鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮 ~(1)
鶴岡八幡宮
午ノ時少シ晴ニ因テ鶴岡ニ至リヌ。又東鑑ニ此社ハ伊與守賴義奉勅、安倍貞任ヲ征伐ノ時ニ八幡神ニ祈テ因テ康平六年八月、潛ニ石淸水ヲ由比郷ニ勸請ス。〔下宮是也。〕其後永保元年二月陸奧守義家修復ス。其後治承四年十月十二日、源賴朝祖宗ヲアガメンガ爲ニ、小林ノ郷ノ北ノ山ヲ點ジテ宮廟ヲ構へ、鶴岡ノ社ヲ此所ニウツス。
鎌倉右大將
鎌倉ヤカマクラ山ニ鶴岳 柳ノ都モロコシノ里
千年フル鶴岡へノ柳原 靑ミニケリナ春ヲシルヘニ
新拾遺 左兵衞尉基氏
鶴岡木高キ松モ吹風ノ 雲井ニヒヽク萬代ノ聲
夫木集 爲實朝臣
鶴岡アフクツハサノタスケニテ 高ニウツレ宿ノ鶯
二王門額 鶴岡山
本社應神天皇
額 八幡宮寺〔竹内御門主ノ筆ナリ。〕
[やぶちゃん注:「竹内御門主」「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。]
若宮仁德天皇
額若宮大權現 靑蓮院御門主ノ筆ナリ。
[やぶちゃん注:「靑蓮院御門主」尊純法親王(そんじゅんほうしんのう 天正一九(一五九一)年)~承応二(一六五三)年)。父は応胤法親王。慶長三(一五九八)年、天台宗門跡青蓮院第四十八世門跡となる。慶長一二(一六〇七)年に良恕法親王から伝法灌頂を受く。寛永一七(一六四〇)年に親王宣下を受けて尊純と号す。後、天台座主。書に秀でた。]
先ヅ護摩堂ニ入リ、五大尊ヲ見ル。運慶作也。義經ヲ調伏ノ時、膝ヲ折タルト云、大日ノ牛、今ニアリ。ソレヨリ舞臺ヲ過(ヨギ)リ、神宮寺へ行。本尊藥師、行基ノ作也。十二神、運慶作也。神宮寺ノ前ニ松一本有。舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ是也トゾ。神宮寺ノ東ノ山際ニ、若狹前司泰村ガ舊蹟アリ。ソレヨリ大塔五智如來ヲ見ル。新佛也。台徳公御再興ノ時作ルト也。輪藏ニ一切經幷ニ四天王ノ像アリ。實朝書簡ヲ朝鮮へ遣シ、取ヨセタル一切經也。極テ善本也。此毘沙門ノ像ハ渡海守護ノ爲二載來ルト也。高良・熱田・三嶋、若宮ノ東ノ方ノ小社是也。天神・松童・源太夫、本社ノ下、公曉ガ實朝ヲ殺セシ銀杏樹ノ西ノ小社也。松童卜云ハ、八幡ノ牛飼、源太夫ト云ハ、八幡ノ車牛ナリトゾ。本社ノ前、左二金燈籠一ツ有。延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ。右ニ寛永年中ノ金燈籠一ツアリ。
[やぶちゃん注:「舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ」義経四天王の一人、駿河次郎清重を主人公とした謡曲「清重」。清重(シテ)が伊勢三郎義盛(ツレ)とともに源義経に従おうと山伏に身をやつして武蔵国に至るも、梶原景時(ワキ)に見破られて自刃するまでを描く。現在は廃曲。
「延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ」「延慶三年」は西暦一三一〇年、「新編鎌倉志卷之一」の「樓門」には『前に銅燈臺二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義、勸進藤原の行安とあり』と滋野景義と記すが、「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、本文が正しいものと思われる。因みにこの人物は相模国の武将と思われるが不詳である。「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。]
神寶
弓矢 空穗〔矢十五本、眞羽ナリ。篦ハ黑シ。古物ニテ珍シキ形也。矢ノ根色々有、其中ニ〕
長三寸二分
長一寸一分
如此(此くのごとき)ノ形アリ。眞鍮ヲ以テ作ル。
キセルノスイ口ノ如シ〕
[やぶちゃん注:ここまで〔 〕内全体が割注。図は底本では「如此(此くのごとき)ノ形アリ」の上、それぞれの長さを示した前行の部分とパラレルに配されているが、ここでは上記のように分けた。矢の根の図は「新編鎌倉志卷之一」の「眞羽矢」にある図の方が遙かに分かり易い。]
衞府太刀 二腰〔二尺餘、無銘、鞘梨地〕
兵庫鍍太刀 二腰〔二尺餘、無銘、兵庫鍍トイヘドモ古法トハ異ナリ。〕
[やぶちゃん注:「兵庫鍍太刀」「ひやうごくさりのたち」と読む。太刀の帯取の紐に銀の鎖を用いたもので鎌倉時代に流行した。兵具鎖の転訛。]
硯箱〔梨地、蒔繪ハ籬ニ菊金具〕 一ツ
十二手箱〔其内ニ櫛二三十バカリアリ。皆此圖ノゴトシ。〕
昔ノモノハタヱニシテ、カバカリノ物モ目トマルコヽチセリ。
[やぶちゃん注:「タヱ」はママ。「妙」であろう。]
[やぶちゃん注:図中の①の箇所に「穴二」、②の箇所に「穴三」、③の箇所に「穴二」、④の箇所に「穴三」とあり、対応した突起が描かれている(当該画像のそれをそのまま写すことは編集権を侵害する恐れがあるため、敢てこのような方法をとった)。「穴」とあるようにこれは櫛の背の部分にある窪みを突起物で指示したものと思われる。実際に「新編鎌倉志卷之一」の「櫛圖」では、左向きに置かれた櫛の背のこちら側の平面部に同数の白い穴を描いてある。]
十二單〔香色ノ裝束ナリ。裳ナシ。緋ノ袴アリ。麹塵ノ袍アリ。地紋麒麟鳳凰ニテ三ノハヾナリ。カバ色ノ直衣モアリ。右ノ三色ハ、八幡ノ母后ノ道具ナリト云フ。〕
[やぶちゃん注:「香色」は「こういろ」で黄褐色のこと、「麹塵ノ袍」は「きくぢんのはう(きくじんのほう)」と読む。意味はともに「新編鎌倉志卷之一」の「十二單」で詳述してあるので参照されたい。「三ノハヾナリ」の箇所には底本では『(布脱カ)』という編注が附されているが、これは「三布(みの)幅なり」と普通に読め、私には脱字とは思われない(勿論、「三布の幅なり」であってもいいのだが、「三布幅(みのはば)」という言い方の方が私は寧ろ自然であると感じる)。]
袈裟座具 香色
以上ハ鳩峯ヨリ勸請ノ時來ルト云。
太刀 二腰〔銘行光、二尺餘リ、メクギ穴ナシ。〕
太刀 一腰〔綱家、三尺餘、無銘〕
太刀 一腰〔泰國、三尺餘、無銘〕
太刀 一腰〔綱廣、三尺許、有〕
[やぶちゃん注:「有」の後は「銘」の脱字か。但し、「新編鎌倉志卷之一」のの同部分には、実は四振り総てに当該刀工の銘があるように書かれている。不審。]
愛染明王 弘法ノ作也卜云。長六七寸バカリノ丸木ヲ 如此(此くのごとき)ノ形ニシテ、蓋ト身ニ分ケ、愛染ヲモ臺座マデモ作付ニ一本ニテ刻ム。鎌倉ニ古佛多キ中ニ極テ妙作ナリ。
[やぶちゃん注:「丸木ヲ 如此ノ形ニシテ」の三文字分の空隙はママ。光圀は概念図を描こうとして書き忘れたものらしい。]
藥師 一軀
弘法ノ作也。廚子ニ入。前ニ十二神ヲ小ク刻ミ、兩扉ニ四天王ヲ彫ル。極細ノ妙作也。
大般若經一卷
弘法ノ筆、梅テ細字ニテ至テ分明也。大般若一部六百卷ヲ二卷ニ書ツムル。殘ル一卷ハ鳩峯エアリトナリ。
[やぶちゃん注:「ツムル」は「詰める」の意。]
後小松院院宣 一通
應永二十一年四月十三日トアリ。
賴朝直判書 二通
其外代々將軍家、北條家ノ證文ドモ多シ。卷物二軸トナス。條々不可枚擧(枚擧すべからざる)也。今考索ノ助ニモ成ベキ事ヲ、コヽニ書シルス。
一武藏國稻目・神奈河兩郷云々
[やぶちゃん注:これは文永三(一二六六)年五月二日のクレジットを持つ「北條時宗下文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八)のことを指している。以下に示す(文中「役」は底本では(にんべん)である)。
鶴岡八幡宮領武藏國稲目・神奈河兩郷役夫工米事、如先下知狀者、云御燈、云御供、重色異他之間、被免除彼役了、以他計略可令沙汰其分〔云々〕早任彼狀、可令下知之狀如件、
文永三年五月二日 (時宗花押)
武藏目代殿
「役夫工米」は「やくぶくまい・やくぶたくまい」と読み、二十年に一度行われた伊勢神宮式年遷宮造営費用として諸国の公領・荘園に課された臨時課税を言う。「鎌倉市史 社寺編」で、この鶴岡八幡宮の社領であった二郷についての当該賦役免除という特別な計らいを命ずる文書を解説して、『執権であり武蔵の国司であった北条時宗は、社領武蔵稲目(いなめ)・神奈河両郷(前者は川崎市内、後者は横浜市神奈川区内)に賦課する役夫工米にうついては、先例によりこれを免除するよう同国の目代に命じた。この両郷は前に社領として寄進され、役夫工米免除のことについて下知状が出されていた。稲目は御燈料所で、神奈川は御供料所であったと思われるが、社領の中これらの料所に限りこの頃は役夫工米が免除されたらしい。しかしその免除の文は政所で肩替りしてこれを弁済したのである。なお、稲目・神奈河両郷が寄進された月日は分明ではない』とある。]
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以降、一つだけ示した文書資料の提示部の電子化は、ただテクスト化して済ませる訳にはいきそうもないので、御覧の通り、時間を要するようにも思われる。取り敢えず、「鶴岡八幡宮」の途中であるが、インターミッションを入れることとした。
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