「宿は分かまし」か。識者の御教授を乞う。
「爲世卿」二条(藤原)為世(ためよ 建長二(一二五〇)年~暦応元・延元三(一三三八)年)。鎌倉から南北朝期の公卿・歌人。上句の「かきくれて」は暗くなる、曇るの意。心情としての、心が哀しみに沈むの意をも、余韻とするか。] 武田屋敷
梅谷ノ少シ北ノ畠ナリ。
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