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2012/11/30

北條九代記 賴朝上洛 竝 官加階 付 惣追捕使を申賜る

      ○賴朝上洛  官加階  惣追捕使を申賜る

建久元年十一月七日賴朝卿上洛し給ふ。池大納言賴盛卿の六波羅の舊跡を點じて入り給ふ。次の日院參あり。網代(あじろ)の車大八葉(えふ)の文(もん)を居(すゑ)られたるに召され、夜に及びて退出あり。次の日禁中に參内し給ふ。除目(ぢもく)行はれて、賴朝卿參議中納言を經ずして、直(たゞち)に權大納言に任ぜらる。同二十四日右大將に任じ給ふ。御直衣始(なほしはじめ)あり。藤の丸うす色竪文の織物差貫(おりものさしぬき)に野劍(のだち)を帶(たい)し、笏(しやく)を持ち梹榔毛(びりやうげ)の車に召され、前駈(ぜんく)六人随兵(ずゐひやう)八人にて院參し給ふ。美美敷(びびしく)ぞ見えにける。次で兩職を辞退して、十二月二十九日鎌倉に歸り給ふ。翌年正月十五日政所の吉書始(きつしよはじめ)を行はる。前因幡守平朝臣廣元を政所別當に補(ふ)せられ、中宮屬(ちうぐうのさくわん)三善康信問注所の執事となる。和田左衞門少尉平朝臣義盛を侍所の別當とし、梶原景時を所司とし給ふ。去ぬる文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙(かうぶ)り、正二位に轉ぜらる。廣元申しけるやう「世既に澆薄(げうはく)にして、人また梟惡(けうあく)なり。天下反逆の輩更に以て絶べからず。東國は御住居なれば、静謐すべしといへども、南方西北國に於ては定(さだめ)て奸濫(かんらん)の企(くはだて)を起さん歟、 是を靜められん爲に、毎度軍勢を催して發向せしめ給はば、民の煩(わづらひ)國の費幾(つひえいくばく)、その限(かぎり)候まじ。只この次に六十餘州の惣追捕使(そうついふし)を申し賜り、國衙荘園(こくがしやうゑん)に守護、地頭を居ゑられば、如何なる事にもその恐あるべからず」と申しければ、賴朝卿甘心(かんしん)し給ひ、「誠に本末相應の忠言なり」とて、即ち奏聞を經て、諸國の守護地頭權門勢家(けんもんせいけ)の莊工(しやうく)を論ぜす、段別(だべつ)五桝(しやう)の兵糧米(ひやうらうまい)を宛課(あておは)すべきの由申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり。賴朝是より諸國に守護を置きて国司の威を抑へ、莊園に地頭を居ゑて、本所(ほんしよ)の掟を用ひず。王道は日を追て衰敗し、武威は月に隨ひて昌榮す。天下その命を守り、国家この權(けん)に服す。

[やぶちゃん注:本話の内、

①頼朝が上洛して権大納言(建久元(一一九〇)年十一月九日拝命)並びに右大将(同十一月二十四日拝命)に任ぜらるるも、両職を辞退して(同十二月三日)、下向(十二月十四日京都進発、同二十九日の午後八時頃、鎌倉現着)

の部分は、

「吾妻鏡」巻十の建久元年十一月七日・九日・二十四日・十二月二日・二十九日の条

に拠り、

②政所・問注所・侍所及び所司任命

の部分は

「吾妻鏡」巻十一の建久二(一一九一)年一月十五日の条

に拠る。次いで、後半部の、

③征夷大将軍・正二位拝命(建久三(一一九二)年七月十二日)

は、

「吾妻鏡」巻十二の建久三年七月二十日の条

に拠る(タイム・ラグは飛脚によるため)。続く部分は実は時計が巻き戻されており、

④大江広元の提言によって(文治元(一一八五)年十一月十二日)、諸国に守護・地頭を置く

という部分は六~七年遡った、

「吾妻鏡」巻五の文治元(一一八五)年十一月十二日・二十八日・二十九日及び文治二年三月一日の条

に基づくものである。

 なお、ここに「六十餘州の惣追捕使」とあるが、この文治元年十一月の通称文治勅許の際、地頭職を義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求めて承認されてはいるが、一応、頼朝が守護任命権を持った「諸國惣追補使」となったことは「吾妻鏡」巻六の文治二年三月一日に示される。筆者は文治二年三月一日を以って「諸國惣追補使」になったと当然思っていよう。しかし、ことはそう単純ではない。実は、これが、

正式な「諸國惣追補使」として公的に「確認される」のは

実はもっとあと、正にここで時計が本話の頭に戻って、頼朝の凱旋上洛から権大納言・右大将叙任及びあっという間の辞任という場面の中で行われたのであり、まさに正しくは

頼朝が名実ともに諸国追補使となったのは建久元(一一九〇)年

であると考えられているのである。

 そうして私は、上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏が「源平の盛衰」(講談社学術文庫一九九七年刊)などで主張なさっているところの、

頼朝の諸国追補使公認の建久元(一一九〇)年を鎌倉幕府の成立とする

という考え方を全面的に支持するのである。即ち、本話こそが

〈鎌倉幕府成立〉

と標題すべきシークエンスであると私は考えるのである。

 

「池大納言賴盛卿」平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)。頼朝の助命を願い出た池禅尼の子で清盛の異母弟。平家滅亡後も頼朝から厚遇された。没年でお分かりの通り、ここは旧故頼盛邸を宿所としたのである。

「院參」勿論、後白河院の元へである。

「直衣始」現代音では「のうしはじめ」と読む。関白・大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」とも読む。

「竪文」「かたもん」と読み、綾の織物の文様の緯(よこいと)を浮かさずに固く織ったもの。緯に経(たていと)をからめて織ったもので「浮文(うきもん)」の対語である。

「野劍(のだち)」自衛用の短刀。刺刀(さすが)。

「梹榔毛(びりやうげ)」「檳榔毛の車」と同じで「びらうげのくるま(びろうげのくるま)」とも読む。牛車の一種で、白く晒した檳榔(びんろう:単子葉植物ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu)の葉を細かく裂き、車の屋形を覆ったものを言う。

「美美敷」形容詞「びびし」で、①立派だ。美事だ。②美しい。華やかだ。ここは総ての謂いでとってよかろう。

「吉書始」吉書とは年始や改元、政務の新規開始などの際に吉日を選んで総覧に供される、それ専用に書き記された儀礼的文書のことで、吉書始は吉書奏(きっしょのそう)とも呼ばれる吉書を総覧する儀式を指す。

「中宮屬(ちうぐうのさくわん)」中宮職(ちゅうぐうしき:本来は律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所のこと。)の主典(さかん:佐(たすけ)る官の意の「佐官」の字音の当字。律令制で四等官(しとうかん)の最下位。記録・文書を起草、公文の読み役を務めたりした。)。

「所司」「しよし(しょし)」と読み、侍所の次官の職名。

「文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる」は、元暦二(一一八五)年三月の誤り(文治への改元は同年八月十四日)。ここは更に③のパートであるから、厳密には、

『右大將家、建久三年七月十二日、元暦二年三月に平家追討、その賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる』

という風になっていないと、本当はおかしい。

「廣元申しけるやう……」以下、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月十二日の条の後半を示す。前半は源義経の都落ちと逃亡、関係諸人の処分などが記され、このゆゆしき一件を受けての広元の主張となる。

〇原文

十二日辛夘。(前略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟惡者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日辛夘。(前略)凡そ今度の次第、關東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太8はなは)だ思し食(め)し煩ふの處、因幡前司廣元申して云はく、「世、已に澆季(げうき)にして、梟惡の者尤も秋(とき)を得るなり。天下の反逆の輩有るの條、更に斷絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依りて靜謐せしむと雖も、奸濫(かんらん)定めて他方に起らんか。之を相ひ鎭めんが爲に、毎度、東士を發遣せらるるは、人々の煩ひなり。國の費(つい)えなり。此の次(ついで)を以つて、諸國に御沙汰を交へ、國衙庄園毎に守護地頭を補せられば、強ちに怖れる所有るべからず。早く申し請けせしめ給ふべし。」と云々。

二品、殊に甘心し、此の儀を以つて治定(ぢぢやう)す。本末の相應、忠言の然らしむる所なり。

・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり。末世。世も末。「北條九代記」の「澆薄」も同じく、道徳が衰えて人情の極めて薄くなっていることを言う語である。

・「梟惡」性質が非常に悪く、人の道に背いていること。

・「御居所たるに依りて」二品頼朝様のお膝元なれば、の意。

・「毎度東士を發遣せらるるは」毎回毎回、いちいち関東の兵卒を派遣なさっておっては、の意。

・「御沙汰を交へ」命令系統をしっかりと組織した上で上意下達させて。

・「國衙庄園毎に守護地頭を補せられば」は、つい最近まで無批判に、国衙に守護を、荘園に地頭を置くという風に解釈されてきたのだが、近年の研究では守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護するための地頭が正しい解釈として支持されているようである。諸国に設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めるのは(しかも頼朝政権当時は全国的なものではなく、東日本に偏ったもので、畿内以西では朝廷や寺社勢力が依然、有意な力を持っていた)、正に私が支持する鎌倉幕府成立の建久元(一一九〇)年前後とされているのである。

 

「莊工(しやうく)」荘園。

「段別(だべつ)」段別・反別で普通は「たんべつ」と読む。田を一反単位に分けることであるが、通常はそれに課税することを意味する。一反は九九一・七四平方メートで約一〇アール、約三〇〇坪強。

「五桝(しやう)」五升。約七・五キログラム。

「申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり」ここには勿論、省略があって、以上を受けて、同月(文治元(一一八五)年十一月)二十八日に北條時政から後白河院への以上の要請が吉田経房を通して上奏され、それが即決で「次の日」二十九日に勅許されたことを指している。両日の「吾妻鏡」を部分的に引いておく。

〇原文

廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升。〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。

廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。(後略)

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家庄公を論ぜず、兵粮米〔段別五升。〕を宛て課すべきの由、今夜、北條殿、藤經房卿中納言に謁し申すと云々。

廿九日戊申。北條殿申さるる所の諸國の守護地頭・兵粮米の事、早く申し請くるに任せて御沙汰有るべきの由、仰せ下さるの間、師中納言、 勅を北條殿に傳へらると云々。(後略)]

子ども遊び

……「じゃんけんぽん!」の次は……「この指とまれ!」か……すると次にやるのは「花いちもんめ」だねえ、欲しい相手を取り合うんだよ……そうして……そうだな、「缶けり」すりゃあ面白いぞ、誰かがやったことも一発でみんなオジャンだもの……後に残った遊びは……そうだなぁ……「鬼ごっこ」ってのはどうよ?!……巨神兵みたような奴だよ……でもね……目に見えない「鬼」だからね……最後はね……その鬼しかいなくなる「鬼ごっこ」さ…………

……いや……何、ガキの遊びの話さ!……他愛もない、無責任で、独り善がりで、世界は自分のために周ってると思ってる、手に負えない、救い難いガキどもの、ね……

芥川龍之介漢詩全集 十六

   十六

 

沙淺蒲猶綠

石疎波自皺

遙思明月下

時有浣沙人

 

〇やぶちゃん訓読

 

 沙 淺くして 蒲(ほ) 猶ほ綠なり

 石 疎(まば)らにして 波 自(おの)づから皺(しわ)む

 遙かに思ふ 明月の下(もと)

 時に有り 浣沙(くわんさ)の人

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五から二十七歳頃の作(推定)。

龍之介の遺稿として発見された手帳の一つ「我鬼句抄」に所載。

手帳「我鬼句抄」は、全集後記によれば、罫紙(又は半紙の何れか)を自分で綴じて作った古風な手帳に毛筆で書かれたものである(現在、所在不明)。旧全集は記載内容から末尾に編者によって『大正六年―大正八年』と記されてある。

 

「浣沙人」邱氏注に『浣沙は洗濯するの意』と記され、現代語訳では『時には洗濯の娘がいるだろうかと遥かなる思いをはせる。』と結句を訳されておられる。……なるほど久米の仙人か……作者が浮かべたのは川で洗濯する小娘か女の脛であったか……大正六(一九一七)年から大正八(一九一九)年にかけて、文との結婚(大正七年二月二日)、大正八年六月の「愁人」秀しげ子との出逢いとその後の彼女との不倫経験など……確かにこれは女なのかも知れないな……

……ただ……私は本詩を最初に読んだ際、違った印象を持った。私にはこの「時に有り 浣沙の人」は男、それも老人、と読んだのである。……それはきっと悲しい教師根性からであろう。……私は自分が教えた教材への深い思い入れに基づく思考の刷り込み効果がある。――だから――屈原の「漁父辭」なのだ。――だから私の川辺には――「纓」(冠の紐)、基、当然、足――を洗うておる老荘の世界に遊んでいる老人の姿が――見えたのである。……これは私の勝手な空想……お忘れあれ……]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 滑川/浄妙寺

   滑  川

 澤間へユケバ越ル川ヲ云。此流ノ上下トモニ通ジテ滑川ナレドモ、太平記ニ載タル所ヲ見ルニ靑砥左衞門居屋敷此邊ニ有ケルカ。靑砥左衞門ガ十錢ヲ以テ松明ヲ買取出シタルト也。

[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。前掲の宅間寺(=報国寺)のこと。現在の伝承では宝戒寺の裏、北条高時以下の腹切やぐらに向かう滑川二架かる橋を青砥橋と呼称し、この辺りを例の伝承の現場とする。但し、青砥藤綱はモデルはあったかもしれないが、実在は疑われ、この比定自体の学問的意味はないに等しいと私は考えている。]

 

   淨 妙 寺

 稻荷山ト號ス。五山ノ第五也。讚岐守源貞氏立。開山退耕和尚、諱ハ行勇、千光ノ嗣法ナリ。昔ハ十二院有シガ、今ハ直心庵ノミ殘レリ。開山塔ヲ光明院ト云。今四貫三百文ノ御朱印アリ。直義ノ木像アリ。鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ。

[やぶちゃん注:「鍛冶廣光」(たんやひろみつ)は、南北朝期相州伝鍛冶の代表ともいえる鍛冶職人。正宗門人と言われるが、年代から見て合わず、実際には貞宗の門人であるとも言われる名刀工。この「鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ」の部分は「新編鎌倉志卷之二」の「淨妙寺」の項にも載らず、現在の鎌倉関連書にも不載で、この記載はもしかすると、失われた記憶を発掘された黄門様の知られていない快挙ではあるまいか?!]

耳囊 卷之五 同眼のとぢ付きて明ざるを開く奇法の事

 

 疱瘡の後、かぜなどに至りて眼とぢて明かぬる時は、蚫熨斗(あはびのし)の頭の黑き所を水に浸し、外へ障らざる睫毛を眼尻の方へなづれば、開く事立所(たちどころ)に妙なりと、是又右醫師の傳授也。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:標題の「同」は「おなじく」と訓ずる。天然痘の「窓を開ける」呪(まじな)い二連発。

 

・「明ざる」は「あかざる」と訓ずる。

 

・「かぜ」風邪ではない。「かせ」「がせ」「かさ」で、貫膿(前話注参照)して膿疱の腫脹が引いた後、瘡蓋状になった状態を言っている。今風に言えば天然痘の予後。

 

・「蚫熨斗」熨斗鮑(のしあわび)のこと。腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis に属するアワビ類の肉を薄く削ぎ、干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押し伸ばし、更に水洗いと乾燥・伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって調製したものを言う。以下、ウィキ熨斗」より引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神饌として用いられてきた。『肥前国風土記』には熨斗鮑についての記述が記されている。また、平城宮跡の発掘では安房国より長さ四尺五寸(約一・五メートル)のアワビが献上されたことを示す木簡が出土している(安房国がアワビの産地であったことは、『延喜式』主計寮式にも記されている)。中世の武家社会においても武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられた。『吾妻鏡』には建久三年(一一九一年)に源頼朝の元に年貢として長い鮑(熨斗鮑)が届けられたという記録がある』。『また、仏事における精進料理では魚などの生臭物が禁じられているが、仏事でない贈答品においては、精進でないことを示すため、生臭物の代表として熨斗を添えるようになったともされる』。『神饌として伊勢神宮に奉納される他、縁起物として贈答品に添えられてきた。やがて簡略化され、アワビの代わりに黄色い紙が用いられるようになった(折り熨斗)』とある。現在、我々が「のし」と呼んでいるものの起源とその変容について、ここまでちゃんと認識されている(「のし」はあの「御祝」なんどと書いた――細長い紙を言うのではない――ということ――あの小さく折り畳んだ折り熨斗からちょっと出ている黄色い細い紙が熨斗のなれの果てであるということ――を)方は私は実は少ないと感じている。故に、ここに、私の好きな(これは食としてよりも海産生物愛好家としての謂いで)アワビの名誉のためにも、敢えて示し置いた。

 

・「頭の黑き所」これはアワビ属 Haliotis の内臓部分である。もしかすると、この効能は、そこに含まれるタンパク質分解酵素と何らかの関係があるのかも知れない(但し、そのためには太陽光を睫毛に照射する必要があるが)。以下に私が島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「あはび 鰒」の注に書いたものを転載しておく。

 

   《引用開始》

 

 三十年以上も前になるが、ある雑誌で、古くから東北地方において、猫にアワビの胆を食わせると耳が落ちる、と言う言い伝えがあったが、ある時、東北の某大学の生物教授が実際にアワビの胆をネコに与えて実験をしてみたところが、猫の耳が炎症を起し、ネコが激しく耳を掻くために、傷が化膿して耳が脱落するという結果を得たという記事を読んだ。現在これは、内臓に含まれているクロロフィルa(葉緑素)の部分分解物ピロフェオフォーバイドa (pyropheophorbide a) やフェオフォーバイドa (Pheophorbide a) が原因物質となって発症する光アレルギー(光過敏症)の結果であることが分かっている。サザエやアワビの摂餌した海藻類の葉緑素は分解され、これらの物質が特に中腸腺(軟体動物や節足動消化器の一部。脊椎動物の肝臓と膵臓の機能を統合したような消化酵素分泌器官)に蓄積する。特にその中腸線が黒みがかった濃緑色になる春先頃(二月から五月にかけて)、毒性が最も高まるとする(ラットの場合、五ミリグラムの投与で耳が炎症を越して腐り落ち、更に光を強くしたところ死亡したという)。なお、なぜ耳なのかと言えば、毛が薄いために太陽光に皮膚が曝されやすく、その結果、当該物質が活性化し、強烈な炎症作用を引き起すからと考えられる。なお、良安はこの毒性について、「鳥蛤」(トリガイ)の項で述べている。また別に、最後の「貝鮹」(タコブネ)の項も参照されたい。

 

   《引用終了》

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 同じく疱瘡で目が閉じくっ付いて開かなくなったのを開く奇法の事 

 

 疱瘡の貫膿後、膿疱が瘡蓋となって瞼が閉じくっ付いて開かずなった折りには、熨斗鮑(のしあわび)の頭の黒いところを水に浸したものを用いて、患部の他の部位には決して触れぬようにして――睫毛のみを――目尻の方へ向かって撫でてやれば、これ、たちどころに窓が開(あ)くこと神妙なり、と、これも先と同じ医師から伝授致いた奇法で御座る。

一言芳談 二十五

   二十五

 

 又云、聖法師は功德に損ずるなり。功德を作らむよりは、惡をとゞむべきなり。

 

〇功德に損ずる、佛をつくり、寺をたて、その外興福(こうぶく)の事にかゝる人、はじめの心ざしよけれども、事にふれて欲心(よくしん)もおこり、わが身にはうるはしく、後世のつとめするひまもなくて、はてには名聞におちて、道心も退轉するなり。

 

[やぶちゃん注:『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注に貞享五(一六八八)年刊書林西村市良右衛門蔵板「一言芳談句解」に(新字を正字に代え、踊り字「〱」は正字化、一部の記号を省略した)、

『功とは、春夏秋冬の、おしううつるをいひ、その四時の行年行年も、かはらぬが德にてあれ共、今の世の人は苦行するを功德とのみ、おもひさだめしなり。經陀羅尼書寫するも、くどくのはしにては有也。まことの功德はしる人まれに、しらぬ人もなし』

とある、とする。

「惡をとゞむべきなり」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には『止悪修善。』とある。これは、「断悪修善」ともいい、悪業を断ち止めて善業をおさめること、不善の行ないをしないようにして十善等を修めるよう努めることを言う。しかし、そうだろうか? これが知られた「止悪修善」であるなら、明禅はわざわざ「功德を作らむよりは」という条件文を附さなかったはずである。寧ろ、これは等価で『作善(さぜん)をしようとすることよりも、悪を行わぬように堰き止めるが肝心じゃ!――作善しようとするな! 悪を防ぎ止めよ!――』と私は言っているように思われる。]

バス愉し春の日をどり頤をどる 畑耕一

バス愉し春の日をどり頤をどる

[やぶちゃん注:以下、「天文」の部。]

2012/11/29

北條九代記 無量光院の僧詠歌

    ○無量光院の僧詠歌

 其比平泉の無量光院(むりやうくわうゐん)の住持の僧助公(じよこう)法師は學智行德の道人なり。多年泰衞と師檀(したん)の契(ちぎり)淺からざりしに、思(おもひ)の外なる兵亂起りて、國家悉く滅亡す。泰衡の館(たち)は大厦高堂(たいかうだう)灰燼となり、數町(すちやう)の郭地、寂寞として飄々たる秋の風は響(ひびき)を失ひ、蕭々たる夜の雨は音絶えて、心細き事限なし。今夜は名におふ九月十三夜この人世にあらましかば、傾く月にあこがれて折から興を催し給ひて、人々集り、吟哦(ぎんが)の遊(あそび)もありなん。移變(うつりかは)る世の中とて、只我獨(ひとり)のみ詠(なが)むる事よと漫(そゞろ)に涙の浮びければ、一首の歌を吟詠す。是を聞きける人、鎌倉殿に言上して、助公法師は憤(いきどほり)を含み、逆意を企つる由風聞しければ、即ち搦(からめ)取りて、梶原景時に子細を推問せらる。助公申されけるは「抑(そもそも)無量光院と申すは鎭守府將軍藤原秀衡の建立として、宇治の平等院の地境(ちけい)を遷(うつ)し、丈六の彌陀を安置して本尊とす。堂内四壁の扉には觀經(くわんぎやう)の説相(せつさう)を圖畫(づぐわ)し、三重の寶塔甍(はうたふいらか)既に雲に輝き、院内の莊嚴(しやうごん)は、光り、又、空に映ず。しかのみならず、出羽陸奥(みちのく)兩國の中に一萬餘の村里あり。淸衡、武貞、基衡に至る代々伽藍を建立し、秀衡父の讓(ゆづり)を承(う)け、佛餉(ぶつしやう)燈油の寄附を致し、九十九年以來(このかた)堂舍の建立數を知らず。西は白川の關を境ひ、東は外濱(そとのはま)に至る。中央に衣の關を構へて、左は高山に隣り、右は長途を經(ふ)る。南北の嶺連り亙つて、産業は海陸を兼ねたり。三十餘里の行程(ぎやうてい)は竝木(なみき)の櫻、春毎に雪か花かと怪(あやし)まる。駒形山の峯よりも麓(ふもと)に流るゝ北上川、衣川に續きて、宦照が小松楯(だて)、成通(なりみち)が琵琶柵(びはのしがらみ)、皆、翠岩(すゐがん)の間にあり。衣川の舊き跡は、秋草空(むなし)く鏁(とざ)す事數十町、礎(いしずゑ)殘りて苔生(む)し、城郭の名のみ聞えて、狐兎の栖となり果てたり。是等の事を思續(おもひつゞ)くるに、誰か哀(あはれ)を知ざらざらん。折しも長月の十三夜、今年は例に替りて獨り詠(なが)むる月影の更(ふけ)行くまゝに曇りがちなるを見て、

  昔にもあらでぞ夜はの憂(うれは)しく月さへいとど曇りがちなる

  浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし

折節懷舊の催す所を聞きて讒(さかしら)致す者ありて、當時を恨み憤ると風聞仕る事は、前世の報(むくい)と存ずるなり。如何にも計ひ給ふべし。科(とが)なき身には力及ばず」とぞ申されける。景時、涙を流し歌の樣(さま)をはうびして、賴朝卿に斯(かく)と申せば、誠に哀(あはれ)と思召(おぼしめ)して、「この上(うへ)は還住(げんぢう)せられよ、相違の事あるべからず」とて賞(しやう)を加へてぞ歸されける。

[やぶちゃん注:初代藤原清衡は中尊寺、二代藤原基衡は毛越寺を造営したが、三代藤原秀衡が建立したのが無量光院。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、「吾妻鏡」には無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁であった「平泉館」があったと記載されている。無量光院は宇治の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した(新御堂とは毛越寺の新院の意)。現代の発掘調査の結果、四囲は東西約二四〇メートル・南北約二七〇メートル・面積約六・五ヘクタールと推定され、平等院(現在の境内は約二ヘクタール)よりも遙かに規模が大きかったと推定されている。参照したウィキの「無量光院跡」によれば、『本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた』。本文の無量光院の由来は「吾妻鏡」の九月十七日及び二十三日の条を、また、衣川周辺の様子については同九月二十七日の条を引いている。

「助公」この人物に纏わるエピソードは、頼朝帰鎌後、当年も押し迫った「吾妻鏡」文治五 (一一八九) 年十二月二十八日の条(これが当年の最終記載である)に現われる。即ち、これは事実に即して鎌倉での出来事として終始描かれているのだが(だから前話の最後でも頼朝の帰鎌を語っている)、読む者は無量光院の描出から自然に尋問の場へと移って、恰も裁きが無量光院で行われているような錯覚を与えて素晴らしい、と私は感じている。

〇原文

廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人。〔号助公。〕爲囚人參著。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。淸衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。

 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月も曇ぬる哉

如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日癸丑。平泉内、無量光院の供僧一人、〔助公と号す。〕囚人と爲りて參著す。是れ、泰衡の跡を慕い、關東を反(そむ)き奉らんと欲するの由、風聞有るに依りて、召し禁(いまし)めらる所なり。今日、景時を以つて子細を推問せらるるの處、件の僧、謝し、申して云はく、「師資相承(ししさうじやう)の間、淸衡已下四代の皈依(きえ)、佛法の惠命(ゑみやう)を續(つ)ぐなり。爰に去ぬる九月三日、泰衡誅戮(ちうりく)を蒙るの後、同十三日の夜、天、陰(くも)り、名月、明らかならざるの間、

 昔にも非らずなる夜のしるしには今夜(こよひ)の月も曇りぬるかな

此の如く詠じ畢んぬ。此の事、更に當時の儀を蔑如(べつじよ)し奉るに非ず、 只だ折節 、懐舊の催す所なり。異心無しと云々。

景時、頗る之を褒美す。則ち、此の由を二品に達す。還へりて御感有りて、其の身を厚免せられ、剩さへ賞を加へらると云々。

・「師資相承」訓読すると「師資、相ひ承(う)く」で、師の教えや技芸を受け継いでいくこと、また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくことをいう。「師資」は師匠・先生または師匠と弟子の意とも。

・「昔にも非らずなる夜のしるしには今夜の月も曇りぬるかな」初句が硬い。曇るのは勿論、涙のせいでもある。歌意は、

――昔日の栄華は最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……そのしるしに……今夜の月も……曇って見えぬことよ……

 

「昔にもあらでぞ夜はの憂しく月さへいとど曇りがちなる」前掲通り、「吾妻鏡」とは、かなり異なる。連体中止法が利いて、作者の感涙がはっきりと伝わる。俄然、こちらの方がうまい、と、私は思うのである。通釈しておく。

――昔日の面影も、最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……今、たった一人、憂いに沈んでいる……だから……月さえも、ますます曇りがちに……なる……

「浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし」前掲通り、「吾妻鏡」には不載。出所不明。識者の御教授を乞う。「浮雲」は「憂き」を掛けるが、二句目の音律が今一つである(と私は思う)。通釈しておく。

――漂う雲よ……遮る雲よ! お前は何と情けのないことか!……秋風よ! お前を、我がものにしてでも……私は……月を見たい……

 

さても、他にも注すべきところはあろうが、私はこの寂寥の風雅を、これ以上、私の下らぬ注で穢したくないと思う。……]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 報国寺

   封 國 寺

 澤間山ト號ス。杉本ノ向ヒノ谷也。建長寺ノ末、十刹ノ内、五山ノ第二也。中尊釋迦、左ハ文殊、右ハ普賢、阿難・迦葉・大帝・大權・感應(カンイン)使者ナドノ木佛アリ。澤間ノ迦葉トテ、極テ妙作也。澤間ノ法眼作ナリ。寺領十三貫文アリ。伊與守源家時建立、開山佛乘禪師、内ニ當寺開山敕謚佛乘禪師天岸慧廣大和尚ト書タル位牌幷佛乘源家時ノ木像アリ。舊記ニ漸入佳境ノ額有トアレドモ、今ハ失セテ無之(之れ無し)。前ニ滑川流タリ。〔東海道名所記ニ此次ニ杉ガ谷ト云地アリト云。〕

[やぶちゃん注:標題の「封」は「報」の誤り。

「澤間山」報国寺のある場所は宅間ヶ谷と呼称されるから、「澤」は「宅」の誤りであるが、報国寺の山号は今も昔も「功臣山」(こうしんざん)で誤りである。但し、本文にある宅間法眼作の迦葉はかなり有名で、「鎌倉市史 社寺編」にもこの寺は宅間寺ともいったとあるから、それを山号に聴き間違えたものと思われる(但し、この迦葉像は明治二三(一八九〇)年の火災で焼失、現存しない)。

「十刹ノ内、五山ノ第二也」誤り。五山の第二は御存じの通り、円覚寺であり、関東十刹(=鎌倉十刹)にも含まれていない。これは憶測であるが、報国寺の寺格は五山・十刹に次ぐ「諸山」(五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられたもので、原則、五山同様に室町幕府将軍御教書によって指定された)である、という話を聴き違えたものかとも思われる。

「大權」恐らくは道教の神の一人である太帝か太元であろう。太帝は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、太元は恐らくは大元神と同じで、道教の最高神の一人太一神のことを言う(なお、次注参照)。

「感應使者」元は道教の土地神の一人。前注に示した太帝・太元とともに、本邦の禅宗寺院にはしばしば伽藍守護神として祭られている。

「伊與守源家時」幕府御家人であった足利伊予守家時(文応元(一二六〇)年~弘安七(一二八四)年)。彼は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で敗死した安達泰盛に与みしていたが、一説には泰盛の強力な与党で姻族であった北条一門の佐介時国の失脚に関与して自害したのではないかとも言われる。彼の墓は報国寺に現存するが、実際の報国寺開基は南北朝期の上杉重兼で、家時と関係の深い上杉氏が供養したものと推測される(以上はウィキ足利家時」に拠った)。「伊豫(伊予)守」はしばしば「伊與守」とも書かれる。

「漸入佳境」「漸く佳境に入る」で、「晋書」の「顧愷之(こがいし)伝」に基づく故事成句。画家の愷之は甘蔗(=サトウキビ)を食べる際、甘みのない先の方から食べるのを常としていたが、それをある人に訊かれたその答えに由来する。一般には話や状況などがだんだんと興味深い部分にさしかかってくることを言うが、ここでは禅の三昧境を意味している。

「杉ガ谷」現在、鎌倉市二階堂小字に「杉ケ谷(すぎがやつ)」が残る。]

芥川龍之介漢詩全集 十五

   十五

潦倒三生夢
茫々百念灰
燈前長大息
病骨瘦於梅

〇やぶちゃん訓読

 潦倒たり 三生の夢
 茫々 百念 灰たり
 燈前 長大息
 病骨 梅よりも瘦(そう)たり

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この書簡の出された同日、龍之介は後に社員となる『大阪毎日新聞社』への小説連載依頼を受諾している。これは翌十月二十日から始まり、十一月四日に終わるが、それは、小説家芥川龍之介の産みの苦しみとその秘密を抉り出した、かの渾身の名作「戯作三昧」であった。
大正六(一九一七)年九月二十日附久米正雄宛所載。
なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三九ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。
 邱氏の当該項の「解説」によれば、『その創作背景について、「ボクは文世でひどいめにあつた あんなにキュウキュウ云つて書いたことはない」と書かれている。「文世でひどいめにあつた」とは、「文章世界」一九一七年十月号掲載の小説「片恋」の原稿を急がされて書いたことを言っている』とある。「片恋」は、ある夏の午後、主人公「自分」は京浜電車の中で、一緒に大学を卒業した親友の「僕」と出逢い、その「僕」が語る話という設定である(途中に挟まる車内の会話から「自分」は小説家らしい)。「僕」は最近、「自分」と「僕」の旧知の、やはり仲間の「志村」がかつて岡惚れしていた水商売の女お徳に(志村は彼女に『臂を食は』されている)、相応の茶屋の宴席で再会したが、その彼女から、逢ったこともない洋画の俳優に片思いしたことを告白された、ということを述べる形で進行する小編である(特異なのは、先の会話以外殆んどが「僕」の一人称直接話法で語られ、この話を聴いた「自分」の感懐は行間を読む以外にはないという点である)。その映画は『結局その男が巡査につかまる所でおしまひになる』のだが、そのエンデイングは、

 『大ぜいよつてたかつて、その人を縛つてしまつたんです。いゝえ、その時はもうさつきの往來ぢやありません。西洋の居酒屋か何かなんでせう。お酒の罎がずうつとならんでいて、すみの方には大きな鸚鵡の籠が一つ吊下げてあるんです。それが夜の所だと見えて、どこもかしこも一面に靑くなつてゐました。その靑い中で――私はその人の泣きさうな顏をその靑い中で見たんです。あなただつて見れば、きつとかなしくなつたわ。眼に涙をためて、口を半分ばかりあいて……』
 さうしたら、呼笛が鳴つて、写眞が消えてしまつたんだ。あとは白い幕ばかりさ。お德の奴の文句が好い、――『みんな消えてしまつたんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。』
 これだけ聞くと、大に悟つてゐるらしいが、お德は泣き笑ひをしながら、僕にいや味でも云ふやうな調子で、かう云ふんだ。あいつは惡くすると君、ヒステリイだぜ。
 だが、ヒステリイにしても、いやに眞劍な所があつたつけ。事によると、寫眞に惚れたと云ふのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。
(二人の乘つてゐた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。) (六、九、十七)

で終わっている(引用は岩波版旧全集を用いた)。脱稿は本書簡に先立つ三日前の九月十七日であった(宮坂年譜による。発表は十月一日)。本作について、本作については龍之介は他にも『ボクは文章世界で實際脂をしぼられたよ へんてこなものを書いて責をふさいぢやつた いくら何でも一日半ぢや碌なものは書けない』(本書簡同日附松岡讓宛岩波版旧全集書簡番号三二四)とぼやいており、評者からも『落語のやうなつまらないもの』(『文章世界』大正八(一九一九)年四月号の石坂養平「芥川龍之助論」)、『芥川の文学特有の締りがない』(河出書房新社一九六四年刊の進藤純孝「芥川龍之介」)と不評である(引用は勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」より孫引き)。私は必ずしも、本作をつまらぬとは思わぬ。そうして――このエンディングこそが、龍之介が実は書きたかった核心であるように思われてならないのである。
「潦倒」「れうたう(りょうとう)」「らうたう(ろうとう)」と読み、老衰していること。やつれて元気のないこと。また、落魄れてみすぼらしいこと。惨めであることを言う。
「三生」前世・現世・後世(ごせ)の三世の意であるが、ここでは単に個人としての全人生の謂い。
「病骨」とあるが、実際に龍之介が病気になっていた事実はない。但し、この頃、龍之介はこの頃、海軍機関学校での教師生活に嫌気がさしており、専業作家になることを希望し始めていた。それは例えば、同月二十八日附の婚約者塚本文へ宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号三二八)などに明らかである(婚約者へ向けた言葉であるだけに経済的な意味でも重いものがある)。例えばそこには、

學校ばかりやつて、小説をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 教へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくちや駄目ですよ

とあり、また最近、初対面の者がよく尋ねて来る、昨日も『工廠の活版工をして小説を書いてゐる人と 小説家志望のへんな女學生とがやつて來』たが、『彼等は唯世間で騷がれたさに 小説を書くん』であって『量見そのものが駄目な』んだ、

あんな連中に僕の小説がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね
もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとする勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

私はこの注釈のために、この龍之介の文へのラブ・レターを手打ちしながら、すっかり本漢詩の孤高性を忘れ果てて、なんだか龍之介と文が、とても羨ましくなってきた。これを書いている/これを読んでいるそれぞれの二人の笑顔に――嫉妬する――と言い換えてもよい。因みに、このフィアンセへの手紙の最後は、

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首
とある。]

耳嚢 巻之五 痘瘡病人まどのおりざる呪の事

 痘瘡病人まどのおりざる呪の事

 

 疱瘡の小兒、數多く出來て俗にまどおりると唱へ眼あきがたき事あり。兼て數も多く、動膿にも至らば眼あきがたからんと思はゞ、其家の主人拂曉(ふつげう)に自身(おのづ)と井の水を汲(くみ)て、右病人の枕の上へ茶碗やうの物に入(いれ)て釣置(つりおか)ば、始終まどのおりるといふ事なし。天一水(てんいつすい)を以(もつて)火毒を鎭(しづむ)るの利にもあるらん。瘡數の多き程右器の水は格別に減(へり)候事の由。眼前見たりと予が許へ來る醫師の物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蜂刺傷から疱瘡療治の呪(まじな)い(民間療法)で直連関で、疱瘡では三つ前の似非疱瘡神譚でも連関。

・「痘瘡病人まどのおりざる」通常の高熱でも炎症によって瞼が腫脹し、眼が開かなくなることがあるが、天然痘に罹患すると、発熱後三、四日目に一旦解熱し、それから頭部及び顔面を中心に皮膚色と同じか、やや白色の豆粒状丘疹が生じ、全身に広がってゆき、七~九日目には発疹が化膿し、膿疱となることによって再度四〇度以上の高熱を発する。ここでは、この膿疱が眼の周囲に発現して瞼を開くことが著しく困難となった様態を言っている。本文ではその症状を「まどのおりる」と表現していることから、表題は「まど」が降りないようにする呪い、という意味である。

・「動膿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『勧膿』とあり、長谷川氏は『貫膿。疱瘡の症状がさかりを過ぎること』と注されておられる。香月啓益(かづきけいえき)の「小児必用養育艸」(寛政十(一七九八)年刊)などの叙述を見ると、

◯貫膿の時節手にてなづるに皮軟にして皺む者は惡し

◯貫膿の時節にいたりても痘の色紅なるものは血貫熱毒の症なり必紫色に變じ後には黒色になりて死するなり

◯貫膿の時にいたりて惣身はいづれもよく膿をもつといへ共ひとり天庭天庭とは眉の上の類の眞中をいふ也の所貫膿せざるは惡症なり必變して死にいたるなり

◯貫膿の時痘瘡よくはれ起りて見ゆれ共其中水多くして膿すくなく痘の勢脹起に似たる者は極めて惡症なりこれを庸醫は大形よき勢の症と心得て油斷して多くは變して死するにいたる能々心得へき事なり

◯貫膿の時節面目の腫早くしりぞき瘡陷り膿少きものは惡し惣じて痘の病人の顏の地腫はやく減事は惡症なり痂落て後までも地腫ありて漸々に減ものを吉とす

等とあり、膿疱化が起こってやや熱が下がった状態のことを言っているようであり、これを過ぎたからと言って、その膿疱や皮膚の状態によっては死に至ることもあることが分かる(以上は奈良女子大学所蔵資料電子画像集にあ当該書の長志珠絵氏の翻刻文を正字化して示した)

・「天一水」は「天、一水」と切って読むべきところである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疱瘡の病人の窓の降りぬようにする呪いの事

 

 疱瘡に罹った小児が、発疹の数多く発して、俗に「窓が降りる」と呼んで、眼が開きにくくなることがある。

 特に発疹の数が殊の外多く、貫膿の病相に至っても、未だ目が開きにくいようだと思わるる際には、その家の主人が、明け方、自ら井戸の水を汲んで、その病人の枕元へ茶碗のようなものに入れて上から釣っておけば、さすれば以降、窓の降りるということは、これ、御座ない。

 謂わば、『天、一水を以って火毒を鎮むる』と申す理屈でも御座ろうか。

「……発疹の数が多いほど、その器の水は、格別に減ってゆきまする。確かに眼の当たりに見て御座る。……」

とは、私の元へ参る医師の物語で御座った。

一言芳談 二十四

   二十四

 明禪法印云、利益衆生(りやくしゆじやう)とて、ことごとしくせねども、眞實の生死(しやうじ)をはなれんとおもへば、分々(ぶんぶん)に利益はかならずあるなり。

[やぶちゃん注:岩波版では「眞實の生死をはなれんとだにおもへば」と副助詞が入る。
「分々に利益」それぞれの「分(ぶん)」に相応した利益(りやく)。すると以下のようなことが見えてくる。即ち、この短かい条は、前半は僧の意識的な「利益」――衆生への作善――の無効性を、後半は一切衆生への弥陀の大慈悲による各自にもとより与えられてあるところの「利益」――の発動の自動性や絶対性への確信を述べているということである(既に述べた通り、明禅法印は法然滅後に浄土宗に帰依している)。]

大年の樞落せば響きたる 畑耕一

大年の樞落せば響きたる

[やぶちゃん注:「大年」は「おほとし(おおとし)」又は「おほどし(おおどし)」と訓じて大晦日のこと。「樞」は「くるる」で、 戸締まりのために戸の棧から敷居に差し込む止め木(またはその仕掛け)のこと。ここは「大晦日」に「暮るる」も掛けていようが、「時候」の部立の掉尾を飾るに相応しい不思議に巧まずして出来たリアルな句柄で好感が持てる。]

2012/11/28

靑法師赤法師 火野葦平

Aonosuekitikappa

               [靑野季吉 畫]

 

[やぶちゃん注:実は底本には各作品の冒頭に驚天動地の有名作家の描いた河童の『絵』が配されている。例えば?……中川一政・伊藤整・平林たい子・梅崎春生・尾崎四郎・清水昆……といった塩梅……垂涎でしょう?! 今回の青野は著作権が切れているのでやっと御紹介出来るという次第である。可愛らしい、いい河童だ――]

 

 

   靑法師赤法師

 

 さて、滿沼の紳士淑女諸君、わたくしがこのたびの選擧に立候補いたしました當耳無沼(みみなしぬま)の靑法師であります。もつとも、選撃と申しましたが、御承知のとほり、なにも赤法師君が名乘りをあげなければ選擧にもならず、かつ諸君にいらざる迷惑をかけることもなかつたのでありますが、わたくしが聾聲明を發すると同時に、意外にも赤法師君が挑戰されることになりましたために、こんにちの手數を要することとなつたわけであります。しかしながら、それこそはかへつて望外の收穫とでも申しませうか。ここに立合演説をひらくことと相なつて、日ごろの所信を述べる機會を得ましたことは、同時にまた赤法師君の卓拔無類の識見を拜聽するの光榮に浴しましたことは、わたくしのみならず、諸君にとりましてもこのうへもなき幸福と存ずるものであります。

 さて、實はかうして立つてをりますと、目まひがして足がふらつきますので、この岩に腰かけさせて貰ひます。……なにしろ、ここ一ケ月ちかくといふもの一滴の水ものまず、みぢんこ一匹の食餌もとらずにをりますので、實はこんにちここで大きな聲を出しますことも大いなる苦痛なのであります。わたくしはそのことを恥ぢません。それはわたくしが貧窮の故ではなく、また無力の故でもなく、實にこんにちわたくしたち河童たちがおちいつてゐる共通の運命にもとづくところの、一般的、普遍的、世界的状態であるからであります。ここから眺めましても、滿沼の、沼といつても名ばかり、いまは一滴の水もなく干あがり、龜裂(きれつ)を生じた沙漠うへに、いぎたなく、……失禮申しました。しかしながら、それ以外の表現のしやうがありませうか。まことに、疲弊(ひへい)しつくした諸君がごろごろと思ひ思ひの姿勢で横たはつてをります姿は、もはや、いぎたなく、だらしなく、と形容するよりほかの言葉を知らないのです。幸にして、古くからこの沼のうへに大きい蔭をつくつてをりますかの樟(くすのき)の巨樹が、わたくしたちと太陽とをさへぎつてをりますために、わづかにわれわれは日射病で卒倒する危險からまぬがれ得てゐます。實にもはや乾燥しきったわれわれはわづかの光にも耐へ得ないまでになつてをるのであります。

 わたくしたちの頭の皿は水をたたへてゐるときにはまるで靑い鏡のやうに光つたものです。また朝陽や夕陽の光線を適度にうけるときには珍奇にして玉大な寶石のやうにもかがやき、昔、われわれが集合したときに見た皿の集團は、水玉模樣のやうに優雅でうつくしいものでありました。それがどうでせう。いまここから見る諸君の皿は、いづれも褐色にひからび、毛は使ひ古した箒(はうき)のやうに切れ、陰氣な皺がせばまりあつたうへに、ふきでもののやうな瘤(こぶ)さへできてゐます。また、なめらかに艷やかにしつとりしたうるほひをいつもたたへてゐた身體からは、どなたにも一かけらの粘液(ねんえき)さへなくなつてゐます。びいどろのやうに光つてゐた身體はまるで棕櫚(しゆろ)のやうに毛ばたち枯れてゐます。兩手兩足の水かきさへあまりの乾きすぎに切れてしまつてゐる人もあるやうですね。背の甲羅さへ反りくりかへり、つぎ目が切れて落ちさうになつてゐる方や、何故かは落ちてしまつてゐる方もあるやうではありませんか。率直にいひますと、われわれの姿形はそれほど優美でも典雅でもありませんでしたが、いまやすでにただ醜惡無慘の語に盡きます。わたくしたちは文字通り餓鬼(がき)となり、地獄にゐるのです。わたくしたちの嘴はもう食餌を嚙み通過させる役目を永い間わすれ、その運動を怠つたために退化してしまつて、打らすてられた帆立貝の殼のやうに味氣なく見えます。食ふのみでなく、言葉を吐くことすら忘れさうです。とはいへ、頭の皿に全然水がなくなつては死ぬほかはないのでありますから、なほ若干の濕氣のあることは信じなくてはなりませんが、しからばその源泉がおそらくこの後何日間持續し得ませうか。すでに水きれてあたら靑春の命を終つた仲間を葬つたことは今日まで數知れませぬのに、こののちもなほ犧牲者を出すとしますなれば、なんといふ悲しむべきことでせうか。わたくしは自分の皿をのぞくことができませぬので、諸君の皿をながめてはわが身をしのぶよすがとするわけでありますが、まことに水分が微々たるもので、餘命いくばくもなきことは、かうやつて話してをりましてもたえず氣が鬱し、氣分わるく吐き氣をもよほすことでわかります。何とぞ諸君、渾身(こんしん)の勇をふるひおこして、そのまま眠りこんでしまはぬやう、眠りこんでしまへばそれきりであることはよく御承知の筈でありますから、氣力を振揮してわたくしの話をおききとりのほど願ひます。

 赤法師君はそこへゆくとわたくしに挑戰するだけあつて、まだまだ餘力を存してをるやうですな。だいたい赤法師といふ名が、その精力的な面がまへ、脂(あぶら)ぎつた皿の色から出たもの故、それも當然かも知れませんな。仲間がみな乾燥し疲弊しつくしてゐるのに、なほかつ矍鑠(かくしやく)たることはまつたくもつて敬服のほかはありませぬ。わたくしなどは足もとにもよりませんが、しかしながらわたくしとてみづから名乘り出るほどの者、いささか信ずるところはあるのであります。まづ赤法師君もさやうに人をなめきつたやうな顏つきをせずに、わたくしの話をおきき下さい。終ればゆるゆると尊公の卓見を拜聽するつもりです。

 ところで、わたくしたちのこんにちの不幸が太陽にあることは諸君のよく自得するところであります。すでに旱魃(かんばつ)は百日に及んでゐます。沼は枯れ、川は床をあらはし、われわれの食餌はのこらず死滅いたしました。殘つたものは腐敗せるものにいたるまで食べつくしましたが、もはや今日われわれの口に入るなにものもなく、皿の水分は蒸發すれば補給する根源の榮養分なく、いたづらに死を待つ絶望的な狀態となりはてたのであります。かの殘酷きはまる、憎むべき太陽はわれわれの悲運を嘲けるがごとく、一點の雲もない紺碧の空に傲然(がうぜん)とかがやいてゐます。……ああ、樟の葉をとほして仰いですら眩暈(めまひ)がします。くらくらとしました。氣分のしづまるまでちよつとお待ち下さい。……

 失禮いたしました。わたくしの健康狀態も諸君とまつたく同じ程度なのです。すこしの無理もこたへるのです。

 昔はこの沼は樂園でした。まんまんと靑い水がたたへられ、われわれのもつとも好物とする車蝦をはじめ、さまざまの魚がをりました。その頃はみぢんこなどは全然問題にしてゐなかつたのです。諸君は覺えてゐますか? 筑後川の頭目九千坊先生が視察にお見えになつたときのことを。贅澤に馴れた九千坊先生すらおどろいて三歎されたあのときの豪華な歡迎の饗宴を。そんなに大昔のことぢやない。わづか百五十日ほど前のことです。鯉百匹、鮒二百匹、鮠(はや)五十匹、蝦百匹、この沼の底いつぱいにならべて河童音頭をうたひ、踊り、三日間もぶつとほしで歡のあるかぎりを盡したではありませんか。ここから見てゐると、みんなみすぼらしい恰好になつてしまつて區別がつきにくくなりましたが、そのころはみんなそれぞれ獨特の自慢の皿のいろ、形、背の甲羅の五色染、だんだら、元祿、氣どつた嘴、いろいろの魚の鱗えでちりばめた勳章などで、なかなか才氣煥發(くわんぱつ)、光彩陸離(くわうさいりくり)たるところを發揮したものでしたね。無口で氣むづかしやといはれてゐる九千坊先生があの巨大にして魁偉(くわいゐ)な顏にいとも滿足の笑みをたたへられ、かつてなかつたことに、筑後の河童節をひとくさり、もつともあまりお上手とは申されませんでしたが、うなられた、さやう、歌つたのではなく唸(うな)られたことは、諸君の記憶になほ新なところであらうと思ひます。しかるに、さやうなことはもう百年も昔のやうな氣がいたします。

[やぶちゃん注:「玄祿」元禄模様。市松模様のこと。]

 そのころは沼の魚のみならず、土のうへには大好物の胡瓜や茄子なども豐富なものでした。あの水氣たつぷりの胡爪、きゆつとひきしまつた茄子、あの恰好のよさ、色のよさ、わたくしどもは好きなだけ食べることができて、空腹といふことがどういふことやら知らぬことはもとより、考へてみようとすらしなかつたほどです。もつとも人間どもはせつかく作つた胡瓜や茄子をわれわれが盗(と)るので、いや盜るといふ言葉はよろしくない、つまり珍重するので、たいへん怒つてはゐました。そして陷(おと)し穴をつくつたり、罠(わな)をかけたりしたので若干の犧牲者が出ることは出ましたが、その危險にもかかはらず、われわれの胡瓜と茄子にたいする絶大の噂好と魅力とは、なほかつわれわれの冒險を阻止する力を持ちませんでした。諸君のなかにはその勇者がたくさんゐる筈です。業(ごふ)を煮やした人間がつひに鎌をふるつて甲羅に打ちかけ、數本の鎌を背に針鼠のやうにつけた仲間もあつたではありませんか。われわれはその果敢にして倦むこともなき勇氣を賞讚し、その仲間を英雄として仰いだものです。もつともその冒險家は八本目の鎌を打たれて以後、つひにあへない最期を遂げましたけれど。

 衣食足れば禮節これにしたがつて起る。これは、有名な東洋の格言です。まことにわれわれは、暖衣飽食(だんいはうしよく)の日々をおくつて、文化的教養を高め、戀愛に沈湎して、眷屬(けんぞく)を大いにふやしました。そのとき沼の榮えのすばらしかつたことはわたくしが申すまでもなく、諸君が身をもつて知られてをるとほりであります。したがつて、われわれは明日に備へるなんらの考へもなく、その日その日の刹那主義、貯蓄心のあるもの嘲笑し、罵倒し、氣狂ひあつかひする始末でした。まあ、いはば一種の樂園、天國でもあつたでせうか。……はつきり眼に見えて來ます。鯉、鮒、鯰、……胡瓜、茄子、あの形、色、にほひ、味、……ああ、わたくしはなにをいつてゐるのでせう。そんな囘顧は無用でした。いや有害でした。こんにち一切を喪失して死に直面してゐるときに、かつての花やかなりし日を懷しんだとてなんになりませう。現在の飢餓を解決するなんらの手蔓にもならない。もう口のなかにたまつて來る唾もないのです。……諸君、眠らないで下さい。諸君が退屈してゐるのでないことはわかつてゐます。諸君がいかにして救はれるかといふぎりぎりの場に來てゐるのに、そしてわたくしがその救ひ主として諸君のまへにあらはれてゐるのに、諸君が退屈するわけはない。だのに、諸君のなかには眠らうとしてゐる者がある。死神にさそはれてゐるのだ。眠つては駄目です。眼をあけて、眼をあけて!……赤法師君がわたくしを睨んでゐる。さすがに眼光炯(けい)々、いやらんらんたる眼光、その氣魄(きはく)はおどろくべきものがあります。わたくしもその價値をみとめるに吝(やぶさか)ではない。死を目前にした哀れな仲間たちのなかにあつて、なほそれだけの氣力を保持してゐるといふことは、たしかに天才です。たぐひまれな才能だ。わたくしに挑戰なさるも當然です。ま、もうすこし待つて下さい。まだわたくしはなんにも話してゐない。これからが本論です。

 ところで、わたくしは諸君を救ふために、名乘りをあげたのだが、……まつたく諸君はいつたいどうしたのですか? 諸君がこんにちの窮境におちいつたのは自業自得ではありませんか。わたくしの言を傲慢だといひますか。傳説の掟はつねに虛僞なものを罰して來ました。また傲慢なものをも許しませんでした。わたくしは諸君を責めるものではない。責めてみたところでしかたがない。わたくしが自分一個の安全と保身をはかるものならば、なにも好きこのんで諸君の救世主としてあらはれては來ません。しかしわたくしはそんなエゴイストではない。諸君の窮乏と死滅をじつと見てゐるに忍びないのです。諸君がわたくしに救はれることによつて、わたくしをこの沼の支配者として仰いでくれるならば、わたくしは自己のわづかの奉仕など、いささかも惜しむものではないのであります。然るに何ぞや。わたくしのその神聖の意圖にたいして、赤法師君は挑戰された。赤法師君がいかなる方法をもつて諸君を救はんとするか、それはわたくしの關知するところではない。しかしながら、わたくしは赤法師君の心事はくまなく看破してゐるつもりである。赤法師君は野心家なのだ。この沼の支配者になりたいのだ。權力が欲しいのだ……赤法師君、そんないやな顏をしなくてもよいではないか。意見があらば後ほど聞きます。……諸君、騙(だま)されてはいけない。諸君の弱點につけこむ惡漢を信用してはなりません。もし眞に諸君を救ふ意圖を持つものなら、なにも選擧もつて爭ふことはないではありませんか。だまつて救濟策を講じればよろしい。もしこの選拳の結果、赤法師君が落選したら、……さうなるにきまつてゐるが、……諸君を救ふことはやめにするにちがひありません。それは眞心から諸君に同情してゐるよりも、單に權力ヘの媚態(びたい)にすぎないからであります。いかに赤法師君が抗辯なさらうとも、斷じて、この事賢實に相違はありません。くどいやうでありますが、心底から赤法師君が諸君を救ふ氣持があるのならば、その方途を講じて、ただちに立候補をとり下げるが至當なのであります。さらでだに空腹のため身動きならぬ諸君にあらぬ負擔をかけ、投票させるやうな強烈な運動を強ひるならば、かならずや死者をいだす椿事をまきおこすに相違ありません。これでも諸君は赤法師君の心事を潔白なものと考へますか? ここのところをとくとお考へにならないと、悔いを千載(せんざい)にのこすことになりますぞ。

(……これはどうもすこしをかしな具合になつて來たな。俺は、なにをいつたのだ? 赤法師の陰謀を看破しで、これを罵倒したつもりだつたが、……これは、どうだ、自分のことをいつてゐるではないか。赤法師の心事はそのまま俺の心事ではないか。……俺に赤法師のことをいふ資格があるのか。……俺は馬鹿だ。)

 滿沼の諸君、元氣を出して下きい。わたくしのいふことを聞いて下さい。……わたくしはあやまつてをりました。諸君を欺いてをりました。いまそれがわかりました。わたくしをどうにでもして下さい。わたくしこそ諸君の弱味につけこむ卑劣漢でした。惡漢でした。エゴイストでした。諸君のまへにあやまります。……諸君がおどろかれるのは無理はありません。しかしわたくしはいま諸君のまへに手をついて、はじめて氣持がさつぱりいたしました。告白するのは苦しいのですけれども、心はかへつて輕くなりました。わたくしこそは、まことに陰謀家であつたのであります。この沼の支配者になりたいことは、わたくしの多年の念願でありました。權力ヘの魅力は實にわたくしの全靈をとらへその最終の目的にむかつてわたくしは營々として努力を重ねました。しかしながら、わたくしごとき非力不才の者が、どうして諸君の統領として仰がれる資格がありませう。わたくしのあらゆる奔走、策謀、阿諛(あゆ)、贈賄、哀願、脅喝(けふかつ)までもしてみたのでありましたが、所期の目的を達するにはほど遠いものがありました。先日逝去されました統領黄法師氏の溢るるごとき才幹、高潔な人格、かついやしくも邪(よこしま)をゆるさない淸廉には、わたくしなどのごとき卑小なるものは足許にも及ばなかつたのであります。それはわたくしが申すよりも、諸君のさらに深く認識されるところでありませう。それはわたしが申すよりも、諸君のさらに深く認識されるところでありませう。ひとたびは野望をすてようかと思つたこともありましたが、なほ權力への魅力は棄てがたく、戀々、悶々、そしてその機會を狙つてゐたのであります。然るに、好機は到來いたしました。黄法師氏の急死、これであます。悲しみもよろこびも等分にこれを頒(わか)つ主義の黄法師氏は、統領たるの故をもつて諸君より別の贅澤もせず、すなはち、特別の食餌をもとられることがなかつたために、日ごろからさして頑健でなかつた氏はこの度の大干ばつのために死亡されたのでした。沼中の仲間がこれを悼(いた)み悲しんだのでありますが、ああ、わたくしはそのとき、仲間と同じく悲しむふりはしながらも、宿望達成の期到來と實に内心舌を出して雀躍(こをどり)したのであります。そこで、今囘の立候補となつた次第であります。

 それにしても今囘の旱魃はなんとしたことでありませうか。もう百日も一滴の雨も降りません。沼の歴史はじまつて以來のことです。何のための刑罰か。この恐しい日照りつづきのために、柴園であり天國であつたこの沼が、今日(こんにち)のごとき悽慘(せいさん)な地獄となりはてました。これはわれわれにとつて死の運命へただちにつづいたものとなり、すでに多くの仲間が乾燥しはてて命をうしなひました。しかしながら、ああ、わたくしを鞭うつて下さい。石を投げて下さい。わたくしはこの仲間の悲慘な運命をながめつつ、實ににたにたとほくそ笑んでゐたのであります。わたくしはさうして冷酷にわたくしの野望の滿たされる時期を狙つてゐたのであります。わたくしは惡魔でした。鬼でした。しかしそのときのわたくしはただ一途に野心の達成を期待して、童(わらべ)のごとくわくわくと心中躍つてゐたのであります。

 白状いたします。いま隱したとてなんになりませう。わたくしはすこしも空腹ではありません。疲弊してもゐません。枯渇(こかつ)してもゐません。このとほりぴんぴんしてゐます。腕をふることも、走ることも、逆立することもできます。どんな大きな聲でも出すことができます。今まで諸君の眼を欺くために、弱りはてたふりをしてゐました。身體にはわざと砂や埃(ほこり)や粉をまぶしつけてあるのです。このとほりすぐ落ちます。頭の皿には別にこしらへた汚い皿をかぶせてあるのです。このとほり取れば昔のままに水をたたへた皿があります。つまりわたくしは昔とすこしも違つてゐないのです。むしろ元氣になつたくらゐです。このままで進みましたならばきつとこの沼ではわたくし一人が生き殘ることになるでせう。……しからば仙人でもないわたくしがどうして水一滴すらない今日、こんなに頑健なのか。ああ、わたくしはなんといふ惡漢、卑怯者、エゴイストでせう。わたくしは不正な手段であつめた隱匿物資をなほ多く持つてゐるのです。淸廉な黄法師氏の眼をかすめ、諸君をあざむいて、諸君のものたるべきものをこつそりと隱しおました。鯉、鮒、鯰、山椒魚、蝦、茄子、胡瓜、あらゆるものが某所にうづたかく隱してあります。わたくしは旱魃がはじまり、食餌が缺乏しはじめてからこつそりと一人それを腹に入れてをりました。しかし表面は諸君と同樣、空腹のため疲弊しはててゆくふりをして、野望のとげられる日を狙つてゐたわけです。

 救世主として名乘りでたわたくしではありますが、わたくしごとき非力不才の者になんの諸君を救ふ力などありませう。この危機を救ふためには雨さへ降ればよいのです。しかしながら、雨を降らせる力などわたくしにあるわけもないではありませんか。炎々と燃え照りつけて來る太陽はわたくしの敵としてあまり巨大すぎます。その光を減じる術も、これを天空から退去せしめる力もわたくしにはありません。偉大な自然の法則によつて西に沒し、夜が來たときだけ、わたくしたちはわづかにほつとするのですが、そのときすでに、明日迎へる太陽の恐怖があるわけです。さうして沼は乾燥して魚は死滅し、岩はひ割れ、樹木も野花も菜も枯ればてました。このときわたくしが諸君を救ふ唯一の方法はわたくしのひそかに隱しもつた物資を諸君にあたへることのみでした。しかし、わたくしは邪心にわざはひされて、それをわたくしの野望達成の餌にしようとたくらんだのです。恩にきせてすこしづつ諸君に食物をあたへる。諸君は私に感謝して、私を沼の統領とすることに贊成する。筋書は簡單なものでした。突如として赤法師君が名乘りをあげなかつたならば、筋どほりに運んだことでせう。……意外の結果になりました。

 しかし、このわたくしの破綻をわたくしは喜びます。むしろ赤法師君に感謝いたします。いまわたくしの心からは野望も傲慢も消えはてました。わたくしは謙虛に諸君のまへに手をつきます。わたくしは、泥棒です。わたくしをどうにでもして下さい。さあ、石を投げて下さい。蹴つて下さい。踏んで下さい。……

 わたくしは立候補をとり下げます。わたくしのごとき卑劣漢がどうして皆さんの統領たるの資格がありませう。僭上(せんじやう)の沙汰でした。私の隱したものはこの裏山の洞穴(ほらあな)のなかにあります。それは皆さんのものです。おそらくこの後、旱魃が百日つづいても、皆さん全部の命を支へるに足りませう。どうぞ自由にそれを食べて、大切な命をつないで下さい。

 赤法師君、お聞きのとほりだ。僕は立候補をとり下げる。君が眞に仲間を救ふ方途を知つてゐるのなら、どうぞ、仲間のためにその道を講じてくれ。……おや、赤法師君はどこに行つたんだ? さつきまでゐたのに、……をかしいな、どこにもゐない。……赤法師君を知りませんか。どうしたのだらう。逃げたのかな?……さてはあいつも俺と同じ考へだつたのか。……さうか。……おや、あれはなんだ。山の端になにか黑いものが出た。雲だ。黒雲だ。……みるみる、ひろがつて來る。靑空が掩はれてゆく。太陽までかくしてしまつた。暗くなつた。風が出てきたぞ。……あ、雨だ、雨が降つて來る……雨が降りだした。……

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(2)

 ヨーロッパから朝鮮までに産する蛙の一種に背は普通の色であるが、腹には一面に美しい朱色または橙色の斑紋のあるものがある。形は「ひきがへる」に似て更に小さく、運動も餘り活發ではないが、敵に遇ふと急に轉覆して腹面を上にし、且反り返つて腹面を態々押し上げ、四足をも曲げて、極めて奇態な姿勢を取る癖があるから初めて見る人は如何にも不思議に思ふ。これも恐らく一時敵を驚かせ、氣味惡く思はせて危難を免れるための習性であらう。

[やぶちゃん注:ここにしめされたカエルは、両生綱無尾目ムカシガエル亜目スズカエル科スズガエル属 Bombina に属する種群を指していると考えてよい。これらは文字通り、ヨーロッパから朝鮮半島までを生息域とする。但し、この全域を生息域とする「種」は存在しない。ヨーロッパ域では、

ヨーロッパスズガエル Bombina bombina → 画像

 *体長は五・五センチメートル、腹面はオレンジや黄色に不規則な黒斑と白い斑点が入る。

キバラスズガエル Bombina variegata → 画像

 *体長四~五センチメートル、腹面は黄色やオレンジに不規則な小型黒斑が入る。

が、朝鮮半島・中国東北部・沿海州では、

チョウセンスズガエル Bombina orientalis → 画像

 *体長四~五センチメートル、腹面は鮮紅色に黒斑が入る。

を挙げておけば、本記載の注としては充分かと思われる。それぞれの画像は特に示さないが海外サイトの中から腹面がよく分かる画像を選んでリンクさせた(両生類のイモリの腹のようなのが生理的にダメな人は見ないがよろしい)。]

芥川龍之介漢詩全集 十四

   十四

 

即今空自覺

四十九年非

皓首吟秋霽

蒼天一鶴飛

 

〇やぶちゃん訓読

 

 即今 空しく自覺す

 四十九年 非なるを

 皓首(かうしゆ) 秋霽(しうせい)を吟じ

 蒼天 一鶴 飛ぶ

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この九月一日に龍之介は海軍機関学校への通勤の便から下宿を横須賀市汐入に移している。この前後、同僚の佐野慶造・花子夫妻との交流が深まっているが、私はこの佐野花子なる女性に対して龍之介は、ある種の恋愛感情を持っていたと確信している。彼女については多くの評者は、これを後の彼女の神経症的な思い込みに過ぎないと切り捨てているが、私はそうは思わないのである。月光の女以下、数篇の私のブログでの考察をお読み頂けると幸いである。

この漢詩は二つの書簡に同じものが載る。一つは、

Ⅰ 大正六(一九一七)年八月二十一日附菅虎雄宛(岩波版旧全集書簡番号三一一)

今一つは、前の(十三)乙を併載する(本詩を先に記す)、

Ⅱ 大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)

である。Ⅰの宛名人菅虎雄(元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者。五高教授であった時、親友夏目漱石を招聘した。明治三四(一九〇一)年一高教授となり、その時の教え子に芥川竜之介や菊池寛らがいた。号を無為・白雲・陵雲などという能書家としても知られ、漱石の墓碑銘や芥川の「羅生門」の題字、芥川自宅書斎の「我鬼窟」の扁額なども彼の筆になる。龍之介より二十八歳年上の恩師である。当時、満五十三歳。

菅へのⅠには、

こなひだ迄原稿で忙しうございましたが今は甚泰平な日を送つて居ります詩を一つつくりましたから御笑覧に入れませう

として本詩を示し、

二十六年の非では引立ちませんから少々かけ値をして四十九年と致しました勿論皓首と申す程白髮などはございません鶴は私の宅の近所へよく來る白鷺を少し高尚にしたのでございます 頓首

とある。一方、盟友井川宛てのⅡには、手紙末に本詩を二段組で配し、承句の上に右に向かって音楽記号のスラーのような丸括弧を打って、句の右側に、

二十六年非ぢや平仄が合はない

と記して、菅宛とは異なった技術的な弁解を述べている(こっちが事実らしく見える)。その後に、

隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ

と書いて、(十三)乙が示されている。但し、その文面は(十三)甲の短い添書きと比すと雰囲気に遙かにゆとりが感じられるように思われる。その微妙な変化がこの詩にも反映しているようにも私には思えるのだが、如何か?……しかし……別な意味で、私はこの詩が気になるのである。……「四十九」は……本当に平仄や箔附けのつもりだったのだろうか? 龍之介は実際、この瞬間に自身の二十三年後(数え)の姿を幻視してはいなかったろうか? 僅か十年の後の同じ夏に、自らが自らの命を絶って、幽冥界の蒼天へと一羽の鶴の如く飛び去ってゆくことを……知らなかったにしても……。

「皓首」白髪頭。

「秋霽」秋の雨後の雲霧が晴れすっきりと晴れ渡ること。邱氏は『秋の虹』と注されているが、雨後の快晴なら虹も立つとは言えようが、「廣漢和辭典」にもそのような意味は「霽」に載らず、採らない。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート8〈泰衡斬られ〉 了

出羽國も破られて、田川、秋田討たれたり。大將泰衡は玉造郡に赴き平泉の館(たち)に歸りしかども、宗徒(むねと)の郎等悉く討ほされて叶ふべくもあらざりければ、火を掛け、一片の烟と燒上(やきあ)げ、跡を暗(くらま)して逃亡す。哀なるかな、平泉の館は淸衡より以來(このかた)、三代の舊跡として桂の柱・杏(からもゝ)の梁(うつばり)・麗水(りすゐ)の金(こがね)を鏤(ゑ)り、昆山(こんざん)の玉をちりばめ、作磨(つくりみが)きし館舍なるに、姑蘇城(こそじやう)一片の煙に和し、咸陽宮(かんやうきう)三月の火に化しける運命の程こそ悲しけれ。賴朝、諸方に軍兵を遣して尋搜(たづねさが)さるる所に、泰衡、一旦の命を助からんとて夷嶋(えぞがしま)に赴き、厨河(くりやあがは)の邊に忍行(しのびゆ)きけるを、譜代の郎等河田次郎、忽に舊好(きうこう)の恩を忘れ、泰衡を討(うつ)て、首を賴朝に奉り、 降人に出たり。主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎(は)ね、出羽、奥州を治めて、鎌倉に歸陣あり。

[やぶちゃん注:〈泰時斬られ〉

冒頭は「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十三日の条に基づく。

〇原文

十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。打入出羽國。泰衡郎從田河太郎行文。秋田三郎致文等梟首云々。今日。二品令休息于多賀國府給。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日庚子。比企藤四郎・宇佐美平次等、出羽國へ打ち入る。泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。

今日。二品、多賀國府に休息せしめ給ふ。

「杏(からもゝ)」バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca

「麗水の金を鏤り、昆山の玉をちりばめ」宋代の僧文瑩の「湘山野録」にある「崑山出玉」及び「麗水生金」に基づく故事成句を下敷きとする。「崑山」は中国西方の伝説上の霊山で西王母の居所で美玉の産地と言われた崑崙山、「麗水」は湖北省にある川名前で砂金を産することで知られたが、これは「崑山、玉を出だし、麗水、金を生ず」で、優れた家系や立派な親からは立派な人物や子が生まれることの譬えであり、ここは失われた藤原三代の栄枯盛衰の懐旧の情を詠んでいるのである。

「姑蘇城一片の煙に和し、咸陽宮三月の火に化しける」「姑蘇城」呉王夫差の居城。越王勾践による復讐戦で焼け落ちた。「咸陽宮」戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。後に始皇帝が宮廷として荘厳美麗なる要塞であったが、項羽によって焼き払われた。その火は三ヶ月に渡って燃え続けたと伝えられる。

「泰衡一旦の命を助からんとて夷嶋に赴き……降人に出たり。」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月三日の条に基づく。

〇原文

三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。

 陸奥押領使藤原朝臣泰衡。〔年卅五〕

 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部小輔藤原基成女

 文治三年十月。繼於父遺跡爲出羽陸奥押領使管領六郡

〇やぶちゃんの書き下し文

三日庚申。泰衡、數千の軍兵に圍まれ、一旦の命害(みやうがい)を遁(のが)れんが爲、隱るること鼠のごとく、退くこと、鶃(げき)に似たり。夷狄(えぞ)が嶋を差して糠部郡(ぬかのぶのこほり)へ赴く。此の間、數代(すだい)の郎從河田次郎を相ひ恃(たの)み。肥内郡贄柵(ひないのこほりにへのさく)に到るの處、河田、忽ち年來の舊好を變じ、郎從等をして泰衡を相ひ圍ましめ、梟首せしむ。此の頸を二品に献ぜんが爲、鞭を揚げ參向すと云々。

 陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五。〕。

 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡が次男、母は前民部小輔藤原基成が女。

 文治三年十月、父の遺跡を繼ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領す。

・「鶃」国史大系版では(へん)と(つくり)が左右逆転しているが、これが本字。水鳥の一種とする。「博物志」には『雌雄相視則孕』(雌雄、相ひ視れば則ち孕む)などとあるから想像上の妖鳥かとも思われるが、この字には単に、鳥の子・幼鳥の意味があるから、ここはそれであろう。

・「糠部郡」かつて陸奥国にあった旧糠部郡(ぬかのぶぐん)。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた広大な地域を指す。

・「肥内郡贄柵」現在の大館市比内町に比定されている。

 

「主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎ね」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月六日の条に基づく。

〇原文

六日癸亥。河田次郎持主人泰衡之頸。參陣岡。令景時奉之。以義盛。重忠。被加實檢上。召囚人赤田次郎。被見之處。泰衡頸之條。申無異儀之由。仍被預此頸於義盛。亦以景時。被仰含河田云。汝之所爲。一旦雖似有功。獲泰衡之條。自元在掌中之上者。非可假他武略。而忘譜第恩。梟主人首。科已招八虐之間。依難抽賞。爲令懲後輩。所賜身暇也者。則預朝光。被行斬罪云々。其後。被懸泰衡首。康平五年九月。入道將軍家賴義獲貞任頸之時。爲横山野大夫經兼之奉。以門客貞兼。請取件首。令郎從惟仲懸之。〔以長八寸鐵釘。打付之云々。〕追件例。仰經兼曾孫小權守時廣。時廣以子息時兼。自景時手。令請取泰衡之首。召出郎從惟仲後胤七太廣綱令懸之。〔釘同彼時例云々。〕

〇やぶちゃんの書き下し文

六日癸亥。河田次郎、主人泰衡の頸を持ち、陣岡(じんがおか)に參じ、景時をして之を奉らしむ。義盛、重忠を以て、實檢を加へ被るの上、囚人赤田次郎を召し、見らるるの處、泰衡が頸の條、異儀無きの由を申す。仍つて此の頸を義盛に預け被る。亦、景時を以つて、河田に仰せ含められて云はく、「汝が所爲(しよゐ)、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡を獲(う)るの條、元より掌中に在るの上は、他の武略を假(か)るべきに非ず。而るに譜第の恩を忘れ、主人の首を梟(けう)す、科(とが)、已に八虐を招くの間、抽賞(ちうしやう)し難きに依つて、後の輩を懲らしめんが爲に、身の暇(いとま)を賜る所なり。」てへれば、則ち朝光に預け、斬罪に行はると云々。

其の後、泰衡が首を懸けらる。康平五年九月、入道將軍家賴義、貞任の頸を獲(う)るの時、横山野大夫經兼が奉(うけたまは)りとして、門客貞兼を以つて、件の首を請け取り、郎從惟仲、之を懸けしむ。〔長八寸の鐵釘を以つて、之を打ち付くと云々。〕件の例を追ひて、經兼が曾孫小權守時廣に仰す。時廣が子息時兼を以つて、景時が手より、泰衡の首を請け取らしめ、郎從惟仲が後胤、七太廣綱を召し出して、之を懸けしむ。〔釘、彼の時の例に同じと云々。〕

・「八寸」約二十四センチメートル強。

 

「鎌倉に歸陣あり」頼朝の鎌倉帰着は「吾妻鏡」によれば文治五(一一八九)年九月二十八日である。但し、次の「無量光院の僧詠歌」には帰鎌以前の奥州での検分の内容が混入している。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 杉本観音/犬翔谷/衣張山

   杉本觀音

 金澤海道封國寺ノ西南ニアリ。順禮ノ札所第一ナリ。天台宗ニテ始ハ山伏ナリシガ、今ハ淸僧トナル。杉本寺ト云。額子純ト名アリ。山號ハ大藏山ト云。開山行基、賴朝再興、叡山ノ末寺也。寺領五石六斗アリ。中尊ノ十一面觀音ハ慈覺ノ作、右ノ十一面觀音ハ行基ノ作、左ノ十一面觀音ハ惠心ノ作也。三躰トモニ神佛ナリト云。又其前二十一面觀音運慶作。釋迦唐佛也。昆沙門澤間法眼ノ作也。運慶ト云モ、澤間法眼ト云モ實ハ一人也。初叡山二在テ僧ノ時ハ運慶ト云、後佛師ニ成テ敕許有テハ澤間法眼ト呼ブ。實ハ二名一人也ト云ト住僧語リ侍リヌ。東鑑ニ、文治五年十一月廿三日、夜二人リ大倉觀音堂燒亡。別當當臺上人燒亡ヲ落涙シ、堂ノ砌ニ至リ、堂ノ内へ走リ入リ本尊ヲ出ス。衣ハ悉クヤケ、身體ハ敢テ無恙(恙無し)ト云リ。

[やぶちゃん注:「封國寺」は「報國寺」の誤り。

「澤間法眼」は既注の通り、「宅間法眼」の誤りであるが、この運慶=宅間法眼説は初耳であるが、作風も異なり、信じ難い。

「別當當臺上人」は「別當淨臺上人」(「吾妻鏡」には「淨臺房」とする)の誤り。]

 

   犬翔谷〔或曰、衣掛谷〕

 杉本ノ西南ノ谷ナリ。

 

   衣張山〔或犬カケ山トモ云〕

 犬翔谷ノ上ノ山ナリ。鎌倉中ノ高山ナリ。昔此所ニ比丘尼寺アリシニ、彼比丘尼松クイニ掛衣(衣を掛け)サラセシガ、其松枝葉繁榮シテ、今上ノ山ニ松ノ大木二本アルヲ云ト也。亦短册ノ井トテアリ。西ノ方ニ大石ノ角ナルアリト云。

[やぶちゃん注:「短册ノ井」「大石ノ角」不詳。これは今は全く伝承されていない失われた古跡名と思われる。凄い! 万一、御存じの方があれば是非、御教授を乞うものである。]

耳囊 卷之五 蜂にさゝれざる呪の事

 

 蜂にさゝれざる呪の事

 

 蜂を捕へんと思はゞ、手に山椒の葉にても實にてもよく塗りて、とらゆるにさす事叶はず。たとへさしても聊か疵付(きずつき)いたむ事なし。是に仍て蜂にさされ苦しむ時、山椒をぬりて附れば立所に痛を止むる名法の由、人の語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:珍しい昆虫関連呪(まじな)い連関。民間療法談でもあるが、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum  には、木の枝や根茎付近にアシナガバチやキイロスズメバチなどが普通に巣を掛ける(私の家には山椒の大木があり、両者ともに実は実見しているのだ)ので、この前半の叙述は私には到底、信じ難い。但し、蜂刺傷の効用については、現在の漢方系のネット上の記載に、民間療法と断った上で、葉を揉んでその汁をすりつけると即座に痛みが止んで腫れが消える、とはある。正式な生薬としては、果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つする。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。日本薬局方に収載されている苦味チンキ、正月の薬用酒屠蘇の材料でもあり、果実の主な辛味成分はサンショオールとサンショアミド。他にゲラニオールなどの芳香精油・ジペンテン・シトラールなどを含んでいる(以上の薬効部分はウィキサンショウ」に拠った)。だいたい「さす事叶はず。たとへさしても」という論理展開自体が、如何にも怪しいのである。試されるなら自己責任で。私なら、絶対、やらない。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 蜂に刺されない呪いの事

 

 蜂を捕まえようと思うならば、手に山椒の葉でも実でもよいから、それを揉み砕いた汁をよく塗って、やおら捕まえると、これ、蜂は刺すことが出来ない。たとえ、刺したとしても、これ、全く腫れたり痛んだりすることは、ない。これによって、仮に蜂に刺されて苦しむ時にも山椒を塗付すれば、これ、たちどころに痛みを止めることが出来る妙法である――との由、人の語ったままに記しおく。

 

一言芳談 二十三

   二十三

 

 又云、眞實にも後世をたすからむと思はんには、遁世が、はや第一のよしなき事にてありけるとぞ。

 

〇明禪法印云、ことごとしく遁世だてをあらはすがあしきなるべし。

〇第一のよしなきとは、或は世上の憂苦にあひ、ふつつかに思ひすて、ほだしなき身となり、後かへりて、それしやとなりて、名利をこのみ、山ふかくすみ薪かり木こるも、人の見るめをおどろかす事、遁世者のやゝもすれば有事なめり。北山の移文つくりしも、おもひあはされぬ。まこと道をおもはば、心こそ道。心こそ山。心こそ師にて有なれば、たゞ物にかかはらず、世におしうつりて、しかもそまざるがよきとの心を、第一のよしなき事といへり。(句解)

 

[やぶちゃん注:岩波版の「句解」の引用は「まこと道をおもはば」以下の部分引用であるため、幸い全文(と思われる)を引かれている大橋氏の脚注をもとに完全復元した。

「ほだし」「絆(ほだ)し」で馬の足に絡ませて歩けないようにする綱が原義であるが、転じて、人の身の自由を束縛するもの、行動の障害となる対象を指す語となった。

「それしや」は恐らく「其者」で、その道に通じた専門家、即ちここでは最も悪しき売名者たる「遁世僧」になることを言うのであろう。『やゝもすれば有事なめり』には、「一言芳談句解」板行当時(貞享五(一六八八)年)には、こうした「似非遁世」僧が目に余るほどに多かった――いや、そんな僧ばかりであった――という編注者祖観元師の苦い思いが感じられる。

「北山の移文つくりし」とは、「文選」巻四十三に載る南斉の孔稚珪「北山移文」に基づく故事を指す。原話は本来、山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを非難する寓話である。六朝の時代、周顒(しゅうぎょう)は隠者として鍾山(しょうざん)、別名北山に棲んでいたが、斉の朝廷から招聘されるや、下山して県令となった。それを聴き及んだ清廉淳直の人孔徳璋(こうとくしょう 四四八~五〇二)はそれを聴き及ぶや、顒が隠逸の志を変節して俗悪な官僚となり下がったことを軽蔑し、この「北山移文」を書いて、顒の鍾山入山を禁じたというものである。その書式は官符の通達文書に則ったもので、周顒のような節操なき人間が本山を通ると山川草木が汚れるから立ち寄ることを許さぬ、という激烈な内容である。現在、「北山移文」は「厚顔無恥」と同義の故事成句となっている(「福島みんなのニュース」の今日の四字熟語八重樫記載や中文サイトなどの複数ソースを参照した)。

「まこと道をおもはば、心こそ道。心こそ山。心こそ師にて有なれば、たゞ物にかかはらず、世におしうつりて、しかもそまざるがよきとの心を、第一のよしなき事といへり」印象的な言葉である。老婆心乍ら、そうした心の境地にあることが何より「よきとの心を」(よいという真意を示すために)、明禅法印は、ここで殊更の遁世なんぞというものは「第一のよしなき事」であると「いへり」という解なのである。]


「一言芳談」のテクスト・ポリシーを書き換えたので、購読されている方は、再度、お読み戴ければ幸いである。

年の夜の眺めとなりぬ竈の火

年の夜の眺めとなりぬ竈の火

420000アクセス記念テクスト予定変更のお知らせ

予定していた「芥川龍之介漢詩全集」は、作業をする内、そう容易く仕上げることが困難であることが分かった(それだけ作業中にテンションが高まった)。
また、HP一括版では、ブログ版にはない、ある人物に依頼して、ある特別な仕儀を加えることに決している。
そのためにもゆっくらとした時間がどうしても必要である。

そこで、「芥川龍之介漢詩全集」一括HP版を420000アクセス記念テクストとすると言った予告を変更することとする。

代わりのテクストは……昨夜から徹夜をし、今、何とか出来上がった……芥川龍之介ではない……

近代小説……デレッタントな怪談……勿論、やぶちゃんの注附き……これぐらいにしておこう……お楽しみ、お楽しみ……♪ふふふ♪

因みに現在のアクセス数は――418066――

2012/11/27

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(1)

       四 嚇かすこと

Kaniikaku

[「かに」が威嚇する態]

 

 敵が攻めて來たときにまづ示威的の擧動を示してこれを退けんとするものがある。鼠の如き小さなものでも、追ひ詰めると嚙み附きさうな身構へをして、一時敵を躊躇させ、その間に隙を窺つて急に逃げ出すが、大概の動物はこれに似たことをする。龜や貝類の如き厚い殼を具へたもの、「くらげ」・珊瑚・海綿の如き神經系の發達して居ないものなどは別であるが、その他の動物は、たとひ日頃弱いものでも危急存亡の場合には威嚇的の態度をとるもので、それが隨分功を奏する。折角摑まへた蟲が食ひ附きさうにするので驚いて手を放し、蟲に逃げられてしまふといふやうなことは、動物を採集する人でなくとも、子供の頃の經驗でよく知つて居るであらう。「べんけいがに」や「いそがに」なども、これを捕へようとすると兩方の鋏を差上げ、廣く開いて今にも挾みさうにしながら逃げて行く。「えび」の類も敵に遇ふと、その方へ頭を向け威張つて睨みながら徐々と退却する。また敵を嚇かすには身體を大きく見せて威嚴を整へることが有功であるから、「ひきがへる」などは敵が來れば空氣を腹に呑み入れて、體を丸く膨ませる。「ふぐ」類が食道に空氣を詰め込んで、球形に膨れるのも、やはり護身を目的とする一種の示威運動である。

[やぶちゃん注:「べんけいがに」軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾)カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Sesarmops intermedium

「いそがに」イワガニ上科モクズガニ科 Varuninae 亜科イソガニ Hemigrapsus sanguineus。岩礁や転石海岸の潮間帯・潮下帯に棲息し、我々が海で見かける最も一般的なカニの一種。]

Ganoyoutyuu

[蛾の幼蟲]

 

 この種の運動で特に面白い例は蝶蛾類の幼蟲に見られる。「すずめてふ」〔スズメガ〕・「せすぢすずめ」などの幼蟲は大きな芋蟲であるが、その中の一種では頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである。子供らはこれを目といふが、無論眞の眼ではない。しかし敵に遇へば、この芋蟲は體の前部を縮めて短く太くするから、以上の斑紋は恰も眼玉であるかのやうに見え、全體が怒つた顏のやうになる。小鳥や「とかげ」などは驚いてこれを啄むことを斷念し、よそへ餌を求めに行くから、芋蟲は命を拾ふことになる。或る人が試にこれを鷄に與へた所が、牡雞でもこれを啄むことを躊躇したものが幾疋もあり、終に一匹が勇を鼓してこれを食ひ終つた。されば強い敵に對しては、一時これを躊躇せしめるだけの功よりないが、稍々小さな敵なればこれを恐れしめて首尾よくその攻撃を免れることが出來る。かやうな蛾の幼は眼玉の如き斑紋のないものでも、敵に會へば急に體の前部を縮めて太くしたり、反り返つて腹面を見せたりして、敵を嚇かさうと試みる。

[やぶちゃん注:「すずめてふ」昆虫綱鱗翅(チョウ)目スズメガ科 Sphingidae に属する種群を指しているように思われる。なお、同科は、

 ウチスズメ亜科 Smerinthinae

 スズメガ亜科 Sphinginae

 ホウジャク亜科 Macroglossinae

に分かれ、世界では一二〇〇種ほどが知られている。成虫・幼虫共に比較的大型になり、成虫の四枚の翅は体に対して小さく、三角形になっていて、高速で飛行する。また同科の幼虫は「尾角」と呼ばれる突起を持っており、ウィキスズメガ」には、『体型は非常に特徴的で、多くが腹部の末端に「尾角」と呼ばれる顕著な尾状突起を有している。その為英語圏ではスズメガの幼虫を horned worm (角の生えた芋虫)と称す。尾角の形状・色は種類によって異なるが、その用途は良く分かっていない』とするが、『体色は多様で、食草に良く似た緑色をしたものや褐色のもの、黒色のものなどが存在する。また、同じ種の幼虫でも同じ体色を有すとは限らず、個体差が顕著に現れる事も多い。例えばホシヒメホウジャク Neogurelca himachala sangaica やエビガラスズメ Agrius convolvuli、モモスズメ Marumba gaschkewitschii echephron などは、個体により顕著な体色の相違が現れる。また、ビロードスズメ Rhagastis mongoliana などの幼虫は眼紋を腹部に持つ』とある。みんなで作る日本産蛾類図鑑ビロードスズメ Rhagastis mongoliana (Butler, 1875)のページにある強烈な幼虫画像と本書の上記挿絵を比較すると、非常に良く似ており、丘先生がここで「頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである」というのは、このビロードスズメ Rhagastis mongoliana である可能性が極めて高いものと思われる。少し意外なのはウィキの記載が尾角の機能を『良く分かっていない』とするところであるが、一般に蝶や蛾の眼紋が一種の擬態であることは広く知られているので、ここは突っ込まないことにしたい(昆虫類は既に述べている通り、私の守備範囲でなく、実は生理的に苦手でもあるので)。

「せすぢすずめ」スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae oldenlandiaeウィキセスジスズメ」によれば、『成虫はハンググライダーのような翼形をした、茶色いガで』、前翅に暗褐色と肌色の帯が入り、背中には二本の肌色の筋が縦に走る。『幼虫は、いわゆるイモムシと表現される体型で、全体が黒っぽく、気門より少し背側にオレンジか黄色の連続した眼状紋を持つ。付け根がオレンジで先端が白い尾角を持ち、歩く時は尾角を進行方向に平行に振る。非常に珍しいが、黄緑色の幼虫も存在する』とある(リンク先に眼紋の鮮やかな幼虫の写真有り)。『セスジスズメの幼虫は作物の葉を食い荒らす害虫であり、成長スピードが非常に早く、数日で数倍の大きさに成長』し、数日にして『畑が全滅することもある』と記す。]

Utisuzume

[うちすずめ]

 

「うちすずめ」と稱する蛾は、後翅に蛇の目狀の大きな黑い斑紋がある。翅を疊んで居るときは、前翅に被はれて居て少しも見えぬが、敵に遇ふと急に翅を二對とも廣く開くから、後翅の表面が現れ、遽に紅色の地に大きな眼玉の如きものが二つ竝んで見えるので、小鳥などは膽を潰して逃げる。これも強い敵をも防ぐといふわけには行かぬが、一部の敵に對しては十分に身を護るの役に立つことである。蛾の類には、前翅が目立たぬ色を有するに反し、後翅が鮮明な色彩と著しい斑紋とを呈するものが隨分多いから以上の如きことの行はれる場合は決して稀ではなからう。

[やぶちゃん注:「うちすずめ」スズメガ科ウチスズメ亜科ウチスズメ Smerinthus planus planusみんなで作る日本産蛾類図鑑ウチスズメ Smerinthus planus planus Walker, 1856の解説と画像を参照されたい。こりゃ、凄いわ。]

芥川龍之介漢詩全集 十三

   十三 甲

 

心靜無炎暑

端居思渺然

水雲涼自得

窓下抱花眠

 

〇やぶちゃん訓読

 

 心 靜かにして 炎暑 無く

 端居(たんきよ)して 思ひ 渺然(べうぜん)

 水雲 涼として 自(おのづ)から得たり

 窓下 花を抱きて眠る

 

     十三 乙

 

  心情無炎暑

  端居思渺然

  水雲涼自得

  窓下抱花眠

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   心情 炎暑 無く

   端居して 思ひ 渺然

   水雲 涼として 自から得たり

   窓下 花を抱きて眠る

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。(十二)以降の出来事では、五月二十三日に第一作品集「羅生門」を阿蘭陀書房より刊行したことが特記される(漱石門下木曜会メンバーである評論家赤木桁平(池崎忠孝)の紹介による。以下、ご覧の通り、本漢詩は彼に贈られている)。

「甲」は大正六(一九一七)年八月十五日附赤木桁平宛(岩波版旧全集書簡番号三〇九)所載。

「乙」は大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)所載。

赤木桁平宛では、

ボクは中々小説が出來ない十五日の〆切をのばして貰ひさうだ惡詩を一つ獻じる その中ゆく 頓首

  赤桁平先生淸鑒

として漢詩があり、次行末に

         學弟 椒圖道人百拜

とあるのが全文である。

ここで「〆切をのばして貰ひさうだ」った「小説」であるが、一つの可能性としては、この書簡を書いた後に辛くも完成、この日の締切に間に合った、という推理が成り立つ。その場合、ここで言う「小説」とは、この日に脱稿が確認されている、

大石内蔵助」

ということになる(発表は翌九月一日の『中央公論』)。――そうではなかったとすれば――これは、翌月九月八日に執筆が始まるところの、

戯作三昧」

とも考えられる(その場合、この時点では構想の段階ということになる)。新しい切り口の江戸物への脱皮を図る前者、芸術至上主義的創作家のイマジネーションの産みの苦しみを描く後者、何れであっても、『ボクは中々小説が出來ない』の質量は途轍もなく重いのである。

因みに、書簡中の「椒圖道人」という雅号は、龍之介の私的な怪談記録帖椒圖異」に基づく(リンク先は何れも私の電子テクスト)。

 「十三 乙」の載る書簡には次の(十四)が載り、(十四)の詩を掲げた後に、『隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ』として、本詩を記している。この場合、『隱情盛な時に作つた詩』という条件は、自然、本詩へも作用するものとして龍之介は述べていると考えてよい。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート7〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

國衡は城を出でて、出羽の道より大關山を越える所に、和田小太郎義盛、大高宮(おほだかみや)の邊にして追詰めければ、國衡深田に馬を入れて打てども上(あが)らず、終に首をぞ取られける。金十郎、勾當(こうたう)八、赤田次郎が籠りし根無藤(ねなしふぢ)の城も落ちて郎等或は討死し、勾當八、赤田以下三十餘人は生捕(いえどら)る。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き、残り総てを示しておく。

〇原文

十日丁酉。(前略)

又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳拔于先陣。及昏黑。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挾十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕號高楯黑也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等彌得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。彌結烏合之群。於根無藤與四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗績。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岡百度詣。是奥州追討御祈精也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。(前略)

又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。其の後退散の武兵等、泰衡の陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗の由、之を告ぐ。泰衡、周章し度を失ひて逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦、逐電す。二品、其の後を追はしめ給ふ。扈從の軍士の中、和田小太郎義盛、先陣に馳せ拔け、昏黑(こんこく)に及びて、芝田郡大高宮邊に到る。西木戸太郎國衡は、出羽道を經て、大關山を越えんと欲す。而して今、彼の宮の前路の右手の田の畔(あぜ)を馳せ過ぐ。義盛、之を追ひ懸け、返し合はすべしの由を稱す。國衡、名謁(なの)らしめ、駕を廻らすの間、互ひに弓手(ゆんで)に相ひ逢ひ、國衡、十四束の箭(や)を挾み、義盛、十三束の箭を飛ばす。其の矢、國衡、未だ弓箭(きゆうせん)を引かざるに、國衡の甲(よろひ)の射向(いむけ)の袖を射融(いとほ)して、膊(かひな)に中(あた)るの間、國衡は疵を痛みて開き退く。義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く。時に重忠、大軍を率して馳せ來たり、義盛・國衡の中を隔つ。重忠が門客、大串次郎、國衡に相ひ逢ふ。國衡、駕する所の馬は、奥州第一の駿馬〔九寸(くき)。〕高楯黑(たかだてぐろ)と號すなり。大肥満の國衡、之に駕し、毎日必ず三ケ度、平泉の高山へ馳せ登ると雖も、汗を降(くだ)さざるの馬なり。而るに國衡、義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣(さしお)きて、深田に打ち入るの間、數度、鞭を加ふと雖も、馬、敢へて陸(くが)に上(あが)る能はず。大串等、彌々理を得、梟首す。太だ速かなり。亦、泰衡が郎從等の金十郎・匂當(こうたう)八・赤田次郎を以つて、大將軍と爲し、根無藤(ねなしふぢ)邊に城郭を搆へるの間、三澤安藤四郎・飯富源太已下、猶ほ追ひ奔り攻め戰ふ。凶徒、更に雌伏の氣無し。彌々烏合(うがふ)の群を結び、根無藤と四方坂の中間に於いて、兩方の進退、七ケ度に及ぶ。然るに、金十郎、討ち亡ぼさるるの後は、皆、敗績す。匂當八・赤田次郎已下、生け虜らるもの卅人なり。此の所の合戰、無爲(ぶゐ)なるは、偏へに三澤安藤四郎の兵略に在る者なり。

今日鎌倉に於いて、御臺所、御所中の女房數輩を以つて、鶴岡へ百度詣で有り。是れ、奥州追討の御祈精なりと云々。

 

・「昏黑」日没。日が暮れて暗くなることをいう。

・「芝田郡大高宮」現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部にある大高山神社付近。個人のHP「畑の中の地元学」の「藤原国衡終焉の地はブルベリー農園?」に当該地の紹介がある。

・「大關山」「角川日本地名大辞典」は笹谷峠とする。「奥の細道」に出る有耶無耶関跡があることで知られる難所。宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高は九〇六メートル。

・「射向の袖」鎧の左側の袖。

・「開き退く」戦陣では「退く」は忌み言葉であることから退却することを「開く」と言った。その影響が叙述に出たものであろう。

・「義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く」これは、大将軍を討ち取るということになるため、義盛も――止めの二の矢をわざと難度の高い遠矢で射ることを選択し(恐らくは戦後の論功行賞で、より殊勲なる戦功に相当すると考えたからであろう)――矢を構えたままやや後退したため、両者退く格好となり、その間に有意な間隙が生じてしまったのである。

・「大串次郎」大串重親(生没年未詳)。武蔵国出身。『宇治川の戦いにおいて、川を渉る際に馬を流され、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという』(高校の古文ではかつて教科書に必ず載っていた名(迷)場面である)。『源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて引き返した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる』(以上はウィキの「大串重親」より引用した)。

・「九寸(くき)」「寸(き)」は馬の丈(背の部分までの高さ)を測るのに用いた語。長さは「寸(すん)」に同じ。標準となる四尺(約一二〇センチメートル)を略し、四尺一寸を「ひとき」、四尺二寸を「ふたき」、三尺九寸を「返りひとき」などと称した。これは四尺九寸、実に一五〇センチメートル弱となり、この高楯黑という名の馬(いい名だ)、当時の馬としては巨漢である。

・「道路を閣(さしお)きて」目的語が道路であるから、この「さしおく」の「おく」は、隔てるの意で、道を踏み違えたことを指す。以下の泥田にはまり込んで、首を掻かれる國衡のシーンは、無論、「平家物語」の義仲最期を意識している。

・「根無藤」現在の宮城県刈田郡蔵王町円田字根無藤。ネット上を見ると、この地名の由来には、前九年の役で劣勢となった安倍一族が陣を引き払う際、大将安倍貞任が公孫樹の根元に藤で出来た鞭を挿して去ったが、その藤が芽を出し、公孫樹に絡みつく大木となったという説と、いや、刺したのは勝利者となった源頼義だとする説などがあるようである。

・「四方坂」四方峠。現在の宮城県刈田郡蔵王町平沢及び柴田郡村田町足立にある。標高三四八メートル。

・「三沢安藤四郎」不詳。陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した安倍貞任の子孫を自称した安東氏(津軽安藤氏とも呼称)の関係者とも言われる。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 大塔宮土籠/サン堂/獅子谷/瑞泉寺/鞘阿彌陀

   大塔宮土籠

 覺園寺ノ東南ノ山根ニ有。二段ノ石窟ナリ。内ハ八疊敷計モアリ。穴深フシテ廣シ。大塔宮兵部卿親王ヲ足利直義ウケ取、鎌倉へ下シ奉リテ、二階堂ノ谷ニ土ノ籠ヲ塗テ入レ參ラスト云々。後終ニ亂起ニ及テ、東光寺ニテ害シ奉ルト。今石窟ノ前ノ畠ハ東光寺ノ舊跡也ト云。御首ヲバ捨置タリシヲ、理致光院ニ葬ト云ヘリ。是ヨリ東へ出テ行バ、石山ガ谷見ユル。天台山ノ南ノ谷ナリ。

[やぶちゃん注:「石山ガ谷」不詳。現在の永福寺跡の奥にある西ヶ谷、若しくはその北の亀ヶ淵の奥の杉ヶ谷、或いはこれらを総称する谷戸名か。]

 

   サ ン 堂

 土籠ノ北東ノ田ヲ云。田中ニウバコ石ト云小石アリ。

[やぶちゃん注:これは「山堂」で永福寺跡のこと。]

 

   獅 子 谷

 土龍ノ北ニ獅子岩トテ、唐獅子ノ如ナル石ノ見ユル峯ヲ云。此ヨリ田間ヲ行バ、四ツ石トテ石三ツ有。一ツハ流テ失タルト云。サン堂ノ礎石カト云フ。勝福寺ノ舊跡北ノ方ニ見ユ。永安寺ノ舊跡天台山ノ下ニ見ユル畠也。持氏最後ノ所也卜云。長者谷、天台山ノ少北ノ谷ヲ云。

 

   瑞 泉 寺

 號金屏山(金屏山と號す)。天台山ヨリ東南ノ間也。濟家宗ニテ關東ノ十刹也。寺領三十八貫文アリ。源基氏建立。開山ハ夢想國師也。本尊ハ釋迦、夢想國師ノ木像アリ。夢想ノ袈裟・輿等今ニ有トナン。過リ見ルニ及ズシテ谷ヲメグリ、岸ヲ束へ出テ鞘阿彌陀ヘユク。

[やぶちゃん注:当初は瑞泉院と号し、その開基は鎌倉幕府重臣二階堂道蘊(どううん)で嘉暦二(一三二七)年に夢窓疎石を招いて開山とし創建した。後に足利尊氏四男の初代鎌倉公方足利基氏が夢窓に帰依、当寺を中興して寺号を瑞泉寺と改めたものである。]

 

   鞘阿彌陀

 五峯山理致光寺ト額アリ。覺園寺ノ末也。今ハ道心者ノ僧居之(之に居す)。此山上ニ大塔ノ宮ノ石塔有。此寺ニテ宮ヲ葬タリト云。鞘阿彌陀卜云ハ、名佛ヲ腹中ニ作入タル故トナリ。願行ノ開基也。願行ノ大山ノ不動ヲ鑄(イ)タル蹈鞴(タヽラ)畠ト云ハ、理致光寺ヨリ西ノ土手ノ内也ト云。舊キ位牌ニ當寺開山勅謚宗燈意靜宗師ト有。此ヨリ細徑ヲ東南へ囘リ、金澤海道へ出ル。舊記ニ理致光院ハ淨光明寺ノ末卜云ハ誤也。且寺ヲ院ニ作モ誤ナリ。

耳嚢 巻之五 蜻蛉をとらゆるに不動呪の事

 蜻蛉をとらゆるに不動呪の事

 

 草木にとまる蜻蛉をとらへんと思ふに、右蜻蛉に向ひてのゝ字を空(くう)に書(かき)てさてとらゆるに、動く事なしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。なお、この捕獲法は「目を回させて」という点では生物学的に正しいとは言えない。昆虫は、その複眼の構造から比較的近距離の視界内の対象物が示す素早い動きに対しては非常に敏感に察知し、反応出来るようになっているが、逆にゆっくりとした動きは、実は殆ど察知出来ないとされているからである。但し、さればこそ、円運動を描きながらゆっくりと安定した姿勢で近づくこと自体には捕獲の科学的有効性が私には認められるように思われる。……ともかくも、この、古来から子供がずっと楽しんできた捕え方を――「迷信」の一語で切り捨てる言いをして憚らぬ輩は――これ、ただのつまらない大人でしかなく――puer eternus――プエル・エテルヌスの資格は――ない――

・「とらゆ」は誤りはない。「捕える」に同じ。他動詞ヤ行下二段活用の動詞で、ハ行下二段動詞「捕(とら)ふ」から転じ、室町時代頃から用いられていた。多くの場合、終止形は「とらゆる」の形をとった)

・「不動呪」「動かざる呪(まじなひ)」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蜻蛉を捕まえるに動けなくする呪いの事

 

 草木にとまる蜻蛉(とんぼう)を捕らえようと思うたら、その蜻蛉に向かって――「の」の字を空(くう)に書きながら……書きながら……捕まえるなら、これ、逃げられずに捕えることが出来ると申す。

一言芳談 二十二

   二十二

 

 明禪法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどのことは、大抵(おほむね)、せぬがよきなり。

 

〇しやせまし、せでやあらまし、なすべきかなやむべきかなり。兼好の詞(ことば)に、あらためて益なき事はらためざるをよしとすとありし、おなじ心なり。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、卜部兼好は「徒然草」第九十八段に、

尊きひじりの言ひ置きける事を書きつけて、一言芳談とかや名づけたる草子を見はべりしに、心にあひて覺おぼえしことども。

として、五条を引用、その冒頭に本条を、

 一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやう、せぬはよきなり。

として引用している(本作での順列上も筆頭になる)。曹景惠氏の「徒然草における『一言芳談』の受容について」(岡山大学大学院文化科学研究科紀要十九巻一号 二〇〇五年三月発行)によれば、原文と「徒然草」掲載のものとを比較した『稲田利徳氏は「第一条で、原文の、「おぼゆるほどの事」を「思ふこと」とするのは、現実の生活次元の問題にとらえてしまっている。原文の「しようかしまいかと迷う程度のことは」と、迷う対象の価値を問題にしているのとはずれる」と説かれている。「しようかしまいかと思うことはだいたいはしない方がよい」、というこの第一条は一見、消極的な生き方を勧めているかのようでもあるが、桑原博史氏は「しようかと思っている事柄は、多く人間の欲望心から生ずるものであり、「迷いの常体を脱するように心の欲望のままには行動しないこと」こそがこのこと言葉の意味するところであると解釈されている』。『稿者の理解はこの桑原氏の見解に近いが、さらに連れずれ草百二十七段の「改て益なきことは、改ぬを力とするなり」という文言や第百十段の「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。(中略)一目なりとも遅く負くべき手に就くべし」という叙述と、九十八段第一条の趣旨との間によく通い合うところがあることに留意して置きたい』とある。第百十段は兼好が双六の上手にその必勝法を問うたその答えに現われるもの。以下に全文を示しておく。

 双六の上手といひし人に、その手立(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か、疾(と)く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ひとめ)なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。道を知れる教へ、身を治め、國を保たん道も、亦しかなり。

老婆心乍ら注すると、「おそく負くべき手」とは、負けないように打つ――即ち、双六の戦略の中で、どの打ち方をしたら早く負けになってしまうだろうかという負けプロセスの手を読み、それの手を用いることなく――一目(いちもく)でも『遅く』負けそうな手に従う――のがよい、というパラドクシャルな謂いである。]

除夜の空わが靴音にわがありく 畑耕一

除夜の空わが靴音にわがありく

2012/11/26

芥川龍之介漢詩全集 十二

   十二

 

山閣安禪客

經牀世外心

空潭煙月出

處々聽春禽

 

〇やぶちゃん訓読

 

 山閣 安禪の客

 經牀(けいしやう) 世外(せいぐわい)の心

 空潭 煙月 出づ

 處々 春禽(しゆんきん)を聽く

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。前年七月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業、九月一日には正式な文壇デビュー作「芋粥」が『新小説』に掲載、「猿」「手巾(はんけち)」「煙草と悪魔」などを矢継ぎ早に発表して、瞬く間に文壇の寵児となっていた。また、八月二十五日には塚本文へプロポーズの手紙を書き、十二月には一日附で海軍機関学校の英語学教授嘱託となって、鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)に転居している(通勤尾便宜のためであるが、小説執筆のために田端と頻繁に往復しており、本書簡も田端発信である)。同月九日午後九時過ぎに夏目漱石逝去。また、同月には文と婚約が成立した。まさしく作家芥川龍之介の絢爛たるデビュウの只中の一首である。

大正六(一九一七)年三月二十九日附松岡讓宛(岩波版旧全集書簡番号二七九)所載。

松岡は『新思潮』の同人で盟友。この翌大正七年四月には漱石の長女筆子と婚約、結婚した。

 書簡は四ヶ月足らずで早くも『學校も永久にやめちまひたい氣がする』と愚痴り、『創作も氣のりがしない唯かうやつてボンヤリ生きてゐる丈でそれ丈で可成苦しいやうな氣がするそれ丈で生きてゐるやうな氣がする「偸盗」なんぞヒドイ』と、つい十四日前の三月十五日に脱稿(発表は翌四月一日の『中央公論』)したばかりの自作「偸盗」のひどさを具体にあげつらい、『僕の書いたもんぢや一番惡いよ一體僕があまり碌な事の出來る人間ぢやないんだ』とまで吐露している。ただその直後に、二度『熱が高くなつた時』『は死にさうな氣がしていやになつた死ぬとしたらアンマリくだらなすぎるから あんまり今までの僕のやり方が愚劣すぎるから 何だか考へも書くことも秩序立たないやうな氣がするまだ疲れてゐるせゐだらうそれでもこなひだ病間にサイして詩を一つ作つたよ』として、本詩を掲げている。詩の後には『それから詩をつくる氣にもなれない唯漫然と空バカリ見てゐる何だか情無くつていやになるよ』と手紙を締めくくっていることから分かるように、龍之介はインフルエンザに罹患し、職場も一週間程休んでいる。創作の産みの苦しみと病気のダブル・パンチがこの弱音には作用しており、詩にもそうした苦しい現実からの逃避願望が現われているとも言えよう。

「經牀」邱氏の注に『座禅をする場所』とある。

「世外」浮世を離れた場所。「せがい」とも読む。

「空潭」人気のない奥深い淵。この語と起承転句までは詩仏王維の知られた五律、

 

  過香積寺

 不知香積寺

 數里入雲峰

 古木無人徑

 深山何處鐘

 泉聲咽危石

 日色冷靑松

 薄暮空潭曲

 安禪制毒龍

 

   香積寺(かうしやくじ)を過(と)ふ

 知らず 香積寺

 數里 雲峰に入る

 古木 人徑 無し

 深山 何處(いづこ)の鐘ぞ

 泉聲 危石に咽(むせ)び

 日色 靑松に冷かなり

 薄暮 空潭の曲

 安禪 毒龍(どくりやう)を制す

 

の光景と禅味をインスパイアしている。

・「香積寺」長安の東南、終南山の山裾にある名刹。浄土教の祖善導所縁の地として知られる。

・「曲」は湾曲した流れの淵のほとり。

・「毒龍を制す」心中に蟠る妄念を「毒龍」とし、それを滅却した座禅する僧を配す。

 

「處々 春禽を聽く」これも言わずもがなであるが、孟浩然の、

 

   春曉

  春眠不覺曉

  處處聞啼鳥

  夜來風雨聲

  花落知多少

 

    春曉

   春眠 曉を覺えず

   處處 啼鳥を聞く

   夜來 風雨の聲

   花 落つること 知んぬ多少ぞ

の承句に基づく。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(7)/了


Mamehanmyou

[豆はんめう]

Sukannku

[スカンク]

 

 堅い甲でも、鋭い針でも、敵の攻撃を防ぐ器械的の裝置であるが、その他になほ、化學的の方法を用ゐて身を守るものがある。例へば「ひきがえる」の如きは、敵に遇つても逃ることも遲く、隱れることも拙である。しかし、皮膚の全面にある大小の疣から乳の如き白色の液を出すが、この液が眼や口の粘膜に觸れると、浸みて痛いから、犬なども決して、「ひきがえる」には食ひ附かぬ。魚類には「おこぜ」・「あかえひ」などの如くに、毒針で螫すものが幾種もある。豆につく「はんめう」といふ昆蟲はこれを捕へると、足の節から劇烈な液を分泌するが、強く皮膚を刺戟するから、この種の蟲を乾せば、發泡剤として用ゐられる。また「くらげ」・「いそぎんちやく」の類は、體の外面に無數の微細な嚢を具へ、敵に遇へばこれより毒液を注ぎ出して防ぐが、餌を捕へるにもこれを用ゐるから、これは防禦・攻撃兩用の武器である。アメリカに産する「スカンク」といふ「いたち」に似た獸は、非常な惡臭のあるガスを發するので有名であるが、これも、敵を防ぐための化學的方法の一種といへる。臭氣を出す腺は肛門の兩側にある。

 海綿の類は全身いづれの部分にも角質または珪質の骨骼が、網状をなして擴がつて居るから、他の動物のために食はれることは殆どない。海岸の岩の表面には黄色・赤色・鼠色などの海綿が一面には生えて居るところがあるが、固著して逃げも隱れもせず、甲も被らず、棘も出さず、毒を含まず、臭氣を放たず、しかも敵に襲はれることのないのは、全く身體が食へぬからである。「あれは食へぬ奴だ」などとは、よく聞く言葉であるが、動物中で眞に食へぬものといへば、恐らくまづ海綿位なものであらう。

[やぶちゃん注:「ひきがえる」一応、本邦種の両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas を挙げておく。彼らの持つ主要毒成分は強心配糖体ラクトンのブファジエノライド(六員環:化合物中、ベンゼン環などのように環状に結合している原子が六つあるものをいう。)型のステロイド配糖体で、薬剤名からお分かりの通り、ヒキガエルの毒腺から単離された毒素である。

「おこぜ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目に属するもので棘に毒を有する魚類の一般的総称で、特に、

フサカサゴ科オニオコゼ亜科オニオコゼ Inimicus japonicas

ハオコゼ科ハオコゼ Hypodytes rubripinnis

などが代表種である。中でも、最も危険性の高い種として、

オニオコゼ亜科オニダルマオコゼ Synanceia verrucosa

及び同属種は記憶しておいてよい。何れも背鰭の棘条に毒腺を備えており、その成分もタンパク質の神経毒であるが、特にオニダルマオコゼ Synanceia verrucosa のそれは、棘毒魚中最強とされるもので、主成分をベルコトキシン(verrucotoxin)と呼び、溶血活性と毛細血管透過性亢進活性を併せ持つとされる。これやストナストキシン(stonustoxin)などのオニオコゼ類の粗毒のマウス静注マウス静脈注射のLD50値(半数致死量:投与した動物の半数が死亡する用量“Lethal Dose, 50%”の略)は0.2mg/kgとされる。参照した「医薬品情報21」の「オニダルマオコゼの毒性」によれば、『全身の熱感が数日続き、その痛みは灼熱及び鞭打ちされる感じを伴って耐え難く、知覚さえも失われる。傷口は麻痺し、傷口から離れたところにも痛みがある。全身の麻痺、浮腫、傷口の腐乱も見られる。更に全身の症状を伴い、心律の衰弱、精神的錯乱、痙攣、吐き気、嘔吐、リンパ結節の炎症、腫れ、関節痛、発熱、呼吸困難、ショックなどが見られ、最後に死亡する。死を免れても回復に数ヵ月かかる等の報告が見られる』とある。私が管見した事故記録では、毒による致死よりも、刺傷によるショック症状からダイバーや海水浴客がそのまま失神して溺死するケースも見られた。但し――このオニダルマオコゼ Synanceia verrucosa は――途轍もなく旨いのだ! 値は張るが――「沖縄に行ってこいつを食べないという法は、ねえぜ!」――と声を大にして主張するのを私は常としている。

「あかえひ」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ Dasyatis akajei。細長くしなやかな鞭状を呈する尾の中ほどに数センチメートルから一〇センチメートルほどの長棘が一、二本近接して並んでおり、鋸歯状の返しを持つが、これが毒腺を有する。毒は5―ヌクレオチダーゼ(nucleotidase,5')やホスホジェステラーゼ(Phosphodiesterase, PDE)という酵素を主成分とすると推定されており、アレルギー体質の場合、アナフィラキシー・ショックによって死に至ることもある。

『豆につく「はんめう」』甲虫(鞘翅)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科マメハンミョウ Epicauta gorhami。本邦にも生息する本種は体内にエーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種カンタリジン(cantharidin)を一%程度持っており、乾燥したものはカンタリジンを〇・六%以上含む。カンタリジンは不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。その粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)として使われてきた歴史があることはかなり知られている(以上は信頼出来る医薬関連サイトを参考にした)。以下、ウィキの「スパニッシュ・フライ」の記載から引用する。このスパニッシュ・フライの類を『人間が摂取するとカンタリジンが尿中に排泄される過程で尿道の血管を拡張させて充血を起こす。この症状が性的興奮に似るため、西洋では催淫剤として用いられてきた。歴史は深く、ヒポクラテスまで遡ることができる。「サド侯爵」マルキ・ド・サドは売春婦たちにこのスパニッシュフライを摂取させたとして毒殺の疑いで法廷に立った事がある』と記す(なお、サドはそれで死刑宣告を受け投獄、フランス革命によって一時釈放されたが、ナポレオンによって狂人の烙印を押されてシャラントン精神病院に収監、そこで没している)。

「スカンク」食肉(ネコ)目スカンク科四属一五種の哺乳類の総称。北アメリカから中央アメリカ、南アメリカにかけて生息する(但し、スカンクアナグマ属はインドネシア・フィリピンなどマレー諸島の西側の島々に生息)。多くは白黒の斑模様の体色をなすが、これは外敵に対する警戒色である。体長は四〇〜六八センチメートル、体重は〇・五〜三キログラムで、ふさふさとした長い尾をもつ。雑食性でネズミなどの小型哺乳類・鳥卵・昆虫・果実などを餌とし、地中に巣穴を作る。肛門の両脇にある肛門傍洞腺(肛門嚢)から、強烈な悪臭のする分泌液を噴出して外敵を撃退することで知られる。分泌液の主成分はブチルメルカプタン(C4H9SH)で、その臭いの形容は硫化水素臭やにんにく臭など、文献によって異なる。なお、スカンクは狂犬病の媒介動物でもあり、テキサス州やカリフォルニア州などでは人間が狂犬病にかかる感染源のトップとして挙げられている。但し、分泌液を介して狂犬病に感染した例は知られていない(以上は主にウィキスカンク」に拠った)。

「海綿」海綿動物門 Porifera に属し、各種多彩な形状と大きさを持つ。分類学的には、

石灰海綿綱 Calcarea(骨格主成分は炭酸カルシウム、総て海産)

普通海綿綱 Demospongiae(現生カイメン類の九五%が属し、骨格は柔軟性のある海綿質繊維、コラーゲンの一種であるタンパク質のスポンジンで構成される)

六放海綿綱 Hexactinellida(ガラスカイメンとも呼ばれ、六放射星状の珪酸質の骨片を主とする骨格を持つ。深海底の砂地などに生息。本文既出のカイロウドウケツ Euplectella aspergillum は本綱に属する)

硬骨海綿綱 Sclerospongiae(炭酸カルシウムの骨格の周囲を珪酸質の骨片と海綿組織が取巻いた構造を持つが多くは化石種)

に分かれる(以上はウィキ海綿動物に拠った)。海綿動物は六億三千五百万年以上前(エディアカラ紀より前)に地球に出現した、多細胞生物の祖先であり、地球上で最も永く生存を維持している動物群でもある。

「動物中で眞に食へぬものといへば、恐らくまづ海綿ぐらいなものであらう」と丘先生は述べておられるが、これは現在の知見から言うと誤りで、カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ Eretmochelys imbricate は主食として特定のカイメン類を採餌するし、ある種のウミウシは、有毒種である普通海綿綱イソカイメン目イソカイメン科イソカイメン属クロイソカイメン Halichondria (Halichondria) okadai を摂餌して、その毒を体内に貯えて自己防衛に用いている(但し、クロイソカイメンの持つ毒は共生藻類である有毒渦鞭毛藻により産生される毒素オカダ酸(okadaic acid C44H68O13)によるものである)。この世界であっても「蓼喰う虫も好き好き」の諺は有効なのである。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート6〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉

その中に金剛甥當が子息下須房(かすばう)太郎秀方(ひでかた)生年十三歳になりけるが聞ゆる大力の兵にて、只一人蹈止(ふみとどま)り、押掛(おしかゝ)る寄手に馳合(はせあ)うて、當るを幸(さいはひ)に切(きり)ければ、我は甲(かぶと)の眞額(まつかう)を喉(のんど)まで打割り、或は鎧をかけて胴切にし、膝を薙伏(なぎふせ)せ、首を打ち落す。孟賁(まうほん)が勢を以て趙雲(てううん)が膽(たん)を張る。寄手大勢なりといへども、秀方一人に切立てられ、辟易して見えし所に、小山行光が郎等藤五郎行長進寄(すゝみよ)りてむずと組み、その容顔(ようがん)の美麗にして幼稚なるを見て、強力(がうりき)の年にも似ざるを感じながら、良(やゝ)久しく組合(くみあ)うて、遂に是を討取りたり。金剛別當秀綱は目の前に子を討たせて、なじかは生きてかひあらんと獅子奮迅の怒(いかり)をなし、敵を撰ばず切て廻る。既に氣疲(きつか)れ、力撓(たわ)みて、小山七郎朝光に組まれて、遂に首をぞかかれける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。

〇原文

十日丁酉。(前略)

其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。(前略)

其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三。〕殘り留まりて防戰す。黑駮(くろぶち)の馬に駕し、敵に髦(たてがみ)を向けて陣す。其の氣色、掲焉(けちえん)なり。工藤小次郎行光、馳せ並ばんと欲するの剋(きざみ)、行光が郎從藤五男、相ひ隔たりて秀方に取り合ふ。此の間(あひだ)、顏色を見れば、幼稚の者なり。姓名を問ふと雖も、敢へて詞を發せず。然れども、一人留まるの條、子細有りと稱して之を誅し畢んぬ。強力の甚しきこと若少に似ず、相ひ爭の處、對揚すること良(やや)久しと云々。(後略)

・「下須房太郎秀方」諸資料の読みでは「かすぼう」とも「かすほ」ともともある。「かすふさ」でもよさそうである。――puer eternus――プエル・エテルヌス――私としてはこれ、独立して示してやりたかったのである。

・「其の氣色、掲焉なり」「掲焉」は既出。その気迫たるや、一目瞭然である、の意。

・「藤五男」ある資料の読みでは「とうごおとこ」とあるが、私は「とうごだん」と読みたい。

・「子細有り」相応の覚悟を持った名将の子息ならん、と。

・「對揚すること」対等に組み戦うこと。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 覚園寺

   覺 園 寺

 二階堂ノ内也。山號ハ鷲峯山卜云。律宗也。泉涌寺ノ末也。七貫百文ノ御朱印有。本尊藥師・日光・月光ハ澤間法眼作ナリ。十二神ハ運慶作。相模守平貞時、永仁四年二建立、開山ハ心惠和尚、諱ハ知海、願行ノ嗣法也。黑地藏又ハ火燒地藏卜モ云。堂前ノ山根ニアリ。義堂・絶海唐土ヨリ取來ル佛也。毎年七月十一日ノ夜、鎌倉中ノ男女參詣ス。或云、有時此地藏ヲ彩色ケレドモ、一夜ノ内ニ又本ノゴトク黑クナリケリ。毎日毎夜地獄ヲメグルニヨリ、火焰ニフスボリ、黑クナルトナン。罪人ノ苦ミヲ見テ堪カネ、自ラ獄卒ニカハリ、火ヲタキ、罪人ノ煩ヲ休メラルヽト也。鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ。

 此寺ニ源次郎・彌次郎ガ塔卜云有卜舊記ニ見へクリ。住僧ニ問ヘバ曰ク、此レ俗説ノ僞也。開山ノ石塔ヲ誤テ云也ト。山根ニハワムネノ井アリ。山上ニワメキ十王、ダゴツキ地藏卜云テ石佛アリ。見ルニタラヌ物也ト云。山上ニ弘法ノ護摩堂ノ礎ノ跡アリトゾ。爰ヲ出テ東北ノ側ニ大平寺ノ跡、今ハ畠ニナリテアリ。

 寺寶

  心惠嘉元四年自筆ノ状、判有。源尊氏自筆梁牌二枚

[やぶちゃん注:以下の説明は、底本では三字下げ。]

一枚ニ文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌トアリ、則自筆ヲ染ノヨシ證文有。

  院宣、綸旨、將軍家ノ證文數通

[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。

「彩色ケレドモ」「彩色シケレドモ」の脱字か、若しくは「彩色」を「いろどり」と訓じているか。

「鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ」地蔵の業火による黒焼きというホラーの伝承、黄門様はお好みではないらしい。このようにダイレクトな感懐が語られるのは本作では珍しいことである。

「源次郎・彌次郎ガ塔」初耳である。この伝承についてご存知の方の御教授を乞うものである。

「ダゴツキ地藏」団子窟(だんごやぐら)、別名地藏窟のことであろう。鎌倉攬勝考卷之九末の挿絵を参照されたい。この部分の叙述から光圀は百八やぐら群を踏査していないことが分かる。……黄門様、鎌倉に来てここを見なかったのは、一生の不覚と存じます……。]

耳嚢 巻之五 痘瘡神といふ僞説の事

 

 痘瘡神といふ僞説の事

 

 世に疱瘡を病(やめ)る小兒、未前に物を察し或は間(あひだ)を隔(へだて)て尋來(たづねきた)る人を言當(いひあて)る故、疱瘡に神ありといふもむべ也と、予が許へ來る木村元長といへる小兒科に尋問(たづねと)ひしに、實(げ)に問ふ通りなれど、小兒熱に犯されて譫語(うはごと)をなすを、兒女子の聞(きく)所には神鬼あるに均(ひと)し、然れ共一般に熱計(ばかり)とも難申(まうしがたく)、狐狸妖獸の類、無心の小兒熱に精神を奪るゝに乘じぬるもあるらん。元長が療治せる靈岸嶋邊の小兒、其未前を察しなどする事神あるがことし。疱瘡の神ならんと家内の者抔尊崇なしけるが、或日このしろといへる魚と強飯(こはめし)を乞ひける故、醫師にも尋(たづね)その好む所を疑ひしが、心有る者右病人に對し、成程右商品は其乞ひに任すべし、さるにても御身はいづ方より來れる哉(や)と嚴敷(きびしく)尋ければ、我は狐也、食事に渇(かつ)して此(この)病人に附たり、右望叶(かなひ)なば早速立去(たちさ)らんと言ひし故、望(のぞみ)の品を與へければ、程なく狐さりしと見へて本性に成り、其後は順痘(じゆんとう)に肥立(ひだち)けると也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:関羽の神霊譚から、疱瘡神を騙った妖狐譚で連関。医師元長の語りは一見、現在の医学的見地からも正しい導入ながら、あれ? そっちへ行っちゃうの? と聊か意外な展開ではある。

 

・「疱瘡」高い致死率(約三〇%)を持つ天然痘。複数回既出。「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」などの注を参照されたいが、本話との関わりで附言すると、小児の場合、高熱による熱譫妄(せんもう)による意識障害が起こり、幻聴・幻覚・錯乱が現われ、不安・苦悶・精神運動の興奮が見られる。予後も、醜い痘痕(あばた)以外にも、脳症や失明・難聴などの重篤な後遺症が残ったりした。

 

「疱瘡神」疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種。以下、非常優れた民俗学的記述となっているウィキの「疱瘡神から、江戸時代までの部分を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号その他を省略・変更した)。『平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平七年(七三五年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。寛政時代の古典『叢柱偶記』にも「本邦患痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神』(本邦にて痘を患ふ家、必ず疱瘡神夫妻二位を堂に祭り、俗に之れを裳神と謂ふ)『(我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻二人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という、の意)」と記述がある』。『笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する』。『かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治八年(一八七五年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞「日新真事誌」に掲載されている』(リンク先に同絵あり)。『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本「椿説弓張月」においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による「新形三十六怪撰」に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(リンク先に同画あり)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の一週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』。『昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた』。

 

・「このしろ」条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。所謂、酢漬けの寿司種のコハダのことであるが、寿司では体長十センチメートル以下の稚魚若魚を限定して「こはだ(小鰭)」と呼ぶ。成魚は塩焼きや唐揚げ・刺身などにして食用とはなるが、小骨が多く傷みも早く、焼くと独特の臭みが出るため、成魚は町の魚屋などでは流通しない。この臭いは人を焼く臭いに似るとか、武家が「此城(このしろ)を食ふ」として忌んだという伝承などの考証は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶 このしろ」の注で詳しく検証しているので、興味のある方は是非、参照されたい。

 

・「強飯」御強(おこわ)。糯米を蒸した米飯のこと。現在は強飯の一種である赤飯を指す語として定着した感があるが、これは狭義の呼称である。前の「このしろ」とともに狐の好物とされ、稲荷に供された。

 

・「順痘」疱瘡の軽症のものをいう。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疱瘡神という偽説の事

 

 世間では、

――疱瘡を病んだ小児が、未然に起る出来事を察知致いたり――これから先、尋ねて来る人を言い当てるということがある――疱瘡の神と申すものがあると言うは――これ尤もなることじゃ――

なんどと流言致いておるが、これに附き、私の元へしばしば来たる木村元長と申す小児科医に訪ねてみたところ、

「……たしかに、そのように言い触らされては御座いまするな。……まあ、小児が熱に冒されて譫言(うわごと)をなすを、女子供が聴いたり致さば、これ、神鬼の在ると早合点致すは必定。……なれど……これ、一般に熱のせいばかりとも、言い切れませぬぞ……はい……これ、狐狸妖獣の類いが――頑是ない小児の、熱に精神を奪われて御座るに乗じ――とり憑く――といった例(ためし)も、これ、御座るようにて……」

と、以下のような体験を語って御座った。

 

……我らが療治致いた霊岸島辺りの、とある小児、言わるるように、未然にいろいろと、これから起こる物事を言い当てたりすることなんどが、これ、御座って、その様は、いや、まさに、何やらん神のなせる業(わざ)のようにも見えて御座いました。

 されば、

「これはもう、疱瘡の神に間違いなし!」

と、家内の者一同、真っ赤になって魘(うな)されておる子(こお)に向かって手を合わせては、これ、崇め奉って御座ったので御座るが、とある日、その子(こお)が、

「……コノシロト申ス魚ト……強飯(こわめし)ガ……欲シイ……」

と申しましたそうな。

 家内の者より、かく申しておる由、連絡が御座ったによって、我らも、

「……そのようなものを――これは疱瘡の患者の――それも子供の望むものとも、これ、思われぬ……いっかな、不審なことじゃ。……」

と答えておきましたところ、家人もまた、同様に不審に思うたので御座いましょう、何やらん、ピンときた家内のある者、これ、かの病人に向かって、

「……なるほど……その二品、乞うと申さば、これ、任せんとぞ思う……思うが……それにしても……御身はッ! 何方(いずかた)より来たったかッ?!!――」

と、厳しく詰問致いたところが、

「……ワレハ狐ジャ……食事ニ渇(かっ)シテ……コノ病人ニ憑イタジャ……我ラガ望ミ、こコレ、叶(かの)ウテ呉リョウタナラバ……早速(すぐ)ニデモ……立チ去ロウゾ……」

と申した故、直ぐ、望みの二品を小児に食べさせたところ、ほどなく、この狐は去ったと見えて、小児は正気に返り、その後は疱瘡も軽快致いて、日増しにみるみる恢復致いて御座いました、はい……

 

一言芳談 二十一

   二十一

 

又云、凡夫は、なに事もまさしくそのことに、のぞまぬほどなり。意樂(いげう)はいみじき樣(やう)なれども、事にふれてうごきやすきなり。

 

〇凡夫は、なにごとも、ひとりある時は欲にもたへたるやうなれども、媚(こ)びたる色にむかへば、愛心もおこり、富貴(ふつき)の樣子をみれば、うらやむ心も出で來るなり。

〇意樂、平生(へいぜい)の心入(こゝろいれ)なり。樂(らく)の字、ねがふとよむ時はげうの音なり。

 

[やぶちゃん注:「意樂」は梵語“EsAya”(阿世耶)の漢訳。何かを成そうと楽欲(ごうよく)する意識を起すこと、何かをしようと心に欲すること。念願。心構え。また、心を用いて様々に工夫をすること、また、その心をもいう。湛澄の注に「ねがふとよむ時はげうの音なり」とある通り、「樂」を「ガウ(ゴウ)・ゲウ(ギャウ)」と音する場合は、「好む・愛する・願う・望む」の意となる。

「のぞまぬほどなり」は「望まぬ」ではなく「臨まぬ程なり」で、「まさしくそのことに直面しない状態にある」という意である。これは非日常としての事象との直面という汎用評言でると同時に、究極のそれであるところの死との直面を指すと考えてよい。

「事にふれて」漱石の「こゝろ」の、あの植木屋での「先生」の言葉である。『平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです』。

 本条は、「意樂」以外は難しいというわけではないものの、古語の基本的な抽象言語が圧縮されて使用されているため、意味を採り難い。以下に私の勝手な訳を示す。

――明禅法師はまた、次のようにも仰せられた。

「……凡夫というものは、如何なる折りにても、まさに、その対象・事態に直面しない状態にあるのです。即ち、人というものは、平生の心がけは如何にも殊勝に見えても、いざという間際になると、忽ち、その心は軽薄に動きやすくなるものなのです。……」]

獨身生活一句 畑耕一

   獨身生活
冬の夜鏡にふかくわれもゐたり

2012/11/25

芥川龍之介漢詩全集 十一

   十一

 

叢桂花開落

畫欄煙雨寒

琴書幽事足

睡起煮龍團

 

〇やぶちゃん訓読

 

 叢桂(そうけい) 花開きて落つ

 畫欄(ぐわらん) 煙雨 寒し

 琴書 幽かに 事足れり

 睡起(すゐき)して 龍團(りようだん)を煮る

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。なお、河出書房新社一九九二年刊鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」によれば、この書簡の頃(十二月初旬)、動悸の岡田(後に改姓して林原)耕三の紹介で、久米正雄とともに夏目漱石を訪ね、以後、漱石のサロン、木曜会の常連となっている。まさにいろいろな意味で龍之介運命の出逢いの季節であった。

大正四(一九一五)年十二月三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一八九)所載。

この書簡は非常に長いもので、『この手紙をかくのが大へんおくれた それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない』と始まる(旧全集ではこの前の井川宛書簡は十月一日附である)。勿論、この『仕事』とはかの「鼻」の執筆であった(鷺年譜によれば、「鼻」の起稿はこの前月十一月四日、脱稿は「手帳 一」によって翌大正五(一九一六)年一月二十日、それが第四次『新思潮』創刊号を飾ったのは、同年二月十五日のことであった)。しかし、以下の書簡の叙述を読むと卒業『論文のため読む本ばかりでも可成ある(テキストは別にしても)』と記しているから、卒論の作業だけでも相当に多忙であったことが窺われる。なお、書簡中に卒論の題名については『題は W. M. as poet と云ふやうな事にして Poems の中に Morris の全精神生活を辿つて行かうと云ふのだが何だかうまく行きさうもない』と弱気なことを記しており、実際、新全集の宮坂覺氏年譜によれば、主題は“as man as artist”から“As a poet”、更に“Young Morris”と縮小され、完成稿は邦題では「ウィリアム・モリス研究」となった、とある(但しこれは惜しくも第二次世界大戦の戦火によって焼失してしまう)。

 但し、もう一つ、彼には『仕事』があった。――それは塚本文に対する恋情と結婚への願望実現のための精神的な高揚という『さしせまつた』感懐に基づく『仕事』――行動志向である。文への思慕の萌芽はこの大正四年の八月頃と考えられ、本書簡の十二日前の文の叔父で親友の山本喜譽司宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一八八)で『僕の愛を文ちやんに向ける』と、文への恋情を仄めかしているのである。宮坂年譜でもこの日の項に『文への気持ちは翌月に入って高まった』(翌月とはまさにこの書簡が書かれた十二月のことを指す)とあるからである(宮坂年譜によれば、文とはその後の大正五年二月中旬に伯母フキらに逢わせたところ、好感を持たれたことから、龍之介は結婚の意志を固めた、とある)。

 前半は当代の美術作品の辛口批評に始まり、最近読んでいるトルストイの「戦争と平和」への共感、この夏の松江の追想、新作の現代詩を記す。前文を附して以下に示す(「どこへ云つても」はママ)。

 

田端はどこへ云つても黄色い木の葉ばかりだ 夜とほると秋の匀がする

   樹木は秋をいだきて

   明るき寂寞にいざなふ

   「黄」は日の光にまどろみ

   樹木はかすかなる呼吸を

   日の光にとかさむとす

   その時人は樹木と共に

   秋の前にうなだれ

   その中にかよへる

   やさしき「死」をよろこぶ

 

漢詩は、このやや後に現われる。

 

定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ

自分でつくる氣になつてつくる詩はある 今日でたらめにつくつたのを書く

   叢桂花開落

   畫欄煙雨寒

   琴書幽事足

   睡起煮龍團

どうも出來上つた時の心もちが日本の詩よりいゝ 日本の詩も一つ今日つくつたのを書く 何だかさびしい氣がした時かいた詩だから

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

   汝のかみは黑く

   かざしたる花も

   いろなく靑ざめたれど

   何ものかその中にいきづく

   かすかに

   されどやすみなく――

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

もう一度眞山にのぼつておべんとうをたべたい さるとりいばらにも實がなつてさうして落ちた時分だらう 山もすつかり黄色くなつたらう 赤い土や松はかはらずにゐるだらうか

おべんとうの卵やきはまつたくうまかつた あめ蝦もたべたい 僕はくひしん坊のせいか食べものを可成思ひ出す

 

この後、自作短歌が六首記され、掉尾の段落は(「動かれて」はママ)、

 

殆この手紙をかき出した時には豫期しなかつたある感激に動かれてこの手紙を完る 大きな風のやうなそれでゐてある形のある光の箭のやうなものが頭の中を通りぬけたやうな氣がする 今まで何だか人が戀しいやうなそれでゐて独りでゐたいやうな心もちにひたされながら何かしろ何かしろと云ふ聲がたへずどこかでしてゐると思つてゐた それが今は皆どこかへ行つてしまつた このまゝで何十年何百年でもじつとして「たへず變化すれども靜止し 流轉すれども恒久なる」一切をみてゐたいやうな氣がする 何故だかしらない 唯僕の意識の中には暗い眼が浮んでゐる 何度もそれが泣くのを見た眼である 僕はこの心もちを失ふのを恐れる この眼を失ふのを恐れる かなしいやうな氣もする

平和にさうして健康に暮し給へ

                                   龍

で終わる。「あめ蝦」は直感であるが、アマエビ(甘海蝦)、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目コエビ下目タラバエビ科タラバエビ属ホッコクアカエビ Pandalus eous のことを指していると思われる。漢詩の後の追想には、松江訪問の記憶が強烈に龍之介に刻印されていることを感じさせて、個人的には非常に好きな部分である。また、掉尾の哲学的感懐に、私は――遠く龍之介の公的遺書たるところの、「或舊友へ送る手記」の「附記」にあるあの言葉――『僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。』――を、鮮やかに思い出していることを、告白しておきたい――。

 

「畫欄」花鳥の模様が装飾として彫り出された欄干。

「龍團」龍団茶。茶の進献が盛んであった宋代、福建省崇安県の南にある銘茶の産地武夷山などで摘まれた初春の新芽から製した極上の新茶で、天子に進献されたことから、龍茶・龍団茶・龍鳳団茶とも言った。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(6)


Ibaragani

[いばらがに]

Harisennbonn

[針千本]

[やぶちゃん注:底本及び講談社版は画像が左右で反転しているが、実は何れも上下逆さまになっているとしか思われない。私の独断で一八〇度回転させた画像を以上に示した。]

 

 敵の攻撃を防ぐために、全身に尖つた針を有する動物も幾種かある。上圖に掲げた「いばらがに」などはその最も著しい例で、殆ど手を觸れることも出來ぬ。樺太邊で年々多量に鑵詰にする味の好い蟹は、これ程に棘はないが、やはりこれと同じ類に屬する。また「ふぐ」の一種で「はりせんぼん」という魚も全身に太い針が生えて居る。通常は後に向いて横になつて居るから餘り游泳の妨げにならぬが、敵に遇ふと體を球形に膨ませて針を悉く直立せしめるから、さながら大きな「いが栗」の如くになつて、とても摑へることは出來ぬ。獸類の中でこれに似たものは「やまあらし」である。この獸は、兎などと同じく、囓齒類いふ仲間に屬し、植物性の物ばかりを食ふ至つて怯懦なものであるが、全身にペン軸位の太く堅い尖つた毛が生えて、物に恐れるときはこの毛が皆直立するから、大概の食肉獸も嚙み附くわけに行かぬ。オーストラリヤ地方に産する「とかげ」の一種に全身棘だらけで、恐しげに見えるものがある。長さは三〇糎に足らぬ位であまり大きな動物ではないが、顏を正面から見ると、二本の角のやうな太い棘があるために多少鬼に似て居るので、先年に新聞紙上に鬼の酒精漬といふ見出しで評判せられたことがあつた。かやうに全身に針の生えた動物は色々あるが、最も普通な例といへばまづ海膽(うに)類であらう。食用にする「雲丹(うに)」はこの類の卵巣から製するのであるが、岩のあるが、岩のある磯にはどこにも産し、形が丸く棘で包まれて「いが栗」と少しも異ならぬ。棘が尖つて居るから、大抵の敵はこれを襲ふことを敢てせぬ。特に「がんがせ」〔ガンガゼ〕と稱する一種の如きは、針が頗る細長いから、手の掌から甲の方へ突き拔けるというて、漁夫らは非常に恐れて居る。

Togetokage

[はりとかげ]

Uni

[うに]

 

[やぶちゃん注:「いばらがに」節足動物門甲殻綱十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニLithodes turritus

「樺太邊で年々多量に鑵詰にする味の好い蟹」初版刊行当時は樺太は日本帝国領であった。このカニは無論、タラバガニ科タラバガニ Paralithodes camtschaticus

「はりせんぼん」条鰭綱フグ目フグ亜目ハリセンボン科 Diodontidae に属する魚の総称。狭義には、その中の一種学名 Diodon holocanthus を指す。属名“Diodon”はギリシア語の“dis”(二本の)+“odūs”(歯)で、ハリセンボン科の魚族の上顎と下顎の歯板各二枚が癒合してそれぞれが一枚のペンチ状(嘴状)になっていることに由来する。つである。科のラテン語名 Diodontidae(二つの歯)もここに由来する。彼らの棘は鱗が変化したもので、「針千本」という和名も英名“Porcupinefish”(Porcupine:ヤマアラシ。)もこれに由来するが、実際の棘の数は三五〇本前後、多くても五〇〇本ほどとされる。フグ目であるが無毒である。私は沖縄の、このアバサー汁が好きで好きで、たまらないのである。

「やまあらし」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae 及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae に属する草食性齧歯類の総称。体の背面と側面の一部に鋭い針毛を持つ。ウィキヤマアラシによれば、一般に我々がヤマアラシという名で呼んでいる『動物は、いずれも背中に長く鋭い針状の体毛が密生している点で、一見よく似た外観をしている(針毛の短い種もある)。しかし、“ヤマアラシ”に関して最も注意すべきことは、ユーラシアとアフリカ(旧世界)に分布する地上生のヤマアラシ科と、南北アメリカ(新世界)に分布する樹上生のアメリカヤマアラシ科という』二つのグループが存在することである、とする。『これらは齧歯類という大グループの中で、別々に進化したまったく独立の系統であり、互いに近縁な関係にあるわけではな』く、『両者で共有される、天敵から身を守るための針毛(トゲ)は、収斂進化の好例であるが、その針毛以外には、共通の特徴はあまり見られない。齧歯目(ネズミ目)の分類法には諸説があるが、ある分類法では、ヤマアラシ科はフィオミス型下目、アメリカヤマアラシ科はテンジクネズミ型下目となり、下目のレベルで別のグループとなる』。この二『群の動物が、現在に至るまでヤマアラシという共通の名前で呼ばれているのは、そもそもヨーロッパから新大陸に渡った開拓者たちが、この地で新たに出会ったアメリカヤマアラシ類を、まったくの別系統である旧知のヤマアラシ類と混同して、呼称上の区別をつけなかった名残りに過ぎない。特に区別する必要があるときは、それぞれ「旧世界ヤマアラシ」「新世界ヤマアラシ」と呼び分けるのが通例である』とある。これはあまり多くの人に理解されているとは思われない事実なので、特に引用しておいた。また丘先生は「至つて怯懦なものである」と述べておられるが、草食で夜行性ではあるものの、必ずしもそうとも言えない。その証拠にウィキには『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇する。そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進する。針毛は硬く、ゴム製の長靴程度のものなら貫く強度がある』と記している。

「怯懦」は「けふだ(きょうだ)」と読み、臆病で気が弱いこと、意気地のないことをいう。

『オーストラリヤ地方に産する「とかげ」の一種に全身棘だらけで、恐ろしげに見えるもの』図のキャプションは「はりとかげ」とあるが、これは現在トゲトカゲと呼ばれる、爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目アガマ科モロクトカゲ Moloch horridus のことである。オーストラリアの砂漠に生息する固有種で、棘の多い姿が古代中東の人身御供の神モロク(モレク)を思わせることが名称の由来である。参照したウィキモロクトカゲ」によれば、体長約一五センチメートルの小型のトカゲで、『全身に円錐形の棘が並んでいるのが大きな特徴で、日本語での別名「トゲトカゲ」と、英名の "Thorny lizard" または "Thorny devil" もこのとげに由来する。さらに首の背中側には大きなこぶ状突起があり、これは敵に襲われても呑みこまれないためのものと考えられる。体色は褐色のまだらもようで、砂漠にまぎれる保護色となっている。暑いときの体色は明るく、涼しいときの体色は暗く変化する。また、移動する時は体を前後に揺らしながらゆっくりと歩く特徴的な歩き方をする。棘の多い姿で、これがモロクトカゲやトゲトカゲという名称の由来であるが、性質はごくおとなしい』。『全身の皮膚には細い溝が走っており、これは全て口へ繋がっている。この溝は毛細管現象で水を吸い上げるので、体が少しでも濡れると水が口へ集まるようになっている。このためわずかな雨や霧からも効率よく水分を摂取することができ、水の確保が困難な砂漠に適応している』(これらの特徴的事実ははしばしば映像で紹介されかなり人口に膾炙しているものと思われる)。『食性は肉食性で、もっぱらアリを捕食する。アリの行列を見つけると横で立ち止まり、短い舌をすばやくひらめかせてアリを捕食してゆく。一度に』千匹以上のアリを捕食することもある、とある。

「がんがせ」棘皮動物門ウニ綱ガンガゼ目ガンガゼ科ガンガゼ Diadema setosum。海産の危険動物は私の最も得意とする分野であるが、その手の事故記事では本種の刺傷の恐ろしさがしばしば挙げられている。鋭く長く、しかも眼点で対象物の接近を察知するとざわざわと針をそちらに束になって向けてくる。おまけに刺さると、中で細かく折れてしまい、摘出が難しく、化膿するリスクも高い。ベテランのダイバーでも大泣きする程の痛さと伝え聞く。私は泳がない(泳げない)が、水槽の中のあの妖しく青白く光る眼点とさやさやと不思議なリズムで動く長い長い針が――慄っとするほど実は素敵に――好きだ……]

芥川龍之介漢詩全集 十

   十

 

閑情飲酒不知愁

世事抛來無所求

笑見東籬黄菊發

一生心事淡於秋

 

〇やぶちゃん訓読

 

 閑情 酒を飲みて 愁ひを知らず

 世事 抛(なげう)ちて 求むる所無し

 笑みて見る 東籬(とうり)に黄菊の發(ひら)くを

 一生 心事 秋よりも淡なり

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この書簡の前月九月、龍之介は既に、かの名作「羅生門」を書き下ろして脱稿している(発表は十一月一日発行の『帝国文学』)。まさにこの漢詩は作家芥川龍之介誕生の前夜の創作になるものなのである。

大正四(一九一五)年十月十一日附井川恭宛所載。

なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三四~一三五ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。

 邱氏の当該項の「解説」によれば、『漢詩の後に、「これは実感ではない。かう云ふ字づらから起る東洋的な気分に興味を持つた丈の話だ」と書かれている』とある。

「笑みて見る 東籬に黄菊の發くを」これは言わずもがな、陶淵明の「飮酒二十首 其五」の「采菊東籬下 悠然見南山」を踏まえる。

 

   飮酒二十首 其五

  結廬在人境

  而無車馬喧

  問君何能爾

  心遠地自偏

  采菊東籬下

  悠然見南山

  山氣日夕佳

  飛鳥相與還

  此中有眞意

  欲辨已忘言

 

    飮酒二十首 其の五

   廬を結びて 人境に在り

   而も 車馬の 喧(かまびす)しき無し

   君に問ふ 何ぞ能く爾(しか)るやと

   心 遠ければ 地 自(おのづか)ら偏(へん)なり

   菊を采(と)る 東籬の下(もと)

   悠然として 南山を見る

   山氣 日夕(につせき)に佳(よ)く

   飛鳥 相ひ與(とも)に 還る

   此の中に眞意有り

   辨ぜんと欲して 已(すで)に言を忘る

  

「一生 心事 秋よりも淡なり」この結句の訓読と意味は、中国語に堪能な私の教え子T.S.君の教授を受けた。ここに謝意を表し、彼のこの部分の訳を示す。

――人生における悩みや煩悶など、取るに足りぬ。この秋よりずっと軽くて淡いものさ――]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート5〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉

寄手の大軍木戸口に詰寄せ、畠山、小山兄弟、三浦の人々、猛威を振うて攻戰(せめたたか)ふ。其聲山に響き谷に渡り、夥しとも云ふ計なし。されども城中の兵要害に向ひて強く防げば寄手厭(あぐ)みてぞ思ひける。此所に小山七郎朝光(ともみつ)、宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)、郎従紀(きの)権守波賀(はがの)二郎大友以下の七人、安藤次(あんどうじ)を案内者として潛(ひそか)に伊達郡(だてのこほり)藤田の宿より會津の方に向ひて、土湯嵩(つちゆのだけ)、鳥取越(とつとりごえ)を、大木戸のうへ、敵城(てきじやう)の後(うしろ)の山に登りて、時の聲を作りければ、「すはや搦手(からめて)より破るゝぞ」とて、城中周章慌忙(あはてふため)きて我も我もと落ちて行く。朝霧の紛(まぎれ)に、秋の山影灰暗(ほのぐら)く、岩路(がんろ)露に濕(うるほ)ひて、滑(なめらか)なる苔の上に衝伏(つきふ)せ、切倒(きりたふ)し、親討たれ、子討たるれども、落留(おちとゞま)る者更に無し。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の頭の部分を示す(後は次の〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉の回で示す)。

〇原文

十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。淸重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。幷宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅舘。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。攀登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騒動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。大軍、木戸口に攻め近づき、戈(ほこ)を建て、箭(や)を傳ふ。然れども、 國衡、輙(たやす)く敗傾(はいけい)し難し。

重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・淸重等、武威を振ひて身命(しんみやう)を弃(す)つ。其の鬪戰の聲、山谷に響き、郷村を動かす。爰に去ぬる夜、小山七郎朝光、幷びに宇都宮左衛門尉朝綱が郎從、紀權守・波賀次郎大夫已下七人、安藤次(あんどうじ)を以つて山の案内者と爲(な)し、面々に甲(よろひ)を疋馬に負はせ、密々に御旅舘を出でて、伊逹郡藤田宿より、會津の方へ向ひ、土湯(つちゆ)の嵩(だけ)、鳥取越(ととりごえ)等を越え、大木戸の上、國衡が後陣の山に攀じ登り、時の聲を發(はな)ち、箭(や)を飛ばす。此の間、城中、大いに騒動す。搦手も襲ひ來るの由を稱す。國平已下の邊將、搆塞(こうさい)に益無く、謀(はかりごと)を廻らすに力を失ひ、忽ち以つて逃亡す。時に天曙(あ)くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡(あと)滑らかにして、兩方を分かたざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し。

・「伊達郡藤田宿」現在の福島県伊達郡国見町。

・「土湯の嵩」saitohpb氏のブログ「つれづれなるままに」の石那坂の戦い(の『「土湯嵩」について』に、『阿津賀志山の山陰は湯ノ倉大森山なり。(信達二郡村誌付録)とあり、当時小坂、鳥取辺の山に、地元の人が「土湯嶽」と呼び慣らしていた山があったことが伺える。(宮城県側に下れば小原温泉がある。)室町幕府が羽州探題をおいてからは「羽州街道」とされた道がある。難所であるその山を越え、東に鳥取越~山崎峠~石母田峠と五〇〇メートル級の山峰が阿津賀志山の北を巻いて大木戸に至る。(「安藤次は、自ら朝光らの武将を誘い、この作戦の郷導となる」二郡村誌付録)「吾妻鏡」八月十日の条記述には何の疑問もない』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて頂いた)。

・「鳥取越」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には、現在の『国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである』と記しておられる。因みに、阿津賀志山から遙か四十キロメートル南西方の福島県福島市の「土湯」温泉町には「鳥取越」の地名があるが、ここではない。

・「搆塞」要塞。

・「時に天曙くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡滑らかにして、兩方を分けざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し」ここは映像が鮮やかに浮かんでくる名調子の場面。「兩方を分かたざる」とは敵味方が不分明であることをいう。

・「大木戸」現在の福島県伊達郡国見町に残る阿津賀志山二重(ふたえ)防塁遺跡の北側の阿津賀志山山麓に、国見町大木戸地区の名があるが、ここか。個人のHP「おじいちゃんのひまつぶし」の福島の遺跡・史跡 阿津賀志山防塁に所載する地図を参照されたい。リンク先では防塁の写真も見ることが出来る。

 

以下、「北條九代記」本文注。

「宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)」とあるが、「吾妻鏡」でお分かりの通り、「朝綱」の誤り。小山(結城)朝光とは親族である。

「波賀(はがの)二郎大友」とあるが、やはり「吾妻鏡」でお分かりの通り、「大友」は「大夫」の誤り。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記)  荏柄天神/天台山/大楽寺

   荏柄天神〔源順ガ和名鈔ニ荏草(エガラ)ト有リ〕

 法華堂ノ東也。十九貫二百文ノ御朱印アリ。僧云。賴朝以前ヨリ有社也。然ドモ祝融ノ災度々ニシテ記録傳ハラズ。文獻徴トスべキナシト云。別當ヲ一乘院ト云。眞言宗ニテ京洛ノ東寺ノ末ナリ。菅相公ノ束帶ノ木像アリ。作者知レズ。足腰ヤケフスモリテ有。五臟六腑ヲ作入トナリ。ロノ内ニ鈴ヲカケテ舌トシ、頭二十一面觀音ヲ入ト云。兩脇ノ小宮ハ、紅梅殿・老松社也。

[やぶちゃん注:「祝融の災」火災。中国で火を司る神を祝融と呼ぶことに基づく。「回禄」も同じ。]

 神寶

  尊氏自畫自讚ノ地藏像  一幅

[やぶちゃん注:次の讃の解説は底本では全体が二字下げ。以下の解説も同じ(以下略す)。]

讚曰、爲天化藏主仁山書、文和四年六月六日、善根無所窮 利濟徧沙界 令我畫尊容 夢中有感通。朱印及ビスへ判アリ。

[やぶちゃん注:「文和四年」西暦一三五五年。]

  天神自畫像       一幅

  天神筆瑜伽論      二卷

長二寸五分、廿五字充アリ。此經ハ一部百卷ノ物ナリ。シカルヲ十卷ニ書ツヾメラレケル其内ノ二卷ナリ。殘ハ極樂寺ニ三卷、金澤ノ稱名寺三卷、高野山ノ金剛三味院三卷、合テ七卷ハ今猶存セリ。其外三卷ハ有所シレズト別當一乘院語キ。

  天神名號              一幅

義持將軍ノ自筆也。一行物也。

南謨天滿大自在※神顯山朱印カクノ如シ、スへ判モ有。

[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)+「曳」。「朱印」は横書き。「顯山」(足利義持の法号)の朱印が押されていることを示す。

「スへ判」花押。]

  緣起                三卷

畫ハ土佐ガ筆也。書ハ行能カト云。當社ノ建立ノ事ハ不見(見えず)。只天神ノ事ヲシルセリ。

  扇ニ古歌八首  台德公ノ自筆也卜云。此内二首ハハシ書アリ。

[やぶちゃん注:「台德公」徳川秀忠。]

  太刀                一腰

正宗、銘ナシ。長一尺三寸六分、ハヾ二寸四分、サシ表ニハ梅、裏ニハ天蓋不動ノ梵字、倶利伽羅不動ヲ彫ル。

大進坊ホリモノ也。

  笄 〔後藤祐乘彫物、梅、長九寸五分〕一本

  小刀〔嶋田助宗作〕         一本

  柄〔後藤乘眞彫物、梅、黑塗ノ鞘、梅ノ蒔繪也〕一本

 

    天 台 山

 覺園寺ノ上ノ山也。覺園寺へ行道ヨリ見ユル。

[やぶちゃん注:何故か、これと次の「大樂寺」の標題は四字下げとなっている。]

 

    大 樂 寺

 覺園寺ノ入口左ノ方ニ有。泉涌寺ノ末ニテ禪律也。覺園ノ寺内ナリ。本尊ヲ試ミノ湯ノ不動ト云。金佛也。願行ノ作ト云。大山ノ不動ヲ鑄ン爲ニ先試ニ鑄タル佛ナリトゾ。愛染、運慶作也。藥師、願行作ナリ。

耳嚢 巻之五 關羽の像奇談の事

 

 關羽の像奇談の事


 寬政八年番頭を勤仕なしける坪内美濃守物故(もつこ)せしが、彼家には御朱印の内へ御書加(かきくは)への同苗(どうめう)家來、無役(むやく)にて知行美濃に住居せし由。美濃守物故跡式(もつこあとしき)等の儀に付、右の内坪内善兵衞とかいへる者江戶表へ出、親族に小石川邊の與力を勤ける者ありて、彼(かの)方へ滯留して日々番町の主人家へ通ひけるが、或る夜の夢に、壹人唐冠(たうくわん)着し異國人と見ゆる者來りて、我は年久敷(ひさしく)水難に苦しみて難儀なれば、明日御身に出合ふべき間右愁を救ひ給はるべし、厚く其恩を報んといひしと覺(おぼえ)て夢覺(さめ)ぬ。不思議には思ひしかど可取用(とりもちふべき)にもあらざれば、心もとゞめず主人家へ明日も至り、夕陽に至り歸路の折柄、水道橋の川端を通りしに、定浚(ぢやうさらへ)の者土をあげて有しが、右土埃(つちぼこり)の中に壹尺餘の人形やうの物有(あり)しを、立寄(たちより)みれば唐人の像也。夜前(やぜん)の夢といひ心惡(こころあし)く思ふ故、定浚の人足に右人形は仔細あれば我等貰ひたし、酒手にても與へんといひしに、揚土(あげつち)の埃にて何か酒手に及ぶべきとて不取合(とりあはざれ)ば、則(すなはち)右木像を持歸りて泥を洗ひしに、何(いづ)れ殊勝なる細工なれば、池の端錦袋園(きんたいゑん)の隣成(となりなる)佛師方へ持行て、是はいかなる像ならんと尋問(たづねと)ひしに、佛師得(とく)と熟覽して、是は日本の細工にあらず、異國の細工也、蜀の關羽義死の後、呉國に其靈を顯しける故、別(べつし)て吳越の海濱にては海上を守る神と尊敬(そんぎやう)して關帝と唱(となへ)ける由、此像は關羽の像也と甚(はなはだ)賞美しける故、莊嚴(しやうごん)厨子等を拵へ故鄕へ持歸りしと、彼(かの)與力のかたりけるとや。


□やぶちゃん注


○前項連関:「時の廻り」を企略とした似非稲荷神霊事件から、「時の廻り」で見出された異国の神霊像の霊譚で連関。……しかし……私がこの話を初めて読んだ時、一番に何を想起したか……この水辺で関羽像を拾った男のもとへ、その日の夜中、関羽の霊が訪れて……礼と称してオカマをホられてしまう、という顛末であった。……そう、私の大好きな、あの落語の「骨釣り」であったのだ(リンク先はウィキ)。……♪ふふふ♪……

・「關羽」(?~二一九年)は中国後漢末の武将。河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。三国時代の蜀(蜀漢)の創始者劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。孫権(呉の初代皇帝)との攻防戦で斬首されたが、後世、神格化されて関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。算盤を発明したという伝説まである。「三国志演義」では、雲長・関雲長或いは関公・関某と呼ばれて一貫して諱を名指しされていない点や大活躍する場面が極めて壮麗に描写されている点など、関帝信仰に起因すると思われる特別な扱いを受けて描かれている。見事な鬚髯(しゅぜん:「鬚」は顎ひげ、「髯」は頬ひげ)をたくわえていたため、「三国志演義」などでは「美髯公」などとも呼ばれている(以上はウィキの「関羽」冒頭を参照した)。

 

・「坪内美濃守」坪内定系(さだつぐ 寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。寛政五(一七九三)年、御小性版頭(岩波版長谷川氏注による)。普通、官位は名目であって、実際の知行地とは無関係であるが、ここは「知行美濃」とあって、偶然、一致していたものらしい。これも「時の廻り」か。

 

・「御朱印」岩波版長谷川氏注には、『知行充行状をいうか』とある。「知行充行状」(知行宛行状)は「ちぎょうあてがいじょう」と読み、石高所領の給付を保証した文書のこと。

 

・「錦袋園」下谷池の端にあった薬店勧学屋。正しくは「錦袋圓」で、これは屋号ではなく、勧学屋オリジナルの売薬の名。底本の鈴木棠三氏注に『黄檗僧道覚(字は了翁)は修行を達成するため、淫慾を断つべく羅切した』(「羅切(らせつ)」とは摩羅(陰茎)を切断すること。「らぎり」とも読む)。『その傷口が寒暑に際して痛爛したが、霊夢によって薬方を知り、自ら調剤して治癒した。この薬を売って仏道弘布の大願を成就することを決意して、世間の非難を意とせず、六年間に三千両を貯えた。これによって文庫を設け、勧学寮を建て学徒を勉学させ、さらに池の端に薬店を開いて薬を売り、二十四か寺に大蔵経を納経した。宝暦四』(一七五四)『年寂、七十八。権大僧都法印。錦袋円の名は錦の袋に入っていたところから付けられたという』とある。かなり力の入った脱線注である。……遂にお逢いすることが叶いませんでしたが(先生は鎌倉郷土史研究の碩学としても知られ、先生御自身から鎌倉を一緒に歩いてもよい、という話が当時、私が大学時分、所属していたサークル「鎌倉探訪会」にあった)、棠三先生、この手のお話、大層、お好きなようですね……いや、私もそうです……夢告という点でも、決して脱線注では御座いませんね、何より、読んで楽しい注です。私も、こうした注を心掛けたいと思っています。……

 

・「莊嚴(しやうごん)」かく読む場合は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)といった附帯仏具によって厳かに飾ること、また、その物をいう。


■やぶちゃん現代語訳


 関羽の像奇談の事


 寛政八年のこと、番頭を勤仕(ごんし)なさっておられた坪内美濃守定系(さだつぐ)殿が物故なされたが、かの坪内家には、御朱印の内に書き加えられて御座るところの、直参の、同じ坪内と申す苗字の家来が御座って、無役(むやく)のまま、知行地美濃に住まいして御座った由。

 

 美濃守殿御逝去の跡目相続御儀式等がため、この坪内善兵衛とか申す者、江戸表へと出でて、その親族で小石川辺に与力を致いて御座る者があった故、その方へ逗留致いては、毎日、番町の主家へと通って御座った。

 

 その彼が、ある夜、見た夢に、

 

……一人の、唐冠を被(かむ)り、異国人と思しい偉丈夫、これ、来たって、

 

「――我は、永年、水難に苦しめられ、難儀致いておる。――明日(みょうにち)、御身に出逢うこととなっておるからして――どうか――この我が愁いをお救い下されたい――さすれば、厚く、その恩に報いん――」

 

と、語った……

 

と、思ったところで、目(めえ)が覚めた。

 

『不思議な夢じゃ。』

 

とは思ったものの、まあ、益体(やくたい)もない話でも御座れば、さして気にも留めず、その日の朝も主家へと至り、夕暮れに帰った。


……と……

 

……その帰るさの路次(ろし)、水道橋の川っ端を通ったところ、定浚(じょうさら)えの者が川床に溜まったを、掘って投げ上げた土が山のようになって御座った。

 

……が、その泥土の中(うち)に……

……一尺余りの人形のような物が……

 

……これ、ある……

 

……近寄って……ようく、見るれば……

 

……これ

 

――唐人の像――

 

で御座った。

 

 昨夜の夢との符合といい、聊か気味悪うも御座ったが、逆にその一致故にこそ、これ、捨て置くわけにも参らずなって、定浚えの人足に向かい、

 

「……これ、人足。……この人形……その……仔細あれば、我らが貰い受けとう、存ずる。……酒手(さかて)と引き替えにては、これ、如何(いかが)か?……」

 

と声を掛けたところ、

 

「川ん底(ぞこ)からぶち揚げた泥んこの山ん中のガラクタでぇ! 何で、酒手に及ぶもんけぇ!」

 

と、一向、とり合わねば、これ幸いと、そのまま取り上げて持ち帰った。

 

 かの宿所にて泥を洗い落し、ようく見れば、これ、なかなかに美事なる細工を施した神像で御座った。

 

 早速、池の端は例の名代の『金袋円』の薬舗の隣に住む仏師の元へと持ち行き、

 

「……これは、如何なる像じゃろか?」

 

と訊ねたところが、仏師は暫く凝っと眺めては、手に取って仔細を調べた末、

 

「……これは……我が日本の細工にてはあらず、異国の細工にて御座る。……蜀の関羽が義死した後、彼を討った呉国にもその神霊が出現致いた故……別して呉越の海浜地方にては、これ、海上を守る神と尊敬(そんぎょう)し、「関帝」と唱え祀られて御座る由、聴いたことが御座るが……いや! この像は、まさしく、その関羽の像にて、御座る。」

 

と申した上、その造作(ぞうさく)を口を極めて賞美致いた。

 

 されば、かの坪内は、この関羽像のために荘厳(しょうごん)や厨子なんどまで拵え、かの跡目の式が終わると、故郷美濃へとそれを持ち帰って御座った。……

 

 

……とは、かの坪内の親族なる与力が語って御座ったとか申す。

一言芳談 二十

   二十

 明禪法印云、あか子念佛がよきなり。さかしたちたる事どもきこしめして、被仰云(おほせられていはく)、身の程しらずの、物おぼえず。

〇赤子念佛、此次の顯性房の言にて知るべし、身をまかせて佛をたのめるなり。
 あか子念佛とは、何の意味もなく、すぐなり心にて口稱(くしよう)するとの事なり。(句解)
〇物覺ず、不覺人(ふかくじん)なり。

[やぶちゃん注:「さかしたちたる事どもきこしめして」「さかしたつ」は「賢し立つ」で、利口ぶる、賢そうに振る舞う、さかしがる、の意。明禅が、ある時、とある僧の、如何にもものが分かったようなもの謂いをお聴き遊ばされて、の意。この条は、明禅の「あか子念佛がよきなり。」と「身の程しらずの、物おぼえず。」の二つのエピグラムから構成されている。
「赤子念佛」湛澄纂輯「標注増補一言芳談抄」では本文の「あか子」も漢字表記となっている。
「此次の顯性房の言」冒頭注で述べた通り、「標注増補一言芳談抄」は湛澄によって分野別配列に完膚なきまでに組み替えられている。この条も「安心」の類に配され、事項は、「一言芳談」の順列では「六十六」に相当する、

顯性房云、小兒の母をたのむは、またく其故を知らず。たゞたのもしき心ある也。名號を信教(しんぎやう)せんこと、かくのごとし。

が配されている。]

壺置けばぽこと音して冬ぬくし 畑耕一

壺置けばぽこと音して冬ぬくし

2012/11/24

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート4〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

泰衡が郎従伴(ばんの)藤八は六郡第一の大力、武勇の名隱れなし。狩野(かのゝ)五郎を討取りて勢(いきほひ)八方に耀く所を、工藤小次郎行光馳竝(はせなら)べてむずと組み暫(しばらく)爭ひけるが、藤八遂に下になり、行光之が首を取る。城中の兵折來るを木戸口に追込み、静々(しづしづ)と引取りしは大剛勇力(だいがうゆうりき)の名士なりと皆感じてぞ稱美しける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月九日の条。

〇原文

九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎淸重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎淸近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潛馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。與大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成淸伺得此事。諫主人云。今度合戰奉先陣。拔群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳著木戸口。各名謁之處。泰衡郎從〔下部〕伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頸付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎淸近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。淸近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次淸重幷千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛屬平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上總權介廣常。廣常誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日丙申。夜に入り、明旦、阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐべきの由、之れを定めらる。爰に三浦平六義村・葛西三郎淸重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎淸近・河村千鶴丸(せんつるまる)〔年十三才。〕の以上七騎、潛かに畠山次郎の陣を馳せ過ぎ、此の山を越えて前登に進まんと欲す。是れ、天曙(あ)くるの後、大軍と同時に嶮岨(けんそ)を凌ぎ難きの故也。時に重忠が郎從の成淸(なりきよ)、此の事を伺ひ得て、主人に諫めて云はく、「今度の合戰に先陣を奉ること、拔群の眉目なり。而るに傍輩の爭ふ所を見て、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば、事の由を訴へ申し、濫吹(らんすい)を停止(ちやうじ)し、此の山を越へらるべし。」と云々。

重忠云はく、「其の事、然るべからず。縱ひ他人の力を以つて敵を退くと雖も、已に先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戰は、皆、重忠一身の勳功たるべし。且は、先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且は、獨り抽賞(ちうしやう)を願ふに似たり。只だ惘然(ばうぜん)を作(な)すこと、神妙の儀なり。」と云々。

七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ著く。各々名謁(なの)るの處、泰衡が郎從〔下部。〕伴藤八(とものとうはち)已下の強兵、攻め戰ふ。此の間、工藤小次郎行光、先登す。狩野工藤五郎は命を損(おと)す。伴藤八は、六郡第一の強力の者なり。行光相ひ戰ひ、兩人、轡(くつわ)を並べ取り合ふ。暫く死生を爭ふと雖も、遂に行光のために誅せらる。行光、彼(か)の頸を取りて鳥付(とつつけ)に付け、木戸を差して登るの處、勇士二騎、馬を離れて取り合ふ。行光、之を見て、轡を廻らし、其の名字を問ふ。藤澤次郎淸近、敵を取らんと欲するの由、之を稱す。仍つて落ち合ひ、相ひ共に件の敵を誅滅し、之(ゆ)く。兩人、駕を安んじ、休息の間、淸近、行光の合力(かふりよく)を感ずるの餘り、彼(か)の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽(そこつ)の契約を成すと云々。

次で淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲(え)たり。

亦、親能は猶子(いうし)左近將監能直者、當時、殊なる近仕として、常に御座右に候ず。而るに親能、兼日、宮六兼仗(きゆうろくけんぢやう)國平を招き、談じて云はく、「今度、能直は戰塲に赴くの初めなり。汝、扶持を加へ、戰はしむべし。」てへり。仍つて國平、固く其の約を守り、去ぬる夜、潛かに二品の御寢所邊へ推參し、能直〔上臥(うへぶし)なり。〕を喚び出し、之を相ひ具して、阿津賀志山を越え、攻め戰ふの間、佐藤三(さとうざ)秀員父子〔國衡が近親の郎等。〕を討ち取り畢んぬ。此宮六は、 長井齊藤別當實盛が外甥(がいせい)なり。實盛、平家に屬し、滅亡の後、囚人と爲(な)る。始め、上總權介廣常に召し預けられ、廣常誅戮の後、又、親能に預けらる。而るに勇敢の譽れ有るに依つて、親能、子細を申して能直に付けしむと云々。

以降、武将を一々注しているとなかなか進まないので、私が気になる人物やシークエンスでの主要人物のみをチョイスするのをお許し戴きたい。

・「工藤小次郎行光」(生没年未詳)は工藤景光の子で、頼朝の強兵に呼応して父とともに甲斐で挙兵、後、頼朝に仕えた。この阿津賀志山木戸口攻めの功により、陸奥岩井郡を与えられている。

・「藤澤次郎淸近」藤沢淸親と同一人物であろう。木曽義仲の嫡男義重(義高)が頼朝の人質にされた際に一緒に鎌倉へ下った家臣の一人であったが、義高誅殺後は幕府御家人となった。後に弓の名手として坂額御前(はんがくごぜん)を射たことでも知られる。因みに坂額御前(生没年未詳)は越後国の有力豪族城氏の一族の女武将。父は城資国、兄弟に資永・長茂らがいる。坂額の兄長茂の幕府打倒計画に呼応した建仁元(一二〇一)年の建仁の乱で、坂額の甥城資盛(資永の子)の越後国での挙兵に随う。その弓は百発百中であったと伝えられる)(坂額は両足を射られて捕虜となり、同時に反乱軍は制圧された。以下、参照したウィキの「坂額御前」によれば、『彼女は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾され』、『義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』『同時代に書かれた『吾妻鏡』では「可醜陵園妾(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)」「件女面貌雖宜」、すなわち美人の範疇に入ると表現されている』とある。

・「河村千鶴丸」後の河村秀淸(治承元・安元三(一一七七)年~?)。相模出身、通称四郎。承久の乱では北条泰時に従って京の宇治橋で戦っている。

・「成淸」榛澤成淸(はんざわなりきよ ?~元久二(一二〇五)年)武蔵榛沢郷(現在の埼玉県深谷市及び大里郡寄居町)の住人。

・「伴藤八」秀衡の代からのトップ・クラスの家臣の一人。

・「鳥付」馬の鞍の後輪(しづわ)に附けた紐。尻懸(しりがい)を結ぶための輪状になったもので前輪の同様の装置を総称して鞖(しおで)とも呼ぶ。

・「彼の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽の契約を成す」とは藤澤淸近は工藤行光が手助けしてくれたことに感謝する余り、その休息の間に、その場で、行光の息子を自分の娘の婿とすることを即行、約束してしまった。

・「淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲たり」葛西淸重は、この奥州藤原氏滅亡後の九月に頼朝による論功行賞で勲功抜群として胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡など数ヶ所に所領を賜った上、初代奥州総奉行に任じられている。当時、彼は満二十八歳であった。その彼と同等に「幷」べて河村千鶴丸が挙がっていることは注目に値しよう。満十二歳の少年千鶴丸が勲功第一の淸重と同等の首級を挙げたということである。

・「親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)。文官の御家人。公家方とのパイプ役として働き、文治二(一一八六)年に京都守護に任じられている。後、建久二(一一九一)年に政所公事奉行に任ぜられ、後の十三人の合議制の一人ともなった。

・「左近將監能直」大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)は相模国愛甲郡古庄郷司近藤(古庄)能成の子として生まれ、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ったが、能成が早世したため、母の姉婿中原親能の養子となり、中原能直とも名乗った。文治四(一一八八)年に十七歳で元服、この年の十月十四日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。当時は病いのために相模の大友郷にあって、十二月十七日になって初めて大倉御所に出仕、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べているが、この阿津賀志山の戦いはそれからたかだか八月後のことに過ぎない。「吾妻鏡」では能直を、頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者のないお気に入り)と記している。その後も頼朝の近習を務め、建久四(一一九三)年の曾我兄弟仇討ち事件では曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守っている。建久七(一一九六)年一月には豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向、承元元(一二〇七)年頃には筑後国守護に任ぜられているが、任地への在国は一時的なものであったと考えられ(九州には守護代を配していたと見られる)、京と鎌倉を頻繁に往来している(以上はウィキ大友能直に拠る)。

・「宮六傔仗國平」宮道国平(みやじのくにひら 生没年不詳)。幕府御家人。斎藤実盛の外甥。ウィキ宮道国平から引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『宮道氏は、物部氏庶流とも日本武尊末裔とも伝えられる氏族であるが、国平の系譜関係は不明である。一方で斎藤実盛の弟・実員の子とする系図があることから、本姓藤原氏の斎藤氏の一族とする見解もある』。当初は『実盛に付き従い治承・寿永の乱で平家方であったが、平家滅亡の後、囚人として上総広常に、一一八三年(寿永二年)に広常が謀殺された後は中原親能に預けられた。その後勇敢さを見込まれ、親能の養子大友能直付きとなった。一一八九年(文智五年)の奥州合戦に従軍し戦功により奥州に所領を与えられ、一一九〇年(文治六年)の大河兼任の乱に際しても出陣している。『吾妻鏡』では、一一九一年(建久二年)に奥州より牛を献上したとの記事を最後に登場しなくなる』。『一方、実盛死後に武蔵国幡羅郡長井庄(現埼玉県熊谷市)を継ぎ、実盛創建に係る聖天山歓喜院(埼玉県熊谷市)に十一面観音と御正躰錫杖頭を寄進したことが同院の縁起に見える。また、八幡神社(秋田県大仙市)には中原親能と連名の棟札が現存していることから、奥州だけでなく出羽国山本郡にも所領をもっていた可能性が高い』とある。この「宮六傔仗」という呼称は不詳。「傔仗」は本来、律令制で辺境の官人に与えられた護衛武官を指し、姓氏の一つにはなった。識者の御教授を乞う。

・「上臥」本来は宮廷用語で、宮中や院中などで宿直(とのい)することをいう。

・「佐藤三秀員」「三(ざ)」は三郎の略。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 法華堂/東御門

   法 華 堂

 西御門ノ東岡邊ノ小杉森是ナリ。眞言宗ナリ。此本尊ハ阿彌陀也。今ハ雪下ノ供僧相承院ニ有。今ハ道心者ノ僧居之(之れに居す)。如意輪觀音ノ木像アリ。運慶作也。僧謂テ云。

 昔由比太郎持忠卜云者ノ娘、七歳ニシテ死ス。其骨舍利五粒ニナル。ソレヲ拾ヒ、此觀音ノ腹中ニ納ム。分身シテ三升計ニナル。頭ワレテ溢レ出ルト云傳フ。今モ五粒ハ此像内ニ有、分身セシ三升計ノ舍利ハ相承院ニ有ト。此寺ハ相承院持分也。報恩寺ノ本尊ナリシト也。地藏脇立ニ有。又報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有。寺ノ上ニ賴朝ノ墓有土石。如意輪堂モフケイ寺トモ云。賴朝ノ持佛堂ナリト云。

[やぶちゃん注:「持忠」は「時忠」の誤り。

「報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有」「新編鎌倉志卷之二」の「法華堂」の項に、

異相なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是歟。

とあるから、この「キウジ」は「ジキウ」の誤字であろう。

「如意輪堂モフケイ寺トモ云」底本では「如意輪堂トモフケイ寺トモ云」の「ト」の脱字と推定されているが、「フケイ寺」の呼称は不詳。識者の御教授を乞うものである。但し、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」の「法華堂」の記載を管見しても「如意輪堂」、「フケイ寺」に相当するような呼称は出て来ない。]

 

   東 御 門

 法華堂ノ東ノ谷也事ハ、西御門ノ所ニ見へタリ。

耳嚢 巻之五 かたり事にも色々手段ある事

 かたり事にも色々手段ある事

 

 近頃の事也。牛込赤城の門前に名題(なだい)の油揚を商ふ家有(あり)。右油揚名物の段は下町山手迄も隱れなければ誰しらざる者なし。或日壹人の侍躰(てい)の者、衣類等賤しからず、彼(かの)油揚を錢貮百文調ひて、右見世(みせ)に腰をかけて水もたまらず喰盡(くひつく)し、夫より日數廿日程過て又々來りて、同じく油揚を百文分喰ひけるが、其日は時の廻りにや油揚賣(うり)切る程に商ひける故、聊か不審を生ぜし間、其後日敷經て來る時、御身程油揚好み給ふ人なしとて馳走なしければ、飯酒(めしさけ)は不及申(まうすにおよばず)、油揚のみ喰て、我等事は江戸中は愚か、日本中の油揚喰はざる所もなし、然るに此所に增(まさ)る事なしとて、其住居もあからさまにはいわず、全く稻荷の神ならんと家内尊崇なしけるが、去年の暮の事也しが、又々來りて例の通(とほり)油揚を喰ひ、代錢も亦例の如く拂ひて後、我々も少々官位の筋ありて、近頃には致上京(じやうきやういたし)候など咄して、路用も大かた調ひぬれど、いまだ少々不足故延引の由を語りければ、彼油揚屋は兼て神とぞ心得居(をり)ける故、其不足を聞(きき)て調達をなしなんといへど斷(ことわり)て承知せず。元日の間に合(あは)ず殘念なれなどいひて不取合(とりあはざる)故、家内信仰の餘り深切(しんせつ)に尋問(たづねとひ)ければ、拾五兩程の由故、則(すなはち)亭主も右金子取揃へ遣(つかは)しければ、忝(かたじけなき)由にて預りの證文なすべきといひしに、夫(それ)にも不及(およばず)との事故、左あらば我等が身にもかへがたき大切の品を預け印(しるし)とせんとて、懷中より紫の服紗(ふくさ)にて厚包(あつくつつ)みて封印急度(きつと)なしたる物を渡し、路用官金等も調ひし上は明日出立して上京なし、日數五日には立歸り又上京なすべしといひし故、彌々神速(じんそく)は人間にあらざる事と感賞して、右服紗包は大切に仕廻ひ置しが、五日過ても沙汰なし。春に成りても何の沙汰なければ、彼服紗包を解き改(あらため)ければ温石(をんじやく)なれば、始(はじめ)てかたりに逢ひし事を知りて憤りけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。騙り話としては何となく憎めない気がする滑稽譚ではある。ただ想像すると、油臭くて気持ちが悪くなるという欠点はあるが。先行する「世間咄見聞集」(作者不詳 元禄十一(一六九八)年)の元禄一一年の条には、やや類似した手口で饅頭屋の主人が稲荷を騙る博打打ちによって富貴になるための加持祈禱の依頼に絡んで三百両を騙し取られる話が載り、また北条団水の「昼夜用心記」(宝永四年(一七〇七)年)の「一の五」には、京都小川通りの菓子屋が同様の手口で隠居料七百料をすりかえられた話が載る(以上は岩波文庫版長谷川強校注「元禄世間咄見聞集」の本文及び注を参考にした)。

・「牛込赤城の門前」現在の東京都新宿区赤城元町にある赤城神社の東西にあった門前町。ここは明治維新までは赤城大明神・赤城明神社と呼ばれた。

・「水もたまらず」は「水も溜まらず」で、刀剣で鮮やかに切るさま。また、切れ味のよいさまを言う語であるが、ここは当人が侍(事実そうかは知らない)であることに引っ掛けてあっという間に、素早く、の謂いである。

・「時の廻り」その男が現われた、その日のその時刻が偶然、油揚げが異様に売れて売り切れるのと一致したことを言う。冷静なる話者による挿入である。

・「急度(きつと)」は底本のルビ。

・「温石(をんじやく)」は底本のルビ。言わずもがなであるが、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりしてからだをあたためるために用いる石。焼き石。しばしばこの手の騙りでは御用達の、小判や宝玉の似非物となる。

・「去年の暮の事也しが」冒頭に「近頃の事也」とあるから、これは高い確率で執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春の前年寛政八年か、七年の暮れと考えられる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 騙り事にも色々手段の御座る事

 

 近頃のことで御座る。

 牛込赤城明神の門前に、名代の油揚げを商(あきの)う店が御座る。ここの油揚げの評判なることは、これ、下町・山手までも隠れなく、知らぬ者とて御座らぬ。

 ある日のこと、一人の侍体(てい)の者が来たって――これ、着衣なんども賤しからざる御仁にて御座ったが――かの油揚げを何と、銭百文分も買い求めて、そのまま店先に腰を掛けて、眼にもとまらぬ速さで喰い尽くすと、黙って帰って御座った。

 それより二十日ほど過ぎて、またまた来たって、同じく油揚げ百文分を喰い尽いて同じきに帰って御座ったが――その日は、これ、たまたま時の回りが一致したものか――その御仁の来たった折りが丁度、油揚げの売り切れる程の繁昌に当たって御座ったがため、店の主人は聊か、

『……不思議なことじゃ……』

と思うた。

 かの御仁、その後、数日を経て再び現れたによって、主人は、

「……貴方さまほどに、油揚げをお好みにならるる方は、初めてにて御座ります。」

と声をかけ、膳を進めて饗応致いた。

 しかし、かの男、飯や酒は申すに及ばず――油揚げ以外のものには一切口をつけず――油揚げだけを、これ、喰う、喰う、また喰う、その時あった、ありったけの油揚げを皆、喰い尽くして、而して曰く、

「……拙者は江戸中はおろか――日本中の油揚げ――これ、喰うたことのない油揚げは、御座ない。……然るに――ここの油揚げに優るものは、これとて、御座ない!」

と喝破した。

 丁重に男の住まいなんどを訊ねてはみたものの、これ、何故かはっきりとは言わずに、その日も帰って御座った。

「……これはもう――全く稲荷の神さまに相違ない!……」

と主人以下家内一同、すっかり尊崇致す仕儀と相い成った。……

 ところが、去年(こぞ)の暮れのことで御座る。

 またまたかの男の来たっては、例の通り、油揚げを鱈腹平らげ、代銭もいつも通りに払(はろ)うた後、

「――実は――我らこと――この度、少々、官位昇進の筋――これ、御座っての――近いうちには――これ、上京致すことと、相い成って御座った……」

なんどという話しを始めたかと思うと、

「……いや路銀も大方は……調うて御座るのじゃが……未だ少々……不足して御座る故……出立(しゅったつ)は延引致さざるを得まいが……これで……官位昇進の道は断たるることと相い成ろうかのぅ……」

と語って御座った故、かの油揚げ屋主人、予(かね)てより、稲荷神と信じて御座った故、

「――その不足の分は、お幾らで御座いまするか? 私(わたくし)どもが御用達致しますに依って!」

と申し述べたところが、男は断って、一向に承知致さぬ。しかし、そのそばから、

「……官位昇進の儀なれば……元日に間に合わぬというは……これ……我らが眷属の絶対の礼式を失し……官は最早得られぬ……ああっ! これ……如何にも残念無念じゃ!……」

と独りごちながらも、やはり、借財の申し出はとり合わぬ故、家内一同、懇切丁寧に祈誓致いては不足の金子を尋ね問う。すると、男はいやいや、

「……そうさな……十五両ほどで御座るが……」

との申したによって、主人は早速に金子を取り揃え、男に差し出だいたれば、男は、

「――忝(かたじけな)い!」

とて礼を述べ、懐に収むると、

「……さすれば……預かりの証文……これ、認(したた)むるが――法――で御座ろう、のぅ……」

と申したによって、主人は、

「いえ――我らの尊崇致しますお方なればこそ――それには及びませぬ。」

と答えたところ、男は、

「――そうか。――さすれば我らが身にも、代え難き大切なる――ある品を――これ、貴殿に預けおき――れを預かりの證文の代わりの印(しるし)と致しそう。――」

と申すと、懐中より紫の袱紗(ふくさ)にて厚く包みて、厳重に封印された物を取り出だすと、うやうやしく主人に渡いた。

「――路銀と官位取得のための上納金なども調った上は、明日、出立致いて上京をなし――そうさ、五日の後には立ち帰って――その折りに下賜された金子を以て貴殿に返金致いて――再び上京致す所存にて御座る。」

と申す故、主人以下家内一同、聞き及んで、

「いや! いよいよお稲荷さまじゃ! その神業の脚力、これ、やはり人間にはとてものこと、出来ざる速さじゃて!」

と感嘆すること頻り。……

 その日、主人以下一同、店先にて合掌を成す中、男は深々と礼を致いて帰って御座った。……

 さても主人は、かの預かった袱紗包みを大切に仕舞いおいて御座ったが……

……五日過ぎても……音沙汰が……ない……

……春になっても……何の音沙汰も……これ……御座ない……

……痺れを切らいた主人、かの袱紗を取り出だいて、これを解き改めて見たところが……

……中にあったは……

――温石(おんじゃく)一つ――で御座った……

……されば、ここに初めて、騙(かた)りに逢(お)うたことを知り、家内一同、憤怒致いたとのことで御座る……いやはや……後の祭り……後の祭り……

一言芳談 十九

   十九

 

 或人(あるひと)明禪法印にたづね申(まうし)て云、非人法師(ひにんほふし)は、いかなる所にか住(すま)すべく候らん。仰(おほせて)云、念佛だに申されば、いかなる所にてもありなん、念佛のさはりとならん所ぞ、あしかるべき。但(ただし)、境界(きやうがい)をば、はなるべきなり。

 

〇念佛だに申されば、此の御示し法然上人の御すゝめと同じ事なり。禪勝房に示し給へる御返事、絵詞傳四十五あり。とかく念佛の申さるゝやうにせよとなり。

〇境界、女人近きところ、富貴の家のあたり、人立多きところ、物さはがしき處などをいふ。尤も眷屬の事をもいふなり。

 

[やぶちゃん注:「非人法師」この「非人」は現実社会の身分制度の被差別民であった「非人」を指すものではないので注意。世俗社会から遁世して「俗世の人に非ざる」存在となった沙門のことを指す。元来、「非人」は「人」の対義語として、釈迦如来の眷属で仏法を守護する護法善神天龍八部衆や、悪鬼のような人間ではない、仏教世界での下位層の存在広く指す語であった。

「禪勝房」(承安四(一一七四)年~正嘉二(一二五八)年)はもと天台宗の僧であったが、蓮生(れんじょう:名将熊谷直実の法名)の説法を聴いて京へ上り、蓮生の師であった法然の弟子となった。後に郷里遠江に帰って番匠(大工)をしながら念仏と教化につとめた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「絵詞傳四十五」現在、知恩院蔵の国宝である「法然上人行状絵図」のこと。但し、現在知られるものは全四十八巻(プロトタイプが存在しそれは四十五巻であったものか)。法然の誕生から入寂に至る行状の他、法語・消息・著述などの思想も表わし、更に門弟列伝・天皇や公家武家の帰依者の事蹟まで含んだ構成で、現在のものは後伏見上皇の勅命により比叡山功徳院の舜昌法印(後の知恩院第九世)が徳治二(一三〇七)年から十余年をかけて制作したと伝えられるが、筆者不詳。特に前半部は構図・色彩ともに優れ、鎌倉後期の宮廷絵所絵師の画風を顕著に見せている(浄土宗総本山知恩院公式サイトの「宝物 法然上人行状絵図」の記載を参照した)。

「境界」仏教では善悪の報いとして各自が受ける境遇の意と、五官及び心の働きにより認識される対象、六根の対象である色・声・香・味・触・法の認知・思考の作用によって生れる六境(単に境ともいう)の意を持つ。大橋氏の注は前者を採って『善悪のむくいによって各自の受ける環境』とあるが、これはおかしくはあるまいか? 果報によって受けることが宿命である境遇から離れることは論理的に出来ないはずである。私は寧ろ、後者で採って、六根が敏感に刺激される、欲望に繋がるところの、猥雑でおぞましい認知や思考の起こりやすい対象(女の近く・富貴の者周辺・群衆の中・なんとなく騒がしい場所、そして親類縁者知己知人)を離れよ、逃れよと明禅は述べているのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである。]

芥川龍之介漢詩全集 九

   九

 

黄河曲裡暮烟迷

白馬津邊夜月低

一夜春風吹客恨

愁聽水上子規啼

 

〇やぶちゃん訓読

 

 黄河 曲裡(きよくり) 暮れ 烟迷(えんめい)

 白馬 津邊(しんへん) 夜月 低し

 一夜(ひとよ)の春風 客恨(かくこん)を吹き

 愁聽(しうちやう) 水上 子規(ほととぎす)啼く

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。

大正四(一九一五)年九月二十一日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七九)所載。

詩の前には、心を動かす人としてミケランジェロ・レンブラント・ゴヤを挙げて、それぞれの感心した事柄を簡潔に述べた上で『かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の審判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせていゐる』と書き、続けて『櫻の葉が綠の中に点々と鮮な黄を点じていたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黄色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がして一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした』(ここで改行と思われる)『新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未だに出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた』とあって表記の詩が記され、後には『あまりうまくない』と記している。以下、この書簡について「・」で注する。

・「新聞」とは「五」の注に記した『松江新報』に発表した芥川来遊前後を記した井川恭の随筆「翡翠記」のことを指す。「秋は曆の上に立つてゐた」は「翡翠記」の「十六」に現われる(厳密には「秋は已に曆の上に立つてゐた」。その冒頭を以下に引用しておく。引用は島根国語国文会一九九二年発行の寺本喜徳編「井川恭著 翡翠記」に拠ったが、これは新仮名新字体であるので、恣意的に正仮名正字体に代えてある。

   《引用開始》

古浦へ行つた翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲勞(つかれ)が節々に殘つてゐる四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうへに長々と伸ばしてゐた。

 秋は已に曆の上に立つてゐた。窓框(まどわく)に頤(おとがひ)をもたせて茫然(ぼんやり)とながめると、透(す)きやかな水をひろびろと湛へてゐる湖の面がものうい眼のなかに一杯に映つた。十六禿(はげ)のうすい朱(あけ)のいろの崕(がけ)が靜かな影を冴えた木の隈に涵(ひた)してゐる上には、眞山(しんやま)や蛇山(じややま)や澄水山(すんづさやま)が漸次(しだい)にうすく成つて消えて行く峰の褶曲(しわ)を疊みながら淡い雲を交へた北の空をかぎつてゐた。

 みづうみの手前の岸には白い莖をそろへて水葦が風にそよぎながら立つて居り、水の涯(ほとり)の村里やを取り卷いて搖(ただよ)うてゐるさびしい透明な氣分を一點にあつめた哀しい表情がかすかやどつてゐた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんぢ)と乘り降りの人の稀れな驛々を汽車はたゆたげにすぎて行つた。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云つて頻りに賞めてゐた。

   《引用終了》

因みに、これを読んでも井川(恒藤)恭の文才が並々ならぬものであることが分かる。ウィキの「恒藤恭」によれば、ここまでの井川の事蹟は(アラビア数字を漢数字に代えた)、『島根県松江市に兄弟姉妹八人の第五子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後三年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し三五〇円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に一ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う』。『健康を回復した恭は、一九一〇年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。二年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える』。大正二(一九一三)年、『恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったと述べている。京都帝国では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている』とあり、その少年期や思春期はまさに文学という額縁に彩られていたことが分かる。

・「定福寺」以下、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」から「松江連句(仮)」の「定福寺」という龍之介の句及び私の注を示してここの注に代える。

   《引用開始》

      定福寺

〔丶〕 禪寺の交椅吹かるゝ春の風          阿

 

[やぶちゃん+協力者新注:この「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「常」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく。]

   《引用終了》

この常福寺は、井川の馴染みでもあり、龍之介の滞在中、真山白鹿城登山の拠点として、住職の妻の接待を受けている(「翡翠記」二十三)。ここでは、謂わば、その御礼のための常福寺追想の漢詩を龍之介が作りたいと思いながら(それは恩義ある住職に龍之介のそれを返礼とせんがために井川から望んだものなのかもしれない)出来ないことを言っている。俳句では、やはり「松江連句(仮)」に、

 

〔駄〕 梵妻だいこくの鼻の赤さよ秋の風

         (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

 

とある(「梵妻」は僧侶の妻。大黒天が厨くりやに祀られたことから大黒(だいこく)とも言う)。

・「竹枝詞」以下、竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。

 

「烟迷」踏み迷うほどに濃い靄が立ち込めること。]

水族館一句 畑耕一

   水族館

短日のさかだち泳ぐ魚ばかり


[やぶちゃん注:先の「短日の時計とまりて部屋ひろし」のすぐ後にあるが、僕のミスで掲載し忘れていた。]

2012/11/23

冬ぬくし硝子の泡も影となる 畑耕一

冬ぬくし硝子の泡も影となる

 

[やぶちゃん注:これは旧来の粗製のガラス窓の板ガラスにしばしば含まれていた気泡のことを言っているものと思われる。私には、こんなことを言わずとも、すんなりと落ちるのだが、こういう注を附さねばならぬのも、最早、時代か。]

耳嚢 巻之五 貴賤子を思ふ深情の事

 貴賤子を思ふ深情の事

 老職を勤(つとめ)給ふ伊豆守信明公、寛政八年、公命を請(こふ)て日光へ行(ゆき)て事を行ひ給ふを、母儀の送るとて詠(よみ)給ふよし。

  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌物語二連発。

・「伊豆守信明」宝暦一三(一七六三)年)~文化一四(一八一七)年)三河吉田藩第四藩主。所謂、寛政の遺老。寛政五(一七九三)年に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導、享和三(一八〇三)年十二月に一旦、老中を辞職するも、二年半年後の文化三(一八〇六)年五月には老中に復帰、死去するまで幕政を牛耳った。寛政八(一七九六)年は正しく未だ現役老中時代、老中という名に騙されてはいけない! この時、彼は満三十三歳である。

・「思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと」

  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏み迷ふなと

「黑髮の山」日光の男体山。昔より日光山・黒髪山・二荒(ふたら)山などの異称を持つ。とは黒髪山は全山緑樹が覆い繁っていることから、二荒山は観音浄土の補陀洛(梵語フダラク)に基づく。「黑髮の山」は黒髪山と未だ壮年の信明を掛けていよう。歌意は、

――こころから願っておりますぞよ……その未だ黒髪の若気なればこそ、黒髪山の山中にて本道を踏み迷うな、日光山のお勤めにて、誠(まこと)の御政道を踏み迷うな、と――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 貴賤の区別なく子を思う深情に変わりのなきこと事

 

 老中職を勤められた伊豆守信明殿が、寛政八年、公命を受けて日光へ赴任なさるること相い成った。

 その際、御母堂がお見送りをなさるとて、その折り、お詠になられたという歌。

 

  思ふぞよその黑髪の山越へて誠の道を踏迷ふなと

一言芳談 十八

   十八

 

又云、居所(きよしよ)の心にかなはぬはよき事なり。此処にかなひたらんには、われらがごとく不覺人(ふかくじん)は、一定執着(いちぢやうしふぢやく)しつとおぼえ候なり。

 

〇一定、さだめて執着(しふぢやく)すべし。

 

[やぶちゃん注:岩波版では最後が「一定執(いちぢやうしふ)しつとおぼえ候なり。」となっている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像によって訂した。

「不覺人」覚悟のできていない人。不心得者。ここでは、仏法の「覺」(悟り)に対する「不覺」であるから凡夫の意味でよい。「ふかくにん」とも読むが、『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』は「じ」、国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像の草書崩し字はどうみても「し」で「に」ではない。――さてもこの章は訳したい。

〇やぶちゃんの現代語訳

 また、明禅法印はこうも云われた。

「……住んでいるところに満足しないことはよいことである。「住んでいるところに満足している」と思ってしまうと、我々のような凡夫の場合は、そこ――「満足している住んでいるところ」――即ち――現世――に必ずや、逆に執着してしまうに違いない、と思われるからで御座る。……」

これは一種の鮮やかなパラドックスである。住むことに住居に満足しないというのは住居への執着のように見え乍ら、そのじつ「住居」はその外縁を大きく広げて「現世」を住居と見る時、それは執着を捨てるという無限遠に広がるのである。]

我が家の長男と四女

義母の家から昨日養子にやってきた、僕の長男と四女

あんちんくん

きよひめちゃん

である――

20121123114342

この子たちの和服は総て義母の手縫いである。

芥川龍之介漢詩全集 八

   八

 

  蓮

 

愁心盡日細々雨

橋北橋南楊柳多

櫂女不知行客涙

哀吟一曲采蓮歌

 

〇やぶちゃん訓読

 

    蓮

 

 愁心 盡日(ぢんじつ) 細々たる雨(あめ)

 橋北 橋南 楊柳(やうりう)多し

 櫂女(たうぢよ) 知らず 行客(かうかく)の涙(なみだ)を

 哀吟 一曲 采蓮歌(さいれんか)

 

[やぶちゃん注:「櫂女」船を漕ぐ女。蓮採りの小舟を漕いでいる娘を指すのであろう。邱氏は『船家の女』と注されているが、これだと私は結句との自然な流れが損なわれるように思われる。

「采蓮歌」江南地方の女性が蓮を採る際に歌う民謡。]

芥川龍之介漢詩全集 七

   七 甲

 

 松江秋夕

 

冷巷人稀暮月明

秋風蕭索滿空城

關山唯有寒砧急

擣破思郷万里情

 

〇やぶちゃん訓読

 

  松江秋夕

 

 冷巷(れいかう) 人稀れに 暮月明(めい)なり

 秋風 蕭索として 空城に滿つ

 關山(くわんざん) 唯だ有る 寒砧(かんこ)の急(きふ)

 擣破(たうは)す 思郷万里(しきやうばんり)の情

 

     七 乙

 

  冷巷人稀暮月明

  秋風蕭索滿空城

  關山唯有寒砧急

  搗破思郷万里情

 

  〇やぶちゃん訓読

 

    松江秋夕

 

   冷巷 人稀れに 暮月明なり

   秋風 蕭索として 空城に滿つ

   關山 唯だ有る 寒砧の急

   搗破(たうは)す 思郷万里の情

 

[やぶちゃん注:これも秋で仮想の一首である。

「七甲」は前掲通りの井川書簡所載。

「七乙」は旧全集では前掲書簡の次に配されてある翌日の大正四(一九一五)年八月二十四日附石田幹之助宛(岩波版旧全集書簡番号一七五)所載。

石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)は芥川や井川の一高時代の同級生で、当時は未だ東京帝国大学文科大学東洋史学科に在学しており、この翌年に卒業後、同大史学研究室副手となって中国に渡り、モリソン文庫の受託、またその後身である財団法人東洋文庫の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。「七乙」は御覧の通り、結句の冒頭の一字が異なるだけであるが、総ての字の右に「〇」の朱圏が附されている。なお、圏点は本来は文字強調や詩の眼目となる「詩眼」の文字の脇などに附すもので、ウィキの「圏点」ではあくまで日本語で使用されると限定しているが、邱氏は「芥川龍之介の中国」の注で『中国的な雰囲気を出すために、石田に書き送った詩は一字一字に朱圏がつけられている』と記載しておられ、中国でもそうしたものとして普通に使われていたことが分かる。なお、この書簡は葉書前後に有意な消息文があるので、圏点を外した状態で示す。中国史に詳しい石田にこれを送ったところから、龍之介としてはかなりの自信作であったことが窺われる。

 

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)

   冷巷人稀暮月明

   秋風蕭索滿空城

   關山唯有寒砧急

   搗破思郷万里情

關山は一寸洒落てみただけ天守閣も街も松江は大へんさびしい大概うちにゐますひまだつたらいらつしやい

 

「關山」関所のある山は辺塞の地の砦を意味している。

「寒砧の急」寒い晩秋の夜に打たれる砧(きぬた)の音の気忙しい、それでいて荒涼として淋しい響き。以上から流石に誰もがお分かりになっているように、これは知られた李白の「子夜呉歌」の秋の一首をモデルとしている。

 

   子夜呉歌

  長安一片月

  萬戸擣衣聲

  秋風吹不盡

  總是玉關情

  何日平胡虜

  良人罷遠征

 

   長安 一片の月

   萬戸 衣を擣(う)つの聲

   秋風 吹きて盡きず

   總て是れ 玉關の情

   何れの日にか胡虜を平らげて

   良人 遠征を罷めん

 

「子夜呉歌」は楽府題で、本来は子夜という娘が作った呉の民謡であるが、李白はこの曲をイメージしながら、四季を歌った四首の詞を書いた。その中の秋を歌ったもので本邦でも知らぬ者とてない詩である。これは楽府の辺塞詩の銃後版で、辺塞に徴用された夫を思う妻の夜鍋仕事のワーク・ソングの形を取っている訳だが、龍之介のそれは、それに仮託させた自身の帰らぬ初恋の人への堪えがたい絶唱として響いているように思われる。]

芥川龍之介漢詩全集 六

   六

 

  眞山覧古

 

山北山更寂

山南水空廻

寥々殘礎散

細雨灑寒梅

 

〇やぶちゃん訓読

 

   眞山(しんやま)覧古

 山北(さんほく) 山 更に寂し

 山南 水 空しく廻(めぐ)る

 寥々(れうれう)として 殘礎 散り

 細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ

 

[やぶちゃん注:「眞山」は松江市法吉町の北部にある標高二五六メートルの山。築城主は平忠度といわれるが、特に毛利元就が尼子氏の白鹿(しらが)城攻略のために陣を敷いたことで知られ、尾根や頂上部に僅かな城郭の跡が現存する。山頂からは松江市や日本海が見下せる(以上は主にゼンリンの「いつもNAVI」の真山城址の記載に拠った)。

「細雨 寒梅に灑ぐ」「五」の注で示したように龍之介が訪れたのは八月で、本詩の詩的映像全体は想像のものであって実景ではない。やぶちゃん芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」の「松江連句(仮)」をお読みになれば分かるように、彼らは何度もこの山に大汗をかいて登っては、爽快を楽しんでいる。いや、故にこそ、彼の内面の、やはり癒し難い寂寥が反映した心象風景であったと言えるのであろう。]

芥川龍之介漢詩全集 五

   五

 

  波根村路

 

倦馬貧村路

冷煙七八家

伶俜孤客意

愁見木綿花

 

〇やぶちゃん訓読

 

  波根(はね)村路

 

 倦馬(けんば) 貧村の路(みち)

 冷煙 七八家(しちはつか)

 伶俜(れいべん) 孤客(こかく)の意(おも)ひ

 愁見(しうけん)す 木綿(もめん)の花

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。

大正四(一九一五)年八月二十三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七四)所載。

以下、四首連続で当該書簡に載る(以下、四首では以上の注記を略す)。

 龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、畏友井川恭の郷里松江に来遊、初恋の人吉田弥生への失恋の傷心の痛手を癒した(この井川の誘いは勿論、それを目的とした確信犯である。それは龍之介自身もよく分かっていた)。本書簡は帰京した翌日に認められたそれへの返礼で、そこに忘れ難い旅の思い出を四首の漢詩で示したものである。なお、この度の直後、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載された。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で初めて公開された(リンク先はその初出形を復元した私の電子テクスト)。

 書簡は『大へん世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有つた』と真心の謝辞に始まり、『非常にくたびれたので未だに眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない』(「遲しまつた」はママ)とあって以下に四首が示されている。

「羽根村」石見地方の石東地域(石見東部地域)に位置しする旧安濃郡(あのぐん)羽根村、現在の島根県大田市波根町と思われる。江戸時代は商港として繁栄したが、龍之介が訪れた当時は海浜の淋しい村落であったようである。ここで龍之介は井川と海水浴をしている。この旅で二人は仮称「松江連句」と呼ばれる連句をものしており、そこに、羽根での井川の句に、

〔駄〕 ゆく秋や五右エ門風呂に人二人        井

というのがある。これについては、以前に私のやぶちゃん芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」で以下の注を附したので引用しておく。

   《引用開始》

やぶちゃん+協力者新注:「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、『波根海岸で泳いだ後芥川が初めて五右エ門風呂に入ったときの、戸惑ったユーモラスな樣を彷彿させる。』と記す。これは井川の「翡翠記」の「二十」に現われる。泊まりで訪れた石見の波根海岸での、海水浴の後の場面である。該当箇所を「翡翠記」より引用する(四十八ページ)。

 海から上って二人は風呂場をさして行った。

「ヤッ五右衛門風呂ごえもんぶろだね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」と龍之介が大に無気味がる。

「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏おどりをするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。

 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸つかっていたが、

「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。

   《引用終了》

「伶俜」落魄れて孤独なさま。勿論、「孤客」龍之介自身を指す。]

芥川龍之介漢詩全集 四

   四

 

放情凭檻望

處々柳條新

千里洞庭水

茫々無限春

 

〇やぶちゃん訓読

 

 放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば

 處々 柳條(りふでう) 新たなり

 千里 洞庭の水

 茫々 無限の春

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この大正四(一九一五)年四月一日に龍之介は「ひよつとこ」を『帝国文学』に発表している(リンク先は私の初出稿+決定稿附やぶちゃん注版)。

大正四(一九一五)年六月二九日(推定)附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一六五)所載。

 書簡冒頭には『手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者に通つてゐる』とあって、かなり体調を崩している様が見て取れる。これは、実はこの年の初めに起った初恋の人吉田弥生との失恋(弥生が戸籍の移動が複雑で非嫡出子扱いであったことや吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったことなどから養家芥川家から激しい反対にあったためとされる)の痛手を遠因としており、新全集の宮坂覺氏の年譜の五月中旬の項には『一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』が、これについては『破恋の痛手から逃れるための吉原通いの影響も指摘されている』とある。その後文で『體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい』と続くことから、井川の手紙は出雲行を誘うものであったことが判明する(「五」以下の漢詩及び注を参照のこと)。それに続けて東京帝国大学英文科二年の学年末試験が済んで『せいせいした その時いゝ加減に字を並べて』として本漢詩を掲げ、『と書いた それほど 樂な氣がしたのである』と記している(本書簡は以下も続き、非常に長いものであるが、それ以降の内容は直接、漢詩とは拘わらないので省略する)。

「放情」は「放情自娯」で「情を放(ほしいまま)にして自(おのづ)から娯(たの)しむ」、自在な感懐を以って自由に楽しむの謂い。

「檻」は欄干。

「柳條 新たなり」柳の枝は新緑に萌えている。]

芥川龍之介漢詩全集 三

   三

 

寒更無客一燈明

石鼎火紅茶靄輕

月到紙窓梅影上

陶詩讀罷道心淸

 

〇やぶちゃん訓読

 

 寒更 客無く 一燈明らかなり

 石鼎(せきてい) 火(ひ)紅ゐにして 茶靄(ちやあい)輕(かろ)し

 月 紙窓(しさう)に到り 梅影上(のぼ)る

 陶詩 讀み罷(や)みて 道心淸し

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十二歳。

大正二(一九一三)年十二月九日附淺野三千三宛(岩波版旧全集書簡番号一一五)に所載。

淺野三千三(あさのみちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は三中の後輩。後に東京帝大薬科に進学、薬学者となって金沢医大薬専教授を経て、昭和一三(一九三八)年には東京帝大教授となった。地衣成分の研究や結核の化学療法剤の研究などで知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 詩の前には例によって『惡詩御笑ひ下され候』とあるが、当該書簡文にはその前の中間部に、漢文についての興味深い龍之介の所感が記されている箇所がある。当該部分を引用する。

 

此頃又柳宗元を少しづつゝよみ居を候小生は最柳文を愛するものに候昌黎が柳州の文をよむに先だち必薔薇水を以て手を洗へる誠にうべなりと思はれ候短かけれど至小邱西小石潭記に柳々州の眞面目を見るべく讀下淸寒を生ずる心地せられ候

 

・「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の自然詩人。唐宋八大家の一人。

・「昌黎」同じく中唐の詩人で唐宋八大家の一人で、柳宗元とともに宋代に連なる古文復興運動を起こした韓愈(七六八年~ 八二四年)の別名(昌黎(現在の河北省)の出身であると自称したことに由る)。

・「柳々州」柳宗元の最後の任地柳州(現在の広西壮(チワン)族自治区)に因んだ呼称。因みに中国語では記号「々」(しばしば勘違いしている高校生がいるが、これは漢字ではない)は本来ないので(現代では非公式には用いられるらしい)「柳柳州」と書くのが正しい。

・「小邱西小石潭記」は「小邱の西の小石潭に至る記」と訓読する。掲載書を所持しないので、中文サイト「大紀元文化網」に載るものを、一部表記を本邦で表記可能な漢字及び当該正字に直して示す(外の中文サイトを見ると表記の異なる部分があるが、取り敢えずこれで示す)。

從小丘西行百二十歩、隔篁竹、聞水聲、如鳴佩環、心樂之。伐竹取道、下見小潭、水尤淸冽。全石以爲底、近岸、卷石底以出、爲坻、爲嶼、為※2、爲岩。靑樹翠蔓、蒙絡搖綴、參差披拂。[やぶちゃん字注:「※1」=「山」+「甚」。]

潭中魚可百許頭、皆若空游無所依。日光下澈、影布石上、※3然不動、俶爾遠逝,往來翕忽、似與游者相樂。[やぶちゃん字注:「※2」=「亻」+「台」。] 

潭西南而望、斗折蛇行、明滅可見。其岸勢犬牙差互、不可知其源。坐潭上、四面竹樹環合、寂寥無人、淒神寒骨、悄愴幽邃。以其境過清、不可久居、乃記之而去。

同游者、武陵、龔古、余弟宗玄。隸而從者、崔氏二小生、曰恕己、曰奉壹。

 

・「坻」は中洲。

 

・「※2」は、ごつごつとした岩の謂いであるが、次に「岩」とあるから、それよりも小さい川岸の石のことか。

 

・「※3然」、「※3」は進まないさまをいうが、別な中文個人ブログ月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「恬然」と表記し、「静止的子」(割注原文は簡体字。以下同じ)とある。この割注は非常に分かり易いので以下『』はそれを引用させて戴いたことを示す。

・「俶爾」『忽然』。

・「翕忽」『忽』。急に出没するさま。忽然と同義。

・「斗折蛇行」『形容水流弯曲』。なお、これは本文から生まれた四字熟語「斗折蛇行(とせつだこう・とせつじゃこう)」として、斗(北斗七星)の如く折れ曲がり、蛇の如くうねりながら進むことから転じて、道や川などに曲折が多く、くねりながら続いていくさまをいう。

 ・「犬牙差互」『形容岸涯如犬牙交』。

・「隸」は月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「隶」で『跟随』と割注する。これは本邦では「跟随(こんずい)」と読み、(「跟」はかかとの意で、人のあとについていくことをいう。

 

「茶靄」石製の鼎(かなえ:焜炉。)で沸かしている茶の、立ち登る湯気。

「道心」ここでは、下で形容する「清らかな」に相応した泰然自若とした心境を謂う。

「梅影上る」梅の枝影が映る。

 この詩には静謐さと同時に強い寂寥感が漂うが、旧全集のこの詩の載る次の書簡、二十一日後ではあるが、年も押し詰まった大正二(一九一三)年十二月三十日附の盟友山本喜譽司宛(岩波版旧全集書簡番号一一六)の手紙に、これを解く非常に重大な鍵があるように私は思う。やや長くなるが全文を示したい。

 

あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひましたあしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます

廿日に休みになつてから始終人が來るのですどうかすると二三人一緒になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歳暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません

今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ちをして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります

君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど

 

伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい

あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら

 

お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません

「佇みて」と「昨日まで」とをもつて噴い海べをあるくのもいゝでせう

 

こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら

君の話しが出ました 平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど

 

廿二才がくれる 暮れる

大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある

何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい

    三十日夜                             龍

  喜 譽 司 梧下

 

・「伊藤」三中時代の同級生。

・「四葉會」不詳。

・「平塚」平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年。三中時代の同級生。第六高等学校(現在の岡山大学)に進学したが、後に結核に罹患、千葉の病院で病没した。龍之介にとっては非常に大切な友人の一人であり、その死を受けて龍之介は、大正一六(一九二七)年に彼をモデルとした彼」を発表している。リンク先は私の詳細注を附したテクストである。是非、お読み戴きたい。

・「平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません」芥川龍之介の同性愛傾向は生涯通底しており、彼の精神発達史を考える時、避けて通れない非常に重要な一面で、彼には自身の同性愛史を綴った未定稿作品(「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題))もある(リンク先は私の電子テクストでページ詳細注も附してある。やはり、是非、御一読あれ)。

・「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」本詩の結句『陶詩 讀み罷みて 道心淸し』は、決して字面だけの上っ面のものでは、これ、ない、ということが、私には実感されるのである。

 この書簡は本漢詩と直接の関連はないものの、複雑なコンプレクス(心的複合)と掻き毟られるような煩悶の只中にあった若き日の芥川龍之介像を髣髴とさせる、非常に貴重な書簡である。]

2012/11/22

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) キドブン/報恩寺/永福寺/西御門/高松寺/来迎寺

   キドブン

 此地ハ賴朝屋敷ノ北西ノ田ナリ。キドブンハ賴朝ノ時ノ人也卜云。未審(未だ審らかならず)。

[やぶちゃん注:不詳。私の今までの鎌倉郷土史研究では出逢ったことがない地名である。現在は名も土地も消失しているものと思われる。これが武士であったと仮定し、「キド」と呼称する姓「木戸」「城戸」「嘉戸」「城門」「貴戸」等で「吾妻鏡」を検索したが、該当者はいない。識者の御教授を乞う。]

 

   報 恩 寺

 西御門ノ左ノ方二見ユル谷也。今ハ寺ナシ。

 

   永 福 寺

 西御門へ入口ノ右ニ見ユル谷也。今ハ寺ハ亡ビ、田中二礎ノミアリ。賴朝奧州ノ泰衡退治ニ下向有テ、秀衡建立ノ金堂ヲ見テ、歸テ此寺ヲ建立ス。建久三年ヨリ土石ヲ運ビ地引ス。同十一月廿五日、永福寺供養、將軍御參詣、寛喜四年九月廿九日、賴綱將軍永福寺ノ林頭ノ雪見ン爲ニ出ラレ、歌ノ會アリ。判官基綱・武州泰時等ノ倭歌アリ。

[やぶちゃん注:「賴綱」は「賴經」の誤り。]

 

   西 御 門

 賴朝屋敷ヨリ直ニ北へ行。民村少計リ有所ヲ云。土俗ノ云。是ハ賴朝ノ時、西ノ御門卜云儀也。東御門モ其心ナリ。

 

   高 松 寺

 西御門ノ入ノ終リ也。法華宗ノ尼寺也。紀州亞相賴宣ノ母儀建立ナリ。詳ニ鐘ノ銘ニアリ。鐘ノ銘別紙ニ載ス。

 

   來 迎 寺

 高松寺ノ南隣、時宗也。一遍ガ開基、藤澤道場ノ末寺也。此ヨリ舊路ヲ歸リ、又東行スレバ法華堂也。

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート3〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

賴朝卿の先陣矢合して攻掛る。小山朝光加藤次景廉(かげかど)等命を顧みず戰ひければ、金剛別當攻破られ、大將國衡以下城を出でて引退く。泰衡が郎從佐藤信夫莊司(しのぶのしやうじ)は繼信、忠信が父なり。叔父河邊(かうべ)太郎高經、伊加良目(いがらめ)七郎高重等を相倶して石那坂(いしなざか)の上に陣を張り、逢隈河(あふくまがは)を掛入れて、隍(ほり)を深くし、柵(しがらみ)を引き、石弓を張(はつ)て待掛たり。常陸入道念西が子息常陸冠者爲宗、同次郎爲重、同三郎資綱、同四郎爲家、その郎從等と潜(ひそか)に株(くひぜ)の中より澤原(さら)の邊に進出(すゝみいで)て、鬨の聲を揚げたりければ、佐藤荘司等前後の寄手を防がんと命を棄てて防ぎ戰ふに、爲重、資綱、爲家は疵(きず)を蒙る。すでに危く見えし所に、冠者爲宗勇捍(ようかん)を勵し、右に廻り、左に馳(はせ)て打て廻るに、莊司以下宗徒(むねと)の兵十八人が首を取る。殘る軍兵四方に散りて敗北す。阿津樫山の上經(きやう)岡(をか)に首を梟(か)けて逃るを追(おひ)て進み行く。

 

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月八日の条。

八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又號湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潛相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之號。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙未。金剛別當季綱、數千騎を率いて、阿津賀志山の前に陣す。夘(う)の剋、二品先づ試みに畠山次郎重忠・小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光等を遣はし、箭合(やあは)せを始む。秀綱等、之を相ひ防ぐと雖も、大軍襲ひ重なり、攻めに責むるの間、巳の剋に及び、賊徒、退散す。秀綱、大木戸に馳せ歸り、合戰敗北の由、大將軍國衡に告ぐ。仍りて弥々計畧を廻らすと云々。

又、泰衡が郎從の信夫(しのぶ)佐藤庄司〔又は湯庄司と號す。是は繼信・忠信等の父なり。〕叔父河邊太郎高經・伊賀良目(いがらめ)七郎高重等を相ひ具し、石那坂(いしなざか)の上に陣す。湟(ほり)を堀り、逢隈河(あぶくまがは)の水を其の中に懸け入れ、柵(しがらみ)を引き、石弓を張り、討手を相ひ待つ。爰に常陸入道念西は子息、常陸冠者爲宗・同次郎爲重・同三郎資綱・同四郎爲家等潛かに甲冑を秣の中に相ひ具して、伊逹郡澤原(さははら)邊に進み出で、先登して矢石を發(はな)つ。佐藤庄司等、死を爭ひて挑み戰ふ。爲重・資綱・爲家等。疵を被る。然れども、爲宗は殊に命を忘れ、攻め戰ふの間、庄司已下、宗(むねと)の者十八人の首、 爲宗兄弟、之れを獲(とり)て、阿津賀志山上の經(きやう)ケ岡に梟(けう)するなりと云々。

今日早旦。鎌倉に於いて、專光房、二品の芳契に任せて、御亭の後山へ攀(よ)ぢ登り、梵宇の營作を始む。先づ白地(あからあま)に假柱四本を立て、觀音堂の號を授く。是れ、御進發の日より、廿日たるべきの由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告に依りて此くの如しと云々。

而るに時尅、自づから阿津賀志山の箭合せに相ひ當る。奇特と謂ひつべしと云々。

・「金剛別當秀季綱」金剛秀綱(生没年未詳)。後文では一貫して「秀綱」と記されるから、単なる誤字と思われる。羽後国由利郡新城(現在の秋田県秋田市新城)を所領する奥州藤原氏の郎党。

・「夘の剋」は卯刻で、午前六時頃。

・「巳の剋」午前十時頃。

・「佐藤庄司」佐藤正治(もとはる 永久元(一一一三)年?~文治五(一一八九)年?)信夫庄(現在の福島県福島市飯坂町)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した陸奥の豪族。湯庄司(現在の飯坂温泉に由来)と号した。妻は藤原秀衡の娘であったともいわれる。この後、捕縛されたものの、赦免されて本領を安堵されたとも伝えられる。名は基治とする記載もある。

・「伊賀良目七郎高重」伊賀良目高重(?~文治五(一一八九)年)。福島県信夫郡にあった五十辺(いがらべ)村周辺(現在の福島市中央東地区の一部)を領していた豪族。藤原秀衡・泰衡父子に仕えた。伊賀良目氏は岩谷観音の祭祀者として知られる。

・「石那坂」現在、福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場の碑が建てられているが、同定は定かではない。

・「常陸入道念西」「ねんさい」と読む。幕府御家人。通説では伊達氏初代当主伊達朝宗(大治四(一一二九)年~正治元(一一九九)年)に比定されている。諸説はウィキ「常陸入道念西」及び伊達朝宗に詳しい。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、本戦功によって、この伊達郡に移り、伊達氏を名乗るようになったともされる。

・「伊逹郡澤原」福島県伊達郡の中の旧地域名らしい。「北條九代記」の「澤原(さら)」はルビの脱字か。

・「宗(むねと)」主だった人々。

・「經ケ岡」本地名は現在も厚樫山東麓に残っており、中通り北部の阿武隈川北岸の宮城県境・厚樫山東麓に比定されている(「角川日本地名大辞典」に拠る)。]

芥川龍之介漢詩全集 二

   二

 

簷戸蕭々修竹遮

寒梅斜隔碧窓紗

幽興一夜書帷下

靜讀陶詩落燭花

 

〇やぶちゃん訓読

 簷戸(えんこ) 蕭々 修竹遮(しや)す

 寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗

 幽興 一夜 書帷の下

 陶詩を靜讀すれば 燭花落つ

 

[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年十二月三十日附小野八重三郎宛(岩波版旧全集書簡番号八三)に所載する。一九一二年は七月三十日に明治天皇が崩御し、明治四五年から大正元年に改元した。芥川龍之介の「一」の漢詩に始まったこの年は、「二」によって終わった(旧全集の同年の書簡は「一」が巻頭、この「二」が掉尾である)。それは恰もバッハの「ゴルトベルグ変奏曲」のように私には思われる。小野八重三郎(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は府立三中時代の一つ下の後輩で、後、東京帝国大学理科を中退、県立千葉中学校などの教諭を勤めた。龍之介はこの後輩を可愛がり、期待をかけていたという。彼の三中卒業時には自身が河合栄治郎(三中の龍之介の二年先輩で後に経済学者となった)から贈られたドイツ語独習書を贈っている(以上の小野の事蹟は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」に拠った)。以下に消息文を全文を示す。

 

敬啓

諒闇中とて新年の御慶は御遠慮致すべく候

休暇の半を過ぎ候へども如例散漫に消光致居候

歳末歳始御暇の節御出下され度爐に火あり鼎に茶あり以て客を迎ふるに足るべく候

惡詩を以て近狀御知らせ申候へば御一笑下さるべく候

   簷戸蕭々修竹遮  寒梅斜隔碧窓紗

   幽興一夜書帷下  靜讀陶詩落燭花

                     不悉不悉

    十二月三十日

   長 恨 學 兄 案下

・「諒闇」は「りょうあん」「ろうあん」などと読み、「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、天皇がその父母の崩御に当たって喪に服することをいう。

 なお、龍之介には、この前月十一月十一日に、横浜ゲーティ座でイギリス人一座の演じるオスカー・ワイルドの「サロメ」を観賞した際の思い出を綴った『Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に――がある(リンク先は私の電子テキスト)。

 

「簷戸」廂と扉の意であるが、これで戸外を指すのであろう。

「修竹」長く伸びた竹。

「遮す」遮る。

「寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗」とは、花を持った窓外の寒梅のシルエットが、緑色の紗(薄絹)のカーテンに写ったのを、パースペクティヴを反転させて「隔つ」(仕切っている)と表現したものであろう。

「幽興」奥深い情趣。

「書帷」書斎のカーテン。

「陶」陶淵明。

本詩は、邱氏も「芥川龍之介の中国」で述べられている通り、「一」の注に示した趙師秀の「約客」の詩想に極めて近似している(邱氏は転・結句が「約客」と『ほぼ同じ意味を表わし、趙詩を模倣した作と見てよかろう』と述べておられる。]

耳嚢 巻之五 增上寺僧正和歌の事

 增上寺僧正和歌の事

 

 寛政八年の頃、不如法(ふによほふ)の僧侶ありて罪に行(おこなは)れしに、增上寺五拾三世嶺譽智堂僧正の詠(よめ)る歌とて人の見せ侍りし。一宗の貫主(かんじゆ)左もあるべき事と爰に記しぬ。

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。和歌物語。

・「不如法」仏法に反すること。戒律を守らないこと。話柄や和歌から察しても死罪相当の重罪と思われる。

・「嶺譽智堂」(享保十一(一七二六)年~寛政一二(一八〇〇)年)は増上寺五十二世。元文元(一七三六)年増上寺智瑛(第四十八背に典譽智英と名乗る人物がいるが彼か)に師事、安永四(一七七五)年に霊厳寺住持となり天明四(一七八四)年に隠居したが、寛政二(一七九〇)年、幕命により伝通院に住して紫衣を下賜され、同四年、増上寺貫主となった(以上は主に底本の鈴木氏注を参考にした)。

・「貫主」「貫首」とも書き、「かんしゅ」とも読む。本来は「貫籍(かんせき・かんじゃく:律令制の本籍地の戸籍。)の上首」の意で天台座主の異称であったが、後には各宗総本山や諸大寺の住持にも用いられるようになった(増上寺は浄土宗である)。貫長。管主。

・「救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手」読みは、

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法(のり)の衣手(ころもで)

である。「世の塵にけがさぬ法」は、穢土の塵に穢れることのない仏法の意と、俗世の塵(欲)に煽られて、その取り決められた法の定めを犯すようなことはあってはならぬ、の意を込めるか。

――人を救うだけの力がないというのであれば――せめて俗世の法を守って、仏法の道を塵に汚すようなことはせぬが――僧衣を纏う者の、これ、守るべき定め――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 増上寺僧正の和歌の事

 

 寛政八年の頃、不如法(ふにょほう)の僧侶が御座って罪を問われて罰せられたが、これにつき、増上寺五十三世嶺誉智堂僧正の詠まれた歌とて、人が見せて呉れた。かの増上寺の、一宗の貫主(かんじゅ)たるお方なればこそ、かくもあるべきことじゃ、と私も感じ入って御座った故、ここに記させて戴く。

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手

一言芳談 十七

   十七

 

 明禪法印云、ひじりはわろきがよきなり。

 

〇わろきがよきなり、よき名をうればさはり多し。萬は無能なりとも、まことだにあらば往生はすべきなり。

 

[やぶちゃん注:そもそも末法が始まっているならば、この世には教のみが存在して行も信も在り得ない。末法記」に従うなら、そのような行も信もない破戒僧、姿だけが僧であるものだけが世に満ち満ちているはずである。だとすれば、私に言わせればそのような世界で「よき名をう」る僧とは即ち悪僧の最たるものであろう。そんな宗教人面をした有象無象は現代にこそ満ち満ちているではないか(残念なことに末法記」はそのような僧尼でも敬えと言うのだが……。リンク先は私のテクスト、現代語訳もある)。「萬は無能なりとも、まことだにあ」る僧の方がまだましである、と私は今、現代の宗教界を見ても、激しく、そう、思うのである。これを読んだ私の教え子は、『僧に限らず、人というのは「わろき」が当然。しかし同時に、「まこと」を持ち合わせていない人などひとりもいないのではないか、と思います。逆に言えば、「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ない」のだと信じます。』という消息を呉れた。引用の言葉は無論、「こゝろ」先生の言葉。謂い得て妙とは、これをいうのである。]

短日の時計とまりて部屋ひろし 畑耕一

短日の時計とまりて部屋ひろし

2012/11/21

耳嚢 巻之五 古人英氣一徹の事

 古人英氣一徹の事

 

 恐ながら、大猷院(たいいふゐん)樣御幼稚の節、神君の御賢慮を以(もつて)、仁智勇の三味を以御養育申上し事は、諸人の知る所也。右の内土井酒井仁智の役分、靑山伯耆守は勇氣の御見立にて、常(つねに)御面(おもて)を犯し身命を擲(なげうち)て強諫等申上(まうしあげ)し由。右三傑の内、伯耆守は成惡(なしにく)き役分也と我も思ひ人も申ける故、或時當靑山下野守へ一座なれば尋問せしに、伯耆守所業等別段の傳書もなけれど、聊(いささか)書記の申傳(まうしつたへ)なきにもあらず、誠(まこと)聖知安行(せいちあんかう)とも申奉(まうしたてまつ)るべき、大猷公なれど、直諫度々なれば思召(おぼしめし)に障りしや、百人組の頭(かしら)を勤し時御勘氣を蒙りしに、いかなる事にや一僕をも不召連(めしつれず)、御殿よりはだしにて退出なして、屋敷へも不立寄(たちよらず)舊領相州へ蟄居なしける故、貮萬石の領知(りやうち)も被召上(めしあげられ)しが、尚(なほ)御舊懇を被思召(おぼしめされ)隱居料を被下(くだされ)しをも御斷(おんことわり)申上て、終に配所にて卒去ありし由。其後御成長に隨ひ舊年の忠言共(ども)被出思召(おぼしめしいだされ)、倅へ御加恩等被下、右の趣伯耆守が墓所に申せよと難有(ありがたく)も御落涙に被爲及(およばされ)しとて、子息も感涙にむせびしと今に申傳ふる由。百人組の與力は右の筋、頭のはだしにて御番所前を退出故、草履をはかせ兩三人供をして、一同に伯耆守が落着の所迄至りし也。尤(もつとも)頭の事なれば供をなせしもさる事ながら、御番所を明け候段不屆(ふとどき)とて一旦改易有しが、程なく被召歸(めしかへされ)、今に其子孫百人組の與力を勤(つとむ)る者兩三人有(あり)。吉例にて毎年正月年始に右與力參る時、草履一足宛(づつ)紙に包(つつみ)持參なす由、物語りありし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。「卷之一」からしばしば登場する一連の大猷院家光絡みの武辺物語の一。

・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。次に注する本話の主人公、老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で、家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。

・「靑山伯耆守」青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、に岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)四万五千石より二万石の上総大多喜(おおたき:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に減転封されたが、それも固辞して相模国高座郡溝郷に蟄居、同今泉村で死去した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。但し、百人組の頭であったのは遡る慶長八(一六〇三)年のことであり、石高なども合わず、本話は事実とはやや反する。

・「御面を犯し」主君の面目をも顧みず、忌憚なく諫める。

・「成惡(なしにく)き」は底本のルビ。

・「爲及(およばされ)」は底本のルビ。

・「當靑山下野守」ここは本文の記載時でのことを述べており、青山忠俊の七代後裔に当たる青山宗家当主である青山忠裕(明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)を指している。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春時点では、忠裕は西丸(徳川家慶)附の若年寄であった。後、文化元(一八〇四)年、老中。

・「聖知安行」「生知安行」が正しい。生まれながらにして物事の道理に通じ、安んじてこれを実行することを言う(「礼記」中庸篇に由る)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では極めて面白いことに、ここは『聖智闇行』となっている。岩波版長谷川氏注では、『ここに家光の所行を闇行とするに何か筆写者の意をこめるか』とある。激しく同感するところである。

・「百人組」鉄砲百人組。二十五騎組(青山組)・伊賀組・根来組・甲賀組の四組からなり、各組に百人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領。平時は主に江戸城大手三之門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際の山門前警備に当たった。参照したウィキの「百人組」によれば、『徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたという』とある。

・「倅」青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)。青山忠俊長男。父が蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居したが、寛永一一(一六三四)年に家光から許されて再出仕、寛永一五(一六三八)年、書院番頭に任じられて武蔵・相模国内で三千石を与えられ旗本となった。寛永二一(一六四四)年に大番頭に任じられ、正保五(一六四八)年には加増されて信濃小諸藩主となった。寛文二(一六六二)年、大坂城代に任じられ各所に移封、延宝六(一六七八)年に大坂城代を辞職して浜松藩に移封となっている(以上はウィキの「青山宗俊」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人の英気一徹の事

 

 畏れながら、大猷院(だいゆういん)家光様が御幼少の砌り、神君家康公の御賢察を以って、「智・仁・勇」の三種の趣きに依って御養育申し上げたことは、これ、諸人の知るところではある。

 その三種の内、土井利勝殿と酒井忠世(ただよ)殿は、それぞれ「智」と「仁」の、青山伯耆守(ほうきのかみ)忠俊殿は「勇気」の御教授手本の御担当となられ、これ、主君の意に背くことを厭わず、身命(しんみょう)を抛(なげう)って厳しき諫言など、常に申し上げなさった由。

 

 さても、この三人の傑物の内、伯耆守忠俊殿のお受けになられた「勇」――これ、どう考えて見ても、誠に成し難き役回りではある、と、いや、これ、私も思い、また、知れる人々も申すことの多く御座ったれば……ある時、当代青山家御当主であらせらるる青山下野守宗俊殿と、たまたま同席致いた折り、周りの者どもともに、お訊ね致いたところ、宗俊殿の仰せらるるには……

 

「……我が祖たる伯耆守の事蹟に就いては……特にしっかとした伝わっておる書付や家伝も、これ、御座らねど……全く、それに関わるところの文書(もんじょ)の類いが、全く以って御座らぬ訳でも、これ、御座ない。……誠に、生知安行(せいちあんこう)とも申し奉るべき大猷院様ではあらせられたものの……これ、我が祖忠俊の直諫(ちょっかん)の度重なって御座ったれば……思し召しに、これ、障ることもあられたものか、忠俊、百人組頭(かしら)を勤めておった折り、遂に御勘気を蒙って御座った。……

……すると……

……どうしたことか分からねど……一僕をも召し連れずして……勤務しておった御殿より……裸足にて退出致いて……己が屋敷へも寄らず……旧領の相州へと徒歩(かち)だちのまま向かうと、そのまま、蟄居致いて仕舞(しも)うた。……

……そうして、二万石の領地も、これ、召し上げなされたれど……それでも大猷院様、旧懇の誼(よしみ)と、隠居のための家禄を下されなさったれど……それをも、お断り申し上げ……遂に、配所にて卒去致いた……。

……その後(のち)、大猷院様、御成長に随い、過ぎし日の我が祖伯耆守の忠言なんどを思い出され遊ばさるるに、倅たる青山宗俊に、何と、御加恩なんどまでも下賜下され、

「……以上の我らが趣意、伯耆守の墓所に、申せよ。……」

と、有り難くも……大猷院様ご自身……御落涙、遊ばされ……

……子息たる宗俊儀も、これ、感涙に咽(むせ)んで御座ったと……今に、伝わって御座る。……

……さても、百人組の与力は、これ、先の我が祖の出奔の際、頭(かしら)が大手三の門御番所より、裸足のままに退出致いたが故、三人の配下の者が、その後を追うて草履を履かせ、両三人ともども、伯耆守に供をして、一同、伯耆守の落ちた相模の蟄居所まで、同道致いたと申す。……

……これに就きては、

――頭(かしら)の供を致いたは、これ、尤もなることと雖も、御番所を明けたままに致いたは、これ、不届(ふとどき)――

と相い成り……彼らもまた、一旦は改易となって御座った……が……ほどのう、役に召し返され、今に、その子孫、百人組の与力を勤めて御座る者、これ、その数通り、両三人、御座る。……

 吉例と致いて、毎年正月年始には、この彼ら、その三方(さんかた)所縁(ゆかり)の三人は、これ、草履を一足ずつ、紙に包んで持参致すを、例となして御座ると申す。……」

 

 これ、その青山下野守宗俊殿自身、物語りなさったことにて御座る。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鳥合セ原/頼朝屋敷

   烏合セ原

 八幡ノ東門ノ出口北ノ畠也。昔相摸入道鳥ヲ合セ、犬ヲイドミ合セシ所ナル故ニ云トナリ。

[やぶちゃん注:「相摸入道」北条高時。]

 

   賴朝屋敷

 烏合セ原ノ向ヒ、八幡東門ノ東也。東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、安房・上總ヨリ武藏ヲ經、鎌倉へ打入玉フ。同九日、細事立ラルベキトテ奉行ヲ大庭平太景義ニ仰付ラル。御屋作ノ事、知家事兼道ガ山内ノ宅ヲ大倉ノ郷ニウツサレ、是ヲ建立ス。同十二月十二日、大倉ノ御館へワタマシ、賴朝・賴家・實朝・平政子、ソレヨリ賴經・賴嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王迄、此屋敷ニ居ラル。治承四年ヨリ守邦迄、百五十年餘也。其廣サ八町四方有卜云。今見ル處ハ、分内セバキ樣ナレドモ、法華堂ナド、賴朝ノ持佛堂卜云へバ、此邊總テ屋敷構へノ内ナルべシ。

[やぶちゃん注:「東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、……」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)十月六日の条。

〇原文

六日乙酉。著御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日乙酉。相摸國に著御す。畠山次郎重忠、先陣たり、千葉介常胤、御後に候ず。凡そ扈從(こしよう)の軍士、幾千万を知らず。楚忽(そこつ)の間、未だ營作の沙汰に及ばず、民屋を以つて御宿舘に定めらると云々。

・「楚忽の間」急に決まったことであるため。

 

「同九日、……」「吾妻鏡」治承四十月九日の条。

〇原文

九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。淸明朝臣押鎭宅之符之故也。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日戊子。大庭平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。但し、合期(がふご)の沙汰を致し難きに依りて、暫く知家事〔兼道。〕の山内宅を點じ、之を移し建てらる。此の屋は正暦年中建立の後、未だ回祿の災(わざわひ)に遇はず。晴明朝臣の鎭宅の符を押すの故なり。

・「合期」「期に合ふ」の字音読み。諸作事や貢献・納租などを所定期間内に完了すること。

・「知家事」は「ちけじ」と読み、政所の役職。別当・令・案主(あんじゅ)の下の四等事務官。

・「兼道」不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。

・「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。

「晴明朝臣」安倍清明。

・「鎭宅」鎮宅法。仏教で新築・転居の際に新居の安全を祈るための密教の修法。除災のためにも行う。家堅めの法ともいう。

 

「同十二月十二日、……」「吾妻鏡」治承十二月十二日の条の当該部。

〇原文

十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衞將軍新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛。〕和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長淸候御駕左方。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主〔義時〕。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎大夫胤賴。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寢殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間。〕二行對座。義盛候其中央。著致云々。凡出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘。自爾以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。卜居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日庚寅。天晴れ、風靜か。亥尅、前武衞將軍、新造の御亭に御移徙(わたまし)の儀有り。景義、奉行として、去る十月、事始め有り。大倉郷の營作せしむるなり。時尅に、上總權介廣常の宅より新亭に入御す。御水干、御騎馬〔石禾の栗毛〕。和田小太郎義盛、最前に候じ、加々美次郎長淸、御駕(おんが)左方に候じ、毛呂冠者季光、同じく右に在り、北條殿、四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤賴、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下、供奉し、畠山次郎重忠、最末に候ず。寢殿に入御の後、御共の輩は侍所〔十八ケ間。〕に參じ、二行に對座す。義盛、其の中央に候じて著到すと云々。

凡そ出仕の者三百十一人と云々。

又、御家人等、同じく宿舘を搆へる。尓(しか)りしてより以降、東國、皆、其の有道を見て、推して鎌倉の主と爲す。所は素より邊鄙にして、海人野叟の外、卜居(ぼくきよ)の類ひ、之れ少なく、正に此時に當るの間、閭巷(りよかう)、路を直し、村里に號(な)を授け、加之(しかのみならず)、家屋、甍を並べ、門扉、軒を輾(きし)ると云々。(以下略)

・「時尅」定刻。

・「加々美次郎長淸」弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏一族加賀美遠光次男。高倉天皇に滝口武士として仕えた父の所領の内、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。源頼朝挙兵の際、十九歳の長清は兄秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許されたが、主家である平家を裏切って頼朝の元に参じた、と伝えられる。治承・寿永の乱でも戦功を重ね、父と同じ信濃守に任ぜられた。海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称された(以上はウィキ小笠原長清を参照した)。

・「毛呂冠者季光」毛呂季光(もろすえみつ 生没年未詳)。大宰権帥藤原季仲の孫で武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)に住した。頼朝の直参。以下、ウィキ毛呂季光によれば、『子の季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け』、『武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる』とある。

・「北條殿」北条時政。

・「同四郎主」北条義時。

・「山名冠者義範」(生没年未詳)新田義重の庶子。山名氏祖。ウィキ山名義範によれば、上野国八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。父義重は挙兵した頼朝になかなか従おうとしなかったために頼朝から不興を買って幕府成立後は冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された、とある。

・「工藤庄司景光」(生没年未詳)は頼朝に呼応して安田義定らと甲斐で挙兵、富士山北麓の波志太(はしだ)山で平氏方の俣野(またの)景久を敗走させた。八十歳頃の建久四年(一一九三)の富士の巻狩りで大鹿を射損じ、間もなく病没したという。通称は荘司(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「宇佐美三郎助茂」宇佐美祐茂(うさみすけもち 生没年未詳)。工藤祐経の弟。伊豆田方郡(現在の静岡県)宇佐美荘を本領とする宇佐美氏祖。頼朝の挙兵時から従い、奥州攻めや京都入りにも加わった。通称は三郎。名は「助茂」とも書く(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「土屋三郎宗遠」(大治三(一一二八)年?~建保六(一二一八)年?)。土肥実平の弟で相模国土屋(現在の神奈川県平塚市土屋)を本拠地とした土屋氏始祖。頼朝の挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人とも言われる。同年九月の甲斐源氏との連携作戦では北条時政とともに頼朝の使者となって重要な役割を果たしている。以後、有力御家人の一人として活躍したが、承元三(一二〇九)年五月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江島近くで殺害し、侍所別当和田義盛のもとに出頭、身柄を預けられた。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍源実朝は故頼朝の月忌にも当たっていたため、特に彼を赦免している(以上は、ウィキ「土屋宗遠に拠った)。

・「侍所〔十八ケ間。〕」侍所の主部で儀式を行うために設けられた、長大な大きさの部屋の固有名詞のようである。十八間は約三七・八メートルに相当する。・「有道」正道に叶っていること。正しい道に叶った行いをしていること。

 

「八町」約八七三メートル弱。]

芥川龍之介漢詩全集始動 一

本日より、やぶちゃん版「芥川龍之介漢詩全集」を始動する。420000アクセス突破(現在、416373)までには完成させたいと考えている。

 

 本頁ではまず底本通りの白文で示し、次に私の訓読を「〇やぶちゃん訓読」として一時字下げで附した(原文には訓読文はない)。各首には便宜上、邱氏が附したのと同様に、通し番号を附した(但し、岩波版旧全集を底本としている関係上、書簡の配置が異なる箇所では順序が異なる箇所がある。例えば「一」では甲乙の各首の順は逆転する)。訓読に際しては、所持する邱雅芬氏の現代語訳(後述)や一部に総ルビが振られている筑摩書房全集類聚版などを一部参考にさせて戴いている。なお、中国人であられる邱氏の同評論には訓読文はない。また、同氏の記載によれば、先行する初めて芥川の漢詩を採り上げた評論として、村田秀明氏による三十二首を挙げて読解論評した「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)があるとあり、そこには訓読が示されている可能性があるが、私は未見である。
 芥川の漢詩は圧倒的に書簡中に現れるものが多いが、同時期の複数の書簡中には同じ漢詩を詩句の一部を変改して記したものも多い。そうした複数句形のあるものは煩を厭わず、最初に掲げたものを「甲」としてその訓読後に、「乙」「丙」と全体を二字下げの同様の仕儀で配した。但し、「芥川龍之介の中国」には新全集由来の新発見書簡からの二首が認められ、これは底本を「芥川龍之介の中国」として、恣意的に正字に直したものを用いてある。
 現代語訳は基本的に行わない方針である。これは、私は邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」(二〇一〇年
花書院刊)の解説・語釈・現代語訳・評価等(これらの項目は当該書の評釈の各首に附されている)以上のものを示し得る能力を持たないからであり、是非、非常に優れた研究書である当該書をお読み戴きたいからでもある。特にその「評価」での、先行する漢詩や唐詩との比較検討は素晴らしい。但し、所収する書簡などの書誌的データや書簡の一部引用及び作詩時の芥川の年譜的事実、難解と思われる語句と私の乏しい漢詩知識の中にあってもどうしても語りたい部分については、各首に注を附した。

 

 

   一 甲

 

春寒未開早梅枝

 

幽竹蕭々垂小池

 

新歲不來書幄下

 

焚香謝客推敲詩

 

〇やぶちゃん訓読

 

 春寒 未だ開かず 早梅の枝

 

 幽竹 蕭々 小池に垂る

 

 新歲 來らず 書幄(しよあく)の下

 

 香を焚(た)きて 客を謝し 詩を推敲す 

 

    一 乙

 

  春寒未發早梅枝

 

  幽竹蕭々匝小池

 

  新歲不來書幌下

 

  焚香謝客獨敲詩

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   春寒 未だ發(ひら)かず 早梅の枝

 

   幽竹 蕭々 小池を匝(めぐ)る

 

   新歲 來らず 書幌(しよくわう)の下

 

   香を焚きて 客を謝し 獨り敲詩す

 

[やぶちゃん注:「一甲」は明治四五(一九一二)年一月一日附山本喜與司宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六五)所載、「一乙」は同日附井川恭宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六六)所載で、これ以外の通信文を附さない。当時、芥川龍之介は満二十歳、第一高等学校二年(前年の九月に進級)である。山本喜與司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)府立第三中学時代からの親友で、文の叔父であり、後に二人の婚姻の仲立ちともなった人物である。東京帝国大学農科を卒業後、三菱合資会社に勤務して北京に滞在、その後はブラジルサンパウロで農場を経営、日系人社会のリーダー的存在として活躍した。井川恭(後に婚姻後に恒藤と改姓 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は一高時代の同級生で、後に京都大学法科に進学、法哲学者として同志社大教授・京大教授(昭和八(一九三三)年の京大事件で自ら退官)・大阪商科大学長を務めた(彼は内臓疾患と思われる病気で中学卒業後三年間の療養生活を送ったため龍之介よりも四歳年長である)。ともに芥川生涯の盟友であり、龍之介を語る上で非常に重要な人物でもある。

 

「書幄」「書幌」ともに粗末な書斎の意。「幄(アク)」「幌(コウ)」ともに帳(とばり)で、幄舎・幄屋と言えば四隅に柱を立て、棟や檐を渡して布帛(ふはく)で覆った仮小屋のことをいう。

 

本詩について、邱氏は『中国宋代趙師秀(一一七〇~一二一九)の「約客」を思わせる詩境である。現時点で、趙師秀と芥川との関連性はまだ見つからないが』と記され、その「約客」を白文で引用されている。趙師秀は、字は紫芝、号は霊秀又は天楽と称し、永嘉(浙江省温州)の人、宋の王族で太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の八世孫。紹熙元年(一一九〇)の進士で江南地方の各地の小官を歴任、晩年は銭塘(浙江省杭州)に住んだ。永嘉の四霊(えいかのしれい:徐照(霊暉)・徐璣(霊淵)・翁巻(霊舒)・趙師秀(霊秀)の四人。南宋の後半期の四大詩人で、いずれも出身地又は居住地が永嘉(浙江省温州)であったことと、南朝宋の時代に太守として同地に赴任した謝霊運に字や号であやかったことに由る)の中で最も評価が高い。詩集に「清苑斎集」。ここに正字化した当該詩を示し、私の訓読を示しておく(なお、邱氏は結句を「閑敲碁子落花燈」となさっているが、韻としてもおかしく、本邦及び中文の複数のサイトの「約客」を見てみたところ、「花燈」は「燈花」である)。

    約客


   黃梅時節家家雨

   靑草池塘處處蛙

 

   有約不來過夜半

 

   閑敲碁子落燈花

 

 

  〇やぶちゃん訓読

 

     客と約す

 

    黃梅の時節 家家の雨

 

    靑草 池塘 處處の蛙

 

    約有れども來らず 夜半を過ぐ

 

    閑(かん)に碁子(ごし)を敲(たた)けば 燈花落つ



「燈花」燃え残った蠟燭の灯芯に生ずる花形の蠟の塊り。]

一言芳談 十六

   十六

 

 又云、いたづらにねぶりゐたるは、させる德はなけれども、失(しつ)がなきなり。

 

[やぶちゃん注:「又云」という形はここで初めて出るが、勿論、これは前の明禅の言の続きであることを示す。湛澄の「評注増補一言芳談抄」では分類別に組み替えてあるため、「明禪法印云」と書き改められている。私はしかし、少なくともこの部分は「十五」の内容と連続した謂いとして読むべきであると思う。やはり、現世の使用に利するような図書館学的分野別分類は為されるべきではなかったというのが、ここでの私の感想である。

 俗臭紛々たる世界に生きた「名僧」「権力僧」明禅は、自らを含めて、現世での僧侶としての名声を持つ者を偽物として全否定し、唯一の往生の修行の、これといった極楽往生への働き(「德」)とはならぬが、少なくとも妨げにならぬ(「失がなき」)のは「眠り」のみ、と言い放つ。……しかし、どうであろう、本当に眠りに失はないであろうか?……

 私は曾て、この条を読んだ時、即座に、

 

       或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

 

という、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の掉尾を思い出していた。芥川曰く、だただ眠ることは、死に比べれば愉快であり、容易である点に於いて、死の妨げとなる(「一言芳談」調に則るなら往生の最後の妨げになる)と芥川は言っているのである。そもそも、明禅などより遙かに禁欲的な世界に生きた明惠でさえ、夢に多彩な自己理想を観想したではないか! フロイトやユングを持ち出すまでもない、古来より夢は向後に起こる起きつつある現象やあるべき世界を表象するものとして、現にあったのである。とすれば夢は――「失がなきなり」どころではない。死に就く前に概ね昏睡があるとすれば、そこにある夢は、必ずしも楽観的な解釈としての浄土欣求の夢ではなく、現世の快楽への強い回帰願望、生への執着そのものである可能性が高いことになろう(無意識下の願望は精神分析なんぞが登場する以前、イエスの時代から既に認識されていたではないか)。さすれば、私は死を既に決していた芥川龍之介のこの言葉の方が、先の明禅の言葉よりも遙かに「一言芳談」的なるものとして聴こえて来るのである。――しかし――しかし、それでも芥川はこう書くことによって――「すて物」たるものであるはずの(と彼は認識していたと断言出来る)作家芥川龍之介の名声が――死後、永き光栄として残ることもまた――間違いなく認識していた。……いや……だからこそ明禅よりも煩悩即菩提という語を好んだ芥川龍之介の方が、遙かに私には親しく感じられるのである……]

海苔茶漬のんどをやいて爽かに 畑耕一

海苔茶漬のんどを※(や)いて爽かに

[やぶちゃん注:「※」=「火」+「欣」。「※」は「焼く」「炙る」の意であるが、医学用語で「※腫・※衝」という語があって、これは「キンショウ」と読み、皮膚や筋肉の一部が腫れて熱を持ち、ずきずき痛むことを言う。熱い湯漬けが酒や油っこい食い物の後にカッと一皮むくように喉を「爽(さわや)かに」落ちてゆく瞬間を切り取って面白い。]

何故に僕の「腕にオオグソクムシが共生する夢」がトップ・アクセスを維持しているか

何故に数週に亙って僕のつまらぬ「腕にオオグソクムシが共生する夢」という夢記述が先月来、トップ・アクセスを維持し続けているが昨日分かった。この出来事のせいだ――

「4年絶食中の深海生物…飼育日記にアクセス集中」

(2012年11月20日14時31分  読売新聞)

オオグソクムシ・ナンバー・ワン君――君こそ「一言芳談」の世界観を体現している――

2012/11/20

蛇苺摘まむ少年破爪知れり 唯至

蛇苺摘まむ少年破爪知れり 唯至

Hebiitigo

耳嚢 巻之五 痳病妙藥の事

 痳病妙藥の事

 かる石を滿願寺抔上酒(じやうしゆ)にひたし、燒(やき)候て又酒にひたし、再遍(さいへん)いたし候得(さふらえ)ば粉に成(なり)碎(くだけ)候を、細末にして呑むに甚(はなはだ)奇妙成(なる)よし。ためしたる人の物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:杉山流針治始祖譚から民間医薬で医事連関。それにしても、本文中にはその肝心の有効病名が記されていない。フロイト的に考えると、いろいろ憶測されて面白いな。

・「痳病」淋病。真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属 Neisseria 淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することで発症する性感染症。ウィキ淋病」によれば『淋は「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』。学名の種小名は古くからのこの病気の呼称で『古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病をとらえ、gono=「精液」 、rhei=「流れる 」の意味の合成語gonorrhoeaeと命名した』とある。また、『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。高校の保健体育の老教師は、昔の風呂屋は浴槽の温度が低かったから、感染者から漏れ出た淋菌が相対温度の低い角の部分に生きて集まっており、そこに入った小児の眼に淋菌が感染、重い淋菌性結膜炎を起こして失明する、それを風眼(ふうがん)というんだ、と風呂屋の図入りで滔々と教授されていたのを思い出す。少し眉唾っぽいところもあるが、江戸時代の劣悪な湯屋(ゆうや)なら、そういうこともあったかも知れないな。

・「滿願寺」摂州の北に位置し、酒造業で栄えて交易地としても知られた池田(現在の大阪府池田市)にあった満願寺屋酒造。大阪府立中之島図書館の小展示資料集の「近世大坂の酒」には、元禄一〇(一六九七)年には酒造家数三十八『戸を数え、田舎酒群から近世的酒造業に脱して銘醸地となった。その原因は、幕藩体制の初期より「酒造御朱印」(酒造免許権)が池田に下付されたことのほか、技術的には良質な猪名川の伏流水という優れた醸造用水と、山間部の良質な酒米を容易に得られたこと、それに猪名川の舟運が利用でき、江戸積みに有利であったことによる』。『池田酒の始祖といわれる満願寺屋九郎右衛門の政治的手腕により、徳川家にくいこみ江戸幕府の保護をかちとり、徳川の天下統一とともに急速に発展をとげ、一時期は伊丹』(今の兵庫県伊丹市。その伊丹酒(いたみざけ)は将軍の御膳酒御用達であった)『と並んで江戸を完全におさえてしまうまでにな』ったが、安永五(一七七六)年『に満願寺屋の手中にあった「御朱印」が取り上げられ、満願寺屋の没落とともに池田の酒造業も急速に衰え、「灘の酒」にその地位を譲ることになる』とある。この御朱印取り上げというのは気になるな。

・「上酒」品質の良い高級酒。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 淋病の妙薬の事

 

 軽石を満願寺なんどの良き酒に漬(ひた)しおいた後に焼き、また漬しては焼く、ということを何度も繰り返せば、これ、遂には粉になって砕けて御座る。これを更に磨って粉末と致し、服用致さば、これ……「あの病」に……絶妙の効め、これ、あり!……とは……いやいや! これを試して御座った御仁の話、にて御座るよ。

一言芳談 十五

   十五

 

 明禪法印云。後世をたすからんとおもはんものは、かまへて人めにたつべからざるものなり。人をば人が損ずるなり。聖法師(ひじりほふし)の今生に德をひらく事は、大略(たいりやく)、後世のためにはすて物なり。

〇人をば人が損ずるなり、ねたみてそしり、うやまひてほむる、ともにわが心のさはりなり。みだりに人の恭敬(くぎやう)をうけ、信施(しんせ)などうくれば、つみおほき事なり。
〇聖法師、世すて人なり。

 

[やぶちゃん注:岩波版「評注一言芳談抄」及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像もでも「一言芳談抄」では後半の『聖法師(ひじりほふし)の今生に德をひらく事は、大略後世のためにはすて物なり。』の部分はなく、岩波版「評注一言芳談抄」では分解されて「用心」の項に配されている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』に従う。

「人めにたつ」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には「評注増補一言芳談抄」に(新字を正字に代えた)、『人のうやまひをうけて、自然に名聞になるなり。仏も、異をあらはして、衆をまどはすいましめ給へり。古德も、狂をあげ、實をかくせと教へられたり』とあると注する。これは岩波版では森下氏によって選択排除された註である。これは私は以下の、「人をば人が損ずるなり」なんぞの註を省略しても残すべきものであったと思うが、如何?

「すて物」心を留めることもなく、打ち捨てて顧みる必要のないつまらぬ対象。]

あたらしき鳥籠を買ふ

   あたらしき鳥籠を買ふ
戛止と飛ぶ文鳥夫婦夜半の秋

[やぶちゃん注:「戛止と」は「かつし(かっし)と」と読ませているものと思われる。本来的には固い物がぶつかって立てる激しい音を表現するが、ここでは文鳥が新しい鳥籠の中で時に激しく羽ばたいて鳥籠の内側に当たる音を表現する。しかし、大きな音だからといって金属製ではなく、竹か木製のものをイメージした方が(事実はどうであったかは私には問題ではない)、中七下五の雰囲気が纏まる。その方が恰も江戸の情緒を添えて遙かによいと思うのである。]

2012/11/19

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(5)



Arumajyo

[アルマヂヨ]

[やぶちゃん注:図の右角の余白は底本のもの。]

 獸類の中でも、「せんざんかふ」や「アルマヂヨ」〔アルマジロ〕は甲冑を以て敵の攻撃を防ぐ。「せんざんかふ」の鱗は恰も魚類の鱗の如くに竝んで居るが、「アルマヂヨ」の方はまるで龜の如くで、胴は堅固な甲で被はれて居る。いづれも普通の獸類とは見た所が大に違ふから、獸類と見做されぬことが多い。「せんざんかふ」が古い書物では魚類の中に入れてあることは前にも述べたが、「アルマヂヨ」の方は、先年東京で南米産物展覧會のあつた節、地を掘る蟲害といふ札を附けられ、蟲類の取扱ひを受けて居た。この獸が敵に遇ふと頭も尾も四足も縮めて全身を全身を球形にし、ただ堅い甲冑のみを外に現すから、犬でも「へう」〔ヒョウ〕でもこれを如何ともすることが出來ぬ。アルヘンチナ〔アルゼンチン〕國では、この獸の甲に絹の裏を附け、尾を曲げて柄として婦人用の手提かばんに用ゐる。

[やぶちゃん注:「せんざんかふ」センザンコウ(穿山甲)は哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae に属する一目一科の哺乳類の総称。ウィキセンザンコウ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号との一部を変更した)、『食性や形態がアリクイに似るため、古くはアリクイ目(異節目、当時は貧歯目)に分類されていたが、体の構造が異なるため別の目として独立させられた。意外にもネコ目(食肉目)に最も近い動物群であることは、従来の化石研究でも知られていたが、近年の遺伝子研究に基づく新しい系統モデルでも、四つの大グループ(クレード)のうち、「ローラシア獣類」の一つとして、ネコ目、ウマ目(奇蹄目)などの近縁グループとされている』とある。『センザンコウ目は有鱗目(ゆうりんもく)ともいい、現生はセンザンコウ科一科のみ。インドから東南アジアにかけて四種(下のリストの前半)、アフリカに四種(下のリストの後半)が現存し、これら八種が、一属または二属に分類される。

インドセンザンコウ Manis crassicaudata

ミミセンザンコウ Manis pentadactyla

マレーセンザンコウ Manis javanica

Manis culionensis

オオセンザンコウ Manis gigantea

サバンナセンザンコウ Manis temminckii

キノボリセンザンコウ Manis tricuspis

オナガセンザンコウ Manis tetradactyla

サイズは、小さいものではオナガセンザンコウが体長三〇~三五センチメートル、尾長五五~六五センチメートル、体重一・二~二・〇キログラムほどしかないのに対して、最も大きいオオセンザンコウでは、体長七八~八五センチメートル、尾長六五~八〇センチメートル、体重二五~三キログラムほどもある』。形態は『体毛が変化した松毬(マツボックリ)状の角質の鱗に覆われており、全体的な姿は、南米のアルマジロ類に似ているが、アルマジロの鱗が装甲としての機能しか持っていないのに対し、センザンコウの鱗は縁が刃物のように鋭く、尻尾を振り回して攻撃もできる』。『発達した前足の爪でアリやシロアリの巣を壊し、長い舌と歯のない口で捕食する。台湾には、ミミセンザンコウ M. pentadactyla が、死んだふりをしてアリを集めるという俗説がある』とする。『中国では、古くはセンザンコウのことを「鯪鯉」などと書き表し、魚の一種だと考えられていた。李時珍の「本草綱目」にも記載があり、鱗は漢方薬、媚薬の材料として珍重され、二〇〇〇年代に入ってもなお中国などへ向けた密輸品が摘発されている』。『インドでは鱗がリウマチに効くお守りとして用いられている。また、中国やアフリカではセンザンコウの肉を食用としたほか、鱗を魔よけとして用いることもある』。『いずれの地域でも、密猟によって絶滅の危機に瀕している種が多く、特にサバンナセンザンコウなどは深刻な状況にある』とある。博物誌的記載は私の電子テクスト寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に載る「鯪鯉」の本文や私の注を参照されたい。

「アルマヂヨ」哺乳綱獣亜綱異節上目被甲目アルマジロ科 Dasypodidae に属する動物の総称。北アメリカ南部からアルゼンチンにかけて約二十種が分布している。ウィキの「アルマジロによれば(引用部はアラビア数字を漢数字に代え、記号との一部を変更した)、最大種はオオアルマジロ Priodontes giganteus で体長七五~一〇〇センチメートル、尾長五〇センチメートル、体重三〇キログラム。最小種はヒメアルマジロ Chlamyphorus truncates で体長一〇センチメートル、尾長三センチメートル、体重一〇〇グラム。形態は『全身ないし背面は体毛が変化した鱗状の堅い板(鱗甲板)で覆われている。アルマジロ (Armadillo)という英名はスペイン語で「武装したもの」を意味する armado に由来する。敵に出会うと、丸まってボール状になり身を守ると思われているが、実際にボール状になることができるのはミツオビアルマジロ属 Tolypeutes の二種だけである』。『もともとは南アメリカ大陸の生物であると思われるが、最近では北アメリカ大陸でも見かけるようになりアメリカ合衆国南部では一般的に見かけられるようになってきている。また、ペットとして飼育される事例も多く、意外と人になつく生き物でもある。睡眠時間が長く一日十八時間も寝て過ごす。野生では巣穴を掘って穴の中で生活しているが、飼育下では無防備にあお向けになって寝る』。『南米では、アルマジロの肉を食用としているほか、甲羅はチャランゴなどの楽器の材料に使われている。アンデス地方の先住民族であるケチュア族の言葉ではケナガアルマジロを「キルキンチョ(quirquincho / kirkincho)」もしくは「キルキンチュ(quirquinchu / kirkinchu)」と呼び、ボリビアやペルーではこの名前で呼ばれることが多い。フォルクローレの里として有名なボリビアのオルロでは、自分たちのことを「キルキンチョ」と自称するほど親しまれた動物である』。『オルロやラパスなどのアンデス地方の都市でカルナバル(カーニバル)の際によく踊られる「モレナダ」と呼ばれる踊りでは、手にアルマジロの胴体で作ったリズム楽器を持つことがあり、この楽器は「マトラカ(matraca)」と呼ばれる。中に鉄板をはめ込んだアルマジロの胴体に棒をつけ、棒を持って振り回すと鉄板がガリガリと音を出すようになっている。近年のカルナバルでは、本物のアルマジロを使う代わりに、同様のものを木などで作ることの方が多い。踊り手たちが所属するグループを示すものの形をしたマトラカ(運送業者のグループならばトラック型のマトラカなど)を持って踊ることもある』。そして最後に、『アルマジロは人間以外の自然動物で唯一ハンセン病に感染、発症する動物であるため、ハンセン病の研究に用いられてきた』という意外な事実が記されてある。

「アルヘンチナ國」アルゼンチン共和国。正式名称はRepública Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称はArgentina(アルヘンティーナ)。ウィキの「アルゼンチン」によれば、一八一六年の独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)と呼ばれていた(リオ・デ・ラ・プラタ(Río de la Plata)=ラ・プラタ川は、スペイン語で「銀の川」を意味し、一五一六年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人の一行がこの地を踏んだ際に銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈」(Sierra del Plata)があると信じたことから名づけたとされる)。『アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「銀」を意味する Argentum に拠って、地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。スペイン語の「ラ・プラタ」からラテン語由来の名へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵掠を契機として、フランス風の呼称であるアルジャンティーヌ(Argentine)に倣ったものでもあるという』。『近年では、原語にしたがってアルヘンティーナと表記されることも少なくない』とあって、丘先生の謂いが決して古くない正当な音写であることが窺われる。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉

泰衡この由聞きて、阿津樫山に城郭を構へ國見宿の中間に逢隅川(あふくまがは)の流(ながれ)へ堰入(せきい)れつ。泰衡が異母の兄西木戸(にしきどの)太郎國衡を大將とし、金剛別當秀綱以下二萬餘騎にて堅めたり。刈田郡(かりたのこほり)は城郭高く築きて壘(そこ)深く構へ、名取、廣瀨の兩河に柵(しがらみ)を構(か)き、大綱を流し、泰衡は國分原鞭楯(こくぶがはらむちたて)に陣取り、 栗原一野邊(くりはらいちのべ)の城には若九郎太夫餘平六を大將として一萬餘騎にて堅めたり。田河太郎行文(おきぶん)、秋田三郎致文(むねぶん)には出羽國をぞ防がせける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月七日の条。

〇原文

七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿與彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黑岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊。〔依爲近習祗候。〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日甲午。二品、陸奥國伊逹郡(だてのこほり)阿津賀志(あつかし)の山の邊、國見驛に着御す。而るに半更に及びて雷鳴し、御旅館に霹靂有り。上下恐怖の思ひを成すと云々。

泰衡、日來、二品發向し給ふ事を聞き、阿津賀志山に於いて、城壁を築き、要害を固む。國見宿と彼の山の中間に、俄かに口(くち)五丈の堀を搆へ、逢隈河の流れを堰き入れて柵(さく)とす。異母兄の西木戸太郎國衡を以つて大將軍と爲し、金剛別當秀綱、其の子、下須房太郎秀方已下、二万騎の軍兵を差し副ふ。凡そ山内三十里の間、健士、充滿す。之に加へ苅田郡(かつたのこほり)に於いて、又、城郭を搆へ、名取・廣瀨の兩河に大繩を引きて柵とす。泰衡は、國分原鞭楯(むちたて)に陣す。亦、栗原・三迫(さんのはざま)・黑岩口・一野邊に、若九郎大夫、余平六已下の郎從を以て大將軍と爲し、數千の勇士を差し置く。又、田河太郎行文(ゆきぶん)・秋田三郎致文(むねぶん)を遣はし、出羽國を警固すと云々。

夜に入りて、明曉、泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品、内々老軍等に仰せ合はせらる。仍りて重忠が相ひ具す所の疋夫(ひつぷ)八十人を召し、用意の鋤鍬(すきくは)を以つて、土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢て人馬の煩ひ有るべからず。思慮、已に神に通ずるか。小山七郎朝光、御寢所邊を退き〔近習たるに依りて祗候(しこう)す。〕、兄朝政の郎從等を相ひ具し、阿津賀志山に到る。意、先登に懸るに依りてなり。

・「阿津賀志の山」現在の厚樫山(あつかしやま)。福島県国見町にある標高二八九・四メートル。福島県と宮城県の県境近くに位置する。この時の遺跡である二重堀(阿津賀志山防塁)が山中から山麓にかけて現存する(次注参照)。

・「口五丈の堀」幅約十五メ-トルの堀。阿武隈川までこの幅で深さ約三メ-トルの堀を、実に総延長三・二キロメートルに及ぶもの(しかも二重(ふたえ)掘り)であった(以上のデータは有限会社ABCいわきの運営になる「福島情報館」の福島阿津賀志山防塁下二重堀地区)」に基づく)。

・「山内三十里」これは六町を一里とする坂東道単位。「坂東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、通常の一里とは異なる特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。従ってここは約十九キロメートル四方の謂いとなるが、厚樫山自体が低山であり、山域は大きく見積もっても数キロ四方で、これはいっかな坂東路でも如何にもな誇張表現ではある。

・「刈田郡」宮城県南部西端に位置する。現在含まれる蔵王町(ざおうまち)・七ヶ宿町(しちかしゅくまち)の他、現在の白石市も含む旧地名。奥州藤原氏一族と称した白石氏(刈田氏)の本拠地であった。

・「名取川」宮城県仙台市及び名取市を流れ、歌枕として知られる。

・「広瀬川」宮城県仙台市を流れる。仙台市のシンボルとして親しまれ、さとう宗幸の「青葉城恋唄」で全国的に知名度が高いが、先の名取川の支流である。

・「國分原鞭楯」現在の仙台市榴岡(つつじがおか)とも同市青葉区国分町とも言われるが、確かな同定地や遺構は発見されていない。

・「栗原」現在の宮城県北西部に位置する栗原市築館(つきだて)。

・「三迫」現在の栗原市金成(かんなり)に小迫(おばさま)の地名が残る。また、同市には北上川水系迫川(はさまがわ)の支流で三迫川(さんはさまがわ)が流れる。

・「黒岩口」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には現在の『栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下』とある。

・「一野邊」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注は現在の『宮城県白石市越河市野か』とする。

・「田河太郎行文」(?~文治五(一一八九)年)。田川行文(たがわゆきぶみ)とも。出羽国田川郡(現在の鶴岡市田川)を本拠地として田川郡郡司を自称した豪族。奥州藤原氏郎党。

・「秋田三郎致文」(?~文治五(一一八九)年)。「むねぶみ」「ただぶみ」とも読む。出羽国秋田郡(現在の秋田市)を本拠地とした奥州藤原氏郎党。

・「小山七郎朝光」結城朝光(仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)。結城家始祖。ウィキ結城朝光」によれば、寿永二(一一八三)年二月二十三日、『鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父の政光、兄の朝政、宗政ら共に野木宮合戦で破り、この論功行賞により結城郡』(現在の茨城県結城市)『の地頭職に任命される。義広との戦いに先んじて、頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された』。その後も元暦元(一一八四)年の木曾義仲追討の源範頼・義経軍に参加、宇治川・壇ノ浦の参戦した。鎌倉に帰還後の同年五月には『戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝え』る役を務めている。次の場面に現われるように、奥州合戦ではこの『阿津賀志山の戦いで、敵将・金剛別当を討ち取るなど活躍。その功により奥州白河三郡を与えられ』た。翌建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定にも参加、以後、『梶原景時と並ぶ頼朝の側近と目されるようになった』。『頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時、朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された』という。頼朝没後の正治元(一一九九)年十月の「梶原景時讒訴事件」では三浦義村ら有力御家人六十六名を結集して「景時糾弾訴状」を連名で作成、二代将軍源頼家に提出、梶原景時失脚とその敗死に大きな役割を果たしている。その後も評定衆の一員となるなど、幕政に重きを成した。『若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。信仰に生きる日々を送』った、とある。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 日金山/岩不動

   日 金 山
 日金山松源寺ハ、鐵觀音ノ西ニアル小寺ナリ。本尊地藏、豆州ノ日金ヲ勸請スルトナリ。

   岩 不 動
 松源寺ノ西ノ山根ニアリ。弘法ノ作トテ岩窟ノ内ニ石像アリ。岩不動見畢テ、日既ニ虞淵ニ迫ル。因テ春高庵ニ歸憩フ。
 五日卯單二英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、及ビ方丈へ行テ、端午ノ節ヲ賀ス。辰ノ半ニ庵ヲ出、再ビ鶴岡ニ至リ、辨財天ヲ見ル。運慶作ニテ妙音辨才天ノ木像也。膝ニ横へタル琵琶ハ、小松大臣ノ持タル琵琶ナリ上云。池中ニ七島アリ。神職ガ曰ク。賴朝平家追討ノ時、二位ノ尼ノ願ニテ、大庭平太景義ヲ奉行トシテ、社前ノ東西ニ池ヲ掘シム。池中ニ東ニ四島、西ニ四嶋、合テ八嶋ヲキヅヒテ、西國ノ八島ニ准ジ、束ノ一嶋ヲ破テ、八島ヲ東方ヨリ亡スト祝ス。東ニ三島ヲ殘ス。三ハ産也。西ニ四嶋ヲ置ク。四ハ死也卜云心也ケルトゾ。ソレヨリ八幡ノ東門ヲ出ル。
[やぶちゃん注:「虞淵」「グエン」と読む。元来は、太陽が入るとさあれた伝説上の場所を指し、そこから夕方、黄昏の意となった。]

耳嚢 巻之五 杉山檢校精心の事

 杉山檢校精心の事

 

 杉山檢校凡下(ぼんげ)の時、音曲(おんぎよく)の稽古しても無器用にして事行(ことゆく)べしとも思われず、其外何にても是を以(もつて)盲人の生業(なりわひ)を送らん事なければ、深く歎きて三七日(さんしちにち)斷食して、生涯の業を授け給へと丹誠を抽(ぬき)んで、江の嶋の辨天の寶前に籠りしが、何の印(しるし)もなければ、所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來(うちきた)る波に遙(はるか)の汀(みぎは)に打上られし故、扨は命生(いき)ん事と悟りて、辨天へ歸り申ける道にて、足に障(さは)る物あり。取上見れば打鍼(うちはり)也。然らば此鍼治(しんぢ)の業をなして名をなさんと心底を盡しけるが、自然と其妙を得て今杉山流の鍼治と一派の祖と成しとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:水神龍女が福を授けた話から、同眷属とされる弁財天(元はインドの河川神で、本邦では中世以降に蛇神宇賀神と習合、弁才天の化身は蛇や龍とされる)が同じく福を授ける同類譚で直連関。

・「精心」底本では右に『(精進)』と注するが、このままでもおかしくない。

・「杉山檢校」杉山和一(すぎやまわいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)は伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の検校。鍼の施術法の一つである杉山流管鍼(かんしん)法の創始者で、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物。以下、参照したウィキの「杉山和一より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『津藩家臣、杉山重政の長男として誕生。幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し家を義弟である杉山重之に譲り江戸で検校、山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。(この話は江の島においては江の島で起こった出来事と伝えられ、躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。)その後、山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し大盛況となった。六十一歳で検校となり、七十二歳で綱吉の鍼治振興令を受けて鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。将軍綱吉の本所一つ目の話は有名である。和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織のひとつ)の再編にも力を入れた。それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄二年に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、綱吉から賜った本所一つ目の屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、これ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった』。この「本所一つ目」の逸話については、杉山検校遺徳顕彰会ホームページ杉山和一総検校ついてのページに『老いてもなお江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため、綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を分社して祀らせた。これには次のような逸話がある』として記されてある。それによれば、元禄六(一六九三)年、将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ、杉山和一が「目が欲しい」と答えたところ、綱吉は本所一ツ目(現在の両国駅近くの墨田区千歳一丁目)に宅地を与え、その際、『「望みによって一ツ目を与える。本所一ツ目一八九〇坪、外川岸付き七九二坪を町屋(町屋を作らせ地代は私費に充てる、但し処分は官の許可要する)として与え、弁財天をこれに勧請し、老体のことゆえ江ノ島の月参りはほどほどにするがよかろう。弁天社は古跡並み(徳川氏入国以前の社寺を古跡とし種々の特典がある)にし、江ノ島への願いは朱印状(将軍の朱印を押した書付、絶対の権威がある)をあたえる」』と述べたという(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった』。現在の江島杉山神社がある場所一帯で『ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかつての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を模した洞穴があり、弁財天が祀られている。またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い』とある。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、和一の死後、四十三年後である。

 なお、江ノ島の福石や杉山検校墓などについては、私の新編鎌倉六」の「江島」の項や私の注を参照されたい(写真附)。

・「凡下」江戸期における盲人の階級呼称の一つ。検校・別当・勾当・座頭の四つの位階(更にそれが七十三段階に分かれていたとされる)の最下層の座頭(ざとう)の一階級(もしくは同位階内の集団の通称)かと思われる。

・「三七日」岩波版長谷川氏注に『行(ぎょう)の一くぎりの期間七日を三度重ね。』とある。

・「生涯の業」の「生涯」は底本では「生害」で、右に「生涯」を傍注する。改めた。

・「室前」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『宝前』。こちらで採る。

・「所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來る波に遙の汀に打上られし故、扨は命生ん事と悟りて、」このエピソードは初見。話としては膨らんで面白くはある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 杉山検校の精心の祈誓の事

 

 杉山検校が未だ凡下(ぼんげ)の座頭であられた折りのこと、音曲(おんぎょく)の稽古を致いても、これ、全くの不器用にて御座ったがため、上達する見込みがあるようにも到底思われず、その外の目の不自由なる者の生業(なりわい)と致す業(わざ)にても、これ、何を以ってしてもものにならざることと深く嘆かれ、三七(さんしち)二十一日の間、断食をなして、「――何卒、一生の業(わざ)を授け給え――」と丹精を込めて、江ノ島の弁天の宝前に籠もられては、覚悟の祈誓をなさって御座った。

 が、行が明けても、何の験しも、これ、御座らなんだによって、

「……かくなっては……最早、死ぬしか……御座るまい……」

と、江ノ島の海中へと、その身を投じられた。

――が――

――気が付けば――打ち寄せる波に、遙かな浜へと打ち上げられて御座った故、

「……さても――未だ生きよ――とのことならん……」

と悟って、弁天の社(やしろ)へと今一度戻り、命を救うて下された御礼を申し上げんとした、その途次、

――チクリ――

と、何やらん、足に鋭く触るるものが、これ、御座った。

 取り上げて見れば、これ、鍼(はり)で御座った。

「……然らば! この鍼を用いた鍼治(しんじ)の業(わざ)を成して名を成さん!」

と決定(けつじょう)なされた、とのことじゃ。……

 その後(のち)、心底を尽くして鍼治の修行に励まれたが、自ずと、鍼術の妙技処方を会得なされて、今に杉山流の鍼治として一派を成された、とのことで御座る。

一言芳談 十四

   十四

 

 明遍法印云、他力の強緣(がうえん)にあへる事を思ふに、生死(しやうじ)を出離せむことは、今生(こんじやう)にあひあたれり。此緣にあひながら、むなしくすぐしては、一定(いちぢやう)またうけさげられぬとおぼゆるなり。しかれば、生死をわかれざらんこと今生にあるなり。