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2012/11/30

北條九代記 賴朝上洛 竝 官加階 付 惣追捕使を申賜る

      ○賴朝上洛  官加階  惣追捕使を申賜る

建久元年十一月七日賴朝卿上洛し給ふ。池大納言賴盛卿の六波羅の舊跡を點じて入り給ふ。次の日院參あり。網代(あじろ)の車大八葉(えふ)の文(もん)を居(すゑ)られたるに召され、夜に及びて退出あり。次の日禁中に參内し給ふ。除目(ぢもく)行はれて、賴朝卿參議中納言を經ずして、直(たゞち)に權大納言に任ぜらる。同二十四日右大將に任じ給ふ。御直衣始(なほしはじめ)あり。藤の丸うす色竪文の織物差貫(おりものさしぬき)に野劍(のだち)を帶(たい)し、笏(しやく)を持ち梹榔毛(びりやうげ)の車に召され、前駈(ぜんく)六人随兵(ずゐひやう)八人にて院參し給ふ。美美敷(びびしく)ぞ見えにける。次で兩職を辞退して、十二月二十九日鎌倉に歸り給ふ。翌年正月十五日政所の吉書始(きつしよはじめ)を行はる。前因幡守平朝臣廣元を政所別當に補(ふ)せられ、中宮屬(ちうぐうのさくわん)三善康信問注所の執事となる。和田左衞門少尉平朝臣義盛を侍所の別當とし、梶原景時を所司とし給ふ。去ぬる文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙(かうぶ)り、正二位に轉ぜらる。廣元申しけるやう「世既に澆薄(げうはく)にして、人また梟惡(けうあく)なり。天下反逆の輩更に以て絶べからず。東國は御住居なれば、静謐すべしといへども、南方西北國に於ては定(さだめ)て奸濫(かんらん)の企(くはだて)を起さん歟、 是を靜められん爲に、毎度軍勢を催して發向せしめ給はば、民の煩(わづらひ)國の費幾(つひえいくばく)、その限(かぎり)候まじ。只この次に六十餘州の惣追捕使(そうついふし)を申し賜り、國衙荘園(こくがしやうゑん)に守護、地頭を居ゑられば、如何なる事にもその恐あるべからず」と申しければ、賴朝卿甘心(かんしん)し給ひ、「誠に本末相應の忠言なり」とて、即ち奏聞を經て、諸國の守護地頭權門勢家(けんもんせいけ)の莊工(しやうく)を論ぜす、段別(だべつ)五桝(しやう)の兵糧米(ひやうらうまい)を宛課(あておは)すべきの由申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり。賴朝是より諸國に守護を置きて国司の威を抑へ、莊園に地頭を居ゑて、本所(ほんしよ)の掟を用ひず。王道は日を追て衰敗し、武威は月に隨ひて昌榮す。天下その命を守り、国家この權(けん)に服す。

[やぶちゃん注:本話の内、

①頼朝が上洛して権大納言(建久元(一一九〇)年十一月九日拝命)並びに右大将(同十一月二十四日拝命)に任ぜらるるも、両職を辞退して(同十二月三日)、下向(十二月十四日京都進発、同二十九日の午後八時頃、鎌倉現着)

の部分は、

「吾妻鏡」巻十の建久元年十一月七日・九日・二十四日・十二月二日・二十九日の条

に拠り、

②政所・問注所・侍所及び所司任命

の部分は

「吾妻鏡」巻十一の建久二(一一九一)年一月十五日の条

に拠る。次いで、後半部の、

③征夷大将軍・正二位拝命(建久三(一一九二)年七月十二日)

は、

「吾妻鏡」巻十二の建久三年七月二十日の条

に拠る(タイム・ラグは飛脚によるため)。続く部分は実は時計が巻き戻されており、

④大江広元の提言によって(文治元(一一八五)年十一月十二日)、諸国に守護・地頭を置く

という部分は六~七年遡った、

「吾妻鏡」巻五の文治元(一一八五)年十一月十二日・二十八日・二十九日及び文治二年三月一日の条

に基づくものである。

 なお、ここに「六十餘州の惣追捕使」とあるが、この文治元年十一月の通称文治勅許の際、地頭職を義経追捕を直接目的として全国的に設置する権限を朝廷に求めて承認されてはいるが、一応、頼朝が守護任命権を持った「諸國惣追補使」となったことは「吾妻鏡」巻六の文治二年三月一日に示される。筆者は文治二年三月一日を以って「諸國惣追補使」になったと当然思っていよう。しかし、ことはそう単純ではない。実は、これが、

正式な「諸國惣追補使」として公的に「確認される」のは

実はもっとあと、正にここで時計が本話の頭に戻って、頼朝の凱旋上洛から権大納言・右大将叙任及びあっという間の辞任という場面の中で行われたのであり、まさに正しくは

頼朝が名実ともに諸国追補使となったのは建久元(一一九〇)年

であると考えられているのである。

 そうして私は、上横手雅敬(うわよこてまさたか)氏が「源平の盛衰」(講談社学術文庫一九九七年刊)などで主張なさっているところの、

頼朝の諸国追補使公認の建久元(一一九〇)年を鎌倉幕府の成立とする

という考え方を全面的に支持するのである。即ち、本話こそが

〈鎌倉幕府成立〉

と標題すべきシークエンスであると私は考えるのである。

 

「池大納言賴盛卿」平頼盛(長承二(一一三三)年~文治二(一一八六)年)。頼朝の助命を願い出た池禅尼の子で清盛の異母弟。平家滅亡後も頼朝から厚遇された。没年でお分かりの通り、ここは旧故頼盛邸を宿所としたのである。

「院參」勿論、後白河院の元へである。

「直衣始」現代音では「のうしはじめ」と読む。関白・大臣などが勅許を受けて初めて直衣を着用する儀式。「ちょくいはじめ」とも読む。

「竪文」「かたもん」と読み、綾の織物の文様の緯(よこいと)を浮かさずに固く織ったもの。緯に経(たていと)をからめて織ったもので「浮文(うきもん)」の対語である。

「野劍(のだち)」自衛用の短刀。刺刀(さすが)。

「梹榔毛(びりやうげ)」「檳榔毛の車」と同じで「びらうげのくるま(びろうげのくるま)」とも読む。牛車の一種で、白く晒した檳榔(びんろう:単子葉植物ヤシ目ヤシ科ビンロウ Areca catechu)の葉を細かく裂き、車の屋形を覆ったものを言う。

「美美敷」形容詞「びびし」で、①立派だ。美事だ。②美しい。華やかだ。ここは総ての謂いでとってよかろう。

「吉書始」吉書とは年始や改元、政務の新規開始などの際に吉日を選んで総覧に供される、それ専用に書き記された儀礼的文書のことで、吉書始は吉書奏(きっしょのそう)とも呼ばれる吉書を総覧する儀式を指す。

「中宮屬(ちうぐうのさくわん)」中宮職(ちゅうぐうしき:本来は律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所のこと。)の主典(さかん:佐(たすけ)る官の意の「佐官」の字音の当字。律令制で四等官(しとうかん)の最下位。記録・文書を起草、公文の読み役を務めたりした。)。

「所司」「しよし(しょし)」と読み、侍所の次官の職名。

「文治二年三月に平家追討の賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる」は、元暦二(一一八五)年三月の誤り(文治への改元は同年八月十四日)。ここは更に③のパートであるから、厳密には、

『右大將家、建久三年七月十二日、元暦二年三月に平家追討、その賞として後白河院より征東大將軍の宣を蒙り、正二位に轉ぜらる』

という風になっていないと、本当はおかしい。

「廣元申しけるやう……」以下、「吾妻鏡」の文治元(一一八五)年十一月十二日の条の後半を示す。前半は源義経の都落ちと逃亡、関係諸人の処分などが記され、このゆゆしき一件を受けての広元の主張となる。

〇原文

十二日辛夘。(前略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟惡者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日辛夘。(前略)凡そ今度の次第、關東の重事たるの間、沙汰の篇、始終の趣、太8はなは)だ思し食(め)し煩ふの處、因幡前司廣元申して云はく、「世、已に澆季(げうき)にして、梟惡の者尤も秋(とき)を得るなり。天下の反逆の輩有るの條、更に斷絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所たるに依りて靜謐せしむと雖も、奸濫(かんらん)定めて他方に起らんか。之を相ひ鎭めんが爲に、毎度、東士を發遣せらるるは、人々の煩ひなり。國の費(つい)えなり。此の次(ついで)を以つて、諸國に御沙汰を交へ、國衙庄園毎に守護地頭を補せられば、強ちに怖れる所有るべからず。早く申し請けせしめ給ふべし。」と云々。

二品、殊に甘心し、此の儀を以つて治定(ぢぢやう)す。本末の相應、忠言の然らしむる所なり。

・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えた乱れた世。世の終わり。末世。世も末。「北條九代記」の「澆薄」も同じく、道徳が衰えて人情の極めて薄くなっていることを言う語である。

・「梟惡」性質が非常に悪く、人の道に背いていること。

・「御居所たるに依りて」二品頼朝様のお膝元なれば、の意。

・「毎度東士を發遣せらるるは」毎回毎回、いちいち関東の兵卒を派遣なさっておっては、の意。

・「御沙汰を交へ」命令系統をしっかりと組織した上で上意下達させて。

・「國衙庄園毎に守護地頭を補せられば」は、つい最近まで無批判に、国衙に守護を、荘園に地頭を置くという風に解釈されてきたのだが、近年の研究では守護と地頭ではなく、国衙や荘園を守護するための地頭が正しい解釈として支持されているようである。諸国に設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めるのは(しかも頼朝政権当時は全国的なものではなく、東日本に偏ったもので、畿内以西では朝廷や寺社勢力が依然、有意な力を持っていた)、正に私が支持する鎌倉幕府成立の建久元(一一九〇)年前後とされているのである。

 

「莊工(しやうく)」荘園。

「段別(だべつ)」段別・反別で普通は「たんべつ」と読む。田を一反単位に分けることであるが、通常はそれに課税することを意味する。一反は九九一・七四平方メートで約一〇アール、約三〇〇坪強。

「五桝(しやう)」五升。約七・五キログラム。

「申さるゝに、院は何の御遠慮にも及ばず、次の日勅許あり」ここには勿論、省略があって、以上を受けて、同月(文治元(一一八五)年十一月)二十八日に北條時政から後白河院への以上の要請が吉田経房を通して上奏され、それが即決で「次の日」二十九日に勅許されたことを指している。両日の「吾妻鏡」を部分的に引いておく。

〇原文

廿八日丁未。補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升。〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。

廿九日戊申。北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。(後略)

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日丙午。諸國平均に守護地頭を補任し、權門勢家庄公を論ぜず、兵粮米〔段別五升。〕を宛て課すべきの由、今夜、北條殿、藤經房卿中納言に謁し申すと云々。

廿九日戊申。北條殿申さるる所の諸國の守護地頭・兵粮米の事、早く申し請くるに任せて御沙汰有るべきの由、仰せ下さるの間、師中納言、 勅を北條殿に傳へらると云々。(後略)]

子ども遊び

……「じゃんけんぽん!」の次は……「この指とまれ!」か……すると次にやるのは「花いちもんめ」だねえ、欲しい相手を取り合うんだよ……そうして……そうだな、「缶けり」すりゃあ面白いぞ、誰かがやったことも一発でみんなオジャンだもの……後に残った遊びは……そうだなぁ……「鬼ごっこ」ってのはどうよ?!……巨神兵みたような奴だよ……でもね……目に見えない「鬼」だからね……最後はね……その鬼しかいなくなる「鬼ごっこ」さ…………

……いや……何、ガキの遊びの話さ!……他愛もない、無責任で、独り善がりで、世界は自分のために周ってると思ってる、手に負えない、救い難いガキどもの、ね……

芥川龍之介漢詩全集 十六

   十六

 

沙淺蒲猶綠

石疎波自皺

遙思明月下

時有浣沙人

 

〇やぶちゃん訓読

 

 沙 淺くして 蒲(ほ) 猶ほ綠なり

 石 疎(まば)らにして 波 自(おの)づから皺(しわ)む

 遙かに思ふ 明月の下(もと)

 時に有り 浣沙(くわんさ)の人

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五から二十七歳頃の作(推定)。

龍之介の遺稿として発見された手帳の一つ「我鬼句抄」に所載。

手帳「我鬼句抄」は、全集後記によれば、罫紙(又は半紙の何れか)を自分で綴じて作った古風な手帳に毛筆で書かれたものである(現在、所在不明)。旧全集は記載内容から末尾に編者によって『大正六年―大正八年』と記されてある。

 

「浣沙人」邱氏注に『浣沙は洗濯するの意』と記され、現代語訳では『時には洗濯の娘がいるだろうかと遥かなる思いをはせる。』と結句を訳されておられる。……なるほど久米の仙人か……作者が浮かべたのは川で洗濯する小娘か女の脛であったか……大正六(一九一七)年から大正八(一九一九)年にかけて、文との結婚(大正七年二月二日)、大正八年六月の「愁人」秀しげ子との出逢いとその後の彼女との不倫経験など……確かにこれは女なのかも知れないな……

……ただ……私は本詩を最初に読んだ際、違った印象を持った。私にはこの「時に有り 浣沙の人」は男、それも老人、と読んだのである。……それはきっと悲しい教師根性からであろう。……私は自分が教えた教材への深い思い入れに基づく思考の刷り込み効果がある。――だから――屈原の「漁父辭」なのだ。――だから私の川辺には――「纓」(冠の紐)、基、当然、足――を洗うておる老荘の世界に遊んでいる老人の姿が――見えたのである。……これは私の勝手な空想……お忘れあれ……]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 滑川/浄妙寺

   滑  川

 澤間へユケバ越ル川ヲ云。此流ノ上下トモニ通ジテ滑川ナレドモ、太平記ニ載タル所ヲ見ルニ靑砥左衞門居屋敷此邊ニ有ケルカ。靑砥左衞門ガ十錢ヲ以テ松明ヲ買取出シタルト也。

[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。前掲の宅間寺(=報国寺)のこと。現在の伝承では宝戒寺の裏、北条高時以下の腹切やぐらに向かう滑川二架かる橋を青砥橋と呼称し、この辺りを例の伝承の現場とする。但し、青砥藤綱はモデルはあったかもしれないが、実在は疑われ、この比定自体の学問的意味はないに等しいと私は考えている。]

 

   淨 妙 寺

 稻荷山ト號ス。五山ノ第五也。讚岐守源貞氏立。開山退耕和尚、諱ハ行勇、千光ノ嗣法ナリ。昔ハ十二院有シガ、今ハ直心庵ノミ殘レリ。開山塔ヲ光明院ト云。今四貫三百文ノ御朱印アリ。直義ノ木像アリ。鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ。

[やぶちゃん注:「鍛冶廣光」(たんやひろみつ)は、南北朝期相州伝鍛冶の代表ともいえる鍛冶職人。正宗門人と言われるが、年代から見て合わず、実際には貞宗の門人であるとも言われる名刀工。この「鍛冶廣光ガ舊蹟舊記ニ載タレドモ、今ハ亡タリ。古ノ井モツブレタリ」の部分は「新編鎌倉志卷之二」の「淨妙寺」の項にも載らず、現在の鎌倉関連書にも不載で、この記載はもしかすると、失われた記憶を発掘された黄門様の知られていない快挙ではあるまいか?!]

耳囊 卷之五 同眼のとぢ付きて明ざるを開く奇法の事

 

 疱瘡の後、かぜなどに至りて眼とぢて明かぬる時は、蚫熨斗(あはびのし)の頭の黑き所を水に浸し、外へ障らざる睫毛を眼尻の方へなづれば、開く事立所(たちどころ)に妙なりと、是又右醫師の傳授也。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:標題の「同」は「おなじく」と訓ずる。天然痘の「窓を開ける」呪(まじな)い二連発。

 

・「明ざる」は「あかざる」と訓ずる。

 

・「かぜ」風邪ではない。「かせ」「がせ」「かさ」で、貫膿(前話注参照)して膿疱の腫脹が引いた後、瘡蓋状になった状態を言っている。今風に言えば天然痘の予後。

 

・「蚫熨斗」熨斗鮑(のしあわび)のこと。腹足綱原始腹足目ミミガイ科アワビ属 Haliotis に属するアワビ類の肉を薄く削ぎ、干して琥珀色の生乾きになったところで、竹筒で押し伸ばし、更に水洗いと乾燥・伸ばしを交互に何度も繰り返すことによって調製したものを言う。以下、ウィキ熨斗」より引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『「のし」は延寿に通じ、アワビは長寿をもたらす食べ物とされたため、古来より縁起物とされ、神饌として用いられてきた。『肥前国風土記』には熨斗鮑についての記述が記されている。また、平城宮跡の発掘では安房国より長さ四尺五寸(約一・五メートル)のアワビが献上されたことを示す木簡が出土している(安房国がアワビの産地であったことは、『延喜式』主計寮式にも記されている)。中世の武家社会においても武運長久に通じるとされ、陣中見舞などに用いられた。『吾妻鏡』には建久三年(一一九一年)に源頼朝の元に年貢として長い鮑(熨斗鮑)が届けられたという記録がある』。『また、仏事における精進料理では魚などの生臭物が禁じられているが、仏事でない贈答品においては、精進でないことを示すため、生臭物の代表として熨斗を添えるようになったともされる』。『神饌として伊勢神宮に奉納される他、縁起物として贈答品に添えられてきた。やがて簡略化され、アワビの代わりに黄色い紙が用いられるようになった(折り熨斗)』とある。現在、我々が「のし」と呼んでいるものの起源とその変容について、ここまでちゃんと認識されている(「のし」はあの「御祝」なんどと書いた――細長い紙を言うのではない――ということ――あの小さく折り畳んだ折り熨斗からちょっと出ている黄色い細い紙が熨斗のなれの果てであるということ――を)方は私は実は少ないと感じている。故に、ここに、私の好きな(これは食としてよりも海産生物愛好家としての謂いで)アワビの名誉のためにも、敢えて示し置いた。

 

・「頭の黑き所」これはアワビ属 Haliotis の内臓部分である。もしかすると、この効能は、そこに含まれるタンパク質分解酵素と何らかの関係があるのかも知れない(但し、そのためには太陽光を睫毛に照射する必要があるが)。以下に私が島良安「和漢三才圖會 介貝部 四十七」の「あはび 鰒」の注に書いたものを転載しておく。

 

   《引用開始》

 

 三十年以上も前になるが、ある雑誌で、古くから東北地方において、猫にアワビの胆を食わせると耳が落ちる、と言う言い伝えがあったが、ある時、東北の某大学の生物教授が実際にアワビの胆をネコに与えて実験をしてみたところが、猫の耳が炎症を起し、ネコが激しく耳を掻くために、傷が化膿して耳が脱落するという結果を得たという記事を読んだ。現在これは、内臓に含まれているクロロフィルa(葉緑素)の部分分解物ピロフェオフォーバイドa (pyropheophorbide a) やフェオフォーバイドa (Pheophorbide a) が原因物質となって発症する光アレルギー(光過敏症)の結果であることが分かっている。サザエやアワビの摂餌した海藻類の葉緑素は分解され、これらの物質が特に中腸腺(軟体動物や節足動消化器の一部。脊椎動物の肝臓と膵臓の機能を統合したような消化酵素分泌器官)に蓄積する。特にその中腸線が黒みがかった濃緑色になる春先頃(二月から五月にかけて)、毒性が最も高まるとする(ラットの場合、五ミリグラムの投与で耳が炎症を越して腐り落ち、更に光を強くしたところ死亡したという)。なお、なぜ耳なのかと言えば、毛が薄いために太陽光に皮膚が曝されやすく、その結果、当該物質が活性化し、強烈な炎症作用を引き起すからと考えられる。なお、良安はこの毒性について、「鳥蛤」(トリガイ)の項で述べている。また別に、最後の「貝鮹」(タコブネ)の項も参照されたい。

 

   《引用終了》

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 同じく疱瘡で目が閉じくっ付いて開かなくなったのを開く奇法の事 

 

 疱瘡の貫膿後、膿疱が瘡蓋となって瞼が閉じくっ付いて開かずなった折りには、熨斗鮑(のしあわび)の頭の黒いところを水に浸したものを用いて、患部の他の部位には決して触れぬようにして――睫毛のみを――目尻の方へ向かって撫でてやれば、これ、たちどころに窓が開(あ)くこと神妙なり、と、これも先と同じ医師から伝授致いた奇法で御座る。

一言芳談 二十五

   二十五

 

 又云、聖法師は功德に損ずるなり。功德を作らむよりは、惡をとゞむべきなり。

 

〇功德に損ずる、佛をつくり、寺をたて、その外興福(こうぶく)の事にかゝる人、はじめの心ざしよけれども、事にふれて欲心(よくしん)もおこり、わが身にはうるはしく、後世のつとめするひまもなくて、はてには名聞におちて、道心も退轉するなり。

 

[やぶちゃん注:『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注に貞享五(一六八八)年刊書林西村市良右衛門蔵板「一言芳談句解」に(新字を正字に代え、踊り字「〱」は正字化、一部の記号を省略した)、

『功とは、春夏秋冬の、おしううつるをいひ、その四時の行年行年も、かはらぬが德にてあれ共、今の世の人は苦行するを功德とのみ、おもひさだめしなり。經陀羅尼書寫するも、くどくのはしにては有也。まことの功德はしる人まれに、しらぬ人もなし』

とある、とする。

「惡をとゞむべきなり」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には『止悪修善。』とある。これは、「断悪修善」ともいい、悪業を断ち止めて善業をおさめること、不善の行ないをしないようにして十善等を修めるよう努めることを言う。しかし、そうだろうか? これが知られた「止悪修善」であるなら、明禅はわざわざ「功德を作らむよりは」という条件文を附さなかったはずである。寧ろ、これは等価で『作善(さぜん)をしようとすることよりも、悪を行わぬように堰き止めるが肝心じゃ!――作善しようとするな! 悪を防ぎ止めよ!――』と私は言っているように思われる。]

バス愉し春の日をどり頤をどる 畑耕一

バス愉し春の日をどり頤をどる

[やぶちゃん注:以下、「天文」の部。]

2012/11/29

北條九代記 無量光院の僧詠歌

    ○無量光院の僧詠歌

 其比平泉の無量光院(むりやうくわうゐん)の住持の僧助公(じよこう)法師は學智行德の道人なり。多年泰衞と師檀(したん)の契(ちぎり)淺からざりしに、思(おもひ)の外なる兵亂起りて、國家悉く滅亡す。泰衡の館(たち)は大厦高堂(たいかうだう)灰燼となり、數町(すちやう)の郭地、寂寞として飄々たる秋の風は響(ひびき)を失ひ、蕭々たる夜の雨は音絶えて、心細き事限なし。今夜は名におふ九月十三夜この人世にあらましかば、傾く月にあこがれて折から興を催し給ひて、人々集り、吟哦(ぎんが)の遊(あそび)もありなん。移變(うつりかは)る世の中とて、只我獨(ひとり)のみ詠(なが)むる事よと漫(そゞろ)に涙の浮びければ、一首の歌を吟詠す。是を聞きける人、鎌倉殿に言上して、助公法師は憤(いきどほり)を含み、逆意を企つる由風聞しければ、即ち搦(からめ)取りて、梶原景時に子細を推問せらる。助公申されけるは「抑(そもそも)無量光院と申すは鎭守府將軍藤原秀衡の建立として、宇治の平等院の地境(ちけい)を遷(うつ)し、丈六の彌陀を安置して本尊とす。堂内四壁の扉には觀經(くわんぎやう)の説相(せつさう)を圖畫(づぐわ)し、三重の寶塔甍(はうたふいらか)既に雲に輝き、院内の莊嚴(しやうごん)は、光り、又、空に映ず。しかのみならず、出羽陸奥(みちのく)兩國の中に一萬餘の村里あり。淸衡、武貞、基衡に至る代々伽藍を建立し、秀衡父の讓(ゆづり)を承(う)け、佛餉(ぶつしやう)燈油の寄附を致し、九十九年以來(このかた)堂舍の建立數を知らず。西は白川の關を境ひ、東は外濱(そとのはま)に至る。中央に衣の關を構へて、左は高山に隣り、右は長途を經(ふ)る。南北の嶺連り亙つて、産業は海陸を兼ねたり。三十餘里の行程(ぎやうてい)は竝木(なみき)の櫻、春毎に雪か花かと怪(あやし)まる。駒形山の峯よりも麓(ふもと)に流るゝ北上川、衣川に續きて、宦照が小松楯(だて)、成通(なりみち)が琵琶柵(びはのしがらみ)、皆、翠岩(すゐがん)の間にあり。衣川の舊き跡は、秋草空(むなし)く鏁(とざ)す事數十町、礎(いしずゑ)殘りて苔生(む)し、城郭の名のみ聞えて、狐兎の栖となり果てたり。是等の事を思續(おもひつゞ)くるに、誰か哀(あはれ)を知ざらざらん。折しも長月の十三夜、今年は例に替りて獨り詠(なが)むる月影の更(ふけ)行くまゝに曇りがちなるを見て、

  昔にもあらでぞ夜はの憂(うれは)しく月さへいとど曇りがちなる

  浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし

折節懷舊の催す所を聞きて讒(さかしら)致す者ありて、當時を恨み憤ると風聞仕る事は、前世の報(むくい)と存ずるなり。如何にも計ひ給ふべし。科(とが)なき身には力及ばず」とぞ申されける。景時、涙を流し歌の樣(さま)をはうびして、賴朝卿に斯(かく)と申せば、誠に哀(あはれ)と思召(おぼしめ)して、「この上(うへ)は還住(げんぢう)せられよ、相違の事あるべからず」とて賞(しやう)を加へてぞ歸されける。

[やぶちゃん注:初代藤原清衡は中尊寺、二代藤原基衡は毛越寺を造営したが、三代藤原秀衡が建立したのが無量光院。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、「吾妻鏡」には無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁であった「平泉館」があったと記載されている。無量光院は宇治の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した(新御堂とは毛越寺の新院の意)。現代の発掘調査の結果、四囲は東西約二四〇メートル・南北約二七〇メートル・面積約六・五ヘクタールと推定され、平等院(現在の境内は約二ヘクタール)よりも遙かに規模が大きかったと推定されている。参照したウィキの「無量光院跡」によれば、『本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、中堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。本堂の規模は鳳凰堂とほぼ一致だが、翼廊の長さは一間分長い。建物は全体に東向きに作られ、敷地の西には金鶏山が位置していた。配置は庭園から見ると夕日が本堂の背後の金鶏山へと沈んでいくように設計されており、浄土思想を体現していた』。本文の無量光院の由来は「吾妻鏡」の九月十七日及び二十三日の条を、また、衣川周辺の様子については同九月二十七日の条を引いている。

「助公」この人物に纏わるエピソードは、頼朝帰鎌後、当年も押し迫った「吾妻鏡」文治五 (一一八九) 年十二月二十八日の条(これが当年の最終記載である)に現われる。即ち、これは事実に即して鎌倉での出来事として終始描かれているのだが(だから前話の最後でも頼朝の帰鎌を語っている)、読む者は無量光院の描出から自然に尋問の場へと移って、恰も裁きが無量光院で行われているような錯覚を与えて素晴らしい、と私は感じている。

〇原文

廿八日癸丑。平泉内無量光院供僧一人。〔号助公。〕爲囚人參著。是慕泰衡之跡。欲奉反關東之由。依有風聞。所被召禁也。今日。以景時被推問子細之處。件僧謝申云。師資相承之間。淸衡已下四代。皈依續佛法惠命也。爰去九月三日。泰衡蒙誅戮之後。同十三日夜。天陰。名月不明之間。

 昔にも非成夜の志るしにハ今夜の月も曇ぬる哉

如此詠畢。此事更非奉蔑如當時儀。只折節懐舊之所催也。無異心云々。景時頗褒美之。則達此由二品。還有御感。厚免其身。剩被加賞云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿八日癸丑。平泉内、無量光院の供僧一人、〔助公と号す。〕囚人と爲りて參著す。是れ、泰衡の跡を慕い、關東を反(そむ)き奉らんと欲するの由、風聞有るに依りて、召し禁(いまし)めらる所なり。今日、景時を以つて子細を推問せらるるの處、件の僧、謝し、申して云はく、「師資相承(ししさうじやう)の間、淸衡已下四代の皈依(きえ)、佛法の惠命(ゑみやう)を續(つ)ぐなり。爰に去ぬる九月三日、泰衡誅戮(ちうりく)を蒙るの後、同十三日の夜、天、陰(くも)り、名月、明らかならざるの間、

 昔にも非らずなる夜のしるしには今夜(こよひ)の月も曇りぬるかな

此の如く詠じ畢んぬ。此の事、更に當時の儀を蔑如(べつじよ)し奉るに非ず、 只だ折節 、懐舊の催す所なり。異心無しと云々。

景時、頗る之を褒美す。則ち、此の由を二品に達す。還へりて御感有りて、其の身を厚免せられ、剩さへ賞を加へらると云々。

・「師資相承」訓読すると「師資、相ひ承(う)く」で、師の教えや技芸を受け継いでいくこと、また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくことをいう。「師資」は師匠・先生または師匠と弟子の意とも。

・「昔にも非らずなる夜のしるしには今夜の月も曇りぬるかな」初句が硬い。曇るのは勿論、涙のせいでもある。歌意は、

――昔日の栄華は最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……そのしるしに……今夜の月も……曇って見えぬことよ……

 

「昔にもあらでぞ夜はの憂しく月さへいとど曇りがちなる」前掲通り、「吾妻鏡」とは、かなり異なる。連体中止法が利いて、作者の感涙がはっきりと伝わる。俄然、こちらの方がうまい、と、私は思うのである。通釈しておく。

――昔日の面影も、最早、すっかり失われてしまった今日の、この夜……今、たった一人、憂いに沈んでいる……だから……月さえも、ますます曇りがちに……なる……

「浮雲を吹き拂ふ空の秋風を我がものにして月ぞ見まほし」前掲通り、「吾妻鏡」には不載。出所不明。識者の御教授を乞う。「浮雲」は「憂き」を掛けるが、二句目の音律が今一つである(と私は思う)。通釈しておく。

――漂う雲よ……遮る雲よ! お前は何と情けのないことか!……秋風よ! お前を、我がものにしてでも……私は……月を見たい……

 

さても、他にも注すべきところはあろうが、私はこの寂寥の風雅を、これ以上、私の下らぬ注で穢したくないと思う。……]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 報国寺

   封 國 寺

 澤間山ト號ス。杉本ノ向ヒノ谷也。建長寺ノ末、十刹ノ内、五山ノ第二也。中尊釋迦、左ハ文殊、右ハ普賢、阿難・迦葉・大帝・大權・感應(カンイン)使者ナドノ木佛アリ。澤間ノ迦葉トテ、極テ妙作也。澤間ノ法眼作ナリ。寺領十三貫文アリ。伊與守源家時建立、開山佛乘禪師、内ニ當寺開山敕謚佛乘禪師天岸慧廣大和尚ト書タル位牌幷佛乘源家時ノ木像アリ。舊記ニ漸入佳境ノ額有トアレドモ、今ハ失セテ無之(之れ無し)。前ニ滑川流タリ。〔東海道名所記ニ此次ニ杉ガ谷ト云地アリト云。〕

[やぶちゃん注:標題の「封」は「報」の誤り。

「澤間山」報国寺のある場所は宅間ヶ谷と呼称されるから、「澤」は「宅」の誤りであるが、報国寺の山号は今も昔も「功臣山」(こうしんざん)で誤りである。但し、本文にある宅間法眼作の迦葉はかなり有名で、「鎌倉市史 社寺編」にもこの寺は宅間寺ともいったとあるから、それを山号に聴き間違えたものと思われる(但し、この迦葉像は明治二三(一八九〇)年の火災で焼失、現存しない)。

「十刹ノ内、五山ノ第二也」誤り。五山の第二は御存じの通り、円覚寺であり、関東十刹(=鎌倉十刹)にも含まれていない。これは憶測であるが、報国寺の寺格は五山・十刹に次ぐ「諸山」(五山・十刹に加えられなかった禅林に対して与えられたもので、原則、五山同様に室町幕府将軍御教書によって指定された)である、という話を聴き違えたものかとも思われる。

「大權」恐らくは道教の神の一人である太帝か太元であろう。太帝は特に太湖地方で絶大な信仰を集めた水神系の土地神であった祠山張大帝を指し、太元は恐らくは大元神と同じで、道教の最高神の一人太一神のことを言う(なお、次注参照)。

「感應使者」元は道教の土地神の一人。前注に示した太帝・太元とともに、本邦の禅宗寺院にはしばしば伽藍守護神として祭られている。

「伊與守源家時」幕府御家人であった足利伊予守家時(文応元(一二六〇)年~弘安七(一二八四)年)。彼は弘安八(一二八五)年の霜月騒動で敗死した安達泰盛に与みしていたが、一説には泰盛の強力な与党で姻族であった北条一門の佐介時国の失脚に関与して自害したのではないかとも言われる。彼の墓は報国寺に現存するが、実際の報国寺開基は南北朝期の上杉重兼で、家時と関係の深い上杉氏が供養したものと推測される(以上はウィキ足利家時」に拠った)。「伊豫(伊予)守」はしばしば「伊與守」とも書かれる。

「漸入佳境」「漸く佳境に入る」で、「晋書」の「顧愷之(こがいし)伝」に基づく故事成句。画家の愷之は甘蔗(=サトウキビ)を食べる際、甘みのない先の方から食べるのを常としていたが、それをある人に訊かれたその答えに由来する。一般には話や状況などがだんだんと興味深い部分にさしかかってくることを言うが、ここでは禅の三昧境を意味している。

「杉ガ谷」現在、鎌倉市二階堂小字に「杉ケ谷(すぎがやつ)」が残る。]

芥川龍之介漢詩全集 十五

   十五

潦倒三生夢
茫々百念灰
燈前長大息
病骨瘦於梅

〇やぶちゃん訓読

 潦倒たり 三生の夢
 茫々 百念 灰たり
 燈前 長大息
 病骨 梅よりも瘦(そう)たり

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この書簡の出された同日、龍之介は後に社員となる『大阪毎日新聞社』への小説連載依頼を受諾している。これは翌十月二十日から始まり、十一月四日に終わるが、それは、小説家芥川龍之介の産みの苦しみとその秘密を抉り出した、かの渾身の名作「戯作三昧」であった。
大正六(一九一七)年九月二十日附久米正雄宛所載。
なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三九ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。
 邱氏の当該項の「解説」によれば、『その創作背景について、「ボクは文世でひどいめにあつた あんなにキュウキュウ云つて書いたことはない」と書かれている。「文世でひどいめにあつた」とは、「文章世界」一九一七年十月号掲載の小説「片恋」の原稿を急がされて書いたことを言っている』とある。「片恋」は、ある夏の午後、主人公「自分」は京浜電車の中で、一緒に大学を卒業した親友の「僕」と出逢い、その「僕」が語る話という設定である(途中に挟まる車内の会話から「自分」は小説家らしい)。「僕」は最近、「自分」と「僕」の旧知の、やはり仲間の「志村」がかつて岡惚れしていた水商売の女お徳に(志村は彼女に『臂を食は』されている)、相応の茶屋の宴席で再会したが、その彼女から、逢ったこともない洋画の俳優に片思いしたことを告白された、ということを述べる形で進行する小編である(特異なのは、先の会話以外殆んどが「僕」の一人称直接話法で語られ、この話を聴いた「自分」の感懐は行間を読む以外にはないという点である)。その映画は『結局その男が巡査につかまる所でおしまひになる』のだが、そのエンデイングは、

 『大ぜいよつてたかつて、その人を縛つてしまつたんです。いゝえ、その時はもうさつきの往來ぢやありません。西洋の居酒屋か何かなんでせう。お酒の罎がずうつとならんでいて、すみの方には大きな鸚鵡の籠が一つ吊下げてあるんです。それが夜の所だと見えて、どこもかしこも一面に靑くなつてゐました。その靑い中で――私はその人の泣きさうな顏をその靑い中で見たんです。あなただつて見れば、きつとかなしくなつたわ。眼に涙をためて、口を半分ばかりあいて……』
 さうしたら、呼笛が鳴つて、写眞が消えてしまつたんだ。あとは白い幕ばかりさ。お德の奴の文句が好い、――『みんな消えてしまつたんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。』
 これだけ聞くと、大に悟つてゐるらしいが、お德は泣き笑ひをしながら、僕にいや味でも云ふやうな調子で、かう云ふんだ。あいつは惡くすると君、ヒステリイだぜ。
 だが、ヒステリイにしても、いやに眞劍な所があつたつけ。事によると、寫眞に惚れたと云ふのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。
(二人の乘つてゐた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。) (六、九、十七)

で終わっている(引用は岩波版旧全集を用いた)。脱稿は本書簡に先立つ三日前の九月十七日であった(宮坂年譜による。発表は十月一日)。本作について、本作については龍之介は他にも『ボクは文章世界で實際脂をしぼられたよ へんてこなものを書いて責をふさいぢやつた いくら何でも一日半ぢや碌なものは書けない』(本書簡同日附松岡讓宛岩波版旧全集書簡番号三二四)とぼやいており、評者からも『落語のやうなつまらないもの』(『文章世界』大正八(一九一九)年四月号の石坂養平「芥川龍之助論」)、『芥川の文学特有の締りがない』(河出書房新社一九六四年刊の進藤純孝「芥川龍之介」)と不評である(引用は勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」より孫引き)。私は必ずしも、本作をつまらぬとは思わぬ。そうして――このエンディングこそが、龍之介が実は書きたかった核心であるように思われてならないのである。
「潦倒」「れうたう(りょうとう)」「らうたう(ろうとう)」と読み、老衰していること。やつれて元気のないこと。また、落魄れてみすぼらしいこと。惨めであることを言う。
「三生」前世・現世・後世(ごせ)の三世の意であるが、ここでは単に個人としての全人生の謂い。
「病骨」とあるが、実際に龍之介が病気になっていた事実はない。但し、この頃、龍之介はこの頃、海軍機関学校での教師生活に嫌気がさしており、専業作家になることを希望し始めていた。それは例えば、同月二十八日附の婚約者塚本文へ宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号三二八)などに明らかである(婚約者へ向けた言葉であるだけに経済的な意味でも重いものがある)。例えばそこには、

學校ばかりやつて、小説をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 教へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくちや駄目ですよ

とあり、また最近、初対面の者がよく尋ねて来る、昨日も『工廠の活版工をして小説を書いてゐる人と 小説家志望のへんな女學生とがやつて來』たが、『彼等は唯世間で騷がれたさに 小説を書くん』であって『量見そのものが駄目な』んだ、

あんな連中に僕の小説がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね
もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとする勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

私はこの注釈のために、この龍之介の文へのラブ・レターを手打ちしながら、すっかり本漢詩の孤高性を忘れ果てて、なんだか龍之介と文が、とても羨ましくなってきた。これを書いている/これを読んでいるそれぞれの二人の笑顔に――嫉妬する――と言い換えてもよい。因みに、このフィアンセへの手紙の最後は、

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首
とある。]

耳嚢 巻之五 痘瘡病人まどのおりざる呪の事

 痘瘡病人まどのおりざる呪の事

 

 疱瘡の小兒、數多く出來て俗にまどおりると唱へ眼あきがたき事あり。兼て數も多く、動膿にも至らば眼あきがたからんと思はゞ、其家の主人拂曉(ふつげう)に自身(おのづ)と井の水を汲(くみ)て、右病人の枕の上へ茶碗やうの物に入(いれ)て釣置(つりおか)ば、始終まどのおりるといふ事なし。天一水(てんいつすい)を以(もつて)火毒を鎭(しづむ)るの利にもあるらん。瘡數の多き程右器の水は格別に減(へり)候事の由。眼前見たりと予が許へ來る醫師の物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:蜂刺傷から疱瘡療治の呪(まじな)い(民間療法)で直連関で、疱瘡では三つ前の似非疱瘡神譚でも連関。

・「痘瘡病人まどのおりざる」通常の高熱でも炎症によって瞼が腫脹し、眼が開かなくなることがあるが、天然痘に罹患すると、発熱後三、四日目に一旦解熱し、それから頭部及び顔面を中心に皮膚色と同じか、やや白色の豆粒状丘疹が生じ、全身に広がってゆき、七~九日目には発疹が化膿し、膿疱となることによって再度四〇度以上の高熱を発する。ここでは、この膿疱が眼の周囲に発現して瞼を開くことが著しく困難となった様態を言っている。本文ではその症状を「まどのおりる」と表現していることから、表題は「まど」が降りないようにする呪い、という意味である。

・「動膿」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『勧膿』とあり、長谷川氏は『貫膿。疱瘡の症状がさかりを過ぎること』と注されておられる。香月啓益(かづきけいえき)の「小児必用養育艸」(寛政十(一七九八)年刊)などの叙述を見ると、

◯貫膿の時節手にてなづるに皮軟にして皺む者は惡し

◯貫膿の時節にいたりても痘の色紅なるものは血貫熱毒の症なり必紫色に變じ後には黒色になりて死するなり

◯貫膿の時にいたりて惣身はいづれもよく膿をもつといへ共ひとり天庭天庭とは眉の上の類の眞中をいふ也の所貫膿せざるは惡症なり必變して死にいたるなり

◯貫膿の時痘瘡よくはれ起りて見ゆれ共其中水多くして膿すくなく痘の勢脹起に似たる者は極めて惡症なりこれを庸醫は大形よき勢の症と心得て油斷して多くは變して死するにいたる能々心得へき事なり

◯貫膿の時節面目の腫早くしりぞき瘡陷り膿少きものは惡し惣じて痘の病人の顏の地腫はやく減事は惡症なり痂落て後までも地腫ありて漸々に減ものを吉とす

等とあり、膿疱化が起こってやや熱が下がった状態のことを言っているようであり、これを過ぎたからと言って、その膿疱や皮膚の状態によっては死に至ることもあることが分かる(以上は奈良女子大学所蔵資料電子画像集にあ当該書の長志珠絵氏の翻刻文を正字化して示した)

・「天一水」は「天、一水」と切って読むべきところである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疱瘡の病人の窓の降りぬようにする呪いの事

 

 疱瘡に罹った小児が、発疹の数多く発して、俗に「窓が降りる」と呼んで、眼が開きにくくなることがある。

 特に発疹の数が殊の外多く、貫膿の病相に至っても、未だ目が開きにくいようだと思わるる際には、その家の主人が、明け方、自ら井戸の水を汲んで、その病人の枕元へ茶碗のようなものに入れて上から釣っておけば、さすれば以降、窓の降りるということは、これ、御座ない。

 謂わば、『天、一水を以って火毒を鎮むる』と申す理屈でも御座ろうか。

「……発疹の数が多いほど、その器の水は、格別に減ってゆきまする。確かに眼の当たりに見て御座る。……」

とは、私の元へ参る医師の物語で御座った。

一言芳談 二十四

   二十四

 明禪法印云、利益衆生(りやくしゆじやう)とて、ことごとしくせねども、眞實の生死(しやうじ)をはなれんとおもへば、分々(ぶんぶん)に利益はかならずあるなり。

[やぶちゃん注:岩波版では「眞實の生死をはなれんとだにおもへば」と副助詞が入る。
「分々に利益」それぞれの「分(ぶん)」に相応した利益(りやく)。すると以下のようなことが見えてくる。即ち、この短かい条は、前半は僧の意識的な「利益」――衆生への作善――の無効性を、後半は一切衆生への弥陀の大慈悲による各自にもとより与えられてあるところの「利益」――の発動の自動性や絶対性への確信を述べているということである(既に述べた通り、明禅法印は法然滅後に浄土宗に帰依している)。]

大年の樞落せば響きたる 畑耕一

大年の樞落せば響きたる

[やぶちゃん注:「大年」は「おほとし(おおとし)」又は「おほどし(おおどし)」と訓じて大晦日のこと。「樞」は「くるる」で、 戸締まりのために戸の棧から敷居に差し込む止め木(またはその仕掛け)のこと。ここは「大晦日」に「暮るる」も掛けていようが、「時候」の部立の掉尾を飾るに相応しい不思議に巧まずして出来たリアルな句柄で好感が持てる。]

2012/11/28

靑法師赤法師 火野葦平

Aonosuekitikappa

               [靑野季吉 畫]

 

[やぶちゃん注:実は底本には各作品の冒頭に驚天動地の有名作家の描いた河童の『絵』が配されている。例えば?……中川一政・伊藤整・平林たい子・梅崎春生・尾崎四郎・清水昆……といった塩梅……垂涎でしょう?! 今回の青野は著作権が切れているのでやっと御紹介出来るという次第である。可愛らしい、いい河童だ――]

 

 

   靑法師赤法師

 

 さて、滿沼の紳士淑女諸君、わたくしがこのたびの選擧に立候補いたしました當耳無沼(みみなしぬま)の靑法師であります。もつとも、選撃と申しましたが、御承知のとほり、なにも赤法師君が名乘りをあげなければ選擧にもならず、かつ諸君にいらざる迷惑をかけることもなかつたのでありますが、わたくしが聾聲明を發すると同時に、意外にも赤法師君が挑戰されることになりましたために、こんにちの手數を要することとなつたわけであります。しかしながら、それこそはかへつて望外の收穫とでも申しませうか。ここに立合演説をひらくことと相なつて、日ごろの所信を述べる機會を得ましたことは、同時にまた赤法師君の卓拔無類の識見を拜聽するの光榮に浴しましたことは、わたくしのみならず、諸君にとりましてもこのうへもなき幸福と存ずるものであります。

 さて、實はかうして立つてをりますと、目まひがして足がふらつきますので、この岩に腰かけさせて貰ひます。……なにしろ、ここ一ケ月ちかくといふもの一滴の水ものまず、みぢんこ一匹の食餌もとらずにをりますので、實はこんにちここで大きな聲を出しますことも大いなる苦痛なのであります。わたくしはそのことを恥ぢません。それはわたくしが貧窮の故ではなく、また無力の故でもなく、實にこんにちわたくしたち河童たちがおちいつてゐる共通の運命にもとづくところの、一般的、普遍的、世界的状態であるからであります。ここから眺めましても、滿沼の、沼といつても名ばかり、いまは一滴の水もなく干あがり、龜裂(きれつ)を生じた沙漠うへに、いぎたなく、……失禮申しました。しかしながら、それ以外の表現のしやうがありませうか。まことに、疲弊(ひへい)しつくした諸君がごろごろと思ひ思ひの姿勢で横たはつてをります姿は、もはや、いぎたなく、だらしなく、と形容するよりほかの言葉を知らないのです。幸にして、古くからこの沼のうへに大きい蔭をつくつてをりますかの樟(くすのき)の巨樹が、わたくしたちと太陽とをさへぎつてをりますために、わづかにわれわれは日射病で卒倒する危險からまぬがれ得てゐます。實にもはや乾燥しきったわれわれはわづかの光にも耐へ得ないまでになつてをるのであります。

 わたくしたちの頭の皿は水をたたへてゐるときにはまるで靑い鏡のやうに光つたものです。また朝陽や夕陽の光線を適度にうけるときには珍奇にして玉大な寶石のやうにもかがやき、昔、われわれが集合したときに見た皿の集團は、水玉模樣のやうに優雅でうつくしいものでありました。それがどうでせう。いまここから見る諸君の皿は、いづれも褐色にひからび、毛は使ひ古した箒(はうき)のやうに切れ、陰氣な皺がせばまりあつたうへに、ふきでもののやうな瘤(こぶ)さへできてゐます。また、なめらかに艷やかにしつとりしたうるほひをいつもたたへてゐた身體からは、どなたにも一かけらの粘液(ねんえき)さへなくなつてゐます。びいどろのやうに光つてゐた身體はまるで棕櫚(しゆろ)のやうに毛ばたち枯れてゐます。兩手兩足の水かきさへあまりの乾きすぎに切れてしまつてゐる人もあるやうですね。背の甲羅さへ反りくりかへり、つぎ目が切れて落ちさうになつてゐる方や、何故かは落ちてしまつてゐる方もあるやうではありませんか。率直にいひますと、われわれの姿形はそれほど優美でも典雅でもありませんでしたが、いまやすでにただ醜惡無慘の語に盡きます。わたくしたちは文字通り餓鬼(がき)となり、地獄にゐるのです。わたくしたちの嘴はもう食餌を嚙み通過させる役目を永い間わすれ、その運動を怠つたために退化してしまつて、打らすてられた帆立貝の殼のやうに味氣なく見えます。食ふのみでなく、言葉を吐くことすら忘れさうです。とはいへ、頭の皿に全然水がなくなつては死ぬほかはないのでありますから、なほ若干の濕氣のあることは信じなくてはなりませんが、しからばその源泉がおそらくこの後何日間持續し得ませうか。すでに水きれてあたら靑春の命を終つた仲間を葬つたことは今日まで數知れませぬのに、こののちもなほ犧牲者を出すとしますなれば、なんといふ悲しむべきことでせうか。わたくしは自分の皿をのぞくことができませぬので、諸君の皿をながめてはわが身をしのぶよすがとするわけでありますが、まことに水分が微々たるもので、餘命いくばくもなきことは、かうやつて話してをりましてもたえず氣が鬱し、氣分わるく吐き氣をもよほすことでわかります。何とぞ諸君、渾身(こんしん)の勇をふるひおこして、そのまま眠りこんでしまはぬやう、眠りこんでしまへばそれきりであることはよく御承知の筈でありますから、氣力を振揮してわたくしの話をおききとりのほど願ひます。

 赤法師君はそこへゆくとわたくしに挑戰するだけあつて、まだまだ餘力を存してをるやうですな。だいたい赤法師といふ名が、その精力的な面がまへ、脂(あぶら)ぎつた皿の色から出たもの故、それも當然かも知れませんな。仲間がみな乾燥し疲弊しつくしてゐるのに、なほかつ矍鑠(かくしやく)たることはまつたくもつて敬服のほかはありませぬ。わたくしなどは足もとにもよりませんが、しかしながらわたくしとてみづから名乘り出るほどの者、いささか信ずるところはあるのであります。まづ赤法師君もさやうに人をなめきつたやうな顏つきをせずに、わたくしの話をおきき下さい。終ればゆるゆると尊公の卓見を拜聽するつもりです。

 ところで、わたくしたちのこんにちの不幸が太陽にあることは諸君のよく自得するところであります。すでに旱魃(かんばつ)は百日に及んでゐます。沼は枯れ、川は床をあらはし、われわれの食餌はのこらず死滅いたしました。殘つたものは腐敗せるものにいたるまで食べつくしましたが、もはや今日われわれの口に入るなにものもなく、皿の水分は蒸發すれば補給する根源の榮養分なく、いたづらに死を待つ絶望的な狀態となりはてたのであります。かの殘酷きはまる、憎むべき太陽はわれわれの悲運を嘲けるがごとく、一點の雲もない紺碧の空に傲然(がうぜん)とかがやいてゐます。……ああ、樟の葉をとほして仰いですら眩暈(めまひ)がします。くらくらとしました。氣分のしづまるまでちよつとお待ち下さい。……

 失禮いたしました。わたくしの健康狀態も諸君とまつたく同じ程度なのです。すこしの無理もこたへるのです。

 昔はこの沼は樂園でした。まんまんと靑い水がたたへられ、われわれのもつとも好物とする車蝦をはじめ、さまざまの魚がをりました。その頃はみぢんこなどは全然問題にしてゐなかつたのです。諸君は覺えてゐますか? 筑後川の頭目九千坊先生が視察にお見えになつたときのことを。贅澤に馴れた九千坊先生すらおどろいて三歎されたあのときの豪華な歡迎の饗宴を。そんなに大昔のことぢやない。わづか百五十日ほど前のことです。鯉百匹、鮒二百匹、鮠(はや)五十匹、蝦百匹、この沼の底いつぱいにならべて河童音頭をうたひ、踊り、三日間もぶつとほしで歡のあるかぎりを盡したではありませんか。ここから見てゐると、みんなみすぼらしい恰好になつてしまつて區別がつきにくくなりましたが、そのころはみんなそれぞれ獨特の自慢の皿のいろ、形、背の甲羅の五色染、だんだら、元祿、氣どつた嘴、いろいろの魚の鱗えでちりばめた勳章などで、なかなか才氣煥發(くわんぱつ)、光彩陸離(くわうさいりくり)たるところを發揮したものでしたね。無口で氣むづかしやといはれてゐる九千坊先生があの巨大にして魁偉(くわいゐ)な顏にいとも滿足の笑みをたたへられ、かつてなかつたことに、筑後の河童節をひとくさり、もつともあまりお上手とは申されませんでしたが、うなられた、さやう、歌つたのではなく唸(うな)られたことは、諸君の記憶になほ新なところであらうと思ひます。しかるに、さやうなことはもう百年も昔のやうな氣がいたします。

[やぶちゃん注:「玄祿」元禄模様。市松模様のこと。]

 そのころは沼の魚のみならず、土のうへには大好物の胡瓜や茄子なども豐富なものでした。あの水氣たつぷりの胡爪、きゆつとひきしまつた茄子、あの恰好のよさ、色のよさ、わたくしどもは好きなだけ食べることができて、空腹といふことがどういふことやら知らぬことはもとより、考へてみようとすらしなかつたほどです。もつとも人間どもはせつかく作つた胡瓜や茄子をわれわれが盗(と)るので、いや盜るといふ言葉はよろしくない、つまり珍重するので、たいへん怒つてはゐました。そして陷(おと)し穴をつくつたり、罠(わな)をかけたりしたので若干の犧牲者が出ることは出ましたが、その危險にもかかはらず、われわれの胡瓜と茄子にたいする絶大の噂好と魅力とは、なほかつわれわれの冒險を阻止する力を持ちませんでした。諸君のなかにはその勇者がたくさんゐる筈です。業(ごふ)を煮やした人間がつひに鎌をふるつて甲羅に打ちかけ、數本の鎌を背に針鼠のやうにつけた仲間もあつたではありませんか。われわれはその果敢にして倦むこともなき勇氣を賞讚し、その仲間を英雄として仰いだものです。もつともその冒險家は八本目の鎌を打たれて以後、つひにあへない最期を遂げましたけれど。

 衣食足れば禮節これにしたがつて起る。これは、有名な東洋の格言です。まことにわれわれは、暖衣飽食(だんいはうしよく)の日々をおくつて、文化的教養を高め、戀愛に沈湎して、眷屬(けんぞく)を大いにふやしました。そのとき沼の榮えのすばらしかつたことはわたくしが申すまでもなく、諸君が身をもつて知られてをるとほりであります。したがつて、われわれは明日に備へるなんらの考へもなく、その日その日の刹那主義、貯蓄心のあるもの嘲笑し、罵倒し、氣狂ひあつかひする始末でした。まあ、いはば一種の樂園、天國でもあつたでせうか。……はつきり眼に見えて來ます。鯉、鮒、鯰、……胡瓜、茄子、あの形、色、にほひ、味、……ああ、わたくしはなにをいつてゐるのでせう。そんな囘顧は無用でした。いや有害でした。こんにち一切を喪失して死に直面してゐるときに、かつての花やかなりし日を懷しんだとてなんになりませう。現在の飢餓を解決するなんらの手蔓にもならない。もう口のなかにたまつて來る唾もないのです。……諸君、眠らないで下さい。諸君が退屈してゐるのでないことはわかつてゐます。諸君がいかにして救はれるかといふぎりぎりの場に來てゐるのに、そしてわたくしがその救ひ主として諸君のまへにあらはれてゐるのに、諸君が退屈するわけはない。だのに、諸君のなかには眠らうとしてゐる者がある。死神にさそはれてゐるのだ。眠つては駄目です。眼をあけて、眼をあけて!……赤法師君がわたくしを睨んでゐる。さすがに眼光炯(けい)々、いやらんらんたる眼光、その氣魄(きはく)はおどろくべきものがあります。わたくしもその價値をみとめるに吝(やぶさか)ではない。死を目前にした哀れな仲間たちのなかにあつて、なほそれだけの氣力を保持してゐるといふことは、たしかに天才です。たぐひまれな才能だ。わたくしに挑戰なさるも當然です。ま、もうすこし待つて下さい。まだわたくしはなんにも話してゐない。これからが本論です。

 ところで、わたくしは諸君を救ふために、名乘りをあげたのだが、……まつたく諸君はいつたいどうしたのですか? 諸君がこんにちの窮境におちいつたのは自業自得ではありませんか。わたくしの言を傲慢だといひますか。傳説の掟はつねに虛僞なものを罰して來ました。また傲慢なものをも許しませんでした。わたくしは諸君を責めるものではない。責めてみたところでしかたがない。わたくしが自分一個の安全と保身をはかるものならば、なにも好きこのんで諸君の救世主としてあらはれては來ません。しかしわたくしはそんなエゴイストではない。諸君の窮乏と死滅をじつと見てゐるに忍びないのです。諸君がわたくしに救はれることによつて、わたくしをこの沼の支配者として仰いでくれるならば、わたくしは自己のわづかの奉仕など、いささかも惜しむものではないのであります。然るに何ぞや。わたくしのその神聖の意圖にたいして、赤法師君は挑戰された。赤法師君がいかなる方法をもつて諸君を救はんとするか、それはわたくしの關知するところではない。しかしながら、わたくしは赤法師君の心事はくまなく看破してゐるつもりである。赤法師君は野心家なのだ。この沼の支配者になりたいのだ。權力が欲しいのだ……赤法師君、そんないやな顏をしなくてもよいではないか。意見があらば後ほど聞きます。……諸君、騙(だま)されてはいけない。諸君の弱點につけこむ惡漢を信用してはなりません。もし眞に諸君を救ふ意圖を持つものなら、なにも選擧もつて爭ふことはないではありませんか。だまつて救濟策を講じればよろしい。もしこの選拳の結果、赤法師君が落選したら、……さうなるにきまつてゐるが、……諸君を救ふことはやめにするにちがひありません。それは眞心から諸君に同情してゐるよりも、單に權力ヘの媚態(びたい)にすぎないからであります。いかに赤法師君が抗辯なさらうとも、斷じて、この事賢實に相違はありません。くどいやうでありますが、心底から赤法師君が諸君を救ふ氣持があるのならば、その方途を講じて、ただちに立候補をとり下げるが至當なのであります。さらでだに空腹のため身動きならぬ諸君にあらぬ負擔をかけ、投票させるやうな強烈な運動を強ひるならば、かならずや死者をいだす椿事をまきおこすに相違ありません。これでも諸君は赤法師君の心事を潔白なものと考へますか? ここのところをとくとお考へにならないと、悔いを千載(せんざい)にのこすことになりますぞ。

(……これはどうもすこしをかしな具合になつて來たな。俺は、なにをいつたのだ? 赤法師の陰謀を看破しで、これを罵倒したつもりだつたが、……これは、どうだ、自分のことをいつてゐるではないか。赤法師の心事はそのまま俺の心事ではないか。……俺に赤法師のことをいふ資格があるのか。……俺は馬鹿だ。)

 滿沼の諸君、元氣を出して下きい。わたくしのいふことを聞いて下さい。……わたくしはあやまつてをりました。諸君を欺いてをりました。いまそれがわかりました。わたくしをどうにでもして下さい。わたくしこそ諸君の弱味につけこむ卑劣漢でした。惡漢でした。エゴイストでした。諸君のまへにあやまります。……諸君がおどろかれるのは無理はありません。しかしわたくしはいま諸君のまへに手をついて、はじめて氣持がさつぱりいたしました。告白するのは苦しいのですけれども、心はかへつて輕くなりました。わたくしこそは、まことに陰謀家であつたのであります。この沼の支配者になりたいことは、わたくしの多年の念願でありました。權力ヘの魅力は實にわたくしの全靈をとらへその最終の目的にむかつてわたくしは營々として努力を重ねました。しかしながら、わたくしごとき非力不才の者が、どうして諸君の統領として仰がれる資格がありませう。わたくしのあらゆる奔走、策謀、阿諛(あゆ)、贈賄、哀願、脅喝(けふかつ)までもしてみたのでありましたが、所期の目的を達するにはほど遠いものがありました。先日逝去されました統領黄法師氏の溢るるごとき才幹、高潔な人格、かついやしくも邪(よこしま)をゆるさない淸廉には、わたくしなどのごとき卑小なるものは足許にも及ばなかつたのであります。それはわたくしが申すよりも、諸君のさらに深く認識されるところでありませう。それはわたしが申すよりも、諸君のさらに深く認識されるところでありませう。ひとたびは野望をすてようかと思つたこともありましたが、なほ權力への魅力は棄てがたく、戀々、悶々、そしてその機會を狙つてゐたのであります。然るに、好機は到來いたしました。黄法師氏の急死、これであます。悲しみもよろこびも等分にこれを頒(わか)つ主義の黄法師氏は、統領たるの故をもつて諸君より別の贅澤もせず、すなはち、特別の食餌をもとられることがなかつたために、日ごろからさして頑健でなかつた氏はこの度の大干ばつのために死亡されたのでした。沼中の仲間がこれを悼(いた)み悲しんだのでありますが、ああ、わたくしはそのとき、仲間と同じく悲しむふりはしながらも、宿望達成の期到來と實に内心舌を出して雀躍(こをどり)したのであります。そこで、今囘の立候補となつた次第であります。

 それにしても今囘の旱魃はなんとしたことでありませうか。もう百日も一滴の雨も降りません。沼の歴史はじまつて以來のことです。何のための刑罰か。この恐しい日照りつづきのために、柴園であり天國であつたこの沼が、今日(こんにち)のごとき悽慘(せいさん)な地獄となりはてました。これはわれわれにとつて死の運命へただちにつづいたものとなり、すでに多くの仲間が乾燥しはてて命をうしなひました。しかしながら、ああ、わたくしを鞭うつて下さい。石を投げて下さい。わたくしはこの仲間の悲慘な運命をながめつつ、實ににたにたとほくそ笑んでゐたのであります。わたくしはさうして冷酷にわたくしの野望の滿たされる時期を狙つてゐたのであります。わたくしは惡魔でした。鬼でした。しかしそのときのわたくしはただ一途に野心の達成を期待して、童(わらべ)のごとくわくわくと心中躍つてゐたのであります。

 白状いたします。いま隱したとてなんになりませう。わたくしはすこしも空腹ではありません。疲弊してもゐません。枯渇(こかつ)してもゐません。このとほりぴんぴんしてゐます。腕をふることも、走ることも、逆立することもできます。どんな大きな聲でも出すことができます。今まで諸君の眼を欺くために、弱りはてたふりをしてゐました。身體にはわざと砂や埃(ほこり)や粉をまぶしつけてあるのです。このとほりすぐ落ちます。頭の皿には別にこしらへた汚い皿をかぶせてあるのです。このとほり取れば昔のままに水をたたへた皿があります。つまりわたくしは昔とすこしも違つてゐないのです。むしろ元氣になつたくらゐです。このままで進みましたならばきつとこの沼ではわたくし一人が生き殘ることになるでせう。……しからば仙人でもないわたくしがどうして水一滴すらない今日、こんなに頑健なのか。ああ、わたくしはなんといふ惡漢、卑怯者、エゴイストでせう。わたくしは不正な手段であつめた隱匿物資をなほ多く持つてゐるのです。淸廉な黄法師氏の眼をかすめ、諸君をあざむいて、諸君のものたるべきものをこつそりと隱しおました。鯉、鮒、鯰、山椒魚、蝦、茄子、胡瓜、あらゆるものが某所にうづたかく隱してあります。わたくしは旱魃がはじまり、食餌が缺乏しはじめてからこつそりと一人それを腹に入れてをりました。しかし表面は諸君と同樣、空腹のため疲弊しはててゆくふりをして、野望のとげられる日を狙つてゐたわけです。

 救世主として名乘りでたわたくしではありますが、わたくしごとき非力不才の者になんの諸君を救ふ力などありませう。この危機を救ふためには雨さへ降ればよいのです。しかしながら、雨を降らせる力などわたくしにあるわけもないではありませんか。炎々と燃え照りつけて來る太陽はわたくしの敵としてあまり巨大すぎます。その光を減じる術も、これを天空から退去せしめる力もわたくしにはありません。偉大な自然の法則によつて西に沒し、夜が來たときだけ、わたくしたちはわづかにほつとするのですが、そのときすでに、明日迎へる太陽の恐怖があるわけです。さうして沼は乾燥して魚は死滅し、岩はひ割れ、樹木も野花も菜も枯ればてました。このときわたくしが諸君を救ふ唯一の方法はわたくしのひそかに隱しもつた物資を諸君にあたへることのみでした。しかし、わたくしは邪心にわざはひされて、それをわたくしの野望達成の餌にしようとたくらんだのです。恩にきせてすこしづつ諸君に食物をあたへる。諸君は私に感謝して、私を沼の統領とすることに贊成する。筋書は簡單なものでした。突如として赤法師君が名乘りをあげなかつたならば、筋どほりに運んだことでせう。……意外の結果になりました。

 しかし、このわたくしの破綻をわたくしは喜びます。むしろ赤法師君に感謝いたします。いまわたくしの心からは野望も傲慢も消えはてました。わたくしは謙虛に諸君のまへに手をつきます。わたくしは、泥棒です。わたくしをどうにでもして下さい。さあ、石を投げて下さい。蹴つて下さい。踏んで下さい。……

 わたくしは立候補をとり下げます。わたくしのごとき卑劣漢がどうして皆さんの統領たるの資格がありませう。僭上(せんじやう)の沙汰でした。私の隱したものはこの裏山の洞穴(ほらあな)のなかにあります。それは皆さんのものです。おそらくこの後、旱魃が百日つづいても、皆さん全部の命を支へるに足りませう。どうぞ自由にそれを食べて、大切な命をつないで下さい。

 赤法師君、お聞きのとほりだ。僕は立候補をとり下げる。君が眞に仲間を救ふ方途を知つてゐるのなら、どうぞ、仲間のためにその道を講じてくれ。……おや、赤法師君はどこに行つたんだ? さつきまでゐたのに、……をかしいな、どこにもゐない。……赤法師君を知りませんか。どうしたのだらう。逃げたのかな?……さてはあいつも俺と同じ考へだつたのか。……さうか。……おや、あれはなんだ。山の端になにか黑いものが出た。雲だ。黒雲だ。……みるみる、ひろがつて來る。靑空が掩はれてゆく。太陽までかくしてしまつた。暗くなつた。風が出てきたぞ。……あ、雨だ、雨が降つて來る……雨が降りだした。……

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(2)

 ヨーロッパから朝鮮までに産する蛙の一種に背は普通の色であるが、腹には一面に美しい朱色または橙色の斑紋のあるものがある。形は「ひきがへる」に似て更に小さく、運動も餘り活發ではないが、敵に遇ふと急に轉覆して腹面を上にし、且反り返つて腹面を態々押し上げ、四足をも曲げて、極めて奇態な姿勢を取る癖があるから初めて見る人は如何にも不思議に思ふ。これも恐らく一時敵を驚かせ、氣味惡く思はせて危難を免れるための習性であらう。

[やぶちゃん注:ここにしめされたカエルは、両生綱無尾目ムカシガエル亜目スズカエル科スズガエル属 Bombina に属する種群を指していると考えてよい。これらは文字通り、ヨーロッパから朝鮮半島までを生息域とする。但し、この全域を生息域とする「種」は存在しない。ヨーロッパ域では、

ヨーロッパスズガエル Bombina bombina → 画像

 *体長は五・五センチメートル、腹面はオレンジや黄色に不規則な黒斑と白い斑点が入る。

キバラスズガエル Bombina variegata → 画像

 *体長四~五センチメートル、腹面は黄色やオレンジに不規則な小型黒斑が入る。

が、朝鮮半島・中国東北部・沿海州では、

チョウセンスズガエル Bombina orientalis → 画像

 *体長四~五センチメートル、腹面は鮮紅色に黒斑が入る。

を挙げておけば、本記載の注としては充分かと思われる。それぞれの画像は特に示さないが海外サイトの中から腹面がよく分かる画像を選んでリンクさせた(両生類のイモリの腹のようなのが生理的にダメな人は見ないがよろしい)。]

芥川龍之介漢詩全集 十四

   十四

 

即今空自覺

四十九年非

皓首吟秋霽

蒼天一鶴飛

 

〇やぶちゃん訓読

 

 即今 空しく自覺す

 四十九年 非なるを

 皓首(かうしゆ) 秋霽(しうせい)を吟じ

 蒼天 一鶴 飛ぶ

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この九月一日に龍之介は海軍機関学校への通勤の便から下宿を横須賀市汐入に移している。この前後、同僚の佐野慶造・花子夫妻との交流が深まっているが、私はこの佐野花子なる女性に対して龍之介は、ある種の恋愛感情を持っていたと確信している。彼女については多くの評者は、これを後の彼女の神経症的な思い込みに過ぎないと切り捨てているが、私はそうは思わないのである。月光の女以下、数篇の私のブログでの考察をお読み頂けると幸いである。

この漢詩は二つの書簡に同じものが載る。一つは、

Ⅰ 大正六(一九一七)年八月二十一日附菅虎雄宛(岩波版旧全集書簡番号三一一)

今一つは、前の(十三)乙を併載する(本詩を先に記す)、

Ⅱ 大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)

である。Ⅰの宛名人菅虎雄(元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者。五高教授であった時、親友夏目漱石を招聘した。明治三四(一九〇一)年一高教授となり、その時の教え子に芥川竜之介や菊池寛らがいた。号を無為・白雲・陵雲などという能書家としても知られ、漱石の墓碑銘や芥川の「羅生門」の題字、芥川自宅書斎の「我鬼窟」の扁額なども彼の筆になる。龍之介より二十八歳年上の恩師である。当時、満五十三歳。

菅へのⅠには、

こなひだ迄原稿で忙しうございましたが今は甚泰平な日を送つて居ります詩を一つつくりましたから御笑覧に入れませう

として本詩を示し、

二十六年の非では引立ちませんから少々かけ値をして四十九年と致しました勿論皓首と申す程白髮などはございません鶴は私の宅の近所へよく來る白鷺を少し高尚にしたのでございます 頓首

とある。一方、盟友井川宛てのⅡには、手紙末に本詩を二段組で配し、承句の上に右に向かって音楽記号のスラーのような丸括弧を打って、句の右側に、

二十六年非ぢや平仄が合はない

と記して、菅宛とは異なった技術的な弁解を述べている(こっちが事実らしく見える)。その後に、

隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ

と書いて、(十三)乙が示されている。但し、その文面は(十三)甲の短い添書きと比すと雰囲気に遙かにゆとりが感じられるように思われる。その微妙な変化がこの詩にも反映しているようにも私には思えるのだが、如何か?……しかし……別な意味で、私はこの詩が気になるのである。……「四十九」は……本当に平仄や箔附けのつもりだったのだろうか? 龍之介は実際、この瞬間に自身の二十三年後(数え)の姿を幻視してはいなかったろうか? 僅か十年の後の同じ夏に、自らが自らの命を絶って、幽冥界の蒼天へと一羽の鶴の如く飛び去ってゆくことを……知らなかったにしても……。

「皓首」白髪頭。

「秋霽」秋の雨後の雲霧が晴れすっきりと晴れ渡ること。邱氏は『秋の虹』と注されているが、雨後の快晴なら虹も立つとは言えようが、「廣漢和辭典」にもそのような意味は「霽」に載らず、採らない。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート8〈泰衡斬られ〉 了

出羽國も破られて、田川、秋田討たれたり。大將泰衡は玉造郡に赴き平泉の館(たち)に歸りしかども、宗徒(むねと)の郎等悉く討ほされて叶ふべくもあらざりければ、火を掛け、一片の烟と燒上(やきあ)げ、跡を暗(くらま)して逃亡す。哀なるかな、平泉の館は淸衡より以來(このかた)、三代の舊跡として桂の柱・杏(からもゝ)の梁(うつばり)・麗水(りすゐ)の金(こがね)を鏤(ゑ)り、昆山(こんざん)の玉をちりばめ、作磨(つくりみが)きし館舍なるに、姑蘇城(こそじやう)一片の煙に和し、咸陽宮(かんやうきう)三月の火に化しける運命の程こそ悲しけれ。賴朝、諸方に軍兵を遣して尋搜(たづねさが)さるる所に、泰衡、一旦の命を助からんとて夷嶋(えぞがしま)に赴き、厨河(くりやあがは)の邊に忍行(しのびゆ)きけるを、譜代の郎等河田次郎、忽に舊好(きうこう)の恩を忘れ、泰衡を討(うつ)て、首を賴朝に奉り、 降人に出たり。主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎(は)ね、出羽、奥州を治めて、鎌倉に歸陣あり。

[やぶちゃん注:〈泰時斬られ〉

冒頭は「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十三日の条に基づく。

〇原文

十三日庚子。比企藤四郎。宇佐美平次等。打入出羽國。泰衡郎從田河太郎行文。秋田三郎致文等梟首云々。今日。二品令休息于多賀國府給。

〇やぶちゃんの書き下し文

十三日庚子。比企藤四郎・宇佐美平次等、出羽國へ打ち入る。泰衡が郎從の田河太郎行文、秋田三郎致文等を梟首すと云々。

今日。二品、多賀國府に休息せしめ給ふ。

「杏(からもゝ)」バラ目バラ科サクラ亜科サクラ属アンズ Prunus armeniaca

「麗水の金を鏤り、昆山の玉をちりばめ」宋代の僧文瑩の「湘山野録」にある「崑山出玉」及び「麗水生金」に基づく故事成句を下敷きとする。「崑山」は中国西方の伝説上の霊山で西王母の居所で美玉の産地と言われた崑崙山、「麗水」は湖北省にある川名前で砂金を産することで知られたが、これは「崑山、玉を出だし、麗水、金を生ず」で、優れた家系や立派な親からは立派な人物や子が生まれることの譬えであり、ここは失われた藤原三代の栄枯盛衰の懐旧の情を詠んでいるのである。

「姑蘇城一片の煙に和し、咸陽宮三月の火に化しける」「姑蘇城」呉王夫差の居城。越王勾践による復讐戦で焼け落ちた。「咸陽宮」戦国時代に秦の孝公が咸陽に建てた壮大な宮殿。後に始皇帝が宮廷として荘厳美麗なる要塞であったが、項羽によって焼き払われた。その火は三ヶ月に渡って燃え続けたと伝えられる。

「泰衡一旦の命を助からんとて夷嶋に赴き……降人に出たり。」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月三日の条に基づく。

〇原文

三日庚申。泰衡被圍數千軍兵。爲遁一旦命害。隱如鼠。退似鶃。差夷狄嶋。赴糠部郡。此間。相恃數代郎從河田次郎。到于肥内郡贄柵之處。河田忽變年來之舊好。令郎從等相圍泰衡梟首。爲献此頚於二品。揚鞭參向云々。

 陸奥押領使藤原朝臣泰衡。〔年卅五〕

 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡次男。母前民部小輔藤原基成女

 文治三年十月。繼於父遺跡爲出羽陸奥押領使管領六郡

〇やぶちゃんの書き下し文

三日庚申。泰衡、數千の軍兵に圍まれ、一旦の命害(みやうがい)を遁(のが)れんが爲、隱るること鼠のごとく、退くこと、鶃(げき)に似たり。夷狄(えぞ)が嶋を差して糠部郡(ぬかのぶのこほり)へ赴く。此の間、數代(すだい)の郎從河田次郎を相ひ恃(たの)み。肥内郡贄柵(ひないのこほりにへのさく)に到るの處、河田、忽ち年來の舊好を變じ、郎從等をして泰衡を相ひ圍ましめ、梟首せしむ。此の頸を二品に献ぜんが爲、鞭を揚げ參向すと云々。

 陸奥押領使藤原朝臣泰衡〔年卅五。〕。

 鎭守府將軍兼陸奥守秀衡が次男、母は前民部小輔藤原基成が女。

 文治三年十月、父の遺跡を繼ぎ、出羽・陸奥の押領使として六郡を管領す。

・「鶃」国史大系版では(へん)と(つくり)が左右逆転しているが、これが本字。水鳥の一種とする。「博物志」には『雌雄相視則孕』(雌雄、相ひ視れば則ち孕む)などとあるから想像上の妖鳥かとも思われるが、この字には単に、鳥の子・幼鳥の意味があるから、ここはそれであろう。

・「糠部郡」かつて陸奥国にあった旧糠部郡(ぬかのぶぐん)。現在の青森県東部から岩手県北部にかけて広がっていた広大な地域を指す。

・「肥内郡贄柵」現在の大館市比内町に比定されている。

 

「主君を殺す八虐人をみせしめの爲にとて、河田が首を刎ね」ここは、「吾妻鏡」の文治五(一一八九)年九月六日の条に基づく。

〇原文

六日癸亥。河田次郎持主人泰衡之頸。參陣岡。令景時奉之。以義盛。重忠。被加實檢上。召囚人赤田次郎。被見之處。泰衡頸之條。申無異儀之由。仍被預此頸於義盛。亦以景時。被仰含河田云。汝之所爲。一旦雖似有功。獲泰衡之條。自元在掌中之上者。非可假他武略。而忘譜第恩。梟主人首。科已招八虐之間。依難抽賞。爲令懲後輩。所賜身暇也者。則預朝光。被行斬罪云々。其後。被懸泰衡首。康平五年九月。入道將軍家賴義獲貞任頸之時。爲横山野大夫經兼之奉。以門客貞兼。請取件首。令郎從惟仲懸之。〔以長八寸鐵釘。打付之云々。〕追件例。仰經兼曾孫小權守時廣。時廣以子息時兼。自景時手。令請取泰衡之首。召出郎從惟仲後胤七太廣綱令懸之。〔釘同彼時例云々。〕

〇やぶちゃんの書き下し文

六日癸亥。河田次郎、主人泰衡の頸を持ち、陣岡(じんがおか)に參じ、景時をして之を奉らしむ。義盛、重忠を以て、實檢を加へ被るの上、囚人赤田次郎を召し、見らるるの處、泰衡が頸の條、異儀無きの由を申す。仍つて此の頸を義盛に預け被る。亦、景時を以つて、河田に仰せ含められて云はく、「汝が所爲(しよゐ)、一旦功有るに似たりと雖も、泰衡を獲(う)るの條、元より掌中に在るの上は、他の武略を假(か)るべきに非ず。而るに譜第の恩を忘れ、主人の首を梟(けう)す、科(とが)、已に八虐を招くの間、抽賞(ちうしやう)し難きに依つて、後の輩を懲らしめんが爲に、身の暇(いとま)を賜る所なり。」てへれば、則ち朝光に預け、斬罪に行はると云々。

其の後、泰衡が首を懸けらる。康平五年九月、入道將軍家賴義、貞任の頸を獲(う)るの時、横山野大夫經兼が奉(うけたまは)りとして、門客貞兼を以つて、件の首を請け取り、郎從惟仲、之を懸けしむ。〔長八寸の鐵釘を以つて、之を打ち付くと云々。〕件の例を追ひて、經兼が曾孫小權守時廣に仰す。時廣が子息時兼を以つて、景時が手より、泰衡の首を請け取らしめ、郎從惟仲が後胤、七太廣綱を召し出して、之を懸けしむ。〔釘、彼の時の例に同じと云々。〕

・「八寸」約二十四センチメートル強。

 

「鎌倉に歸陣あり」頼朝の鎌倉帰着は「吾妻鏡」によれば文治五(一一八九)年九月二十八日である。但し、次の「無量光院の僧詠歌」には帰鎌以前の奥州での検分の内容が混入している。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 杉本観音/犬翔谷/衣張山

   杉本觀音

 金澤海道封國寺ノ西南ニアリ。順禮ノ札所第一ナリ。天台宗ニテ始ハ山伏ナリシガ、今ハ淸僧トナル。杉本寺ト云。額子純ト名アリ。山號ハ大藏山ト云。開山行基、賴朝再興、叡山ノ末寺也。寺領五石六斗アリ。中尊ノ十一面觀音ハ慈覺ノ作、右ノ十一面觀音ハ行基ノ作、左ノ十一面觀音ハ惠心ノ作也。三躰トモニ神佛ナリト云。又其前二十一面觀音運慶作。釋迦唐佛也。昆沙門澤間法眼ノ作也。運慶ト云モ、澤間法眼ト云モ實ハ一人也。初叡山二在テ僧ノ時ハ運慶ト云、後佛師ニ成テ敕許有テハ澤間法眼ト呼ブ。實ハ二名一人也ト云ト住僧語リ侍リヌ。東鑑ニ、文治五年十一月廿三日、夜二人リ大倉觀音堂燒亡。別當當臺上人燒亡ヲ落涙シ、堂ノ砌ニ至リ、堂ノ内へ走リ入リ本尊ヲ出ス。衣ハ悉クヤケ、身體ハ敢テ無恙(恙無し)ト云リ。

[やぶちゃん注:「封國寺」は「報國寺」の誤り。

「澤間法眼」は既注の通り、「宅間法眼」の誤りであるが、この運慶=宅間法眼説は初耳であるが、作風も異なり、信じ難い。

「別當當臺上人」は「別當淨臺上人」(「吾妻鏡」には「淨臺房」とする)の誤り。]

 

   犬翔谷〔或曰、衣掛谷〕

 杉本ノ西南ノ谷ナリ。

 

   衣張山〔或犬カケ山トモ云〕

 犬翔谷ノ上ノ山ナリ。鎌倉中ノ高山ナリ。昔此所ニ比丘尼寺アリシニ、彼比丘尼松クイニ掛衣(衣を掛け)サラセシガ、其松枝葉繁榮シテ、今上ノ山ニ松ノ大木二本アルヲ云ト也。亦短册ノ井トテアリ。西ノ方ニ大石ノ角ナルアリト云。

[やぶちゃん注:「短册ノ井」「大石ノ角」不詳。これは今は全く伝承されていない失われた古跡名と思われる。凄い! 万一、御存じの方があれば是非、御教授を乞うものである。]

耳囊 卷之五 蜂にさゝれざる呪の事

 

 蜂にさゝれざる呪の事

 

 蜂を捕へんと思はゞ、手に山椒の葉にても實にてもよく塗りて、とらゆるにさす事叶はず。たとへさしても聊か疵付(きずつき)いたむ事なし。是に仍て蜂にさされ苦しむ時、山椒をぬりて附れば立所に痛を止むる名法の由、人の語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:珍しい昆虫関連呪(まじな)い連関。民間療法談でもあるが、双子葉植物綱ムクロジ目ミカン科サンショウ Zanthoxylum piperitum  には、木の枝や根茎付近にアシナガバチやキイロスズメバチなどが普通に巣を掛ける(私の家には山椒の大木があり、両者ともに実は実見しているのだ)ので、この前半の叙述は私には到底、信じ難い。但し、蜂刺傷の効用については、現在の漢方系のネット上の記載に、民間療法と断った上で、葉を揉んでその汁をすりつけると即座に痛みが止んで腫れが消える、とはある。正式な生薬としては、果皮が「花椒」「蜀椒」と呼ばれて健胃・鎮痛・駆虫作用を持つする。日本薬局方ではサンショウ Zanthoxylum piperitum及び同属植物の成熟した果皮で種子を出来るだけ除去したものを生薬山椒としている。日本薬局方に収載されている苦味チンキ、正月の薬用酒屠蘇の材料でもあり、果実の主な辛味成分はサンショオールとサンショアミド。他にゲラニオールなどの芳香精油・ジペンテン・シトラールなどを含んでいる(以上の薬効部分はウィキサンショウ」に拠った)。だいたい「さす事叶はず。たとへさしても」という論理展開自体が、如何にも怪しいのである。試されるなら自己責任で。私なら、絶対、やらない。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 蜂に刺されない呪いの事

 

 蜂を捕まえようと思うならば、手に山椒の葉でも実でもよいから、それを揉み砕いた汁をよく塗って、やおら捕まえると、これ、蜂は刺すことが出来ない。たとえ、刺したとしても、これ、全く腫れたり痛んだりすることは、ない。これによって、仮に蜂に刺されて苦しむ時にも山椒を塗付すれば、これ、たちどころに痛みを止めることが出来る妙法である――との由、人の語ったままに記しおく。

 

一言芳談 二十三

   二十三

 

 又云、眞實にも後世をたすからむと思はんには、遁世が、はや第一のよしなき事にてありけるとぞ。

 

〇明禪法印云、ことごとしく遁世だてをあらはすがあしきなるべし。

〇第一のよしなきとは、或は世上の憂苦にあひ、ふつつかに思ひすて、ほだしなき身となり、後かへりて、それしやとなりて、名利をこのみ、山ふかくすみ薪かり木こるも、人の見るめをおどろかす事、遁世者のやゝもすれば有事なめり。北山の移文つくりしも、おもひあはされぬ。まこと道をおもはば、心こそ道。心こそ山。心こそ師にて有なれば、たゞ物にかかはらず、世におしうつりて、しかもそまざるがよきとの心を、第一のよしなき事といへり。(句解)

 

[やぶちゃん注:岩波版の「句解」の引用は「まこと道をおもはば」以下の部分引用であるため、幸い全文(と思われる)を引かれている大橋氏の脚注をもとに完全復元した。

「ほだし」「絆(ほだ)し」で馬の足に絡ませて歩けないようにする綱が原義であるが、転じて、人の身の自由を束縛するもの、行動の障害となる対象を指す語となった。

「それしや」は恐らく「其者」で、その道に通じた専門家、即ちここでは最も悪しき売名者たる「遁世僧」になることを言うのであろう。『やゝもすれば有事なめり』には、「一言芳談句解」板行当時(貞享五(一六八八)年)には、こうした「似非遁世」僧が目に余るほどに多かった――いや、そんな僧ばかりであった――という編注者祖観元師の苦い思いが感じられる。

「北山の移文つくりし」とは、「文選」巻四十三に載る南斉の孔稚珪「北山移文」に基づく故事を指す。原話は本来、山林で隠棲すべき隠者が世間に出て行くことを非難する寓話である。六朝の時代、周顒(しゅうぎょう)は隠者として鍾山(しょうざん)、別名北山に棲んでいたが、斉の朝廷から招聘されるや、下山して県令となった。それを聴き及んだ清廉淳直の人孔徳璋(こうとくしょう 四四八~五〇二)はそれを聴き及ぶや、顒が隠逸の志を変節して俗悪な官僚となり下がったことを軽蔑し、この「北山移文」を書いて、顒の鍾山入山を禁じたというものである。その書式は官符の通達文書に則ったもので、周顒のような節操なき人間が本山を通ると山川草木が汚れるから立ち寄ることを許さぬ、という激烈な内容である。現在、「北山移文」は「厚顔無恥」と同義の故事成句となっている(「福島みんなのニュース」の今日の四字熟語八重樫記載や中文サイトなどの複数ソースを参照した)。

「まこと道をおもはば、心こそ道。心こそ山。心こそ師にて有なれば、たゞ物にかかはらず、世におしうつりて、しかもそまざるがよきとの心を、第一のよしなき事といへり」印象的な言葉である。老婆心乍ら、そうした心の境地にあることが何より「よきとの心を」(よいという真意を示すために)、明禅法印は、ここで殊更の遁世なんぞというものは「第一のよしなき事」であると「いへり」という解なのである。]


「一言芳談」のテクスト・ポリシーを書き換えたので、購読されている方は、再度、お読み戴ければ幸いである。

年の夜の眺めとなりぬ竈の火

年の夜の眺めとなりぬ竈の火

420000アクセス記念テクスト予定変更のお知らせ

予定していた「芥川龍之介漢詩全集」は、作業をする内、そう容易く仕上げることが困難であることが分かった(それだけ作業中にテンションが高まった)。
また、HP一括版では、ブログ版にはない、ある人物に依頼して、ある特別な仕儀を加えることに決している。
そのためにもゆっくらとした時間がどうしても必要である。

そこで、「芥川龍之介漢詩全集」一括HP版を420000アクセス記念テクストとすると言った予告を変更することとする。

代わりのテクストは……昨夜から徹夜をし、今、何とか出来上がった……芥川龍之介ではない……

近代小説……デレッタントな怪談……勿論、やぶちゃんの注附き……これぐらいにしておこう……お楽しみ、お楽しみ……♪ふふふ♪

因みに現在のアクセス数は――418066――

2012/11/27

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(1)

       四 嚇かすこと

Kaniikaku

[「かに」が威嚇する態]

 

 敵が攻めて來たときにまづ示威的の擧動を示してこれを退けんとするものがある。鼠の如き小さなものでも、追ひ詰めると嚙み附きさうな身構へをして、一時敵を躊躇させ、その間に隙を窺つて急に逃げ出すが、大概の動物はこれに似たことをする。龜や貝類の如き厚い殼を具へたもの、「くらげ」・珊瑚・海綿の如き神經系の發達して居ないものなどは別であるが、その他の動物は、たとひ日頃弱いものでも危急存亡の場合には威嚇的の態度をとるもので、それが隨分功を奏する。折角摑まへた蟲が食ひ附きさうにするので驚いて手を放し、蟲に逃げられてしまふといふやうなことは、動物を採集する人でなくとも、子供の頃の經驗でよく知つて居るであらう。「べんけいがに」や「いそがに」なども、これを捕へようとすると兩方の鋏を差上げ、廣く開いて今にも挾みさうにしながら逃げて行く。「えび」の類も敵に遇ふと、その方へ頭を向け威張つて睨みながら徐々と退却する。また敵を嚇かすには身體を大きく見せて威嚴を整へることが有功であるから、「ひきがへる」などは敵が來れば空氣を腹に呑み入れて、體を丸く膨ませる。「ふぐ」類が食道に空氣を詰め込んで、球形に膨れるのも、やはり護身を目的とする一種の示威運動である。

[やぶちゃん注:「べんけいがに」軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾)カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ Sesarmops intermedium

「いそがに」イワガニ上科モクズガニ科 Varuninae 亜科イソガニ Hemigrapsus sanguineus。岩礁や転石海岸の潮間帯・潮下帯に棲息し、我々が海で見かける最も一般的なカニの一種。]

Ganoyoutyuu

[蛾の幼蟲]

 

 この種の運動で特に面白い例は蝶蛾類の幼蟲に見られる。「すずめてふ」〔スズメガ〕・「せすぢすずめ」などの幼蟲は大きな芋蟲であるが、その中の一種では頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである。子供らはこれを目といふが、無論眞の眼ではない。しかし敵に遇へば、この芋蟲は體の前部を縮めて短く太くするから、以上の斑紋は恰も眼玉であるかのやうに見え、全體が怒つた顏のやうになる。小鳥や「とかげ」などは驚いてこれを啄むことを斷念し、よそへ餌を求めに行くから、芋蟲は命を拾ふことになる。或る人が試にこれを鷄に與へた所が、牡雞でもこれを啄むことを躊躇したものが幾疋もあり、終に一匹が勇を鼓してこれを食ひ終つた。されば強い敵に對しては、一時これを躊躇せしめるだけの功よりないが、稍々小さな敵なればこれを恐れしめて首尾よくその攻撃を免れることが出來る。かやうな蛾の幼は眼玉の如き斑紋のないものでも、敵に會へば急に體の前部を縮めて太くしたり、反り返つて腹面を見せたりして、敵を嚇かさうと試みる。

[やぶちゃん注:「すずめてふ」昆虫綱鱗翅(チョウ)目スズメガ科 Sphingidae に属する種群を指しているように思われる。なお、同科は、

 ウチスズメ亜科 Smerinthinae

 スズメガ亜科 Sphinginae

 ホウジャク亜科 Macroglossinae

に分かれ、世界では一二〇〇種ほどが知られている。成虫・幼虫共に比較的大型になり、成虫の四枚の翅は体に対して小さく、三角形になっていて、高速で飛行する。また同科の幼虫は「尾角」と呼ばれる突起を持っており、ウィキスズメガ」には、『体型は非常に特徴的で、多くが腹部の末端に「尾角」と呼ばれる顕著な尾状突起を有している。その為英語圏ではスズメガの幼虫を horned worm (角の生えた芋虫)と称す。尾角の形状・色は種類によって異なるが、その用途は良く分かっていない』とするが、『体色は多様で、食草に良く似た緑色をしたものや褐色のもの、黒色のものなどが存在する。また、同じ種の幼虫でも同じ体色を有すとは限らず、個体差が顕著に現れる事も多い。例えばホシヒメホウジャク Neogurelca himachala sangaica やエビガラスズメ Agrius convolvuli、モモスズメ Marumba gaschkewitschii echephron などは、個体により顕著な体色の相違が現れる。また、ビロードスズメ Rhagastis mongoliana などの幼虫は眼紋を腹部に持つ』とある。みんなで作る日本産蛾類図鑑ビロードスズメ Rhagastis mongoliana (Butler, 1875)のページにある強烈な幼虫画像と本書の上記挿絵を比較すると、非常に良く似ており、丘先生がここで「頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである」というのは、このビロードスズメ Rhagastis mongoliana である可能性が極めて高いものと思われる。少し意外なのはウィキの記載が尾角の機能を『良く分かっていない』とするところであるが、一般に蝶や蛾の眼紋が一種の擬態であることは広く知られているので、ここは突っ込まないことにしたい(昆虫類は既に述べている通り、私の守備範囲でなく、実は生理的に苦手でもあるので)。

「せすぢすずめ」スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ Theretra oldenlandiae oldenlandiaeウィキセスジスズメ」によれば、『成虫はハンググライダーのような翼形をした、茶色いガで』、前翅に暗褐色と肌色の帯が入り、背中には二本の肌色の筋が縦に走る。『幼虫は、いわゆるイモムシと表現される体型で、全体が黒っぽく、気門より少し背側にオレンジか黄色の連続した眼状紋を持つ。付け根がオレンジで先端が白い尾角を持ち、歩く時は尾角を進行方向に平行に振る。非常に珍しいが、黄緑色の幼虫も存在する』とある(リンク先に眼紋の鮮やかな幼虫の写真有り)。『セスジスズメの幼虫は作物の葉を食い荒らす害虫であり、成長スピードが非常に早く、数日で数倍の大きさに成長』し、数日にして『畑が全滅することもある』と記す。]

Utisuzume

[うちすずめ]

 

「うちすずめ」と稱する蛾は、後翅に蛇の目狀の大きな黑い斑紋がある。翅を疊んで居るときは、前翅に被はれて居て少しも見えぬが、敵に遇ふと急に翅を二對とも廣く開くから、後翅の表面が現れ、遽に紅色の地に大きな眼玉の如きものが二つ竝んで見えるので、小鳥などは膽を潰して逃げる。これも強い敵をも防ぐといふわけには行かぬが、一部の敵に對しては十分に身を護るの役に立つことである。蛾の類には、前翅が目立たぬ色を有するに反し、後翅が鮮明な色彩と著しい斑紋とを呈するものが隨分多いから以上の如きことの行はれる場合は決して稀ではなからう。

[やぶちゃん注:「うちすずめ」スズメガ科ウチスズメ亜科ウチスズメ Smerinthus planus planusみんなで作る日本産蛾類図鑑ウチスズメ Smerinthus planus planus Walker, 1856の解説と画像を参照されたい。こりゃ、凄いわ。]

芥川龍之介漢詩全集 十三

   十三 甲

 

心靜無炎暑

端居思渺然

水雲涼自得

窓下抱花眠

 

〇やぶちゃん訓読

 

 心 靜かにして 炎暑 無く

 端居(たんきよ)して 思ひ 渺然(べうぜん)

 水雲 涼として 自(おのづ)から得たり

 窓下 花を抱きて眠る

 

     十三 乙

 

  心情無炎暑

  端居思渺然

  水雲涼自得

  窓下抱花眠

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   心情 炎暑 無く

   端居して 思ひ 渺然

   水雲 涼として 自から得たり

   窓下 花を抱きて眠る

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。(十二)以降の出来事では、五月二十三日に第一作品集「羅生門」を阿蘭陀書房より刊行したことが特記される(漱石門下木曜会メンバーである評論家赤木桁平(池崎忠孝)の紹介による。以下、ご覧の通り、本漢詩は彼に贈られている)。

「甲」は大正六(一九一七)年八月十五日附赤木桁平宛(岩波版旧全集書簡番号三〇九)所載。

「乙」は大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)所載。

赤木桁平宛では、

ボクは中々小説が出來ない十五日の〆切をのばして貰ひさうだ惡詩を一つ獻じる その中ゆく 頓首

  赤桁平先生淸鑒

として漢詩があり、次行末に

         學弟 椒圖道人百拜

とあるのが全文である。

ここで「〆切をのばして貰ひさうだ」った「小説」であるが、一つの可能性としては、この書簡を書いた後に辛くも完成、この日の締切に間に合った、という推理が成り立つ。その場合、ここで言う「小説」とは、この日に脱稿が確認されている、

大石内蔵助」

ということになる(発表は翌九月一日の『中央公論』)。――そうではなかったとすれば――これは、翌月九月八日に執筆が始まるところの、

戯作三昧」

とも考えられる(その場合、この時点では構想の段階ということになる)。新しい切り口の江戸物への脱皮を図る前者、芸術至上主義的創作家のイマジネーションの産みの苦しみを描く後者、何れであっても、『ボクは中々小説が出來ない』の質量は途轍もなく重いのである。

因みに、書簡中の「椒圖道人」という雅号は、龍之介の私的な怪談記録帖椒圖異」に基づく(リンク先は何れも私の電子テクスト)。

 「十三 乙」の載る書簡には次の(十四)が載り、(十四)の詩を掲げた後に、『隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ』として、本詩を記している。この場合、『隱情盛な時に作つた詩』という条件は、自然、本詩へも作用するものとして龍之介は述べていると考えてよい。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート7〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

國衡は城を出でて、出羽の道より大關山を越える所に、和田小太郎義盛、大高宮(おほだかみや)の邊にして追詰めければ、國衡深田に馬を入れて打てども上(あが)らず、終に首をぞ取られける。金十郎、勾當(こうたう)八、赤田次郎が籠りし根無藤(ねなしふぢ)の城も落ちて郎等或は討死し、勾當八、赤田以下三十餘人は生捕(いえどら)る。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅵ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き、残り総てを示しておく。

〇原文

十日丁酉。(前略)

又小山七郎朝光討金剛別當。其後退散武兵等。馳向于泰衡陣。阿津賀志山陣大敗之由告之。泰衡周章失度。逃亡赴奥方。國衡亦逐電。二品令追其後給。扈從軍士之中。和田小太郎義盛馳拔于先陣。及昏黑。到于芝田郡大高宮邊。西木戸太郎國衡者。經出羽道。欲越大關山。而今馳過彼宮前路右手田畔。義盛追懸之。稱可返合之由。國衡令名謁。廻駕之間。互相逢于弓手。國衡挾十四束箭。義盛飛十三束箭。其矢。國衡未引弓箭。射融國衡之甲射向袖。中膊之間。國衡者痛疵開退。義盛者又依射殊大將軍。廻思慮搆二箭相開。于時重忠率大軍馳來。隔于義盛國衡之中。重忠門客大串次郎相逢國衡。々々所駕之馬者。奥州第一駿馬。〔九寸。〕號高楯黑也。大肥満國衡駕之。毎日必三ケ度。雖馳登平泉高山。不降汗之馬也。而國衡怖義盛之二箭。驚重忠之大軍。閣道路。打入深田之間。雖加數度鞭。馬敢不能上陸。大串等彌得理。梟首太速也。亦泰衡郎從等。以金十郎。匂當八。赤田次郎。爲大將軍。根無藤邊搆城郭之間。三澤安藤四郎。飯富源太已下猶追奔攻戰。凶徒更無雌伏之氣。彌結烏合之群。於根無藤與四方坂之中間。兩方進退及七ケ度。然金十郎討亡之後皆敗績。匂當八。赤田次郎已下。生虜卅人也。此所合戰無爲者。偏在三澤安藤四郎兵略者也。今日於鎌倉。御臺所以御所中女房數輩。有鶴岡百度詣。是奥州追討御祈精也云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。(前略)

又、小山七郎朝光、金剛別當を討つ。其の後退散の武兵等、泰衡の陣に馳せ向ひ、阿津賀志山の陣大敗の由、之を告ぐ。泰衡、周章し度を失ひて逃亡し、奥の方へ赴く。國衡も亦、逐電す。二品、其の後を追はしめ給ふ。扈從の軍士の中、和田小太郎義盛、先陣に馳せ拔け、昏黑(こんこく)に及びて、芝田郡大高宮邊に到る。西木戸太郎國衡は、出羽道を經て、大關山を越えんと欲す。而して今、彼の宮の前路の右手の田の畔(あぜ)を馳せ過ぐ。義盛、之を追ひ懸け、返し合はすべしの由を稱す。國衡、名謁(なの)らしめ、駕を廻らすの間、互ひに弓手(ゆんで)に相ひ逢ひ、國衡、十四束の箭(や)を挾み、義盛、十三束の箭を飛ばす。其の矢、國衡、未だ弓箭(きゆうせん)を引かざるに、國衡の甲(よろひ)の射向(いむけ)の袖を射融(いとほ)して、膊(かひな)に中(あた)るの間、國衡は疵を痛みて開き退く。義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く。時に重忠、大軍を率して馳せ來たり、義盛・國衡の中を隔つ。重忠が門客、大串次郎、國衡に相ひ逢ふ。國衡、駕する所の馬は、奥州第一の駿馬〔九寸(くき)。〕高楯黑(たかだてぐろ)と號すなり。大肥満の國衡、之に駕し、毎日必ず三ケ度、平泉の高山へ馳せ登ると雖も、汗を降(くだ)さざるの馬なり。而るに國衡、義盛の二の箭を怖れ、重忠の大軍に驚き、道路を閣(さしお)きて、深田に打ち入るの間、數度、鞭を加ふと雖も、馬、敢へて陸(くが)に上(あが)る能はず。大串等、彌々理を得、梟首す。太だ速かなり。亦、泰衡が郎從等の金十郎・匂當(こうたう)八・赤田次郎を以つて、大將軍と爲し、根無藤(ねなしふぢ)邊に城郭を搆へるの間、三澤安藤四郎・飯富源太已下、猶ほ追ひ奔り攻め戰ふ。凶徒、更に雌伏の氣無し。彌々烏合(うがふ)の群を結び、根無藤と四方坂の中間に於いて、兩方の進退、七ケ度に及ぶ。然るに、金十郎、討ち亡ぼさるるの後は、皆、敗績す。匂當八・赤田次郎已下、生け虜らるもの卅人なり。此の所の合戰、無爲(ぶゐ)なるは、偏へに三澤安藤四郎の兵略に在る者なり。

今日鎌倉に於いて、御臺所、御所中の女房數輩を以つて、鶴岡へ百度詣で有り。是れ、奥州追討の御祈精なりと云々。

 

・「昏黑」日没。日が暮れて暗くなることをいう。

・「芝田郡大高宮」現在の宮城県柴田郡大河原町金ケ瀬字台部にある大高山神社付近。個人のHP「畑の中の地元学」の「藤原国衡終焉の地はブルベリー農園?」に当該地の紹介がある。

・「大關山」「角川日本地名大辞典」は笹谷峠とする。「奥の細道」に出る有耶無耶関跡があることで知られる難所。宮城県と山形県とを結ぶ最古の峠で、標高は九〇六メートル。

・「射向の袖」鎧の左側の袖。

・「開き退く」戦陣では「退く」は忌み言葉であることから退却することを「開く」と言った。その影響が叙述に出たものであろう。

・「義盛は又、殊なる大將軍を射るに依つて、思慮を廻らし、二の箭を搆へて相ひ開く」これは、大将軍を討ち取るということになるため、義盛も――止めの二の矢をわざと難度の高い遠矢で射ることを選択し(恐らくは戦後の論功行賞で、より殊勲なる戦功に相当すると考えたからであろう)――矢を構えたままやや後退したため、両者退く格好となり、その間に有意な間隙が生じてしまったのである。

・「大串次郎」大串重親(生没年未詳)。武蔵国出身。『宇治川の戦いにおいて、川を渉る際に馬を流され、徒歩で渡河し、同じく馬を流されて徒歩で渡っていた畠山重忠にしがみついた。怪力で知られる重忠は重親を掴んで向こう岸まで投げ飛ばした。岸まで投げ飛ばされた重親は、大勢の敵を前にして、我こそが徒立ちの先陣(騎乗での先陣は佐々木高綱)であると大声で宣言し、敵味方から笑いが起こったという』(高校の古文ではかつて教科書に必ず載っていた名(迷)場面である)。『源平盛衰記によれば重忠が追討された二俣川の戦いにも参戦していた。このとき重親は安達景盛などと共に重忠と対峙したが、弓を収めて引き返した。北条時政の讒訴によって追討されることとなった重忠への同情からの行動だといわれる』(以上はウィキの「大串重親」より引用した)。

・「九寸(くき)」「寸(き)」は馬の丈(背の部分までの高さ)を測るのに用いた語。長さは「寸(すん)」に同じ。標準となる四尺(約一二〇センチメートル)を略し、四尺一寸を「ひとき」、四尺二寸を「ふたき」、三尺九寸を「返りひとき」などと称した。これは四尺九寸、実に一五〇センチメートル弱となり、この高楯黑という名の馬(いい名だ)、当時の馬としては巨漢である。

・「道路を閣(さしお)きて」目的語が道路であるから、この「さしおく」の「おく」は、隔てるの意で、道を踏み違えたことを指す。以下の泥田にはまり込んで、首を掻かれる國衡のシーンは、無論、「平家物語」の義仲最期を意識している。

・「根無藤」現在の宮城県刈田郡蔵王町円田字根無藤。ネット上を見ると、この地名の由来には、前九年の役で劣勢となった安倍一族が陣を引き払う際、大将安倍貞任が公孫樹の根元に藤で出来た鞭を挿して去ったが、その藤が芽を出し、公孫樹に絡みつく大木となったという説と、いや、刺したのは勝利者となった源頼義だとする説などがあるようである。

・「四方坂」四方峠。現在の宮城県刈田郡蔵王町平沢及び柴田郡村田町足立にある。標高三四八メートル。

・「三沢安藤四郎」不詳。陸奥国津軽地方から出羽国秋田郡の一帯を支配した安倍貞任の子孫を自称した安東氏(津軽安藤氏とも呼称)の関係者とも言われる。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 大塔宮土籠/サン堂/獅子谷/瑞泉寺/鞘阿彌陀

   大塔宮土籠

 覺園寺ノ東南ノ山根ニ有。二段ノ石窟ナリ。内ハ八疊敷計モアリ。穴深フシテ廣シ。大塔宮兵部卿親王ヲ足利直義ウケ取、鎌倉へ下シ奉リテ、二階堂ノ谷ニ土ノ籠ヲ塗テ入レ參ラスト云々。後終ニ亂起ニ及テ、東光寺ニテ害シ奉ルト。今石窟ノ前ノ畠ハ東光寺ノ舊跡也ト云。御首ヲバ捨置タリシヲ、理致光院ニ葬ト云ヘリ。是ヨリ東へ出テ行バ、石山ガ谷見ユル。天台山ノ南ノ谷ナリ。

[やぶちゃん注:「石山ガ谷」不詳。現在の永福寺跡の奥にある西ヶ谷、若しくはその北の亀ヶ淵の奥の杉ヶ谷、或いはこれらを総称する谷戸名か。]

 

   サ ン 堂

 土籠ノ北東ノ田ヲ云。田中ニウバコ石ト云小石アリ。

[やぶちゃん注:これは「山堂」で永福寺跡のこと。]

 

   獅 子 谷

 土龍ノ北ニ獅子岩トテ、唐獅子ノ如ナル石ノ見ユル峯ヲ云。此ヨリ田間ヲ行バ、四ツ石トテ石三ツ有。一ツハ流テ失タルト云。サン堂ノ礎石カト云フ。勝福寺ノ舊跡北ノ方ニ見ユ。永安寺ノ舊跡天台山ノ下ニ見ユル畠也。持氏最後ノ所也卜云。長者谷、天台山ノ少北ノ谷ヲ云。

 

   瑞 泉 寺

 號金屏山(金屏山と號す)。天台山ヨリ東南ノ間也。濟家宗ニテ關東ノ十刹也。寺領三十八貫文アリ。源基氏建立。開山ハ夢想國師也。本尊ハ釋迦、夢想國師ノ木像アリ。夢想ノ袈裟・輿等今ニ有トナン。過リ見ルニ及ズシテ谷ヲメグリ、岸ヲ束へ出テ鞘阿彌陀ヘユク。

[やぶちゃん注:当初は瑞泉院と号し、その開基は鎌倉幕府重臣二階堂道蘊(どううん)で嘉暦二(一三二七)年に夢窓疎石を招いて開山とし創建した。後に足利尊氏四男の初代鎌倉公方足利基氏が夢窓に帰依、当寺を中興して寺号を瑞泉寺と改めたものである。]

 

   鞘阿彌陀

 五峯山理致光寺ト額アリ。覺園寺ノ末也。今ハ道心者ノ僧居之(之に居す)。此山上ニ大塔ノ宮ノ石塔有。此寺ニテ宮ヲ葬タリト云。鞘阿彌陀卜云ハ、名佛ヲ腹中ニ作入タル故トナリ。願行ノ開基也。願行ノ大山ノ不動ヲ鑄(イ)タル蹈鞴(タヽラ)畠ト云ハ、理致光寺ヨリ西ノ土手ノ内也ト云。舊キ位牌ニ當寺開山勅謚宗燈意靜宗師ト有。此ヨリ細徑ヲ東南へ囘リ、金澤海道へ出ル。舊記ニ理致光院ハ淨光明寺ノ末卜云ハ誤也。且寺ヲ院ニ作モ誤ナリ。

耳嚢 巻之五 蜻蛉をとらゆるに不動呪の事

 蜻蛉をとらゆるに不動呪の事

 

 草木にとまる蜻蛉をとらへんと思ふに、右蜻蛉に向ひてのゝ字を空(くう)に書(かき)てさてとらゆるに、動く事なしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。なお、この捕獲法は「目を回させて」という点では生物学的に正しいとは言えない。昆虫は、その複眼の構造から比較的近距離の視界内の対象物が示す素早い動きに対しては非常に敏感に察知し、反応出来るようになっているが、逆にゆっくりとした動きは、実は殆ど察知出来ないとされているからである。但し、さればこそ、円運動を描きながらゆっくりと安定した姿勢で近づくこと自体には捕獲の科学的有効性が私には認められるように思われる。……ともかくも、この、古来から子供がずっと楽しんできた捕え方を――「迷信」の一語で切り捨てる言いをして憚らぬ輩は――これ、ただのつまらない大人でしかなく――puer eternus――プエル・エテルヌスの資格は――ない――

・「とらゆ」は誤りはない。「捕える」に同じ。他動詞ヤ行下二段活用の動詞で、ハ行下二段動詞「捕(とら)ふ」から転じ、室町時代頃から用いられていた。多くの場合、終止形は「とらゆる」の形をとった)

・「不動呪」「動かざる呪(まじなひ)」と読む。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蜻蛉を捕まえるに動けなくする呪いの事

 

 草木にとまる蜻蛉(とんぼう)を捕らえようと思うたら、その蜻蛉に向かって――「の」の字を空(くう)に書きながら……書きながら……捕まえるなら、これ、逃げられずに捕えることが出来ると申す。

一言芳談 二十二

   二十二

 

 明禪法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどのことは、大抵(おほむね)、せぬがよきなり。

 

〇しやせまし、せでやあらまし、なすべきかなやむべきかなり。兼好の詞(ことば)に、あらためて益なき事はらためざるをよしとすとありし、おなじ心なり。

 

[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、卜部兼好は「徒然草」第九十八段に、

尊きひじりの言ひ置きける事を書きつけて、一言芳談とかや名づけたる草子を見はべりしに、心にあひて覺おぼえしことども。

として、五条を引用、その冒頭に本条を、

 一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやう、せぬはよきなり。

として引用している(本作での順列上も筆頭になる)。曹景惠氏の「徒然草における『一言芳談』の受容について」(岡山大学大学院文化科学研究科紀要十九巻一号 二〇〇五年三月発行)によれば、原文と「徒然草」掲載のものとを比較した『稲田利徳氏は「第一条で、原文の、「おぼゆるほどの事」を「思ふこと」とするのは、現実の生活次元の問題にとらえてしまっている。原文の「しようかしまいかと迷う程度のことは」と、迷う対象の価値を問題にしているのとはずれる」と説かれている。「しようかしまいかと思うことはだいたいはしない方がよい」、というこの第一条は一見、消極的な生き方を勧めているかのようでもあるが、桑原博史氏は「しようかと思っている事柄は、多く人間の欲望心から生ずるものであり、「迷いの常体を脱するように心の欲望のままには行動しないこと」こそがこのこと言葉の意味するところであると解釈されている』。『稿者の理解はこの桑原氏の見解に近いが、さらに連れずれ草百二十七段の「改て益なきことは、改ぬを力とするなり」という文言や第百十段の「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。(中略)一目なりとも遅く負くべき手に就くべし」という叙述と、九十八段第一条の趣旨との間によく通い合うところがあることに留意して置きたい』とある。第百十段は兼好が双六の上手にその必勝法を問うたその答えに現われるもの。以下に全文を示しておく。

 双六の上手といひし人に、その手立(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か、疾(と)く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ひとめ)なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。道を知れる教へ、身を治め、國を保たん道も、亦しかなり。

老婆心乍ら注すると、「おそく負くべき手」とは、負けないように打つ――即ち、双六の戦略の中で、どの打ち方をしたら早く負けになってしまうだろうかという負けプロセスの手を読み、それの手を用いることなく――一目(いちもく)でも『遅く』負けそうな手に従う――のがよい、というパラドクシャルな謂いである。]

除夜の空わが靴音にわがありく 畑耕一

除夜の空わが靴音にわがありく

2012/11/26

芥川龍之介漢詩全集 十二

   十二

 

山閣安禪客

經牀世外心

空潭煙月出

處々聽春禽

 

〇やぶちゃん訓読

 

 山閣 安禪の客

 經牀(けいしやう) 世外(せいぐわい)の心

 空潭 煙月 出づ

 處々 春禽(しゆんきん)を聽く

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。前年七月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業、九月一日には正式な文壇デビュー作「芋粥」が『新小説』に掲載、「猿」「手巾(はんけち)」「煙草と悪魔」などを矢継ぎ早に発表して、瞬く間に文壇の寵児となっていた。また、八月二十五日には塚本文へプロポーズの手紙を書き、十二月には一日附で海軍機関学校の英語学教授嘱託となって、鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)に転居している(通勤尾便宜のためであるが、小説執筆のために田端と頻繁に往復しており、本書簡も田端発信である)。同月九日午後九時過ぎに夏目漱石逝去。また、同月には文と婚約が成立した。まさしく作家芥川龍之介の絢爛たるデビュウの只中の一首である。

大正六(一九一七)年三月二十九日附松岡讓宛(岩波版旧全集書簡番号二七九)所載。

松岡は『新思潮』の同人で盟友。この翌大正七年四月には漱石の長女筆子と婚約、結婚した。

 書簡は四ヶ月足らずで早くも『學校も永久にやめちまひたい氣がする』と愚痴り、『創作も氣のりがしない唯かうやつてボンヤリ生きてゐる丈でそれ丈で可成苦しいやうな氣がするそれ丈で生きてゐるやうな氣がする「偸盗」なんぞヒドイ』と、つい十四日前の三月十五日に脱稿(発表は翌四月一日の『中央公論』)したばかりの自作「偸盗」のひどさを具体にあげつらい、『僕の書いたもんぢや一番惡いよ一體僕があまり碌な事の出來る人間ぢやないんだ』とまで吐露している。ただその直後に、二度『熱が高くなつた時』『は死にさうな氣がしていやになつた死ぬとしたらアンマリくだらなすぎるから あんまり今までの僕のやり方が愚劣すぎるから 何だか考へも書くことも秩序立たないやうな氣がするまだ疲れてゐるせゐだらうそれでもこなひだ病間にサイして詩を一つ作つたよ』として、本詩を掲げている。詩の後には『それから詩をつくる氣にもなれない唯漫然と空バカリ見てゐる何だか情無くつていやになるよ』と手紙を締めくくっていることから分かるように、龍之介はインフルエンザに罹患し、職場も一週間程休んでいる。創作の産みの苦しみと病気のダブル・パンチがこの弱音には作用しており、詩にもそうした苦しい現実からの逃避願望が現われているとも言えよう。

「經牀」邱氏の注に『座禅をする場所』とある。

「世外」浮世を離れた場所。「せがい」とも読む。

「空潭」人気のない奥深い淵。この語と起承転句までは詩仏王維の知られた五律、

 

  過香積寺

 不知香積寺

 數里入雲峰

 古木無人徑

 深山何處鐘

 泉聲咽危石

 日色冷靑松

 薄暮空潭曲

 安禪制毒龍

 

   香積寺(かうしやくじ)を過(と)ふ

 知らず 香積寺

 數里 雲峰に入る

 古木 人徑 無し

 深山 何處(いづこ)の鐘ぞ

 泉聲 危石に咽(むせ)び

 日色 靑松に冷かなり

 薄暮 空潭の曲

 安禪 毒龍(どくりやう)を制す

 

の光景と禅味をインスパイアしている。

・「香積寺」長安の東南、終南山の山裾にある名刹。浄土教の祖善導所縁の地として知られる。

・「曲」は湾曲した流れの淵のほとり。

・「毒龍を制す」心中に蟠る妄念を「毒龍」とし、それを滅却した座禅する僧を配す。

 

「處々 春禽を聽く」これも言わずもがなであるが、孟浩然の、

 

   春曉

  春眠不覺曉

  處處聞啼鳥

  夜來風雨聲

  花落知多少

 

    春曉

   春眠 曉を覺えず

   處處 啼鳥を聞く

   夜來 風雨の聲

   花 落つること 知んぬ多少ぞ

の承句に基づく。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(7)/了


Mamehanmyou

[豆はんめう]

Sukannku

[スカンク]

 

 堅い甲でも、鋭い針でも、敵の攻撃を防ぐ器械的の裝置であるが、その他になほ、化學的の方法を用ゐて身を守るものがある。例へば「ひきがえる」の如きは、敵に遇つても逃ることも遲く、隱れることも拙である。しかし、皮膚の全面にある大小の疣から乳の如き白色の液を出すが、この液が眼や口の粘膜に觸れると、浸みて痛いから、犬なども決して、「ひきがえる」には食ひ附かぬ。魚類には「おこぜ」・「あかえひ」などの如くに、毒針で螫すものが幾種もある。豆につく「はんめう」といふ昆蟲はこれを捕へると、足の節から劇烈な液を分泌するが、強く皮膚を刺戟するから、この種の蟲を乾せば、發泡剤として用ゐられる。また「くらげ」・「いそぎんちやく」の類は、體の外面に無數の微細な嚢を具へ、敵に遇へばこれより毒液を注ぎ出して防ぐが、餌を捕へるにもこれを用ゐるから、これは防禦・攻撃兩用の武器である。アメリカに産する「スカンク」といふ「いたち」に似た獸は、非常な惡臭のあるガスを發するので有名であるが、これも、敵を防ぐための化學的方法の一種といへる。臭氣を出す腺は肛門の兩側にある。

 海綿の類は全身いづれの部分にも角質または珪質の骨骼が、網状をなして擴がつて居るから、他の動物のために食はれることは殆どない。海岸の岩の表面には黄色・赤色・鼠色などの海綿が一面には生えて居るところがあるが、固著して逃げも隱れもせず、甲も被らず、棘も出さず、毒を含まず、臭氣を放たず、しかも敵に襲はれることのないのは、全く身體が食へぬからである。「あれは食へぬ奴だ」などとは、よく聞く言葉であるが、動物中で眞に食へぬものといへば、恐らくまづ海綿位なものであらう。

[やぶちゃん注:「ひきがえる」一応、本邦種の両生綱無尾目ナミガエル亜目ヒキガエル科ヒキガエル属ニホンヒキガエル Bufo japonicas を挙げておく。彼らの持つ主要毒成分は強心配糖体ラクトンのブファジエノライド(六員環:化合物中、ベンゼン環などのように環状に結合している原子が六つあるものをいう。)型のステロイド配糖体で、薬剤名からお分かりの通り、ヒキガエルの毒腺から単離された毒素である。

「おこぜ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目カサゴ目カサゴ亜目に属するもので棘に毒を有する魚類の一般的総称で、特に、

フサカサゴ科オニオコゼ亜科オニオコゼ Inimicus japonicas

ハオコゼ科ハオコゼ Hypodytes rubripinnis

などが代表種である。中でも、最も危険性の高い種として、

オニオコゼ亜科オニダルマオコゼ Synanceia verrucosa

及び同属種は記憶しておいてよい。何れも背鰭の棘条に毒腺を備えており、その成分もタンパク質の神経毒であるが、特にオニダルマオコゼ Synanceia verrucosa のそれは、棘毒魚中最強とされるもので、主成分をベルコトキシン(verrucotoxin)と呼び、溶血活性と毛細血管透過性亢進活性を併せ持つとされる。これやストナストキシン(stonustoxin)などのオニオコゼ類の粗毒のマウス静注マウス静脈注射のLD50値(半数致死量:投与した動物の半数が死亡する用量“Lethal Dose, 50%”の略)は0.2mg/kgとされる。参照した「医薬品情報21」の「オニダルマオコゼの毒性」によれば、『全身の熱感が数日続き、その痛みは灼熱及び鞭打ちされる感じを伴って耐え難く、知覚さえも失われる。傷口は麻痺し、傷口から離れたところにも痛みがある。全身の麻痺、浮腫、傷口の腐乱も見られる。更に全身の症状を伴い、心律の衰弱、精神的錯乱、痙攣、吐き気、嘔吐、リンパ結節の炎症、腫れ、関節痛、発熱、呼吸困難、ショックなどが見られ、最後に死亡する。死を免れても回復に数ヵ月かかる等の報告が見られる』とある。私が管見した事故記録では、毒による致死よりも、刺傷によるショック症状からダイバーや海水浴客がそのまま失神して溺死するケースも見られた。但し――このオニダルマオコゼ Synanceia verrucosa は――途轍もなく旨いのだ! 値は張るが――「沖縄に行ってこいつを食べないという法は、ねえぜ!」――と声を大にして主張するのを私は常としている。

「あかえひ」軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ Dasyatis akajei。細長くしなやかな鞭状を呈する尾の中ほどに数センチメートルから一〇センチメートルほどの長棘が一、二本近接して並んでおり、鋸歯状の返しを持つが、これが毒腺を有する。毒は5―ヌクレオチダーゼ(nucleotidase,5')やホスホジェステラーゼ(Phosphodiesterase, PDE)という酵素を主成分とすると推定されており、アレルギー体質の場合、アナフィラキシー・ショックによって死に至ることもある。

『豆につく「はんめう」』甲虫(鞘翅)目ゴミムシダマシ上科ツチハンミョウ科マメハンミョウ Epicauta gorhami。本邦にも生息する本種は体内にエーテル・テルペノイドに分類される有機化合物の一種カンタリジン(cantharidin)を一%程度持っており、乾燥したものはカンタリジンを〇・六%以上含む。カンタリジンは不快な刺激臭を持ち、味は僅かに辛い。その粉末は皮膚の柔らかい部分又は粘膜に付着すると激しい掻痒感を引き起こし、赤く腫れて水疱を生ずる。発疱薬(皮膚刺激薬)として外用されるが、毒性が強いために通常は内用しない(利尿剤として内服された例もあるが腎障害の副作用がある)。なお、カンタリジンは以前、一種の媚薬(催淫剤)として使われてきた歴史があることはかなり知られている(以上は信頼出来る医薬関連サイトを参考にした)。以下、ウィキの「スパニッシュ・フライ」の記載から引用する。このスパニッシュ・フライの類を『人間が摂取するとカンタリジンが尿中に排泄される過程で尿道の血管を拡張させて充血を起こす。この症状が性的興奮に似るため、西洋では催淫剤として用いられてきた。歴史は深く、ヒポクラテスまで遡ることができる。「サド侯爵」マルキ・ド・サドは売春婦たちにこのスパニッシュフライを摂取させたとして毒殺の疑いで法廷に立った事がある』と記す(なお、サドはそれで死刑宣告を受け投獄、フランス革命によって一時釈放されたが、ナポレオンによって狂人の烙印を押されてシャラントン精神病院に収監、そこで没している)。

「スカンク」食肉(ネコ)目スカンク科四属一五種の哺乳類の総称。北アメリカから中央アメリカ、南アメリカにかけて生息する(但し、スカンクアナグマ属はインドネシア・フィリピンなどマレー諸島の西側の島々に生息)。多くは白黒の斑模様の体色をなすが、これは外敵に対する警戒色である。体長は四〇〜六八センチメートル、体重は〇・五〜三キログラムで、ふさふさとした長い尾をもつ。雑食性でネズミなどの小型哺乳類・鳥卵・昆虫・果実などを餌とし、地中に巣穴を作る。肛門の両脇にある肛門傍洞腺(肛門嚢)から、強烈な悪臭のする分泌液を噴出して外敵を撃退することで知られる。分泌液の主成分はブチルメルカプタン(C4H9SH)で、その臭いの形容は硫化水素臭やにんにく臭など、文献によって異なる。なお、スカンクは狂犬病の媒介動物でもあり、テキサス州やカリフォルニア州などでは人間が狂犬病にかかる感染源のトップとして挙げられている。但し、分泌液を介して狂犬病に感染した例は知られていない(以上は主にウィキスカンク」に拠った)。

「海綿」海綿動物門 Porifera に属し、各種多彩な形状と大きさを持つ。分類学的には、

石灰海綿綱 Calcarea(骨格主成分は炭酸カルシウム、総て海産)

普通海綿綱 Demospongiae(現生カイメン類の九五%が属し、骨格は柔軟性のある海綿質繊維、コラーゲンの一種であるタンパク質のスポンジンで構成される)

六放海綿綱 Hexactinellida(ガラスカイメンとも呼ばれ、六放射星状の珪酸質の骨片を主とする骨格を持つ。深海底の砂地などに生息。本文既出のカイロウドウケツ Euplectella aspergillum は本綱に属する)

硬骨海綿綱 Sclerospongiae(炭酸カルシウムの骨格の周囲を珪酸質の骨片と海綿組織が取巻いた構造を持つが多くは化石種)

に分かれる(以上はウィキ海綿動物に拠った)。海綿動物は六億三千五百万年以上前(エディアカラ紀より前)に地球に出現した、多細胞生物の祖先であり、地球上で最も永く生存を維持している動物群でもある。

「動物中で眞に食へぬものといへば、恐らくまづ海綿ぐらいなものであらう」と丘先生は述べておられるが、これは現在の知見から言うと誤りで、カメ目潜頸亜目ウミガメ上科ウミガメ科タイマイ Eretmochelys imbricate は主食として特定のカイメン類を採餌するし、ある種のウミウシは、有毒種である普通海綿綱イソカイメン目イソカイメン科イソカイメン属クロイソカイメン Halichondria (Halichondria) okadai を摂餌して、その毒を体内に貯えて自己防衛に用いている(但し、クロイソカイメンの持つ毒は共生藻類である有毒渦鞭毛藻により産生される毒素オカダ酸(okadaic acid C44H68O13)によるものである)。この世界であっても「蓼喰う虫も好き好き」の諺は有効なのである。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート6〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉

その中に金剛甥當が子息下須房(かすばう)太郎秀方(ひでかた)生年十三歳になりけるが聞ゆる大力の兵にて、只一人蹈止(ふみとどま)り、押掛(おしかゝ)る寄手に馳合(はせあ)うて、當るを幸(さいはひ)に切(きり)ければ、我は甲(かぶと)の眞額(まつかう)を喉(のんど)まで打割り、或は鎧をかけて胴切にし、膝を薙伏(なぎふせ)せ、首を打ち落す。孟賁(まうほん)が勢を以て趙雲(てううん)が膽(たん)を張る。寄手大勢なりといへども、秀方一人に切立てられ、辟易して見えし所に、小山行光が郎等藤五郎行長進寄(すゝみよ)りてむずと組み、その容顔(ようがん)の美麗にして幼稚なるを見て、強力(がうりき)の年にも似ざるを感じながら、良(やゝ)久しく組合(くみあ)うて、遂に是を討取りたり。金剛別當秀綱は目の前に子を討たせて、なじかは生きてかひあらんと獅子奮迅の怒(いかり)をなし、敵を撰ばず切て廻る。既に氣疲(きつか)れ、力撓(たわ)みて、小山七郎朝光に組まれて、遂に首をぞかかれける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。

〇原文

十日丁酉。(前略)

其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。(前略)

其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三。〕殘り留まりて防戰す。黑駮(くろぶち)の馬に駕し、敵に髦(たてがみ)を向けて陣す。其の氣色、掲焉(けちえん)なり。工藤小次郎行光、馳せ並ばんと欲するの剋(きざみ)、行光が郎從藤五男、相ひ隔たりて秀方に取り合ふ。此の間(あひだ)、顏色を見れば、幼稚の者なり。姓名を問ふと雖も、敢へて詞を發せず。然れども、一人留まるの條、子細有りと稱して之を誅し畢んぬ。強力の甚しきこと若少に似ず、相ひ爭の處、對揚すること良(やや)久しと云々。(後略)

・「下須房太郎秀方」諸資料の読みでは「かすぼう」とも「かすほ」ともともある。「かすふさ」でもよさそうである。――puer eternus――プエル・エテルヌス――私としてはこれ、独立して示してやりたかったのである。

・「其の氣色、掲焉なり」「掲焉」は既出。その気迫たるや、一目瞭然である、の意。

・「藤五男」ある資料の読みでは「とうごおとこ」とあるが、私は「とうごだん」と読みたい。

・「子細有り」相応の覚悟を持った名将の子息ならん、と。

・「對揚すること」対等に組み戦うこと。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 覚園寺

   覺 園 寺

 二階堂ノ内也。山號ハ鷲峯山卜云。律宗也。泉涌寺ノ末也。七貫百文ノ御朱印有。本尊藥師・日光・月光ハ澤間法眼作ナリ。十二神ハ運慶作。相模守平貞時、永仁四年二建立、開山ハ心惠和尚、諱ハ知海、願行ノ嗣法也。黑地藏又ハ火燒地藏卜モ云。堂前ノ山根ニアリ。義堂・絶海唐土ヨリ取來ル佛也。毎年七月十一日ノ夜、鎌倉中ノ男女參詣ス。或云、有時此地藏ヲ彩色ケレドモ、一夜ノ内ニ又本ノゴトク黑クナリケリ。毎日毎夜地獄ヲメグルニヨリ、火焰ニフスボリ、黑クナルトナン。罪人ノ苦ミヲ見テ堪カネ、自ラ獄卒ニカハリ、火ヲタキ、罪人ノ煩ヲ休メラルヽト也。鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ。

 此寺ニ源次郎・彌次郎ガ塔卜云有卜舊記ニ見へクリ。住僧ニ問ヘバ曰ク、此レ俗説ノ僞也。開山ノ石塔ヲ誤テ云也ト。山根ニハワムネノ井アリ。山上ニワメキ十王、ダゴツキ地藏卜云テ石佛アリ。見ルニタラヌ物也ト云。山上ニ弘法ノ護摩堂ノ礎ノ跡アリトゾ。爰ヲ出テ東北ノ側ニ大平寺ノ跡、今ハ畠ニナリテアリ。

 寺寶

  心惠嘉元四年自筆ノ状、判有。源尊氏自筆梁牌二枚

[やぶちゃん注:以下の説明は、底本では三字下げ。]

一枚ニ文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌トアリ、則自筆ヲ染ノヨシ證文有。

  院宣、綸旨、將軍家ノ證文數通

[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。

「彩色ケレドモ」「彩色シケレドモ」の脱字か、若しくは「彩色」を「いろどり」と訓じているか。

「鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ」地蔵の業火による黒焼きというホラーの伝承、黄門様はお好みではないらしい。このようにダイレクトな感懐が語られるのは本作では珍しいことである。

「源次郎・彌次郎ガ塔」初耳である。この伝承についてご存知の方の御教授を乞うものである。

「ダゴツキ地藏」団子窟(だんごやぐら)、別名地藏窟のことであろう。鎌倉攬勝考卷之九末の挿絵を参照されたい。この部分の叙述から光圀は百八やぐら群を踏査していないことが分かる。……黄門様、鎌倉に来てここを見なかったのは、一生の不覚と存じます……。]

耳嚢 巻之五 痘瘡神といふ僞説の事

 

 痘瘡神といふ僞説の事

 

 世に疱瘡を病(やめ)る小兒、未前に物を察し或は間(あひだ)を隔(へだて)て尋來(たづねきた)る人を言當(いひあて)る故、疱瘡に神ありといふもむべ也と、予が許へ來る木村元長といへる小兒科に尋問(たづねと)ひしに、實(げ)に問ふ通りなれど、小兒熱に犯されて譫語(うはごと)をなすを、兒女子の聞(きく)所には神鬼あるに均(ひと)し、然れ共一般に熱計(ばかり)とも難申(まうしがたく)、狐狸妖獸の類、無心の小兒熱に精神を奪るゝに乘じぬるもあるらん。元長が療治せる靈岸嶋邊の小兒、其未前を察しなどする事神あるがことし。疱瘡の神ならんと家内の者抔尊崇なしけるが、或日このしろといへる魚と強飯(こはめし)を乞ひける故、醫師にも尋(たづね)その好む所を疑ひしが、心有る者右病人に對し、成程右商品は其乞ひに任すべし、さるにても御身はいづ方より來れる哉(や)と嚴敷(きびしく)尋ければ、我は狐也、食事に渇(かつ)して此(この)病人に附たり、右望叶(かなひ)なば早速立去(たちさ)らんと言ひし故、望(のぞみ)の品を與へければ、程なく狐さりしと見へて本性に成り、其後は順痘(じゆんとう)に肥立(ひだち)けると也。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:関羽の神霊譚から、疱瘡神を騙った妖狐譚で連関。医師元長の語りは一見、現在の医学的見地からも正しい導入ながら、あれ? そっちへ行っちゃうの? と聊か意外な展開ではある。

 

・「疱瘡」高い致死率(約三〇%)を持つ天然痘。複数回既出。「耳嚢 巻之三 高利を借すもの殘忍なる事」などの注を参照されたいが、本話との関わりで附言すると、小児の場合、高熱による熱譫妄(せんもう)による意識障害が起こり、幻聴・幻覚・錯乱が現われ、不安・苦悶・精神運動の興奮が見られる。予後も、醜い痘痕(あばた)以外にも、脳症や失明・難聴などの重篤な後遺症が残ったりした。

 

「疱瘡神」疱瘡(天然痘)を擬神化した悪神で、疫病神の一種。以下、非常優れた民俗学的記述となっているウィキの「疱瘡神から、江戸時代までの部分を引用する(アラビア数字を漢数字に代え、一部の記号その他を省略・変更した)。『平安時代の『続日本紀』によれば、疱瘡は天平七年(七三五年)に朝鮮半島の新羅から伝わったとある。当時は外交を司る大宰府が九州の筑前国(現・福岡県)筑紫郡に置かれたため、外国人との接触が多いこの地が疱瘡の流行源となることが多く、大宰府に左遷された菅原道真や藤原広嗣らの御霊信仰とも関連づけられ、疱瘡は怨霊の祟りとも考えられた。近世には疱瘡が新羅から来たということから、三韓征伐の神として住吉大明神を祀ることで平癒を祈ったり、病状が軽く済むよう疱瘡神を祀ることも行われていた。寛政時代の古典『叢柱偶記』にも「本邦患痘家、必祭疱瘡神夫妻二位於堂、俗謂之裳神』(本邦にて痘を患ふ家、必ず疱瘡神夫妻二位を堂に祭り、俗に之れを裳神と謂ふ)『(我が国で疱瘡を患う家は、必ず疱瘡神夫妻二人を御堂に祭り、民間ではこれを裳神という、の意)」と記述がある』。『笠神、芋明神(いもみょうじん)などの別名でも呼ばれるが、これは疱瘡が激しい瘡蓋を生じることに由来する』。『かつて医学の発達していなかった時代には、根拠のない流言飛語も多く、疱瘡を擬人化するのみならず、実際に疱瘡神を目撃したという話も出回った。明治八年(一八七五年)には、本所で人力車に乗った少女がいつの間にか車上から消えており、あたかも後述する疱瘡神除けのように赤い物を身に付けていたため、それが疱瘡神だったという話が、当時の錦絵新聞「日新真事誌」に掲載されている』(リンク先に同絵あり)。『疱瘡神は犬や赤色を苦手とするという伝承があるため、「疱瘡神除け」として張子の犬人形を飾ったり、赤い御幣や赤一色で描いた鍾馗の絵をお守りにしたりするなどの風習を持つ地域も存在した。疱瘡を患った患者の周りには赤い品物を置き、未患の子供には赤い玩具、下着、置物を与えて疱瘡除けのまじないとする風習もあった。赤い物として、鯛に車を付けた「鯛車」という玩具や、猩々の人形も疱瘡神よけとして用いられた。疱瘡神除けに赤い物を用いるのは、疱瘡のときの赤い発疹は予後が良いということや、健康のシンボルである赤が病魔を払うという俗信に由来するほか、生き血を捧げて悪魔の怒りを解くという意味もあると考えられている。江戸時代には赤色だけで描いた「赤絵」と呼ばれるお守りもあり、絵柄には源為朝、鍾馗、金太郎、獅子舞、達磨など、子供の成育にかかわるものが多く描かれた。為朝が描かれたのは、かつて八丈島に配流された為朝が疱瘡神を抑えたことで島に疱瘡が流行しなかったという伝説にも由来する。「もて遊ぶ犬や達磨に荷も軽く湯の尾峠を楽に越えけり」といった和歌もが赤絵に書かれることもあったが、これは前述のように疱瘡神が犬を苦手とするという伝承に由来する』。『江戸時代の読本「椿説弓張月」においては、源為朝が八丈島から痘鬼(疱瘡神)を追い払った際、「二度とこの地には入らない、為朝の名を記した家にも入らない」という証書に痘鬼の手形を押させたという話があるため、この手形の貼り紙も疱瘡除けとして家の門口に貼られた。浮世絵師・月岡芳年による「新形三十六怪撰」に「為朝の武威痘鬼神を退く図」と題し、為朝が疱瘡神を追い払っている画があるが、これは疱瘡を患った子を持つ親たちの、強い為朝に疱瘡神を倒してほしいという願望を表現したものと見られている』(リンク先に同画あり)。『貼り紙の事例としては「子供不在」と書かれた紙の例もあるが、これは子供が疱瘡を患いやすかったことから「ここには子供はいないので他の家へ行ってくれ」と疱瘡神へアピールしていたものとされる』。『疱瘡は伝染病であり、発病すれば個人のみならず周囲にも蔓延する恐れがあるため、単に物を飾るだけでなく、土地の人々が総出で疱瘡神を鎮めて外へ送り出す「疱瘡神送り」と呼ばれる行事も、各地で盛んに行われた。鐘や太鼓や笛を奏でながら村中を練り歩く「疱瘡囃子」「疱瘡踊り」を行う土地も多かった』。『また、地方によっては疱瘡神を悪神と見なさず、疱瘡のことを人間の悪い要素を体外に追い出す通過儀礼とし、疱瘡神はそれを助ける神とする信仰もあった。この例として新潟県中頚城郡では、子供が疱瘡にかかると藁や笹でサンバイシというものを作り、発病の一週間後にそれを子供の頭に乗せ、母親が「疱瘡の神さんご苦労さんでした」と唱えながらお湯をかける「ハライ」という風習があった』。『医学の発達していない時代においては、人々は病気の原因とされる疫病神や悪を祀り上げることで、病状が軽く済むように祈ることも多く、疱瘡神に対しても同様の信仰があった。疱瘡神には特定の祭神はなく、自然石や石の祠に「疱瘡神」と刻んで疱瘡神塔とすることが多かった。疫病神は異境から入り込むと考えられたため、これらの塔は村の入口、神社の境内などに祀られた。これらは前述のような疱瘡神送りを行う場所ともなった』。『昔の沖縄では痘瘡のことをチュラガサ(清ら瘡)といい、痘瘡神のご機嫌をとることに専念した。病人には赤い着物を着せ、男たちは夜中、歌・三線を奏で痘瘡神をほめたたえ、その怒りをやわらげようと夜伽をした。地域によっては蘭の花を飾ったり、加羅を焚いたり、獅子舞をくりだした。また、琉歌の分類の中に疱瘡歌があり、これは疱瘡神を賛美し、祈願することで天然痘が軽くすむこと、治癒を歌った歌である。形式的には琉歌形式であるが、その発想は呪術的心性といえよう』。『幕末期に種痘が実施された際には、外来による新たな予防医療を人々に認知させるため、「牛痘児」と呼ばれる子供が牛の背に乗って疱瘡神を退治する様が引札に描かれ、牛痘による種痘の効果のアピールが行われた』。

 

・「このしろ」条鰭綱新鰭亜綱ニシン上目ニシン目ニシン亜目ニシン科ドロクイ亜科コノシロ Konosirus punctatus。所謂、酢漬けの寿司種のコハダのことであるが、寿司では体長十センチメートル以下の稚魚若魚を限定して「こはだ(小鰭)」と呼ぶ。成魚は塩焼きや唐揚げ・刺身などにして食用とはなるが、小骨が多く傷みも早く、焼くと独特の臭みが出るため、成魚は町の魚屋などでは流通しない。この臭いは人を焼く臭いに似るとか、武家が「此城(このしろ)を食ふ」として忌んだという伝承などの考証は私の電子テクスト寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十九 魚類 江海有鱗魚」の「鰶 このしろ」の注で詳しく検証しているので、興味のある方は是非、参照されたい。

 

・「強飯」御強(おこわ)。糯米を蒸した米飯のこと。現在は強飯の一種である赤飯を指す語として定着した感があるが、これは狭義の呼称である。前の「このしろ」とともに狐の好物とされ、稲荷に供された。

 

・「順痘」疱瘡の軽症のものをいう。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 疱瘡神という偽説の事

 

 世間では、

――疱瘡を病んだ小児が、未然に起る出来事を察知致いたり――これから先、尋ねて来る人を言い当てるということがある――疱瘡の神と申すものがあると言うは――これ尤もなることじゃ――

なんどと流言致いておるが、これに附き、私の元へしばしば来たる木村元長と申す小児科医に訪ねてみたところ、

「……たしかに、そのように言い触らされては御座いまするな。……まあ、小児が熱に冒されて譫言(うわごと)をなすを、女子供が聴いたり致さば、これ、神鬼の在ると早合点致すは必定。……なれど……これ、一般に熱のせいばかりとも、言い切れませぬぞ……はい……これ、狐狸妖獣の類いが――頑是ない小児の、熱に精神を奪われて御座るに乗じ――とり憑く――といった例(ためし)も、これ、御座るようにて……」

と、以下のような体験を語って御座った。

 

……我らが療治致いた霊岸島辺りの、とある小児、言わるるように、未然にいろいろと、これから起こる物事を言い当てたりすることなんどが、これ、御座って、その様は、いや、まさに、何やらん神のなせる業(わざ)のようにも見えて御座いました。

 されば、

「これはもう、疱瘡の神に間違いなし!」

と、家内の者一同、真っ赤になって魘(うな)されておる子(こお)に向かって手を合わせては、これ、崇め奉って御座ったので御座るが、とある日、その子(こお)が、

「……コノシロト申ス魚ト……強飯(こわめし)ガ……欲シイ……」

と申しましたそうな。

 家内の者より、かく申しておる由、連絡が御座ったによって、我らも、

「……そのようなものを――これは疱瘡の患者の――それも子供の望むものとも、これ、思われぬ……いっかな、不審なことじゃ。……」

と答えておきましたところ、家人もまた、同様に不審に思うたので御座いましょう、何やらん、ピンときた家内のある者、これ、かの病人に向かって、

「……なるほど……その二品、乞うと申さば、これ、任せんとぞ思う……思うが……それにしても……御身はッ! 何方(いずかた)より来たったかッ?!!――」

と、厳しく詰問致いたところが、

「……ワレハ狐ジャ……食事ニ渇(かっ)シテ……コノ病人ニ憑イタジャ……我ラガ望ミ、こコレ、叶(かの)ウテ呉リョウタナラバ……早速(すぐ)ニデモ……立チ去ロウゾ……」

と申した故、直ぐ、望みの二品を小児に食べさせたところ、ほどなく、この狐は去ったと見えて、小児は正気に返り、その後は疱瘡も軽快致いて、日増しにみるみる恢復致いて御座いました、はい……

 

一言芳談 二十一

   二十一

 

又云、凡夫は、なに事もまさしくそのことに、のぞまぬほどなり。意樂(いげう)はいみじき樣(やう)なれども、事にふれてうごきやすきなり。

 

〇凡夫は、なにごとも、ひとりある時は欲にもたへたるやうなれども、媚(こ)びたる色にむかへば、愛心もおこり、富貴(ふつき)の樣子をみれば、うらやむ心も出で來るなり。

〇意樂、平生(へいぜい)の心入(こゝろいれ)なり。樂(らく)の字、ねがふとよむ時はげうの音なり。

 

[やぶちゃん注:「意樂」は梵語“EsAya”(阿世耶)の漢訳。何かを成そうと楽欲(ごうよく)する意識を起すこと、何かをしようと心に欲すること。念願。心構え。また、心を用いて様々に工夫をすること、また、その心をもいう。湛澄の注に「ねがふとよむ時はげうの音なり」とある通り、「樂」を「ガウ(ゴウ)・ゲウ(ギャウ)」と音する場合は、「好む・愛する・願う・望む」の意となる。

「のぞまぬほどなり」は「望まぬ」ではなく「臨まぬ程なり」で、「まさしくそのことに直面しない状態にある」という意である。これは非日常としての事象との直面という汎用評言でると同時に、究極のそれであるところの死との直面を指すと考えてよい。

「事にふれて」漱石の「こゝろ」の、あの植木屋での「先生」の言葉である。『平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです』。

 本条は、「意樂」以外は難しいというわけではないものの、古語の基本的な抽象言語が圧縮されて使用されているため、意味を採り難い。以下に私の勝手な訳を示す。

――明禅法師はまた、次のようにも仰せられた。

「……凡夫というものは、如何なる折りにても、まさに、その対象・事態に直面しない状態にあるのです。即ち、人というものは、平生の心がけは如何にも殊勝に見えても、いざという間際になると、忽ち、その心は軽薄に動きやすくなるものなのです。……」]

獨身生活一句 畑耕一

   獨身生活
冬の夜鏡にふかくわれもゐたり

2012/11/25

芥川龍之介漢詩全集 十一

   十一

 

叢桂花開落

畫欄煙雨寒

琴書幽事足

睡起煮龍團

 

〇やぶちゃん訓読

 

 叢桂(そうけい) 花開きて落つ

 畫欄(ぐわらん) 煙雨 寒し

 琴書 幽かに 事足れり

 睡起(すゐき)して 龍團(りようだん)を煮る

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。なお、河出書房新社一九九二年刊鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」によれば、この書簡の頃(十二月初旬)、動悸の岡田(後に改姓して林原)耕三の紹介で、久米正雄とともに夏目漱石を訪ね、以後、漱石のサロン、木曜会の常連となっている。まさにいろいろな意味で龍之介運命の出逢いの季節であった。

大正四(一九一五)年十二月三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一八九)所載。

この書簡は非常に長いもので、『この手紙をかくのが大へんおくれた それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない』と始まる(旧全集ではこの前の井川宛書簡は十月一日附である)。勿論、この『仕事』とはかの「鼻」の執筆であった(鷺年譜によれば、「鼻」の起稿はこの前月十一月四日、脱稿は「手帳 一」によって翌大正五(一九一六)年一月二十日、それが第四次『新思潮』創刊号を飾ったのは、同年二月十五日のことであった)。しかし、以下の書簡の叙述を読むと卒業『論文のため読む本ばかりでも可成ある(テキストは別にしても)』と記しているから、卒論の作業だけでも相当に多忙であったことが窺われる。なお、書簡中に卒論の題名については『題は W. M. as poet と云ふやうな事にして Poems の中に Morris の全精神生活を辿つて行かうと云ふのだが何だかうまく行きさうもない』と弱気なことを記しており、実際、新全集の宮坂覺氏年譜によれば、主題は“as man as artist”から“As a poet”、更に“Young Morris”と縮小され、完成稿は邦題では「ウィリアム・モリス研究」となった、とある(但しこれは惜しくも第二次世界大戦の戦火によって焼失してしまう)。

 但し、もう一つ、彼には『仕事』があった。――それは塚本文に対する恋情と結婚への願望実現のための精神的な高揚という『さしせまつた』感懐に基づく『仕事』――行動志向である。文への思慕の萌芽はこの大正四年の八月頃と考えられ、本書簡の十二日前の文の叔父で親友の山本喜譽司宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一八八)で『僕の愛を文ちやんに向ける』と、文への恋情を仄めかしているのである。宮坂年譜でもこの日の項に『文への気持ちは翌月に入って高まった』(翌月とはまさにこの書簡が書かれた十二月のことを指す)とあるからである(宮坂年譜によれば、文とはその後の大正五年二月中旬に伯母フキらに逢わせたところ、好感を持たれたことから、龍之介は結婚の意志を固めた、とある)。

 前半は当代の美術作品の辛口批評に始まり、最近読んでいるトルストイの「戦争と平和」への共感、この夏の松江の追想、新作の現代詩を記す。前文を附して以下に示す(「どこへ云つても」はママ)。

 

田端はどこへ云つても黄色い木の葉ばかりだ 夜とほると秋の匀がする

   樹木は秋をいだきて

   明るき寂寞にいざなふ

   「黄」は日の光にまどろみ

   樹木はかすかなる呼吸を

   日の光にとかさむとす

   その時人は樹木と共に

   秋の前にうなだれ

   その中にかよへる

   やさしき「死」をよろこぶ

 

漢詩は、このやや後に現われる。

 

定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ

自分でつくる氣になつてつくる詩はある 今日でたらめにつくつたのを書く

   叢桂花開落

   畫欄煙雨寒

   琴書幽事足

   睡起煮龍團

どうも出來上つた時の心もちが日本の詩よりいゝ 日本の詩も一つ今日つくつたのを書く 何だかさびしい氣がした時かいた詩だから

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

   汝のかみは黑く

   かざしたる花も

   いろなく靑ざめたれど

   何ものかその中にいきづく

   かすかに

   されどやすみなく――

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

もう一度眞山にのぼつておべんとうをたべたい さるとりいばらにも實がなつてさうして落ちた時分だらう 山もすつかり黄色くなつたらう 赤い土や松はかはらずにゐるだらうか

おべんとうの卵やきはまつたくうまかつた あめ蝦もたべたい 僕はくひしん坊のせいか食べものを可成思ひ出す

 

この後、自作短歌が六首記され、掉尾の段落は(「動かれて」はママ)、

 

殆この手紙をかき出した時には豫期しなかつたある感激に動かれてこの手紙を完る 大きな風のやうなそれでゐてある形のある光の箭のやうなものが頭の中を通りぬけたやうな氣がする 今まで何だか人が戀しいやうなそれでゐて独りでゐたいやうな心もちにひたされながら何かしろ何かしろと云ふ聲がたへずどこかでしてゐると思つてゐた それが今は皆どこかへ行つてしまつた このまゝで何十年何百年でもじつとして「たへず變化すれども靜止し 流轉すれども恒久なる」一切をみてゐたいやうな氣がする 何故だかしらない 唯僕の意識の中には暗い眼が浮んでゐる 何度もそれが泣くのを見た眼である 僕はこの心もちを失ふのを恐れる この眼を失ふのを恐れる かなしいやうな氣もする

平和にさうして健康に暮し給へ

                                   龍

で終わる。「あめ蝦」は直感であるが、アマエビ(甘海蝦)、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目コエビ下目タラバエビ科タラバエビ属ホッコクアカエビ Pandalus eous のことを指していると思われる。漢詩の後の追想には、松江訪問の記憶が強烈に龍之介に刻印されていることを感じさせて、個人的には非常に好きな部分である。また、掉尾の哲学的感懐に、私は――遠く龍之介の公的遺書たるところの、「或舊友へ送る手記」の「附記」にあるあの言葉――『僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。』――を、鮮やかに思い出していることを、告白しておきたい――。

 

「畫欄」花鳥の模様が装飾として彫り出された欄干。

「龍團」龍団茶。茶の進献が盛んであった宋代、福建省崇安県の南にある銘茶の産地武夷山などで摘まれた初春の新芽から製した極上の新茶で、天子に進献されたことから、龍茶・龍団茶・龍鳳団茶とも言った。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(6)


Ibaragani

[いばらがに]

Harisennbonn

[針千本]

[やぶちゃん注:底本及び講談社版は画像が左右で反転しているが、実は何れも上下逆さまになっているとしか思われない。私の独断で一八〇度回転させた画像を以上に示した。]

 

 敵の攻撃を防ぐために、全身に尖つた針を有する動物も幾種かある。上圖に掲げた「いばらがに」などはその最も著しい例で、殆ど手を觸れることも出來ぬ。樺太邊で年々多量に鑵詰にする味の好い蟹は、これ程に棘はないが、やはりこれと同じ類に屬する。また「ふぐ」の一種で「はりせんぼん」という魚も全身に太い針が生えて居る。通常は後に向いて横になつて居るから餘り游泳の妨げにならぬが、敵に遇ふと體を球形に膨ませて針を悉く直立せしめるから、さながら大きな「いが栗」の如くになつて、とても摑へることは出來ぬ。獸類の中でこれに似たものは「やまあらし」である。この獸は、兎などと同じく、囓齒類いふ仲間に屬し、植物性の物ばかりを食ふ至つて怯懦なものであるが、全身にペン軸位の太く堅い尖つた毛が生えて、物に恐れるときはこの毛が皆直立するから、大概の食肉獸も嚙み附くわけに行かぬ。オーストラリヤ地方に産する「とかげ」の一種に全身棘だらけで、恐しげに見えるものがある。長さは三〇糎に足らぬ位であまり大きな動物ではないが、顏を正面から見ると、二本の角のやうな太い棘があるために多少鬼に似て居るので、先年に新聞紙上に鬼の酒精漬といふ見出しで評判せられたことがあつた。かやうに全身に針の生えた動物は色々あるが、最も普通な例といへばまづ海膽(うに)類であらう。食用にする「雲丹(うに)」はこの類の卵巣から製するのであるが、岩のあるが、岩のある磯にはどこにも産し、形が丸く棘で包まれて「いが栗」と少しも異ならぬ。棘が尖つて居るから、大抵の敵はこれを襲ふことを敢てせぬ。特に「がんがせ」〔ガンガゼ〕と稱する一種の如きは、針が頗る細長いから、手の掌から甲の方へ突き拔けるというて、漁夫らは非常に恐れて居る。

Togetokage

[はりとかげ]

Uni

[うに]

 

[やぶちゃん注:「いばらがに」節足動物門甲殻綱十脚目異尾下目タラバガニ科イバラガニLithodes turritus

「樺太邊で年々多量に鑵詰にする味の好い蟹」初版刊行当時は樺太は日本帝国領であった。このカニは無論、タラバガニ科タラバガニ Paralithodes camtschaticus

「はりせんぼん」条鰭綱フグ目フグ亜目ハリセンボン科 Diodontidae に属する魚の総称。狭義には、その中の一種学名 Diodon holocanthus を指す。属名“Diodon”はギリシア語の“dis”(二本の)+“odūs”(歯)で、ハリセンボン科の魚族の上顎と下顎の歯板各二枚が癒合してそれぞれが一枚のペンチ状(嘴状)になっていることに由来する。つである。科のラテン語名 Diodontidae(二つの歯)もここに由来する。彼らの棘は鱗が変化したもので、「針千本」という和名も英名“Porcupinefish”(Porcupine:ヤマアラシ。)もこれに由来するが、実際の棘の数は三五〇本前後、多くても五〇〇本ほどとされる。フグ目であるが無毒である。私は沖縄の、このアバサー汁が好きで好きで、たまらないのである。

「やまあらし」哺乳綱齧歯(ネズミ)目ヤマアラシ上科ヤマアラシ科 Hystricidae 及びアメリカヤマアラシ科 Erethizontidae に属する草食性齧歯類の総称。体の背面と側面の一部に鋭い針毛を持つ。ウィキヤマアラシによれば、一般に我々がヤマアラシという名で呼んでいる『動物は、いずれも背中に長く鋭い針状の体毛が密生している点で、一見よく似た外観をしている(針毛の短い種もある)。しかし、“ヤマアラシ”に関して最も注意すべきことは、ユーラシアとアフリカ(旧世界)に分布する地上生のヤマアラシ科と、南北アメリカ(新世界)に分布する樹上生のアメリカヤマアラシ科という』二つのグループが存在することである、とする。『これらは齧歯類という大グループの中で、別々に進化したまったく独立の系統であり、互いに近縁な関係にあるわけではな』く、『両者で共有される、天敵から身を守るための針毛(トゲ)は、収斂進化の好例であるが、その針毛以外には、共通の特徴はあまり見られない。齧歯目(ネズミ目)の分類法には諸説があるが、ある分類法では、ヤマアラシ科はフィオミス型下目、アメリカヤマアラシ科はテンジクネズミ型下目となり、下目のレベルで別のグループとなる』。この二『群の動物が、現在に至るまでヤマアラシという共通の名前で呼ばれているのは、そもそもヨーロッパから新大陸に渡った開拓者たちが、この地で新たに出会ったアメリカヤマアラシ類を、まったくの別系統である旧知のヤマアラシ類と混同して、呼称上の区別をつけなかった名残りに過ぎない。特に区別する必要があるときは、それぞれ「旧世界ヤマアラシ」「新世界ヤマアラシ」と呼び分けるのが通例である』とある。これはあまり多くの人に理解されているとは思われない事実なので、特に引用しておいた。また丘先生は「至つて怯懦なものである」と述べておられるが、草食で夜行性ではあるものの、必ずしもそうとも言えない。その証拠にウィキには『通常、針をもつ哺乳類は外敵から身を守るために針を用いるが、ヤマアラシは、むしろ積極的に外敵に攻撃をしかける攻撃的な性質をもつ。肉食獣などに出会うと、尾を振り、後ろ足を踏み鳴らすことで相手を威嚇する。そして背中の針を逆立て、後ろ向きに突進する。針毛は硬く、ゴム製の長靴程度のものなら貫く強度がある』と記している。

「怯懦」は「けふだ(きょうだ)」と読み、臆病で気が弱いこと、意気地のないことをいう。

『オーストラリヤ地方に産する「とかげ」の一種に全身棘だらけで、恐ろしげに見えるもの』図のキャプションは「はりとかげ」とあるが、これは現在トゲトカゲと呼ばれる、爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目アガマ科モロクトカゲ Moloch horridus のことである。オーストラリアの砂漠に生息する固有種で、棘の多い姿が古代中東の人身御供の神モロク(モレク)を思わせることが名称の由来である。参照したウィキモロクトカゲ」によれば、体長約一五センチメートルの小型のトカゲで、『全身に円錐形の棘が並んでいるのが大きな特徴で、日本語での別名「トゲトカゲ」と、英名の "Thorny lizard" または "Thorny devil" もこのとげに由来する。さらに首の背中側には大きなこぶ状突起があり、これは敵に襲われても呑みこまれないためのものと考えられる。体色は褐色のまだらもようで、砂漠にまぎれる保護色となっている。暑いときの体色は明るく、涼しいときの体色は暗く変化する。また、移動する時は体を前後に揺らしながらゆっくりと歩く特徴的な歩き方をする。棘の多い姿で、これがモロクトカゲやトゲトカゲという名称の由来であるが、性質はごくおとなしい』。『全身の皮膚には細い溝が走っており、これは全て口へ繋がっている。この溝は毛細管現象で水を吸い上げるので、体が少しでも濡れると水が口へ集まるようになっている。このためわずかな雨や霧からも効率よく水分を摂取することができ、水の確保が困難な砂漠に適応している』(これらの特徴的事実ははしばしば映像で紹介されかなり人口に膾炙しているものと思われる)。『食性は肉食性で、もっぱらアリを捕食する。アリの行列を見つけると横で立ち止まり、短い舌をすばやくひらめかせてアリを捕食してゆく。一度に』千匹以上のアリを捕食することもある、とある。

「がんがせ」棘皮動物門ウニ綱ガンガゼ目ガンガゼ科ガンガゼ Diadema setosum。海産の危険動物は私の最も得意とする分野であるが、その手の事故記事では本種の刺傷の恐ろしさがしばしば挙げられている。鋭く長く、しかも眼点で対象物の接近を察知するとざわざわと針をそちらに束になって向けてくる。おまけに刺さると、中で細かく折れてしまい、摘出が難しく、化膿するリスクも高い。ベテランのダイバーでも大泣きする程の痛さと伝え聞く。私は泳がない(泳げない)が、水槽の中のあの妖しく青白く光る眼点とさやさやと不思議なリズムで動く長い長い針が――慄っとするほど実は素敵に――好きだ……]

芥川龍之介漢詩全集 十

   十

 

閑情飲酒不知愁

世事抛來無所求

笑見東籬黄菊發

一生心事淡於秋

 

〇やぶちゃん訓読

 

 閑情 酒を飲みて 愁ひを知らず

 世事 抛(なげう)ちて 求むる所無し

 笑みて見る 東籬(とうり)に黄菊の發(ひら)くを

 一生 心事 秋よりも淡なり

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この書簡の前月九月、龍之介は既に、かの名作「羅生門」を書き下ろして脱稿している(発表は十一月一日発行の『帝国文学』)。まさにこの漢詩は作家芥川龍之介誕生の前夜の創作になるものなのである。

大正四(一九一五)年十月十一日附井川恭宛所載。

なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三四~一三五ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。

 邱氏の当該項の「解説」によれば、『漢詩の後に、「これは実感ではない。かう云ふ字づらから起る東洋的な気分に興味を持つた丈の話だ」と書かれている』とある。

「笑みて見る 東籬に黄菊の發くを」これは言わずもがな、陶淵明の「飮酒二十首 其五」の「采菊東籬下 悠然見南山」を踏まえる。

 

   飮酒二十首 其五

  結廬在人境

  而無車馬喧

  問君何能爾

  心遠地自偏

  采菊東籬下

  悠然見南山

  山氣日夕佳

  飛鳥相與還

  此中有眞意

  欲辨已忘言

 

    飮酒二十首 其の五

   廬を結びて 人境に在り

   而も 車馬の 喧(かまびす)しき無し

   君に問ふ 何ぞ能く爾(しか)るやと

   心 遠ければ 地 自(おのづか)ら偏(へん)なり

   菊を采(と)る 東籬の下(もと)

   悠然として 南山を見る

   山氣 日夕(につせき)に佳(よ)く

   飛鳥 相ひ與(とも)に 還る

   此の中に眞意有り

   辨ぜんと欲して 已(すで)に言を忘る

  

「一生 心事 秋よりも淡なり」この結句の訓読と意味は、中国語に堪能な私の教え子T.S.君の教授を受けた。ここに謝意を表し、彼のこの部分の訳を示す。

――人生における悩みや煩悶など、取るに足りぬ。この秋よりずっと軽くて淡いものさ――]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート5〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉

寄手の大軍木戸口に詰寄せ、畠山、小山兄弟、三浦の人々、猛威を振うて攻戰(せめたたか)ふ。其聲山に響き谷に渡り、夥しとも云ふ計なし。されども城中の兵要害に向ひて強く防げば寄手厭(あぐ)みてぞ思ひける。此所に小山七郎朝光(ともみつ)、宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)、郎従紀(きの)権守波賀(はがの)二郎大友以下の七人、安藤次(あんどうじ)を案内者として潛(ひそか)に伊達郡(だてのこほり)藤田の宿より會津の方に向ひて、土湯嵩(つちゆのだけ)、鳥取越(とつとりごえ)を、大木戸のうへ、敵城(てきじやう)の後(うしろ)の山に登りて、時の聲を作りければ、「すはや搦手(からめて)より破るゝぞ」とて、城中周章慌忙(あはてふため)きて我も我もと落ちて行く。朝霧の紛(まぎれ)に、秋の山影灰暗(ほのぐら)く、岩路(がんろ)露に濕(うるほ)ひて、滑(なめらか)なる苔の上に衝伏(つきふ)せ、切倒(きりたふ)し、親討たれ、子討たるれども、落留(おちとゞま)る者更に無し。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の頭の部分を示す(後は次の〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉の回で示す)。

〇原文

十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。淸重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。幷宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅舘。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。攀登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騒動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。大軍、木戸口に攻め近づき、戈(ほこ)を建て、箭(や)を傳ふ。然れども、 國衡、輙(たやす)く敗傾(はいけい)し難し。

重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・淸重等、武威を振ひて身命(しんみやう)を弃(す)つ。其の鬪戰の聲、山谷に響き、郷村を動かす。爰に去ぬる夜、小山七郎朝光、幷びに宇都宮左衛門尉朝綱が郎從、紀權守・波賀次郎大夫已下七人、安藤次(あんどうじ)を以つて山の案内者と爲(な)し、面々に甲(よろひ)を疋馬に負はせ、密々に御旅舘を出でて、伊逹郡藤田宿より、會津の方へ向ひ、土湯(つちゆ)の嵩(だけ)、鳥取越(ととりごえ)等を越え、大木戸の上、國衡が後陣の山に攀じ登り、時の聲を發(はな)ち、箭(や)を飛ばす。此の間、城中、大いに騒動す。搦手も襲ひ來るの由を稱す。國平已下の邊將、搆塞(こうさい)に益無く、謀(はかりごと)を廻らすに力を失ひ、忽ち以つて逃亡す。時に天曙(あ)くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡(あと)滑らかにして、兩方を分かたざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し。

・「伊達郡藤田宿」現在の福島県伊達郡国見町。

・「土湯の嵩」saitohpb氏のブログ「つれづれなるままに」の石那坂の戦い(の『「土湯嵩」について』に、『阿津賀志山の山陰は湯ノ倉大森山なり。(信達二郡村誌付録)とあり、当時小坂、鳥取辺の山に、地元の人が「土湯嶽」と呼び慣らしていた山があったことが伺える。(宮城県側に下れば小原温泉がある。)室町幕府が羽州探題をおいてからは「羽州街道」とされた道がある。難所であるその山を越え、東に鳥取越~山崎峠~石母田峠と五〇〇メートル級の山峰が阿津賀志山の北を巻いて大木戸に至る。(「安藤次は、自ら朝光らの武将を誘い、この作戦の郷導となる」二郡村誌付録)「吾妻鏡」八月十日の条記述には何の疑問もない』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて頂いた)。

・「鳥取越」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には、現在の『国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである』と記しておられる。因みに、阿津賀志山から遙か四十キロメートル南西方の福島県福島市の「土湯」温泉町には「鳥取越」の地名があるが、ここではない。

・「搆塞」要塞。

・「時に天曙くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡滑らかにして、兩方を分けざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し」ここは映像が鮮やかに浮かんでくる名調子の場面。「兩方を分かたざる」とは敵味方が不分明であることをいう。

・「大木戸」現在の福島県伊達郡国見町に残る阿津賀志山二重(ふたえ)防塁遺跡の北側の阿津賀志山山麓に、国見町大木戸地区の名があるが、ここか。個人のHP「おじいちゃんのひまつぶし」の福島の遺跡・史跡 阿津賀志山防塁に所載する地図を参照されたい。リンク先では防塁の写真も見ることが出来る。

 

以下、「北條九代記」本文注。

「宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)」とあるが、「吾妻鏡」でお分かりの通り、「朝綱」の誤り。小山(結城)朝光とは親族である。

「波賀(はがの)二郎大友」とあるが、やはり「吾妻鏡」でお分かりの通り、「大友」は「大夫」の誤り。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記)  荏柄天神/天台山/大楽寺

   荏柄天神〔源順ガ和名鈔ニ荏草(エガラ)ト有リ〕

 法華堂ノ東也。十九貫二百文ノ御朱印アリ。僧云。賴朝以前ヨリ有社也。然ドモ祝融ノ災度々ニシテ記録傳ハラズ。文獻徴トスべキナシト云。別當ヲ一乘院ト云。眞言宗ニテ京洛ノ東寺ノ末ナリ。菅相公ノ束帶ノ木像アリ。作者知レズ。足腰ヤケフスモリテ有。五臟六腑ヲ作入トナリ。ロノ内ニ鈴ヲカケテ舌トシ、頭二十一面觀音ヲ入ト云。兩脇ノ小宮ハ、紅梅殿・老松社也。

[やぶちゃん注:「祝融の災」火災。中国で火を司る神を祝融と呼ぶことに基づく。「回禄」も同じ。]

 神寶

  尊氏自畫自讚ノ地藏像  一幅

[やぶちゃん注:次の讃の解説は底本では全体が二字下げ。以下の解説も同じ(以下略す)。]

讚曰、爲天化藏主仁山書、文和四年六月六日、善根無所窮 利濟徧沙界 令我畫尊容 夢中有感通。朱印及ビスへ判アリ。

[やぶちゃん注:「文和四年」西暦一三五五年。]

  天神自畫像       一幅

  天神筆瑜伽論      二卷

長二寸五分、廿五字充アリ。此經ハ一部百卷ノ物ナリ。シカルヲ十卷ニ書ツヾメラレケル其内ノ二卷ナリ。殘ハ極樂寺ニ三卷、金澤ノ稱名寺三卷、高野山ノ金剛三味院三卷、合テ七卷ハ今猶存セリ。其外三卷ハ有所シレズト別當一乘院語キ。

  天神名號              一幅

義持將軍ノ自筆也。一行物也。

南謨天滿大自在※神顯山朱印カクノ如シ、スへ判モ有。

[やぶちゃん注:「※」=(くさかんむり)+「曳」。「朱印」は横書き。「顯山」(足利義持の法号)の朱印が押されていることを示す。

「スへ判」花押。]

  緣起                三卷

畫ハ土佐ガ筆也。書ハ行能カト云。當社ノ建立ノ事ハ不見(見えず)。只天神ノ事ヲシルセリ。

  扇ニ古歌八首  台德公ノ自筆也卜云。此内二首ハハシ書アリ。

[やぶちゃん注:「台德公」徳川秀忠。]

  太刀                一腰

正宗、銘ナシ。長一尺三寸六分、ハヾ二寸四分、サシ表ニハ梅、裏ニハ天蓋不動ノ梵字、倶利伽羅不動ヲ彫ル。

大進坊ホリモノ也。

  笄 〔後藤祐乘彫物、梅、長九寸五分〕一本

  小刀〔嶋田助宗作〕         一本

  柄〔後藤乘眞彫物、梅、黑塗ノ鞘、梅ノ蒔繪也〕一本

 

    天 台 山

 覺園寺ノ上ノ山也。覺園寺へ行道ヨリ見ユル。

[やぶちゃん注:何故か、これと次の「大樂寺」の標題は四字下げとなっている。]

 

    大 樂 寺

 覺園寺ノ入口左ノ方ニ有。泉涌寺ノ末ニテ禪律也。覺園ノ寺内ナリ。本尊ヲ試ミノ湯ノ不動ト云。金佛也。願行ノ作ト云。大山ノ不動ヲ鑄ン爲ニ先試ニ鑄タル佛ナリトゾ。愛染、運慶作也。藥師、願行作ナリ。

耳嚢 巻之五 關羽の像奇談の事

 

 關羽の像奇談の事


 寬政八年番頭を勤仕なしける坪内美濃守物故(もつこ)せしが、彼家には御朱印の内へ御書加(かきくは)への同苗(どうめう)家來、無役(むやく)にて知行美濃に住居せし由。美濃守物故跡式(もつこあとしき)等の儀に付、右の内坪内善兵衞とかいへる者江戶表へ出、親族に小石川邊の與力を勤ける者ありて、彼(かの)方へ滯留して日々番町の主人家へ通ひけるが、或る夜の夢に、壹人唐冠(たうくわん)着し異國人と見ゆる者來りて、我は年久敷(ひさしく)水難に苦しみて難儀なれば、明日御身に出合ふべき間右愁を救ひ給はるべし、厚く其恩を報んといひしと覺(おぼえ)て夢覺(さめ)ぬ。不思議には思ひしかど可取用(とりもちふべき)にもあらざれば、心もとゞめず主人家へ明日も至り、夕陽に至り歸路の折柄、水道橋の川端を通りしに、定浚(ぢやうさらへ)の者土をあげて有しが、右土埃(つちぼこり)の中に壹尺餘の人形やうの物有(あり)しを、立寄(たちより)みれば唐人の像也。夜前(やぜん)の夢といひ心惡(こころあし)く思ふ故、定浚の人足に右人形は仔細あれば我等貰ひたし、酒手にても與へんといひしに、揚土(あげつち)の埃にて何か酒手に及ぶべきとて不取合(とりあはざれ)ば、則(すなはち)右木像を持歸りて泥を洗ひしに、何(いづ)れ殊勝なる細工なれば、池の端錦袋園(きんたいゑん)の隣成(となりなる)佛師方へ持行て、是はいかなる像ならんと尋問(たづねと)ひしに、佛師得(とく)と熟覽して、是は日本の細工にあらず、異國の細工也、蜀の關羽義死の後、呉國に其靈を顯しける故、別(べつし)て吳越の海濱にては海上を守る神と尊敬(そんぎやう)して關帝と唱(となへ)ける由、此像は關羽の像也と甚(はなはだ)賞美しける故、莊嚴(しやうごん)厨子等を拵へ故鄕へ持歸りしと、彼(かの)與力のかたりけるとや。


□やぶちゃん注


○前項連関:「時の廻り」を企略とした似非稲荷神霊事件から、「時の廻り」で見出された異国の神霊像の霊譚で連関。……しかし……私がこの話を初めて読んだ時、一番に何を想起したか……この水辺で関羽像を拾った男のもとへ、その日の夜中、関羽の霊が訪れて……礼と称してオカマをホられてしまう、という顛末であった。……そう、私の大好きな、あの落語の「骨釣り」であったのだ(リンク先はウィキ)。……♪ふふふ♪……

・「關羽」(?~二一九年)は中国後漢末の武将。河東郡解(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。三国時代の蜀(蜀漢)の創始者劉備に仕えた武将。その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。孫権(呉の初代皇帝)との攻防戦で斬首されたが、後世、神格化されて関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。算盤を発明したという伝説まである。「三国志演義」では、雲長・関雲長或いは関公・関某と呼ばれて一貫して諱を名指しされていない点や大活躍する場面が極めて壮麗に描写されている点など、関帝信仰に起因すると思われる特別な扱いを受けて描かれている。見事な鬚髯(しゅぜん:「鬚」は顎ひげ、「髯」は頬ひげ)をたくわえていたため、「三国志演義」などでは「美髯公」などとも呼ばれている(以上はウィキの「関羽」冒頭を参照した)。

 

・「坪内美濃守」坪内定系(さだつぐ 寛保二(一七四二)年~寛政八(一七九六)年)。寛政五(一七九三)年、御小性版頭(岩波版長谷川氏注による)。普通、官位は名目であって、実際の知行地とは無関係であるが、ここは「知行美濃」とあって、偶然、一致していたものらしい。これも「時の廻り」か。

 

・「御朱印」岩波版長谷川氏注には、『知行充行状をいうか』とある。「知行充行状」(知行宛行状)は「ちぎょうあてがいじょう」と読み、石高所領の給付を保証した文書のこと。

 

・「錦袋園」下谷池の端にあった薬店勧学屋。正しくは「錦袋圓」で、これは屋号ではなく、勧学屋オリジナルの売薬の名。底本の鈴木棠三氏注に『黄檗僧道覚(字は了翁)は修行を達成するため、淫慾を断つべく羅切した』(「羅切(らせつ)」とは摩羅(陰茎)を切断すること。「らぎり」とも読む)。『その傷口が寒暑に際して痛爛したが、霊夢によって薬方を知り、自ら調剤して治癒した。この薬を売って仏道弘布の大願を成就することを決意して、世間の非難を意とせず、六年間に三千両を貯えた。これによって文庫を設け、勧学寮を建て学徒を勉学させ、さらに池の端に薬店を開いて薬を売り、二十四か寺に大蔵経を納経した。宝暦四』(一七五四)『年寂、七十八。権大僧都法印。錦袋円の名は錦の袋に入っていたところから付けられたという』とある。かなり力の入った脱線注である。……遂にお逢いすることが叶いませんでしたが(先生は鎌倉郷土史研究の碩学としても知られ、先生御自身から鎌倉を一緒に歩いてもよい、という話が当時、私が大学時分、所属していたサークル「鎌倉探訪会」にあった)、棠三先生、この手のお話、大層、お好きなようですね……いや、私もそうです……夢告という点でも、決して脱線注では御座いませんね、何より、読んで楽しい注です。私も、こうした注を心掛けたいと思っています。……

 

・「莊嚴(しやうごん)」かく読む場合は、仏像や仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)といった附帯仏具によって厳かに飾ること、また、その物をいう。


■やぶちゃん現代語訳


 関羽の像奇談の事


 寛政八年のこと、番頭を勤仕(ごんし)なさっておられた坪内美濃守定系(さだつぐ)殿が物故なされたが、かの坪内家には、御朱印の内に書き加えられて御座るところの、直参の、同じ坪内と申す苗字の家来が御座って、無役(むやく)のまま、知行地美濃に住まいして御座った由。

 

 美濃守殿御逝去の跡目相続御儀式等がため、この坪内善兵衛とか申す者、江戸表へと出でて、その親族で小石川辺に与力を致いて御座る者があった故、その方へ逗留致いては、毎日、番町の主家へと通って御座った。

 

 その彼が、ある夜、見た夢に、

 

……一人の、唐冠を被(かむ)り、異国人と思しい偉丈夫、これ、来たって、

 

「――我は、永年、水難に苦しめられ、難儀致いておる。――明日(みょうにち)、御身に出逢うこととなっておるからして――どうか――この我が愁いをお救い下されたい――さすれば、厚く、その恩に報いん――」

 

と、語った……

 

と、思ったところで、目(めえ)が覚めた。

 

『不思議な夢じゃ。』

 

とは思ったものの、まあ、益体(やくたい)もない話でも御座れば、さして気にも留めず、その日の朝も主家へと至り、夕暮れに帰った。


……と……

 

……その帰るさの路次(ろし)、水道橋の川っ端を通ったところ、定浚(じょうさら)えの者が川床に溜まったを、掘って投げ上げた土が山のようになって御座った。

 

……が、その泥土の中(うち)に……

……一尺余りの人形のような物が……

 

……これ、ある……

 

……近寄って……ようく、見るれば……

 

……これ

 

――唐人の像――

 

で御座った。

 

 昨夜の夢との符合といい、聊か気味悪うも御座ったが、逆にその一致故にこそ、これ、捨て置くわけにも参らずなって、定浚えの人足に向かい、

 

「……これ、人足。……この人形……その……仔細あれば、我らが貰い受けとう、存ずる。……酒手(さかて)と引き替えにては、これ、如何(いかが)か?……」

 

と声を掛けたところ、

 

「川ん底(ぞこ)からぶち揚げた泥んこの山ん中のガラクタでぇ! 何で、酒手に及ぶもんけぇ!」

 

と、一向、とり合わねば、これ幸いと、そのまま取り上げて持ち帰った。

 

 かの宿所にて泥を洗い落し、ようく見れば、これ、なかなかに美事なる細工を施した神像で御座った。

 

 早速、池の端は例の名代の『金袋円』の薬舗の隣に住む仏師の元へと持ち行き、

 

「……これは、如何なる像じゃろか?」

 

と訊ねたところが、仏師は暫く凝っと眺めては、手に取って仔細を調べた末、

 

「……これは……我が日本の細工にてはあらず、異国の細工にて御座る。……蜀の関羽が義死した後、彼を討った呉国にもその神霊が出現致いた故……別して呉越の海浜地方にては、これ、海上を守る神と尊敬(そんぎょう)し、「関帝」と唱え祀られて御座る由、聴いたことが御座るが……いや! この像は、まさしく、その関羽の像にて、御座る。」

 

と申した上、その造作(ぞうさく)を口を極めて賞美致いた。

 

 されば、かの坪内は、この関羽像のために荘厳(しょうごん)や厨子なんどまで拵え、かの跡目の式が終わると、故郷美濃へとそれを持ち帰って御座った。……

 

 

……とは、かの坪内の親族なる与力が語って御座ったとか申す。

一言芳談 二十

   二十

 明禪法印云、あか子念佛がよきなり。さかしたちたる事どもきこしめして、被仰云(おほせられていはく)、身の程しらずの、物おぼえず。

〇赤子念佛、此次の顯性房の言にて知るべし、身をまかせて佛をたのめるなり。
 あか子念佛とは、何の意味もなく、すぐなり心にて口稱(くしよう)するとの事なり。(句解)
〇物覺ず、不覺人(ふかくじん)なり。

[やぶちゃん注:「さかしたちたる事どもきこしめして」「さかしたつ」は「賢し立つ」で、利口ぶる、賢そうに振る舞う、さかしがる、の意。明禅が、ある時、とある僧の、如何にもものが分かったようなもの謂いをお聴き遊ばされて、の意。この条は、明禅の「あか子念佛がよきなり。」と「身の程しらずの、物おぼえず。」の二つのエピグラムから構成されている。
「赤子念佛」湛澄纂輯「標注増補一言芳談抄」では本文の「あか子」も漢字表記となっている。
「此次の顯性房の言」冒頭注で述べた通り、「標注増補一言芳談抄」は湛澄によって分野別配列に完膚なきまでに組み替えられている。この条も「安心」の類に配され、事項は、「一言芳談」の順列では「六十六」に相当する、

顯性房云、小兒の母をたのむは、またく其故を知らず。たゞたのもしき心ある也。名號を信教(しんぎやう)せんこと、かくのごとし。

が配されている。]

壺置けばぽこと音して冬ぬくし 畑耕一

壺置けばぽこと音して冬ぬくし

2012/11/24

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート4〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

泰衡が郎従伴(ばんの)藤八は六郡第一の大力、武勇の名隱れなし。狩野(かのゝ)五郎を討取りて勢(いきほひ)八方に耀く所を、工藤小次郎行光馳竝(はせなら)べてむずと組み暫(しばらく)爭ひけるが、藤八遂に下になり、行光之が首を取る。城中の兵折來るを木戸口に追込み、静々(しづしづ)と引取りしは大剛勇力(だいがうゆうりき)の名士なりと皆感じてぞ稱美しける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅲ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月九日の条。

〇原文

九日丙申。入夜。明旦越阿津賀志山。可遂合戰之由被定之。爰三浦平六義村。葛西三郎淸重。工藤小次郎行光。同三郎祐光。狩野五郎親光。藤澤次郎淸近。河村千鶴丸。〔年十三才。〕以上七騎。潛馳過畠山次郎之陣。越此山。欲進前登。是天曙之後。與大軍同時難凌嶮岨之故也。于時重忠郎從成淸伺得此事。諫主人云。今度合戰奉先陣。拔群眉目也。而見傍輩所爭。難温座歟。早可塞彼前途。不然者。訴申事由。停止濫吹。可被越此山云々。重忠云。其事不可然。縱以他人之力雖退敵。已奉先陣之上者。重忠之不向以前合戰者。皆可爲重忠一身之勳功。且欲進先登之輩事。妨申之條。非武略本意。且獨似願抽賞。只作惘然。神妙之儀也云々。七騎終夜越峯嶺。遂馳著木戸口。各名謁之處。泰衡郎從〔下部〕伴藤八已下強兵攻戰。此間。工藤小次郎行光先登。狩野工藤五郎損命。伴藤八者。六郡第一強力者也。行光相戰。兩人並轡取合。暫雖爭死生。遂爲行光被誅。行光取彼頸付鳥付。差木戸登之處。勇士二騎離馬取合。行光見之。廻轡問其名字。藤澤次郎淸近欲取敵之由稱之。仍落合。相共誅滅件敵之。兩人安駕。休息之間。淸近感行光合力之餘。以彼息男可爲聟之由。成楚忽契約云々。次淸重幷千鶴丸等。撃獲數輩敵。亦親能猶子左近將監能直者。當時爲殊近仕。常候御座右。而親能兼日招宮六兼仗國平。談云。今度能直赴戰塲之初也。汝加扶持。可令戰者。仍國平固守其約。去夜。潜推參二品御寢所邊。喚出能直。〔上臥也。〕相具之。越阿津賀志山。攻戰之間。討取佐藤三秀員父子〔國衡近親郎等。〕畢。此宮六者。長井齊藤別當實盛(埼玉県妻沼町)外甥也。實盛屬平家。滅亡之後。爲囚人。始被召預于上總權介廣常。廣常誅戮之後。又被預親能。而依有勇敢之譽。親能申子細。令付能直云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日丙申。夜に入り、明旦、阿津賀志山を越え、合戰を遂ぐべきの由、之れを定めらる。爰に三浦平六義村・葛西三郎淸重・工藤小次郎行光・同三郎祐光・狩野五郎親光・藤澤次郎淸近・河村千鶴丸(せんつるまる)〔年十三才。〕の以上七騎、潛かに畠山次郎の陣を馳せ過ぎ、此の山を越えて前登に進まんと欲す。是れ、天曙(あ)くるの後、大軍と同時に嶮岨(けんそ)を凌ぎ難きの故也。時に重忠が郎從の成淸(なりきよ)、此の事を伺ひ得て、主人に諫めて云はく、「今度の合戰に先陣を奉ること、拔群の眉目なり。而るに傍輩の爭ふ所を見て、温座し難からんか。早く彼の前途を塞ぐべし。然らずんば、事の由を訴へ申し、濫吹(らんすい)を停止(ちやうじ)し、此の山を越へらるべし。」と云々。

重忠云はく、「其の事、然るべからず。縱ひ他人の力を以つて敵を退くと雖も、已に先陣を奉るの上は、重忠が向はざる以前の合戰は、皆、重忠一身の勳功たるべし。且は、先登に進まんと欲するの輩の事、妨げ申すの條、武略の本意に非ず。且は、獨り抽賞(ちうしやう)を願ふに似たり。只だ惘然(ばうぜん)を作(な)すこと、神妙の儀なり。」と云々。

七騎は終夜峯嶺を越え、遂に木戸口に馳せ著く。各々名謁(なの)るの處、泰衡が郎從〔下部。〕伴藤八(とものとうはち)已下の強兵、攻め戰ふ。此の間、工藤小次郎行光、先登す。狩野工藤五郎は命を損(おと)す。伴藤八は、六郡第一の強力の者なり。行光相ひ戰ひ、兩人、轡(くつわ)を並べ取り合ふ。暫く死生を爭ふと雖も、遂に行光のために誅せらる。行光、彼(か)の頸を取りて鳥付(とつつけ)に付け、木戸を差して登るの處、勇士二騎、馬を離れて取り合ふ。行光、之を見て、轡を廻らし、其の名字を問ふ。藤澤次郎淸近、敵を取らんと欲するの由、之を稱す。仍つて落ち合ひ、相ひ共に件の敵を誅滅し、之(ゆ)く。兩人、駕を安んじ、休息の間、淸近、行光の合力(かふりよく)を感ずるの餘り、彼(か)の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽(そこつ)の契約を成すと云々。

次で淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲(え)たり。

亦、親能は猶子(いうし)左近將監能直者、當時、殊なる近仕として、常に御座右に候ず。而るに親能、兼日、宮六兼仗(きゆうろくけんぢやう)國平を招き、談じて云はく、「今度、能直は戰塲に赴くの初めなり。汝、扶持を加へ、戰はしむべし。」てへり。仍つて國平、固く其の約を守り、去ぬる夜、潛かに二品の御寢所邊へ推參し、能直〔上臥(うへぶし)なり。〕を喚び出し、之を相ひ具して、阿津賀志山を越え、攻め戰ふの間、佐藤三(さとうざ)秀員父子〔國衡が近親の郎等。〕を討ち取り畢んぬ。此宮六は、 長井齊藤別當實盛が外甥(がいせい)なり。實盛、平家に屬し、滅亡の後、囚人と爲(な)る。始め、上總權介廣常に召し預けられ、廣常誅戮の後、又、親能に預けらる。而るに勇敢の譽れ有るに依つて、親能、子細を申して能直に付けしむと云々。

以降、武将を一々注しているとなかなか進まないので、私が気になる人物やシークエンスでの主要人物のみをチョイスするのをお許し戴きたい。

・「工藤小次郎行光」(生没年未詳)は工藤景光の子で、頼朝の強兵に呼応して父とともに甲斐で挙兵、後、頼朝に仕えた。この阿津賀志山木戸口攻めの功により、陸奥岩井郡を与えられている。

・「藤澤次郎淸近」藤沢淸親と同一人物であろう。木曽義仲の嫡男義重(義高)が頼朝の人質にされた際に一緒に鎌倉へ下った家臣の一人であったが、義高誅殺後は幕府御家人となった。後に弓の名手として坂額御前(はんがくごぜん)を射たことでも知られる。因みに坂額御前(生没年未詳)は越後国の有力豪族城氏の一族の女武将。父は城資国、兄弟に資永・長茂らがいる。坂額の兄長茂の幕府打倒計画に呼応した建仁元(一二〇一)年の建仁の乱で、坂額の甥城資盛(資永の子)の越後国での挙兵に随う。その弓は百発百中であったと伝えられる)(坂額は両足を射られて捕虜となり、同時に反乱軍は制圧された。以下、参照したウィキの「坂額御前」によれば、『彼女は鎌倉に送られ、将軍頼家の面前に引き据えられるが、その際全く臆した様子がなく、幕府の宿将達を驚愕せしめた。この態度に深く感銘を受けた甲斐源氏の浅利義遠は、頼家に申請して彼女を妻として貰い受けることを許諾され』、『義遠の妻として甲斐国に移り住み、同地において死去したと伝えられている』『同時代に書かれた『吾妻鏡』では「可醜陵園妾(彼女と比べれば)陵園の美女ですら醜くなってしまう)」「件女面貌雖宜」、すなわち美人の範疇に入ると表現されている』とある。

・「河村千鶴丸」後の河村秀淸(治承元・安元三(一一七七)年~?)。相模出身、通称四郎。承久の乱では北条泰時に従って京の宇治橋で戦っている。

・「成淸」榛澤成淸(はんざわなりきよ ?~元久二(一二〇五)年)武蔵榛沢郷(現在の埼玉県深谷市及び大里郡寄居町)の住人。

・「伴藤八」秀衡の代からのトップ・クラスの家臣の一人。

・「鳥付」馬の鞍の後輪(しづわ)に附けた紐。尻懸(しりがい)を結ぶための輪状になったもので前輪の同様の装置を総称して鞖(しおで)とも呼ぶ。

・「彼の息男を以つて聟と爲すべきの由、楚忽の契約を成す」とは藤澤淸近は工藤行光が手助けしてくれたことに感謝する余り、その休息の間に、その場で、行光の息子を自分の娘の婿とすることを即行、約束してしまった。

・「淸重幷びに千鶴丸等、數輩の敵を撃ち獲たり」葛西淸重は、この奥州藤原氏滅亡後の九月に頼朝による論功行賞で勲功抜群として胆沢郡・磐井郡・牡鹿郡など数ヶ所に所領を賜った上、初代奥州総奉行に任じられている。当時、彼は満二十八歳であった。その彼と同等に「幷」べて河村千鶴丸が挙がっていることは注目に値しよう。満十二歳の少年千鶴丸が勲功第一の淸重と同等の首級を挙げたということである。

・「親能」中原親能(康治二(一一四三)年~承元二(一二〇九)年)。文官の御家人。公家方とのパイプ役として働き、文治二(一一八六)年に京都守護に任じられている。後、建久二(一一九一)年に政所公事奉行に任ぜられ、後の十三人の合議制の一人ともなった。

・「左近將監能直」大友能直(承安二(一一七二)年~貞応二(一二二三)年)は相模国愛甲郡古庄郷司近藤(古庄)能成の子として生まれ、母の生家の波多野経家(大友四郎経家)の領地相模国足柄上郡大友郷を継承してからは大友能直と名乗ったが、能成が早世したため、母の姉婿中原親能の養子となり、中原能直とも名乗った。文治四(一一八八)年に十七歳で元服、この年の十月十四日に源頼朝の内々の推挙によって左近将監に任じられる。当時は病いのために相模の大友郷にあって、十二月十七日になって初めて大倉御所に出仕、頼朝の御前に召されて任官の礼を述べているが、この阿津賀志山の戦いはそれからたかだか八月後のことに過ぎない。「吾妻鏡」では能直を、頼朝の『無双の寵仁』(並ぶ者のないお気に入り)と記している。その後も頼朝の近習を務め、建久四(一一九三)年の曾我兄弟仇討ち事件では曾我時致の襲撃を受けた頼朝が太刀を抜こうとした所を、能直が押し止めて身辺を守っている。建久七(一一九六)年一月には豊前・豊後両国守護兼鎮西奉行となり、現地へ下向、承元元(一二〇七)年頃には筑後国守護に任ぜられているが、任地への在国は一時的なものであったと考えられ(九州には守護代を配していたと見られる)、京と鎌倉を頻繁に往来している(以上はウィキ大友能直に拠る)。

・「宮六傔仗國平」宮道国平(みやじのくにひら 生没年不詳)。幕府御家人。斎藤実盛の外甥。ウィキ宮道国平から引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『宮道氏は、物部氏庶流とも日本武尊末裔とも伝えられる氏族であるが、国平の系譜関係は不明である。一方で斎藤実盛の弟・実員の子とする系図があることから、本姓藤原氏の斎藤氏の一族とする見解もある』。当初は『実盛に付き従い治承・寿永の乱で平家方であったが、平家滅亡の後、囚人として上総広常に、一一八三年(寿永二年)に広常が謀殺された後は中原親能に預けられた。その後勇敢さを見込まれ、親能の養子大友能直付きとなった。一一八九年(文智五年)の奥州合戦に従軍し戦功により奥州に所領を与えられ、一一九〇年(文治六年)の大河兼任の乱に際しても出陣している。『吾妻鏡』では、一一九一年(建久二年)に奥州より牛を献上したとの記事を最後に登場しなくなる』。『一方、実盛死後に武蔵国幡羅郡長井庄(現埼玉県熊谷市)を継ぎ、実盛創建に係る聖天山歓喜院(埼玉県熊谷市)に十一面観音と御正躰錫杖頭を寄進したことが同院の縁起に見える。また、八幡神社(秋田県大仙市)には中原親能と連名の棟札が現存していることから、奥州だけでなく出羽国山本郡にも所領をもっていた可能性が高い』とある。この「宮六傔仗」という呼称は不詳。「傔仗」は本来、律令制で辺境の官人に与えられた護衛武官を指し、姓氏の一つにはなった。識者の御教授を乞う。

・「上臥」本来は宮廷用語で、宮中や院中などで宿直(とのい)することをいう。

・「佐藤三秀員」「三(ざ)」は三郎の略。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 法華堂/東御門

   法 華 堂

 西御門ノ東岡邊ノ小杉森是ナリ。眞言宗ナリ。此本尊ハ阿彌陀也。今ハ雪下ノ供僧相承院ニ有。今ハ道心者ノ僧居之(之れに居す)。如意輪觀音ノ木像アリ。運慶作也。僧謂テ云。

 昔由比太郎持忠卜云者ノ娘、七歳ニシテ死ス。其骨舍利五粒ニナル。ソレヲ拾ヒ、此觀音ノ腹中ニ納ム。分身シテ三升計ニナル。頭ワレテ溢レ出ルト云傳フ。今モ五粒ハ此像内ニ有、分身セシ三升計ノ舍利ハ相承院ニ有ト。此寺ハ相承院持分也。報恩寺ノ本尊ナリシト也。地藏脇立ニ有。又報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有。寺ノ上ニ賴朝ノ墓有土石。如意輪堂モフケイ寺トモ云。賴朝ノ持佛堂ナリト云。

[やぶちゃん注:「持忠」は「時忠」の誤り。

「報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有」「新編鎌倉志卷之二」の「法華堂」の項に、

異相なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是歟。

とあるから、この「キウジ」は「ジキウ」の誤字であろう。

「如意輪堂モフケイ寺トモ云」底本では「如意輪堂トモフケイ寺トモ云」の「ト」の脱字と推定されているが、「フケイ寺」の呼称は不詳。識者の御教授を乞うものである。但し、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」の「法華堂」の記載を管見しても「如意輪堂」、「フケイ寺」に相当するような呼称は出て来ない。]

 

   東 御 門

 法華堂ノ東ノ谷也事ハ、西御門ノ所ニ見へタリ。

耳囊 卷之五 かたり事にも色々手段ある事

 

 

 かたり事にも色々手段ある事 

 

 近頃の事也。牛込赤城の門前に名題(なだい)の油揚を商ふ家有(あり)。右油揚名物の段は下町山手迄も隱れなければ誰しらざる者なし。或日壹人の侍躰(てい)の者、衣類等賤しからず、彼(かの)油揚を錢貮百文調ひて、右見世(みせ)に腰をかけて水もたまらず喰盡(くひつく)し、夫より日數廿日程過て又々來りて、同じく油揚を百文分喰ひけるが、其日は時の𢌞りにや油揚賣(うり)切る程に商ひける故、聊か不審を生ぜし間、其後日敷經て來る時、御身程油揚好み給ふ人なしとて馳走なしければ、飯酒(めしさけ)は不及申(まうすにおよばず)、油揚のみ喰て、我等事は江戶中は愚か、日本中の油揚喰はざる所もなし、然るに此所に增(まさ)る事なしとて、其住居もあからさまにはいはず、全く稻荷の神ならんと家內尊崇なしけるが、去年の暮の事也しが、又々來りて例の通(とほり)油揚を喰ひ、代錢も亦例の如く拂ひて後、我々も少々官位の筋ありて、近頃には致上京(じやうきやういたし)候など咄して、路用も大かた調ひぬれど、いまだ少々不足故延引の由を語りければ、彼油揚屋は兼て神とぞ心得居(をり)ける故、其不足を聞(きき)て調達をなしなんといへど斷(ことわり)て承知せず。元日の間に合(あは)ず殘念なれなどいひて不取合(とりあはざる)故、家內信仰の餘り深切(しんせつ)に尋問(たづねとひ)ければ、拾五兩程の由故、則(すなはち)亭主も右金子取揃へ遣(つかは)しければ、忝(かたじけなき)由にて預りの證文なすべきといひしに、夫(それ)にも不及(およばず)との事故、左あらば我等が身にもかへがたき大切の品を預け印(しるし)とせんとて、懷中より紫の服紗(ふくさ)にて厚包(あつくつつ)みて封印急度(きつと)なしたる物を渡し、路用官金等も調ひし上は明日出立して上京なし、日數五日には立歸り又上京なすべしといひし故、彌々神速(じんそく)は人間にあらざる事と感賞して、右服紗包は大切に仕𢌞ひ置しが、五日過ても沙汰なし。春に成りても何の沙汰なければ、彼服紗包を解き改(あらため)ければ溫石(をんじやく)なれば、始(はじめ)てかたりに逢ひし事を知りて憤りけると也。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:感じさせない。騙り話としては何となく憎めない気がする滑稽譚ではある。ただ想像すると、油臭くて気持ちが悪くなるという欠点はあるが。先行する「世間咄見聞集」(作者不詳 元禄十一(一六九八)年)の元禄一一年の条には、やや類似した手口で饅頭屋の主人が稲荷を騙る博打打ちによって富貴になるための加持祈禱の依頼に絡んで三百両を騙し取られる話が載り、また北条団水の「晝夜用心記」(宝永四年(一七〇七)年)の「一の五」には、京都小川通りの菓子屋が同様の手口で隠居料七百料をすりかえられた話が載る(以上は岩波文庫版長谷川強校注「元禄世間咄見聞集」の本文及び注を参考にした)。

 

・「牛込赤城の門前」現在の東京都新宿区赤城元町にある赤城神社の東西にあった門前町。ここは明治維新までは赤城大明神・赤城明神社と呼ばれた。

 

・「水もたまらず」は「水も溜まらず」で、刀剣で鮮やかに切るさま。また、切れ味のよいさまを言う語であるが、ここは当人が侍(事実そうかは知らない)であることに引っ掛けてあっという間に、素早く、の謂いである。

 

・「時の𢌞り」その男が現われた、その日のその時刻が偶然、油揚げが異様に売れて売り切れるのと一致したことを言う。冷静なる話者による挿入である。

 

・「急度(きつと)」は底本のルビ。

 

・「溫石(をんじやく)」は底本のルビ。言わずもがなであるが、軽石などを焼いて布などに包み、懐に入れたりしてからだをあたためるために用いる石。焼き石。しばしばこの手の騙りでは御用達の、小判や宝玉の似非物となる。

 

・「去年の暮の事也しが」冒頭に「近頃の事也」とあるから、これは高い確率で執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春の前年寛政八年か、七年の暮れと考えられる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 騙り事にも色々手段の御座る事 

 

 近頃のことで御座る。

 

 牛込赤城明神の門前に、名代の油揚げを商(あきの)う店が御座る。ここの油揚げの評判なることは、これ、下町・山手までも隠れなく、知らぬ者とて御座らぬ。

 

 ある日のこと、一人の侍体(てい)の者が来たって――これ、着衣なんども賤しからざる御仁にて御座ったが――かの油揚げを何と、銭百文分も買い求めて、そのまま店先に腰を掛けて、眼にもとまらぬ速さで喰い尽くすと、黙って帰って御座った。

 

 それより二十日ほど過ぎて、またまた来たって、同じく油揚げ百文分を喰い尽いて同じきに帰って御座ったが――その日は、これ、たまたま時の回りが一致したものか――その御仁の来たった折りが丁度、油揚げの売り切れる程の繁昌に当たって御座ったがため、店の主人は聊か、

 

『……不思議なことじゃ……』

 

と思うた。

 

 かの御仁、その後、数日を経て再び現れたによって、主人は、

 

「……貴方さまほどに、油揚げをお好みにならるる方は、初めてにて御座ります。」

 

と声をかけ、膳を進めて饗応致いた。

 

 しかし、かの男、飯や酒は申すに及ばず――油揚げ以外のものには一切口をつけず――油揚げだけを、これ、喰う、喰う、また喰う、その時あった、ありったけの油揚げを皆、喰い尽くして、而して曰く、

 

「……拙者は江戸中はおろか――日本中の油揚げ――これ、喰うたことのない油揚げは、御座ない。……然るに――ここの油揚げに優るものは、これとて、御座ない!」

 

と喝破した。

 

 丁重に男の住まいなんどを訊ねてはみたものの、これ、何故かはっきりとは言わずに、その日も帰って御座った。

 

「……これはもう――全く稲荷の神さまに相違ない!……」

 

と主人以下家内一同、すっかり尊崇致す仕儀と相い成った。……

 

 ところが、去年(こぞ)の暮れのことで御座る。

 

 またまたかの男の来たっては、例の通り、油揚げを鱈腹平らげ、代銭もいつも通りに払(はろ)うた後、

 

「――実は――我らこと――この度、少々、官位昇進の筋――これ、御座っての――近いうちには――これ、上京致すことと、相い成って御座った……」

 

なんどという話しを始めたかと思うと、

 

「……いや路銀も大方は……調うて御座るのじゃが……未だ少々……不足して御座る故……出立(しゅったつ)は延引致さざるを得まいが……これで……官位昇進の道は断たるることと相い成ろうかのぅ……」

 

と語って御座った故、かの油揚げ屋主人、予(かね)てより、稲荷神と信じて御座った故、

 

「――その不足の分は、お幾らで御座いまするか? 私(わたくし)どもが御用達致しますに依って!」

 

と申し述べたところが、男は断って、一向に承知致さぬ。しかし、そのそばから、

 

「……官位昇進の儀なれば……元日に間に合わぬというは……これ……我らが眷属の絶対の礼式を失し……官は最早得られぬ……ああっ! これ……如何にも残念無念じゃ!……」

 

と独りごちながらも、やはり、借財の申し出はとり合わぬ故、家内一同、懇切丁寧に祈誓致いては不足の金子を尋ね問う。すると、男はいやいや、

 

「……そうさな……十五両ほどで御座るが……」

 

との申したによって、主人は早速に金子を取り揃え、男に差し出だいたれば、男は、

 

「――忝(かたじけな)い!」

 

とて礼を述べ、懐に収むると、

 

「……さすれば……預かりの証文……これ、認(したた)むるが――法――で御座ろう、のぅ……」

 

と申したによって、主人は、

 

「いえ――我らの尊崇致しますお方なればこそ――それには及びませぬ。」

 

と答えたところ、男は、

 

「――そうか。――さすれば我らが身にも、代え難き大切なる――ある品を――これ、貴殿に預けおき――れを預かりの證文の代わりの印(しるし)と致しそう。――」

 

と申すと、懐中より紫の袱紗(ふくさ)にて厚く包みて、厳重に封印された物を取り出だすと、うやうやしく主人に渡いた。

 

「――路銀と官位取得のための上納金なども調った上は、明日、出立致いて上京をなし――そうさ、五日の後には立ち帰って――その折りに下賜された金子を以て貴殿に返金致いて――再び上京致す所存にて御座る。」

 

と申す故、主人以下家内一同、聞き及んで、

 

「いや! いよいよお稲荷さまじゃ! その神業の脚力、これ、やはり人間にはとてものこと、出来ざる速さじゃて!」

 

と感嘆すること頻り。……

 

 その日、主人以下一同、店先にて合掌を成す中、男は深々と礼を致いて帰って御座った。……

 

 さても主人は、かの預かった袱紗包みを大切に仕舞いおいて御座ったが……

 

……五日過ぎても……音沙汰が……ない……

 

……春になっても……何の音沙汰も……これ……御座ない……

 

……痺れを切らいた主人、かの袱紗を取り出だいて、これを解き改めて見たところが……

 

……中にあったは……

 

――温石(おんじゃく)一つ――で御座った……

 

……されば、ここに初めて、騙(かた)りに逢(お)うたことを知り、家内一同、憤怒致いたとのことで御座る……いやはや……後の祭り……後の祭り……

 

一言芳談 十九

   十九

 

 或人(あるひと)明禪法印にたづね申(まうし)て云、非人法師(ひにんほふし)は、いかなる所にか住(すま)すべく候らん。仰(おほせて)云、念佛だに申されば、いかなる所にてもありなん、念佛のさはりとならん所ぞ、あしかるべき。但(ただし)、境界(きやうがい)をば、はなるべきなり。

 

〇念佛だに申されば、此の御示し法然上人の御すゝめと同じ事なり。禪勝房に示し給へる御返事、絵詞傳四十五あり。とかく念佛の申さるゝやうにせよとなり。

〇境界、女人近きところ、富貴の家のあたり、人立多きところ、物さはがしき處などをいふ。尤も眷屬の事をもいふなり。

 

[やぶちゃん注:「非人法師」この「非人」は現実社会の身分制度の被差別民であった「非人」を指すものではないので注意。世俗社会から遁世して「俗世の人に非ざる」存在となった沙門のことを指す。元来、「非人」は「人」の対義語として、釈迦如来の眷属で仏法を守護する護法善神天龍八部衆や、悪鬼のような人間ではない、仏教世界での下位層の存在広く指す語であった。

「禪勝房」(承安四(一一七四)年~正嘉二(一二五八)年)はもと天台宗の僧であったが、蓮生(れんじょう:名将熊谷直実の法名)の説法を聴いて京へ上り、蓮生の師であった法然の弟子となった。後に郷里遠江に帰って番匠(大工)をしながら念仏と教化につとめた(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

「絵詞傳四十五」現在、知恩院蔵の国宝である「法然上人行状絵図」のこと。但し、現在知られるものは全四十八巻(プロトタイプが存在しそれは四十五巻であったものか)。法然の誕生から入寂に至る行状の他、法語・消息・著述などの思想も表わし、更に門弟列伝・天皇や公家武家の帰依者の事蹟まで含んだ構成で、現在のものは後伏見上皇の勅命により比叡山功徳院の舜昌法印(後の知恩院第九世)が徳治二(一三〇七)年から十余年をかけて制作したと伝えられるが、筆者不詳。特に前半部は構図・色彩ともに優れ、鎌倉後期の宮廷絵所絵師の画風を顕著に見せている(浄土宗総本山知恩院公式サイトの「宝物 法然上人行状絵図」の記載を参照した)。

「境界」仏教では善悪の報いとして各自が受ける境遇の意と、五官及び心の働きにより認識される対象、六根の対象である色・声・香・味・触・法の認知・思考の作用によって生れる六境(単に境ともいう)の意を持つ。大橋氏の注は前者を採って『善悪のむくいによって各自の受ける環境』とあるが、これはおかしくはあるまいか? 果報によって受けることが宿命である境遇から離れることは論理的に出来ないはずである。私は寧ろ、後者で採って、六根が敏感に刺激される、欲望に繋がるところの、猥雑でおぞましい認知や思考の起こりやすい対象(女の近く・富貴の者周辺・群衆の中・なんとなく騒がしい場所、そして親類縁者知己知人)を離れよ、逃れよと明禅は述べているのではあるまいか。識者の御教授を乞うものである。]

芥川龍之介漢詩全集 九

   九

 

黄河曲裡暮烟迷

白馬津邊夜月低

一夜春風吹客恨

愁聽水上子規啼

 

〇やぶちゃん訓読

 

 黄河 曲裡(きよくり) 暮れ 烟迷(えんめい)

 白馬 津邊(しんへん) 夜月 低し

 一夜(ひとよ)の春風 客恨(かくこん)を吹き

 愁聽(しうちやう) 水上 子規(ほととぎす)啼く

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。

大正四(一九一五)年九月二十一日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七九)所載。

詩の前には、心を動かす人としてミケランジェロ・レンブラント・ゴヤを挙げて、それぞれの感心した事柄を簡潔に述べた上で『かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の審判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせていゐる』と書き、続けて『櫻の葉が綠の中に点々と鮮な黄を点じていたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黄色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がして一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした』(ここで改行と思われる)『新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未だに出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた』とあって表記の詩が記され、後には『あまりうまくない』と記している。以下、この書簡について「・」で注する。

・「新聞」とは「五」の注に記した『松江新報』に発表した芥川来遊前後を記した井川恭の随筆「翡翠記」のことを指す。「秋は曆の上に立つてゐた」は「翡翠記」の「十六」に現われる(厳密には「秋は已に曆の上に立つてゐた」。その冒頭を以下に引用しておく。引用は島根国語国文会一九九二年発行の寺本喜徳編「井川恭著 翡翠記」に拠ったが、これは新仮名新字体であるので、恣意的に正仮名正字体に代えてある。

   《引用開始》

古浦へ行つた翌(あく)る日、僕たち二人はかるい疲勞(つかれ)が節々に殘つてゐる四肢(てあし)を朝の汽車の座席(シーツ)のうへに長々と伸ばしてゐた。

 秋は已に曆の上に立つてゐた。窓框(まどわく)に頤(おとがひ)をもたせて茫然(ぼんやり)とながめると、透(す)きやかな水をひろびろと湛へてゐる湖の面がものうい眼のなかに一杯に映つた。十六禿(はげ)のうすい朱(あけ)のいろの崕(がけ)が靜かな影を冴えた木の隈に涵(ひた)してゐる上には、眞山(しんやま)や蛇山(じややま)や澄水山(すんづさやま)が漸次(しだい)にうすく成つて消えて行く峰の褶曲(しわ)を疊みながら淡い雲を交へた北の空をかぎつてゐた。

 みづうみの手前の岸には白い莖をそろへて水葦が風にそよぎながら立つて居り、水の涯(ほとり)の村里やを取り卷いて搖(ただよ)うてゐるさびしい透明な氣分を一點にあつめた哀しい表情がかすかやどつてゐた。

 湯町(ゆまち)、宍道(しんぢ)と乘り降りの人の稀れな驛々を汽車はたゆたげにすぎて行つた。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云つて頻りに賞めてゐた。

   《引用終了》

因みに、これを読んでも井川(恒藤)恭の文才が並々ならぬものであることが分かる。ウィキの「恒藤恭」によれば、ここまでの井川の事蹟は(アラビア数字を漢数字に代えた)、『島根県松江市に兄弟姉妹八人の第五子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後三年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し三五〇円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に一ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う』。『健康を回復した恭は、一九一〇年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。二年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える』。大正二(一九一三)年、『恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったと述べている。京都帝国では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている』とあり、その少年期や思春期はまさに文学という額縁に彩られていたことが分かる。

・「定福寺」以下、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」から「松江連句(仮)」の「定福寺」という龍之介の句及び私の注を示してここの注に代える。

   《引用開始》

      定福寺

〔丶〕 禪寺の交椅吹かるゝ春の風          阿

 

[やぶちゃん+協力者新注:この「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「常」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく。]

   《引用終了》

この常福寺は、井川の馴染みでもあり、龍之介の滞在中、真山白鹿城登山の拠点として、住職の妻の接待を受けている(「翡翠記」二十三)。ここでは、謂わば、その御礼のための常福寺追想の漢詩を龍之介が作りたいと思いながら(それは恩義ある住職に龍之介のそれを返礼とせんがために井川から望んだものなのかもしれない)出来ないことを言っている。俳句では、やはり「松江連句(仮)」に、

 

〔駄〕 梵妻だいこくの鼻の赤さよ秋の風

         (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

 

とある(「梵妻」は僧侶の妻。大黒天が厨くりやに祀られたことから大黒(だいこく)とも言う)。

・「竹枝詞」以下、竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。

 

「烟迷」踏み迷うほどに濃い靄が立ち込めること。]

水族館一句 畑耕一

   水族館

短日のさかだち泳ぐ魚ばかり


[やぶちゃん注:先の「短日の時計とまりて部屋ひろし」のすぐ後にあるが、僕のミスで掲載し忘れていた。]

2012/11/23

冬ぬくし硝子の泡も影となる 畑耕一

冬ぬくし硝子の泡も影となる

 

[やぶちゃん注:これは旧来の粗製のガラス窓の板ガラスにしばしば含まれていた気泡のことを言っているものと思われる。私には、こんなことを言わずとも、すんなりと落ちるのだが、こういう注を附さねばならぬのも、最早、時代か。]

耳嚢 巻之五 貴賤子を思ふ深情の事

 貴賤子を思ふ深情の事

 老職を勤(つとめ)給ふ伊豆守信明公、寛政八年、公命を請(こふ)て日光へ行(ゆき)て事を行ひ給ふを、母儀の送るとて詠(よみ)給ふよし。

  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと

 

□やぶちゃん注

○前項連関:和歌物語二連発。

・「伊豆守信明」宝暦一三(一七六三)年)~文化一四(一八一七)年)三河吉田藩第四藩主。所謂、寛政の遺老。寛政五(一七九三)年に定信が老中を辞職すると、老中首座として幕政を主導、享和三(一八〇三)年十二月に一旦、老中を辞職するも、二年半年後の文化三(一八〇六)年五月には老中に復帰、死去するまで幕政を牛耳った。寛政八(一七九六)年は正しく未だ現役老中時代、老中という名に騙されてはいけない! この時、彼は満三十三歳である。

・「思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏迷ふなと」

  思ふぞよその黑髮の山越へて誠の道を踏み迷ふなと

「黑髮の山」日光の男体山。昔より日光山・黒髪山・二荒(ふたら)山などの異称を持つ。とは黒髪山は全山緑樹が覆い繁っていることから、二荒山は観音浄土の補陀洛(梵語フダラク)に基づく。「黑髮の山」は黒髪山と未だ壮年の信明を掛けていよう。歌意は、

――こころから願っておりますぞよ……その未だ黒髪の若気なればこそ、黒髪山の山中にて本道を踏み迷うな、日光山のお勤めにて、誠(まこと)の御政道を踏み迷うな、と――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 貴賤の区別なく子を思う深情に変わりのなきこと事

 

 老中職を勤められた伊豆守信明殿が、寛政八年、公命を受けて日光へ赴任なさるること相い成った。

 その際、御母堂がお見送りをなさるとて、その折り、お詠になられたという歌。

 

  思ふぞよその黑髪の山越へて誠の道を踏迷ふなと

一言芳談 十八

   十八

 

又云、居所(きよしよ)の心にかなはぬはよき事なり。此処にかなひたらんには、われらがごとく不覺人(ふかくじん)は、一定執着(いちぢやうしふぢやく)しつとおぼえ候なり。

 

〇一定、さだめて執着(しふぢやく)すべし。

 

[やぶちゃん注:岩波版では最後が「一定執(いちぢやうしふ)しつとおぼえ候なり。」となっている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像によって訂した。

「不覺人」覚悟のできていない人。不心得者。ここでは、仏法の「覺」(悟り)に対する「不覺」であるから凡夫の意味でよい。「ふかくにん」とも読むが、『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』は「じ」、国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像の草書崩し字はどうみても「し」で「に」ではない。――さてもこの章は訳したい。

〇やぶちゃんの現代語訳

 また、明禅法印はこうも云われた。

「……住んでいるところに満足しないことはよいことである。「住んでいるところに満足している」と思ってしまうと、我々のような凡夫の場合は、そこ――「満足している住んでいるところ」――即ち――現世――に必ずや、逆に執着してしまうに違いない、と思われるからで御座る。……」

これは一種の鮮やかなパラドックスである。住むことに住居に満足しないというのは住居への執着のように見え乍ら、そのじつ「住居」はその外縁を大きく広げて「現世」を住居と見る時、それは執着を捨てるという無限遠に広がるのである。]

我が家の長男と四女

義母の家から昨日養子にやってきた、僕の長男と四女

あんちんくん

きよひめちゃん

である――

20121123114342

この子たちの和服は総て義母の手縫いである。

芥川龍之介漢詩全集 八

   八

 

  蓮

 

愁心盡日細々雨

橋北橋南楊柳多

櫂女不知行客涙

哀吟一曲采蓮歌

 

〇やぶちゃん訓読

 

    蓮

 

 愁心 盡日(ぢんじつ) 細々たる雨(あめ)

 橋北 橋南 楊柳(やうりう)多し

 櫂女(たうぢよ) 知らず 行客(かうかく)の涙(なみだ)を

 哀吟 一曲 采蓮歌(さいれんか)

 

[やぶちゃん注:「櫂女」船を漕ぐ女。蓮採りの小舟を漕いでいる娘を指すのであろう。邱氏は『船家の女』と注されているが、これだと私は結句との自然な流れが損なわれるように思われる。

「采蓮歌」江南地方の女性が蓮を採る際に歌う民謡。]

芥川龍之介漢詩全集 七

   七 甲

 

 松江秋夕

 

冷巷人稀暮月明

秋風蕭索滿空城

關山唯有寒砧急

擣破思郷万里情

 

〇やぶちゃん訓読

 

  松江秋夕

 

 冷巷(れいかう) 人稀れに 暮月明(めい)なり

 秋風 蕭索として 空城に滿つ

 關山(くわんざん) 唯だ有る 寒砧(かんこ)の急(きふ)

 擣破(たうは)す 思郷万里(しきやうばんり)の情

 

     七 乙

 

  冷巷人稀暮月明

  秋風蕭索滿空城

  關山唯有寒砧急

  搗破思郷万里情

 

  〇やぶちゃん訓読

 

    松江秋夕

 

   冷巷 人稀れに 暮月明なり

   秋風 蕭索として 空城に滿つ

   關山 唯だ有る 寒砧の急

   搗破(たうは)す 思郷万里の情

 

[やぶちゃん注:これも秋で仮想の一首である。

「七甲」は前掲通りの井川書簡所載。

「七乙」は旧全集では前掲書簡の次に配されてある翌日の大正四(一九一五)年八月二十四日附石田幹之助宛(岩波版旧全集書簡番号一七五)所載。

石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)は芥川や井川の一高時代の同級生で、当時は未だ東京帝国大学文科大学東洋史学科に在学しており、この翌年に卒業後、同大史学研究室副手となって中国に渡り、モリソン文庫の受託、またその後身である財団法人東洋文庫の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。「七乙」は御覧の通り、結句の冒頭の一字が異なるだけであるが、総ての字の右に「〇」の朱圏が附されている。なお、圏点は本来は文字強調や詩の眼目となる「詩眼」の文字の脇などに附すもので、ウィキの「圏点」ではあくまで日本語で使用されると限定しているが、邱氏は「芥川龍之介の中国」の注で『中国的な雰囲気を出すために、石田に書き送った詩は一字一字に朱圏がつけられている』と記載しておられ、中国でもそうしたものとして普通に使われていたことが分かる。なお、この書簡は葉書前後に有意な消息文があるので、圏点を外した状態で示す。中国史に詳しい石田にこれを送ったところから、龍之介としてはかなりの自信作であったことが窺われる。

 

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)

   冷巷人稀暮月明

   秋風蕭索滿空城

   關山唯有寒砧急

   搗破思郷万里情

關山は一寸洒落てみただけ天守閣も街も松江は大へんさびしい大概うちにゐますひまだつたらいらつしやい

 

「關山」関所のある山は辺塞の地の砦を意味している。

「寒砧の急」寒い晩秋の夜に打たれる砧(きぬた)の音の気忙しい、それでいて荒涼として淋しい響き。以上から流石に誰もがお分かりになっているように、これは知られた李白の「子夜呉歌」の秋の一首をモデルとしている。

 

   子夜呉歌

  長安一片月

  萬戸擣衣聲

  秋風吹不盡

  總是玉關情

  何日平胡虜

  良人罷遠征

 

   長安 一片の月

   萬戸 衣を擣(う)つの聲

   秋風 吹きて盡きず

   總て是れ 玉關の情

   何れの日にか胡虜を平らげて

   良人 遠征を罷めん

 

「子夜呉歌」は楽府題で、本来は子夜という娘が作った呉の民謡であるが、李白はこの曲をイメージしながら、四季を歌った四首の詞を書いた。その中の秋を歌ったもので本邦でも知らぬ者とてない詩である。これは楽府の辺塞詩の銃後版で、辺塞に徴用された夫を思う妻の夜鍋仕事のワーク・ソングの形を取っている訳だが、龍之介のそれは、それに仮託させた自身の帰らぬ初恋の人への堪えがたい絶唱として響いているように思われる。]

芥川龍之介漢詩全集 六

   六

 

  眞山覧古

 

山北山更寂

山南水空廻

寥々殘礎散

細雨灑寒梅

 

〇やぶちゃん訓読

 

   眞山(しんやま)覧古

 山北(さんほく) 山 更に寂し

 山南 水 空しく廻(めぐ)る

 寥々(れうれう)として 殘礎 散り

 細雨 寒梅に灑(そそ)ぐ

 

[やぶちゃん注:「眞山」は松江市法吉町の北部にある標高二五六メートルの山。築城主は平忠度といわれるが、特に毛利元就が尼子氏の白鹿(しらが)城攻略のために陣を敷いたことで知られ、尾根や頂上部に僅かな城郭の跡が現存する。山頂からは松江市や日本海が見下せる(以上は主にゼンリンの「いつもNAVI」の真山城址の記載に拠った)。

「細雨 寒梅に灑ぐ」「五」の注で示したように龍之介が訪れたのは八月で、本詩の詩的映像全体は想像のものであって実景ではない。やぶちゃん芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」の「松江連句(仮)」をお読みになれば分かるように、彼らは何度もこの山に大汗をかいて登っては、爽快を楽しんでいる。いや、故にこそ、彼の内面の、やはり癒し難い寂寥が反映した心象風景であったと言えるのであろう。]

芥川龍之介漢詩全集 五

   五

 

  波根村路

 

倦馬貧村路

冷煙七八家

伶俜孤客意

愁見木綿花

 

〇やぶちゃん訓読

 

  波根(はね)村路

 

 倦馬(けんば) 貧村の路(みち)

 冷煙 七八家(しちはつか)

 伶俜(れいべん) 孤客(こかく)の意(おも)ひ

 愁見(しうけん)す 木綿(もめん)の花

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。

大正四(一九一五)年八月二十三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七四)所載。

以下、四首連続で当該書簡に載る(以下、四首では以上の注記を略す)。

 龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、畏友井川恭の郷里松江に来遊、初恋の人吉田弥生への失恋の傷心の痛手を癒した(この井川の誘いは勿論、それを目的とした確信犯である。それは龍之介自身もよく分かっていた)。本書簡は帰京した翌日に認められたそれへの返礼で、そこに忘れ難い旅の思い出を四首の漢詩で示したものである。なお、この度の直後、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載された。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で初めて公開された(リンク先はその初出形を復元した私の電子テクスト)。

 書簡は『大へん世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有つた』と真心の謝辞に始まり、『非常にくたびれたので未だに眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない』(「遲しまつた」はママ)とあって以下に四首が示されている。

「羽根村」石見地方の石東地域(石見東部地域)に位置しする旧安濃郡(あのぐん)羽根村、現在の島根県大田市波根町と思われる。江戸時代は商港として繁栄したが、龍之介が訪れた当時は海浜の淋しい村落であったようである。ここで龍之介は井川と海水浴をしている。この旅で二人は仮称「松江連句」と呼ばれる連句をものしており、そこに、羽根での井川の句に、

〔駄〕 ゆく秋や五右エ門風呂に人二人        井

というのがある。これについては、以前に私のやぶちゃん芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」で以下の注を附したので引用しておく。

   《引用開始》

やぶちゃん+協力者新注:「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、『波根海岸で泳いだ後芥川が初めて五右エ門風呂に入ったときの、戸惑ったユーモラスな樣を彷彿させる。』と記す。これは井川の「翡翠記」の「二十」に現われる。泊まりで訪れた石見の波根海岸での、海水浴の後の場面である。該当箇所を「翡翠記」より引用する(四十八ページ)。

 海から上って二人は風呂場をさして行った。

「ヤッ五右衛門風呂ごえもんぶろだね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」と龍之介が大に無気味がる。

「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏おどりをするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。

 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸つかっていたが、

「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。

   《引用終了》

「伶俜」落魄れて孤独なさま。勿論、「孤客」龍之介自身を指す。]

芥川龍之介漢詩全集 四

   四

 

放情凭檻望

處々柳條新

千里洞庭水

茫々無限春

 

〇やぶちゃん訓読

 

 放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば

 處々 柳條(りふでう) 新たなり

 千里 洞庭の水

 茫々 無限の春

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この大正四(一九一五)年四月一日に龍之介は「ひよつとこ」を『帝国文学』に発表している(リンク先は私の初出稿+決定稿附やぶちゃん注版)。

大正四(一九一五)年六月二九日(推定)附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一六五)所載。

 書簡冒頭には『手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者に通つてゐる』とあって、かなり体調を崩している様が見て取れる。これは、実はこの年の初めに起った初恋の人吉田弥生との失恋(弥生が戸籍の移動が複雑で非嫡出子扱いであったことや吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったことなどから養家芥川家から激しい反対にあったためとされる)の痛手を遠因としており、新全集の宮坂覺氏の年譜の五月中旬の項には『一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』が、これについては『破恋の痛手から逃れるための吉原通いの影響も指摘されている』とある。その後文で『體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい』と続くことから、井川の手紙は出雲行を誘うものであったことが判明する(「五」以下の漢詩及び注を参照のこと)。それに続けて東京帝国大学英文科二年の学年末試験が済んで『せいせいした その時いゝ加減に字を並べて』として本漢詩を掲げ、『と書いた それほど 樂な氣がしたのである』と記している(本書簡は以下も続き、非常に長いものであるが、それ以降の内容は直接、漢詩とは拘わらないので省略する)。

「放情」は「放情自娯」で「情を放(ほしいまま)にして自(おのづ)から娯(たの)しむ」、自在な感懐を以って自由に楽しむの謂い。

「檻」は欄干。

「柳條 新たなり」柳の枝は新緑に萌えている。]

芥川龍之介漢詩全集 三

   三

 

寒更無客一燈明

石鼎火紅茶靄輕

月到紙窓梅影上

陶詩讀罷道心淸

 

〇やぶちゃん訓読

 

 寒更 客無く 一燈明らかなり

 石鼎(せきてい) 火(ひ)紅ゐにして 茶靄(ちやあい)輕(かろ)し

 月 紙窓(しさう)に到り 梅影上(のぼ)る

 陶詩 讀み罷(や)みて 道心淸し

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十二歳。

大正二(一九一三)年十二月九日附淺野三千三宛(岩波版旧全集書簡番号一一五)に所載。

淺野三千三(あさのみちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は三中の後輩。後に東京帝大薬科に進学、薬学者となって金沢医大薬専教授を経て、昭和一三(一九三八)年には東京帝大教授となった。地衣成分の研究や結核の化学療法剤の研究などで知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

 詩の前には例によって『惡詩御笑ひ下され候』とあるが、当該書簡文にはその前の中間部に、漢文についての興味深い龍之介の所感が記されている箇所がある。当該部分を引用する。

 

此頃又柳宗元を少しづつゝよみ居を候小生は最柳文を愛するものに候昌黎が柳州の文をよむに先だち必薔薇水を以て手を洗へる誠にうべなりと思はれ候短かけれど至小邱西小石潭記に柳々州の眞面目を見るべく讀下淸寒を生ずる心地せられ候

 

・「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の自然詩人。唐宋八大家の一人。

・「昌黎」同じく中唐の詩人で唐宋八大家の一人で、柳宗元とともに宋代に連なる古文復興運動を起こした韓愈(七六八年~ 八二四年)の別名(昌黎(現在の河北省)の出身であると自称したことに由る)。

・「柳々州」柳宗元の最後の任地柳州(現在の広西壮(チワン)族自治区)に因んだ呼称。因みに中国語では記号「々」(しばしば勘違いしている高校生がいるが、これは漢字ではない)は本来ないので(現代では非公式には用いられるらしい)「柳柳州」と書くのが正しい。

・「小邱西小石潭記」は「小邱の西の小石潭に至る記」と訓読する。掲載書を所持しないので、中文サイト「大紀元文化網」に載るものを、一部表記を本邦で表記可能な漢字及び当該正字に直して示す(外の中文サイトを見ると表記の異なる部分があるが、取り敢えずこれで示す)。

從小丘西行百二十歩、隔篁竹、聞水聲、如鳴佩環、心樂之。伐竹取道、下見小潭、水尤淸冽。全石以爲底、近岸、卷石底以出、爲坻、爲嶼、為※2、爲岩。靑樹翠蔓、蒙絡搖綴、參差披拂。[やぶちゃん字注:「※1」=「山」+「甚」。]

潭中魚可百許頭、皆若空游無所依。日光下澈、影布石上、※3然不動、俶爾遠逝,往來翕忽、似與游者相樂。[やぶちゃん字注:「※2」=「亻」+「台」。] 

潭西南而望、斗折蛇行、明滅可見。其岸勢犬牙差互、不可知其源。坐潭上、四面竹樹環合、寂寥無人、淒神寒骨、悄愴幽邃。以其境過清、不可久居、乃記之而去。

同游者、武陵、龔古、余弟宗玄。隸而從者、崔氏二小生、曰恕己、曰奉壹。

 

・「坻」は中洲。

 

・「※2」は、ごつごつとした岩の謂いであるが、次に「岩」とあるから、それよりも小さい川岸の石のことか。

 

・「※3然」、「※3」は進まないさまをいうが、別な中文個人ブログ月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「恬然」と表記し、「静止的子」(割注原文は簡体字。以下同じ)とある。この割注は非常に分かり易いので以下『』はそれを引用させて戴いたことを示す。

・「俶爾」『忽然』。

・「翕忽」『忽』。急に出没するさま。忽然と同義。

・「斗折蛇行」『形容水流弯曲』。なお、これは本文から生まれた四字熟語「斗折蛇行(とせつだこう・とせつじゃこう)」として、斗(北斗七星)の如く折れ曲がり、蛇の如くうねりながら進むことから転じて、道や川などに曲折が多く、くねりながら続いていくさまをいう。

 ・「犬牙差互」『形容岸涯如犬牙交』。

・「隸」は月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「隶」で『跟随』と割注する。これは本邦では「跟随(こんずい)」と読み、(「跟」はかかとの意で、人のあとについていくことをいう。

 

「茶靄」石製の鼎(かなえ:焜炉。)で沸かしている茶の、立ち登る湯気。

「道心」ここでは、下で形容する「清らかな」に相応した泰然自若とした心境を謂う。

「梅影上る」梅の枝影が映る。

 この詩には静謐さと同時に強い寂寥感が漂うが、旧全集のこの詩の載る次の書簡、二十一日後ではあるが、年も押し詰まった大正二(一九一三)年十二月三十日附の盟友山本喜譽司宛(岩波版旧全集書簡番号一一六)の手紙に、これを解く非常に重大な鍵があるように私は思う。やや長くなるが全文を示したい。

 

あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひましたあしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます

廿日に休みになつてから始終人が來るのですどうかすると二三人一緒になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歳暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません

今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ちをして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります

君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど

 

伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい

あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら

 

お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません

「佇みて」と「昨日まで」とをもつて噴い海べをあるくのもいゝでせう

 

こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら

君の話しが出ました 平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど

 

廿二才がくれる 暮れる

大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある

何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい

    三十日夜                             龍

  喜 譽 司 梧下

 

・「伊藤」三中時代の同級生。

・「四葉會」不詳。

・「平塚」平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年。三中時代の同級生。第六高等学校(現在の岡山大学)に進学したが、後に結核に罹患、千葉の病院で病没した。龍之介にとっては非常に大切な友人の一人であり、その死を受けて龍之介は、大正一六(一九二七)年に彼をモデルとした彼」を発表している。リンク先は私の詳細注を附したテクストである。是非、お読み戴きたい。

・「平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません」芥川龍之介の同性愛傾向は生涯通底しており、彼の精神発達史を考える時、避けて通れない非常に重要な一面で、彼には自身の同性愛史を綴った未定稿作品(「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題))もある(リンク先は私の電子テクストでページ詳細注も附してある。やはり、是非、御一読あれ)。

・「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」本詩の結句『陶詩 讀み罷みて 道心淸し』は、決して字面だけの上っ面のものでは、これ、ない、ということが、私には実感されるのである。

 この書簡は本漢詩と直接の関連はないものの、複雑なコンプレクス(心的複合)と掻き毟られるような煩悶の只中にあった若き日の芥川龍之介像を髣髴とさせる、非常に貴重な書簡である。]

2012/11/22

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) キドブン/報恩寺/永福寺/西御門/高松寺/来迎寺

   キドブン

 此地ハ賴朝屋敷ノ北西ノ田ナリ。キドブンハ賴朝ノ時ノ人也卜云。未審(未だ審らかならず)。

[やぶちゃん注:不詳。私の今までの鎌倉郷土史研究では出逢ったことがない地名である。現在は名も土地も消失しているものと思われる。これが武士であったと仮定し、「キド」と呼称する姓「木戸」「城戸」「嘉戸」「城門」「貴戸」等で「吾妻鏡」を検索したが、該当者はいない。識者の御教授を乞う。]

 

   報 恩 寺

 西御門ノ左ノ方二見ユル谷也。今ハ寺ナシ。

 

   永 福 寺

 西御門へ入口ノ右ニ見ユル谷也。今ハ寺ハ亡ビ、田中二礎ノミアリ。賴朝奧州ノ泰衡退治ニ下向有テ、秀衡建立ノ金堂ヲ見テ、歸テ此寺ヲ建立ス。建久三年ヨリ土石ヲ運ビ地引ス。同十一月廿五日、永福寺供養、將軍御參詣、寛喜四年九月廿九日、賴綱將軍永福寺ノ林頭ノ雪見ン爲ニ出ラレ、歌ノ會アリ。判官基綱・武州泰時等ノ倭歌アリ。

[やぶちゃん注:「賴綱」は「賴經」の誤り。]

 

   西 御 門

 賴朝屋敷ヨリ直ニ北へ行。民村少計リ有所ヲ云。土俗ノ云。是ハ賴朝ノ時、西ノ御門卜云儀也。東御門モ其心ナリ。

 

   高 松 寺

 西御門ノ入ノ終リ也。法華宗ノ尼寺也。紀州亞相賴宣ノ母儀建立ナリ。詳ニ鐘ノ銘ニアリ。鐘ノ銘別紙ニ載ス。

 

   來 迎 寺

 高松寺ノ南隣、時宗也。一遍ガ開基、藤澤道場ノ末寺也。此ヨリ舊路ヲ歸リ、又東行スレバ法華堂也。

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート3〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

賴朝卿の先陣矢合して攻掛る。小山朝光加藤次景廉(かげかど)等命を顧みず戰ひければ、金剛別當攻破られ、大將國衡以下城を出でて引退く。泰衡が郎從佐藤信夫莊司(しのぶのしやうじ)は繼信、忠信が父なり。叔父河邊(かうべ)太郎高經、伊加良目(いがらめ)七郎高重等を相倶して石那坂(いしなざか)の上に陣を張り、逢隈河(あふくまがは)を掛入れて、隍(ほり)を深くし、柵(しがらみ)を引き、石弓を張(はつ)て待掛たり。常陸入道念西が子息常陸冠者爲宗、同次郎爲重、同三郎資綱、同四郎爲家、その郎從等と潜(ひそか)に株(くひぜ)の中より澤原(さら)の邊に進出(すゝみいで)て、鬨の聲を揚げたりければ、佐藤荘司等前後の寄手を防がんと命を棄てて防ぎ戰ふに、爲重、資綱、爲家は疵(きず)を蒙る。すでに危く見えし所に、冠者爲宗勇捍(ようかん)を勵し、右に廻り、左に馳(はせ)て打て廻るに、莊司以下宗徒(むねと)の兵十八人が首を取る。殘る軍兵四方に散りて敗北す。阿津樫山の上經(きやう)岡(をか)に首を梟(か)けて逃るを追(おひ)て進み行く。

 

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅱ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月八日の条。

八日乙未。金剛別當季綱率數千騎。陣于阿津賀志山前。夘剋。二品先試遣畠山次郎重忠。小山七郎朝光。加藤次景廉。工藤小次郎行光。同三郎祐光等。始箭合。秀綱等雖相防之。大軍襲重。攻責之間。及巳剋。賊徒退散。秀綱馳歸于大木戸。告合戰敗北之由於大將軍國衡。仍弥廻計畧云々。又泰衡郎從信夫佐藤庄司。〔又號湯庄司。是繼信忠信等父也。〕相具叔父河邊太郎高經。伊賀良目七郎高重等。陣于石那坂之上。堀湟懸入逢隈河水於其中。引柵。張石弓。相待討手。爰常陸入道念西子息常陸冠者爲宗。同次郎爲重。同三郎資綱。同四郎爲家等潛相具甲冑於秣之中。進出于伊逹郡澤原邊。先登發矢石。佐藤庄司等爭死挑戰。爲重資綱爲家等被疵。然而爲宗殊忘命。攻戰之間。庄司已下宗者十八人之首。爲宗兄弟獲之。梟于阿津賀志山上經岡也云々。〕今日早旦。於鎌倉。專光房任二品之芳契。攀登御亭之後山。始梵宇營作。先白地立假柱四本。授觀音堂之號。是自御進發日。可爲廿日之由。雖蒙御旨。依夢想告如此云々。而時尅自相當于阿津賀志山箭合。可謂奇特云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙未。金剛別當季綱、數千騎を率いて、阿津賀志山の前に陣す。夘(う)の剋、二品先づ試みに畠山次郎重忠・小山七郎朝光・加藤次景廉・工藤小次郎行光・同三郎祐光等を遣はし、箭合(やあは)せを始む。秀綱等、之を相ひ防ぐと雖も、大軍襲ひ重なり、攻めに責むるの間、巳の剋に及び、賊徒、退散す。秀綱、大木戸に馳せ歸り、合戰敗北の由、大將軍國衡に告ぐ。仍りて弥々計畧を廻らすと云々。

又、泰衡が郎從の信夫(しのぶ)佐藤庄司〔又は湯庄司と號す。是は繼信・忠信等の父なり。〕叔父河邊太郎高經・伊賀良目(いがらめ)七郎高重等を相ひ具し、石那坂(いしなざか)の上に陣す。湟(ほり)を堀り、逢隈河(あぶくまがは)の水を其の中に懸け入れ、柵(しがらみ)を引き、石弓を張り、討手を相ひ待つ。爰に常陸入道念西は子息、常陸冠者爲宗・同次郎爲重・同三郎資綱・同四郎爲家等潛かに甲冑を秣の中に相ひ具して、伊逹郡澤原(さははら)邊に進み出で、先登して矢石を發(はな)つ。佐藤庄司等、死を爭ひて挑み戰ふ。爲重・資綱・爲家等。疵を被る。然れども、爲宗は殊に命を忘れ、攻め戰ふの間、庄司已下、宗(むねと)の者十八人の首、 爲宗兄弟、之れを獲(とり)て、阿津賀志山上の經(きやう)ケ岡に梟(けう)するなりと云々。

今日早旦。鎌倉に於いて、專光房、二品の芳契に任せて、御亭の後山へ攀(よ)ぢ登り、梵宇の營作を始む。先づ白地(あからあま)に假柱四本を立て、觀音堂の號を授く。是れ、御進發の日より、廿日たるべきの由、御旨を蒙ると雖も、夢想の告に依りて此くの如しと云々。

而るに時尅、自づから阿津賀志山の箭合せに相ひ當る。奇特と謂ひつべしと云々。

・「金剛別當秀季綱」金剛秀綱(生没年未詳)。後文では一貫して「秀綱」と記されるから、単なる誤字と思われる。羽後国由利郡新城(現在の秋田県秋田市新城)を所領する奥州藤原氏の郎党。

・「夘の剋」は卯刻で、午前六時頃。

・「巳の剋」午前十時頃。

・「佐藤庄司」佐藤正治(もとはる 永久元(一一一三)年?~文治五(一一八九)年?)信夫庄(現在の福島県福島市飯坂町)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)に居城した陸奥の豪族。湯庄司(現在の飯坂温泉に由来)と号した。妻は藤原秀衡の娘であったともいわれる。この後、捕縛されたものの、赦免されて本領を安堵されたとも伝えられる。名は基治とする記載もある。

・「伊賀良目七郎高重」伊賀良目高重(?~文治五(一一八九)年)。福島県信夫郡にあった五十辺(いがらべ)村周辺(現在の福島市中央東地区の一部)を領していた豪族。藤原秀衡・泰衡父子に仕えた。伊賀良目氏は岩谷観音の祭祀者として知られる。

・「石那坂」現在、福島市平石の東北本線上り線の石名坂トンネル付近に石那坂古戦場の碑が建てられているが、同定は定かではない。

・「常陸入道念西」「ねんさい」と読む。幕府御家人。通説では伊達氏初代当主伊達朝宗(大治四(一一二九)年~正治元(一一九九)年)に比定されている。諸説はウィキ「常陸入道念西」及び伊達朝宗に詳しい。念西は常陸国伊佐郡を本拠地としていた関東武士で、本戦功によって、この伊達郡に移り、伊達氏を名乗るようになったともされる。

・「伊逹郡澤原」福島県伊達郡の中の旧地域名らしい。「北條九代記」の「澤原(さら)」はルビの脱字か。

・「宗(むねと)」主だった人々。

・「經ケ岡」本地名は現在も厚樫山東麓に残っており、中通り北部の阿武隈川北岸の宮城県境・厚樫山東麓に比定されている(「角川日本地名大辞典」に拠る)。]

芥川龍之介漢詩全集 二

   二

 

簷戸蕭々修竹遮

寒梅斜隔碧窓紗

幽興一夜書帷下

靜讀陶詩落燭花

 

〇やぶちゃん訓読

 簷戸(えんこ) 蕭々 修竹遮(しや)す

 寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗

 幽興 一夜 書帷の下

 陶詩を靜讀すれば 燭花落つ

 

[やぶちゃん注:大正元(一九一二)年十二月三十日附小野八重三郎宛(岩波版旧全集書簡番号八三)に所載する。一九一二年は七月三十日に明治天皇が崩御し、明治四五年から大正元年に改元した。芥川龍之介の「一」の漢詩に始まったこの年は、「二」によって終わった(旧全集の同年の書簡は「一」が巻頭、この「二」が掉尾である)。それは恰もバッハの「ゴルトベルグ変奏曲」のように私には思われる。小野八重三郎(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は府立三中時代の一つ下の後輩で、後、東京帝国大学理科を中退、県立千葉中学校などの教諭を勤めた。龍之介はこの後輩を可愛がり、期待をかけていたという。彼の三中卒業時には自身が河合栄治郎(三中の龍之介の二年先輩で後に経済学者となった)から贈られたドイツ語独習書を贈っている(以上の小野の事蹟は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」に拠った)。以下に消息文を全文を示す。

 

敬啓

諒闇中とて新年の御慶は御遠慮致すべく候

休暇の半を過ぎ候へども如例散漫に消光致居候

歳末歳始御暇の節御出下され度爐に火あり鼎に茶あり以て客を迎ふるに足るべく候

惡詩を以て近狀御知らせ申候へば御一笑下さるべく候

   簷戸蕭々修竹遮  寒梅斜隔碧窓紗

   幽興一夜書帷下  靜讀陶詩落燭花

                     不悉不悉

    十二月三十日

   長 恨 學 兄 案下

・「諒闇」は「りょうあん」「ろうあん」などと読み、「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、天皇がその父母の崩御に当たって喪に服することをいう。

 なお、龍之介には、この前月十一月十一日に、横浜ゲーティ座でイギリス人一座の演じるオスカー・ワイルドの「サロメ」を観賞した際の思い出を綴った『Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に――がある(リンク先は私の電子テキスト)。

 

「簷戸」廂と扉の意であるが、これで戸外を指すのであろう。

「修竹」長く伸びた竹。

「遮す」遮る。

「寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗」とは、花を持った窓外の寒梅のシルエットが、緑色の紗(薄絹)のカーテンに写ったのを、パースペクティヴを反転させて「隔つ」(仕切っている)と表現したものであろう。

「幽興」奥深い情趣。

「書帷」書斎のカーテン。

「陶」陶淵明。

本詩は、邱氏も「芥川龍之介の中国」で述べられている通り、「一」の注に示した趙師秀の「約客」の詩想に極めて近似している(邱氏は転・結句が「約客」と『ほぼ同じ意味を表わし、趙詩を模倣した作と見てよかろう』と述べておられる。]

耳嚢 巻之五 增上寺僧正和歌の事

 增上寺僧正和歌の事

 

 寛政八年の頃、不如法(ふによほふ)の僧侶ありて罪に行(おこなは)れしに、增上寺五拾三世嶺譽智堂僧正の詠(よめ)る歌とて人の見せ侍りし。一宗の貫主(かんじゆ)左もあるべき事と爰に記しぬ。

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。和歌物語。

・「不如法」仏法に反すること。戒律を守らないこと。話柄や和歌から察しても死罪相当の重罪と思われる。

・「嶺譽智堂」(享保十一(一七二六)年~寛政一二(一八〇〇)年)は増上寺五十二世。元文元(一七三六)年増上寺智瑛(第四十八背に典譽智英と名乗る人物がいるが彼か)に師事、安永四(一七七五)年に霊厳寺住持となり天明四(一七八四)年に隠居したが、寛政二(一七九〇)年、幕命により伝通院に住して紫衣を下賜され、同四年、増上寺貫主となった(以上は主に底本の鈴木氏注を参考にした)。

・「貫主」「貫首」とも書き、「かんしゅ」とも読む。本来は「貫籍(かんせき・かんじゃく:律令制の本籍地の戸籍。)の上首」の意で天台座主の異称であったが、後には各宗総本山や諸大寺の住持にも用いられるようになった(増上寺は浄土宗である)。貫長。管主。

・「救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手」読みは、

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法(のり)の衣手(ころもで)

である。「世の塵にけがさぬ法」は、穢土の塵に穢れることのない仏法の意と、俗世の塵(欲)に煽られて、その取り決められた法の定めを犯すようなことはあってはならぬ、の意を込めるか。

――人を救うだけの力がないというのであれば――せめて俗世の法を守って、仏法の道を塵に汚すようなことはせぬが――僧衣を纏う者の、これ、守るべき定め――

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 増上寺僧正の和歌の事

 

 寛政八年の頃、不如法(ふにょほう)の僧侶が御座って罪を問われて罰せられたが、これにつき、増上寺五十三世嶺誉智堂僧正の詠まれた歌とて、人が見せて呉れた。かの増上寺の、一宗の貫主(かんじゅ)たるお方なればこそ、かくもあるべきことじゃ、と私も感じ入って御座った故、ここに記させて戴く。

  救ふべき力なければせめて世の塵にけがさぬ法の衣手

一言芳談 十七

   十七

 

 明禪法印云、ひじりはわろきがよきなり。

 

〇わろきがよきなり、よき名をうればさはり多し。萬は無能なりとも、まことだにあらば往生はすべきなり。

 

[やぶちゃん注:そもそも末法が始まっているならば、この世には教のみが存在して行も信も在り得ない。末法記」に従うなら、そのような行も信もない破戒僧、姿だけが僧であるものだけが世に満ち満ちているはずである。だとすれば、私に言わせればそのような世界で「よき名をう」る僧とは即ち悪僧の最たるものであろう。そんな宗教人面をした有象無象は現代にこそ満ち満ちているではないか(残念なことに末法記」はそのような僧尼でも敬えと言うのだが……。リンク先は私のテクスト、現代語訳もある)。「萬は無能なりとも、まことだにあ」る僧の方がまだましである、と私は今、現代の宗教界を見ても、激しく、そう、思うのである。これを読んだ私の教え子は、『僧に限らず、人というのは「わろき」が当然。しかし同時に、「まこと」を持ち合わせていない人などひとりもいないのではないか、と思います。逆に言えば、「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ない」のだと信じます。』という消息を呉れた。引用の言葉は無論、「こゝろ」先生の言葉。謂い得て妙とは、これをいうのである。]

短日の時計とまりて部屋ひろし 畑耕一

短日の時計とまりて部屋ひろし

2012/11/21

耳嚢 巻之五 古人英氣一徹の事

 古人英氣一徹の事

 

 恐ながら、大猷院(たいいふゐん)樣御幼稚の節、神君の御賢慮を以(もつて)、仁智勇の三味を以御養育申上し事は、諸人の知る所也。右の内土井酒井仁智の役分、靑山伯耆守は勇氣の御見立にて、常(つねに)御面(おもて)を犯し身命を擲(なげうち)て強諫等申上(まうしあげ)し由。右三傑の内、伯耆守は成惡(なしにく)き役分也と我も思ひ人も申ける故、或時當靑山下野守へ一座なれば尋問せしに、伯耆守所業等別段の傳書もなけれど、聊(いささか)書記の申傳(まうしつたへ)なきにもあらず、誠(まこと)聖知安行(せいちあんかう)とも申奉(まうしたてまつ)るべき、大猷公なれど、直諫度々なれば思召(おぼしめし)に障りしや、百人組の頭(かしら)を勤し時御勘氣を蒙りしに、いかなる事にや一僕をも不召連(めしつれず)、御殿よりはだしにて退出なして、屋敷へも不立寄(たちよらず)舊領相州へ蟄居なしける故、貮萬石の領知(りやうち)も被召上(めしあげられ)しが、尚(なほ)御舊懇を被思召(おぼしめされ)隱居料を被下(くだされ)しをも御斷(おんことわり)申上て、終に配所にて卒去ありし由。其後御成長に隨ひ舊年の忠言共(ども)被出思召(おぼしめしいだされ)、倅へ御加恩等被下、右の趣伯耆守が墓所に申せよと難有(ありがたく)も御落涙に被爲及(およばされ)しとて、子息も感涙にむせびしと今に申傳ふる由。百人組の與力は右の筋、頭のはだしにて御番所前を退出故、草履をはかせ兩三人供をして、一同に伯耆守が落着の所迄至りし也。尤(もつとも)頭の事なれば供をなせしもさる事ながら、御番所を明け候段不屆(ふとどき)とて一旦改易有しが、程なく被召歸(めしかへされ)、今に其子孫百人組の與力を勤(つとむ)る者兩三人有(あり)。吉例にて毎年正月年始に右與力參る時、草履一足宛(づつ)紙に包(つつみ)持參なす由、物語りありし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。「卷之一」からしばしば登場する一連の大猷院家光絡みの武辺物語の一。

・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。次に注する本話の主人公、老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で、家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。

・「靑山伯耆守」青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、に岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)四万五千石より二万石の上総大多喜(おおたき:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に減転封されたが、それも固辞して相模国高座郡溝郷に蟄居、同今泉村で死去した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。但し、百人組の頭であったのは遡る慶長八(一六〇三)年のことであり、石高なども合わず、本話は事実とはやや反する。

・「御面を犯し」主君の面目をも顧みず、忌憚なく諫める。

・「成惡(なしにく)き」は底本のルビ。

・「爲及(およばされ)」は底本のルビ。

・「當靑山下野守」ここは本文の記載時でのことを述べており、青山忠俊の七代後裔に当たる青山宗家当主である青山忠裕(明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)を指している。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春時点では、忠裕は西丸(徳川家慶)附の若年寄であった。後、文化元(一八〇四)年、老中。

・「聖知安行」「生知安行」が正しい。生まれながらにして物事の道理に通じ、安んじてこれを実行することを言う(「礼記」中庸篇に由る)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では極めて面白いことに、ここは『聖智闇行』となっている。岩波版長谷川氏注では、『ここに家光の所行を闇行とするに何か筆写者の意をこめるか』とある。激しく同感するところである。

・「百人組」鉄砲百人組。二十五騎組(青山組)・伊賀組・根来組・甲賀組の四組からなり、各組に百人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領。平時は主に江戸城大手三之門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際の山門前警備に当たった。参照したウィキの「百人組」によれば、『徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたという』とある。

・「倅」青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)。青山忠俊長男。父が蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居したが、寛永一一(一六三四)年に家光から許されて再出仕、寛永一五(一六三八)年、書院番頭に任じられて武蔵・相模国内で三千石を与えられ旗本となった。寛永二一(一六四四)年に大番頭に任じられ、正保五(一六四八)年には加増されて信濃小諸藩主となった。寛文二(一六六二)年、大坂城代に任じられ各所に移封、延宝六(一六七八)年に大坂城代を辞職して浜松藩に移封となっている(以上はウィキの「青山宗俊」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人の英気一徹の事

 

 畏れながら、大猷院(だいゆういん)家光様が御幼少の砌り、神君家康公の御賢察を以って、「智・仁・勇」の三種の趣きに依って御養育申し上げたことは、これ、諸人の知るところではある。

 その三種の内、土井利勝殿と酒井忠世(ただよ)殿は、それぞれ「智」と「仁」の、青山伯耆守(ほうきのかみ)忠俊殿は「勇気」の御教授手本の御担当となられ、これ、主君の意に背くことを厭わず、身命(しんみょう)を抛(なげう)って厳しき諫言など、常に申し上げなさった由。

 

 さても、この三人の傑物の内、伯耆守忠俊殿のお受けになられた「勇」――これ、どう考えて見ても、誠に成し難き役回りではある、と、いや、これ、私も思い、また、知れる人々も申すことの多く御座ったれば……ある時、当代青山家御当主であらせらるる青山下野守宗俊殿と、たまたま同席致いた折り、周りの者どもともに、お訊ね致いたところ、宗俊殿の仰せらるるには……

 

「……我が祖たる伯耆守の事蹟に就いては……特にしっかとした伝わっておる書付や家伝も、これ、御座らねど……全く、それに関わるところの文書(もんじょ)の類いが、全く以って御座らぬ訳でも、これ、御座ない。……誠に、生知安行(せいちあんこう)とも申し奉るべき大猷院様ではあらせられたものの……これ、我が祖忠俊の直諫(ちょっかん)の度重なって御座ったれば……思し召しに、これ、障ることもあられたものか、忠俊、百人組頭(かしら)を勤めておった折り、遂に御勘気を蒙って御座った。……

……すると……

……どうしたことか分からねど……一僕をも召し連れずして……勤務しておった御殿より……裸足にて退出致いて……己が屋敷へも寄らず……旧領の相州へと徒歩(かち)だちのまま向かうと、そのまま、蟄居致いて仕舞(しも)うた。……

……そうして、二万石の領地も、これ、召し上げなされたれど……それでも大猷院様、旧懇の誼(よしみ)と、隠居のための家禄を下されなさったれど……それをも、お断り申し上げ……遂に、配所にて卒去致いた……。

……その後(のち)、大猷院様、御成長に随い、過ぎし日の我が祖伯耆守の忠言なんどを思い出され遊ばさるるに、倅たる青山宗俊に、何と、御加恩なんどまでも下賜下され、

「……以上の我らが趣意、伯耆守の墓所に、申せよ。……」

と、有り難くも……大猷院様ご自身……御落涙、遊ばされ……

……子息たる宗俊儀も、これ、感涙に咽(むせ)んで御座ったと……今に、伝わって御座る。……

……さても、百人組の与力は、これ、先の我が祖の出奔の際、頭(かしら)が大手三の門御番所より、裸足のままに退出致いたが故、三人の配下の者が、その後を追うて草履を履かせ、両三人ともども、伯耆守に供をして、一同、伯耆守の落ちた相模の蟄居所まで、同道致いたと申す。……

……これに就きては、

――頭(かしら)の供を致いたは、これ、尤もなることと雖も、御番所を明けたままに致いたは、これ、不届(ふとどき)――

と相い成り……彼らもまた、一旦は改易となって御座った……が……ほどのう、役に召し返され、今に、その子孫、百人組の与力を勤めて御座る者、これ、その数通り、両三人、御座る。……

 吉例と致いて、毎年正月年始には、この彼ら、その三方(さんかた)所縁(ゆかり)の三人は、これ、草履を一足ずつ、紙に包んで持参致すを、例となして御座ると申す。……」

 

 これ、その青山下野守宗俊殿自身、物語りなさったことにて御座る。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鳥合セ原/頼朝屋敷

   烏合セ原

 八幡ノ東門ノ出口北ノ畠也。昔相摸入道鳥ヲ合セ、犬ヲイドミ合セシ所ナル故ニ云トナリ。

[やぶちゃん注:「相摸入道」北条高時。]

 

   賴朝屋敷

 烏合セ原ノ向ヒ、八幡東門ノ東也。東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、安房・上總ヨリ武藏ヲ經、鎌倉へ打入玉フ。同九日、細事立ラルベキトテ奉行ヲ大庭平太景義ニ仰付ラル。御屋作ノ事、知家事兼道ガ山内ノ宅ヲ大倉ノ郷ニウツサレ、是ヲ建立ス。同十二月十二日、大倉ノ御館へワタマシ、賴朝・賴家・實朝・平政子、ソレヨリ賴經・賴嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王迄、此屋敷ニ居ラル。治承四年ヨリ守邦迄、百五十年餘也。其廣サ八町四方有卜云。今見ル處ハ、分内セバキ樣ナレドモ、法華堂ナド、賴朝ノ持佛堂卜云へバ、此邊總テ屋敷構へノ内ナルべシ。

[やぶちゃん注:「東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、……」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)十月六日の条。

〇原文

六日乙酉。著御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

六日乙酉。相摸國に著御す。畠山次郎重忠、先陣たり、千葉介常胤、御後に候ず。凡そ扈從(こしよう)の軍士、幾千万を知らず。楚忽(そこつ)の間、未だ營作の沙汰に及ばず、民屋を以つて御宿舘に定めらると云々。

・「楚忽の間」急に決まったことであるため。

 

「同九日、……」「吾妻鏡」治承四十月九日の条。

〇原文

九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。淸明朝臣押鎭宅之符之故也。

〇やぶちゃんの書き下し文

九日戊子。大庭平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。但し、合期(がふご)の沙汰を致し難きに依りて、暫く知家事〔兼道。〕の山内宅を點じ、之を移し建てらる。此の屋は正暦年中建立の後、未だ回祿の災(わざわひ)に遇はず。晴明朝臣の鎭宅の符を押すの故なり。

・「合期」「期に合ふ」の字音読み。諸作事や貢献・納租などを所定期間内に完了すること。

・「知家事」は「ちけじ」と読み、政所の役職。別当・令・案主(あんじゅ)の下の四等事務官。

・「兼道」不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。

・「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。

「晴明朝臣」安倍清明。

・「鎭宅」鎮宅法。仏教で新築・転居の際に新居の安全を祈るための密教の修法。除災のためにも行う。家堅めの法ともいう。

 

「同十二月十二日、……」「吾妻鏡」治承十二月十二日の条の当該部。

〇原文

十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衞將軍新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛。〕和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長淸候御駕左方。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主〔義時〕。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎大夫胤賴。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寢殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間。〕二行對座。義盛候其中央。著致云々。凡出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘。自爾以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。卜居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十二日庚寅。天晴れ、風靜か。亥尅、前武衞將軍、新造の御亭に御移徙(わたまし)の儀有り。景義、奉行として、去る十月、事始め有り。大倉郷の營作せしむるなり。時尅に、上總權介廣常の宅より新亭に入御す。御水干、御騎馬〔石禾の栗毛〕。和田小太郎義盛、最前に候じ、加々美次郎長淸、御駕(おんが)左方に候じ、毛呂冠者季光、同じく右に在り、北條殿、四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤賴、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下、供奉し、畠山次郎重忠、最末に候ず。寢殿に入御の後、御共の輩は侍所〔十八ケ間。〕に參じ、二行に對座す。義盛、其の中央に候じて著到すと云々。

凡そ出仕の者三百十一人と云々。

又、御家人等、同じく宿舘を搆へる。尓(しか)りしてより以降、東國、皆、其の有道を見て、推して鎌倉の主と爲す。所は素より邊鄙にして、海人野叟の外、卜居(ぼくきよ)の類ひ、之れ少なく、正に此時に當るの間、閭巷(りよかう)、路を直し、村里に號(な)を授け、加之(しかのみならず)、家屋、甍を並べ、門扉、軒を輾(きし)ると云々。(以下略)

・「時尅」定刻。

・「加々美次郎長淸」弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏一族加賀美遠光次男。高倉天皇に滝口武士として仕えた父の所領の内、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。源頼朝挙兵の際、十九歳の長清は兄秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許されたが、主家である平家を裏切って頼朝の元に参じた、と伝えられる。治承・寿永の乱でも戦功を重ね、父と同じ信濃守に任ぜられた。海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称された(以上はウィキ小笠原長清を参照した)。

・「毛呂冠者季光」毛呂季光(もろすえみつ 生没年未詳)。大宰権帥藤原季仲の孫で武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)に住した。頼朝の直参。以下、ウィキ毛呂季光によれば、『子の季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け』、『武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる』とある。

・「北條殿」北条時政。

・「同四郎主」北条義時。

・「山名冠者義範」(生没年未詳)新田義重の庶子。山名氏祖。ウィキ山名義範によれば、上野国八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。父義重は挙兵した頼朝になかなか従おうとしなかったために頼朝から不興を買って幕府成立後は冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された、とある。

・「工藤庄司景光」(生没年未詳)は頼朝に呼応して安田義定らと甲斐で挙兵、富士山北麓の波志太(はしだ)山で平氏方の俣野(またの)景久を敗走させた。八十歳頃の建久四年(一一九三)の富士の巻狩りで大鹿を射損じ、間もなく病没したという。通称は荘司(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「宇佐美三郎助茂」宇佐美祐茂(うさみすけもち 生没年未詳)。工藤祐経の弟。伊豆田方郡(現在の静岡県)宇佐美荘を本領とする宇佐美氏祖。頼朝の挙兵時から従い、奥州攻めや京都入りにも加わった。通称は三郎。名は「助茂」とも書く(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。

・「土屋三郎宗遠」(大治三(一一二八)年?~建保六(一二一八)年?)。土肥実平の弟で相模国土屋(現在の神奈川県平塚市土屋)を本拠地とした土屋氏始祖。頼朝の挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人とも言われる。同年九月の甲斐源氏との連携作戦では北条時政とともに頼朝の使者となって重要な役割を果たしている。以後、有力御家人の一人として活躍したが、承元三(一二〇九)年五月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江島近くで殺害し、侍所別当和田義盛のもとに出頭、身柄を預けられた。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍源実朝は故頼朝の月忌にも当たっていたため、特に彼を赦免している(以上は、ウィキ「土屋宗遠に拠った)。

・「侍所〔十八ケ間。〕」侍所の主部で儀式を行うために設けられた、長大な大きさの部屋の固有名詞のようである。十八間は約三七・八メートルに相当する。・「有道」正道に叶っていること。正しい道に叶った行いをしていること。

 

「八町」約八七三メートル弱。]

芥川龍之介漢詩全集始動 一

本日より、やぶちゃん版「芥川龍之介漢詩全集」を始動する。420000アクセス突破(現在、416373)までには完成させたいと考えている。

 

 本頁ではまず底本通りの白文で示し、次に私の訓読を「〇やぶちゃん訓読」として一時字下げで附した(原文には訓読文はない)。各首には便宜上、邱氏が附したのと同様に、通し番号を附した(但し、岩波版旧全集を底本としている関係上、書簡の配置が異なる箇所では順序が異なる箇所がある。例えば「一」では甲乙の各首の順は逆転する)。訓読に際しては、所持する邱雅芬氏の現代語訳(後述)や一部に総ルビが振られている筑摩書房全集類聚版などを一部参考にさせて戴いている。なお、中国人であられる邱氏の同評論には訓読文はない。また、同氏の記載によれば、先行する初めて芥川の漢詩を採り上げた評論として、村田秀明氏による三十二首を挙げて読解論評した「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)があるとあり、そこには訓読が示されている可能性があるが、私は未見である。
 芥川の漢詩は圧倒的に書簡中に現れるものが多いが、同時期の複数の書簡中には同じ漢詩を詩句の一部を変改して記したものも多い。そうした複数句形のあるものは煩を厭わず、最初に掲げたものを「甲」としてその訓読後に、「乙」「丙」と全体を二字下げの同様の仕儀で配した。但し、「芥川龍之介の中国」には新全集由来の新発見書簡からの二首が認められ、これは底本を「芥川龍之介の中国」として、恣意的に正字に直したものを用いてある。
 現代語訳は基本的に行わない方針である。これは、私は邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」(二〇一〇年
花書院刊)の解説・語釈・現代語訳・評価等(これらの項目は当該書の評釈の各首に附されている)以上のものを示し得る能力を持たないからであり、是非、非常に優れた研究書である当該書をお読み戴きたいからでもある。特にその「評価」での、先行する漢詩や唐詩との比較検討は素晴らしい。但し、所収する書簡などの書誌的データや書簡の一部引用及び作詩時の芥川の年譜的事実、難解と思われる語句と私の乏しい漢詩知識の中にあってもどうしても語りたい部分については、各首に注を附した。

 

 

   一 甲

 

春寒未開早梅枝

 

幽竹蕭々垂小池

 

新歲不來書幄下

 

焚香謝客推敲詩

 

〇やぶちゃん訓読

 

 春寒 未だ開かず 早梅の枝

 

 幽竹 蕭々 小池に垂る

 

 新歲 來らず 書幄(しよあく)の下

 

 香を焚(た)きて 客を謝し 詩を推敲す 

 

    一 乙

 

  春寒未發早梅枝

 

  幽竹蕭々匝小池

 

  新歲不來書幌下

 

  焚香謝客獨敲詩

 

  〇やぶちゃん訓読

 

   春寒 未だ發(ひら)かず 早梅の枝

 

   幽竹 蕭々 小池を匝(めぐ)る

 

   新歲 來らず 書幌(しよくわう)の下

 

   香を焚きて 客を謝し 獨り敲詩す

 

[やぶちゃん注:「一甲」は明治四五(一九一二)年一月一日附山本喜與司宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六五)所載、「一乙」は同日附井川恭宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六六)所載で、これ以外の通信文を附さない。当時、芥川龍之介は満二十歳、第一高等学校二年(前年の九月に進級)である。山本喜與司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)府立第三中学時代からの親友で、文の叔父であり、後に二人の婚姻の仲立ちともなった人物である。東京帝国大学農科を卒業後、三菱合資会社に勤務して北京に滞在、その後はブラジルサンパウロで農場を経営、日系人社会のリーダー的存在として活躍した。井川恭(後に婚姻後に恒藤と改姓 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は一高時代の同級生で、後に京都大学法科に進学、法哲学者として同志社大教授・京大教授(昭和八(一九三三)年の京大事件で自ら退官)・大阪商科大学長を務めた(彼は内臓疾患と思われる病気で中学卒業後三年間の療養生活を送ったため龍之介よりも四歳年長である)。ともに芥川生涯の盟友であり、龍之介を語る上で非常に重要な人物でもある。

 

「書幄」「書幌」ともに粗末な書斎の意。「幄(アク)」「幌(コウ)」ともに帳(とばり)で、幄舎・幄屋と言えば四隅に柱を立て、棟や檐を渡して布帛(ふはく)で覆った仮小屋のことをいう。

 

本詩について、邱氏は『中国宋代趙師秀(一一七〇~一二一九)の「約客」を思わせる詩境である。現時点で、趙師秀と芥川との関連性はまだ見つからないが』と記され、その「約客」を白文で引用されている。趙師秀は、字は紫芝、号は霊秀又は天楽と称し、永嘉(浙江省温州)の人、宋の王族で太祖趙匡胤(ちょうきょういん)の八世孫。紹熙元年(一一九〇)の進士で江南地方の各地の小官を歴任、晩年は銭塘(浙江省杭州)に住んだ。永嘉の四霊(えいかのしれい:徐照(霊暉)・徐璣(霊淵)・翁巻(霊舒)・趙師秀(霊秀)の四人。南宋の後半期の四大詩人で、いずれも出身地又は居住地が永嘉(浙江省温州)であったことと、南朝宋の時代に太守として同地に赴任した謝霊運に字や号であやかったことに由る)の中で最も評価が高い。詩集に「清苑斎集」。ここに正字化した当該詩を示し、私の訓読を示しておく(なお、邱氏は結句を「閑敲碁子落花燈」となさっているが、韻としてもおかしく、本邦及び中文の複数のサイトの「約客」を見てみたところ、「花燈」は「燈花」である)。

    約客


   黃梅時節家家雨

   靑草池塘處處蛙

 

   有約不來過夜半

 

   閑敲碁子落燈花

 

 

  〇やぶちゃん訓読

 

     客と約す

 

    黃梅の時節 家家の雨

 

    靑草 池塘 處處の蛙

 

    約有れども來らず 夜半を過ぐ

 

    閑(かん)に碁子(ごし)を敲(たた)けば 燈花落つ



「燈花」燃え残った蠟燭の灯芯に生ずる花形の蠟の塊り。]

一言芳談 十六

   十六

 

 又云、いたづらにねぶりゐたるは、させる德はなけれども、失(しつ)がなきなり。

 

[やぶちゃん注:「又云」という形はここで初めて出るが、勿論、これは前の明禅の言の続きであることを示す。湛澄の「評注増補一言芳談抄」では分類別に組み替えてあるため、「明禪法印云」と書き改められている。私はしかし、少なくともこの部分は「十五」の内容と連続した謂いとして読むべきであると思う。やはり、現世の使用に利するような図書館学的分野別分類は為されるべきではなかったというのが、ここでの私の感想である。

 俗臭紛々たる世界に生きた「名僧」「権力僧」明禅は、自らを含めて、現世での僧侶としての名声を持つ者を偽物として全否定し、唯一の往生の修行の、これといった極楽往生への働き(「德」)とはならぬが、少なくとも妨げにならぬ(「失がなき」)のは「眠り」のみ、と言い放つ。……しかし、どうであろう、本当に眠りに失はないであろうか?……

 私は曾て、この条を読んだ時、即座に、

 

       或夜の感想

 眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。 (昭和改元の第二日)

 

という、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の掉尾を思い出していた。芥川曰く、だただ眠ることは、死に比べれば愉快であり、容易である点に於いて、死の妨げとなる(「一言芳談」調に則るなら往生の最後の妨げになる)と芥川は言っているのである。そもそも、明禅などより遙かに禁欲的な世界に生きた明惠でさえ、夢に多彩な自己理想を観想したではないか! フロイトやユングを持ち出すまでもない、古来より夢は向後に起こる起きつつある現象やあるべき世界を表象するものとして、現にあったのである。とすれば夢は――「失がなきなり」どころではない。死に就く前に概ね昏睡があるとすれば、そこにある夢は、必ずしも楽観的な解釈としての浄土欣求の夢ではなく、現世の快楽への強い回帰願望、生への執着そのものである可能性が高いことになろう(無意識下の願望は精神分析なんぞが登場する以前、イエスの時代から既に認識されていたではないか)。さすれば、私は死を既に決していた芥川龍之介のこの言葉の方が、先の明禅の言葉よりも遙かに「一言芳談」的なるものとして聴こえて来るのである。――しかし――しかし、それでも芥川はこう書くことによって――「すて物」たるものであるはずの(と彼は認識していたと断言出来る)作家芥川龍之介の名声が――死後、永き光栄として残ることもまた――間違いなく認識していた。……いや……だからこそ明禅よりも煩悩即菩提という語を好んだ芥川龍之介の方が、遙かに私には親しく感じられるのである……]

海苔茶漬のんどをやいて爽かに 畑耕一

海苔茶漬のんどを※(や)いて爽かに

[やぶちゃん注:「※」=「火」+「欣」。「※」は「焼く」「炙る」の意であるが、医学用語で「※腫・※衝」という語があって、これは「キンショウ」と読み、皮膚や筋肉の一部が腫れて熱を持ち、ずきずき痛むことを言う。熱い湯漬けが酒や油っこい食い物の後にカッと一皮むくように喉を「爽(さわや)かに」落ちてゆく瞬間を切り取って面白い。]

何故に僕の「腕にオオグソクムシが共生する夢」がトップ・アクセスを維持しているか

何故に数週に亙って僕のつまらぬ「腕にオオグソクムシが共生する夢」という夢記述が先月来、トップ・アクセスを維持し続けているが昨日分かった。この出来事のせいだ――

「4年絶食中の深海生物…飼育日記にアクセス集中」

(2012年11月20日14時31分  読売新聞)

オオグソクムシ・ナンバー・ワン君――君こそ「一言芳談」の世界観を体現している――

2012/11/20

蛇苺摘まむ少年破爪知れり 唯至

蛇苺摘まむ少年破爪知れり 唯至

Hebiitigo

耳嚢 巻之五 痳病妙藥の事

 痳病妙藥の事

 かる石を滿願寺抔上酒(じやうしゆ)にひたし、燒(やき)候て又酒にひたし、再遍(さいへん)いたし候得(さふらえ)ば粉に成(なり)碎(くだけ)候を、細末にして呑むに甚(はなはだ)奇妙成(なる)よし。ためしたる人の物語り也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:杉山流針治始祖譚から民間医薬で医事連関。それにしても、本文中にはその肝心の有効病名が記されていない。フロイト的に考えると、いろいろ憶測されて面白いな。

・「痳病」淋病。真正細菌プロテオバクテリア門βプロテオバクテリア綱ナイセリア目ナイセリア科ナイセリア属 Neisseria 淋菌 Neisseria gonorrhoeae に感染することで発症する性感染症。ウィキ淋病」によれば『淋は「淋しい」という意味ではなく、雨の林の中で木々の葉からポタポタと雨がしたたり落ちるイメージを表現したものである。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症のために、尿道内腔が狭くなり痛みと同時に尿の勢いが低下する。その時の排尿がポタポタとしか出ないので、この表現が病名として使用されたものと思われる』。学名の種小名は古くからのこの病気の呼称で『古代の人は淋菌性尿道炎の尿道から流れ出る膿を見て、陰茎の勃起なくして精液が漏れ出す病気(精液漏)として淋病をとらえ、gono=「精液」 、rhei=「流れる 」の意味の合成語gonorrhoeaeと命名した』とある。また、『新生児は出産時に母体から感染する。両眼が侵されることが多く、早く治療しないと失明するおそれがある』とある。高校の保健体育の老教師は、昔の風呂屋は浴槽の温度が低かったから、感染者から漏れ出た淋菌が相対温度の低い角の部分に生きて集まっており、そこに入った小児の眼に淋菌が感染、重い淋菌性結膜炎を起こして失明する、それを風眼(ふうがん)というんだ、と風呂屋の図入りで滔々と教授されていたのを思い出す。少し眉唾っぽいところもあるが、江戸時代の劣悪な湯屋(ゆうや)なら、そういうこともあったかも知れないな。

・「滿願寺」摂州の北に位置し、酒造業で栄えて交易地としても知られた池田(現在の大阪府池田市)にあった満願寺屋酒造。大阪府立中之島図書館の小展示資料集の「近世大坂の酒」には、元禄一〇(一六九七)年には酒造家数三十八『戸を数え、田舎酒群から近世的酒造業に脱して銘醸地となった。その原因は、幕藩体制の初期より「酒造御朱印」(酒造免許権)が池田に下付されたことのほか、技術的には良質な猪名川の伏流水という優れた醸造用水と、山間部の良質な酒米を容易に得られたこと、それに猪名川の舟運が利用でき、江戸積みに有利であったことによる』。『池田酒の始祖といわれる満願寺屋九郎右衛門の政治的手腕により、徳川家にくいこみ江戸幕府の保護をかちとり、徳川の天下統一とともに急速に発展をとげ、一時期は伊丹』(今の兵庫県伊丹市。その伊丹酒(いたみざけ)は将軍の御膳酒御用達であった)『と並んで江戸を完全におさえてしまうまでにな』ったが、安永五(一七七六)年『に満願寺屋の手中にあった「御朱印」が取り上げられ、満願寺屋の没落とともに池田の酒造業も急速に衰え、「灘の酒」にその地位を譲ることになる』とある。この御朱印取り上げというのは気になるな。

・「上酒」品質の良い高級酒。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 淋病の妙薬の事

 

 軽石を満願寺なんどの良き酒に漬(ひた)しおいた後に焼き、また漬しては焼く、ということを何度も繰り返せば、これ、遂には粉になって砕けて御座る。これを更に磨って粉末と致し、服用致さば、これ……「あの病」に……絶妙の効め、これ、あり!……とは……いやいや! これを試して御座った御仁の話、にて御座るよ。

一言芳談 十五

   十五

 

 明禪法印云。後世をたすからんとおもはんものは、かまへて人めにたつべからざるものなり。人をば人が損ずるなり。聖法師(ひじりほふし)の今生に德をひらく事は、大略(たいりやく)、後世のためにはすて物なり。

〇人をば人が損ずるなり、ねたみてそしり、うやまひてほむる、ともにわが心のさはりなり。みだりに人の恭敬(くぎやう)をうけ、信施(しんせ)などうくれば、つみおほき事なり。
〇聖法師、世すて人なり。

 

[やぶちゃん注:岩波版「評注一言芳談抄」及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像もでも「一言芳談抄」では後半の『聖法師(ひじりほふし)の今生に德をひらく事は、大略後世のためにはすて物なり。』の部分はなく、岩波版「評注一言芳談抄」では分解されて「用心」の項に配されている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』に従う。

「人めにたつ」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には「評注増補一言芳談抄」に(新字を正字に代えた)、『人のうやまひをうけて、自然に名聞になるなり。仏も、異をあらはして、衆をまどはすいましめ給へり。古德も、狂をあげ、實をかくせと教へられたり』とあると注する。これは岩波版では森下氏によって選択排除された註である。これは私は以下の、「人をば人が損ずるなり」なんぞの註を省略しても残すべきものであったと思うが、如何?

「すて物」心を留めることもなく、打ち捨てて顧みる必要のないつまらぬ対象。]

あたらしき鳥籠を買ふ

   あたらしき鳥籠を買ふ
戛止と飛ぶ文鳥夫婦夜半の秋

[やぶちゃん注:「戛止と」は「かつし(かっし)と」と読ませているものと思われる。本来的には固い物がぶつかって立てる激しい音を表現するが、ここでは文鳥が新しい鳥籠の中で時に激しく羽ばたいて鳥籠の内側に当たる音を表現する。しかし、大きな音だからといって金属製ではなく、竹か木製のものをイメージした方が(事実はどうであったかは私には問題ではない)、中七下五の雰囲気が纏まる。その方が恰も江戸の情緒を添えて遙かによいと思うのである。]

2012/11/19

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(5)



Arumajyo

[アルマヂヨ]

[やぶちゃん注:図の右角の余白は底本のもの。]

 獸類の中でも、「せんざんかふ」や「アルマヂヨ」〔アルマジロ〕は甲冑を以て敵の攻撃を防ぐ。「せんざんかふ」の鱗は恰も魚類の鱗の如くに竝んで居るが、「アルマヂヨ」の方はまるで龜の如くで、胴は堅固な甲で被はれて居る。いづれも普通の獸類とは見た所が大に違ふから、獸類と見做されぬことが多い。「せんざんかふ」が古い書物では魚類の中に入れてあることは前にも述べたが、「アルマヂヨ」の方は、先年東京で南米産物展覧會のあつた節、地を掘る蟲害といふ札を附けられ、蟲類の取扱ひを受けて居た。この獸が敵に遇ふと頭も尾も四足も縮めて全身を全身を球形にし、ただ堅い甲冑のみを外に現すから、犬でも「へう」〔ヒョウ〕でもこれを如何ともすることが出來ぬ。アルヘンチナ〔アルゼンチン〕國では、この獸の甲に絹の裏を附け、尾を曲げて柄として婦人用の手提かばんに用ゐる。

[やぶちゃん注:「せんざんかふ」センザンコウ(穿山甲)は哺乳綱ローラシア獣上目センザンコウ目センザンコウ科 Manidae に属する一目一科の哺乳類の総称。ウィキセンザンコウ」によれば(アラビア数字を漢数字に代え、記号との一部を変更した)、『食性や形態がアリクイに似るため、古くはアリクイ目(異節目、当時は貧歯目)に分類されていたが、体の構造が異なるため別の目として独立させられた。意外にもネコ目(食肉目)に最も近い動物群であることは、従来の化石研究でも知られていたが、近年の遺伝子研究に基づく新しい系統モデルでも、四つの大グループ(クレード)のうち、「ローラシア獣類」の一つとして、ネコ目、ウマ目(奇蹄目)などの近縁グループとされている』とある。『センザンコウ目は有鱗目(ゆうりんもく)ともいい、現生はセンザンコウ科一科のみ。インドから東南アジアにかけて四種(下のリストの前半)、アフリカに四種(下のリストの後半)が現存し、これら八種が、一属または二属に分類される。

インドセンザンコウ Manis crassicaudata

ミミセンザンコウ Manis pentadactyla

マレーセンザンコウ Manis javanica

Manis culionensis

オオセンザンコウ Manis gigantea

サバンナセンザンコウ Manis temminckii

キノボリセンザンコウ Manis tricuspis

オナガセンザンコウ Manis tetradactyla

サイズは、小さいものではオナガセンザンコウが体長三〇~三五センチメートル、尾長五五~六五センチメートル、体重一・二~二・〇キログラムほどしかないのに対して、最も大きいオオセンザンコウでは、体長七八~八五センチメートル、尾長六五~八〇センチメートル、体重二五~三キログラムほどもある』。形態は『体毛が変化した松毬(マツボックリ)状の角質の鱗に覆われており、全体的な姿は、南米のアルマジロ類に似ているが、アルマジロの鱗が装甲としての機能しか持っていないのに対し、センザンコウの鱗は縁が刃物のように鋭く、尻尾を振り回して攻撃もできる』。『発達した前足の爪でアリやシロアリの巣を壊し、長い舌と歯のない口で捕食する。台湾には、ミミセンザンコウ M. pentadactyla が、死んだふりをしてアリを集めるという俗説がある』とする。『中国では、古くはセンザンコウのことを「鯪鯉」などと書き表し、魚の一種だと考えられていた。李時珍の「本草綱目」にも記載があり、鱗は漢方薬、媚薬の材料として珍重され、二〇〇〇年代に入ってもなお中国などへ向けた密輸品が摘発されている』。『インドでは鱗がリウマチに効くお守りとして用いられている。また、中国やアフリカではセンザンコウの肉を食用としたほか、鱗を魔よけとして用いることもある』。『いずれの地域でも、密猟によって絶滅の危機に瀕している種が多く、特にサバンナセンザンコウなどは深刻な状況にある』とある。博物誌的記載は私の電子テクスト寺島良安の和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類」に載る「鯪鯉」の本文や私の注を参照されたい。

「アルマヂヨ」哺乳綱獣亜綱異節上目被甲目アルマジロ科 Dasypodidae に属する動物の総称。北アメリカ南部からアルゼンチンにかけて約二十種が分布している。ウィキの「アルマジロによれば(引用部はアラビア数字を漢数字に代え、記号との一部を変更した)、最大種はオオアルマジロ Priodontes giganteus で体長七五~一〇〇センチメートル、尾長五〇センチメートル、体重三〇キログラム。最小種はヒメアルマジロ Chlamyphorus truncates で体長一〇センチメートル、尾長三センチメートル、体重一〇〇グラム。形態は『全身ないし背面は体毛が変化した鱗状の堅い板(鱗甲板)で覆われている。アルマジロ (Armadillo)という英名はスペイン語で「武装したもの」を意味する armado に由来する。敵に出会うと、丸まってボール状になり身を守ると思われているが、実際にボール状になることができるのはミツオビアルマジロ属 Tolypeutes の二種だけである』。『もともとは南アメリカ大陸の生物であると思われるが、最近では北アメリカ大陸でも見かけるようになりアメリカ合衆国南部では一般的に見かけられるようになってきている。また、ペットとして飼育される事例も多く、意外と人になつく生き物でもある。睡眠時間が長く一日十八時間も寝て過ごす。野生では巣穴を掘って穴の中で生活しているが、飼育下では無防備にあお向けになって寝る』。『南米では、アルマジロの肉を食用としているほか、甲羅はチャランゴなどの楽器の材料に使われている。アンデス地方の先住民族であるケチュア族の言葉ではケナガアルマジロを「キルキンチョ(quirquincho / kirkincho)」もしくは「キルキンチュ(quirquinchu / kirkinchu)」と呼び、ボリビアやペルーではこの名前で呼ばれることが多い。フォルクローレの里として有名なボリビアのオルロでは、自分たちのことを「キルキンチョ」と自称するほど親しまれた動物である』。『オルロやラパスなどのアンデス地方の都市でカルナバル(カーニバル)の際によく踊られる「モレナダ」と呼ばれる踊りでは、手にアルマジロの胴体で作ったリズム楽器を持つことがあり、この楽器は「マトラカ(matraca)」と呼ばれる。中に鉄板をはめ込んだアルマジロの胴体に棒をつけ、棒を持って振り回すと鉄板がガリガリと音を出すようになっている。近年のカルナバルでは、本物のアルマジロを使う代わりに、同様のものを木などで作ることの方が多い。踊り手たちが所属するグループを示すものの形をしたマトラカ(運送業者のグループならばトラック型のマトラカなど)を持って踊ることもある』。そして最後に、『アルマジロは人間以外の自然動物で唯一ハンセン病に感染、発症する動物であるため、ハンセン病の研究に用いられてきた』という意外な事実が記されてある。

「アルヘンチナ國」アルゼンチン共和国。正式名称はRepública Argentina(スペイン語: レプブリカ・アルヘンティーナ)。通称はArgentina(アルヘンティーナ)。ウィキの「アルゼンチン」によれば、一八一六年の独立当時にはリオ・デ・ラ・プラタ連合州(あるいは南アメリカ連合州)と呼ばれていた(リオ・デ・ラ・プラタ(Río de la Plata)=ラ・プラタ川は、スペイン語で「銀の川」を意味し、一五一六年にフアン・ディアス・デ・ソリスの率いるスペイン人の一行がこの地を踏んだ際に銀の飾りを身につけたインディヘナ(チャルーア人)に出会い、上流に「銀の山脈」(Sierra del Plata)があると信じたことから名づけたとされる)。『アルゼンチン Argentina の名は、この「銀の川」にちなみ、ラテン語で「銀」を意味する Argentum に拠って、地名表現のために女性縮小辞を添えたものである。スペイン語の「ラ・プラタ」からラテン語由来の名へと置き換えたのは、スペインによる圧政を忘れるためであり、フランスのスペインへの侵掠を契機として、フランス風の呼称であるアルジャンティーヌ(Argentine)に倣ったものでもあるという』。『近年では、原語にしたがってアルヘンティーナと表記されることも少なくない』とあって、丘先生の謂いが決して古くない正当な音写であることが窺われる。]

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート2〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉

泰衡この由聞きて、阿津樫山に城郭を構へ國見宿の中間に逢隅川(あふくまがは)の流(ながれ)へ堰入(せきい)れつ。泰衡が異母の兄西木戸(にしきどの)太郎國衡を大將とし、金剛別當秀綱以下二萬餘騎にて堅めたり。刈田郡(かりたのこほり)は城郭高く築きて壘(そこ)深く構へ、名取、廣瀨の兩河に柵(しがらみ)を構(か)き、大綱を流し、泰衡は國分原鞭楯(こくぶがはらむちたて)に陣取り、 栗原一野邊(くりはらいちのべ)の城には若九郎太夫餘平六を大將として一萬餘騎にて堅めたり。田河太郎行文(おきぶん)、秋田三郎致文(むねぶん)には出羽國をぞ防がせける。

[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅰ〉

「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月七日の条。

〇原文

七日甲午。二品着御于陸奥國伊逹郡阿津賀志山邊國見驛。而及半更雷鳴。御旅館有霹靂。上下成恐怖之思云々。泰衡日來聞二品發向給事。於阿津賀志山。築城壁固要害。國見宿與彼山之中間。俄搆口五丈堀。堰入逢隈河流柵。以異母兄西木戸太郎國衡爲大將軍。差副金剛別當秀綱。其子下須房太郎秀方已下二万騎軍兵。凡山内三十里之間。健士充滿。加之於苅田郡。又搆城郭。名取廣瀬兩河引大繩柵。泰衡者陣于國分原。鞭楯。亦栗原。三迫。黑岩口。一野邊。以若九郎大夫。余平六已下郎從爲大將軍。差置數千勇士。又遣田河太郎行文。秋田三郎致文。警固出羽國云々。入夜。明曉可攻撃泰衡先陣之由。二品内々被仰合于老軍等。仍重忠召所相具之疋夫八十人。以用意鋤鍬。令運土石。塞件堀。敢不可有人馬之煩。思慮已通神歟。小山七郎朝光退御寢所邊。〔依爲近習祗候。〕相具兄朝政之郎從等。到于阿津賀志山。依懸意於先登也。

〇やぶちゃんの書き下し文

七日甲午。二品、陸奥國伊逹郡(だてのこほり)阿津賀志(あつかし)の山の邊、國見驛に着御す。而るに半更に及びて雷鳴し、御旅館に霹靂有り。上下恐怖の思ひを成すと云々。

泰衡、日來、二品發向し給ふ事を聞き、阿津賀志山に於いて、城壁を築き、要害を固む。國見宿と彼の山の中間に、俄かに口(くち)五丈の堀を搆へ、逢隈河の流れを堰き入れて柵(さく)とす。異母兄の西木戸太郎國衡を以つて大將軍と爲し、金剛別當秀綱、其の子、下須房太郎秀方已下、二万騎の軍兵を差し副ふ。凡そ山内三十里の間、健士、充滿す。之に加へ苅田郡(かつたのこほり)に於いて、又、城郭を搆へ、名取・廣瀨の兩河に大繩を引きて柵とす。泰衡は、國分原鞭楯(むちたて)に陣す。亦、栗原・三迫(さんのはざま)・黑岩口・一野邊に、若九郎大夫、余平六已下の郎從を以て大將軍と爲し、數千の勇士を差し置く。又、田河太郎行文(ゆきぶん)・秋田三郎致文(むねぶん)を遣はし、出羽國を警固すと云々。

夜に入りて、明曉、泰衡の先陣を攻撃すべきの由、二品、内々老軍等に仰せ合はせらる。仍りて重忠が相ひ具す所の疋夫(ひつぷ)八十人を召し、用意の鋤鍬(すきくは)を以つて、土石を運ばしめ、件の堀を塞ぐ。敢て人馬の煩ひ有るべからず。思慮、已に神に通ずるか。小山七郎朝光、御寢所邊を退き〔近習たるに依りて祗候(しこう)す。〕、兄朝政の郎從等を相ひ具し、阿津賀志山に到る。意、先登に懸るに依りてなり。

・「阿津賀志の山」現在の厚樫山(あつかしやま)。福島県国見町にある標高二八九・四メートル。福島県と宮城県の県境近くに位置する。この時の遺跡である二重堀(阿津賀志山防塁)が山中から山麓にかけて現存する(次注参照)。

・「口五丈の堀」幅約十五メ-トルの堀。阿武隈川までこの幅で深さ約三メ-トルの堀を、実に総延長三・二キロメートルに及ぶもの(しかも二重(ふたえ)掘り)であった(以上のデータは有限会社ABCいわきの運営になる「福島情報館」の福島阿津賀志山防塁下二重堀地区)」に基づく)。

・「山内三十里」これは六町を一里とする坂東道単位。「坂東道」とは坂東路、田舎道を意味する語で、通常の一里とは異なる特殊な路程単位である。即ち、安土桃山時代の太閤検地から現在まで、通常の一里は知られるように三・九二七キロメートルであるが、坂東里(田舎道の里程。奈良時代に中国から伝来した唐尺に基づく。)では、一里が六町、六五四メートルでしかなかった。従ってここは約十九キロメートル四方の謂いとなるが、厚樫山自体が低山であり、山域は大きく見積もっても数キロ四方で、これはいっかな坂東路でも如何にもな誇張表現ではある。

・「刈田郡」宮城県南部西端に位置する。現在含まれる蔵王町(ざおうまち)・七ヶ宿町(しちかしゅくまち)の他、現在の白石市も含む旧地名。奥州藤原氏一族と称した白石氏(刈田氏)の本拠地であった。

・「名取川」宮城県仙台市及び名取市を流れ、歌枕として知られる。

・「広瀬川」宮城県仙台市を流れる。仙台市のシンボルとして親しまれ、さとう宗幸の「青葉城恋唄」で全国的に知名度が高いが、先の名取川の支流である。

・「國分原鞭楯」現在の仙台市榴岡(つつじがおか)とも同市青葉区国分町とも言われるが、確かな同定地や遺構は発見されていない。

・「栗原」現在の宮城県北西部に位置する栗原市築館(つきだて)。

・「三迫」現在の栗原市金成(かんなり)に小迫(おばさま)の地名が残る。また、同市には北上川水系迫川(はさまがわ)の支流で三迫川(さんはさまがわ)が流れる。

・「黒岩口」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には現在の『栗原市栗駒か宮城県白石市鷹巣黒岩下』とある。

・「一野邊」同じく「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注は現在の『宮城県白石市越河市野か』とする。

・「田河太郎行文」(?~文治五(一一八九)年)。田川行文(たがわゆきぶみ)とも。出羽国田川郡(現在の鶴岡市田川)を本拠地として田川郡郡司を自称した豪族。奥州藤原氏郎党。

・「秋田三郎致文」(?~文治五(一一八九)年)。「むねぶみ」「ただぶみ」とも読む。出羽国秋田郡(現在の秋田市)を本拠地とした奥州藤原氏郎党。

・「小山七郎朝光」結城朝光(仁安三(一一六八)年~建長六(一二五四)年)。結城家始祖。ウィキ結城朝光」によれば、寿永二(一一八三)年二月二十三日、『鎌倉への侵攻を図った志田義広と足利忠綱の連合軍を、八田知家と父の政光、兄の朝政、宗政ら共に野木宮合戦で破り、この論功行賞により結城郡』(現在の茨城県結城市)『の地頭職に任命される。義広との戦いに先んじて、頼朝が鶴岡八幡宮で戦勝を祈願すると、朝光は義広が敗北するという「神託」を告げ、頼朝から称賛された』。その後も元暦元(一一八四)年の木曾義仲追討の源範頼・義経軍に参加、宇治川・壇ノ浦の参戦した。鎌倉に帰還後の同年五月には『戦勝報告のため東下した義経を酒匂宿に訪ね、頼朝の使者として「鎌倉入り不可」の口上を伝え』る役を務めている。次の場面に現われるように、奥州合戦ではこの『阿津賀志山の戦いで、敵将・金剛別当を討ち取るなど活躍。その功により奥州白河三郡を与えられ』た。翌建久元(一一九〇)年に奥州で起きた大河兼任の乱の鎮定にも参加、以後、『梶原景時と並ぶ頼朝の側近と目されるようになった』。『頼朝が東大寺再建の供養に参列した際、衆徒の間で乱闘が起こったが、この時、朝光は見事な調停を行い、衆徒達から「容貌美好、口弁分明」と称賛された』という。頼朝没後の正治元(一一九九)年十月の「梶原景時讒訴事件」では三浦義村ら有力御家人六十六名を結集して「景時糾弾訴状」を連名で作成、二代将軍源頼家に提出、梶原景時失脚とその敗死に大きな役割を果たしている。その後も評定衆の一員となるなど、幕政に重きを成した。『若き日から念仏に傾倒していた朝光は、法然、次いで時領常陸国下妻に滞在していた親鸞に深く帰依し、その晩年は念願の出家を果たし、結城上野入道日阿と号し、結城称名寺を建立。信仰に生きる日々を送』った、とある。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 日金山/岩不動

   日 金 山
 日金山松源寺ハ、鐵觀音ノ西ニアル小寺ナリ。本尊地藏、豆州ノ日金ヲ勸請スルトナリ。

   岩 不 動
 松源寺ノ西ノ山根ニアリ。弘法ノ作トテ岩窟ノ内ニ石像アリ。岩不動見畢テ、日既ニ虞淵ニ迫ル。因テ春高庵ニ歸憩フ。
 五日卯單二英勝寺ノ佛堂ニ詣リ、及ビ方丈へ行テ、端午ノ節ヲ賀ス。辰ノ半ニ庵ヲ出、再ビ鶴岡ニ至リ、辨財天ヲ見ル。運慶作ニテ妙音辨才天ノ木像也。膝ニ横へタル琵琶ハ、小松大臣ノ持タル琵琶ナリ上云。池中ニ七島アリ。神職ガ曰ク。賴朝平家追討ノ時、二位ノ尼ノ願ニテ、大庭平太景義ヲ奉行トシテ、社前ノ東西ニ池ヲ掘シム。池中ニ東ニ四島、西ニ四嶋、合テ八嶋ヲキヅヒテ、西國ノ八島ニ准ジ、束ノ一嶋ヲ破テ、八島ヲ東方ヨリ亡スト祝ス。東ニ三島ヲ殘ス。三ハ産也。西ニ四嶋ヲ置ク。四ハ死也卜云心也ケルトゾ。ソレヨリ八幡ノ東門ヲ出ル。
[やぶちゃん注:「虞淵」「グエン」と読む。元来は、太陽が入るとさあれた伝説上の場所を指し、そこから夕方、黄昏の意となった。]

耳嚢 巻之五 杉山檢校精心の事

 杉山檢校精心の事

 

 杉山檢校凡下(ぼんげ)の時、音曲(おんぎよく)の稽古しても無器用にして事行(ことゆく)べしとも思われず、其外何にても是を以(もつて)盲人の生業(なりわひ)を送らん事なければ、深く歎きて三七日(さんしちにち)斷食して、生涯の業を授け給へと丹誠を抽(ぬき)んで、江の嶋の辨天の寶前に籠りしが、何の印(しるし)もなければ、所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來(うちきた)る波に遙(はるか)の汀(みぎは)に打上られし故、扨は命生(いき)ん事と悟りて、辨天へ歸り申ける道にて、足に障(さは)る物あり。取上見れば打鍼(うちはり)也。然らば此鍼治(しんぢ)の業をなして名をなさんと心底を盡しけるが、自然と其妙を得て今杉山流の鍼治と一派の祖と成しとかや。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:水神龍女が福を授けた話から、同眷属とされる弁財天(元はインドの河川神で、本邦では中世以降に蛇神宇賀神と習合、弁才天の化身は蛇や龍とされる)が同じく福を授ける同類譚で直連関。

・「精心」底本では右に『(精進)』と注するが、このままでもおかしくない。

・「杉山檢校」杉山和一(すぎやまわいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)は伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の検校。鍼の施術法の一つである杉山流管鍼(かんしん)法の創始者で、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物。以下、参照したウィキの「杉山和一より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『津藩家臣、杉山重政の長男として誕生。幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し家を義弟である杉山重之に譲り江戸で検校、山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。(この話は江の島においては江の島で起こった出来事と伝えられ、躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。)その後、山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し大盛況となった。六十一歳で検校となり、七十二歳で綱吉の鍼治振興令を受けて鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。将軍綱吉の本所一つ目の話は有名である。和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織のひとつ)の再編にも力を入れた。それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄二年に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、綱吉から賜った本所一つ目の屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、これ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった』。この「本所一つ目」の逸話については、杉山検校遺徳顕彰会ホームページ杉山和一総検校ついてのページに『老いてもなお江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため、綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を分社して祀らせた。これには次のような逸話がある』として記されてある。それによれば、元禄六(一六九三)年、将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ、杉山和一が「目が欲しい」と答えたところ、綱吉は本所一ツ目(現在の両国駅近くの墨田区千歳一丁目)に宅地を与え、その際、『「望みによって一ツ目を与える。本所一ツ目一八九〇坪、外川岸付き七九二坪を町屋(町屋を作らせ地代は私費に充てる、但し処分は官の許可要する)として与え、弁財天をこれに勧請し、老体のことゆえ江ノ島の月参りはほどほどにするがよかろう。弁天社は古跡並み(徳川氏入国以前の社寺を古跡とし種々の特典がある)にし、江ノ島への願いは朱印状(将軍の朱印を押した書付、絶対の権威がある)をあたえる」』と述べたという(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった』。現在の江島杉山神社がある場所一帯で『ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかつての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を模した洞穴があり、弁財天が祀られている。またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い』とある。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、和一の死後、四十三年後である。

 なお、江ノ島の福石や杉山検校墓などについては、私の新編鎌倉六」の「江島」の項や私の注を参照されたい(写真附)。

・「凡下」江戸期における盲人の階級呼称の一つ。検校・別当・勾当・座頭の四つの位階(更にそれが七十三段階に分かれていたとされる)の最下層の座頭(ざとう)の一階級(もしくは同位階内の集団の通称)かと思われる。

・「三七日」岩波版長谷川氏注に『行(ぎょう)の一くぎりの期間七日を三度重ね。』とある。

・「生涯の業」の「生涯」は底本では「生害」で、右に「生涯」を傍注する。改めた。

・「室前」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『宝前』。こちらで採る。

・「所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來る波に遙の汀に打上られし故、扨は命生ん事と悟りて、」このエピソードは初見。話としては膨らんで面白くはある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 杉山検校の精心の祈誓の事

 

 杉山検校が未だ凡下(ぼんげ)の座頭であられた折りのこと、音曲(おんぎょく)の稽古を致いても、これ、全くの不器用にて御座ったがため、上達する見込みがあるようにも到底思われず、その外の目の不自由なる者の生業(なりわい)と致す業(わざ)にても、これ、何を以ってしてもものにならざることと深く嘆かれ、三七(さんしち)二十一日の間、断食をなして、「――何卒、一生の業(わざ)を授け給え――」と丹精を込めて、江ノ島の弁天の宝前に籠もられては、覚悟の祈誓をなさって御座った。

 が、行が明けても、何の験しも、これ、御座らなんだによって、

「……かくなっては……最早、死ぬしか……御座るまい……」

と、江ノ島の海中へと、その身を投じられた。

――が――

――気が付けば――打ち寄せる波に、遙かな浜へと打ち上げられて御座った故、

「……さても――未だ生きよ――とのことならん……」

と悟って、弁天の社(やしろ)へと今一度戻り、命を救うて下された御礼を申し上げんとした、その途次、

――チクリ――

と、何やらん、足に鋭く触るるものが、これ、御座った。

 取り上げて見れば、これ、鍼(はり)で御座った。

「……然らば! この鍼を用いた鍼治(しんじ)の業(わざ)を成して名を成さん!」

と決定(けつじょう)なされた、とのことじゃ。……

 その後(のち)、心底を尽くして鍼治の修行に励まれたが、自ずと、鍼術の妙技処方を会得なされて、今に杉山流の鍼治として一派を成された、とのことで御座る。

一言芳談 十四

   十四

 

 明遍法印云、他力の強緣(がうえん)にあへる事を思ふに、生死(しやうじ)を出離せむことは、今生(こんじやう)にあひあたれり。此緣にあひながら、むなしくすぐしては、一定(いちぢやう)またうけさげられぬとおぼゆるなり。しかれば、生死をわかれざらんこと今生にあるなり。

 

〇一定(いちぢやう)またうけさげられぬ、一定とは推量の詞なり。受けさぐるとは人界より三惡道などへおつることなり。

 慈鎭(じちん)和尚の歌に云、このたびをかぎりにはせんとおもふかな、身もうけがたく法もえがたし。

 

[やぶちゃん注:解脱を得られなければ、三世を永遠に輪廻し続ける外ない。湛澄の注は「三惡道」(地獄・餓鬼・畜生)「など」(これは暗に修羅道を指すのであろう)と殊更に示して恐怖を煽るが(但し、実際にはこれは「うけさぐ」の意味を忠実に示したものではあろう。「うけ」はカ行下二段動詞の連用形で恐らくは「天から宿命的なものとして~を授かる」の意、「さぐ」はカ行下二段動詞「下ぐ」で、輪廻の中で人間(じんかん)道の現世から下位の三悪道及び修羅道へ転落させられることを指していよう)、しかし、これはそこが三善道(天上・人間・修羅)であっても実は大差はない。より煩悩の少ない天上道に生れたとしても、それは輪廻の柵の中にあって、煩悩の苦界に在るという点で、救われていないという点では大した変りはないどころか、本質的には総て等質であると言える。だから「今この瞬間」と明遍は言うのである。この絶対他力の切れることのない強靭な「緣」に接したと思ったその瞬間に「生死を出離せ」よ――そこに猶予は――ない――のである。

「慈鎭」慈円。]

アパートメント生活一句 畑耕一

   アパートメント生活
窓窓の人のまじはり今朝の秋

2012/11/18

北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート1〈頼朝奥州追伐進発〉

      ○賴朝卿奥入泰衡滅亡

[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]

賴朝仰せけるは「義經を討てまゐらせしは忠に似たりといへども兩度の宣旨賴期が度度(どど)の使を用ひず、仰せを背きて筵引に及ぶ事、其科(とが)遁(のがれ)難し」憤(いきどほり)深く思ひて、 京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける。文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる。去んぬる治承四年千葉介軍勢を率(そつ)して、賴朝の御陣にはせまゐりしより諸國皆隨付(したがひつ)きたるその例に依るべしとなり。往初(そのかみ)入道前將軍賴義勅を蒙りて、安陪貞任(あべのさだたふ)、鳥海宗任(とりのうみむねたふ)を退治の時の御旗の如く、一丈二尺二幅(はば)なり。白絲を以て伊勢大神宮、八幡大菩薩と云ふ文字を上に竝べて縫(ぬは)せられ、下には山鳩二羽差向ひて縫付けたる。今度奥州追伐(つゐばつ)の御旗なれば、その佳例(かれい)をぞ移されたる。同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途(かどいで)し給ふ。千葉介常胤、八田(やた)右衞門尉知家は東海道の大將として、常陸、下総兩國の勢を率して宇太、行方(なめかた)を經て、岩崎より隅田川の湊(みなと)にて渡逢(わたりあ)ふ。北陸道は上野國高山、小林、大胡(おほご)、左貫(さぬき)の軍勢を催し、越後國より出羽國に押懸(おしかゝ)り、念種關(ねじゆがせき)にして寄合(よせあふ)べしと定らる。賴朝卿は大手に向ひ、中路(なかみち)より攻下(せめくだ)り給ふ。先陣は畠山次郎重忠なり。和田義盛、梶原景時は軍奉行(いくさぶぎやう)を承る。既に陸奥國伊達郡(だてのこほり)阿津樫山(あつかしやま)に著き給ふ。

[やぶちゃん注:〈頼朝奥州追伐進発〉湯浅佳子「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、この部分は「吾妻鏡」よりも浅井了意作「将軍記」に類似する、とある(「将軍記」なる作品は私は未見)。

「奥入」は「おくいり」と読む。

「京都に奏聞して宣旨を給はり、人數をぞ催されける」泰衡が討ち取った義経の首の到着は同月十三日であるから、わずか十日余りで泰衡の追討を決している。これはどうも最初からそういう計画であったことがしっかり臭ってくる速さである。なお、ここでは恰も迅速に宣旨が出たように読めてしまうが、実際には朝廷側が難色を示した。以下、「吾妻鏡」でその経緯を順に見よう。まず、最初は文治五(一一八九)年六月二十四日の条から。

 

〇原文

廿四日壬子。奥州泰衡。日來隱容與州科。已軼反逆也。仍爲征之。可令發向給之間。御旗一流可調進之由。被仰常胤。絹者朝政依召献之云々。及晩。右武衞消息到來。奥州追討事。御沙汰之趣。内々被申之。其趣。連々被經沙汰。此事。關東鬱陶雖難默止。義顯已被誅訖。今年造太神宮棟。大佛寺造營。彼是計會。追討之儀。可有猶豫者。其旨已欲被献殿下御教書云々。又御厩司事。就被免仰。申領状訖云々。(以下略)

〇やぶちゃんの書き下し文

廿四日壬子。奥州の泰衡、日來、與州を隱容するの科(とが)、已に反逆に軼(す)ぐるなり。仍て之を征せんが爲に、發向せしめ給ふべきの間、御旗一流、調進すべきの由、常胤に仰せらる。絹は、朝政、召しに依りて之を献ずと云々。

晩に及びて、右武衞(うぶゑい)が消息到來す。奥州追討の事、御沙汰の趣、内々に之を申さる。其の趣、連々沙汰を經らる。此の事、關東の鬱陶(うつたう)、黙止し難しと雖も、義顯(よしあき)已に誅され訖んぬ。今年は造太神宮の上棟、大佛寺の造營、彼れ是れ、計會(けいくわい)す。追討の儀、猶ほ豫有るべしてへれば、其の旨、已に殿下、御教書を献ぜられんと欲すと云々。(以下略)

・「調進」新調すること。

・「朝政」頼朝直参の家臣小山朝政(保元三(一一五八)年?~嘉禎四(一二三八)年)。奥州合戦でも活躍した。

・「右武衞」右兵衛の唐名で、ここでは右兵衛督であった親幕派の公卿一条能保のこと。

・「連々沙汰を經らる」何度も審議をなさった。

・「關東の鬱陶、黙止し難しと雖も」幕府の苛立ち、これは、朝廷としても看過することも出来難きことではあるけれども。

・「義顯」幕府の謀叛人義経の二度目の強制改名の名。当初は「義經の妾白拍子靜」の注で示したように親幕派(但し先の一条能保とは不仲)の関白藤原兼実の息子の「良経」と同訓であるのを憚って「義行」と改めた。ところが、その後、義経の逃亡が長引き、隠れ住む先も定かならざる事態の中で、これは「義行」(よく行く)という呼称が悪いとして「義顕」(よく顕われる)に改名をしていた。

・「造太神宮の上棟」伊勢神宮の式年遷宮のこと。

・「大佛寺」東大寺大仏殿。

・「殿下」藤原兼実。

 

同年六月二十五日の条。

〇原文

廿五日癸丑。奥州事。猶可被下追討 宣旨之由。重被申京都云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿五日癸丑。奥州の事、猶ほ追討の宣旨を下さるべきの由、重ねて京都へ申さると云々。

 

同年六月二十六日の条。

〇原文

廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意与州之間。依有宣下旨也云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿六日甲寅。奥州に兵革(ひやうがく)有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三。〕を誅す。是れ、與州に同意の間、宣下の旨、有るに依りてなりと云々。

既出であるが出す。それでも奥州進発に変化がないのが不審な向きもあるかもしれないが、実は、この事実をこの時点では頼朝はこの事実を知らないのである。現在の「吾妻鏡」の記事はアップ・トゥ・デイトに書かれたものではなく、ずっと後年になって諸資料を基にして編集執筆されたものなのである。

 

同年六月二十七日の条。

〇原文

廿七日乙夘。此間奥州征伐沙汰之外無他事。此事。依被申宣旨。被催軍士等。群集鎌之輩。已及一千人也。爲義盛。景時奉行。日來注交名。前圖書允爲執筆。今日覽之。而武藏下野兩國者。爲御下向巡路之間。彼住人等者。各致用意。可參會于御進發前途之由。所被觸仰也。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿七日乙夘。此の間、奥州征伐の沙汰の外他事無し。此の事、宣旨を申さるるに依りて、軍士等を催さる。鎌倉へ群集(ぐんじゆ)するの輩、已に一千人に及ぶなり。義盛、景時を奉行として、日來、交名(けうみやう)を注す。前圖書允(さきのずしよのじよう)執筆たり。今日、之を覽る。而るに武藏・下野兩國は、御下向の巡路たるの間、彼の住人等は、各々用意を致し、御進發の前途に參會すべきの由、觸れ仰せらるる所なり。

・「軍士等を催さる」諸兵徴集のお触れをお出しになられた。

・「日來、交名を注す」日単位で到着した武士より順に名前を届け出させる。

・「前圖書允執筆たり」「前図書允」は不詳「執筆」は書記係。

 

同年六月二十八日の条。

〇原文

廿八日丙辰。鶴岡放生會。來月朔日可被遂行之旨。有其沙汰。是於式月者。定可有御坐奥州之上。爲泰衡征伐御祈禱。及此儀云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿八日丙辰。鶴岡の放生會、來月朔日に遂行せらるべきの旨、其の沙汰有り。是れ、式月に於いては、定めし奥州に御坐有るべきの上、泰衡征伐の御祈禱と爲し、此の儀に及ぶと云々。

鶴岡八幡宮寺の放生会は通常は八月十五日に行われた(実際に当日は頼朝は奥州征伐に出陣中で、鶴岡八幡宮では当八月十五日、式日であるので再度、放生会が行われている)。

 

同年六月二十九日の条。

〇原文

廿九日丁巳。日來御禮敬愛染王像。被送于武藏慈光山。以之爲本尊。可抽奥州征伐御祈禱之由。被仰含別當嚴耀幷衆徒等。當寺者。本自所有御歸依也。去治承三年三月二日。自伊豆國。遣御使盛長。令鑄洪鐘給。則被刻御署名於件鐘面云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

廿九日丁巳。日來御禮敬(らいきやう)の愛染王像、武藏慈光山に送られ、之を以て本尊と爲し、奥州征伐の御祈禱を抽(ぬき)んずべきの由、別當嚴耀幷びに衆徒等に仰せ含めらる。當寺は、本より御歸依有る所なり。去ぬる治承三年三月二日、伊豆國より、御使の盛長を遣はし、洪鐘を鑄しめ給ひ、則ち御署名を件の鐘面に刻まると云々。

・「愛染王像」愛染明王像。通常は一面六臂の忿怒相で、頭部には如何なる苦難にも挫折しない強さを象徴する獅子の冠を頂き、叡知を収めた宝瓶の上に咲いた蓮の華の上に結跏趺坐で座る。弓箭を持っていて身体は真紅、後背に日輪を背負って表現されることが多い。また、天に向かって弓を引いたり、騎馬であったりと、武士にも好まれた。

・「慈光山」埼玉県比企郡都幾川(ときがわ)村西平(にしたいら)にある天台宗都幾山慈光寺。

・「治承三年」西暦一一七九年。

 

同年六月三十日の条。

〇原文

卅日戊午。大庭平太景能者。爲武家古老。兵法存故實之間。故以被召出之。被仰合奥州征伐事。曰。此事窺天聽之處。于今無勅許。憖召聚御家人。爲之如何。可計申者。景能不及思案。申云。軍中聞將軍之令。不聞天子之詔云々。已被經奉聞之上者。強不可令待其左右給。隨而泰衡者。受繼累代御家人遺跡者也。雖不被下綸旨。加治罸給。有何事哉。就中。群參軍士費數日之條。還而人之煩也。早可令發向給者。申狀頗有御感。剩賜御厩御馬。〔置鞍。〕小山七郎朝光引立庭上。景能在緣。朝光取差繩端。投景能前。景能乍居請取之。令取郎從。二品入御之後。景能招朝光。賀云。吾老耄之上。保元合戰之時。被疵之後。不行歩進退。今雖拝領御馬。難下庭上之處。被投繩。思其芳志。直千金云々。二品又感朝光所爲給云々。

〇やぶちゃんの書き下し出し文

卅日戊午。大庭平太景能は武家の古老たり。兵法の故實を存ずるの間、故(ことさら)に以て之を召し出だされ、奥州征伐の事を仰せ合せられて曰はく、「此の事、天聽を窺ふの處、今に勅許無し。憖(なまじ)ひに御家人を召し聚む、之を如何と爲す。計り申すべし。」てへれば、景能、思案に及ばず、申して云はく、「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔(みことのり)を聞かず。」と云々。

「已に奏聞を經らるるの上は、強ちに其の左右(さう)を待たしめ給ふべからず。隨つて、泰衡は累代御家人の遺跡を受け繼ぐ者なり。綸旨(りんし)を下されずと雖も治罸(ぢばつ)を加へ給はんは何事か有らんや。就中(なかなんづく)、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり。早く發向せしめ給ふべし。」てへれば、申し状、頗る御感あり。剰(あまつさ)へ御厩(みうまや)の御馬〔鞍を置く。〕を賜はる。小山七郎朝光、庭上に引き立つ。景能は緣に在り。朝光、差繩の端を取り、景能の前に投げる。景能、居乍ら、之を請け取り、郎從に取らしむ。二品入御の後、景能、朝光を招き賀して云はく、「吾れ老耄(らうもう)の上、保元合戰の時、疵を被るの後、行歩進退せず。今、御馬を拜領すと雖も、庭上に下り難きの處、繩を投げらる。其の芳志を思ふに値千金。」と云々。

二品、又、朝光が所爲に感じ給ふと云々。

・「大庭平太景能」大庭景義(大治三(一一二八)年)?~承元四(一二一〇)年)。既出で、知られた武将であるが、ここでは主役級であるので解説しておく。景能とも表記。鎌倉権五郎景政の曾孫とされる。以下、ウィキの「大庭景義」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『若くして源義朝に忠誠を誓う。保元元年(一一五六年)の保元の乱においては義朝に従軍して出陣、敵方の源為朝の矢に当たり負傷。これ以降歩行困難の身となり、家督を弟の景親に任せ、第一線を退いて懐島郷に隠棲した』。『治承四年(一一八〇年)に源頼朝が挙兵すると、弟の景親と袂を分かち頼朝の麾下に参加。後に景親が頼朝に敗れ囚われの身となると、頼朝から「助命嘆願をするか」と打診されるが、これを断り全てを頼朝の裁断に任せたという』(景親は梟首)。『その後も草創期の鎌倉幕府において、長老格として重きをなした。藤原泰衡を征伐する際、頼朝は後白河法皇の院宣を得られず苦慮していた。しかし景義が、奥州藤原氏は源氏の家人であるので誅罰に勅許は不要なこと、戦陣では現地の将軍の命令が朝廷の意向より優先されることを主張。その意見が採用された』。『後に景義は出家している。嫡男の大庭景兼が跡を継いだ』が、出家の理由については「吾妻鏡」などに僅かに記述があるのみで、『今日でも謎が多いが、それによれば建久四年(一一九三年)の八月、大庭景義は同じ相模の有力武士の岡崎義実とともに、老齢を理由に出家したことになっている。しかしわずか二年後に景義は「頼朝公の旗揚げより大功ある身ながら疑いをかけられ鎌倉を追われ、愁鬱のまま三年を過ごして参りました」と書面を奉じ、許されたとある』ことから、『この時期に景義らが何らかの事件により失脚した可能性が高いと想定される』とある。

・「憖(なまじ)ひに」無理矢理に。

・「軍中、將軍の令を聞き、天子の詔を聞かず。」「十八史略」に載る以下の故事に基づく(原文及び書き下し文・語注の一部は個人ブログ「寡黙堂ひとりごと」の「十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ」を参考にさせて頂いたが、書き下し文の一部に手を加えてある)。

〇原文

六年、匈奴寇上郡雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐厲次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上棘門軍兒戲耳。

〇書き下し文

六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐厲(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備へしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せ入る。大將以下、騎して送迎す。已にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先驅曰はく、「天子、且に軍門に至らんとす。」と。都尉曰はく、「軍中には將軍の令を聞きて、天子の詔を聞かず。」と。上、乃ち使ひをして節を持し、將軍亜夫に詔せしむ。乃ち言を伝へて門を開かしむ。門士、車騎に請ふて曰はく、「將軍約す、軍中は驅馳(くち)するを得ず。」と。上、乃ち轡(ひ)を按じ、徐行して營に至り、禮を成して去る。群臣、皆、驚く。上、曰く、「嗟乎、此れ、真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ。」と。

「上郡」は陜西省の地名。「雲中」は山西省の地名。「周亞夫」(?~前一四三年)は周勃の子で、兄の周勝之が人を殺して領国を召し上げられたため、その後を継いで条侯(絳侯)となった。「細柳・覇上・棘門」陜西省の地名。長安の近郊。「屯・次」何れも留まって守備すること。「轡を按じ」轡(くつわ)を引いて馬を抑えること。

・「治罸」治罰。取り締まり、罰すること。景能は泰衡は家来筋に当たるのであるから、綸旨なしに私罰しても構わない、と言うのである。

・「就中、群參の軍士數日を費すの條、還つて人の煩ひなり」中でも特に、群参しておる兵士らが無為に日を費やすというのは、却って戦意が殺(そ)がれ、殿の支障ともなりまする。

 

「文治五年七月八日千葉介に仰せて、新造の御旗を奉らせらる」「吾妻鏡」を引く。

〇原文

八日丙寅。千葉介常胤献新調御旗。其長任入道將軍家〔賴義。〕御旗寸法。一丈二尺二幅也。又有白糸縫物。上云。伊勢大神宮八幡大菩薩云々。下縫鳩二羽。〔相對云々。〕是爲奥州追討也。治承四年。常胤相率軍勢。參向之後。諸國奉歸往。依其佳例。今度御旗事。別以被仰之。絹者小山兵衛尉朝政進之。先祖將軍輙亡朝敵之故也。此御旗。以三浦介義澄爲御使。被遣鶴岡別當坊。於宮寺。七ケ日可令加持之由被仰云々。又下河邊庄司行平。依仰調献御甲。今日自持參之。開櫃盖置御前。相副紺地錦御甲直垂上下。御覽之處。冑後付笠標。仰曰。此簡付袖爲尋常儀歟。如何者。行平申云。是曩祖秀郷朝臣佳例也。其上。兵本意者先登也。進先登之時。敵者以名謁知其仁。吾衆自後見此簡。可必知某先登之由者也。但可令付袖給否。可在御意。調進如此物之時。用家樣者故實也云々。于時蒙御感。

〇やぶちゃんの書き下し文

八日丙寅。千葉介常胤、新調の御旗を献ず。其の長(たけ)、入道將軍家〔頼義〕の御旗の寸法に任せて、一丈二尺二幅なり。又、白糸の縫物有り。上に云はく、伊勢大神宮・八幡大菩薩と云々。

下に鳩二羽〔相ひ對すと云々。〕を縫ふ。是れ、奥州追討の爲なり。治承四年、常胤、軍勢を相ひ率いて參向の後、諸國歸往し奉る。其の佳例に依りて、今度の御旗の事、別して以て之を仰せらる。絹は小山兵衛尉朝政、之を進ず。先祖の將軍、輙(たやす)く朝敵を亡すの故なり。此の御旗は、三浦介義澄を以て御使と爲し、鶴岡別當坊に遣はされ、宮寺に於て七箇日加持せしむべきの由、仰せらると云々。

又、下河邊庄司行平、仰せに依りて御甲(よろひ)を調へ献(まつ)る。今日、自ら之を持參し、櫃(ひつ)の蓋(ふた)を開き、御前に置く。紺地錦の御甲直垂上下を相ひ副(そ)ふ。御覽ずるの處、冑(かぶと)の後に笠標(かさじるし)を付く。仰せて曰はく、「此の簡(ふだ)、袖に付くるを尋常の儀と爲すか。如何に。」てへれば、行平、申して云はく、「是れ、曩祖(なうそ)秀郷朝臣の佳例なり。其の上、兵の本意は先登なり。先登に進むの時、敵は名謁(なのり)を以て其の仁を知る。吾が衆は後より此の簡を見て、必ず某(なにがし)先登の由を知るべき者なり。但し、袖に付へしめ給ふべきや否やは御意に在るべし。此の如きの物を調進の時は、家の樣(ためし)を用ゐるは故實なり。」と云々。

時に御感を蒙る。

・「一丈二尺」約三・六メートル。

・「先祖の將軍」平将門を滅ぼした藤原秀郷。小山朝政は秀郷の直系子孫とされる。

・「下河邊庄司行平」彼も藤原秀郷流小山氏庶流の下河辺氏の直系。

参考鳩は、源氏の白鳩(八幡宮の門の額の八の字は鳩になっている)。参考先祖將軍は、平将門を討伐した藤原秀郷。参考朝敵は、平将門。

 

「鳥海宗任」安倍貞任の弟安陪宗任。鳥海の柵の主であったことから鳥海三郎とも呼ばれた。

「同じき十九日賴朝卿奥州追伐の首途し給ふ。」この間、七月十二日に追討の宣旨受取の飛脚が発せられるが、「吾妻鏡」十六日の条には、

〇原文

七月小十六日甲戌。右武衞〔能保〕使者後藤兵衛尉基淸。幷先日自是上洛飛脚等參著。基淸申云。泰衡追討 宣旨事。攝政公卿已下。被經度々沙汰訖。而義顯出來。此上猶及追討儀者。可爲天下大事。今年許可有猶豫歟之由。去七日被下 宣旨也。早可達子細之由。帥中納言相觸之。可爲何樣哉云々。令聞此事給。殊有御鬱憤。軍士多以豫參之間。已有若干費。何期後年哉。於今者。必定可令發向給之由。被仰云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日甲戌。右武衞〔能保。〕が使者の後藤兵衛尉基淸、幷びに先日是より上洛する飛脚等參著す。基淸、申して云はく、「泰衡追討の宣旨の事、攝政公卿已下、度々沙汰を經られ訖んぬ。而るに義顯(よしあき)出で來る。此の上、猶ほ追討の儀に及ぶは、天下の大事とたるべし。今年許りは猶豫(いうよ)有るべきかの由、去る七日、宣旨を下さるなり。早く子細を達すべしの由、帥中納言、之を相ひ觸る。何樣(いかやう)たるべきやと云々。

此の事を聞かしめ給ひ、殊に御鬱憤有り。「軍士多く以て豫參の間、已に若干(そくばく)の費へ有り。何ぞ後年を期せんや。今に於いては、必定發向せしめ給ふべし。」の由、仰せらると云々。

「後藤兵衛尉基淸」後藤基清(?~承久三(一二二一)年)実父は佐藤仲清(佐藤義清(西行)の兄弟)。後に後藤実基の養子となった。源頼朝に仕え、元暦三(一一八五)年の屋島の戦いに参加したが、後に娘が一条能保の妻となった関係上、在京御家人として一条能保の家士となっていた。この後、正治元(一一九九)年に源通親への襲撃を企てた三左衛門事件で讃岐国守護を解任され、それ以後は後鳥羽上皇との関係を深め、西面武士・検非違使となり、承久の乱では後鳥羽上皇方について敗北、幕府方についた子の基綱に処刑された(以上はウィキの「後藤基清」に拠る)。

・「帥中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。元暦元(一一八四)年前後に頼朝によって実質的な初代関東申次役に任ぜられたと考えられている。

・「若干」沢山。

以下、十七日に奥州追討軍の部署定めが行われている。筆者はこれも本文執筆の参考にしているので引いておく。

〇原文

十七日乙亥。可有御下向于奥州事。終日被經沙汰。此間。可被相分三手者。所謂東海道大將軍。千葉介常胤。八田右衞門尉知家。各相具一族等幷常陸。下総國兩國勇士等。經宇大行方。廻岩城岩崎。渡遇隈河湊。可參會也。北陸道大將軍。比企藤四郎能員。宇佐美平次實政等者。經下道相催上野國高山。小林。大胡。佐貫等住人。自越後國。出出羽國念種關。可遂合戰。二品者大手自中路。可有御下向。先陣可爲畠山次郎重忠之由。召仰之。次合戰謀。有其譽之輩。無勢之間。定難彰勳功歟。然者可被付勢之由被定。仍武藏。上野兩國内黨者等者。從于加藤次景廉。葛西三郎淸重等。可遂合戰之由。以義盛。景時等被仰含。次御留守事。所仰大夫屬入道也。隼人佑。藤判官代。佐々木次郎。大庭平太。義勝房已下輩可候云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

十七日乙亥。奥州于御下向有るべき事、終日沙汰を經らる。此の間、「三手に相ひ分けらるべし。」てへり。所謂、東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し、宇太(うだ)・行方(なめかた)を經て、岩城(いはき)・岩崎を廻り、遇隈河(あぶくまがは)の湊(みなと)を渡り、參會すべきなり。北陸道の大將軍は比企藤四郎能員・宇佐美平次實政等は、下道を經(へ)、上野國高山・小林・大胡(おほご)・左(さぬき)貫等の住人を相ひ催し、越後國より出羽國念種關(ねんじゆがせき)へ出でて、合戰を遂ぐべし。二品は大手、中路より御下向有るべし。先陣は畠山次郎重忠たるべきの由、之を召し仰す。次に合戰の謀(はかり)は、「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功を彰(あらは)し難からんか、然らば、勢を付けらるべし。」の由、定めらる。仍りて武藏・上野兩國内の黨の者等は、加藤次景廉・葛西三郎淸重等に從ひて合戰を遂ぐべきの由、義盛・景時等を以て仰せ含めらある。次で御留守の事は、大夫屬入道に仰す所なり。隼人佑(すけ)・藤判官代・佐々木次郎・大庭平太・義勝房已下の輩は候ふべしと云々。

・「東海道の大將軍は千葉介常胤、八田右衞門尉知家、各々一族等幷びに常陸・下総國の兩國の勇士等を相ひ具し」この「東海道」は海岸通りを指し、現在の常磐線のルートを言う語。常陸は八田が守護、下総は千葉が守護であった。

・「宇太」現在の福島県浜通り北端の旧宇多郡。現在の相馬市。

・「行方」現在の茨城県南東部の行方市及び潮来市一帯。

・「岩城」現在の福島県いわき市。

・「岩崎」現在の福島県小名浜市岩出岩崎。小名浜港から北方約五キロメートルの内陸。

・「遇隅河の湊」現在の宮城県亘理(わたり)町高須賀地区。阿武隈川の河口で港として栄えた。

・「宇佐美平次實政」(?~文治六(一一九〇)年)現在の静岡県の伊豆田方郡大見荘の住人。頼朝挙兵以来の直参。奥州藤原氏の藤原泰衡の郎党であった大河兼任の乱で戦死。

・「下道を經」とあるが以下で高山を初めとして現在の群馬県内を通っていることから、これは現在の「上の道」と呼称されるルートと思われる。

・「上野國高山」現在の群馬県藤岡市高山。

・「小林」現在の群馬県藤岡市小林。高山の約五キロメートル東北。

・「大胡」現在の群馬県前橋市大胡町。前橋の約一〇キロメートル東方。

・「左貫」現在の群馬県館林市明和町の旧地名。

・「出羽國念種關」現在の山形県鶴岡市鼠ヶ関。鶴岡市南西部に位置し、新潟県との県境に面している。ウィキ鼠ヶ関によれば、『名の通り古代より関所が置かれていた。古くは、蝦夷進出の拠点となり、磐舟柵と出羽柵の中間にあるとされた、都岐沙羅柵が鼠ヶ関周辺にあったのではないかと推定されているが、史跡が発見されていないため、史実として確定していない。白河関・勿来関とともに奥羽三関と呼ばれ、東北地方への玄関になっていた。当時の文書には根津とする表記もある』。昭和四三(一九六八)年、『発掘調査が行われて存在が確認され、鶴岡市指定史跡「古代鼠ヶ関址」となった』とある。

・「合戰の謀」戦闘時の企略。

・「其の譽有るの輩は、無勢の間、定めて勳功を彰(あらは)し難からんか。然らば、勢を付けらるべし。」我こそは勇士の誉れと心得、血気をはやる連中の中には、附き従う家来がおらぬばかりに勲功を立て難いと考える者もあろう。そこで一つ、そうした者どもには補充の軍勢を附すことと致す。

・「加藤次景廉」(仁安元(一一六六)年?~承久三(一二二一)年)は直参、頼朝挙兵の際、平氏の目代山木兼隆の首を討ち取っている。

・「葛西兵衛尉淸重」(応保元(一一六一)年?~暦仁元(一二三八)年?)。頼朝に従って歴戦、頼朝の寵臣で幕府初期の重臣の一人。初代奥州総奉行葛西氏の初代当主。

・「大夫屬入道」初代問注所執事三善康信(保延六(一一四〇)年~承久三(一二二一)年)。入道後は善信を名乗った。

・「隼人佑」三善康清(生没年未詳)。康信の弟。実務官僚。以仁王挙兵の際に兄康信の意を受けて伊豆へ下り、頼朝に挙兵の旨を伝えた人物である。

・「藤判官代」藤原邦道。京から下洛していた文官。

・「佐々木次郎」佐々木経高(?~承久三年(一二二一)年)は頼朝に挙兵時から仕えた直参。幕府では三箇国の守護を兼ねたが、承久の乱で官軍に属して敗北、自害した。

・「大庭平太」大庭景能。

・「義勝房」成尋(じょうじん 生没年未詳)。武蔵七党の一つである横山党の出。石橋山の戦いで頼朝に従い、御家人となった。幕府南門の建立、僧でもあったことから後白河法皇一周忌千僧供養などの奉行を勤めている。俗姓は小野。

以下、進発当日文治五(一一八九)年七月十九日の条の冒頭を示す。

〇原文

十九日丁丑。巳尅。二品爲征伐奥州泰衡發向給。此刻。景時申云。城四郎長茂者。無雙勇士也。雖囚人。此時被召具。有何事哉云々。尤可然之由被仰。仍相觸其趣於長茂。長茂成喜悦。候御共。但爲囚人差旗之條。有其恐。可給御旗之由申之。而依仰用私旗訖。于時長茂談傍輩云。見此旗。逃亡郎從等可來從云々。御進發儀。先陣畠山次郎重忠也。(以下、略)

〇やぶちゃんの書き下し文

十九日丁丑。巳の尅、二品奥州の泰衡を征伐せんが爲に、發向し給ふ。此の刻、景時、申して云はく。「城四郎長茂は、無雙の勇士なり。囚人と雖も、此の時、召し具せられんこと、何事か有らんや。」と云々。

尤も然るべしの由、仰せらる。仍りて、其の趣、長茂に相ひ觸る。長茂、喜悦を成して、御共に候ず。「但し、囚人として旗を差すの條、其の恐れ有り。御旗を給はるべし。」の由、之を申す。而るに仰せに依りて私の旗を用ゐ訖んぬ。時に長茂、傍輩に談じて云はく、「此の旗を見て、逃亡の郎從等來り從うべし。」と云々。御進發の儀、先陣は畠山次郎重忠なり。(以下、略)

・「城四郎長茂」城長茂(じょうながもち 仁平二(一一五二)年~建仁元(一二〇一)年)は。越後平氏の一族で城資国の子。以下、ウィキ長茂より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『治承五年(一一八一年)二月、平氏政権より信濃国で挙兵した源義仲追討の命を受けていた兄の城資永が急死したため、急遽助職が家督を継ぐ。同年六月、兄に変わって信濃に出兵した。資永は平家より絶大な期待を寄せられていたが、助職は短慮の欠点があり、軍略の才に乏しく、一万の大軍を率いていながら三〇〇〇ほどの義仲軍の前に大敗した(横田河原の戦い)。その直後、助職は奥州会津へ入るが、そこでも奥州藤原氏の攻撃を受けて会津をも追われ、越後の一角に住する小勢力へと転落を余儀なくされる』(「玉葉」寿永元年七月一日の条による)。『同年八月十五日、平宗盛による源義仲への牽制として越後守に任じられる。都の貴族である九条兼実や吉田経房は、地方豪族である長茂の国司任官・藤原秀衡の陸奥守任官を「天下の恥」「人以て嗟歎す」と非難している。この頃、諱を助職から長茂と改めた』。『しかし越後守となるも長茂は国衙を握る事は出来なかった。寿永二年(一一八三年)七月の平家都落ちと同時に越後守も罷免された』。『その後の経歴はほとんどわかっていないが、元暦二年(一一八五年)に平氏が滅亡して源頼朝が覇権を握ると、長茂は囚人として扱われ、梶原景時に身柄を預けられる。文治五年(一一八九年)の奥州合戦では、景時の仲介により従軍することを許され、武功を挙げる事によって御家人に列せられた』。『頼朝の死後、梶原景時の変で庇護者であった景時が滅ぼされると、一年後に長茂は軍勢を率いて上洛し、京において幕府打倒の兵を挙げる。正治三年(一二〇一年)、軍を率いて景時糾弾の首謀者の一人であった小山朝政の三条東洞院にある屋敷を襲撃した上で、後鳥羽上皇に対して幕府討伐の宣旨を下すように要求したが、宣旨は得られなかった。そして小山朝政ら幕府軍の追討を受け、最期は大和吉野にて討たれた(建仁の乱)』。身の丈七尺(約二メートル十二センチ)『の大男であったという』とある。ここで彼は「私自身の旗を見てきっと散り散りになった家来どもが帰参して従うであろう。」と述べている通り、「吾妻鏡」同月二十八日の条には、城の領地の近くであった新渡戸(しんわたど)駅(不詳。栃木県塩谷郡高根沢町寺渡戸とも宇都宮市上小池町とも言われる)に着いた頼朝が軍勢の総数を調べるため、御家人らに命じて、それぞれが現在、連れている手勢総てを書き出させたところ、城長茂の家来は驚くべきことに二百人以上にもなっていた、とある。

 

「陸奥國伊達郡阿津樫山に著き給ふ」頼朝は七月二十九日に白河の関を越え、翌八月七日に現在の福島県伊達郡国見町厚樫山近くの国見宿へ到着している(「吾妻鏡」の当該条は次のパートの注で示す)。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鉄井/鉄の観音/志一上人の石塔

   鐵  井

 鶴岡町屋ノ西南ノ隅、路傍ニアル井ナリ。此地ヨリ鐵觀音ヲ掘出タル故ニ名トス。

 

   鐵ノ觀音

 鐵井ノ西向ヒニ小堂アリ。觀音ノ鐵像首計有ヲ小堂ニ入置ク。極テ大ナル首ナリ。新淸水ノ觀音卜號ス。

 

   志一上人ノ石塔〔附、稻荷社〕

 右ノ石塔若宮ヨリ西脇ノ町屋ノ後ロノ山上ニアリ。土俗ノ云ルハ、志一ハ筑紫ノ人也。訴訟有テ下ラレ、スデニ訴訟モ達シケルニ、文状ヲ古里二忘置テ如何セント思ハレシ時、常々ミヤヅカヒセシ狐アリシガ、一夜ノ内ニ故郷ニ往キ、彼文状ヲクハヘテ曉ニ歸り、志一ニタテマツリ、其マヽ息絶テ死ケリ。志一訴訟叶ヒシカバ、則彼狐ヲ稻荷ニ祭リ、社ヲ立ツ。坂ノ上ノ脇ニ小キ社有。是其小社也。志一ハ左馬頭基氏ノ代ニ、上杉崇敬ニヨリ鎌倉へ下ラレケルト無極抄ニ見へタリ。太平記ニ仁和寺志一坊トアリ。又志一細川相摸守淸氏ニタノマレ、將軍ヲ咒咀シケルトアリ。此僧ノ事歟、未審(未だ審らかならず)。又此所ヲ鶯谷トモ云トナン。

[やぶちゃん注:「無極抄」は近世初期の成立になる「太平記評判私要理尽無極抄」という「太平記」の注釈書である。

「細川相摸守淸氏」細川清氏(?~正平一七/康安二(一三六二)年)は室町幕府第二代代将軍足利義詮の執事。官位は左近将監、伊予守、相模守。参照したウィキ細川清氏によれば、『正平九年・文和三年(一三五四年)九月には若狭守護、評定衆、引付頭人に加え、相模守に補任される。翌正平一〇年/文和四年(一三五五年)の直冬勢との京都攻防戦では東寺の敵本拠を破る活躍をした。正平一三年/延文三年(一三五八年)に尊氏が死去して仁木頼章が執事(後の管領)を退くと、二代将軍足利義詮の最初の執事に任ぜられた』。『清氏は寺社勢力や公家の反対を押し切り分国の若狭において半済を強行するなど強引な行動があり、幕府内には前執事頼章の弟仁木義長や斯波高経らの政敵も多かった。正平一五年/延文五年(一三六〇年)五月、南朝に対する幕府の大攻勢の一環で清氏は河内赤坂城を陥れるなど活躍した。この最中に畠山国清ら諸将と反目した仁木義長が分国伊勢に逃れ追討を受けて南朝に降ると、清氏は幕政の実権を握ったが、将軍義詮の意に逆らうことも多かったという』。『同年(康安元年、三月に改元)九月、将軍義詮が後光厳天皇に清氏追討を仰ぐと、清氏は弟頼和・信氏らと共に分国の若狭へ落ち延びる。これについて、「太平記」は清氏失脚の首謀者は佐々木道誉であり、清氏にも野心があったと記し、今川貞世(了俊)の「難太平記」では、清氏は無実で道誉らに陥れられたと推測している。清氏は無実を訴えるものの、十月には斯波高経の軍に敗れ、比叡山を経て摂津天王寺に至り南朝に降った。十二月には楠木正儀・石塔頼房らと共に京都を奪取するが、すぐに幕府に奪還された』。『正平十七年/康安二年(一三六二年)、清氏は細川氏の地盤である阿波へ逃れ、さらに讃岐へ移った。清氏追討を命じられた従弟の阿波守護細川頼之に対しては、小豆島の佐々木信胤や塩飽諸島の水軍などを味方に付けて海上封鎖を行い、白峰城(高屋城とも、現香川県綾歌郡宇多津町、坂出市)に拠って宇多津の頼之勢と戦った。「太平記」によれば、清氏は頼之の陽動作戦に乗せられて兵を分断され、単騎で戦って討死したとされる』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。但し、新編鎌倉四」には、

〇志一上人石塔 志一上人の石塔は、鶴が岡の西、町屋の後(うしろ)、鴬谷(うぐひすがやつ)と云所の山の上にあり。里人云、志一は、筑紫の人也。訟へありて鎌倉に來れり。已に訟へも達しけるに、文状を本國に忘置て、如何せんと思はれし時、平生志一につかへし狐ありしが、一夜の中に本國に往き、明くる曉、彼の文状をくわへて歸り、志一に奉り、其まゝ息絶へて死しけり。志一訟へかなひしかば、則ち彼の狐を稻荷の神と祭り祠(し)を立つ。坂上(さかのうへ)の小祠是也。志一は、管領(くはんれい)源の基氏の他に、上杉家、崇敬により、鎌倉に下られけるとなん。【太平記】に、志一上人鎌倉より上て、佐々木佐渡の判官入道道譽(だうよ)の許へおはしたり。細川相模守淸氏にたのまれ、將軍を咒詛(しゆそ)しけるとあり。

と記す。「太平記」巻三十六「淸氏叛逆の事」によれば、志一は佐々木道誉のもとにあって、細川清氏に頼まれて荼枳尼天の外法(ウィキ荼枳尼天に『狐は古来より、古墳や塚に巣穴を作り、時には屍体を食うことが知られていた。また人の死など未来を知り、これを告げると思われていた。あるいは狐媚譚などでは、人の精気を奪う動物として描かれることも多かった。荼枳尼天はこの狐との結びつきにより、日本では神道の稲荷と習合するきっかけとなったとされている』とあり、志一と稲荷のラインが美事に繋がる)を以って将軍を呪詛したことが記されている。]

一言芳談 十三

   十三

 

 明遍云、所詮眞實をねがひ、穢土(ゑど)を厭(いとふ)心候はゞ、散心稱名(さんしんしようみやう)をもて往生候事うたがひなく候、其心眞實ならずば、百千の不審をひらきて、甚深(じんしん)の義理を悟(さとり)候とも、往生かなひがたく候か。佛道修行には、功(こう)が大切なるなり。一度機(とき)をかゞみて、一行におもひさだめて後、人の、とかくいへばとて、変改(へんかい)の条無下(むげ)の事なり。

 

〇散心稱名、散亂の心、妄念まじりの口稱(くしよう)なり。

〇其心眞實ならずば、前に眞實の言あるをうけて見るべし。厭欣(えんごん)は眞實ならずして、義解(ぎげ)を詮にするは往生せぬ人なり。

〇功が大切なるなり、たとひ散心なりとも、その功をつめば往生するなり。

〇かゞみて、あんがへみてか。(句解)

 

[やぶちゃん注:「功」これはは「功徳」の「功」であろう。従って仏果を受けるに足るまことの善行としての修行の持続性を言うのであろう。

「一度機(とき)をかゞみて、一行におもひさだめて後」国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像を見ると「度機」に「とき」の読みが振られているが、不詳。「かゞみて」も「一言芳談句解」が注するように意味が通らない。大橋俊雄氏は『一たび自分の素質を見定め、ただ一つの修行法でいくと決めたのちは』と訳しておられる。至当であろう。

・「無下」全く以って問題にもならぬこと。論外。]

ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q 雑感

〇冒頭の使徒を納めている容器の形状は99%、サルバドール・ダリの“Crucifixion ('Hypercubic Body')”(「超立方体的人体/磔刑」1954年)の浮遊するキリストの背後に同じく浮遊する立方体の十字架がモデルであること。
http://www.artchive.com/artchive/d/dali/crucifix.jpg
〇庵野秀明は正しくアニメーションをアニメーションとしての芸術に高め、宮崎駿は過去の映画芸術に出来ることはアニメ―ションに出来ないはずはないというおぞましい驕りの中で完膚なきまでに踏み誤った(「もののけ姫」の始めの方に現われるカメラのパンの様な見るもおぞましい汚い画像を想起せよ! 今回の「Q」は勿論、過去の庵野の作品にあんな「汚い画像」は一枚もないはずである。「汚い」とは『道徳』を意味するのではない。純粋な審美的意味での「汚い」である!)ということ。[やぶちゃん注:以前にも述べたが、私は手塚治虫先生の追悼文の中で先生を完膚なきまでに批判した宮崎を永遠に許さないが、私のこの宮崎批判はそうした感情の埒外にある極めて技術的な批評である。]
〇シンジはますます情けなく、アスカはますます肝っ玉母さん化し、レイはクローン初期化によってますますレイの魅力を新たにしていること。
〇シークエンスの性質及びストーリーを進行させる関係上、核になる女性陣の感情表現が著しく減衰していること(これは恐らくファンにとってはやや期待外れなのではないかと思われる――私がファンならそう感ずる――ということ)。
〇僕は実は映画版の二作目を見ていないのだが――それ故に――14年後に覚醒したシンジの「わけわかんないよ!」という気持ちと一体化して実に素直に観れたということ。
〇10年以上前から僕はイカリシンジ=ヒカルゲンジ説を述べてきたが――一向に支持者がない――しかし――13号機を操縦する“ゼーレの少年”の名前は渚カヲルだ――だからね、やっぱり――イカリシンジ=ヒカルゲンジなんだって――ということ。

附・これを僕に誘ってくれた“ゼーレの少年”――ヨシユキとノリヒコ――へ――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!

耳囊 卷之五 水神を夢て幸ひを得し事

 

 水神を夢て幸ひを得し事

 

 寬政六七の頃、もみぬきといふ井戶流行して、下谷本所邊地水あしくて遣ひ用に難成(なりがたき)場所へ、底あるがわを入(いれ)て夫より樋(と)ひを入てもみぬく事流行して、水不自由の場所大きに益を得し事あり。其(その)井戸の工夫をして流行の起本(きほん)を思ひ立(たち)しは、本所中の鄕に住居せる傳九郞といふ井戶掘也。彼(かの)者或る年の夢に、天女ともいふべき壹人の婦人枕元に立て、我は水神也、近き内汝が家に來るべしといふかとみて夢覺ぬ。其後日數經て夏の頃、涼みに川端へ出て水抔あびしに、河中に足に障る物を取上(とりあげ)見しに木像也。能々見れば彼(かの)夢に見し天女共(とも)言ふべきもの也。早速持歸りて、水神ならば龍王の形にても有べきものをと怪みて、近所の修驗(しゆげん)に見せて尋ければ、是は水神也、水神は天女の姿なるよしを申ける故、則(すなはち)宮殿を拵へ、右の内に勸請して朝暮祈誓をなしけるに、日增しに仕合よく見込の通(とほり)家業も調ひ、今は下女下男も多く召仕ひ、傳九郞といへば誰しらぬ者もなき井戶掘なりとかや。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:夢告で連関。

 

・「夢て」「ゆめみて」と読む。

 

・「もみぬき」掘り抜きと音が近いのが気になるが、諸本は不詳とするようだ。ところがこれに目から鱗の解説をして呉れているのが、本話も引いておられるseikuzi氏のブログ「不思議なことはあったほうがいい」の「揉抜井戸」である。以下に引用する(文中にアニメーションが入って凝っておられるが、単純にコピー・ペーストさせて頂いた。一行空けが二箇所で入るが詰め、アラビア数字を漢数字に代えさせて頂いた)。

 

  《引用開始》

 

掘りに掘ってもろくな水が涌かないときは、「掘抜き」という技法が行われるようになる。

 

 江戸の地下を掘って掘って或る程度まで掘ったら、次に節を抜いた竹をズンズンと突いてゆく。すると岩盤にぶちあたるので、ゴツンときたらエイと抜く、と深いところの地下水がピューと出てくるという技法で、やがて、最後の突きのときに、先に鉄勢のノミみたいな道具をつけて丈夫にして(あるいは鉄の棒そのものを使って)、岩盤さえも砕いてさらに下のよりよい水さえ得られるようになった。キリをもみもみするようにして抜くので、「もみぬき」という。そして、今回のタイトルになったそれこそ、我等が伝九郎の発明した新技術なのであった!…という話。

 

 じつはホントウは、この一連の掘抜き→揉み抜きの技術というのは、大阪の職人が一八〇〇年ごろまでに発明したそうで、そもそも江戸より大阪の方が都市の歴史は古い。ところが、大阪はちょっと掘るだけでは塩水がでてきてしまう…というところから、昔から試行錯誤していたのであった。

 

 四国は高知の中心部、JR高知駅の近くに、土佐で飲料用として始めて掘られたられたという井戸のあったところ、として市蹟として「桜井跡」というのがあるけれども、これは藩の役人が参勤交代の途中で近江国で見たモミヌキ法をもちこんだものだそうな(まさに一八〇〇年のできごとだなんだと)。きっと江戸の伝九郎も、発明したというのではなく、その技術をいち早く江戸で実践した、といことだったのかもしれない。ほかになかったのだから、それくらいのCMはカンベンして!

 

  《引用終了》

 

これ以上の解説は不要であろう。当該記事には当時の江戸の水事情も詳細に書かれており、本話の解読には必読。

 

・「がわ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『ケ輪』で「がわ」とルビする。長谷川氏の注に『井戸側。井戸の側壁。桶の底のない形の物で、ひば材が良い。』とあるが、さすれば「側」ではなく、「箍(たが)の輪(わ)」の約であろう。但し、この本文部分の工法描写はよく意味が分からない。そもそも、これでは「揉み抜く」という意が説明出来ないのである。適当に辻褄を合わせて(否、誤魔化して)訳した。

 

・「本所中の鄕」現在のウンコビル(奇体なモニュメントに由来する私と妻の符牒)アサヒビール本社のある辺り(旧本所中の郷竹町(なかのごうたけまち)。現在の墨田区吾妻橋一丁目)から東の北十間川左岸業平橋手前一帯の旧地名。この三角形の地域(グーグル・マップ・データ)。

 

・「修驗」これは山伏などの格好をしながら、怪しい御札や似非祈禱を生業とする者であろう。

 

・「水神は天女の姿なる」竜王の娘。竜宮にいるという仙女のことを言う。本来の姿は勿論、蛇身である。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 水神を夢に見て幸いを得た事 

 

 寛政六、七年の頃、「もみぬき」という井戸掘りの仕方が流行し――下谷や本所辺りの、水の性質(たち)が悪しく、日々の生活にも甚だ支障をきたいて御座った土地にても〔根岸注:底のある「ガワ」を打ち入れた上、そこから樋(とい)を突き刺して水を注入、その水流を以って揉み貫くという手法。〕流行って――水の不便な所にても大いに益を齎(もたら)す事、これ、御座った。

 

 さても、その井戸掘りの工夫を成して、流行の起立(きりゅう)を致いたは、これ、本所は中の郷に住まいせる伝九郎という井戸掘りで御座る。

 

 この伝九郎には、巷(ちまた)にちょいと不思議なる噂が御座る。

 

……かの伝九郎、とある年の夏の夜(よ)のこと、天女とも見紛う一人の女が夢枕に立って、

 

「――妾(わらわ)は水神じゃ。――近いうち、汝(なんじ)が家に来たらんとぞ思う。――」

 

と宣(のたま)うたかと思うたら、そこで目が覚めた。……

 

 数日経って――夏場のことなれば――涼みがてら、川端に出でて水浴びなんどを致いて御座ったところ、川ん中で、何やらん、足に触れたものが御座った。

 

 取り上げてみたところが、これ、一体の木像――

 

 しかも、よくよく見てみれば、これ、先日、夢中に見た天女とも見紛うた、かの女と、瓜二つ――

 

 早速、持ち帰ってはみたものの、はたと考えた。

 

「……水神言(ち)やぁ、まず、竜王の姿なんが、お定まりじゃあねえかぁ?……」

 

と怪しんで、近所に住もうておったにわか修験(しゅげん)に見せ、

 

「……どうじゃ?」

 

と訊ねたところ、

 

「――いや、これ、水神さまじゃ――水神さまは、これ、天女の姿をなさって御座るものじゃ。」

 

と申した故、伝九郎――水絡みの生業(なりわい)なれば――即、神棚を拵え、その中に水神さまを勧請の上、朝暮れとのう、祈誓致いて御座った。……

 

 すると……日増しに仕事もうまく行き始め……今では、何と、下女下男までも数多(あまた)召し使(つこ)うて、『伝九郎』と言えば、誰(たれ)一人として知らぬ者もない井戸掘りにて御座る、とか。

 

新凉二句 畑耕一

新凉の松の葉見ゆることごとく

新凉の刎ね癖つけるブラインド

2012/11/17

一言芳談 十二

   十二

 

 黑谷善阿彌陀佛、物語(ものがたりに)云、解脱(げだつ)上人の御もとへ聖(ひじり)まゐりて、同宿したてまつりて、學問せべきよしを申。かの御返事に云、御房は發心(ほつしん)の人と、見たてまつる。學問してまたく無用なり、とくかへりたまへ。これに候ものどもは、後世(ごせ)の心も候はぬが、いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へとて、追返されし云々。

 

〇同宿、おなじいほりにやどることなり。

〇學問して全く無用なり、南都に學匠ありけり。春日大明神夢中に法門など御物語ありけれども、御面(おもて)をばむけさせ給はず。學匠なれば法門をばいへども、道心がなき故に面はむけぬなりと仰せありけるとなん。

 

[やぶちゃん注:「黑谷善阿彌陀佛」遁世聖であるが『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には、『伝未詳。黒谷は比叡山西塔の別所で、ここには黒谷聖人が住していた。善阿弥陀仏は明遍と交際のあったことが』「沙石集」巻一の三「出離を神明に祈る事」に見える、とだけある。これは非常に長く、善阿弥陀仏は寧ろ、狂言回し役であるが、彼の実際の姿がくっきりと浮かび上がるシーンがあり、何より、神式の朝拝を行い、本地垂迹説に則り乍らも神国としての垂迹の神霊を祭るべしと語る公顕僧正の(この考え方自体は神仏習合の当時にあっては決して特異なものではない。後掲する解脱上人の「愚迷発心集」などにも表われる)、ある種の説得力(というより迫力)がある面白い言説を聴聞して、思わず随喜してしまう若き日の(と思われる)善阿弥陀仏は――謂わば、曾てはこうした弁論術を好み、信望したのであり――一種のレトリックやディベートを学問学識と勘違いしているような、どこの世界にもいる輩(いや、私もその一人でもあろう)であったことが分かり、本条を読み解くに頗る興味深い事実である故、当該部全文(エピソードは「三」の冒頭から三分の二ほどで総てではない)を示す(底本は読み易い一九四三年筑土鈴寛(つくどれいかん)校訂の岩波文庫版を用いた)。後に極少数の語注を附しておいた。

 

三井寺の長吏、公顯(こうけん)僧正と申ししは、顯密の明匠にて、道心有る人と聞えければ、高野の明遍僧都、かの行業(ぎやうごふ)おぼつかなく思はれけるまゝに、善阿彌陀佛といふ遁世ひじりをかたらひて、彼人の行儀を見せらる。善阿、僧正の坊へ參ず。高野ひがさにはぎだかなる黑衣きて、ことやうなりけれども、しかじかと申し入れたりければ、高野聖と聞いて、なつかしく思はれけるにや、ひたひつきしたる褻居(けゐ)に呼び入れて、高野の事、又後世の物語なんど通夜(よもすがら)せられけり。さてその朝、淨衣き、幣もちて、一間なる所の帳かけたるに向ひて所作せられければ、善阿、思はずの作法かなとみけり。三日が程かはることなし。さて事の躰(てい)能々みて、朝の御所作こそことやうに見奉れ。いかなる御行にかと申しければ、すゝみて申したく侍るに、問ひ給ひけるこそ本意なれ。我身には顯密の聖教をまなびて、出離の要道を思ひはからふに、自力よわく智品(ちほん)あさし。勝縁の力をはなれては、出離の望とげがたし。仍つて都の中の大小神祇は申すにおよばず、邊地邊國までも、聞及ぶにしたがひて、日本國中の大小諸神の御名をかきたてまつりて、此一間なる所に請じ置き奉りて、心經三十卷、神呪など誦して、法樂に備へて、出離の道偏に和光の方便を仰ぐ外、別の行業なし。その故は、大聖(だいしやう)の方便、國により機に隨つて、さだまれる準(のり)なし。聖人は常の心なし。萬人の心を以て心とすと云ふが如く、法身は定まれる身なし。萬物の身をもて身とす。肇論(でうろん)に云はく、佛は非天非人(ひてんひにん)と。故に能天能人なり。然れば無相の法身所具(しよぐ)の十界皆一知毘盧の全躰なり。天台の心ならば、性具(しやうぐ)の三千十界の依正(えしやう)みな法身所具の萬德なれば、性德の十界を修德(しゆとく)にあらはして、普現色身(ふげんしきしん)の力をもて、九界の迷情を度す。又密教の心ならば、四重曼荼羅(しぢゆうまんだら)は、法身所具の十界也。内證自性會(ないしようじしやうゑ)の本質をうつして、外用(げゆう)大悲の利益を垂る。顯密の心によりて、はかりしりぬ。法身地(ほつしんぢ)より十界の身(み)を現じて、衆生を利益す。妙躰の上の妙用(めうゆう)なれば、水をはなれぬ波のごとし。眞如をはなれたる緣起なし。寶藏論に云はく、海の千波湧かす、千波即ち海水也と。然れば西天上代の機には、佛菩薩の形を現じて、是れを度す。我國は粟散邊地也。剛強(がうがう)の衆生因果をしらず、佛法を信ぜぬ類には、同體無緣の慈悲によりて、等流法身(とうるほつしん)の應用(おうゆう)をたれ、惡鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獸の身をしめし、暴惡のやからを調伏して佛道に入れ給ふ。されば他國有緣の身をのみ重くして、本朝相應の形ちをかろしむべからず。我朝は神國として大權(だいごん)迹をたれ給ふ。又我等みなかの孫裔也。氣を同じくする因緣あさからず。この外の本尊をたづねば、還つて感應へだたりぬべし。仍つて機感相應の和光の方便を仰いで、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。金を以て人畜(にんちく)の形を作るを見て、金をわするれば勝劣あり。金を見て形をわするる時は、ことなる事なきがごとし。法身無相の金をもて、四重圓壇(ゑんだん)十界隨類(ずゐるゐ)の形を造る。形を忘れて躰を信ぜば、いづれか法身の利益にあらざる。智門は高きを勝れたりとし、悲門はくだれるをたへなりとす。ひききひとのたけくれべは、ひききをかちとするが如し。大悲の利益は等流(とうる)の身、ことに劣機に近づきて、強剛(がうがう)の衆生を利する慈悲すぐれたり。されば和光同塵こそ諸佛の慈悲の極りなれと信じて、かくのごとく行儀ことやうなれども、年久くしつけ侍りと語らる。善阿、誠にたつとき御意樂(ごいげう)也と隨喜(ずゐき)して、歸つて僧都に申しければ、智者なれば、愚の行業あらじと思つるにあはせて、いみじく思ひはからはれたりと、隨喜の涙を流がされけるとなん、ふるき遁世上人かたり侍りき。

・「公顯僧正」(天永元(一一一〇)年~建久四(一一九三)年)天台僧。安芸守源頼康の子。近江園城寺の増智らに学び、朝廷・平家一門・源頼朝らから遍く信任を得て同寺(園城寺は天智・天武・持統三帝の産湯に用いたとされる井戸があることから三井寺とも呼称する)長吏となった。建久元(一一九〇)年、天台座主に任ぜられたが、延暦寺の抗議を受けて辞任している(主に講談社「日本人名大辞典」を参考にした)。

・「褻居」居間。普段の居所なれば「褻」であろう。

・「すゝみて申したく侍るに、問ひ給ひけるこそ本意なれ」発語として――しかも僧正ともあろう仏者の発語として、実に「いやな謂い」ではないか。『自分から申し上げたく御座いましたが、貴僧がお訊ね下さったことこそ我らの本意(ほい)で御座った!』――実に白ける謂いではないか!

・「肇論」後秦の仏書。著者は僧肇(三八四年~四一四年又は三七四年~四一四年)。仏法の実相・空・般若・涅槃といった諸概念について当時の一般的な理解や道家思想などと比較しつつ説いたもので、後の中国仏教や思想界に大きな影響を及ぼし、注釈書も多く書かれた(WikiDharma の「肇論」などに拠る)。

・「無相の法身所具の十界」総ての執着を離れた菩薩の究極の境地(無相)にある永遠不滅の真の仏身(法身)は、迷いと悟りの全世界をやすやすと併呑している(所具の十界)という意味であろう(以下の注では一部で一九六六年刊岩波古典文学大系版の渡邊綱也氏の頭注を参考にさせて頂いている)。

・「一知毘盧」「いつちびる」と読む。衆生済度のために十界に偏在する昆廬舎那仏(びっるしゃなぶつ)のこと。

・「性具」『万有が菩薩界以下の九法界の善悪三千の諸法を具えているということ。』(渡邊氏注)。

・「依正」「依正二報」の略。依報(えほう)と正報(しょうほう)、即ち、過去の業(ごう)の報いとして受けるところの環境、及び、それを拠り所とする身体をいう。

・「性德」アプリオリな「生得」とほぼ同じい。衆生が本性として備えている先天的能力。

・「修德」修業によって得られた後天的な(アポステリオリな)能力。

・「普現色身」普現色身三昧とも言い、如来・菩薩が一切衆生を済度するために、変化自在な姿形となって顕現することをいう。

・「内證自性會」「自性會」は大日如来の法身が諸内眷属を集めて三世に亙って両部の大経(大日経と金剛頂経)を説くとされる法会。「内証」は、自分の心のうちで真理を悟ることをいうが、ここは一種の悟達の決定を讃えて接頭語のように附されたものであろうか。

・「外用」衆生の機に応じて如来・菩薩が本来の法身から外へと働きかけ、それが現わしたところの作用のこと。

・「妙躰の上の妙用」『物の実体とその不変の性の有する微妙な作用。』(渡邊氏注)。

・「緣起」因縁によって万物が生じ起こること。

・「寶藏論」先の「肇論」の著者僧肇の作と伝わるが、現在では後世の偽作とされる。

・「西天」天竺。

・「粟散邊地」ちいさな粟を更に撒き散らしたかのような極小の、しかも東方の僻地。

・「剛強」荒く猛々しいこと。

・「同體無緣の慈悲」如来・菩薩と一切衆生とは同一体であると観想するところから生じる広大無辺の慈悲。

・「等流法身」『等流とは、因が果を流出するのであるから、その本源は同じという意。仏身が時と所に応じて無碍自在に顕現し、働き示すこと。』(渡邊氏注)。

・「大權迹をたれ給ふ」「權」は仮りの姿の意。仏が畏れ多い神なるお姿と仮りにおなりになって本邦へ垂迹なされた、という本地垂迹説を語る。

・「機感相應の和光の方便」『衆生に善根があって仏を感じ、又衆生に善根を生ずる可能性があれば、仏が是に感応して触発すること。』(渡邊氏注)。

・「金」岩波大系版では「こがね」と訓じている。

・「隨類」『仏が衆生の機類に随って姿を現じ教えをたれること。』(渡邊氏注)。

・「智門」如来・菩薩に具わった広大無辺の智慧。

・「悲門」如来・菩薩に具わった広大無辺の大慈悲心。

・「ひきき」低い。

・「劣機」『機根の劣っている者。』(渡邊氏注)。

・「和光同塵」如来・菩薩が本来の威光を和らげ、塵に穢れたこの世に仮の身を現し、衆生を済度すること。

・「御意樂」『「実に貴いお心がけ」程の意』(渡邊氏注)。

 

「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)。藤原信西を祖父に持つ。号を解脱房、勅謚号を解脱上人と言った。笠置寺上人とも呼ばれた。平治の乱では祖父は自害、また彼の父藤原貞憲も配流された。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り、十一歳で出家、叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。寿永元(一一八二)年には維摩会(ゆいまえ:興福寺において毎年十月十日より七日間に亙って行われる「維摩経」を講説する大会。)の竪義(りゅうぎ:「立義」とも書く。「リュウ」は慣用音で、立てるという意味。義を立てる・理由を主張するということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて論題提出僧すなわち探題より出された問題につき、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧、竪義者(りゅうぎしゃ)。竪者(りつしや)・立者とも書く。)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って建久四(一一九三)年、以前から弥勒信仰を介して信仰を寄せていた笠置寺に隠遁、以後、般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始して弥勒講式を作るなど弥勒信仰を一層深めた。元久二(一二〇五)年には「興福寺奏状」を起草、法然の専修念仏を批判して、その停止を求めてもいる(そうした人物の言行をさえ引く「一言芳談」の懐の広さを見よ)。承元二(一二〇八)年には海住山寺に移り、観音信仰にも関心を寄せた(以上は主にウィキの「貞慶」を参照した)。

「聖」高野聖。……ここであることが見えてくる。善阿弥陀仏は「沙石集」話柄で、独特の姿をした高野聖として登場する。……即ち、この解脱上人に追い返された(これは言わずもがなであるが――善意で追い返しているのである)高野「聖」とは――実は――これを語っている善阿弥陀仏本人であったのではあるまいか?

「またく」全く。

「これに候ものどもは、後世の心も候はぬが、いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へ」私はこのエピソードを、解脱上人貞慶が未だ興福寺にいて、しかも寿永元(一一八二)年の維摩会竪者を務めた後、学僧として期待された頃から、建久四(一一九三)年に隠遁してしまうまでの間の出来事と読む。従ってこの「候ものども」は貞慶を除く(いや寧ろ当時の名声高き学僧であった貞慶自身をも含めて)興福寺の高僧・学僧総てを指していると考える。そして学識を鼻に掛けた彼らはその実、心から極楽往生を願う素直な心さえも持っておらぬ(「後世の心も候はぬ」)、ところが、何もしないでおるよりはましであろうと、学問をしているに過ぎぬのだ(「いたづらにあらむよりはとてこそ、學問をばし候へ」)と痛烈に内部告発している、と私は読むのである。この、直情径行で一見異形の、しかし『直き心』を持ったとみた青年僧(「沙石集」の善阿弥陀仏は私にはそう映る)の、追い出されてとぼとぼと行くその背中へ、解脱上人は――かのツァラトゥストラの如く――逃れよ、逃れよ、荒野へ――と呟いているように私には見えるのである――

「法門」仏の教え。]

廻轉扉新凉の人われと押せり 畑耕一

廻轉扉新凉の人われと押せり

2012/11/16

北條九代記 伊豫守義經自殺


      ○伊豫守義經自殺


伊豫守義經、備前守行家は賴朝卿に背き奉りて自立(じりふ)の志あるを以てその行方を尋搜(たづねさぐ)り討取るべきの由仰せ觸れらる。是に依て諸方に忍び給へども、足を留むる所なし。行家は和泉國小木郷(おぎのがう)の民家に入て、二階の上に隱(かくれ)ゐたるを、常陸房昌明(ひたちぼうしやうめい)聞付けて討取りぬ。義經の家人堀彌太郎景光は糟屋藤太に京都にして生捕(いけどら)れ、佐藤忠信は中御門東洞院にして誅せらる。其外一族餘黨悉く伏誅(ふくちう)す。義經は妻子を相倶し、山臥の姿に成りて、伊勢美濃を經て、奥州に下られしを、秀衡卌(かしづ)き奉り、衣川の館(たち)にいれまゐらせ、暫(しばらく)安堵の思(おもひ)を延(のべ)られしに、文治三年十月二十九日秀衡逝去せられたり。日比重病に罹りしかば、子息泰衡以下を召して遺言しけるは、「伊豫守殿を大將軍とし國務を勤め侍らば、陸奥出羽の兩國永代を持(たも)つべし」となり。然るを賴朝卿宣旨を以つて、「義經を討ちて奉るべし」と使節度々に及びしかば、泰衡忽(たちまち)に心を變じ、家人郎從數百騎を遣し、衣川の館を攻ければ、郎從共は戦うて討死し、義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり。新田冠者高平(たかひら)を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける。泰衡が弟泉三郎忠衡は義經に同意したりとて、人数を遣して攻討(せめうち)けり。

[やぶちゃん注:「和泉国近木郷」「近木」は「こぎ」と読む。近木荘(こぎのしょう)。現在の大阪府の南西端の旧日根郡内にあった荘園。頼朝叔父行家は、この神前清実(かむさききよざね)の屋敷に潜伏していたがは元暦二(一一八四)年五月、地元民の密告によって露顕、北条時定の手兵によって捕らえられて斬首された。


「常陸房昌明」(生没年未詳)は「しょうみょう」とも読む。当初は延暦寺の僧であったが武芸に優れ、平家滅亡後は北条時政に従い、京都警備に当たった。ここにある源行家追討、奥州藤原攻め、承久の乱で活躍、法橋(ほっきょう)を称し、承久三(一二二一)但馬守護に任ぜられた。常陸房は通称。


「堀彌太郎景光」(?~文治二(一一八六)年)出自不明。「平治物語」では『金商人』とあることから、金売り吉次の後身とも伝えられる。当初、義経都落ちに同行したが、後に別れて京都潜伏中に文治二(一一八六)年九月二十日に捕縛され、義経が南都興福寺の聖弘得業に匿われている(前出)こと、義経の使者として後白河法皇の近臣藤原範季と連絡をちっていたを白状している。その後に斬首されたとも言われるが定かではない。


「糟屋藤太」糟屋有季(?~建仁三(一二〇三)年)。相模国大住郡糟屋荘(現在の伊勢原市一帯)荘司糟屋盛久の子。妻は比企能員の娘。石橋山の戦いでは大庭景親に従っていたが、その後、頼朝に臣従したと見られ、寿永二(一一八三)年には源義経率いる源義仲討伐軍に属して、宇治川の戦いに加わっている。文治二(一一八六)年、失脚して都落ちした義経探索のため、比企朝宗の手勢に属して上洛、義経の郎党佐藤忠信・堀景光を捕縛した。奥州合戦に従軍、頼朝死後の正治二(一二〇〇)年に起った梶原景時の変では景時討伐軍に属して賞を受けている。建仁三(一二〇三)年九月二日に比企能員の変が勃発、能員の娘婿であった有季は比企一族とともに北条義時軍と戦って討死にした。参照したウィキの「糟屋有季によれば、この時、『有季が頼家の子一幡を逃がすべく小御所に立て籠もり、敵方に命を惜しまれて逃げるように呼びかけれられたが答えず、最後まで奮戦して討ち死にした様子が』「愚管抄」に記されている、とある。

「佐藤忠信」(応保元(一一六一)年?~文治二(一一八六)年)は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継とも)を父とする。以下、ウィキ佐藤忠信」によれば、治承四(一一八〇)年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄継信と共に義経に随行、義経の郎党として平家追討軍に加わった(兄継信は屋島の戦いで討死)。元暦二(一一八五)年の壇ノ浦の戦いの後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、この忠信も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(狢・狸とも)にも落ちる。」と罵られたとする。文治元(一一八五)年十月十七日、『義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している』。同年十一月三日、『都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏』、文治二(一一八六)年九月二十二日、『人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党』二人と共に自害して果てた。室町初期に書かれた「義経記」では『忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となって』おり、この名場面から、後の浄瑠璃や歌舞伎の演目として名高い「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」が誕生した。継信・忠信兄弟の妻たちは、息子二人を失い、『嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された』とある。


「卌(かしづ)き」本字を「かしづく」と読む例、不詳。識者の御教授を乞う。


「義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり」現在の知見では義経の生年は平治元(一一五九)年で高館(たかだち)での自害は文治五(一一八九)年閏四月三十日とされるから、享年三十一歳である。

「新田冠者高平を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける」「新田冠者高平」は藤原泰衡の家臣。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)六月十三日の条を見ておこう。
〇原文
十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實撿。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黑漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糇。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。泰衡が使者新田の冠者高平、豫州の首を腰越の浦に持參し、事の由を言上す。仍りて實撿(じつけん)を加へんが爲、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼の所へ遣はす。各々、甲直垂(よろひひたたれ)を著し、甲冑の郎從二十騎を相ひ具す。件の首は黑漆(こくしつ)の櫃(ひつ)に納(い)れ、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔(かたん)す。昔、蘇公は、自ら其の糇(かて)を擔(にな)ふ。今、高平は、人をして彼(か)の首を荷(にな)はしむ。觀(み)る者、皆雙、涙を拭ひ、兩衫(りやうさん)を濕(うるほ)すと云々。
・「蘇公」「蘇」は夏・殷の頃、現在の河南省済源県の西南にあった(春秋時代に狄(てき)に滅ぼされた)国の名であるが、「自ら其の糇を擔ふ」(「糇」は「糧」に同じ)の出典は不明。識者の御教授を乞うものである。

「忠衡」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男、藤原泰衡の異母弟。通称の泉三郎・泉冠者とは、秀衡の館であった柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていたことに基づく。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された。「吾妻鏡」の文治五年六月二十六日の条には、『廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意與州之間。依有宣下旨也云々。』(廿六日甲寅。奥州に兵革有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三〕を誅す。是れ、與州に同意するの間、宣下の旨有るに依りてなりと云々。) とあり、そこには「兵革有り」とあることから、忠衡の誅殺には軍事的衝突が伴ったと見られている(以上はウィキ藤原衡」を参考にした)。


「人数を遣して攻討けり」の主語は兄藤原泰衡である。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(5) 了

 牛玉    一顆

 鹿玉     同

 如意寶珠   同

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が三字下げ。]

前ノ袈裟座具卜此如意寶珠ハ、内陣ニ入テアル由ニテ見ルコトナシ。社僧云、如意寶珠卜云モノ二種アリ。一種ハ自然ト龍ノ頸上ニアル珠ヲ云。是ヲ肝頸ノ珠ト云。一種ハ能作(サ)生ノ珠ト云。眞言ノ法ヲ樣々執リ行ヒテ修シ得テナル珠ナリ。此社ニアル如意寶珠ハ、能作生ノ珠ナリト云。

 五鈷

 是ヲ雲加持ノ五鈷ト云、古器也。昔醍醐山ニ範俊・義範ト云二人ノ名僧アリ。範俊ハ法兄也。義範ハ法弟也。天下早魃アリ。義範勅ヲ承テ神泉苑ニテ雨ヲ祈ル。範俊、義範ガ吾ニ先テ勅ヲ奉ルコトヲフヅクム。時ニ黑雲ムラガリ起テ將ニ雨フラントスルニ、範俊ガ五鈷忽鴉卜化シテ雲ヲ呑却ス。故ニ雲加持ト名付ル也。

[やぶちゃん注:「フヅクム」清音の「ふつくむ」が正しい。「憤む」「恚む」で、怒る、怒り恨むの意のマ行四段活用の動詞。]

 朝鮮鈴  ヒヾキ惡クシテ日本ノ鈴ニシカズトゾ。

[やぶちゃん注:「鈴」は音読みして「レイ」。]

 菩提心論   一卷 細字ナリ。智證大師ノ筆

 功德品    一卷 細字也。菅相公ノ筆

 心經     一卷 基氏ノ筆、紺紙金泥一字三禮ナリ。名判アリ。

 心經     一卷 紺紙金泥。氏滿ノ筆。至德二年二月十六日名判トモニ備ル。

 御影

[やぶちゃん注:以下、底本では全体が三字下げ。]

昔ヨリ傳タレドモ、今ニ終拜見シタルモノナシ。錦ノ袋ニ入、長三尺計ニ、幅八寸四方程ノ箱二納メ、鳥居ヲ立、注連ヲ引、十二ケ院ノ供僧一ケ月ヅヽ守護シ、毎月座ノ行ヒ勤メニ法華經ヲヨムト也。何モノト云事ヲシラズ。何ノ御影ゾト問へバ、定テ八幡ノ御影ナルべシト答フ。俗ニ囘リ御影卜云フ。

[やぶちゃん注:「今ニ終拜見シタルモノナシ」底本では「終」の右に『(ニ)』と送り仮名を注す。

「座ノ行ヒ勤メニ」底本では右に『(三座ノ行ヒヲツトメィ)』とある。光圀による、この回御影(まわりみえい)に於ける日に三座行われた勤行の掛け声の傍注であろう。]

 本社ノ前二鶴龜ノ石一ツアリ。水ニ洗へば、光澤出テ鶴龜ノ形ノ如クカヾヤキ見ユ。影向ノ石ニツアリ。御手洗ノ池ヨリ出ルトゾ。賴家參籠ノ時ニ、海中ヨリ龍燈アガリ、此石ニ影向スルトナリ。側ニ武内ノ社アリ。賴朝堂本社ノ西ニアリ。白幡明神卜賴朝トヲ合祭ル。賴朝ノ木像アリ。左ニ住吉明神ノ木像、右ニ聖天アリ。愛染堂、賴朝堂ノ前也。愛染ハ運慶作也。堂ノ内ニ地藏アリ。腹ノ内ニモ千躰ノ地藏アリト云。二位ノ禪尼ノ本尊也トゾ。側ニ鐘アリ。正和五年二月ト銘アリ。願主ノ姓名ナシ。酒宮、二王門ノ前ナリ。神躰ハ酒宴醉臥ノ體也ト云。其外小社多シ。實朝ノ社アリ。柳營ノ宮トモ云。ソレヨリシテ十二ケ院ノ内等覺院ニ至ル。弘法自作ノ鍍大師トテ木像ニテ膝ヲ屈伸スルヤウニ作リタル也。安置シタル堂ヲ蓮華定院ト云。勅書アリ。板面ニ書寫シテアリ。御祈禱可仕(仕るべき)由ノ勅意、執達ハ左少辨俊國、應永二十七年十二月十三日トアリ。此院ノイリノ谷ニ八正寺トテ、昔ノ八幡ノ大別當僧正ノ舊跡ナリト云。惠光院ニ釋迦アリ。名佛也。左右二普賢・文殊アリ。獅子ノ像ナド極テ見事也。阿彌陀ノ小像、其外古佛多シ。總テ八幡ノ社領永樂錢八百四十文也。今ノ三千二百石餘ニアタルトゾ。十二坊アリ。一坊ニ三十八貫文充分領ス。神主大友志摩ハ百貫、小別當周英ハ五十首領スルトゾ。周英ハ妻帶ニテ、禪宗也。今ノ一臘ヲ淨國院卜云。老僧次第ニ、一臘ヲ囘リ持ニスルト也。僧正院ニ賴朝ノ法華堂ノ本尊ヲ引、安置セラレシナリ。彼本尊ハ賴朝石橋山合戰ノ時、杉山ニ寵リ、己ニ難儀ノ時、彼佛ヲ取出シ、岩上ニヲカル。兵ドモ不審ス。賴朝ノ曰ク、サスガニ源氏ノ大將ノ、常ニ身ヲ放タズト、カバネノ後ニイハレンハ口惜カルべシト也。其後護持ノ僧拾ヒテ奉ルトゾ。銀ノ一寸六分ノ觀音ナリ。ソレヲ今木像ノ觀音ノイタヾキニ納テ有卜也。

[やぶちゃん注:「酒宮、二王門ノ前ナリ。神躰ハ酒宴醉臥ノ體也ト云」とあるがこれは伝聞で、実は既にこの奇体な神体はなかった。「新編鎌倉志卷之一」の鶴岡八幡宮の項の「稻荷社」の中に、

今の稻荷の社(やし)ろ、本は仁王門の前に有て、十一面觀音と、醉臥(すいぐは)の人の木像を安じ、酒(さけ)の宮と號す。近き頃大工遠江(とをとをみ)と云者有。甚だ酒を好(このん)で此を寄進す。寛文年中の御再興の時、其體(てい)神道・佛道に曾て無ナき事也とて、酒の宮醉臥の像を取捨(とりすて)て、觀音ばかりを以て、稻荷の本體として、此丸山に社を立て、舊(ふる)きに依て松岡の稻荷と號す。前の鎌倉の條下に詳なり。十一面觀音を稻荷明神本地と云傳る故に、此社内にも十一面を安ずる也。

と記す。

「總テ八幡ノ社領永樂錢八百四十文也」の「文」は「貫」の誤り。

「僧正院ニ賴朝ノ法華堂ノ本尊ヲ引……」底本では「僧正」の右に『(相承カ)』と編注がある。]

 又押手ノ聖天卜云モ同堂ニアリ。是ハ本比叡山ニ有ケリ。昔或人官女ヲ戀ヒ、セン方ナクシテ此聖天ニ千日詣ズ。其利生ニヨリ、官女男ノ家ニ通ヒ來レリ。宮中ニ此事アラハレ、其由ヲキハメ問ニ、官女我心トモナク、夢幻ノヤウニシテサソワレ行ト云。群臣ハカリテ彼門ニ手ノ形ヲ墨モア押テヲケト云へバ、教ニ任セテヲス。歸テノ後、人ヲ見セシムルニ、路中ノ門々ニ皆手形有テ、何ヲソレト知ガタシ。是又聖天ノナス所ナリトゾ。是神力トハ云ナガラ、宮女ヲカクナセシハ罪ナリトテ、關東ニ拾シヲ、鎌倉ニ安置セシト也。此故ニ押手ノ聖天トハ云也。

[やぶちゃん注:「關東ニ拾シヲ」は「捨(すて)シヲ」の誤りであろう。]

 昔ハ廿五ノ菩薩ヲ表シテ廿五坊有シガ、中比絶果タルヲ、東照宮十二坊ニ建立ナサレシト也。

 今宮トテ東ノ谷ニ宮アリ。社ノ後ロニ大杉五本一株ヨリ生出タリ。何モ二カヒ程アリ。里俗天狗ノ住所トテ恐ルト也。八幡ノ社ノ圖別紙アリ。大華表ハ北條氏綱立ト云。又社再興モ有シト也。關束兵亂記云。小弓殿ハ高家ト云ヒ、強將ト云ヒ、縱ヒ合戰ニ打勝トモ、二戰三戰シテ漸々城ヲ取べキナド、兼テ小田原衆モ思ヒシニ、氏綱武勇人ニ勝レ、謀ガマシキ故ニ、輙ク討取ル樣ニ立願ドモアリ。其願ヲ果ン爲、又ハ子孫ノ武運ヲ祈ン爲ニ、天文三年ノ春、上官囘廊等ニ至迄、再興セラル。其時ノ普請奉行幷社中法度等ノ書付、詳ニ鶴岡日記ニ載タリ。同五年八月廿八日二假殿遷宮アリ。其後氏康、先君ノ遺願ヲモ果シ、且ハ武運ノ榮久ヲモ祈ン爲ニ、同廿一年卯月十二日〔或ハ十一年卯月十日ニ作ル〕由比濱ニ大鳥居修造ノ事終シカバ、先例ニ任セ、一切經ヲ轉讀アリ。其外金銀ノ幣吊、太刀・長刀・馬鞍ニ至迄、種々ノ寶物ヲ進ラスル。

[やぶちゃん注:「大華表」大鳥居。

「小弓殿」小弓公方足利義明。第二代古河公方足利政氏の子。この部分は戦国時代に下総国の国府台城(現在の千葉県市川市)一帯で北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた国府台合戦(こうのだいかっせん)の内、北条氏綱とその子氏康対足利義明・里見連合軍の第一次国府台合戦(天文七(一五三八)年)を背景とする。義明は奮戦の末、敗死した。

「輙ク」は「たやすく」と読む。]

一言芳談 十一

   十一

 

 有云、尺摩訶衍論(しやくまかえんろん)の中(うち)に、一室に二人とも住(すむ)べからず。たがひになやまし、道を損ずるがゆへなりといへり。

 

(一)釋摩訶衍論、釋論第八云、言獨一不共因緣者、謂若爲修彼止輪門、一界内中二人共住不得理故、所以者何、互動煩故(釋摩訶衍論、釋論第八に云く、獨一不共因緣と言ふは、謂はく若し彼の止輪門を修せん爲めには、一界内の中に二人共、住すれば、理を得ざるが故に、所以者何となれば、互ひに動煩するが故に)。

 

[やぶちゃん注:「尺摩訶衍論」湛澄が注するように「釋摩訶衍論」が正しい。伝龍樹作で十巻から成る大乗起信論の註釈書。実際には八世紀前半に中国仏教圏で華厳教学を背景に成立したもの。日本に伝えられると空海がこの論の中にある密教の要素に着目、真言密教を体系化することを目的として大乗仏教と密教との峻別の典拠としたため、真言教学史の中では特に重視されてきた仏典である(以上はウィキ釋摩訶衍論」に拠る)。

(一)全文漢文で訓点があるのを、やや送り仮名を附して訓読した。以下に注す。

・「釋論」は「釋摩訶衍論」のこと。

・「獨一不共因緣」は「獨一にして因緣を共にせず」の謂い。

・「止輪門」修行悟達の階梯の一つと思われるが不詳。識者の御教授を乞う。

・「一界内」は「いつかいだい」と読むか。

・「所以者何となれば」は「ゆゑはいかんとなれば」と読む。通常の漢文訓読では「ゆゑんのものはなんぞや」で通常の漢文ならば「所以」と「者」の間に「所以」の内容が挿入されるが、仏典では「所以者」という形が許容される。参照した松本淳氏の「日本漢文へのいざない」の第一部 日本文化と漢字・漢文 第五章 読解のための漢文法入門 第4節 特殊な短語 (13)所字短語9 所者短語2 所謂と所以によれば、これは『サンスクリット原典の調子を翻訳にも再現しようとした苦心のあとなのだと思』われると述べておられる。

・「動煩」「ドウハン」と音読みしているか。「心が乱れて(動)俗念に心を惑わす(煩)」の謂い。]

耳嚢 巻之五 相人木面を得て幸ひありし事


 相人木面を得て幸ひありし事
 


 予が許へ來れる某は相學を好(このみ)て、家業のいとま相を見る事をなせしが、寛政寅の事、初午(はつうま)にいつも千社參りをなしける故、駒込大觀音邊の稻荷抔を札を張りしに、右觀音境内の稻荷の椽際(えんぎは)に、いかにも古びたる瘦男(やせをとこ)ともいふべき面(おもて)あり。子供の捨しにや、さるにても其面相も面白(おもしろき)と思ひしが、若(もし)拾ひ取りても主(ぬし)ありてはいかゞと、其儘神拜をなして歸りけるが、日數暫立て某が女房、今朝可笑しき夢を見たり、能のシテともいふべき面(おもて)忽然として物いひけるは、普請(ふしん)にて我等も居所差支(さしつかへ)候間、此邊へ移し取りて祭りをなせよかし、と云ふに驚(おどろき)て夢覺(さめ)ぬと語りし故、兼て女房に咄しける事もなければ、初午の事思ひ出(いで)て、早速大觀音の近所へ至りてみれば、有りし社頭は普請とみへて足代(あししろ)など掛渡しある故大きに驚き、ありつる椽の下を見るに、其最寄なる所に初午に見し面埃(ほこり)に埋れ有し故、早速拾ひ取て家へ持歸り、清めて神棚へ上げ祭禮をなせしに、夫(それ)より思わずも相學の門人日を追つて多く、世渡りも安く暮しぬと語りぬ。


□やぶちゃん注

○前項連関:思いもかけないものが福を呼び込むことで連関。

・「寛政寅」寛政六(一七九四)年甲寅(きのえとら)。

 

・「初午」陰暦二月の最初の午の日。また、その日に行われる各地の稲荷社の祭礼をも言う。

 

・「千社參り」千社詣で。一般名詞としては、多くの寺社に巡拝祈願することを言うが、狭義には、二月初午の日に稲荷を巡拝することを指す場合が多い。特に本話柄の含まれる天明から寛政年間(一七八一年~一八〇一年)にかけて多くの稲荷社を参る「稲荷千社参り」が流行し、そこに貼った札を「千社札」と言うようになった。これが貼られている間は当該寺社に参籠しているのと同じ功徳があるとされて(あくまで民間の伝承)、日帰りの参拝者が参籠する代わりに自分の名札を貼ったのが始まりと伝えられる。

 

・「駒込大觀音邊の稻荷」「駒込大觀音」は文京区向丘二丁目にある浄土宗天昌山光源寺のこと。天正一七(一五八九)年に神田に創建され、慶安元(一六四八)年に現在地に移転した。境内には元禄一〇(一六九七)年造立の身の丈約八メートルの十一面観音像があって信仰を集めた。本像は東京大空襲で焼失したが、平成五(一九九三)年に再建されている。その近くの稲荷社について、底本の鈴木氏注には『駒込富士前町には満足稲荷の外にも稲荷社が三社ある』と記されておられる。ここでは「右觀音境内の稻荷」とあるから、彼が訪れたのは光源寺境内に祀られた稲荷社、それも普請に足場を組む必要のあるような相応に大きな神殿を持ったものであることが窺われる。

・「瘦男」能面の一つ。執念と怨恨とに窶(やつ)れ果てた男の亡霊を表わす。「阿漕(あこぎ)」「善知鳥(うとう)」「藤戸(ふじと)」の後ジテなどに用いる。

・「足代」工事用の足場。

・「ありつる椽の下を見るに」この「下」は恐らくは「もと」で、かつて面の置かれてあった縁側の、その場所の謂いであろう。但し、シチュエーションではその元の場所を主人公が見る――ない――その縁の真下を捜す――ない――いや! その近くの縁の下にあった! というシークエンスを私は採らせて戴いた。


■やぶちゃん現代語訳


 人相見を趣味とする者が面を拾い得て福を得たる事


 私の元をしばしば訪れる某(なにがし)は相学を好み、家業の暇(いとま)に人の手相・人相見なんどを致すを、これ、趣味と致いて御座った。

 寛政六年寅年のこと、かの男、二月の初午の日には、これ毎年、千社参りを致いて御座った故、その日も駒込大観音辺りの稲荷などを廻って千社札を貼って御座ったところ、その駒込大観音境内の稲荷社の縁の際(きわ)に、如何にも古びた感じの、かの能面の「痩男(やせおとこ)」とでも申そうず、面が一つ、置かれて御座った。

「……玩具の面を、子供でも捨てたものか……いや……それにしては、この面相、なかなかに……面白き面相では、ある……」

なんどと、日頃の相学の興味もあってちょっと惹かれはしたものの、若し拾って持ち帰るも、万一、誰ぞ持ち主の御座ることも、これ、あらばこそ、と考え直し、ただそのままにし、稲荷へ参拝を成して帰って御座った。――

 数日過ぎた、ある日のこと、かの男の女房、朝餉の折り、

「……今朝は可笑しな夢を見ましたのよ。……何だか能のシテに似た面が、忽然と夢の中に現われて、ものを申しますの……それを聴けば……『――普請の始まって――我らが居所(きょしょ)にも差支えの出来(しゅったい)致いて御座る間――この辺りへ移し――祭りをなせよかし――』……と、あの、何とも暗(くろ)う沈んだ顏で云いますの。……もう、驚いて、そこで、夢から醒めました。……」

と語る故、

『……おかしい。……かねて、あの面のこと、これ、女房には話してはおらぬが……』

と、かの初午の日のことを思い出だいて、早速、大観音の近くを指して参ったれば……

先日まで御座った稲荷社の社頭……

これ、何やらん、普請替えと見えて……
縦横に、足場なんどを掛け渡して御座った故、大いに驚き……

――かの面が置かれて御座った縁を見る……
――ない

――その縁の下を覗く……

――ない……
――いや!

――あった!

……そこから程遠からぬ縁の下に、かの初午の日に見た一面、これ、埃(ほこり)に埋もれて御座った。
 早速に拾い取りて家へと持ち帰り、洗い清めて神棚へと上げ、祭礼を成した。……

 

「……いや! それより、思いの外、下手の横好きで御座った相学の門人が、これ、日を追う毎、増えましての!……趣味で御座ったものが、その……門弟からの謝金だけでも、これ、易く暮らせるほどに、これ、相い成って御座りまする……」


と、かの当人が語って御座った。

病臥一句 畑耕一

   病臥
吸引器吹きをはりたる顏も秋

2012/11/15

北條九代記 西行法師談話

      〇西行法師談話

八月十五日賴朝卿鶴ヶ岡に參詣し給ふ。御下向の道に於て一人の老僧鳥居の邊に徘徊す。梶原景季を以て名字を問はしめ給ふに、「佐藤兵衞憲淸(のりきよ)法師なり。今は西行と名付(なづく)る者なり」と答へたり。賴朝大に喜びたまひ、奉幣(ほうべい)の後心靜に對面を遂げらるべしとて、西行殿中に招請し、還御の後、御芳談に及ぶ。其間に歌道竝に弓馬の事に就て尋ね仰せらるゝに、西行上人申されけるは、「在俗の往初(そのかみ)なまじひに家風を傳ふといへども保延三年八月遁世の時、藤原秀郷朝臣より以來九代嫡家相承(ちやくけさうじよう)の兵法(ひやうはふ)の書は悉く燒失す、思へば是罪業(ざいごふ)の因(たね)なるを以てその事今は露計も心の底に残し候らはず、皆忘て候。詠歌は是花月に對して心を感ぜしめ候折節は、僅に文字の數を連ぬる計にて、更に奥旨(あうし)を知るりたる事もなければ、又報じ申すべくも候らはず。されども恩問(おんもん)等閑(なほざり)ならねば弓馬の事粗々(あらあら)申さん」とて、終夜(よもすがら)語明(かたりあか)して退出しけり。頻りに留め給へども、今はとて抅(かゝは)らず。賴朝白銀(しろがね)にて作りし猫を送られしに、西行上人賜りて門外に遊び居たる子兒(せうに)に與へて過ぎ行けり。是は俊乘坊重源上人に約(やく)をうけ、東大寺勸進の爲奥州秀衡は一族なれば、陸奥に赴くたよりに鶴ヶ岡に順禮すと聞えたり。

[やぶちゃん注:「同年」文治二(一一八六)年。以上は「吾妻鏡」に拠る。八月十五・十六日両日の条を以下に示す。

〇原文

十五日己丑。二品御參詣鶴岡宮。而老僧一人徘徊鳥居邊。恠之。以景季令問名字給之處。佐藤兵衞尉憲淸法師也。今号西行云々。仍奉幣以後。心靜遂謁見。可談和歌事之由被仰遣。西行令申承之由。廻宮寺奉法施。二品爲召彼人。早速還御。則招引營中。及御芳談。此間。就哥道幷弓馬事。條々有被尋仰事。西行申云。弓馬事者。在俗之當初。憖雖傳家風。保延三年八月遁世之時。秀郷朝臣以來九代嫡家相承兵法燒失。依爲罪業因。其事曾以不殘留心底。皆忘却了。詠哥者。對花月動感之折節。僅作卅一字許也。全不知奥旨。然者。是彼無所欲報申云々。然而恩問不等閑之間。於弓馬事者。具以申之。即令俊兼記置其詞給。縡被專終夜云々。

 

十六日庚寅。午剋。西行上人退出。頻雖抑留。敢不拘之。二品以銀作猫。被宛贈物。上人乍拝領之。於門外與放遊嬰兒云々。是請重源上人約諾。東大寺料爲勸進沙金。赴奥州。以此便路。巡礼鶴岡云々。陸奥守秀衡入道者。上人一族也。

 

〇やぶちゃん書き下し文

十五日己丑。二品、鶴岡宮に御参詣。而して老僧一人、鳥居邊に徘徊す。之を恠(あや)しみ、景季を以て名字を問はしめ給ふの處、佐藤兵衛尉憲淸法師なり。今は西行と號すと云々。

仍て奉幣(ほうへい)以後、心靜かに謁見を遂げ、和歌の事を談ずるべきの由、仰せ遣はさる。西行、承るの由を申さしめ、宮寺を廻り、法施(はふせ)奉る。二品、彼の人を召さんが爲に、早速、還御す。則ち營中に招引し、御芳談に及ぶ。此の間、歌道幷びに弓馬の事に就き、條々尋ね仰せらるる事有り。西行、申して云はく、「弓馬の事は、在俗の當初(そのかみ)、憖(なまじ)ひに家風を傳ふと雖も、保延三年八月遁世の時、秀郷朝臣以來九代嫡家相承の兵法を焼失す。罪業の因たるに依りて、其の事曾(かつ)て以て心底に殘し留めず、皆、忘却し了んぬ。詠歌は、花月に對し、動感の折節、僅かに卅一字(みそひともじ)を作る許りなり。全く奥旨を知らず。然れば、是れ彼れ、報じ申さんと欲する所無し。」と云々。

然れども、恩問、等閑(なほざり)ならざるの間、弓馬の事に於いては、具さに以て之を申す。

即ち、俊兼をして其の詞を記し置かしめ給ふ。縡(こと)終夜を専らにせらると云々。

 

十六日庚寅。午剋、西行上人退出す。頻りに抑へ留むと雖も、敢て之に拘はらず。二品、銀作(しろかねつくり)の猫を以て贈物に宛てらる。上人、之を拝領し乍ら、門外に於て放遊の嬰兒に與ふと云々。

是れ、重源(ちやうげん)上人の約諾(やくだく)を請け、東大寺料に沙金(しやきん)を勸進のせんが爲に、奥州へ赴く。此の便路を以て、鶴岡へ巡礼すと云々。

陸奥守秀衡入道は、上人の一族なり。

西行(元永元(一一一八)年~文治六(一一九〇)年)は当時、満六十八歳、頼朝三十九歳であった。「宮寺を廻り、法施奉る」は西行の行動。

・「保延三年八月遁世の時」西暦一一三七年。このクレジットで鳥羽院の北面武士としての記録が残り、現在の知見では、西行の出家は保延六(一一四〇)年十月十五日のこととする。

・「秀郷」弓の名手として知られた将門討伐の猛将鎮守府将軍藤原秀郷。西行、俗名佐藤義清は藤原秀郷の流れを汲む佐藤氏の嫡子として生まれ、秀郷から数えて九世の孫に当たる。

・「憖ひに」ここでは、(祖秀郷の弓術の直伝を)中途半端に、の謙遜。

・「恩問」他者の訪問や書状を敬いって感謝の意をこめていう語。誠意を込めた(頼朝公の)お訊ね。

・「俊乘坊重源上人」(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)。紀季重の子。長承二(一一三三)年、真言宗の醍醐寺で出家、南宋を三度訪れたともされる(彼自身の虚説とも)。後に法然に学び、四国・熊野など各地で修行をして勧進念仏を広め、勧進聖の祖となった。東大寺大勧進職として治承四(一一八〇)年十二月の平家攻略により焼失した東大寺の再建復興を果たした。

「是は俊乘坊重源上人に約をうけ、東大寺勸進の爲奥州秀衡は一族なれば、陸奥に赴くたよりに鶴ヶ岡に順禮すと聞えたり」という附言は意味深長である。まず、前日の冒頭で「老僧一人、鳥居邊に徘徊す」とあるが、これは明らかな意識的な行動に見えてくるということだ。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条では、西行はこの日が放生会であることを知っており、実は彼の頼朝謁見は計画的な行動であったのであり、『頼朝との面会の意図は、東大寺勧進物の安全な輸送を取り付けるためだと思われる』と注されておられる(因みにここで梶原景季を不審僧の確認に遣わしたことについても彼の父『梶原平三景時共々徳大寺の被官をやっていた。西行も同じなので、知り合いらしい』とある)。穿って考えるならば、義経を庇護している疑いが濃厚な秀衡の、義経隠匿の状況や秀衡自身及びその周辺事情の探索を頼朝が暗に西行に依頼したという可能性もないとは言えまい。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(4)

なかなか手強かった文書類を一気にやっつけた。



 一武藏國平井〔云云〕

[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。

寄進 鶴岡八幡宮

  武藏國平井彦次郎跡事

 右、為當社領寄附也者、早守先例、可被致沙汰之狀如件、

     應永十九年三月二十七日

                左兵衞督源朝臣(花押)

「鎌倉市史 社寺編」には「武藏國平井彦次郎跡」を『(東京都西多摩郡郡内か)』とする。]

 

 一六郷保〔云云〕。保内卜云ハ昔ヨリ有來リタルコトナルベシ。

[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。

寄進  鶴岡八幡宮寺

  武藏國入東郡難波田小三郎入道跡事

 右、爲同國六郷保内原郷替、所寄附之狀如件、

    應永七年十二月廿日

                左馬頭源朝臣(花押)

「入東郡」は後の埼玉県入間郡。「六郷保」は現在の東京都大田区にあった荏原郡。この文書は鎌倉公方足利満兼が、従来、鶴岡八幡宮寺に寄進していた六郷保内原郷の代替寄進地として、入東郡内の難波田小三郎入道の跡地を寄進する、という内容である。この「保」とは、平安時代後期(十一世紀後半以後)から中世にかけて新たに生まれた所領単位である。以下、ウィキの「保」を引用する。保は『人名や地名を冠して呼ばれ、「荘」「郷」「別名」と並んで中世期を通して存在した。保は別名』(べちみょう 「別納(べちのう)の名(みょう)」ので十一世紀の半ば以降、公領の荘園化を防ぐため国衙が在地有力者の私領確保の欲求に妥協しつつ開発を認め、官物・雑公事の納入を請け負わせたことから成立した土地制度上の一呼称)『とともに国衙から一定地域の国衙領の占有を認められ、内部の荒野の開発と勧農、支配に関する権利を付与されたものを指したが、保は別名とは違って在家(現地住民)に支配が及んでいたと考えられている。ただし、国守が負っていた何らかの負担を土地に転嫁する際に採用された所領形式とする異説もある』。『保司と称された開発申請者は在地領主とは限らず、有力寺社の僧侶や神官、知行国主や国守の近臣、中央官司の中下級官人など、在京領主と称される官司や権門関係者も多かった。このため、保司の中でも在地系の「国保」と在京系の「京保」に分けることができる。国保と京保の違いは官物の扱い方にあり、前者は国衙領として国衙に納入されるのに対して、後者は直接官司や権門に納められていたため形式上は国衙領のままであったものの実質において彼らを領主とする荘園と大差がなかった。便補保は国衙が封物確保の義務を免除される代わりに便補の措置のために官司・権門側に認めた京保の一種と言える。勿論、在京領主が直接京保を経営するのは困難であったから、現地の有力者に公文職などを与えて在地領主して経営にあたらせる方法が取られた』。『国保・京保ともに、国司(国守)が交替するごとに再度承認の申請をする必要があり、時には再申請を認めず国衙領として回収しようとする国司との間で紛争が生じることもあった。これに対して、中央から太政官符・宣旨などを得て立券荘号して正式に荘園として認められるものや、保の形態のまま為し崩し的に寺社領・諸司領・公家領などとされて国衙の支配から離脱する事例もあったが、依然として国衙領として継続した場合もあった』とある。]

 

一常陸國那珂東國井郷内〔云云〕

[やぶちゃん注:これは、応永二一(一四一四)年八月廿日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六五)のことを指している。以下に示す。

寄進

 鶴岡八幡宮

  常陸國那珂東國井郷内〔佐竹左馬助跡、〕事

 右、去十六日於社頭依下人狼藉、收公之、爲武藏國津田郷内方丈會※所不足分、所寄附之狀如件、

   應永廿一年八月廿日

                左兵衞督源朝臣(花押)

「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。これは「鎌倉市史 社寺編」に、『佐竹義人の下人が常陸国那珂東国井郷(水戸市内)の内の地を没収して、これを武蔵国津田郷(埼玉県大里郡大里村[やぶちゃん補注:現在は熊谷市。])の内の方丈会料所不足分の補として当社に寄進した』ことを示す文書とある。佐竹義人(さたけよしひと 応永七(一四〇〇)年~応仁元(一四六八)年)は守護大名、常陸守護、佐竹氏第十二代当主。関東管領上杉憲定次男で佐竹義盛の養子。関東管領上杉憲基の弟。家督相続の恩があって一貫して持氏派であったが、永享の乱後は実家上杉氏との関係改善を図って存命を図った。]

 

一上總國周東郡〔云云〕

[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年一月一日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六六)のことを指している。以下に示す。

奉寄進

 鸖岡八幡宮

  上総國周東郡大谷村〔岩松左馬助入道跡、〕事

 右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、

     應永廿四年正月一日

                左兵衞督源朝臣(花押)

これについて「鎌倉市史 社寺編」には、上総国周東郡大谷(おおやつ)村は現在の千葉県袖ケ浦町(旧君津郡小糸町)内とし、『これは禅秀に与(くみ)した岩松満国の所領を没収したものの内である』と記す。上杉禅秀の乱は同応永二四年年一月十日に氏憲(禅秀)が持氏の叔父満隆や持氏の弟で養嗣子であった持仲とともに、まさに鶴岡八幡宮の雪ノ下の別当坊で自害して終結するのだが、この寄進状はその後にクレジットを遡って発せられたものであろう。]

 

一常陸國北條郡宿郷〔云云〕

 

[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年閏五月二日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六七)のことを指している。以下に示す。

奉寄進

 松岡八幡宮

  常陸國北条郡宿郷〔右衞門佐入道跡、〕事

 右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、

     應永廿四年閏五月二日

                左兵衞督源朝臣(花押)

「常陸國北条郡宿郷」は現在の茨城県つくばみらい市、旧筑波郡内にあった「右衞門佐入道」故上杉禅秀の没官領を寄進する内容である。]

 

一相摸國小田原關所〔云云〕 永享四年持氏ノ證文ニアリ。關所昔ヨリ久シキコトカ。

[やぶちゃん注:これは、永享四(一四三二)年十月十四日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕御教書」(「鎌倉市史 資料編第一」の八〇)のことを指している。以下に示す。

松岡八幡宮御修理要脚事、所寄相模國小田原關所也、早三ケ年之間宛取關賃、可令終修造功之如件、

   永享四年十月十四日     (花押)

     信濃守殿

これは八幡宮の営繕修理費用の分担を小田原の関所に当て、大森頼春に銘じて小田原関所の三年分を割り当てて修造を終らせた旨の文書である。大森頼春(?~応仁三(一四六九)年)旧駿河国駿東郡領主。応永一三(一四〇六)年にも鎌倉公方足利満兼による円覚寺修繕のため、伊豆国三島に関所を設置して関銭を徴収した記録がある。上杉禅秀の乱鎮圧の功によって鎌倉公方足利持氏より箱根山一帯の支配権を与えられた。応永二四(一四一七)年頃に小田原城を築いている(ウィキの「大森頼春」に拠ったが一部誤りを正した)。]

 

一持氏ノ證文ニ朱字ニ書タルアリ。永享六年トアリ。

[やぶちゃん注:これは、永享六(一四三四)年三月十八日のクレジットを持つ「足利持氏血書願文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八五)のことを指している。以下に示す。

於于鶴岡

 大勝混合尊等身造立之意趣者、爲武運長久、子孫繁榮、現當二世安樂、殊者爲攘咒咀怨敵於未兆、荷關東重任於億年、奉造立之也、

  永享六年三月十八日

     從三位行左兵衞督源朝臣持氏(花押)

       造立之間奉行

           上椙左衞門大夫

底本には最後に『コノ文書ハ、血ニ朱を混ジテ書シタルモノナリ』という編者注が附されている。この「咒咀怨敵」(呪詛の怨敵)とは将軍足利義教のことを指す。「上椙左衞門大夫」については「鎌倉市史 社寺編」には持氏の側近上杉『憲直か』とする。]

 

一武藏國久良郡〔云云〕 今按ニ和名抄ニ久良ト書テ、久良岐卜倭訓アリ。社僧云、綸旨甚多カリシヲ、度々ノ囘祿ニ悉燒失シヌトナリ。

[やぶちゃん注:これは、まず貞治四(一三六五)年七月二十二日のクレジットを持つ「将軍家〔足利義詮〕御内書」(「鎌倉市史 資料編第一」の三三)のことを指している(御内書(ごないしょ)は、室町幕府の将軍が発給した私的な書状形式の公文書で、形式は差出人が文面に表記される私信と同様のものであるが、将軍自身による花押・署判が加えられており、私的性格の強い将軍個人の命令書とは言え、御教書に準じるものとして幕府の公式命令書同様の法的効力を持った)。以下に示す。

鸖岡八幡宮雜掌申、武藏國久良郡久友村郷事、故御所一円御寄附狀分明也、無相違※樣可有計御沙汰候、謹言、

   貞治四年七月二十二日      義詮(花押)

   左兵衞督殿

「※」~「辶」+(「寿」-「寸」+「友」)。「違」か。底本には末尾に、鶴岡八幡宮文書原本には最後の宛名が欠けているため、東京大学史料編纂所架蔵の相州文書に拠って補った旨の注記がある。この文書及び関連する資料について「鎌倉市史 社寺編」には、『鶴岡八幡宮雑掌は社領武蔵国久良岐郡久友郷(横浜市内)のことについて幕府に訴えるところがあった。このため』この文書が発給されて『久友郷を当社に安堵するように命じている。この久友郷は尊氏』(「故御所」)『によって寄進されたものであるが、金曾木(かなそぎ)重定・市谷孫四郎等の跡』(前出文書)『や鶴見郷などと共に別当領ではなかったと思われる。こえて応安元年(一三六八)八月二十一日、足利金王丸(氏満)は武蔵国箕田郷の地頭職の内の河連村(鴻巣市川面)を当社に寄進した。なおこののち同六年四月二十八日、義満は久友郷を鶴岡八幡宮雑掌に渡付するよう氏満に命じている。(『資料編』一の三三・三五・三八)』とある。]

「仮名手本忠臣蔵」という祝祭又は生贄の原初的美学或いは女性文学としての「仮名手本忠臣蔵」像について 附 文楽の属性たるウィトゲンシュタインの鏡像理論

月曜から火曜、大阪国立文楽劇場に於いて「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言を始めて見る。

 

〇アリア 塩谷判官切腹の段――「遅かりし由良之助」ではなく「ヤレ由良之助、待ちかねたわいやい」であることの意味――

それは幕藩体制下に於ける国家による都合のいい経済的統制を目的とした、合法の強制組織集団抹殺の事実の提示である。国家は常にそれを強いることで幻想の「国家」自身の存在の自己保全を図ろうとする(それは現代の政治でも全く以って同じことであることは今の原発事故以後の日本を見れば一目瞭然である)。

そこで、腹を切るに至る塩谷判官のシークエンスが仔細に描写されるが、それはたかが一個の惨めでちっぽけな存在としての「一個の人間の死」が――されど「一個の死」として世界に革命を起こすという予兆が示される。

大星由良之助の参上を待ちに待って遂に腹に小刀を突き立てた瞬間、由良之助が到着するが、それは正に「仮名手本忠臣蔵」という『祝祭』のための、確かな始まりなのであって、塩谷にとっては、それは「遅かりし由良之助」なのでは、断じて、ない。

正しく祭りの最初の血の開花が、そこに揚がるところの、その絶妙のタイミングに合わせて大きな星が煌めくように図られているのであり、塩谷にとっては、

「待ちかねたわいや、よくぞ参った由良之助」

という快哉以外の何ものでもないのである。

この瞬間、「仮名手本忠臣蔵」という神話は起動する。

この――公なるが故に、理不尽極まりなく無効な「生贄」としての死者塩谷判官を中央に据えたシークエンスとしての構図が――ここに「仮名手本忠臣蔵」という民衆の神話の、驚くべき構造主義的祝祭の始まりとして鮮やかに起動するのである――。

 

〇第一変奏 早野勘平腹切の段――勘平は糞の「葉隠」ぢやあないが死んで生きるといふパラドクス又は女は総て巫女なること――

伝承の四十七士の中には幽霊がいる。史実では刃傷事件の第一報を赤穂へもたらし、義盟に加わるも家族から再仕官を勧められて板ばさみになり自害した萱野三平重実である。本話の早野勘平のモデルであることは言わずもがなだが、会場で行われていた「忠臣蔵資料展」の絵図に、下半身が透けた姿で描かれている彼を見た時、言い知れぬ感慨が僕の胸を叩(う)った。

彼も塩谷同様――否――公的に葬られる有名の塩谷判官と対等に――無名の猟師に流浪した勘平は――確かに等価なものとして――舞台の中央で――塩谷と同じく腹に小刀(さすが)を突き立てて自害する――その自害は正に塩谷と同じか、それ以上の高速度撮影の如き時間の延長の中でしみじみと描かれるのである。

しかも彼は愛する妻「おかる」と、その直前に理不尽にも別れ、女郎に売られる彼女を――「おかる」の父を殺した(という誤認の強烈無惨な)自責の念を押し隠しながら黙って送る――のである!

これは公的に抹殺された塩谷の慚愧の念を遙かに超えるものだ!(そしてそれを観る我々は既に知っていて、しかも我々観客は、恐るべきことに(!)何も出来ずに、手を拱いて見るばかりではないか!)
勘平は遅すぎた、まさにとんでもない(!)「遅かりし」郷衛門の言葉によって冤罪を雪がれ、血判を押して「魂の四十七士」として銘記され、

「ヤア仏果とは穢らはし、死なぬ死なぬ、魂魄この土に留まつて敵討の御供する」

と末期の粋な言葉を放って、あっけなく、

「儚くなりにけり」

となるのである――(僕には義太夫に文句がある。あのシーンの、この「儚くなりにけり」は、あんな、軽薄で軽い抑揚の謠であっては、決して、ならぬ!! それが伝統だというのなら、再考を願いたい。勘平の死は、あんな三十分の刑事ドラマの被害者の死ぬような愚劣なシーンじゃ、断じて、ない!!!)

閑話休題。

ここに民衆の側の――何ものにも捕らわれない――「個としての確かな自死」の様態が絵が描かれるのである。

勘平の死は無名兵士の、しかし、民衆から永遠に忘れられることない、革命の戦士の「一個の自由意志の自死」なのである――勘平は実に――塩谷を軽々と越えた――「仮名手本忠臣蔵」神話の公的モデルを換骨脱胎した――非人間的現実への人間の情を武器とした反世界変革の美しき自死モデルであるのである――。

そして――ここには塩谷切腹では隠された(台詞には現われる)残された愛する女たちの巫女性が提示される。しかし、それは「おかる」ではない(「おかる」は夫の死を知らぬ。まだ、男のために身を売った彼女は、身を売りながら悲しいかな未だ愛する男を守る巫女たり得ぬのである)。それは「おかる」の母、与一兵衛女房である。夫と婿の死骸を前に本段の後半が進むことを想起せよ! あなたは二人の人間の死骸を前に、どう「生きる」か? それを考えれば、かの老母の巫女性は全きものとして「在る」ことが分かるはずである――分からぬとなれば――あなたは「仮名手本忠臣蔵」を観たとは言えぬ。――

 

〇第二変奏 祇園一力茶屋の段――おかる、仇討して真正の巫女となること――

知っての通り、自死せんとする(これも自死起動システムの変形である)「おかる」の手からもぎ取った由良之助の刀は(それは「おかる」にとっての「個の自由の太刀」である)、床下に潜む逆臣九太夫を刺し貫く。この瞬間、「おかる」は真に愛する勘平の仇を討ったのである――そうして薄幸の美女「おかる」は「仮名手本忠臣蔵」神話の比類なき永遠の処女――「仮名手本忠臣蔵」磐石のミューズとしての――巫女となったのである。――

 

〇第三変奏 山科閑居の段(1)――戸名瀬(となせ)・小浪・お石によるイザイホー――

山科の由良之助の閑居をはりばる訪れた加古川本蔵の妻戸名瀬と大星力弥の許嫁小浪母娘、迎えた由良之助の妻お石は、祝言の話を切り出した戸名瀬に、「師直に媚びへつらった本蔵の娘を我が家の嫁に迎えることは出来ぬ」と厳しく言い放って、奥へ入ってしまう。

 取り残された二人。戸名瀬は、このまま帰れば夫の面目も立たず、また、自身が小浪の継母なれば、この婚儀を粗略に扱ったと思われるも我が身が立たない。――ここが凄いのだ――戸名瀬は死んで本蔵に詫びる決意をし、小浪も、

「去られても殿御の家、こゝで死ぬれば本望ぢや、早う殺して下さりませ」

と母娘心中を図ろうとするのである。

――戸名瀬が手を合わせて念仏を唱える小浪に――刀を振り上げた――その瞬間、

「御無用!」

の声が響く――

――それ以前から、上手の柴の戸の外には尺八を吹く虚無僧が一人――

己の生への未練の幻聴かと再び挙ぐる太刀一閃、

「御無用!」

――その直後にお石が奥より出でて止めに入っては、

「倅力弥に祝言させう」

と申し、三方を持ち出し、本蔵を恨む真意を述べる。

――刃傷に及んだ際、本蔵は塩谷を背後から止めに入って抑えた。即ち、塩谷の刃傷を遂げさせなかった――故に本造は仇であるという謂いである――相応の引き出物を出せというがこの三方である――その引き出物とは――お石云う。

「コレこの三方へ本蔵殿の白髪首」「それ見た上で盃させう。サヽヽいやか、応かの返答を」

と来るのだ。……母子は途方に暮れる……

――この女だけの、双方の鬼気迫る畳み掛けの複合シークエンスは凄絶の一語に尽きる。これを観ただけで僕は今回の通し狂言「仮名手本忠臣蔵」を観た本懐を遂げたと思った。

 

これは――時を――人を――動かすための無名者としての個の挑戦である――そうしてそれは「仮名手本忠臣蔵」という男系叙事詩を完膚なきまでに蹴散らすところから生まれる女系叙事詩なのだ――僕はそこに久高島の筆頭巫女ノロを選び出すイザイホーの儀式を幻視した――双方ともに命を張った凄絶なる覚悟の応酬であり――それが「討ち入り」へのダイナミズムとなって討ち入りは成就するのである――この女たちなくしては討ち入りは成就しないのである! (……因みに我が妻にはこの時、睡魔の襲ってしばしば櫓を漕いでいたのではあるが……)

 

〇第四変奏 山科閑居の段(2)――或いは生贄の宵宮祭り――

……途方に暮れる戸名瀬と小浪……そこに、

「加古川本蔵が首進上申す。お受けとりなされよ」

虚無僧が笠を脱ぎ捨てる。それは秘かに後を追ってきた加古川本蔵その人である。

その後、本蔵は由良之助や力弥のことを「日本一の阿呆の鑑」と罵詈雑言の果て、三方を踏み潰す。

夫と子を完膚なきまでに辱められたお石は遂に切れて、長押の槍を手に執って本蔵に勝負を挑む。

――本蔵、お石の槍を叩き落とす!

――力弥、奥より飛び出でて槍を拾う!

――力弥、本蔵の右脇腹、ザッくと一突き!

と、奥より声、

「ヤア待て力弥。早まるな」

と槍引留めて由良之助、手負ひに向かひ、

「一別以来珍しゝ本蔵殿。御計略の念願届き、婿力弥が手にかゝつて、さぞ本望でござらうの」

――由良之助はホームズなのである。

……本蔵はあの刃傷の日、師直が横死せねば、塩谷も切腹にまでは至るまいとの配慮から判官を抱き止めたであったが、予想外の切腹開城御家中離散という事態に、己が行いを一生の誤りと悔いており、しかもそれが娘小浪の婚儀解消に相い成らんとするを、娘がためにわざと力弥の手に掛かるように、お石を激昂させたのであった……

(因みに、こうした現実にはちょっと有り得ないと思われる蜘蛛の網目のように複雑に張り巡らされた人間関係や、壮大どころか驚天動地、条理も情理もあるまいことか、遙かに超絶したシュールとも言える機略計略の真相暴露譚は寧ろ、「文楽」的日常とさえ言えるのである)

 

またしても――舞台中央に瀕死の本蔵である。

由良之助による祝言の許諾を受けて、本蔵が「引き出物」として懐ろより差し出したは、師直の屋敷の絵図面……

最後に――死にゆく父の前で力弥と小浪は祝言を挙げ――はたりと息絶えた父の遺骸を後に

――たった一夜の契りの初夜を交わすために下手に手を取って入る力弥と小浪……

――討ち入りの儀を本格始動させるために本蔵の形見の虚無僧姿となって上手へ去ってゆく由良之助……

 

正にこれら数々の舞台中央に捧げられた生贄があって「仮名手本忠臣蔵」という祝祭は確実に「討ち入り」という本宮祭を迎えることが出来るのである。

 

〇アリア ……討ち入り後なら……あれしかあるまい……

大詰「花水橋引揚の段」であるが、これは映画的余韻である。芝居として大団円のためにはなくてはならないが、少なくとも僕には特筆すべきものはない。

しかし、アリアは必要だ。

僕は客席に沈み乍ら、独り夢想した。

『……僕なら……ここに芥川龍之介之助をうつ』……と……

 

●附 文楽の属性たるウィトゲンシュタインの鏡像理論

今回、私は人形遣と人形の関係について、天啓とも言える事実に思い至った。

それはあのウィトゲンシュタインが言った、興味惹かれながらも永く僕にはどこか腑に落ちなかった――鏡に映った我々の姿を、我々の存在自身が説明するのである――という鏡像理論が、正にすっと心に座った、のである。

 

文楽の面使いは――人形遣によって人形が演じられている――のではないのだ――面遣が人形を演じているのである――

 

「人形はその役の『生き身』」なのであり――「面遣はその『生き身を説明する役』」なのである――

 

……という、多分、これは僕だけの中で目から鱗なのだろうと思われるが……いや、確かな目から鱗であったのである。

耳嚢 巻之五 濟松寺門前馬の首といふ地名の事

 濟松寺門前馬の首といふ地名の事

 

 牛込濟松寺(さいしようじ)門前に輿力町あり。右與力の門前の徑(みち)を字(あざな)して馬の首と今に唱ふ由。右はいづれの與力にて有しや、正月元日に門の屋根より馬の髑髏を釣り置けるを、召仕の者曉に門前を掃除せんと門へ出て是を見て、いまはしき事哉(かな)と内に入て主人に語りければ、夫(それ)は目出度事なり、早々取入よと申付大きに祝ひけるが、夫より日增に身上(しんしやう)を直し、今は彼(かの)近邊の大福人と人もいひしと也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。意趣返しかとも思われる禍いを起こさんとした悪意の仕儀が、転じて福となったという、文字通り、「塞翁が馬」である。但し、馬の髑髏を繁盛の吉兆とする民俗学的理由は私には不明である。識者の御教授を乞う。

・「濟松寺」東京都新宿区榎町にある臨済宗妙心寺派の寺。開山の祖心尼は義理の叔母春日局の補佐役として徳川家光に仕えた人物である。

・「馬の首」底本の鈴木氏注には違う由来が記されている。『榎町の東方にあった先手組の宅地の俗称。』寛文(一六六一年~一六七三年)頃、『橋本治郎右衛門という鉄砲巧者の与力が、常に門の扉に馬の首を掛けておき、火災後は木製の馬の首をかけた。根は小心の男だったという』とある。私の所持する切絵図には出ない地名である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 済松寺門前の馬の首という地名の事

 

 牛込済松寺(さいしょうじ)の門前に、与力町が御座る。この門前町の小道を通称して「馬の首」と今に呼んでおる由。

 その謂れを問うに、同所のいずれの与力の家であったか、とある年の正月元日に、何者かがその者の屋敷の門の屋根の上より――こともあろうに――馬の髑髏が吊り下げられて御座ったを、召し使いの者、暁に門前を掃除せんと門へ出でて、これを見つけ、

「……い、い、忌まわしきことじゃッ!!」

と内へと走り込むや、主人へ注進に及べば、

「……何? 馬の首の髑髏じゃと?……それは目出度い!! 早々に屋敷内に取り入るるがよいぞ!」

と申し付け、元旦を増して大いに祝って御座ったと申す。

 それより、この屋の主人、日増しに身上上げ潮と相い成り、今は、あの辺りでも知られた大金持ちじゃと人も申しておる、とのことで御座る。

一言芳談 十

   十

 

慈円僧正入滅ののち、或人の夢に示(しめして)云、顯密の稽古は、ものゝ用にもたゝず、時々せし空觀(くうくわん)と念佛とぞ、後世(ごせ)の資粮(しらう)とぞなる。

 

(一)顯密の稽古、天台眞言の學問なり。

(二)空觀、諸法皆空の觀念なり。

(三)資粮、かてとなる義なり。

 

[やぶちゃん注:「慈円僧正」(久寿二(一一五五)年~嘉禄元(一二二五)年)は天台僧。関白藤原忠通十一男。九条兼実(忠通六男)の同母弟。「愚管抄」の筆者として知られる。異端視されていた専修念仏の法然の教義を批判する一方、その弾圧にも否定的で法然や弟子の親鸞を庇護した(親鸞は治承五(一一八一)年数え九歳の時、京都青蓮院にて、この慈円から得度を受けている)。「百人一首」に所収し、歌人としても知られた。

「顯密」顕教と密教。空海は、前者を衆生を教化するために姿を示現した釈迦如来が衆生に明らかに説きあらわした教えを、後者は真理の姿を以って大日如来が説いた深奥なる秘密の教えを言うとして後者の優位性を説いたが、最澄は独自の解釈に基づき、ともに不可欠な真理として「円密一致」を説いている。

「空觀」天台宗の観法(心に仏法の真理を観察し熟考する修行)の一つで、総ての事物は空(くう)であると観ずることをいう。

「後世」本来は、死後の魂が赴くところの世界を言い、それは六道(輪廻)や極楽(往生)をも包括する広義な来世を示すが、『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には本「一言芳談」の多様な「後世」の用法を羅列して『「後世」本来の語義は失われ、「浄土」または「往生浄土」の意味に転化している』と注されている。しかし、浄土教の教えから言えば弥陀の誓願によって一切の衆生の極楽往生が決定しているのである限り、「後世」はイコール「浄土」以外にはなく、これは『失われ』たのではなく、念仏者にとっては本来の真義に基づく謂いであるという方が、より正しいと私には思われる。

「資粮」の「粮」は糧に同じい。]

ある女 畑耕一

   ある女
頰に落ちし睫毛の影も秋ながら

2012/11/14

耳嚢 巻之五 其職に隨ひ奇夢を見し事

 其職に隨ひ奇夢を見し事

 

 軍書講釋をなして諸家の夜閑を慰(ゐ)する栗原何某、寛政三年三月三日に不思議の夢を見しは、誰とも名前顏色をも不覺(おぼえざり)しが、御身は軍書など講ずるなれば相應の懸物を與ふべしとて、中は櫻、右は侍、左は傾城(けいせい)を畫(かき)し三幅對なれば、忝しと請て是を見るに、櫻の上に、

  誤つて改られし花の垣

又右の侍の讚には、

  色にかへぬ松にも花の手柄かな

又左の傾城のうへには、

  世の色にさかぬみさほや女郎花

かくありし故、是は仙臺萩の、櫻は陸奧守綱宗、侍は松前鐡之助か、傾城は高尾にもあるらんと、夢驚て枕の元を搜せど曾て一物もなし。さるにても俳諧發句等を常に心に留し事もなきに、三句共しかと覺へける故、宗匠抔に此句はいかゞと尋問(たづねとふ)に、拙(つたな)き句ともいわざれば、早速蘭香(らんかう)を賴て夢の通(とほり)の繪を認(したため)貰ひ、寢惚(ねぼけ)先生とて其頃狂歌など詠じて名高き者に、右の讚を認貰ひしと、右掛物を携へ來りて見せし也。

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。お馴染み講釈師栗原幸十郎の語る夢中の俳諧が記憶され、それが事実と符合するという不思議夢物語。ここまで符合が一致し過ぎると夢らしくなく、創作性が見え見えという気がする。もう少し、夢らしく朧にしておいて、謎解き部分で漸層的に謎解きをして語ればよかったのに、などと私は贅沢に思ったりもするのだが……。最初に本文読解の為に、必要不可欠な本文中に現れる「仙臺萩」、伊達騒動を題材とした歌舞伎及び浄瑠璃「伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」について、私は当該作品を見たことも読んだこともないなので、ウィキの「伽蘿先代萩」から大幅に引用させて頂くことをお許し願いたい(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した。細かな事件概要は同「伊達騒動」を参照されたい)。『本作の題材となった伊達騒動は、万治・寛文年間、一六六〇年から一六七一年にかけて仙台伊達家に起こった紛争』、『巷説においては、おおむね以下のような物語が形成され』、流布した。『仙台伊達家の三代藩主・伊達綱宗は吉原の高尾太夫に魂を奪われ、廓での遊蕩にふけり、隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部ら一味の仕掛けによるものだった。甲斐一味は綱宗の後を継いだ亀千代(四代藩主・伊達綱村)の毒殺を図るが、忠臣たちによって防がれる。忠臣の筆頭である伊達安芸は兵部・甲斐らの悪行を幕府に訴える。酒井雅楽頭邸での審理で、兵部と通じる雅楽頭は兵部・甲斐側に加担するが、清廉な板倉内膳正の裁断により安芸側が勝利。もはやこれまでと抜刀した甲斐は安芸を斬るが自らも討たれ、伊達家に平和が戻る』というもので、『本作をはじめとする伊達騒動ものは基本的にこの筋書きを踏襲している』。『伊達騒動を扱った最初の歌舞伎狂言は、正徳三年(一七一三年)正月、江戸市村座で上演された「泰平女今川」でこれ以降、数多く伊達騒動ものの狂言が上演されるが、特に重要な作品として、安永六年(一七七七年)四月、大坂中の芝居で上演された歌舞伎「伽羅先代萩」(奈河亀輔ほか作)と、翌安永七年(一七七八年)七月、江戸中村座で上演された歌舞伎『伊達競阿国戯場』(初代桜田治助・笠縫専助合作)、さらに天明五年(一七八五年)、江戸結城座で上演された人形浄瑠璃「伽羅先代萩」(松貫四ほか作)の三作が挙げられる』。『歌舞伎「伽羅先代萩」は、伊達騒動を鎌倉時代に託して描き、忠義の乳母・政岡とその子・千松を登場させた。「伊達競阿国戯場」は、騒動の舞台を細川・山名が争う応仁記の世界にとり、累伝説を脚色した累・与右衛門の物語と併せて劇化した。現在「伽羅先代萩」の外題で上演される内容は、「竹の間」「御殿」「床下」は前者、その他は後者の各場面を原型としている。『天明五年(一七八五年)の人形浄瑠璃「伽羅先代萩」は歌舞伎「伽羅先代萩」を改作・浄瑠璃化したもので、現行「御殿」に用いる浄瑠璃の詞章はこの作品から取られている』。以下、その「概要」から(歌舞伎の各論や演出部分は省略した)。『現行の脚本は大きく「花水橋」「竹の間・御殿・床下」「対決・刃傷」の三部に分けることができる。それぞれが別系統の脚本によっており、全体をとおしての一体感は薄いが、一つの演目で多様な舞台を楽しめるところは本作の魅力でもある』。

花水橋の場

『廓からお忍びで屋敷に帰る途中の足利頼兼(伊達綱宗に相当)が、仁木弾正(原田甲斐に相当)に加担する黒沢官蔵らに襲われるが、駆けつけた抱え力士の絹川谷蔵に助けられる』。『絹川は、「伊達競阿国戯場」系の脚本では、頼兼の放蕩を断つため高尾太夫を殺しており、「薫樹累物語」では高尾の妹・累との因縁が描かれる』。『頼兼による高尾殺しを描いた脚本もあ』ると記す。

竹の間の場

『頼兼の跡を継いだ鶴千代(綱宗嫡子の亀千代に相当)の乳母(めのと)・政岡(千松の生母・三沢初子に相当)は、幼君を家中の逆臣方から守るため、男体を忌む病気と称して男を近づけさせず、食事を自分で作り、鶴千代と同年代の我が子・千松とともに身辺を守っている。その御殿に、仁木弾正の妹・八汐、家臣の奥方・沖の井、松島が見舞いに訪れる。鶴千代殺害をもくろむ八汐は、女医者・小槙や忍びの嘉藤太とはからって政岡に鶴千代暗殺計画の濡れ衣を着せようとするが、沖の井の抗弁や鶴千代の拒否によって退けられる』。

御殿の場

『一連の騒動で食事ができなかった鶴千代と千松は腹をすかせ、政岡は茶道具を使って飯焚きを始める。大名でありながら食事も満足に取れない鶴千代の苦境に心を痛める政岡。主従三人のやりとりのうちに飯は炊けるが、食事のさなかに逆臣方に加担する管領・山名宗全(史実の老中・酒井雅楽頭)の奥方・栄御前が現われ、持参の菓子を鶴千代の前に差し出す。毒入りを危惧した政岡だったが、管領家の手前制止しきれず苦慮していたところ、駆け込んで来た千松が菓子を手づかみで食べ、毒にあたって苦しむ。毒害の発覚を恐れた八汐は千松ののどに懐剣を突き立てなぶり殺しにするが、政岡は表情を変えずに鶴千代を守護し、その様子を見た栄御前は鶴千代・千松が取り替え子であると思い込んで政岡に弾正一味の連判の巻物を預ける。栄御前を見送った後、母親に返った政岡は、常々教えていた毒見の役を果たした千松を褒めつつ、武士の子ゆえの不憫を嘆いてその遺骸を抱きしめる。その後、襲いかかってきた八汐を切って千松の敵を討つが、巻物は鼠がくわえて去る』。

床下の場

『讒言によって主君から遠ざけられ、御殿の床下でひそかに警護を行っていた忠臣・荒獅子男之助が、巻物をくわえた大鼠(御殿幕切れに登場)を踏まえて「ああら怪しやなア」といいつつ登場する。鉄扇で打たれた鼠は男之助から逃げ去り、煙のなか眉間に傷を付け巻物をくわえて印を結んだ仁木弾正の姿に戻る。弾正は巻物を懐にしまうと不敵な笑みを浮かべて去っていく』。

対決の場

『老臣・渡辺外記左衛門(伊達安芸に相当)、その子渡辺民部、山中鹿之介、笹野才蔵ら忠臣が問註所で仁木弾正、大江鬼貫(伊達兵部に相当)、黒沢官蔵らと対峙する。裁き手の山名宗全は弾正よりで、証拠の密書を火にくべさえする無法ぶり。外記方の敗訴が決まるかというその時に、もう一人の裁き手の細川勝元(板倉内膳正に相当)が登場し、宗全を立てながらも弾正側の不忠を責め、虎の威を借る狐のたとえで一味を皮肉る。自ら証拠の密書の断片を手に入れていた勝元は、署名に施した小細工をきっかけにさわやかな弁舌で弾正を追及し、外記方を勝利に導く』。

刃傷の場

『裁きを下された仁木弾正は、改心を装って控えの間の渡辺外記に近づき、隠し持った短刀で刺す。外記は扇子一つで弾正の刃に抗い、とどめを刺されそうになるが、駆けつけた民部らの援護を受けて弾正を倒す。一同の前に現れた細川勝元は外記らの働きをたたえ、鶴千代の家督を保証する墨付を与える。外記は主家の新たな門出をことほぎ深傷の身を押して舞い力尽きる。勝元は「おお目出度い」と悲しみを隠して扇を広げる』。

 なお、「伽羅先代萩」先代萩はマメ科センダイハギ Thermopsis lupinoides(和名漢字表記は「千台萩」)。中部地方以北から北海道、朝鮮半島・中国・シベリアの砂浜海岸や原野に群生する。高さは四〇~八〇センチメートル、葉は三つの小葉から成り、互生して葉柄の基部には大きな托葉がある。五月から八月にかけて茎の先端に極めて鮮やかな黄色の花を咲かせる。和名の由来自体が本作に因む。

・「軍書講釋をなして諸家の夜閑を慰する栗原何某」「夜閑」は「よしづ」と訓読みしているか。「夜閑を慰する」は暇な夜の遊(すさ)びの謂い。お伽である。彼は「卷之四」の「疱瘡神狆に恐れし事」の条に『軍書を讀て世の中を咄し歩行(ありく)栗原幸十郎と言る浪人』として初登場、本巻でも「麩踏萬引を見出す事」以降、数話の話者として現われる魅力的なニュース・ソースである。底本には「軍書講釋」の右に『(尊經閣本「軍書讀」)』、「栗原某」の右に『(尊經閣本「栗原翁」)』とある。

・「寛政三年三月三日」「寛政三年」は辛亥(かのとい)で西暦一七九一年、同「三月三日」は丁丑(ひのとうし)の大安である。陰陽五行説で神聖な「一」を別格とし、「三」は初めの陽数であるから、縁起がよいとされ、それが三つ並ぶという三重の重陽という設定自体が作為的であるが、逆に言えば、意識の中にその特異な日という覚醒時の意識が無意識下に作用して、かくも特異な夢を創らせたのであると、心理学的には言えなくもない(この前後に彼が「伽羅先代萩」関連の講釈を行ったか若しくは予定していたとすればなおのこと)。我々も特別な日に特別な夢を見ることは、ままある。

・「誤つて改られし花の垣」

  誤つて改(あらため)られし花の垣

岩波版長谷川氏注に『綱宗が誤った所行を改めたという』とある。「花の垣」は、風雅人の隠棲する庵の垣根で、綱宗の隠居所をイメージするか? 不学ながら不明、識者の御教授を乞うものである。

・「色にかへぬ松にも花の手柄かな」

  色に替へぬ松にも花の手柄かな

岩波版長谷川氏注に『松に忠臣の松前鉄之助を暗示。忠節の心を変えずはなばなしい手柄を立てた。』とある。山屋賢一氏の盛岡山車を紹介された「すてきなおまつり」HP内の「盛岡山車の演題 松前鉄之助」には、この荒獅子男之助が活躍する「床下の場」をモチーフとした山車の写真や、「伽羅先代萩」のストーリーがかなりコンパクトに纏められており、分かり易い。

・「世の色にさかぬみさほや女郎花」

  世の色に咲かぬ操(みさを)や女郎花(をみなへし)

岩波版長谷川氏注に『高尾は情人との約束を守り、遊女通例の金力・権勢になびくようなことをしなかった。』とある。

・「櫻は陸奧守綱宗」伊達津綱宗(寛永一七(一六四〇)年~正徳元(一七一一)年)は仙台藩第三代藩主。官位は従四位下、左近衛権少将、陸奥守・美作守。万治二(一六五九)年、二十歳で藩主となったが大酒と風流数奇の性癖甚だしく、親類や老臣が意見を繰り返しても聞き入れなかった。伊達家一門衆の伊達宗勝と綱宗の縁戚大名である立花忠茂・池田光政・京極高国が合議の上、幕府老中酒井忠清に問題の解決を相談、翌万治三年七月に伊達家の一門・重臣十四名による連判状を以って綱宗の隠居と二歳になる実子亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を幕府に出願、同八月に幕府はこれを許可したが、これがその後の伊達騒動の端緒となった隠居後の綱宗は品川屋敷に住み、和歌・書画・彫刻などに優れた作品を残している(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。因みにここで何故、「桜」なのか、「伽羅先代萩」の何かのシーンと関わるのか、不学にして私には不詳。識者の御教授を乞うものである。

・「松前鐡之助」岩波版の長谷川氏注には「伽羅先代萩」伝承の『架空の忠臣』で『松ヶ枝節之助』とあるが、検索すると実在した松前鉄之助広国をモデルとするらしい。この松前広国なる人物についてはよく分からないが、宮城県白石市南町にある傑山寺の公式HPの中の「白石に魅せられた松前国広」のページに同寺に北海道松前城主慶広の五男安広とその子広国の墓があることを記し、そこに『広国は伊達騒動で抜群の働きをなし、伊達六十二万石を救った、歌舞伎でも名高い松前鉄之助である』とある。彼の伊達騒動での実際の働きについて、識者の御教授を乞うものである。

・「高尾」高尾太夫。吉原の太夫の筆頭ともいえる吉原大見世三浦屋の花魁の襲名名。「伊達騒動」伝承では二代目の万治高尾(過去帳から万治三(一六六〇)年十二月二十五日に亡くなっていることに由来。仙台高尾とも)とされ、一説に彼女に溺れた綱宗に七八〇〇両で身請け(彼女の体重と同じだけの金を積んだとも言われ、現在なら五億円から八億円相当)されたものの、夫婦約束をした島田重三郎に操を立てて応じなかったため、乱心した綱宗によって、隅田川三ツ又の船中にて裸にされ、舟の梁に両足を吊るされた上、首を刎ねられた、とされる。

・「蘭香先生」画家吉田蘭香(享保十(一七二五)年~寛政一一(一七九九)年)。

・「寢惚先生」著名な戯作者で狂歌師太田南畝(寛延二(一七四九)年~文政六(一八二三)年)。明和四(一七六七)年に狂詩集「寝惚先生文集」を出版している。洒落本・評判記,・黄表紙などの戯作を多くものし、江戸の狂歌師の名をほしいままにした人物としても知られる。但し、本話の寛政三年頃の彼は、天明七(一七八七)年の田沼政権の崩壊と松平定信の享保の改革による粛正政策を機に弾圧の矛先が向いてきた狂歌界からは、距離をおいていた。彼は寛政六(一七九四)年の学問吟味(幕府の人材登用試験)では御目見得以下の首席で合格しているれっきとした幕吏であった。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 その生業に合わせ奇なる夢を見た事

 

 軍書講釈をなしては諸家の夜の徒然の慰めを生業(なりわい)と致いておる、例の栗原某が、寛政三年三月三日に不思議な夢を見たと申す。……

 

……その……誰(たれ)とも、これ、名前も顔も覚えては御座らねど……夢に現われ出でたるその御仁、

「――御身は軍書などを講ずるを生業と致しておるに付き、相応の掛け物を与えようぞ――」

とて、夢中に頂戴致いたは、これ、

――中は桜――右は侍――左は傾城(けいせい)……

を描いた三幅対で御座ったれば、

「――忝(かたじけな)し!――」

とて受け賜わるまして……これ、仔細に見てみますると、その桜の上に、

  誤つて改られし花の垣

また、その右に描かれた侍の絵の賛には、これ、

  色かへぬ松にも花の手柄かな

また、その左の傾城姿の上には、

  世の色にさかぬみさほや女郎花

と――確かに認(したた)められて御座った。我ら、その折り、夢現(うつつ)乍ら、

『……これは……「伽羅先代萩」の……桜は陸奥守綱宗公……侍は松前鉄之助か……傾城は、かの高尾太夫にてもあるか……』

と思うたと思うたところで……夢から醒めて御座った。……

……醒めた側から、枕元を捜して見申した……が、勿論、そのようなものは、これ、一物(いちもつ)たりと、御座りませなんだ。……

……しかし、それにしても……我ら普段より、気の利いた俳諧発句などを、これ、心に留めおくなんどという風流染みたことは、まんず、一度として御座らなんだにも拘わらず……不思議なることに……これ、三句ともしかと覚えて御座った故、知れる方の宗匠なんどに、

「――という句(くう)は、これ、如何(いかが)か?」

と尋ね問うてみたところが、これ、拙(まず)き句とも申さねばこそ、早速、画家の蘭香(らんこう)先生を頼んで、我らが夢に見た通りの絵(ええ)を認めて戴きまして、丁度その頃、寝惚(ねぼけ)先生と称し、狂歌なんど詠じては名の知られたお方に、かの夢に見た賛を三つとも、認(したた)めて貰(もろ)うて参りました。……

 

……と、わざわざ、まあ、その掛け軸を携えて来たって、私に見せて御座った。

一言芳談 九

 有云、我(われ)臨終の時は、すは、たゞいまとみゆるはなどいふべきにあらず。無始(むし)よりをしみならひたる命なれば、もし、心ぼそくおぼゆる事もあらむか、たゞ念佛をすゝむべき也。

 

[やぶちゃん注:「すは」は感動詞で、相手を驚かす時、また、突然の出来事に驚く時、また、今、改めて気が付いた時に発する言葉である。臨終という現象に対し、これらの自己感懐を持つことを総て否定するのである。「無始」仏家ではしばしば、無始曠劫(こうごう)、始まりのない遠い昔の謂いとして、禅の公案「父母未生以前(ぶもみしょういぜん)の面目」即ち、自我の存在しない絶対無差別の無我の境地を示したりするが、ここは単に「遠い昔」の謂いで、以下の「をしみならひたる命なれば」を修飾し、命を「をし」むこと(対象を愛するあまり執着を覚えること)に「ならひたる」(ついつい狎れ親しんでしまった→そうした執着心の連続によって違和感を感じなくなり、それが当たり前のこととなってしまう)という、生の妄執の断ち難い理(ことわり)を述べている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には、「一言芳談句解」にも(新字を正字に代え、「句解」原文の歴史的仮名遣の誤りを直した)『をしみならふは凡夫のつねにて生々流轉の衆生とはなれ』とある、とする。「心ぼそくおぼゆる事もあらむか」の「か」は一種の反語で下に続き、心細く感じることもあろうか――いや、それは、あってはならないこと――ただひたすら、念仏を心静かに行うことに専心せよ、との謂いである。]

秋立つ日揮發油くさく人來たり 畑耕一

秋立つ日揮發油くさく人來たり

2012/11/13

かもじ屋の燈ともして暑く住ひある 畑耕一

かもじ屋の燈ともして暑く住ひある

一言芳談 八

 有云、慈悲をこそおこさゞらめ、人をなにくみそ。

 

(一)人をなにくみそ、なは勿(な)の字なり。

 

[やぶちゃん注:「こそ~め(已然形)、……」の逆接用法に、呼応の副詞と終助詞「な~そ」で禁止。『慈悲の心を起こす起さないなどということは実は問題ではない――けれども、人を憎むということは――決してあってはならない』と語る。]

2012/11/12

一言芳談 七

   七

 

 有云、往生をおもはん事、たとへばねらひづきせんとする心ねをもつべし。

 

(一)ねらひづき、かたきをねらひてつきころさんと思ふ意地なり。

   ねらひづきとは横目せずとの心なり。(句解)

 

[やぶちゃん注:「ねらひづきせん」国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像では「ねかひつき」(ねがひづき:「願ひ突き」か。)とある。]

耳嚢 巻之五 死相を見るは心法の事

 死相を見るは心法の事

 

 又彼尼人相をよく見しとて、元壽も相學を心懸し故暫く右の物語をなせしに、或日老婦の相を見て、御身は心のまゝに好きこのむものを食し心に叶ふ事のみなし給へ、來年のいつ頃は命終(みやうじゆう)なんと言しが、果してしるしありしを聞(きき)、元壽も人の死生時日(ししやうじじつ)を相學にて計る事は、相書(さうしよ)にはあれど知れ難き事也、御身如何して知るやと尋ねて、その奧意(あうい)を聞(きか)んと切(せち)に尋ければ、是は我心に思ふ事、傳授口達(こうたつ)なしたりとも用に立難(たちがた)し、自然と我心に悟道なしければ、傳授も成(なり)がたしとて分れぬ。度々彼(かの)尼が庵を尋求(たづねもとめ)しも、右相學の奧祕(あふひ)を聞(きか)んとの事也しと、元壽物語りける由。奇尼もあるものなるかな。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:数奇の、いや、実はやはり奇なる尼の物語の続。通しで四話目となる。藤田元寿が何故、この尼に興味を持ったかという、その真相がここで明らかにされる。根岸もこれには驚いた(従ってこの尼の能力を信じた)ようで、珍しく文末に詠嘆の終助詞「かな」が用いられている。

・「心法」とは本来、心を修練する法、精神修養法を言うが、ここは一種、生まれつき具わっている心の不可思議なる働き、という意で用いている。

・「相學」人相・家相・地相などを見、その人の性格や運勢などを判断する学問。ここでは主に人相学。

・「口達」「こうだつ」とも読む。口頭で伝達すること。言い渡すこと。また、その言葉。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 死相を見る能力は天然自然の心法である事

 

 また、かの尼は人相をよく見、元寿も相学を学んでおったによって、逢えばきっと、この相学についての話しとなるが常で御座った。

 そんな、ある日のこと、かの尼より、

――とある市井の老婦人の相を見、

「……おん身は心のままに、好きなものをお食べになり、心になさりたいと思われることのみ、なさいませ。……来年の、これこれの時節には、命終(みょうじゅう)をお迎えになられましょうほどに……」

と告げましたところ、果たして、その通りと相い成りました――

という話を聞かされた。

 元寿、これを聴くや、

「……相学にて人の生死(しょうじ)の時日(じじつ)を測ることの出来るとは、確かに相学書には、かくあれど……その法は、これ、如何なる書にも具さには書かれて御座らねば、容易には習得出来ざるものにて御座る。……にも拘わらず、御身は、如何にして、命終(みょうじゅう)の予兆を知ることが、これ、お出来になるので御座る?」

と、その奥義を承らんと、切に訊ねたところが、尼は、

「……いえ、これは自然に我が心に感ずるので御座いますれば……恐らくは、その折りの些末な心の内の閃きや、直ちに感じた面影を、これ、伝授口伝(くでん)致しましたところで、それは何の役にも立ちますまい。……いつの頃からやら、存じませぬが……自然、そのようなことの分かる『何か』が、我が心の……不遜ながら、我らの悟りのようなるものとして……在った、ので御座います。……されば、伝授しようにも、これ、伝授出ぬものにて、御座いますれば……」

と、その場は別れたと申す。

 その後も、度々、元寿が、かの尼の庵を訪ねたのも、これ実は、この相学の奥義を、何とかして訊かんがためで御座った、と元寿自身が語ったと申す。

 ……いや、やはり不思議なる尼も、御座ったものじゃ。

2012/11/11

北條九代記 義經の妾白拍子靜

僕は昨日から今日まで、源義経に添えられる悲恋の女のサブ・ストーリー――ではない――「靜」という一人の女性(にょしょう)と一緒の時間を持てたことを――とても嬉しく思っている。

――いや――「靜」の視点から、その世界を見ること……これって……考えて見たら僕はずっと……そう、言ってきたじゃないか……漱石の「こゝろ」で……さ……



      ○義經の妾白拍子靜

 

北條四郞時政上洛して、平氏の一類所々に隱ゐたるを搜出し、或は生捕、或は押寄せて、討取りければ、平氏の餘黨は一夜の宿をも假す人なく、影を隱すべき栖もなし。小松三位維盛の子息六代は遍照寺(へんぜうじ)の奧にして尋ね出しけるを、高雄の文覺上人使僧を關東に下して申預り、出家せしめ給ひぬ。伊豫守義經の妾(おもひもの)靜(しづか)女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行(しゆぎやう)是を藏王堂の邊にして捕へたり。都に上(のぼ)せて北條に送渡す。關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す。その母磯禪師(いそのぜんじ)も伴うて下りしに、筑後途權守俊兼、民部丞盛時を以て、義經の事を尋ね問(とは)るゝに、靜が申す所分明ならず。「伊豫守殿は何がしとかや、名も忘れて候吉野山の僧坊に立入り給へば、大衆起りて討奉らんと計ると聞きて、山臥(やまぶし)の姿に成て、大峯に入る由にて、靜をば一の鳥居の邊に棄てて、山深く入り給ふ。女は峯に入る事結界の故に泣々京都の方へ向ふ所に雜色(ざつしき)の男等衣裳財寶を取て逃失せしかば、道に迷うて捕へられ候。是より外には義經の御行方は知らず」と申す。先(まづ)鎌倉に留めて、安達新三郞に預けらる。賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙(ならび)なしと聞く。この次に𢌞廊に召出し舞を見ばや」とありければ、御使を立てらるゝに、別緖(べつしよ)の愁(うれへ)に沈みて、病に罹り候由を申す。重て使を遣し、偏に大菩薩の奉幣(ほうべい)に擬せられし由返す返す召されしかば、力及ばず、澁りながら、鶴ヶ岡にまゐりて、𢌞廊に舞臺を構へ、工藤左衞門尉祐經は鼓を打ち、畠山次郞重忠は銅拍子を仕る。白雪(はくせつ)の袖を𢌞(めぐら)し、黃竹(くわうちく)の歌を上(あ)ぐ。靜が歌舞の有樣類(たぐひ)なくぞ覺(おぼ)されける。

 

  吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

  しつやしづしづの苧環(をだまき)繰返し昔を今になすよしもがな

 

その聲の美しさ、空に滿ち雲に通ひ、梁塵宛然(さながら)飛ぶかとぞ上下の感興を催しける。賴朝仰せける樣は、「八幡宮の御寶前にてその藝を施すには關東の萬歲をこそ祝ふべきに、憚る所なく、義經を慕ふて離別の曲を歌ふ事の奇怪さよ」と有ければ、御臺政子申させ給ふは、「君既に流人とし、伊豆におはします時、我に契の淺からざりしを、時宜の恐(おそれ)ありとて、北條殿潛(ひそか)に引込められしに、暗き夜の雨に燭をもとらず、獨(ひとり)淚に搔(かき)曇り、又石橋の戰(たゝかひ)に御行方を聞かまほしく、夜となく晝となく魂を消し、胸を冷し候ひける。今の靜が心の内誠に往初(そのかみ)に較べて、さこそと思ひ候ぞや。内に動く物思の外にあらはす風情となる、いとど哀(あはれ)に覺えたり」とのたまふに、賴朝憤(いきどほり)解け給ふ。卯花重(うのはながさね)の御衣(ぎよい)を脫ぎて、簾(みす)より押出させ給へば、靜は是を賜り打被(うちかづ)きてぞ入りにける。工藤祐經、梶原景茂(かげもち)、千葉常秀、八田朝重(やたのともしげ)、藤(とう)判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。笑語(せうご)興に入り、郢曲(えいきよく)妙を盡し、靜が母磯禪師も藝を施し、慰めければ、皆數盃(すはい)を傾けたり、梶原三郞景茂醉(ゑひ)に和(くわ)して、しどけなく靜に向ひて艶言を通(つう)ぜしかば、靜大に怒りて、淚を流して申しける樣、「伊豫守殿は鎌倉殿の御連枝(ごれんし)、我はかの妾(おもひもの)なり。御家人の身として普通の女性(によしやう)に戲(たはむ)るゝ如くに存ずる歟(か)。義經牢寵(らうろう)し給はずは、和殿達(わどのたち)に見(まみ)ゆる事は有るまじ。況や艶語(えんぎよ)を通ぜられんや。是(これ)つけても、あな痛(いたは)しの伊豫守殿や」とて引被(ひきかづ)て臥(ふし)ければ、景茂は面目なく、人々皆興を消して歸られたり。文治二年閏七月二十九日靜卽ち男子(なんし)を產生(さんしやう)す。是伊豫守殿の御子なり。女子ならば母に給はるべし。男子たる上は將來其心根(こころね)計(はかり)難しとて、安達新三郞に仰せて、由比浦(ゆひのうら)に棄てしむ。新三郞行向ふに、靜更に之を出ざす。衣に纒(まと)ひ、抱き臥して、叫喚(さけびよば)ふ、時移りければ、安達も哀(あはれ)を催しながら、磯禪師を責(せめ)しかば、力及ばず、赤子を渡す。御臺政子哀(あはれ)がり給ひて、申し宥(なだ)めらるれども、叶はずして刺殺(さしころ)して埋(うづ)まれ、八月十五日靜は暇(いとま)給はりて都に上る。樣々の重寶(ちようはう)共御臺、姬君の御方より給はりけり。

 

[やぶちゃん注:「北條四郞時政上洛」は文治元(一一八五)年十一月二十五日。同日、行家・義経の追補の宣旨が下された。以下に見るように、これは静捕縛の十二日後で、「吾妻鏡」では、その間に、

 

十八日の条に前日に捕縛された静の供述(後注参照)に基づき、更なる(これより前から捜索は行われていた)吉野の僧徒による義経の山狩りの記事が載り、静については、『靜者。執行頗令憐愍相勞之後。稱可進鎌倉之由云々。』(靜は、執行(しぎやう)頗る憐愍(れんびん)せしめ、相ひ勞はるの後、鎌倉へ進ずべしの由を稱すと云々。:静御前の儀は、金峰山寺寺務職が頗る気の毒に思い、労わって休ませた後、取り敢えず、鎌倉へ護送致すに若くはなし、という意見を京へ伝えた、とのこと。)とある。

 

同二十日の条には、義経・行家が京都を出立して、先の六日に大物の浜から船に乗り込んで出帆せんとした際、暴風に遭って難破したという噂の立っているところに、帰京した八島時清によって、二人は現在も死んでいない、という情報が齎されたとある。同条は続けて、義経とともに九州へ落ちようとしていた平時実(義経に接近した平時忠の子で、父時忠同様、流罪の判決を受けながらも執行が猶予されて未だ京都にいた)の捕縛記事が載る(なお、この時実は文治二(一一八六)年一月に上総国に配流されるが、文治五(一一八九)年には赦免されて帰京し、建暦元(一二一一)年には従三位に叙されている)。

 

同二十二日には、

 

〇原文

辛丑。豫州凌吉野山深雪。潛向多武峰。是爲祈請大織冠御影云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号十字坊之惡僧也。賞翫豫州云々。

 

〇やぶちゃんの書き出し文

廿二日辛丑。豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛(ひそか)に多武峰(たふのみね)へ向ふ。是れ、大織冠の御影(みえい)に祈請せんが爲なりと云々。

到着の所は、南院の内、藤室(ふぢむろ)、其の坊主は十字坊と号するの惡僧なり。豫州を賞翫すと云々。

 

ともある(「多武峰」は現在の奈良県桜井市南部にある山及びその一帯の地域名。「大織冠」は藤原鎌足で、伝承によれば多武峰には、鎌足長男の僧定恵が父の墓をここに遷したとされている。「藤室」南院藤室という多武峰に林立していた寺の一つらしい。現在の多武峰観光ホテル付近にあったという。「惡僧」は「豪勇の僧兵」の意。)。

 

「遍照寺」右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗の寺院。通称、広沢不動尊。

 

「高雄の文覺上人」この「平家物語」の「六代斬られ」で知られる六代(彼は平清盛の祖父正盛から数えて直系六代目に当たる)平高清捕縛と、文覚による助命嘆願(六代は彼の弟子であった)は「吾妻鏡」の同年十二月一七日の条に、その頼朝による許諾(文覚へ御預け)は同十二月二十四日の条に載る。六代はこの後、文治五(一一八九)年)に剃髪して妙覚と号し、建久五(一一九四)年五月に鎌倉に下向、大江広元を通じて頼朝に異心無く出家した旨を伝え、同六月十五日には頼朝に謁見、「吾妻鏡」の記載からは、その後に関東の一寺の別当職に任ぜられたものかとも思われる。その後も僧として諸国行脚したが、頼朝の死の直後、庇護者であった文覚が三左衛門事件で土御門通親襲撃計画の謀略に連座して隠岐に配流されると、六代も文覚坊の宿所であった京の二条猪熊猪熊にて捕縛され、鎌倉へ護送の上、逗子の田越川畔にて処刑された。享年二十七歳であった。

 

「伊豫守義經の妾靜女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行是を藏王堂の邊にして捕へたり」静捕縛の記事は文治元年十一月十七日の記事の現われる。以下に示す(以下、「吾妻鏡」の補注は「・」で示した)。

 

●主題 アリア 静の捕縛と最初の供述

 

〇原文

十七日丙申。豫州籠大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催惡僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郞大夫判官〔今伊與守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊與守者假山臥之姿逐電訖。于時與數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文(「伊與」を「伊豫」に変えた)

十七日丙申。豫州、大和國吉野山に籠るの由、風聞の間、執行(しぎやう)、惡僧等を相ひ催して、日來(ひごろ)山林を索(もと)むと雖も、其の實無きの處、今夜亥の剋、豫州が妾(せふ)靜(しづか)、當山藤尾坂(ふじをさか)より降(くだ)り藏王堂(ざわうだう)に到る。其の躰(てい)尤も奇恠(きかい)なり。衆徒等、之れを見咎め、相ひ具し、執行坊に向ひ、具さに子細を問ふ。靜、云はく、「吾は是れ、九郞大夫判官〔今の伊豫守〕が妾也。大物(だいもつ)の濱より豫州、此の山に來たり、五ケ日逗留の處、衆徒蜂起の由、風聞するに依りて、伊豫守は山臥(やまぶし)の姿を假り、逐電し訖(をは)んぬ。時に數多(あまた)の金銀の類ひを我に與へ、雜色男(ざふしきをのこ)等を付けて京へ送らんと欲す。而るに彼の男共財寳を取り、深き峯の雪中に弃(す)て置くの間、此くの如く迷ひ來たる。」と云々。

 

以下、「吾妻鏡」注。

・「執行」「しゆぎやう(しゅぎょう)」とも読み、寺社で諸務を行う僧の統括責任者。

・「藤尾坂」吉野山中千本にある。

・「藏王堂」中千本にある金峯山寺(きんぷせんじ)本堂のこと。

・「執行坊」先に執行(しぎょう)の執務室。現在は蔵王堂の下に在る。

・「大物の濱」現在の兵庫県尼崎市の海浜部の旧地名。古くは猪名(いな)川の河口港として栄え、義経が平家追討のために船出した地として有名。現在は内陸化してしまった。

 

「白拍子」平安末から鎌倉にかけて流行した白拍子という歌舞を演じた主に女性(子供)の芸人。今様や朗詠などを歌いつつ、水干・立烏帽子に佩刀という男装にて舞ったことから男舞とも言われた。ウィキの「白拍子」によれば、『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』とある。

 

「都に上せて北條に送渡す」吉野の執行が静を京の北条時政の元へ護送したのは、捕縛から十九日後の十二月八日であったが、その直後に時政によって尋問が行われ、一週間後の十五日に鎌倉にその内容が伝えられた。

 

●第一変奏 静の北条時政による尋問とその供述

〇原文

十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意惡事之輩。當時露顯分。不逐電之樣𢌞計略。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而著藏王堂之時。執行所虜置也者。申狀如此。何樣可計沙汰乎云々。

若公御平愈云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日甲子。北條殿が飛脚、京都より參着す。洛中の子細を注し申さる。謀反人が家屋等先づ之を點定(てんじやう)す。惡事に同意の輩、當時露顯の分、逐電せざる樣、計略を𢌞らし、此の上、又、師中納言殿へ申し畢んぬ。次に豫州が妾出來す。相尋ぬるの處、「豫州都を出で西海へ赴くの曉、相ひ伴はれて大物の濱へ至る。而るに船、漂倒(へうたう)するの間、渡海を遂げず、伴類、皆、分散す。其の夜は天王寺へ宿す。豫州、此れより逐電す。時に約して曰く、『今一兩日、當所に於いて相ひ待つべし。迎への者を遣はすべきなり。但し、約日を過ぎば、速やかに行き避(さ)るべし。』と云々。相ひ待つの處、馬を送るの間、之に乘り、何所(いづく)とも知らずと雖も、路次(ろし)を經ること、三ケ日有りて、吉野山へ到る。彼の山に逗留すること五ケ日にして、遂に別離す。其の後、更に行方を知らず。吾、深山の雪を凌ぎ、希有にして藏王堂に著くの時、執行(しぎやう)、虜(とら)へ置く所となり。」てへれば、申す狀、此くの如し、何樣(いかやう)に計ひ沙汰すべきかと云々。

若公、御平愈と云々。

 

・「點定」土地・家屋・農作物を没収又は差し押さえすること。

・「師中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。藤原光房の子。彼は頼朝に高く評価されて初代関東申次(新設の朝廷職で鎌倉幕府方の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った)の濫觴となったと考えられている。ただ、平氏政権下に於いて極めて順調に出世し乍ら、何故、彼がここに至って同じく順調に新幕派の地位就けたのかは、よく分かっていない。参考にしたウィキの「吉田経房」によれば、経房はその兄と二代に渡って『伊豆守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・北条時政と交流があったという説がある。また経房と頼朝の関係を見ると、二人ともかつては上西門院の側近で面識があったと考えられ』、その辺に真相がありそうではある。

・「若公」源頼家。十一日に急病を発していた。

 

 

「關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す」前の時政の伝令を受けて、翌文治二(一一八六)年一月廿九日の条に、

 

 

●第二変奏 頼朝による静の鎌倉護送指令

〇原文

廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿九日戊申。豫州が在所今に聞かず。而うして猶ほ推問せらるべき事有り、靜女を進(まゐ)すらべきの由、北條殿に仰せらると云々。

又、此の事尤も沙汰有るべき由、經房卿に付して申さしめ給ふと云々。

 

とある。最後の部分は、後白河法皇に対する義経探索の徹底要請の謂いである。因みに、実は例の頼朝の後白河法皇に対する、かの有名な驚天動地の評言『仍日本第一大天狗者。更非他者歟。』(仍つて日本第一の大天狗は、更に他者(たしや)に非ざるか。)は、正に静捕縛の文治元年十一月十七日の前条同月十七日の条の最後に現われている。

 

以上を受けて時政は、

 

 

●第三変奏 時政の静鎌倉護送了解

〇原文

十三日辛酉。當番雜色自京都著。進北條殿狀等。靜女相催可送進。(以下略)

 

〇やぶちゃん書き下し

十三日辛酉。當番の雜色、京都より參着し、北條殿の狀等を進ず。靜女を相ひ催し送り進ずべし。

 

と送っている。この次項の二月十八日には『豫州隱住多武峯事風聞。依之彼師壇鞍馬東光坊阿闍梨。南都周防得業等。有同意之疑。可被召下之云々。』(豫州多武峯に隱れ住む事風聞す。之に依りて彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨、南都の周防得業(すはうとくげふ)等、同意の疑ひ有り、之を召下さるべしと云々。)と義経の動向がパラレルに語られ、臨場感を高めている(「東光坊」は鞍馬寺の塔頭で義経の牛若丸時代の学問所と伝えられている。「得業」は名前ではなく仏門で定められた課程を修了した者のこと)。

 

「その母磯禪師」磯禅師(生没年不詳)は白拍子の租ともされる人物。静御前の母で礒野禅尼とも。以下、ウィキの「磯禅師」によれば、『出身地は大和国磯野(現在の奈良県大和高田市礒野)とも讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市小磯)ともいわれる。自身も白拍子であり、『貴嶺問答』によると京の貴族の屋敷に白拍子の派遣などを行っていた』。鳥羽天皇の御世、藤原信西がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まりと「徒然草」にあり、静御前に白拍子を伝えたとする。但し、「徒然草」は磯禅師や静御前が生きた時代から一五〇年も後に書かれたものであるからその信憑性はないに等しい、とある。『奈良県大和高田市礒野は礒野禅尼の里といわれ』、本文に示された総てが終わった後、『静はここに身を寄せたとも伝えられる』とある。

 

「その母磯禪師も伴うて下りしに……」静磯禅師の鎌倉下向は、先の時政の手紙参着から三十一日後の文治二(一一八六)年三月一日であった。この日は奇しくも諸国惣追捕使・地頭職が補せられた、幕府の地固めのエポック・メーキングな日でもある(以下の前略部分がそれ)。

 

●第四変奏 静及び母磯禅師鎌倉参着

〇原文

一日己夘。(前略)

今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郞宅招入之云々。

 

〇やぶちゃん書き下し文

今日、豫州が妾靜、召に依りて京都より鎌倉に參着す。北條殿送り進ぜらるる所なり。母の礒禪師、之を伴ふ。則ち主計允(かぞへのじよう)が沙汰として、安逹新三郞が宅(いへ)を點じて、之を招き入るると云々。

 

・「主計允」二階堂行政(生没年不詳)。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。当時は藤原姓であったが、後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂と称した。

・「沙汰」は主担当。

・「安逹新三郞」安達清経(生没年未詳)。安達景盛の子、安達盛長の孫に当たる。当時は雑色の頭領であったが、義経と不和になった頼朝の命によって、以前から京都で義経の監視及び報告の任務を任ぜられた人物でもある。

・「點じて」は、指定して、の意。

 

「筑後途權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)。頼朝の右筆。

 

「民部丞盛時」平盛時(生没年不詳)。同じく頼朝の右筆。彼らは一応、政所上級官僚として庶務に当たったようであるが、実際には頼朝の個人的秘書としての性格が強い。

 

「義經の事を尋ね問(とは)るゝに、靜が申す所分明ならず……」以下は、同年三月六日の条に基づくが、読んでお分かりの通り、先の京での陳述と大きく異なる点が着目される。静は義経を庇うために、証言をぬらりくらりと二転三転させては、「記憶に御座いません」と、何処かで聴いたような攪乱を謀ろうとしており、ここに静のひたむきな愛だけでなく、彼女の聡明さをも読み取るべきである。

 

●第五変奏 幕府による静への尋問とその供述

〇原文

六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。與今口狀頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虛事歟云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

六日甲申。靜女を召し、俊兼、盛時等を以つて、豫州の事を尋ね問はる。「先日、吉野山に逗留の由、之を申す。太だ以て信用ぜられず。」てへれば、靜、申して云はく、「山中に非ず、當山の僧坊なり。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、其の所より山臥の姿を以つて、大峯に入るべきの由を稱して入山す。件の坊主の僧、之を送る。我、又、慕ひて一の鳥居の邊に至るの處、女人は入峯(にふぶ)せざるの由、彼の僧、相ひ叱するの間、京の方へ赴くの時、共に在る雜色等、財寳を取りて逐電するの後、藏王堂に迷ひ行く。」と云々。重ねて坊主の僧の名を尋ねらるに、忘却の由を申す。凡そ京都に於て申す旨と今の口狀、頗る依違(いゐ)す。法に任せて召し問ふべきの旨。仰せ出ださると云々。

又、或ひは大峯に入ると云々。或ひは多武峯に來たりて後、逐電の由、風聞す。彼れ是れの間、定めて虛事有るかと云々。

 

 

「依違」曖昧な態度をとること。

 

この記載の後、「吾妻鏡」では同三月二十二日の条に、

 

●第六変奏 静懐妊の明示

〇原文

廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。

 

〇やぶちゃんの書きし出し文

廿二日庚子。靜女の事、子細を尋ね問はると雖も、豫州の在所を知らざる由、申し切り畢んぬ。當時、彼の子息を懷妊する所なり。産生(さんしやう)の後、返し遣はさるべきの由、沙汰有りと云々。

 

『賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙なしと聞く。……』以下は、同年四月八日の条に基づく。

 

●第七変奏 鶴岡八幡宮寺上宮廻廊に於ける静の舞の一件

〇原文

八日乙夘。二品幷御臺所御參鶴岳宮。以次被召出靜女於𢌞廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處。申病痾之由不參。於身不屑者。雖不能左右。爲豫州妾。忽出揚焉砌之條。頗耻辱之由。日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。適參向。歸洛在近。不見其藝者無念由。御臺所頻以令勸申給之間被召之。偏可備 大菩薩冥感之旨。被仰云々。近日只有別緖之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖𢌞白雪之袖。發黃竹之歌。左衛門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歷一﨟上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郞重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。次歌別物曲之後。又吟和歌云。しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東万歲之處。不憚所聞食。募反逆義經。歌別曲歌。奇恠云々。御臺所被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潛被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰塲給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出〔卯花重。〕於簾外。被纏頭之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙卯。二品幷びに御臺所、鶴岡宮に御參。次(ついで)を以つて靜女を𢌞廊に召し出さる。是れ、舞曲を施さしむべきに依りてなり。此の事、去ぬる比、仰せらるる處、病痾(びやうあ)の由を申し參らず。身の不屑(ふせう)に於いては、左右(さう)に能はずと雖も、豫州の妾として忽ちに掲焉(けちえん)の砌りに出ずるの条、頗る耻辱の由、日來内々に之を澁り申すと雖も、彼は既に天下の名仁(めいじん)なり。適々(たまたま)參向して、歸洛近きに在りて其の藝を見ざるは無念の由、御臺所、頻りに以つて勸め申さしめ給ふの間、之を召さる。偏へに大菩薩の冥感(みやうかん)に備ふべきの旨、仰せらると云々。

近日、只だ別夜緖(べつしよ)の愁(うれ)ひ有り。更に舞曲の業(なりはひ)無きの由、座に臨みて猶ほ固辭す。然れども貴命再三に及ぶの間、憖(なまじ)ひに白雪の袖を𢌞らし、黃竹の歌を發す。左衛門尉祐經、鼓(つづみう)つ。是れ、數代勇士の家に生れ、楯戟(じゆんげき)の塵を繼ぐと雖も、一﨟上日(いちらふじやうじつ)の職を歷(へ)て、自(みづか)ら歌吹(かすい)の曲に携はるの故に、此の役に從ふか。畠山二郞重忠、銅拍子(びやうし)を爲す。靜、先づ歌を吟じ出だして云はく、

 

  吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

次に別物(わかれもの)の曲を歌ふの後、又、和歌を吟じて云はく、

 

  しづやしづしづの苧環(をだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな

 

誠に是れ、社壇の壯觀、梁塵も殆々(ほとほと)動きつべし。上下皆興感を催す。二品、仰せて云はく、「八幡宮寳前に於いて藝を施すの時、尤も關東の萬歲を祝ふべきの處、聞こし食(め)す所を憚らず、反逆の義經を慕ひ、別れの曲を歌ふは奇恠(きかい)なり。」と云々。

御臺所、報(こた)へ申されて云はく、「君、流人として豆州に坐(おは)し給ふの比(ころ)、吾に於いては芳契有りと雖も、北條殿、時宜を怖れて、潛かに之を引き籠めらる。而れども猶ほ君に和順して、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る。亦、石橋の戰場に出で給ふの時、獨り伊豆山に殘り留まりて、君の存亡を知らず、日夜、魂を消す。其の愁ひを論ずれば、今の靜が心のごとし。豫州多年の好(よしみ)を忘れ、戀ひ慕はずんば、貞女の姿に非ず。外に形(あら)はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽(ろたん)を謝す。尤も幽玄と謂ひつべし、抂(ま)げて賞翫し給ふべし。」と云々。

時に御憤り休(や)むと云々。

小時(しばらく)あつて御衣(おんぞ)〔卯花重(うのはながさね)。〕を簾外に押し出だし、之を纒頭(てんとう)せらると云々。

 

・「身の不屑に於いては、左右に能はず」「不屑」は不肖で不幸の意、自身が囚われの身となっていることを言う。「左右に能はず」捕縛者である頼朝の命に服さないということなど出来ようはずもないところであるが、の意。

・「豫州の妾として忽ちに掲焉の砌りに出ずるの条」「掲焉」は「けつえん」とも読み、目立つさま、著しいさま。『義経のたかが愛人として、あからさまに会衆の面前に晒され出でるということは』の意。

・「偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨」頼朝(若しくは政子)が、『これはもう屹度、神仏ながらも八幡台菩薩さえそなたの妙技に感じ給うに違いない』と静を引きだすためにヨイショしているのである。いや、懼れ多い神仏の名を出して、最早、彼女に拒絶出来ないようにする目的もあろう。巫女の系譜を引く白拍子ならばこそ、また猶更に出坐の拒否は出来なくなったとも言えようか。

・「近日、只だ別緖の愁ひ有り。更に舞曲の業無き」「別緒」は情緒・感情の意で、悲嘆限りなき感懐にうちひしがれて、の意。懐妊の悦びも束の間、咎人となった義経、その別離を言う。「更に舞曲の業無き」とは、『それ故に、とても生業(なりわい)の舞いや歌なんどはとてものことに、つこうまつること、これ出来申さず』と言うのである。

・「憖ひに」自分の意志に反して無理に行うことを言う。

・「黃竹の歌」は呉歌西曲(ごかせいきょく:六朝時代に長江流域で流行した歌謡で、「楽府詩集」の清商曲辞に属するものが大多数で,五言四句を基本形式とし、主題は殆んどが恋歌。)の一種と思われる。

・「左衛門尉祐經」工藤祐経(?~建久四(一一九三)年)。頼朝の寵臣。曽我兄弟に父河津祐泰の仇として討たれる彼である。

・「一﨟」六位蔵人の首席。極﨟(ごくろう)。工藤は当初、平重盛に仕えて宮中での実務も豊富な上(頼朝の寵愛はそこにもあった)、歌舞音曲にも通じて「工藤一﨟」とも呼ばれた。特に鼓は彼の得意中の得意であった。

・「上日」「じょうにち」とも読み、本来は古代の官人が宮中へ出勤した日、また、その日に出勤することを指した。ここではかつて朝廷へ蔵人として勤務していたことを指している。

・「銅拍子」禅宗で法会に用いる銅製のシンバル。

・「吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき」は、「古今和歌集」の第三二七番歌壬生忠岑の、

 

 み吉野の山の白雪踏み分けて入りしにし人のおとづれもせぬ

 

の本歌取りで、消息文さえ寄越さぬ遁世者を雪山に消えた義経に代えている。

・「別物の曲」別離を主題とした今様の舞。

・「しづやしづしづの苧環かへし昔を今になすよしもがな」「伊勢物語」第三十二段の、

 

 いにしへのしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな

 

の本歌取りである。「しづ」は「倭文」という字を宛てる日本古来の織物の糸で、梶や麻などの緯(よこいと)を青や赤などに染めたものを用いたこれで織ることで、乱れ模様を織り出した。「苧環(をだまき)」は、その「倭文(しづ)」を織るための績麻(うみを:紡いだ麻糸。細く裂いて糸として縒(よ)った麻糸。「うみそ」とも言う。)を内側を空洞にして丸く巻いた巻子(へそ)のこと(現在の毛糸の巻いたものをイメージしてよい)。ここでは「靜(しづ)」という名をその色鮮やかな色の「倭文(しづ)」に掛け、更には彼女の白拍子、「妾(おもひもの)」としての愛人身分の「賤(しづ)」をも響かせている。

・「梁塵宛然(さながら)飛ぶかとぞ」「梁塵を動かす」か歌声の優れている譬え。昔、魯の虞公という声のよい人が歌を歌うと、梁(はり)の上の塵までもうきうきとして動いたという「劉向(りゅうきょう)別録」に載る故事に基づく。

・「和順」(人を信じ)心穏やかに従うこと。

・「外に形はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽を謝す」政子は『――見せて呉れた舞と、その立ち姿の――外へと十二分に放たれた、その美しき風情――これ、謂いようもない上に――その心の内に動いた――その静の素直にして一途な思いにも――私(わたくし)は「ありがとう」と言うてやりとう存じます』と述べているのである。この政子の台詞は殊の外――恐らくはこの静の舞と歌声と響き合うほどに――至高の誠意と美しさで輝いている。……私は政子が大好きである。……

・「幽玄」奥深く計り知れぬほどに美しいこと。

・「卯の花重」重ねの色目で、夏の初めの装束。かなり後になるが、永正三(一五〇六)年に書かれた「女官飾鈔」には小袿が葡萄〔表・蘇芳/裏・縹(はなだ)〕表着が紅〔表・紅/裏・紅〕とある。

・「纒頭」祝儀として貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをなした者に褒美として衣服・金銭などを与えること、また、そのものを言う。 

 

「奉幣」神に幣帛(へいはく:榊の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。のちには絹や紙も用いた。)を捧げ祀ること。

 

「白雪」白雪曲。春秋戦国時代に遡る琴の名曲。

 

「工藤祐經、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。……」このシーンは鶴岡の舞の一件から凡そ一月後の「吾妻鏡」文治五年五月十四日の条に基づく。

 

●第八変奏 静、梶原景孳茂の酔狂を咎む

〇原文

十四日辛夘。左衞尉祐經。梶原三郞景茂。千葉平次常秀。八田太郞朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向靜旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。靜頗落淚云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不牢籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。(後略)

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日辛夘。左衞門尉祐經、梶原三郞景茂、千葉平次常秀、八田太郞朝重、藤判官代邦通等、面々に下若(かじやく)等を相ひ具し、靜が旅宿に向ふ。酒を玩(もてあそ)び宴を催す。郢曲(えいきよく)妙を盡す。靜の母磯禪師、又、藝を施すと云々。

景茂、數盃を傾け、聊か一醉す。此の間、艶言を靜に通ず。靜、頗る落淚して云はく、「豫州は鎌倉殿が御連枝、吾は彼の妾なり。御家人の身として、爭(いかで)か普通の男女と存ぜんや。豫州、牢籠せずんば、和主(わぬし)に對面(たいめ)すること、猶ほ有るべからざるなり。况や今の儀に於いてをや。」と云々。

 

・「梶原三郞景茂」(仁安二(一一六七)年~正治二(一二〇〇)年)は梶原景時三男。源平合戦及び後の奥州合戦でも戦功を挙げて建久元(一一九〇)年には左兵衛尉に任ぜられたが、正治元(一一九九)年の御家人六十六名による梶原景時糾弾の連判状によって父とともに鎌倉を追われ、後、父に従って京へと登る途中、駿河国にて在地武士団の襲撃を受けて討死にした。参考にしたウィキの「梶原景茂によれば、彼の『子孫は、子の景永が陸奥国の早馬神社に下向し(既に景時の兄景實が開いていた)、室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった』とある。

・「千葉平次常秀」(生没年不詳)千葉常胤の孫。上総千葉氏の祖。源平合戦及び後の奥州合戦でも祖父常胤とともに戦って戦功を挙げ、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に従った際、祖父に譲られて左兵衛尉に任ぜられている。

・「八田太郞知重」(長寛二(一一六四)年~安貞二(一二二八)年)頼朝古参の重臣八田知家嫡男であるが、承久の乱以後の行跡は不明。

・「大和判官代藤原邦道」「吾妻鏡」には多数登場するが詳細不詳。

・「郢曲」は平安から鎌倉にかけての日本の宮廷音楽の内で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。参照したウィキの「郢曲」によれば、『平安時代初期には朗詠、催馬楽、神楽歌、風俗歌など宮廷歌謡の総称であったが、平安時代中期には今様(今様歌)を含むようになり、平安末期からは神歌(かみうた)、足柄、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった』とし、『鎌倉時代に、前代の今様を受けて鎌倉を中心とする東国の武士たちに愛唱されたのが、早歌と呼ばれる長編歌謡で』、これは「源氏物語」「和漢朗詠集」といった本邦の文芸作品や仏典・漢籍を出典とする七五調を基本とする歌謡で、本話柄よりも遙かにあとではあるが、永仁四(一二九六)以年前成立の歌謡集「宴曲集」は歌謡作者明空の編纂による。現在の研究でも早歌は「郢曲」の範疇に含めることがあり、あるいは、公家の郢曲にかわる「武家の郢曲」ともいうべき性格を有する歌謡であったとも考えられている。『その詞章には、武家ならでは思考法や美意識の反映がみられ、後代の曲舞や能楽の成り立ちにも多大な影響をあたえることとなったといわれている』とあって、このシークエンスを想像する際、非常に参考になる。

・「御連枝」貴人の兄弟姉妹。

・「今の儀」景茂が静を口説いたことを指す。

この記載以降の「吾妻鏡」の静―義経関連記事を順に見ると、

 

同五月二十七日の条には、夜、静が、南御堂に参籠していた大姫の仰せによって参上、芸を奉って禄を受けている。同月十七日に『常に御邪氣の御氣色あ』ってそれを退治するため十四日間の参籠に入っていた。この日は、やや早いのだが、その参籠最後の夜であったと記す。……当時、大姫は数え九歳……義高との悲恋に重いPTSDとなった彼女は、傷心の静と、そこで、何を思い、どのような言葉を交わしたのであろうか?……想像してみたくなるシークエンスではないか。……

 

同六月七日の条には、義経、伊勢神宮に参詣、その後に大和に姿を現したなどの風聞が書かれ、

 

同六月十三日の条には、義経の母(常盤御前)・妹の捕縛と鎌倉への護送伺の記事が載る。「玉葉」によれば、この時、常盤は義経が岩倉にいると証言したため捜索が行われたが、すでに逃げた後であったとし、この二人も鎌倉へ送られた形跡はなく、釈放されたものとみられ、これが常盤に関する記録の最後となる(ウィキの「常盤御前」に拠る)。

 

同六月二十二日の条に、義経、仁和寺・石倉(いわくら)・比叡山に潜むとの風聞、

 

それから一月半ほどが経った同閏七月十日の条には、義経を手引きしたとする小舎人童(こどねりわらわ)五郎丸なる者が捕えられ、尋問の結果、先の六月二十日まで比叡山に隠れていたことが判明、その白状の中で、比叡山僧兵俊章・承意・仲教といった者が義経の味方をしていることが明らかとなった。そこでその事実を天台座主であった全玄及び副官たる慈円に伝達、後白河法皇にも同じ報告を奏聞した旨の記載があり、またこの日、「義経」という名は摂関家兼実の子息三位中将良経と同じ名(音)である故、憚って「義行」(よしゆき)と呼び名を改める由記載がある。咎人は名前さえ勝手に変えさせられたのであった。

 

同二十六日の条には、先の五郎丸の白状に基づいて、義経に味方する叡山の僧を差し出すよう、座主全玄に連絡したところ、彼らは既に逃亡したとの答えであったが、にも拘わらず、未だ十一日の段階では延暦寺に潜んで居るかのような噂が絶えず、その旨、後白河法皇へ奏聞、それを受けて十六日に公卿の僉議(せんぎ)があり、比叡山の全域とその末寺及び荘園の全てに触れを出された。すると、逃亡した僧の共犯者として三人の僧が差し出されので、一時、叡山への軍兵派遣が検討されたが、下手をすれば、それは『法滅の因』ともなるとのことで、取り敢えず沙汰やみとなったとある。なかなかに緊迫のレベルが高いことが分かるが、最後に十七日附で近江・北陸に義経逮捕の院宣が下された旨、文書が引用明示されて、この条は終わっている。

 

「文治二年閏七月二十九日靜卽ち男子を產生す。……」以下に「吾妻鏡」を示す。

 

●第九変奏 静、男子を出産し、殺害さる

〇原文

閏七月小廿九日庚戌。靜產生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時斷命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郞。令弃由比浦。先之。新三郞御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子與御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿九日庚戌。靜、男子を產生(さんしやう)す。是れ、豫州の息男なり。件の期(ご)を待たるるに依りて、今に歸洛を抑へ留めらるる所なり。而るに、其の父、關東を背き奉り、謀逆を企て、逐電す。其の子、若し女子たらば、早く母に給はるべし。男子たるにおいては、今、襁褓(きやうほう)の内に在りと雖も、爭(いかで)か將來を怖畏(ふい)せざらんや。未熟の時に命を斷つの條、宜しかるべきの由、治定(ぢぢやう)す。仍りて今日安逹新三郞に仰せて、由比浦に弃(す)てしむ。之より先、新三郞御使、彼の赤子を請け取らんと欲す。靜、敢へて之を出ださず。衣に纏ひて抱き臥し、叫喚數剋(すうこく)に及ぶの間、安逹、頻りに譴責(けんせき)す。礒禪師、殊に恐れ申し、赤子を押し取り、御使(おんし)に與(あた)ふ。此の事、御臺所、御愁歎、之を宥(なだ)め申さると雖も叶ずと云々。

 

・「礒禪師、殊に恐れ申し」は御使清経の権幕へではなく、間接的な頼朝への畏怖表現である。

 

「八月十五日靜は暇給はりて都に上る。樣々の重寶共御臺、姫君の御方より給はりけり」これは文治二(一一八六)年「九月」十五日の誤り。

 

●終曲 アリア 静と磯禅師の帰洛

〇原文

十六日己未。靜母子給暇歸洛。御臺所幷姬君依憐愍御。多賜重寳。是爲被尋問豫州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。產生之程所逗留也。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日己未。靜母子、暇を給はりて歸洛す。御臺所幷びに姬君、憐愍(れんみん)し御(たま)ふに依りて、多く重寳を賜はる。是れ、豫州の在所を尋ね問はれんが爲に召し下され畢んぬ。而るに別離以後の事は、知らざるの由、之を申す。則ち、返し遣はさるべしと雖も、產生の程、逗留する所なり。

 

ここに最後に大姫が登場していることを見逃してはならない。大姫は確かに静の一片の氷心――確かな女の真心――を……つらまえていたのである。……静は……静かに去ってゆくのである…………]

 

 

耳嚢 巻之五 怪尼詠歌の事

 怪尼詠歌の事

 

 前文に書(かき)し藤田元壽と親しき、右怪尼の事を元壽へ尋ければ、右元壽が許へ立寄りしは夕立の雨宿りなりしが、其節雷のつよかりしに、

  なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹

と詠(よみ)しとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:辞世の和歌から尼の和歌で連関。既出の「怪尼奇談の事」及び「陰凝て衰へるといふ事」の続きで、医師藤田元寿による、彼の出逢った早稲田に住まう元吉原遊女であった才媛の尼の後日談。

・「なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹」

  鳴るは如何に浮世の夢は醒めもせで早稻田の里に秋風ぞ吹く

「なる」「早稲田」「秋」は縁語で、「なる」は雷の「鳴る」、早稲田の稲穂に実の「稔(な)る」を掛けていよう。浮世の夢の果て秋風の吹き始めた景色は、そのまま尼の老いを暗示させる。

――雷神さま……夏過ぎてどうしてかくも激しく打ち鳴らしなされます?……そのような音にても……憂き世の悪しき夢なんどは、これ、一向に醒めも致しませぬに……かくも何故喧しくお鳴りになられます?……早稲田の里は、稲もとうに稔(な)って……今はもう、秋風さえ、吹いておりますものを……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 数奇の尼詠歌の事

 

 本巻で既に記した藤田元寿、彼と親しい者が、かの話に現われた、あの数奇(すうき)なる尼のことを更に元寿に尋ねたところ――かの早稲田に庵を結んでおる尼が、初めて元寿の元に立ち寄ったは、最初の話の通り、夕立に降られての雨宿りが切っ掛けで御座ったのだが――その折り、雷が殊の外、ひどう御座ったところ、

 

  なるはいかに浮世の夢はさめもせでわせだの里に秋風ぞ吹

 

と、かの尼、詠じて御座ったと申す。

一言芳談 六

   六

 明遍僧都云、穢土(ゑど)の事はいづくも心にかなふ道理あるべからず。たゞ少難をば心に忍ぶべきなり。たとへば、惡風にあへる舟の中にて、艫(とも)へ行き、舳(へ)へゆかんとせんがごとし。

(一)穢土の事は、是肝要の事なり。たびたび住所をかふれば、あたら光陰をつひやして、念佛申すひまもなきなり。古今に、世をすてゝ山に入る人山にてもなほうき時はいづちゆくらん。兼好歌集に、すめばまたうき世なりけり、よそながら思ひしまゝの山里もがな。
(二)少難とは世をわたる方便(たつき)のよしあしの事なり(句解)

[やぶちゃん注:報恩寺湛澄纂輯「標注増補一言芳談抄」では、これ巻首の「三資 居服食」の巻頭に配されてある。人生の妄執苦楽に一喜一憂絶望歓喜手合いを、ちっぽけな舟の中で大暴風に遭いながら助からんとて艫へ舳先へと右往左往する者に譬え、誠に小気味よい。]

教壇をくだり短夜を約したる 畑耕一

   十餘年教鞭をとりし二つの大學を辭す

教壇をくだり短夜を約したる

2012/11/10

北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎 注追加

昨日の「北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」の注が、読み返えしてみて如何にも不満であったため、「吾妻鏡」を引用するなど注を大幅に追加した。

今日は続く義経の妾(おもいもの)「靜」の条をアップするつもりが、すっかりハマってしまい、注が半日で数行しか進まなかった。明日中に公開出来るかどうか――いや――明後日からは「仮名手本忠臣蔵」通し狂言で大阪に行く――仕上げずんばならず……ともかくも……僕は「靜(しづ)」が好きだから……ね……

一言芳談 五

   五

 

 明禪(みやうぜん)法印云、たゞよく念佛すべし。石に水をかくるやうなれども、申(まうせ)ば益あるなり。

 

(一)石に水、口ばかりにて心にしまぬたとへなり。われながら殊勝氣なくとも、たゞに申しに申せば、その聲耳に入つて遂には信心を申出すなり。玄音叩心(心を叩く)といふ是なり。

 

[やぶちゃん注:「明禪法印」(仁安二(一一六七)年~仁治三(一二四二)年)は天台宗から転じた浄土僧。平家政権と通じた公卿藤原成頼(なりより)の子。比叡山の智海・仙雲から顕密を学び、山門の碩徳(せきとく)と謳われ、法然の生前は専修念仏を批判していたものの遁世の志深く、法然滅後に「選択本願念仏集」に心服、帰依した。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注に貞享五(一六八八)年刊書林西村市良右衛門蔵板「一言芳談句解」に(新字を正字に代え、踊り字「〲」は正字化した)、

『明禪法印云、ことごとしく遁世だてをあらはすがあしきなるべし。まことに、道を思はゞ、心こそ道、心こそ山、心こそ師にてあるなれば、たゞ物にかゝはらず、世におしうつりて、しかも染まざるがよきとの心を、第一のよしなき事といへり』

とある、とする。

「しまぬ」「染まぬ」でこの「染む」は自動詞マ行四段活用。色や香りが染み付く、染まる、そこから心に深く感じる、転じて心から打ちこむ、の謂いを持つ。

「玄音」仏の奥深い声。転じて、仏教の教義。]

耳嚢 巻之五 梶金平辭世の事

 梶金平辭世の事

 

 御當家御旗本の豪傑と呼れ、神君の御代戰場にて數度武功を顯はしたる梶金平死せる時辭世の歌とて人の咄しけるが、豪氣無骨の人物忠臣の心を詠じたるには、聊(いささか)人の批判賞美をも不顧(かへりみざる)所面白ければ爰に記しぬ。

   死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。

・「梶金平」梶正道(天文二〇(一五五一)年~慶長一九(一六一四)年)。底本の鈴木氏注に、『九歳の時から家康に仕え、永禄七年今川氏真との戦闘に負傷をしながら敵の首級をあげ、九年以後は本多忠勝の手に付けられ侍大小として出陣毎に先手を勤めた。天正三年長篠の役、十二年長久手の戦にも活躍、十八年の小田原の陣には大手口に突入して殊勲をあらわした』。『関ヶ原役の後、同輩たちは多く直臣に復帰することを願ったが、金平は家康の特志により本多家に止まった』とある。ウィキ本多忠勝」の「家臣」の項には、梶勝忠とあり(正道は恐らく「しょうどう」と読み、如何にも法号っぽい)、『関ヶ原の戦いにおいて、愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し窮地を救った逸話が残っている』とある。彼の関連では「耳嚢 卷之四」の剛氣の者其正義を立る事の私の注を参照されたい。

・「御当家」徳川家。

・「辭世」底本では「辭制」であるが、右に『(辭世)』と傍注するのを採った。

・「死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば」一応読みを附すと、

  死にともなあら死にともな死(しに)ともな御恩に成(なり)し君を思へば

「な」は「無」で、形容詞「無し」の語幹。「あら」は感動詞。「とも」は「たくも」のウ音便「とうも」の転訛であろう。「たく」は希望の助動詞「たし」の連用形、「も」は「とも」(格助詞「と」+係助詞「も」)と同義で、「~という風にも」の意、「も」は一つを挙げて他を類推させる用法で、ここでは「生きんとも」がその対象となる。「君」は無論、神君家康公である(直接は事実上の主君は本多忠勝であるが、忠勝自身が徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる家康の功臣であるからその忠信はダイレクトに家康に向かう)。言わずもがなであるが、死ぬことを恐れているのではなく、八面六臂の活躍をしながらも忠義を尽くし切れたかどうかを死の床にあっても自問する、金平の恐ろしいまでの忠信の吐露である。

――死にとうはない……ああっ! 死にとうない、死にとうない!……無辺広大なる御恩を受けた、上さまのことを思うと、な……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 梶金平辞世の事

 

 御当家御旗本の内でも豪傑と呼ばれ、神君家康公の御代、戦場で数度に亙る武功を立てた梶金平正道殿、御逝去の砌りの辞世の歌とて、人の教え呉れたが、如何にも豪気無骨の人物、その忠臣の心にて詠じたる感懐、聊かも他者の批判や評価なんど、これ、気にすることのなきところ、まっこと、面白う御座れば、ここに書き記しおく。

 

   死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば

水晶の仔馬の背ナの明易き 畑耕一

   文鎭を贈らる

水晶の仔馬の背の明易き

2012/11/09

一言芳談 四

   四

 

 高野の明遍(みやうへん)僧都、善光寺參詣のかへりあしに、法然上人に對面(たいめん)、僧都問(とふて)云、いかゞして今度(こんど)生死(しやうじ)をはなるべく候。上人云、念佛申(まうし)てこそは。問(とひ)給はく、誠にしかり。但(ただし)、妄念おこるをば、いかゞ仕(つかまつり)候ふべき。上人答(こたへて)云、妄念おこれども本願力(ほんぐわんりき)にて往生するなり。僧都、さうけたまはりぬとて、出(いで)給ひぬ。上人、つぶやきて云、妄執おこさずして往生せんと思はん人は、むまれつきの目鼻取りすてゝ、念佛申さんと思ふがごとし。

  (一)さうけたまはりぬ、領納の言なり。

[やぶちゃん注:「領納」意見・見解を受け入れることを指す。
「上人、つぶやきて云、妄執おこさずして往生せんと思はん人は、むまれつきの目鼻取り捨てゝ、念佛申さんと思ふがごとし」本条の眼目はまさに、この最後の一文の描写にあると言って過言ではない。

 

法然上人は、去ってゆく明遍の後ろ姿に向かって、

「……迷いを心に起こすことなく、西方浄土へ往生しようなどと思う人間は――これ、生まれつき父母より受けたる目や鼻を取って捨ててしまい――人間でなくなって――念仏申し上げようなんどと思うのと、これ、同じじゃ……」

と呟いた。

 

という「つぶやき」と法然の視線、そして決然と「妄執」と対峙――いな――とともに在るという真理を悟って去ってゆく、明遍の後ろ姿のランドスケープの凄さにこそ在るのである、と私は思うのだ。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(4)



Matukasauwo


[まつかさうを]

 

 魚類は概して游泳の敏活なもので、摘(つま)んで拾へるやうなものは滅多にないが、「はこふぐ」・「すずめふぐ」〔ウミスズメ〕・「まつかさうを」の如く堅固な鎧で身を固めて居るものは泳ぐことが頗る拙い。他の魚では鱗が屋根の如くに重なり合つて竝んで居るから、身體を屈曲するときに邪魔にならぬが、「はこふぐ」などでは硬い厚い鱗が敷石のやうに密接して居るから、身體は眞に箱の如くで、少しも曲げることが出來ず、隨つて力強く水を彈ねることが出來ぬ。それ故、若し盥の水の中に、これらの魚を入れて手で水を搔き廻すと、水の流に押されて一處にくるくる廻る。これを鯉や「さけ」が急流を遡るのに比べれば實に雲泥の相違である。

[やぶちゃん注:「はこふぐ」条鰭綱新鰭亜綱棘鰭上目フグ目ハコフグ科ハコフグ Ostracion immaculatus 若しくは同ハコフグ科のハコフグ類。学名はギリシア語の“ostrakon”、「陶器・貝殻」で、本種の魚体の堅さに由来する(この語は例のオストラキスモス(陶片追放)で著名である)。日本の中部以南・台湾・フィリピン・東インド諸島・南アフリカなどの沿岸域に棲息し、体長は二〇~四〇センチメートルほどに達する。皮膚に骨板が発達し、多数が噛み合って全身を装甲する硬い甲羅を構成している。この甲羅の横断面はほぼ四角形をしており、全体は文字通り、箱状となる。私は残念なことに未だ食していないのだが、一般には皮にのみ毒があるだけで「美味で無毒のフグ」としてよく知られている。しかしながらウィキハコフグ」によれば、『体内にいわゆるフグ毒であるテトロドトキシンを蓄積せず、筋肉にも肝臓にも持たない。焼くと骨板は容易にはがすことができるため、一部の地方では昔から美味として好んで食用にされてきた。たとえば長崎県の五島列島ではカトッポと呼ばれ、焼いて腹部の甲羅をはがしてから味噌を入れ、甲羅の中で肉や肝臓と和える調理法が知られる。しかし、後述の通りテトロドトキシン以外にも毒が含まれており、肝臓と皮は販売が禁止されている』。『骨板による装甲とともに、皮膚からサポニンに類似し、溶血性のあるパフトキシンという物質を粘液とともに分泌し、捕食者からの防御を行っている。そのため、水槽内での不用意な刺激によって毒が海水中に放出され、他の魚が死滅することがある。ほかに、アオブダイやソウシハギなどと同様に、パリトキシンに類似した毒性物質を体内に蓄積していることがある。これは食物連鎖を通じての事と推測される。この物質はパフトキシンと違い食用部分に存在しており、重篤な中毒を起こす事があ』り、厚生労働省から平成一四~一九年の六年間で、このパリトキシン様毒素を持つハコフグ摂取によって五件九名(内死亡一名)の食中毒例が報告されている、とある。パリトキシン“palytoxin”は世界最強毒の一つである。安易に無毒と言うなかれ。

「すずめふぐ」ハコフグ科コンゴウフグ属ウミスズメ Lactoria diaphana 若しくはコンゴウフグ Lactoria cornuta。ウミスズメ Lactoria diaphana はインド・西部太平洋域、本邦では茨城県以南に棲息し、背中の中央に鋭い一本の棘(とげ)がある外、両眼の間と体側後方に、眼前棘・腰骨棘と呼ぶ一対の棘がある。体の断面はほぼ五角形、色彩変異が多く、若い個体では腹面が半透明で、体内が透けて見える。大型個体はハコフグと仕訳せずにコンゴウフグ Lactoria cornuta は背中の棘があまり目立たない代わりに、眼前棘・腰骨棘が遙かに大きい(ネット上の幾つかの画像で見る限りはそのように見える)。和名は、この棘が古代インドの武具で後に密教の法具となった金剛杵(しょ)に似ていることに由来する。

「まつかさうお」キンメダイ目マツカサウオ科マツカサウオ Monocentris japonicaウィキマツカサウオ」より引用する。『北海道以南の日本の太平洋と日本海沿岸から東シナ海、琉球列島を挟んだ海域、世界ではインド洋、西オーストラリア沿岸のやや深い岩礁地域に』棲息し、発光魚として知られる。『本種の発光器は下顎に付いていて、この中に発光バクテリアを共生させているが、どのように確保するのかは不明である。薄い緑色に発光し、日本産はそれほど発光力は強くないが、オーストラリア産の種の発光力は強いとされる』。チョウチンアンコウ(新鰭亜綱側棘鰭上目アンコウ目アカグツ亜目チョウチンアンコウ上科チョウチンアンコウ科チョウチンアンコウ Himantolophus groenlandicus)など持つイリシウム(頭部誘引突起)の『ように餌を惹きつけるのではないかと』も考えられているが『発光する理由まではまだよく判って』いない。『夜行性で、体色は薄い黄色だが、生まれたての幼魚は黒く、成長するにつれて次第に黄色味を帯びた体色へと変わっていくが、成魚になると、黄色味も薄れ、薄黄色となる。昼間は岩礁の岩の割れ目などに潜み、夜になると餌を求めて動き出す』。『背鰭と腹鰭は強力な棘となっており、外敵に襲われた時などに背鰭は前から互い違いに張り出して、腹びれは体から直角に固定することができる。生きたまま漁獲後、クーラーボックスで暫く冷やすとこの状態となり、魚を板の上にたてることができる。またこの状態の時には鳴き声を聞くこともできる』。『和名の由来通り、マツの実のようにややささくれだったような大きく、固い鱗が特徴で、その体は硬く、鎧を纏ったような姿故に英語ではKnight FishArmor Fishと呼び、パイナップルにも似た外観からPinapple fishと呼ぶときもある』。『日本でもその固い鱗に被われた体からヨロイウオ、鰭を動かすときにパタパタと音を立てることからパタパタウオとも呼ぶ地方もある』。体長は比較的小さく、成魚でも一五センチメートル程度で、『体に比べ、目と鱗が大きく、その体の構造はハコフグ類にも似ている。そして、その体の固さから動きは遅く、遊泳力は緩慢で、体の柔軟性も失われている』。『餌は主に夜行性のエビなどの甲殻類だといわれる』。子供向けの魚類図鑑や水族館では光る魚として花形であるが、発光という本種の生態が判明したのは意外に遅く、大正三(一九一四)年、『富山県魚津市の魚津水族館で停電となった時、偶然見つけられたものである』とある。]

耳嚢 巻之五 永平寺道龍權現の事

 

 

 永平寺道龍權現の事

 

 

 永平寺の臺所大黑柱には、道龍權現を勸請して大造成(たいさうなる)宮居ありし由。或る年鐘撞(かねつき)の坊主後夜(ごや)の鐘を撞仕𢌞(つきしまはし)しが、鐘樓の屋根にて何か物語候樣子故心を澄して聞ば、此度は此地を淸めずばなるまじといふ者あり。かたかたより何卒右の事思ひ止り給へと再應押へる者あれど、此度は思ひ止りがたしといへる故、鐘樓を立出(たちいで)屋根を顧れば何の事もなし。彼(かの)僧早速方丈へ至(いたり)て上達(じやうたつ)の出家を起して、方丈に對面を願ひけれど、深夜の事なれば明日可申(まうすべき)間先(まづ)我等に申べき事は申せと言ひけれど、急成(なる)事にて是非方丈へ申たし、餘人へは難申(まうしがたし)といひける故、詮方なく方丈へ告(つげ)ければ、早速方丈起出て尋ける故、しかじかの事也と語りけるを聞(きき)、さる事もあべし、思ひあたりし事ありと早速寺中の者を起して、今夜より薪にて食湯(めしゆ)を拵間敷(こしらへまじく)、燈火も數を極め、多葉粉(たばこ)など禁制すべしと其道具取上(とりあげ)、門前寺領へも嚴敷(きびしく)觸(ふれ)渡しけるに、一兩日過て一人の行脚の僧來りて、旅に疲れたればとて食事を乞ひける故、安き事なれど湯茶もぬるく冷飯の段答へければ、苦からずとて右食を乞ひし上、多葉粉を一ふく給(たべ)べしと乞ひしが、多葉粉は譯有りて禁ずる由答へければ、是非なしと禮言て立出ぬ。又暫くありて一人の山伏來りて湯茶を乞ひし故、同樣挨拶なして茶をふるまひしに、多葉粉を吞(のま)ん事を乞ふ故、是は難成(なりがたき)事を告(つげ)しかば、不思議成事哉(かな)、此近邊都(すべ)て多葉粉を禁ずるはいかなる事也(や)といひし故、方丈より嚴制にて寺内寺領共禁ずる由を言ひしかば、彼(かの)山伏大に怒りたる躰(てい)にて、俄に一丈計(ばかり)の形と成(なる)と、此(これ)道龍の告(つげ)たる成(なる)べしとて、鼻をねぢりてかき消(けし)て失(うせ)ぬと也(なり)。今に永平寺の道龍權現は鼻曲りてありしと人の語りぬ。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。言わずもがな乍ら、最初の行脚僧が道龍権現で、後の山伏は道元の事蹟や永平寺の位置から考えて修験道の聖地白山の天狗であろう。本話は取り次ぎ僧の凡庸さや、住持が心当たりがあると感じた部分など、永平寺自体の戒律の乱れや修行僧の怠惰・慢心を揶揄する雰囲気が漂っている。神道派の根岸の筆致も、そうした皮肉なニュアンスの翳を、いささか行間に落しているように私には感じられる。因みに、ウィキの「永平寺」によると、道元の後、第二世孤雲懐奘、三世徹通義介のもとで寺域の整備が進められたが、義介が三代相論(文永四(一二六七)年からおよそ五十年間に亙って起きた曹洞宗内の宗門対立。開祖道元の遺風を遵守する保守派と民衆教化を重視する改革派の対立)で下山、第四世に義演がなったからは庇護者であった波多野氏の援助も弱まり、寺勢は急速に衰え、一時は廃寺同然まで衰微したが、第五世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた、とある。ここでは火災が天狗からの天誅として暗示されるが、暦応三(一三四〇)年には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明五(一四七三)年にも焼失、その後もたびたび火災に見舞われており、現存の諸堂は全て近世以降のものである、とある。但し、本話柄が、そうした中の、どの時期のものとして語られているかは分明ではない。

 

・「道龍權現」「道龍」は「だうりやう(どうりょう)」と読む。岩波版長谷川氏注に『南足柄市最乗寺開山了庵慧明の弟子で同寺守護神の道了尊(鈴木氏)』とある。妙覚道了(生没年不詳)は室町前期の曹洞宗及び修験道の僧で、道了大権現・道了薩埵・道了大薩埵・道了尊などとも称される。応永元(一三九四)年に曹洞宗の僧了庵慧明(りょうあんえみょう)が現在の神奈川県南足柄市にある大雄山最乗寺を開創すると、弟子であった道了はその怪力を以って寺の創建に助力し、応永一八(一四一一)年の師遷化の翌日には寺門守護と衆生済度を起請して天狗となったと伝えられ、最乗寺守護神として祀られた。江戸庶民の間でも信仰を集め、講が作られて参詣夥しく、江戸両国などでは出開帳も行われた。「小田原の道了さん」と呼ばれ、現在も信仰されている。なお、永平寺のそれは、当該ウィキによれば、『弁財天白龍王大権現(べんざいてんはくりゅうおうだいごんげん)は、福井県吉田郡永平寺町竹原にある神社(権現さん)で』、『別名』を『竹原弁財天』と称し、『養老年間に僧侶泰澄が開基した。天台宗平泉寺の隆盛期、伽藍の一部として弁財天が祀られたといわれるが』、『一向一揆の際に焼失。戦後』に『復興した』。『商売繁盛の神様』として信仰を集め、『御神体の磐座の内部に白ヘビが』棲んで『いる。“へびがみさん”と親しまれて』おり、今も『多くの参拝客が訪れる』とあった。現在のそれは、永平寺の東五キロメートルほど離れた位置にある。ここ(グーグル・マップ・データ)。

 

・「後夜の鐘」「後夜」は六時の一で寅の刻、夜半から夜明け前の頃、現在の午前四時頃を指すが、これで仏家がその頃に行うところの勤行をも指す。これは、その夜明け前の勤行を告げるための鐘である。

 

・「心を澄して」底本では「凄」。右に『(澄)』と傍注する。「澄」の方を本文に採った。

 

・「上達」下の者の意見などが君主や上位の官に知られる、若しくは知らされること。取次役。

 

・「一丈」約三メートル。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 永平寺道龍権現の事 

 

 永平寺の厨(くりや)にある大黒柱には、道龍(どうりょう)権現を勧請して、ご大層な神棚が据え付けられてある、との由。

 

 ある年、鐘撞きの僧が後夜(ごや)の鐘を撞き終えたところ、鐘楼の屋根の上にて何やらん、人語にて話し合(お)うておる様子故、凝っと心を澄まし、耳をそばだててみたところが、

 

「……今度という今度は……この穢れたる地を清めずんばならず!」

 

と一方が申すと、もう一方の者が、

 

「……何卒、そればかりは、これ、思い止まられんことを!」

 

と繰り返し、押し止める声のあれど、

 

「……いや! 今度(このたび)ばかりは、これ、止め難しッ!!」

 

と癇走った声が響いた。

 

 そこで僧は、そっと鐘楼の外へ出でて、屋根を仰ぎ見た……が……そこには誰一人おらず、ただ夜陰に風が吹きすさんでおるばかりで御座った。……

 

 何か不吉なるものを感じた僧は、急遽、方丈へと走ると、上達(じょうたつ)の僧を起こし、住持への対面(たいめ)を願い出たが、眠りを邪魔された取り次ぎの僧は、これ、大層不機嫌で、

 

「……何じゃあ?! こんな夜遅うに! 未だ深夜のことじゃて……ええぃ! 明日の朝にでも、我らより申し上ぐる故、それ、まずは、我らに申し上げねばならぬこと、これ、申せぃ!」

 

と投げやりに申した。

 

 ところが、鐘撞きの僧は、

 

「火急のことにて御座れば――是非、直々にご住職さまへ申し上げたく存ずる!」

 

と、いっかな、引く様子を見せない。

 

 あまりの頑なさに取り次ぎの僧も折れ、眼をこすりこすり、住持へと告げに参った。

 

 すると、住持はすぐに起きて、鐘撞きの僧を招くと、

 

「何事の起こりしか。」

 

と、静かに訊ねた。

 

 鐘撞き僧の、かの鐘楼での一件を語るのを聴いた住持は、

 

「……なるほど……そのようなこと……これ……ないとは……申せぬ……いや……思い当たる節……これ……あり……」

 

と呟くと、住持は寺中の者どもを総て起こすよう命じた。

 

「――今夜只今より薪にて飯や湯をこしらえては、これ、ならぬ。――燈火(ともしび)も、これ、あらずんばならざるところのみに限りて――煙草なんども、これ禁制と致す――」

 

と、火器一式、仰山な松明(たいまつ)・灯明(とうみょう)・紙燭(しそく)・火打石、煙管(きせる)や煙草盆に至るまで取り上げ、これ、一所に封じて、また、その翌朝には、門前町や少し離れた永平寺寺領一帯に至るまで悉く、その厳しいお触れを言い渡いた。……

 

 その日から一日二日過ぎた日のこと、一人の行脚の僧が寺を訪れ、

 

「――行脚に少々、疲れ申せばこそ非時(ひじ)を給わりとう御座る。」

 

と、食事を乞うた故、役僧は、

 

「……易きこと……なれど……生憎、湯茶もぬるく、冷や飯しかお出し出来ませぬが……」

 

と答えたところ、

 

「――それにて苦しゅう御座らぬ。」

 

と気持ちよく、請けがって御座った。

 

 かの行脚僧、冷たい飲食(おんじき)を済ませた後、

 

「――さても、煙草を一服致したいが、火を、これ、お貸下さるまいか。」

 

と乞うた故、

 

「……実は……煙草は……訳の御座って……こちらにては今、のまれぬ掟となって御座いまして……」

 

と、役僧は、如何にも気の毒そうに力なく答えるばかりで御座ったが、

 

「――いや、それでは確かに。是非に及ばず。」

 

と、何やらん、妙に得心した様子にて、すっくと立ち上がると、丁重に礼を申して立ち去って御座った。……

 

 さても、また暫くあって、今度は一人の山伏が来たって、同じごと、湯茶を乞うた。

 

 役僧は最前と同じき断りをなしつつ、冷め切った茶を振る舞(も)うたところ、

 

「ふん! ならば、煙草を呑まんと欲すればこそ、火を貸して呉りょうほどに!」

 

と憮然として申す故、役僧、

 

「……実は……煙草は……訳の御座って……こちらにては今、のまれぬ掟となって御座いまして……」

 

と同じように返答致いたところが、山伏、声をいたく荒らげて、

 

「不思議なることではないかッ?! この近辺、至る所、総て、煙草を呑んでは、いかんとは、一体、如何なることじゃッ?!」

 

と気色ばんだによって、役僧、

 

「……は、はいッ……そ、そのぅ、ご、ご住職さまよりの……き、厳しきご、ご禁制が先般御座いまして……じ、寺内はもとより、寺領にても、これ、か、か、火気を禁じて御座いますれば……」

 

とおっかなびっくり返答致いたところが――

 

「――ヌゥゥ!――ウ、ウ、ウワアアアッツ!!」

 

と山伏、憤怒怒張の相も露わにして、眦(まなじり)も裂けんばかりに怒り猛るや――

 

――忽ち――一丈余りの巨体と変じ――

 

「――かのッ!!――道龍めが――告げよったナッ!!!」

 

と大音声(だいおんじょう)を挙げると、巨怪なる山伏のその右腕、通臂の如(ごと)、

 

――グワン!

 

と蛇のようにしゅるしゅると延びるや、厨の方(かた)へと突き入ったかと思うと、そこに祀られて御座った道龍権現の像の鼻をねじって――

 

――ふっと

 

消え失せてしまった、と申す。 

 

「……さればこそ、今に至るまで永平寺の道龍権現さまは、これ、鼻が曲がったままにて御座る。……」

 

とは、ある人の語って御座った話である。

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(3)

 一武藏國金曾木彦三郎、市谷孫四郎〔云云〕 基氏ノ判形アリ。今按ニ俗ニ金杉ト云ハ、金曾木ノコトカ。

[やぶちゃん注:これは、一つは正和元(一三一二)年)年八月十一日のクレジットを持つ「鎌倉將軍〔守邦親王〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の一七)のことを指している。以下に示す。

 

寄進

 鶴岡八幡宮

  武藏國金曾木彦三郎重定所領事

右、依將軍家仰、奉寄如件、

    正和元年八月十一日

                相模守平朝臣(花押)

 

「金曾木」当時、金曽木重定が領していた豊島郡小具(おぐ)郷で、現在の東京都荒川区にあった。旧北豊島郡尾久町(おぐまち)。

「相模守平朝臣」は第十二代執権北条煕時(ひろとき)。光圀が『基氏の判形あり』とするのは不審。両者の花押は似ても似つかず、第一、基氏では時代も違う。

 

次の「市谷孫四郎」の寄進に関わる文書は鶴岡八幡宮編「鶴岡八幡宮年表」によれば神田康平氏旧蔵とする文書にある由、記載がある。

「金杉」東京都台東区下谷にあった旧地名で金杉があるが、これを言っているか?]

一言芳談 三

   三

 

 有云、蓮阿彌陀佛が夢に、八幡宮つげてのたまはく、往生は一念にもよらず、多念にもよらず、心によるなり。

 

(一)往生は一念多念によらず、心による、とは稱名念佛すれば佛になるぞとおもひさだめたる心なり。

(二)心によるなり、世人一念多念のあらそひは口ばかりのことなり。心と口と相應してこそ往生はすれとなり。されば信を一念にとりて、行を多念にはげむべきなり。

 

[やぶちゃん注:「蓮阿彌陀佛」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋俊雄氏注には、『豊前の人、聖光房弁長門下の主な弟子の一人』とある。弁長(応保二(一一六二)年~嘉禎四(一二三八)年)浄土宗鎮西派の祖で、現在の浄土宗では第二祖とされる。但し、大橋氏は続けて『隆寛の弟子にも蓮阿の名が見えている』とされる。隆寛(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)は浄土宗長楽寺流の祖である。

「一念」「多念」これは法然門下におこった念仏往生に関する論争「一念義多念義」の問題を戒する謂いである。弥陀の本願を信じる唯一度の念仏で往生出来るとする一念義と、往生には臨終まで可能な限り多くの念仏を唱える必要があるとする多念義の論を指す。平凡社「世界大百科事典」のよれば、前者は行空・幸西らにより、後者は隆寛の主唱に基づくとある。一念義は法然の在世中から京都・北陸方面で信奉され、一念の信心決定に重きを置き、多念の念仏行を軽視、やがては否定した。一念往生の主張を都合よくとって破戒造悪を厭わぬ反社会的行為に走る者も出、専修念仏弾圧の一因ともなった論争である。]

北條九代記 淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎

      ○淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎

木曾義仲の嫡子淸水冠義高は人質として賴朝に渡されしを、婿にしてかしづかる。然るに義仲朝敵の名に懸り、江州にて討れ給ふ。其子なれば婿ながら心操(こゝろばせ)計難(はかりがた)し、誅せらるべきなりと、内々眤近(ぢつきん)の輩に仰含めらる。女房等聞窺ひて、姫君の御方へ告知せたり。淸水冠者その曉(あかつき)女房の姿に出立ち、姫君の御方の女房達に打圍まれて忍出で給ふ。海野小太郎幸氏は淸水と同年にて晝夜御前を立去らず、已に相替りて張臺(ちやうだい)に入りつつ、宿直(とのゐ)の下に臥して髻(もとどり)許(ばかり)を枕に出し、引被(ひきかづ)きて、日闌(たく)るまで起上らず。既に又起出つゝ、淸水殿の常の御座に立入りて、日比の有樣に替る事なく、只獨(ひとり)雙六(すごろく)を打つ。是は日比淸水殿の慰(なぐさみ)として、朝暮に翫(もてあそ)ばれしかば、幸氏必ずその合手にまゐりたる所なり。殿中の男女はこの事夢にも知らざりしを、晩景に及びて、斯(かく)と知りければ、賴朝大に怒り給ひ、幸氏を召戒(めしいまし)め、堀(ほりの)藤次親家以下の軍兵を方々の道路に差遣し、討留(うちとゞ)むべき由仰(おほせ)付けらる。親家人數を分ちて、追手を掛けし所に、郎従藤内光澄武藏國入間河原(いるまかはら)にして追付き、敢(あへ)なくも淸水冠者を討取り首級を舉てぞ歸りける。この事隱密(おんみつ)し給へども、姫君既に漏聞(もれき)かしめ給ひ、愁歎の色深く魂を消す計(ばかり)にて、漿水(しやうすゐ)をだに聞入(ききい)れ給はず。賴朝も御臺も理(ことわり)に伏(ふく)して、御哀傷甚し。殿中打潜(うちひそ)みて、物の音も定(さだか)にせず。姫君は貞節の心ざし金石(きんせき)よりも堅くして、一生つひに二度(ふたたび)人に嫁(か)し給はず、有難き心操(こころばせ)なり。御母御臺深く憤り給ひ、縱(たと)ひ仰(おほせ)の事なりとも、何ぞ内々姫君の御方へ申さしめず、楚忽(そこつ)に淸水殿を討ち奉り、姫君是故(これゆゑ)御病重く、日を追ひて、憔悴し給ふ。この男の不覺なりとて、堀親家が郎從藤内光澄を引出し、首を斬りてぞ棄てられける。

[やぶちゃん注:過去、「新編鎌倉志巻之三」の「常楽寺 木曽塚」や「鎌倉攬勝考卷之五」の「常楽寺」で語ってきたように、これは鎌倉初期の出来事の中でも、私にとって最も忘れ難い、元暦元(一一八五)年四月の大姫(当時満六歳)と清水冠者義高(同じく十一歳)の悲恋のシークエンスである。以下に「吾妻鏡」の当該関連部分(四月二十一日・二十六日・六月二十七日)を示す。

 

〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)

廿一日己丑。自去夜。殿中聊物忩。是志水冠者雖爲武衞御聟。亡父已蒙 勅勘。被戮之間。爲其子其意趣尤依難度。可被誅之由内々思食立。被仰含此趣於昵近壯士等。女房等伺聞此事。密々告申姫公御方。仍志水冠者廻計略。今曉遁去給。此間。假女房之姿。姫君御方女房圍之出内畢。隱置馬於他所令乘之。爲不令人聞。以綿裹蹄云々。而海野小太郎幸氏者。與志水同年也。日夜在座右。片時無立去。仍今相替之。入彼帳臺。臥宿衣之下。出髻。日闌之後。出于志水之常居所。不改日來形勢。獨打雙六。志水好雙六之勝負。朝暮翫之。幸氏必爲其合手。然間。至于殿中男女。只成于今令坐給思之處。及晩縡露顯。武衞太忿怒給。則被召禁幸氏。又分遣堀藤次親家已下軍兵於方々道路。被仰可討止之由云々。姫公周章令銷魂給。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿一日己丑。去ぬる夜より殿中聊か物忩(ぶつそう)。是れ、志水冠者、武衛の御聟たりと雖も、亡父已に 勅勘を蒙り、戮(りく)せらるるの間、其の子として其の意趣尤も度(はか)り難きに依りて、誅せらるべきの由、内々思し食(め)し立ち、此の趣を眤近(ぢつきん)の壮士等に仰せ含めらる。女房等、此の事を伺ひ聞きて、密々に姫公(ひめぎみ)の御方に告げ申す。仍りて志水冠者計略を廻らし、今曉遁れ去り給ふ。此の間、女房の姿を假り、姫君の御方の女房、之を圍みて、内(かくない)を出で畢んぬ。馬を他所に隱し置き之に乘らしむ。人をして聞かしめざらんが爲に、綿を以て蹄を裹(つつ)むと云々。

而うして海野小太郎幸氏は志水と同年なり。日夜座右に在りて片時も立ち去ること無し。仍りて今、之れに相ひ替りて、彼の帳臺に入り、宿衣の下に臥して、髻を出だす。日闌(た)くるの後、志水の常の居所に出でて、日來(ひごろ)の形勢を改めず、 獨り雙六(すごろく)を打つ。志水、雙六の勝負を好み、朝暮に之を翫(もてあそ)ぶ。幸氏、必ず其の合手たり。然る間、殿中の男女に至るまで、只今に坐せしめ給ふ思ひを成すの處、晩に及びて縡(こと)露顯す。武衞、太(はなは)だ忿怒し給ひ、則ち、幸氏を召し禁(いまし)めらる。又、堀藤次親家已下の軍兵を方々の道路に分ち遣はし、討ち止(とど)むべきの由を仰せらるると云々。

姫公、周章し、魂を銷(け)さしめ給ふ。

[やぶちゃん補注:「内」は「廓内」と同義で、御所内のこと。

   *

〇原文(元暦元(一一八五)年四月小)

廿六日甲午。堀藤次親家郎從藤内光澄皈參。於入間河原。誅志水冠者之由申之。此事雖爲密議。姫公已令漏聞之給。愁歎之餘令斷漿水給。可謂理運。御臺所又依察彼御心中。御哀傷殊太。然間殿中男女多以含歎色云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日甲午。堀藤次親家が郎從の藤内光澄皈參(へんさん)す。入間河原(いるまがはら)に於いて、志水冠者を誅するの由、之を申す。此の事密たりと雖も、姫公、已に之を漏れ聞かしめ給ひ、愁歎の餘りに漿水(しやうすい)を断たしめ給ふ。理運と謂ひつべし。御臺所、又、彼の御心中を察するに依りて、哀傷、殊に太だし。然る間、殿中の男女、多く以て歎色を含むと云々。

[やぶちゃん補注:「皈參」は「返參」で帰参と同義。「入間河原に於いて」入間川八丁の渡し付近。現在の狭山市入間川三丁目には、後に政子が建てたとされる義高を祀る清水八幡宮が残る(「狭山市」公式HPの清水八幡宮)。]

   *

[やぶちゃん補注:この間、五月一日の条に甲斐・信濃にあった清水冠者義高の残党征伐進発の下命の記事、同二日の条には『依志水冠者誅戮事。諸國御家人馳參。凡成群云々』とある。]

   *

〇原文(元暦元(一一八五)年六月小)

廿七日甲申。堀藤次親家郎從被梟首。是依御臺所御憤也。去四月之比。爲御使討志水冠者之故也。其事已後。姫公御哀傷之餘。已沈病床給。追日憔悴。諸人莫不驚騷。依志水誅戮事。有此御病。偏起於彼男之不儀。縱雖奉仰。内々不啓子細於姫公御方哉之由。御臺所強憤申給之間。武衞不能遁逃。還以被處斬罪云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿七日甲申。堀藤次親家が郎從、梟首(けうしゆ)せらる。是れ、御臺所の御憤りに依てなり。去ぬる四月の比、御使として志水冠者を討つの故也なり。其の事已後、姫公、御哀傷の餘り、已に病床に沈み給ひ、日を追ひて憔悴す。諸人驚き騷がざる莫し。志水誅戮の事に依りて、此の御病ひ有り。偏へに彼の男の不儀より起る。縱(たと)ひ仰せを奉(うけたまは)ると雖も、内々に子細を姫公の御方に啓(まう)さざるやの由、御臺所、強ちに憤り申し給ふの間、武衞遁逃する能はず、還つて以て斬罪に處せらると云々。

[やぶちゃん補注:「内々に子細を姫公の御方に啓さざるや」は頭に「何故」などが省略されていよう。逆に破格が政子の憤激を伝える。]

 

「朝敵の名に懸り」この「懸り」は、私には仕組まれた謀事(はかりごと)に陥る、はまるの意で採りたい。

「眤近(ぢつきん)」底本ルビは「ぢつちん」であるが、誤植と判断した。

「海野小太郎幸氏」海野幸氏(うんのゆきうじ 承安二(一一七二)年~?)。別名、小太郎。没年は不詳であるが、彼が頼朝から第四代将軍頼経まで仕えた御家人であることは確かである。弓の名手として当時の天下八名手の一人とされ、また武田信光・小笠原長清・望月重隆と並ぶ「弓馬四天王」の一人に数えられた。参照したウィキの「海野幸氏」によれば、『木曾義仲に父や兄らと共に参陣』、寿永二(一一八三)年に『義仲が源頼朝との和睦の印として、嫡男の清水冠者義高を鎌倉に送った時に、同族の望月重隆らと共に随行』そのまま鎌倉に留まった。ところが元暦元(一一八四)年に『木曾義仲が滅亡、その過程で義仲に従っていた父と兄・幸広も戦死を遂げ』た。幸氏は『義高が死罪が免れないと察し』、鎌倉を脱出させるに際して『同年であり、終始側近として仕えていた』彼が『身代わりとなって義高を逃が』した。『結局、義高は討手に捕えられて殺されてしまったが、幸氏の忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた』という変則的な登用である。

「宿直」宿直衣(ぎぬ)・宿直装束(そうぞく)のこと。宿直(とのい)の際に着用する直衣(のうし)。

「日闌る」日がすっかり昇る。

「敢(あへ)なくも」あっけなくも。また、「死ぬ」「死別する」の忌み言葉である「あへなくす」の意も効かしていよう。

「漿水」濃漿(こんず)とも。流動食の重湯(おもゆ)のこと。

「理に伏して」大姫がかくなるも、仕方なく、もっともなること、と思い。

「楚忽」粗忽。]

みじか夜の汐さき騷ぐ鴉かな 畑耕一

みじか夜の汐さき騷ぐ鴉かな

2012/11/08

郷愁 三好達治

   郷 愁

 蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角に海を見る……。私は壁に海を聽く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣の部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、佛蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」

(「測量船」)

一言芳談 二

   二

 

有云、俊乘(しゆんじやう)上人、高野の奥の院に七ヶ日參籠結願(さんらうけちぐわん)の夜、深更におよびて、よろづ寂寞(じやくまく)たりける時、入定(にふぢやう)の御殿のうちに、たゞ一聲(ひとこゑ)、念佛の御聲(みこゑ)さだかにしたまひけり。人是をきゝて、悲喜、身にあまり、感涙たもとをしぼりけるとぞ。

 

(一)俊乘聖人、高野參籠の時、大師の御告ありしこと古事談に見ゆ。

(二)寂寞、物しづかなる義なり。

 

[やぶちゃん注:「俊乘上人」重源(ちょうげん 保安二(一一二一)年~建永元(一二〇六)年)のこと。紀季重の子。長承二(一一三三)年、真言宗の醍醐寺で出家、南宋を三度訪れたともされる(彼自身の虚説とも)。後に法然に学び、四国・熊野など各地で修行をして勧進念仏を広め、勧進聖の祖となった。東大寺大勧進職として治承四(一一八〇)年十二月の平家攻略により焼失した東大寺の再建復興を果たした。

「入定の御殿のうちに、たゞ一聲……」弘法大師空海は死んでおらず、現在も高野山奥の院の霊廟に禅定を続けていると信じられている。以下、ウィキ空海」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『空海は肉身を留めて入定していると信じられて』おり、『奥の院の維那(ゆいな)と呼ばれる仕侍僧が衣服と二時の食事を給仕している。霊廟内の模様は維那以外が窺う事はできず、維那を務めた者も他言しないため一般には不明のままである』。『現存する資料で空海の入定に関する初出のものは、入寂後百年以上を経た康保五年(九六八年)に仁海が著した「金剛峰寺建立修行縁起」で、入定した空海は四十九日を過ぎても容色に変化がなく髪や髭が伸び続けていたとされる。「今昔物語」には高野山が東寺との争いで一時荒廃していた時期、東寺長者であった観賢が霊廟を開いたという記述がある。これによると霊廟の空海は石室と厨子で二重に守られ坐っていたという。観賢は、一尺あまり伸びていた空海の蓬髪を剃り衣服や数珠の綻びを繕い整えた後、再び封印した。また、入定したあとも諸国を行脚している説もあり、その証拠として、毎年三月二十一日に空海の衣裳を改める儀式の際、衣裳に土がついている』のを証左としている、とある。

「(一)」以下の標注は「古事談 巻第三 一〇五」を指す。以下に示し、「・」で注を附した(底本は二〇〇五年刊岩波新古典文学大系版を用いたが、総て正字に代え、読みは底本に拠らず私が附した。原文行頭の「へ」の字形の記号は省略して一字空けとし、割注は〔 〕で示した)。

〇原文

 東大寺聖人舜乘坊、入唐時、教長手蹟之朗詠ヲ持渡、唐人育王山長老以下見之、感歎無極、其中天神御作、春之暮月々之三朝ノ句、殊以襃美、不堪感懷、遂乞取納遊王山寶藏〔云云〕、

 此上人昔參籠高野山之時、夢中大師、汝者可造東大寺之者也ト被仰卜見ケリ、燒失之後、果テ如夢、以之非直也人歟、

〇書き下し文

 東大寺聖人舜乘坊、入唐の時、教長(のりなが)の手跡の朗詠を持ちて渡る。唐人、育王山長老以下之れを見て、感歎極まり無し、其の中に天神の御作、「春の暮月(ぼぐゑつ) 月の三朝(さんてう)」の句、殊に以て襃美し、感懷に堪へずして、遂に乞ひ取りて育王山の寶藏に納む、と云々。

 此の上人、昔高野山に參籠する時、夢中に大師、「汝は東大寺を造るべき者なり」と仰せらると見けり。燒失の後、果して夢の如し。之れを以て、直なる人に非ざるか。

・「教長」藤原教長(天仁二(一一〇九)年~治承四(一一八〇)年)。保元の乱で崇徳上皇・藤原頼長に加担して敗れ、出家して投降、常陸国浮島(現在の茨城県稲敷市浮島)に配流となる。六年後の応保二(一一六二)年に都に召還されて高野山に入った。歌人・能筆家としても知られる。

・「育王山」阿育王山。浙江省寧波の阿育王禅寺。

・「天神」菅原道真。

・「春之暮月々之三朝」「和漢朗詠集」春に載る「三月三日(さんじつ) 附(つけたり)桃」に載る道真の賦の序の部分。以下に示し、「●」で注を附した(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、やはり正字に代えた)。

〇原文

春之暮月 々之三朝 天醉于花 桃李盛也 我后 一日之澤 萬機之餘 曲水雖遙 遺塵雖絶 書巴字而知地勢 思魏文以翫風流 蓋志之所之 謹上小序  菅

〇書き下し文

春の暮月(ぼぐゑつ) 月の三朝(さんてう) 天も花に酔(ゑ)へり 桃李(たうり)の盛んなるなり。我が后(きみ) 一日(いちじつ)の澤(たく) 萬機(ばんき)の余(あまり)、曲水(こくすい)遙かなりといへども、遺塵(ゐぢん)絶えんたりといへども、巴(は)の字(じ)を書きて地勢(ちせい)を知り、魏文(ぐゐぶん)を思(おも)て風流(ふりう)を翫(もてあそ)ぶ。蓋(けだ)し志(こころざし)の之(ゆ)くところ、謹んで小序(せうじよ)を上(たてまつ)る。   菅

●「春の暮月 月の三朝」は三月三日のこと。

●「一日の澤」今日という日の曲水の宴を催された天皇の御恩沢。

●「萬機の餘」天皇の政(まつりごと)の暇(いとま)。

●「遺塵」底本の頭注に『昔のあと。わが国でこの宴が平城天皇の大同三年』(西暦八〇八年)『より中絶していたことをさす』とある。

●「巴の字」曲水の宴の水の流れが巴(ともえ)の字、その意の如く、円形を描くように回っているさまを言う。

●「魏文」曲水の宴の濫觴は魏の文帝に遡ると言う。

●「蓋し志の之くところ」は中国の「詩経」大序に基づく「言志」の思想に拠る。『およそ、古くから唱える如く、思うがままに「詩は志を言う」ものでありますから』の謂い。

●「此の上人、昔高野山に參籠する時……」本話の当該部であるが、これは更に「古今著聞集 卷第一 神祇」(二十六)に同話があり、同ソースであることが分かる。以下に示し、「★」で注を附した(底本は新潮日本古典集成版を用いたが、やはり正字に代え、ルビは一部を省略した)。

   俊乘房重源東大寺建立の願を發して大神宮に參籠の事

俊乘房、東大寺建立の願を發(おこ)して、その祈請のために大神宮にまうでゝ、内宮(ないくう)に七箇日參籠、七日滿つ夜の夢に、寶珠を給ると見侍けるほどに、その朝、袖より白珠おちたりけり。目出く忝なく思ひてつつみて持て出でぬ。さて又、外宮(げくう)に七日參籠、さきのごとく七日みつ夜の夢に、又前のごとく珠をたまはられけり。末代といへども、信力のまへに神明感應を垂れ給ふ事かくのごとし。その珠、一は御室(おむろ)にありけり。一は卿二品(きやうにほん)のもとにつたはりて侍りける。夢に、大師、「汝(なんぢ)は東大寺つくるべきものなり」と示させ給ひける。はたしてかくのごとし。たゞ人(びと)にはあらぬなり。

★「外宮」の祭神は豊受大神(とようけびめ:「古事記」では伊弉冉尊(イサナミ)の尿から生まれた稚産霊(わくむすび)の子とする。「うけ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である)。

★「信力」神仏への信心の持つ力。

★「神明感應」神仏が信者の信心に応じて効験利益(こうげんりやく)を示すこと。

★「御室」仁和寺。

★「卿二品」藤原兼子(けんし 久寿二(一一五五)年~寛喜元(一二二九)年)。刑部卿藤原範兼の娘で、通称は卿局(きょうのつぼね)。位階の昇進に応じて卿三位、卿二位とも呼ばれた。後鳥羽天皇の乳母。]

北條九代記 勝長壽院造立


   〇勝長壽院造立

木曾冠者義仲京都に入て、平家追落の賞として、左馬頭に補(ふ)せられ、押して征東大將軍となり、悪行頗(すこぶる)平家に越えたり。賴朝是を聞きて舍弟蒲(かばの)冠者範賴、九郎義經に六萬餘騎を差添へて上洛せしむ。義仲打負て、都を落ち、江州勢多の邊にて郎等皆討たれ、粟津原(あはづのはら)にして流矢にあたりて死す。年三十一歳なり。範賴、義經二手に成て、一の谷に向ひ、義經搦手(からめて)より後の山を廻り鴨越(ひよどりごえ)より攻入て火を放つに、平家敗軍し、通盛、忠度、敦盛等討死す。三位中將重衡は生捕られ、先帝、建禮門院、淸盛の後室二位の禪尼は宗盛、知盛、教盛、教經等に伴ひ、讃岐國屋嶋に赴きたまふ。義經四國を平げて、長門國に赴く。阿波民部重能降参す。平家敗軍して、舟に取乘(とりの)り、赤間が關檀の浦にして戰ひ破れ、二位の禪尼は寶劍を腰に差し、先帝を抱き奉りて、海底に沈み、知盛、教盛、教經等皆悉(ことごとく)身を沈め、宗盛、淸宗、建禮門院は生捕られ、平家此所に滅亡す。時に元曆二年三月二十四日なり。九郎義經生捕を連れて、鎌倉に下る。建禮門院は都に捨てられ、大原の芹生(せりふ)に引籠りて尼になり、阿波内侍と共に行ひ給ふ。義經は自立(じりふ)の心ありとて、腰越より追返(おひかへ)され、宗盛父子を江州の篠原にて是を斬り、我が身は西海に赴かんとせしかども、風波荒くして、叶はず。奥州に下りて、衣川の城に居住す。秀衡死して後に文治五年閏四月賴朝の仰によりて、泰衡が爲に自害せらる。生年三十一歳、その郎從十餘人皆此所に討死す。去年壽永二年の冬後白河法皇より故主馬頭義朝竝に鎌田兵衞政淸が首級を東の獄門より尋ね出して鎌倉に下させ給ふ。賴朝大に喜び給ひて、自ら鎌倉の勝地を求め、十一月に鶴ヶ岡の東に方(あたつ)て、勝長壽院を建立し、佛工定朝(ぢやうてう)に仰せて、丈六金色の彌陀の形像(ぎやうざう)を作らしめ、大伽藍の造營落慶供養あり。義朝、政淸が首級を葬り、佛事作善(さぜん)殊更に精誠を盡し給ひけり。

[やぶちゃん注:「芹生」は現代音「せりょう」と読み、現在の京都市左京区大原の西方、大原川(高野川)の西岸にある草生の南の古名。

「十一月に鶴ヶ岡の東に方て、勝長壽院を建立し」前の部分に「去年壽永二」(一一八三)年とあるのを受け、ここはその翌年、改元して元暦元(一一八四)年の「十一月」である。但し、「十一月」二十六日に行われたのは土地に縄張りをして基礎造りを始める地曳始の儀(地鎮祭)で、その後、文治元(一一八五)年二月十九日に事始め(本格起工)が行われ(ここで「吾妻鏡」は本建物を『南御堂』と呼称している)、同四月十一日が立柱(起工式)が行われ、五ヶ月後の九月三日に義朝と鎌田正清の首級が、ここ『南御堂の地に』埋葬されたとある。成朝作の阿彌陀本尊が安置されたのは同十月二十一日で、この頃は堂と門が立っていたに過ぎなかったと考えられている。
「定朝」成朝(せいちょう)の誤り。定朝は平安後期の仏師で、成朝はその流れを汲む。
「丈六」これは仏像用語で、これで一丈六尺の意。釈迦の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)であったとされるのに因む。座像の場合は半分の八尺に作るが、それも丈六と言う。]

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(3)

 次に全身甲で被はれて居るので有名な動物は龜類である。普通の石龜でも甲は隨分堅いから頭・尾と四足とを縮めて居れば、犬に嚙ませても平氣で居るが、琉球八重山島に棲む箱龜は、腹面の甲が蝶番ひの如き仕掛けで中央で曲折するから、頭、尾を縮めた處をも全く閉ざして少しも空隙を殘さぬ。熱帶地方の島に産する大形の龜になると、甲もその割に厚く力も強いから、大人が靴のまゝ乘つても苦もなく匐ひ歩く。但し兎と龜との寓話にもある通り、龜の歩みは頗る遲いが、これは甲を以て敵を防ぐことが出來るので、急いで逃げ去る必要がないからである。誰よりも重い鎧を著て、誰よりも速く走らうといふのは無理な註文で、何事でも一方で勝たうとするには、他の方で劣ることを覺悟しなければならぬ。昆蟲類の中でも皮の薄い「とんぼ」は飛ぶことが速いが、厚い鎧を著た「かぶとむし」は運動が緩慢である。

 


Garapagosuzougame

[陸上に棲む大龜]

 

[やぶちゃん注:「石龜」この丘先生の謂いは本邦固有種である爬虫綱カメ目潜頸亜目リクガメ上科イシガメ科イシガメ属ニホンイシガメ Mauremys japonica を指していると考えてよい。別名イシガメ、幼体をゼニガメと呼び、我々が最も見慣れているカメである。

「箱龜」イシガメ科ハコガメ属セマルハコガメの日本固有種である亜種ヤエヤマセマルハコガメ Cuora flavomarginata evelynae。一九七二年に国天然記念物指定されている。

「熱帶地方の島に産する大形の龜」挿絵を見れば一目瞭然、これはリクガメ科 Geochelone(リクガメ)属Chelonoides 亜属ガラパゴスゾウガメ Geochelone nigra のことを指していると考えてよい。]

カテゴリ「一言芳談」始動/ 一

十七年前に始めて読み、そのぶっとんだ内容にすっかりノック・アウトされた。
最初は、如何にもな退屈なものに見えるかもしれない――しかし、暫くお付き合い戴ければ、この面白さが分かって戴けるであろうと存ずる。
因みに如何に示した『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の冒頭では、かの吉本隆明が『日本の古典のなかで「一言芳談」は五本の指にはいるくらい好きだ』とのたまい、『「一言芳談」は悪の世界の豊饒さを示す語録』と規定し、『「一言芳談」の世界を想像すると、天空の一面に「疾く死なばや」という死への願望がとびかって交響し、いかにして死に近づこうとして身もだえしながら、血縁に対する親和を捨て、きずなを捨てることからはじまって、あらゆる所有をぬぎすてながら、最後には現世の衣食住を離れて、山野に隠れてゆく人の群れが浮んでくる』と語っている。――臓器移植に反対する彼らしい物謂いである。――僕は献体しているが、それは母の様な医学の進歩に供するためではない。僕はただ葬式も墓も拒否するからである。――また最後に申し添えておくなら、僕は「一言芳談」は大好きだが……吉本隆明は大嫌いである……



一言芳談 ――藪野直史標注校訂「一言芳談」――

[やぶちゃん注:「一言芳談(いちごんほうだん)」は編者は不明ながら、法然門下の浄土僧明遍(康治元(一一四二)年~貞応三(一二二四)年:父藤原信西。号は空阿弥陀仏)系譜に属する僧によって書かれたとも推定される、鎌倉後期に成立した仏教書。敬仏・法然・明禅ら三十余人の念仏聖の言行を伝える法語一五三条を集めたもので、無常の認識と現世の徹底否定を説くその内容から中世仮名法語の代表とされる。「徒然草」第九十八段に、
尊きひじりの言ひ置きける事を書きつけて、一言芳談(いちごんはうだん)とかや名づけたる草子を見はべりしに、心にあひて覺おぼえしことども。
 一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやう、せぬはよきなり。
 一、 後世(ごせ)を思はん者は、糂汰瓶(じんだがめ)一つも持つまじきことなり。持經・本尊に至いたるまで、よきものを持つまじきなり。
 一、 遁世者は、なきにことかけぬやうをはかひて過ぐる、最上のやうにてあるなり。
 一、 上﨟は下﨟になり、智者は愚者になり、德人(とくにん)は貧になり、能ある人は無能になるべきなり。
 一、 仏道を願ふといふは、別(べち)の事なし。暇ある身になりて、世のことを心にかけぬを、第一の道とす。
このほかもありしことども、おぼえず。
と引用されていることで知られる。
 ところが「一言芳談」は現代では永く善本が出版されず、その全容は人口に膾炙しているとは言い難い。
 そこで今回の私の電子テクスト化はまず、元禄二(一六八九)年板行の、京師の小川報恩寺の僧湛澄の纂輯に成る「標注増補一言芳談抄」を底本とした
Ⅰ 岩波文庫昭和一五(一九四一)年刊森下二郎校訂「標注 一言芳談抄」(正字正仮名版)に所載する標注を含めて参考とした
が、本書の標注は森下氏によって取捨選択されており総てではない。また、貞享五(一六八八)年刊書林西村市良右衛門蔵板「一言芳談句解」の一部も混入している。本テクスト中の「句解」とあるのがそれで、この「一言芳談句解」は祖観元師による本書注釈書の濫觴であり、貞享三(一六八六)年に洛外で起稿されたものである(従ってこれらの「註」を電子化することは、採らなかったものがある点及び「句解」からの選択的引用という点では森下氏の編集権を侵害する虞れはある。要請されれば、そのままの当該注部分は撤去する用意はある)。
 併しながら、この親本である「標注増補一言芳談抄」は、編者湛澄による対校と本文整序に優れたものではあるものの、それぞれの条の内容を「三資」・「淸素」・「師友」・「無常」・「念死」・「臨終」・「念佛」・「安心」・「學問」・「用心」の分野別十類に分け、内容を完全に組み替えてしまってあり、本来の「一言芳談」の自然の順序を大きく乱しているという大きな難点がある(そのために冒頭の部分の話者を「又」から人名に書き換えてもある)。
 そこで、現在、容易に入手し得る善本の完本、
Ⅱ 一九九六年春秋社刊の大橋俊雄・吉本隆明『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の中の慶安元(一六四八)年林甚右衛門版行の上下巻を親本とする「一言芳談」原文(新字正仮名版)の表記と順序をⅠに合わせて参照とし
ながら、
「一言芳談」を正字正仮名で独自に再構成する
という、特殊な仕儀を採ることとし、更に大橋氏が脚注に引く「標注増補一言芳談抄」及び「一言芳談句解」の一部の内、Ⅰが採用していないものを本文後の注に出すことで、Ⅰの著作権の侵害を防止し、私のテクストの独自性を図る仕儀も行った。
 また、正しい順列を保持する、
Ⅲ 国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像も読みや本文表現の最終確認に適宜参照にし
て、プロト版「一言芳談」の原文に近い表記への還元を、私なりに試みたつもりではある。
 こうした迂遠な手法を採った理由には、当初底本としようとした岩波版が、実は森下氏によって本文の仮名が漢字に改められてあったり、不適当と森下氏が判断された当て字を正字に直した部分などが数多くあって、表記上からも原型からはかなり隔たりがあるものであること作業からも明らかになったからでもある。
 但し、一部読解に支障をきたすような明らかな仮名遣の誤りは私の判断で正し、読点は私の判断で加増、ルビの一部も読みが振れると私が判断したものは補塡してある(逆に、例えば頻繁に出現する『有(あるひと)』等の読みのように、最初に読みを示した後は省略した箇所もある)。踊り字「〱」「〲」は正字に直した。標注は岩波版ではほぼ二字下げ(二行目以下はほぼ四字下げ)であるが無視した。その代り、本条との間に空行を設けた。本文中の注記記号は、註自体が本文のどこをとったか一目瞭然の書き方がなされていることから、これを省略し、注の『(一)』といった通し番号も『〇』に変えた。漢文訓点部分は、訓点を省略した代わりに後に( )で訓読を示した。仏教書としての性質上、本文への私の注は極めて禁欲的に附したが、一部には私の感懐の呟きも含ませた(なお、注に際しては上記の大橋俊雄氏の注及び現代語訳を一部参考にさせて頂いている。ここに記して謝意を表する)。謂わば本頁は、不遜ながら――藪野直史標注「校訂一言芳談」――とも言うべきものとなったと云い得るとは思うのである。【2012年11月8日始動】]

一言芳談

   一

 有(あるひと)云、惠心僧都(ゑしんそうづ)、伊勢太神宮へまゐりて七ヶ日参籠はつる夜の夢に、寶殿の御戸(みと)たちまちにひらけて、ゆゝしげなる貴女(きによ)一人いでたまへり。示(しめして)云、太神宮は本覺(ほんがく)の都へかへりおはします。これは御留守に侍(はべる)ものなり。末代の衆生出離(しゆじやうしゆつり)の要道(えうだう)をたづぬる事あらば、彌陀佛を念ぜよ、とすゝむべきよし、おほせをかれ侍る。

(一)ゆゝしげなる、此のゆゝしはすぐれてほめたることばなり。
(二)本覺の都へおはします、これは時に應じて此人にほどこし給ふ方便の御示現なり、云々。又御入定の間の事か。

[やぶちゃん注:「惠心僧都」源信(天慶五(九四二)年~寛仁元(一〇一七)年)。天台僧、恵心僧都は尊称、横川(よかわ)僧都とも称せられた。彼の撰述になる「往生要集」は浄土教の基礎となり、浄土真宗では七高僧の第六租とされる。
「太神宮」伊勢神宮内宮の祭神たる天照大御神。
「本覺の都」「本覺」とは本来の覚性(かくしょう)の略で一切衆生に本来的に具有されている「覚」(悟り)の智慧を意味するが、ここではそれが遍くあるところの「都」(世界)、本来の如来の浄土の謂い。本地垂迹説に則り、大日如来の垂迹とされた天照大御神は既に浄土に帰還している、というのである。
「これ」先の「ゆゝしげなる貴女」、如何にも気高く貴い感じのする神女の一人称。
{末代」末法の世。]

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(2)

 一永和年遍照院僧正一〔云云〕〔昔ハ僧正ニモ任ジタルコトヲ知ベル。〕

[やぶちゃん注:これは永和五(天授五年/康暦元・永和五(一三七九)年)年閏四月十三日のクレジットを持つ「鎌倉府政所執事〔二階堂行詮〕奉書」(「鎌倉市史 資料編第一」の四二)のことを指している。以下に示す。

 

安房國岩井不入計半分〔号大方分、〕事爲鸖岡八幡宮本地供々※、所被預置也、任例可有其沙汰之狀、依仰執達如件、

   永和五年閏四月十三日  沙 弥(花押)

    遍照院僧正御房

 

「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。この文書は鎌倉御所足利氏満が安房国平群(へぐり)郡岩井にある不入斗(いりやまず:本来は「不入斗」は一村として貢粗を納めるまでに至らない小集落をいうが、ここでは地名として意識されているようである。現在の千葉県富山町北部不入斗。旧北条氏領。)の半分を鶴岡八幡宮本地供々料(本地仏の御供料所)として遍照院賴印僧正に預け置くことを言っている。その後の文書類によれば、この八ヶ月後の十二月二十三日には頼印を管領として、その管理を委ねている。

 「知ベル」は感覚的なものだが、「知(ル)ベシ」の誤りではなかろうか? ここで光圀は、僧正にも土地の管領(職)を公に文書で任ずることが行われたということが分かる、と言っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。]



ともかくも、文書を一通宛調べて注するのは時間がかかる。牛歩以下ならんことは御寛恕願いたい。

耳嚢 巻之五 老病記念目出度皈し候事

 老病記念目出度皈し候事

 

 予が許へ來る齋藤友益といへる鍼治(しんぢ)の伯母は、紺屋町(こんやちやう)邊の桶屋の母にて七十六七にも成(なり)しが、寛政七年の秋より大病にて起居自由ならず、諸醫も匕(さじ)を捨(すて)、其身も此度は命終(みやうじゆう)ならんと覺悟して、家内は勿論友益などへも小袖其外記念(かたみ)として配分なし、其外心安き男女へも衣類調度針箱櫛箱迄わかち與へ、其身は着し候品死後の支度のみ殘して死期(しご)を待しに、はからずも三十日餘の絶食も食事抔少しづゝ食して、年の暮に全快なしぬ。今は丈夫にて隨分友益が許へも來りぬ。されど餘りに記念分けして甚(はなはだ)其(その)砌(みぎり)こまりける故、友益など貰ひし品へ肴(さかな)を添て返しける。餘り可笑しき事也と語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。しかし笑話乍ら、如何にも清々しい心地良い話ではないか。

・「老病記念目出度皈し候事」は「らうびやうめでたくかたみかへしさふらふこと」と読む。「皈」は「返」に同じい。

・「齋藤友益」この鍼師は本巻の「出家のかたり田舍人を欺し事」に既出。

・「紺屋町」現在の東京都千代田区北東部に位置する神田紺屋町。この町は本話柄当時には既に隣接する神田北乗物町を挟んで南と北の二箇所に分かれて存在した(現在も同じで南部・北部と呼称する)。但し、両者の隔離距離は凡そ五〇メートル程度しかない。参照したウィキの「神田紺屋町」によれば、本来は神田北乗物町の南部地区にのみあった神田紺屋町住民に対し、享保四(一七一九)年、町の防火を目的とする火除け政策の中で幕府の命令によって一部住民が神田北乗物町の北部に強制移住させられたことに由来する、とある。

・「匕」は「匙」に同じい。因みに、「匕」は昔の短剣の首の部分が「匕(さじ)」に似ていたことから短剣を匕首(あいくち)と言うようになり、「匕」は現在では専らその熟語にしか現れない。また「匕」は「かひ」とも当て読みするが、これは貝殻の意で、昔、貝殻を飯や薬を掬う杓文字(しゃもじ)として用いたことに由来する。言うまでもないが「匕を捨」は「匙を投げる」で、本話のシーンでは原義通り、薬の調合用の匙を投げ出す意から、医師がこれ以上は療法がないとして病人を見放すことを指す。後に転じて救済や解決の見込みが全くないと判断して中途で手を引く、の意に用いるようになった(現在、何もしないうちに最初から見切ったり、面倒だからと言って途中で放り出す、の意で用いるケースが見られるが、これはしばしば私が授業で述べた通り、明らかな誤用である。手を尽した果ての放棄にしか用いるべきではないのである。それが医というものである)。

・「寛政七年」本話の執筆推定下限は寛政九(一七九七)年春であるから、一年余前の新しい出来事である。

・「肴」本来は酒を飲む際に添えて食べる物、つまみ、転じて酒宴に添える歌舞音曲の意であるが、ここは後者からさらに転じた、ちょっとした日常必需品の食物や調度の品々といった意であろう。

・「三十日餘の絶食も」これは、修験道や即身成仏の修行とまでは申さぬまでも、極楽往生を願って身を潔斎する、一種の穀断ちをしたことを指すものであろう。水は勿論、木の実や草菜類は食していたものであろう(言わずもがなであるが、でなけでれば三十日に至る前に当然餓死してしまう)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 老病の者の形見を目出度くも返した事

 

 私の元へ、しばしば参る斉藤友益と申す鍼治師の伯母なるものは、紺屋町辺の桶屋の母にして、もう七十六、七歳にもなるものなるが、寛政七年の秋より大病を患って起居も自由ならず、多くの医師に診て貰(もろ)うたものの、誰もが匙を投げ、本人も、

「……この度は……最早……命終(みょうじゅう)尽きた……」

と覚悟致いて――家族へは勿論のこと、甥の友益などへも、小袖やらその外の物を、これ、形見として配り分け、その外、親しき男女へも、衣類一式・調度一式、針箱から櫛箱に至るまで悉く分かち与え、その身は、只今着て御座る衣服と寝具、そうして経帷子(きょうかたびら)なんどの死後の支度ばかりを残して臨終の時をひたすら待って御座った。……

 ところが……図らずも妄執雑念を離れ、身を軽く致いての極楽往生を願って……三十日に亙る穀断ちの後(のち)……これ――二月前は粥さえも喉(のんど)を通らなんだものが――少しずつ、食事なんどをも致すように相い成り……何と、その年の暮れには――すっきりくっきり全快致いて御座った。

 今も如何にも丈夫にて、友益が元へもしっきりなしに徒歩立(かちだ)ちにて訪ね来たるほどになったと申す。

 されど――あまりに品々をすっきりあっさり形見分け致いたがため――当座の暮らしにも、これ、甚だ困(こう)じておるという体(てい)たらくと相い成って御座った故――友益なんどは、貰(もろ)うた形見の品に、これ、ちょいとした色を添えて、返したとのことで御座る。

 

「……いやはや……あまりに可笑しきことにては、御座いまするが……」

と、これは友益自身の語った話で御座る。

短夜二句 畑耕一

短夜の水にちかづく蝶あらし

みじか夜の汐さき騷ぐ鴉かな

2012/11/07

猫のほと春あたたかに見いでける 畑耕一

猫のほと春あたたかに見いでける

暖かに牧夫の日記進みけり 畑耕一

暖かに牧夫の日記進みけり

芥川龍之介「江南游記」にて宿泊せる西湖の新新旅館や西湖の写真(教え子T.S.君撮影)/新発見の「上海游記」鄭孝胥自邸玄関前鄭・芥川スナップ写真等追加

芥川龍之介「江南游記」の「三 杭州の一夜(上)」の「新新旅館」注に、教え子のT.S.君撮って呉れた写真と彼の解説他を挿入、「上海游記」の「十三 鄭孝胥氏」の注に鄭孝胥自邸玄関前での鄭・芥川らのスナップ写真を追加した。

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耳囊 卷之五 あすは川龜怪の事

 


 あすは川龜怪の事

 


 越前福井の家中に、名字は何とか言し、源藏といへる剛勇不敵のおのこの者ありしが、右不敵の志(こころざし)故國詰申付ありて福井へ至りしに、右福井にあすは川といへる有、九十九(つくも)橋迚(とて)大橋有しが、右川に大き成(なる)龜住て人を取る事もありし由。然るに源藏或日かの九十九橋を渡りしに、誠に尋常にあらざる大龜川の端に出居(いでゐ)たりしを、かれ人をとる龜ならん、憎き事也と刀を拔持(ぬきもち)て、裸に成て右河中へひたり、難なく右龜を屠(ほふ)り殺して、其邊の民家を雇ひて引上げ、殼は領主へ差上、肉は我宿へ持歸りて酒の肴にせんと、召仕ふ主人より附人(つけびと)の中間へ調味の儀申付晝寢せしが、彼中間つくづく思ひけるは、かゝる大龜なれば毒も有べき間、主人へ奉らんも如何なれば、川へ捨て其譯を申さんと、則(すなはち)捨(すて)て後主人へ語りければ、源藏大に憤りて、情なくも右中間を切殺しぬ。然るに大守より附人なれば、源藏取計ひ不埒也とて、預けに成(なり)て一室に押込られ居たりしが、かゝる剛氣の者ながら大守の咎(とがめ)に恐れ入(いり)て少し心も弱りしに、源藏ふせりし枕元へ深夜に來る者有て、一首の歌をよみて、

 

  暮每にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覽

 

源藏が頭を敲く者あり。其痛(いたみ)たへがたければ起上るに行方なし。かゝる事二夜程なれば源藏も心得て、歌を吟ずる折から頭をはづし枕をさし出せしに、右枕は微塵にくだけける故大きに驚きけるが、右の趣大守へ聞へければ、大守聞給ひて、それは不思議なる事也、源藏が殺せしは雄龜にて、雌龜の仇をなす成(なる)べしとて、一首の返歌を詠じ給ひ、封じてあすは川へ流し給ひければ、其後は源藏へも仇をなさゞりし由。源藏も夫より節を折(をり)て實躰(じつてい)に歸りければ、巧(たく)める惡事にもあらずとて、大守よりも咎ゆりて無滯(とどこほりなく)勤仕(ごんし)しけると也。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:本格怪奇譚で連関。

 

・「あすは川」足羽(あすわ)川。福井県今立郡池田町と岐阜県県境にある冠山(かんむりやま)を水源として北流、福井市に入って西に向きを変え、福井市中心部を通って同市大瀬町付近で九頭竜川水系日野川に合流する。

 

・「越前福井の家中」福井藩三十二万石。藩主は越前松平家。越前藩とも呼ばれる。

 

・「九十九橋」福井県福井市の足羽川下流部に架かる北国街道の橋。ここ(グーグル・マップ・データ)。戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であり、北半分が木造、南半分が石造りの橋として有名であった(参照したウィキの「九十九橋」にある「ゑちぜんふくゐの橋」の絵。半石半木の構造がはっきりと描かれている)。この特異な構造については、福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするためとする防衛説の他、石造であると橋桁数が多くなって水流を妨げるため、当時の通常時の主流域部分に相当する河川敷の北半分を加工がし易く、且つ軽いために桁数を減らせる木材で架橋した、とする土木技術面での説がある。なお、長さが八十八間(約一六〇メートル)であったことから米橋とも呼ばれた。この記述から推測するに、百間に満たないことから「九十九」(「つくも」の語源は「づぐもも」=「次百」の約とも言われる)でと命名されたものであろう(一部のネット記載の中には金沢の河川には多くの橋があることからの命名というもあるが、上記の通り、足羽川では唯一架かる橋であるから呼称としてはやや不自然であるので採らない)。なお、この橋には本話とは異なる二つの怪談が伝えられている。大魔王氏の「超魔界帝国の逆襲」の「九十九橋」などによれば、この橋は戦国時代の勇将柴田勝家が天正六(一五七八)年三月に織田信長の命により築造したものであるが、その架橋の際に勝家は石工頭の勘助という男に、石材四十八本を切り出すよう命じ、もし期限までに納付出来ない場合は死罪に処すると申し渡した。ところが勘助は四十七本までは切り出せたものの、残りの一本は寸法が短く柱に適さなかった。病いに臥せっていた勘助の母はそれを知って、「私の命は残り少ないから、用意した石棺の中に生きながらに私を入れ、その石棺を台として柱を立てれば、寸法の不足を補う事が出来よう。」と自ら人柱になると申し出、勘助は泣きながら母親の意に従ったという。この人柱は、旧橋の水際から西南二本目の柱と伝えられている。また、架橋を命じた柴田勝家は信長の死後、羽柴秀吉によって北ノ庄城で滅ぼされたが、その勝家の命日に当たる旧暦四月二十四日の丑三つ時になると、柴田軍の首の無い武者たちの行列がこの橋を渡るという噂が現在もあるとし、その行列を見た者は、一年以内に高熱を発して死ぬとも伝えられているそうである。この前の人柱伝承からは「九十九」は橋脚が「一本足りず」(=「九十九」)人柱を建てた、という謂いにもとれるように思われるが、如何?

 

・「預け」刑罰の一つ。罪人を預けて一定期間監禁謹慎させること。預かる人によって大名預け・町預け・村預け・親類預けなどの別があった。

 

・「暮每にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覽」分かり易く書き直してみると、

 

  暮每(くれごと)に訪(と)ひ來(こ)しものを足羽(あすは)川明日の夜波(よなみ)のあだに寄るらむ

 

か。「あすは川」から男(雄亀)を殺された「明日」(翌日来)を引き出し、「夜波」は「夜」と「寄(る)」を掛け、「あだ」は「空(あだ)」(空しい)と夫を殺された「仇(あだ)」をも掛けるか。「らむ」は婉曲である。

――昨日まで夜毎に愛しい人が通って来てくれた……しかし、あの日の、明けた次の夜(よ)からはもう、寄り呉るる者とてもなくなった……ただ、あだ波だけが寄せてくる……私は……あなたに仇(あだ)を討つ……


・「咎ゆりて」の「ゆり」は自動詞ラ行上二段活用の動詞「許(ゆ)る」で、許される、の意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 あすわ川の亀の怪の事

 

 

 越前福井の御家中に――名字は何とか申したが、失念致いた――源蔵と申す剛勇不敵の男が御座った。その比類なき剛毅と主家忠信が買われ、特に国詰を申し付けられて福井御城下へと召されて御座った。

 

 さて、当地には足羽(あすわ)川と申す川があり、そこに九十九橋(つくもばし)とて大きなる橋が掛かって御座ったが、この川には、これ、大きなる亀が巣食うており、橋を渡る人を襲ってはそれを喰らう、との専らの評判で御座った。

 

 ところが、ある日のこと、源蔵、この九十九橋を渡ったところ、誠に尋常ならざる大亀が、これ、川端に出でて甲羅干しをしておるのを見つけた。

 

 源蔵、

 

「奴(きゃつ)めが、人を喰らう亀ならん! 憎(にっくき)きことじゃ!」

 

と、刀を抜き放つや、裸になってかの川中に飛び込むと、一刀のもと、亀を屠(ほふ)り殺してしまった。

 

 そうして、近所に住む町人どもを雇い入れ、川より亀の遺骸を引き上げると、

 

「奴(きゃつ)の甲羅は殿へ差し上げ、肉は我らが屋敷に持ち帰って酒の肴に致さん。」

 

と言上げ致いて、立ち帰って御座った。

 

 屋敷に着いた源蔵は、召し使って御座った附け人の中間――彼は殿より直々に附け下された附け人で御座った――に調理の儀を申し付けると、自分は昼寝をしに奥へと入った。

 

 しかし乍ら、この中間、つくづく思うことには、

 

『……かかる年経(ふ)りて人馬をも喰らう妖しき大亀なれば……これ、その身に毒のあらんとも限らぬ。……そのような危うきものをご主人さまへ肴として差し上ぐるも如何なれば……川へ捨てて、かくも思慮致いた故と申し上ぐるが、よかろう。』

 

と、そのまま亀の肉を捨てて、昼寝より目覚めた源蔵にことの次第を語ったところが、源蔵、烈火の如く憤って、非情にも、即座に、その中間を一刀のもと、斬り殺してしまった。……

 

 然るに、この中間、殿直々に下された附き人で御座った故、

 

「――源蔵が取り計らい、これ、不埒千万!」

 

とて、「預け」と処断され、源蔵は御家中の家士が屋敷の一室に押し込めらるる仕儀と相い成った。

 

 源蔵も――かかる剛毅の者乍ら――流石に殿のお怒りと、そのお咎めに恐れ入って、すっかり消沈して御座った。……

 

 ところが、そんなある夜のことで御座った。

 

……源蔵が寝ておる枕元へ深夜、立ち来たる者がある。

 

……そうして、その者

 

  暮每(くれごと)にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覽(よるらん)

 

……と、一首の歌を詠むそばから……源蔵の頭を

 

――ゴッ! ゴッ!

 

……と叩く。

 

……その痛みたるや、とてものことに耐え難きものなればこそ

 

――ガバッ!

 

と、起き直って見るも

 

……そこには……誰も……御座らぬ。……

 

 かかる仕儀が二晩も続いたによって、三日目の夜(よ)、源蔵も心得て、かの妖しき者の出来(しゅったい)致いて、歌を吟じ始むると同時に、枕より頭を外すと、おると思しい方(かた)へ、その枕を打ち下ろして向けたところが、枕は

 

――バリバリッ!

 

と音を立てて、粉微塵に砕け散って御座った。

 

 流石の源蔵も吃驚仰天、文字通り、胆を冷やいて、明け方まで、まんじりともせず、起き直って御座ったと申す。……

 

 尋常ならざることなればこそ、翌日にも、この一件は殿のお耳へも達することと相い成ったが、殿は、

 

「それは不思議なことじゃ……源蔵が殺いたは雄亀にて、連れあいの雌亀が仇をなしに参ったに、これ、相違ない。」

 

と申され、殿ご自身、一首の返歌をお詠み遊ばされ、これを書き封じた奉書を足羽川にお流しになられたところ――その後は源蔵のもとへも仇(あだ)をなす如き怪事は、これ、絶えてなくなって御座った。

 

 源蔵も、それより、暴虎馮河非情無比の性(しょう)を正いて、実直なる質(たち)に自らを矯(た)めたが故、

 

「――悪逆非道の性根より成した所行にては、これ、あらず。」

 

と、殿よりも、かのお咎めへのお許しも御座って、その後、滞りなく、忠勤致すこと、これ、出来申した、との由にて御座る。

春昼二句 畑耕一

春晝の伽藍見あぐるものばかり

眼つぶれば曼荼羅うごく春の晝

2012/11/06

北條九代記 賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天

      〇賴朝腰越に出づる 付榎嶋辨才天

同四月五日賴朝逍遙の御爲に腰越の濱に出で給ふ。北條、畠山、土肥、結城以下の御供なり。是より榎嶋(えのしま)に赴き給ふ。高雄の文覺上人此所に辨才天を勧請して賴朝の武運を祈られける。始て供養の法を行はるゝ故に依つて、今日鳥居を立てられけり。是潛(ひそか)には奥州の鎭守府將軍藤原秀衡を調伏の爲なり。抑辨才天と申すは龍宮城の主として、三世諸佛轉法輪(てんぽふりん)利生化導(けだう)の辨才なり。教法(げうぽふ)既に閻浮提(えんぶだい)に滅盡の時この大辨才龍宮にをさまるといへり。又その跡を尋ぬれば、四王天三十二將の随一として魔軍を退け、佛法を守護し、修學信仰の輩には大福德を與へ給ふ。所持の寶珠(はうじゆ)はこの故なり。又この嶋の有樣陸(くが)を距(き)る事數町にして、舟を渡して、至る所に數十の小屋ありて、漁人(すなどり)の栖(すみか)とす。嶋の西南に窟(いはや)あり。海水浪をあげて是を浸し、潮汐湛(たたへ)て漣漪(れんき)たる事池の如し。窟の内は石壁數丈なり。入る事數歩にして仰瞻(あふぎみ)れば、只岌々(きふきふ)として高く見ゆ。嶋神の小祠(こやしろ)あり。鳩常に栖とす。道暗くして進難(すゝみがた)し。松明(たいまつ)を燃(とも)して、深く入るに、水濕ひて煖(あたゝか)なり。昔役(えんの)行者伊豆の大嶋に流されし時、この窟に出入し給ふ。是より一町計にして其より末は行盡(ゆきつくし)難く、誠に龍神の行き通ふ所、殆(ほとんど)類(たぐひ)なき淸境なり。當來の出世に方(あたつ)て、三會(え)説法の辨才はこの嶋より現るべし。大辨才天の神力(じんりき)は人の信ずるに從(したがつ)て、福智威勢今世後生総て二世の悉地(しつぢ)を得る自在慈悲の妙用誰人か信ぜざらん。賴朝は金洗坂(かねあらひざか)の邊にして牛追物(うしおふもの)を御覽じて、それより御館(みたち)に歸り給ふ。

[やぶちゃん注:「榎嶋」江の島。

「辨才天」弁才天は仏教の守護神である天部の一つ。ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー(Sarasvatī)が、仏教あるいは神道に取り込まれた呼び名。以下、ウィキの「弁財天」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更、注記記号を省略した)。『経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」だが、日本では後に財宝神としての性格が付与され、「才」が「財」の音に通じることから「弁財天」と表記する場合も多い』。『本来、仏教の尊格であるが、日本では神道の神とも見なされ「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物にもなっている。仏教においては、妙音菩薩(みょうおんぼさつ)と同一視されることがある』。『また、日本神話に登場する宗像三女神の一柱である、市杵嶋姫命(いちきしまひめ)と同一視されることも多く、古くから弁才天を祭っていた社では明治以降、宗像三女神または市杵嶋姫命を祭っているところが多い』。『「サラスヴァティー」の漢訳は「辯才天」であるが、既述の理由により日本ではのちに「辨財天」とも書かれるようになった。「辯」と「辨」とは音は同じであるが、異なる意味を持つ漢字であり、「辯才(言語・才能)」「辨財(財産をおさめる)」を「辯財」「辨才」で代用することはできない。戦後、当用漢字の制定により「辯」と「辨」は共に「弁」に統合されたので、現在は「弁才天」または「弁財天」と書くのが一般的である』。『原語の「サラスヴァティー」は聖なる河の名を表すサンスクリット語である。元来、古代インドの河神であるが、河の流れる音や河畔の祭祀での賛歌から、言葉を司る女神ヴァーチェと同一視され、音楽神、福徳神、学芸神、戦勝神など幅広い性格をもつに至った。像容は八臂像と二臂像の二つに大別される。八臂像は「金光明最勝王経」「大弁才天女品(ほん)」の所説によるもので、八本の手には、弓、矢、刀、矛(ほこ)、斧、長杵、鉄輪、羂索(けんさく・投げ縄)を持つと説かれる。その全てが武器に類するものである。同経典では弁才・知恵の神としての性格が多く説かれているが、その像容は戦神としての姿が強調されている』。『一方、二臂像は琵琶を抱え、バチを持って奏する音楽神の形をとっている。密教で用いる両界曼荼羅のうちの胎蔵曼荼羅中にその姿が見え、「大日経」では、妙音天、美音天と呼ばれる。元のサラスヴァティーにより近い姿である。ただし、胎蔵曼荼羅中に見える二臂像は、後世日本で広く信仰された天女形ではなく、菩薩形の像である』。『日本での弁才天信仰は既に奈良時代に始まっており、東大寺法華堂(三月堂)安置の八臂の立像(塑像)は、破損甚大ながら、日本最古の尊像として貴重である。その後、平安時代には弁才天の作例はほとんど知られず、鎌倉時代の作例もごく少数である』。『京都市・白雲神社の弁才天像(二臂の坐像)は、胎蔵曼荼羅に見えるのと同じく菩薩形で、琵琶を演奏する形の珍しい像である。この像は琵琶の名手として知られた太政大臣・藤原師長が信仰していた像と言われ、様式的にも鎌倉時代初期のもので、日本における二臂弁才天の最古例と見なされている。同時代の作例としては他に大阪府・高貴寺像(二臂坐像)や、文永三年(一二六六年)の銘がある鎌倉市・鶴岡八幡宮像(二臂坐像)が知られる。近世以降の作例は、八臂の坐像、二臂の琵琶弾奏像共に多く見られる』。以下、「習合」について。『中世以降、弁才天は宇賀神(出自不明の蛇神、日本の神とも外来の神とも)と習合して、頭上に翁面蛇体の宇賀神像をいただく姿の、宇賀弁才天(宇賀神将・宇賀神王とも呼ばれる)が広く信仰されるようになる。弁才天の化身は蛇や龍とされるが、その所説はインド・中国の経典には見られず、それが説かれているのは、日本で撰述された宇賀弁才天の偽経においてである』。『宇賀弁才天は八臂像の作例が多く、その持物は「金光明経」の八臂弁才天が全て武器であるのに対し、新たに「宝珠」と「鍵」(宝蔵の鍵とされる)が加えられ、福徳神・財宝神としての性格がより強くなっている』。『弁才天には「十五童子」が眷属として従うが、これも宇賀弁才天の偽経に依るもので、「一日より十五日に至り、日々宇賀神に給使して衆生に福智を与える」と説かれ、平安風童子の角髪(みずら)に結った姿をとる。十六童子とされる場合もある』。以下、近世の信仰についてが記されているが、江島神社が記載に現われ、また、本書を書き読んだ人々の意識の中の弁天信仰を考える上では必要であるので、やはり引用しておきたい。『近世になると「七福神」の一員としても信仰されるようになる。中世において、大黒天・毘沙門天・弁才天の三尊が合一した三面大黒天の像を祀った記録があり、大黒・恵比寿の並祀と共に、七福神の基になったと見られて』おり、『また、元来インドの河神であることから、日本でも、水辺、島、池、泉など水に深い関係のある場所に祀られることが多く、弁天島や弁天池と名付けられた場所が数多くある。そのため弁才天は、日本土着の水神や、記紀神話の代表的な海上神である市杵嶋姫命(宗像三女神)と神仏習合して、神社の祭神として祀られることが多くなった』。『「日本三大弁才天」と称される、竹生島・宝厳寺、宮島・大願寺、天川村・天河大弁財天社は、いずれも海や湖や川などの水に関係している(いずれの社寺を三大弁才天と見なすかについては異説があり、その他には、江ノ島・江島神社などがある)』。『弁天信仰の広がりと共に各地に弁才天を祀る社が建てられたが、神道色の強かった弁天社は、明治の神仏分離の際に多くは神社となった。元々弁才天を祭神としていたが現在は市杵嶋姫命として祀る神社としては、奈良県の天河大弁財天社などがある。神奈川県の江島神社は主祭神を宗像三女神に改め、弁才天は摂社で祀られる』。『弁才天は財宝神としての性格を持つようになると、「才」の音が「財」に通じることから「弁財天」と書かれることが多くなった。鎌倉市の銭洗弁財天宇賀福神社はその典型的な例で、同神社境内奥の洞窟内の湧き水で持参した銭を洗うと、数倍になって返ってくるという信仰が』生じ、『近世以降の弁才天信仰は、仏教、神道、民間信仰が混交して、複雑な様相を示している』とある。ここで「北條九代記」の作者は、弁才天の持ち物のうち、「寶珠」に着目して語っており、これは以上の記載から、中世以降の八臂の宇賀弁才天像をイメージしており、現世利益の福財信仰としての視点が強く働いている(読者も同様であることを確信犯として)ことが看取出来る。

 

「同四月五日」文脈からは「同」は前段冒頭の治承五(一一八一)年となり、誤り。これは養和二(一一八二)年(五月二十七日に寿永に改元)の出来事である(従って前段の後半からは遡った内容となる)。この冒頭部分と末尾は「吾妻鏡」の四月五日の条に基づく。以下に示す。

〇原文

五日乙巳。武衞令出腰越邊江嶋給。足利冠者。北條殿。新田冠者。畠山次郎。下河邊庄司。同四郎。結城七郎。上総權介。足立右馬允。土肥次郎。宇佐美平次。佐々木太郎。同三郎。和田小太郎。三浦十郎。佐野太郎等候御共。是高雄文學上人。爲祈武衞御願。奉勸請大辨才天於此嶋。始行供養法之間。故以令監臨給。密議。此事爲調伏鎭守府將軍藤原秀衡也云々。今日即被立鳥居。其後令還給。於金洗澤邊。有牛追物。下河邊庄司。和田小太郎。小山田三郎。愛甲三郎等。依有箭員。各賜色皮紺絹等。

〇やぶちゃんの書き下し文

五日乙巳。武衞、腰越邊江嶋に出でしめ給ふ。足利冠者・北條殿・新田冠者・畠山次郎・下河邊庄司・同四郎・結城七郎・上総權介・足立右馬允・土肥次郎・宇佐美平次・佐々木太郎・同三郎・和田小太郎・三浦十郎・佐野太郎等、御共に候ず。是れ、高雄の文學(もんがく)上人、武衞の御願を祈らんが爲、大辨才天を此の嶋に勸請し奉り、供養の法を始め行ふの間、故に以て監臨せしめ給ふ。密議なり。此の事、鎭守府將軍藤原秀衡を調伏をせんが爲なりと云々。今日、即ち鳥居を立てられ、其の後、還らしめ給ふ。金洗澤邊に於いて牛追物有り。下河邊庄司・和田小太郎・小山田三郎、愛甲三郎等、箭員(やかず)有るに依りて、各々色皮(いろがは)・紺絹(こんきぬ)等を賜る。

・最初の「御共」の内の名が挙がる十六名の人物を順に以下に正字で示しておく。

足利義兼・北條時政・新田義重・畠山重忠・下河邊行平・下河邊政義・結城朝光・上総廣常・足立遠元・土肥實平・宇佐美實政・佐々木定綱・佐々木盛綱・和田義盛・三浦義連・佐野基綱

・「文學上人」頼朝に決起を促した文覺は、こうも書く。

・「金洗澤」七里ヶ浜の行合川の西。「新編鎌倉志卷之六」には『此所ろにて昔し金を掘りたる故に名く』とする。「金」とあるが、恐らくは稲村ヶ崎から七里ヶ浜一帯で採取される砂鉄の精錬を行った場所と考えられる。本「北條九代記」の「金洗坂」は「澤」の誤りである。

・「牛追物」鎌倉期に流行した騎射による弓術の一つ。馬上から柵内に放した小牛を追いながら、蟇目・神頭(じんどう:鏑に良く似た鈍体であるが、鏑と異なり中空ではなく、鏑よりも小さい紡錘形又は円錐形の先端を持つ、射当てる対象を傷を付けない矢のこと。材質も一様ではなく、古くは乾燥させた海藻の根などが使われたというから、時代的にも場所的にも、ここではこの矢が如何にもふさわしい)などの矢で射る武芸。

・牛追物の名の挙がる四名の射手を順に以下に正字で示す。

下河邊行平・和田義盛・小山田重成・愛甲三郎季隆

・「箭員有るに依りて」牛に的中した矢数が多かったので。

・「色皮・紺絹」色染めをした皮革や藍染めの絹。

 

「三世諸仏」過去・現在・未来の三世に亙って存在する一切の仏。

「転法輪」仏の教法を説くこと。真の仏法が誤った考えや煩悩を悉く破砕することを、転輪聖王(てんりんじょうおう:古代インドの理想の王を指す概念語。)が輪宝(りんぽう:剣を輪の円周上から八方に向けて出した古代インドの武具)によって敵を降伏させたことに譬えて言う。

「利生」「利益(りやく)衆生」の意。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「化導」衆生を教化(きょうげ)して善に導くこと。

「教法既に閻浮提に滅盡の時この大辨才龍宮にをさまるといへり」の「閻浮提」は仏教でいう人間が住むところの全世界のことであるから、これは末法思想に基づく謂いと考えられ、真の仏法の教え「教」は存在しても、「行」と「信」が行われなくなった末法にあっては、この弁財天は龍宮に隠れてしまうと言われている、の謂いであろう。仏法が尽き滅びる訳ではない。

「四王天三十二將」仏の守護神である四王天(持国天・増長天・広目天・多聞天)配下の護法善神である天部の弁才天・大黒天・吉祥天・韋駄天・摩利支天・歓喜天・金剛力士・鬼子母神・十二神将・十二天(帝釈天・火天・焔魔天・羅刹天・水天・風天・毘沙門天・伊舎那(いざな)天・梵天・地天・日天・月(がっ)天)てん・八部衆(天衆・龍衆・夜叉衆・乾闥婆(けんだつば)衆・阿修羅衆・迦楼羅(かるら)衆・緊那羅(きんなが)衆・摩睺羅伽(まこらが)衆)・二十八部衆(密迹(みっしゃく)金剛力士・那羅延(ならえん)堅固王・東方天・毘楼勒叉(びるろくしゃ)天・毘楼博叉(びるばくしゃ)天・毘沙門天・梵天・帝釈天・婆迦羅(ひばから)王・五部浄居(ごぶじょうご)天・沙羯羅(しゃがら)王・阿修羅王乾闥婆王・迦楼羅王・緊那羅(きんなら)王・摩侯羅(まごら)王・金大(こんだい)王・満仙王・金毘羅王・満善車王・金色孔雀(こんじきくじゃく)王・大弁功徳天・神母(じんも)天・散脂(さんし)大将・難陀(なんだ)龍王・摩醯首羅(まけいしゅら)王・婆藪(ばす)仙人・摩和羅女(まわらにょ))などを指す。これらには重複する神名が含まれており、三十二の名数は調べては見たがよく分からない。弁財天から十二天までならば丁度、三十二にはなる。

・「距(さ)る」本来なら「へだつ」と訓ずるところだが、「去る」当て読みしている。

・「數町」一町は約一〇九メートル。現在の地図で計測すると国道一三四号線の江ノ島入口から江ノ島大橋を渡り切ったところで凡そ六三五メートルあるが、当時の陸側の南端はもう少し内陸にあったと考えられるから、七〇〇メートル前後で、「數町」(数百メートル)という表現は妥当と言える。

「漣漪」さざ波が立つさま。

「數丈」一丈は約三メートル。いろいろ調べたが、現在の資料には御岩屋の内部の高さを記したものがない。私のブログ「鎌倉江の島名所カード 江ノ島・御岩屋」に掲載した写真から推測すると、開口部でも六メートル近くあり、海食洞の内部の手前はもっと抉れているから海面からは一〇前後はあろうか。当時とはかなり内部の様子が違うとは思うが、暗闇でもあるから「數丈」にはやや誇張が感じられはするが、不自然とは言い難い。なお、この写真は第一岩屋と思われる。因みに本記載とは余り比較にならないが、整備された現在の奥行きは第一岩屋が一五二メートル、第二岩屋が一一二メートルある。更に付け加えておくと、大正一二(一九二二)年九月一日の関東大震災で江の島付近は六〇センチメートルから一メートルほど隆起している。

「岌々」高いさま、また、危ういさまをも言う。

「役行者伊豆の大嶋に流されし時」飛鳥から奈良初期の修験道の開祖役小角(えんのおづぬ 舒明天皇六(六三四)年?~大宝元(七〇一)年?)の伝承には『ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみにな』ったが、『役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われ』ている(引用はウィキ角」に拠る)。

「當來の出世に方て、三會説法の辨才はこの嶋より現るべし」の「當來の出世」とは、現在、兜率天で修行をしている弥勒菩薩が、釋迦入滅後の五十六億七千万年後の未来に如来となって姿を現すことを指す。「三會説法」はその弥勒菩薩が人間界に下った後、龍華樹(りゅうげじゅ:高さ広さがそれぞれ四〇里あって、枝は竜が百宝の花を吐くかのようであるとされる想像上の木。)の下で悟りを開き、衆生のために三度にわたって説くとされる説法の会座(えざ)。龍華三会とも言う。「辨才」とは先の弁財天の説明に現われたところの説法の「辯才」(言語・才能)を具現化したものが弁財天であるという謂いであろう。即ちここは、「末法の末の未来に降臨する弥勒菩薩の出現に合わせて行われるところの、一切の衆生を済度するための龍華三会で、その言説や才を発揮して中心的役割を果たすところの、弁財天は、ここ江の島から出現するであろう、というのである。この後の叙述から見ても筆者は強い弁財天信仰を持っていたと断言出来る。

「二世」「今世」と「後生」、現世と来世。

「悉地」梵語“Siddhi”の音写。成就の意。真言の秘法を修めて成就したところの悟りを言う。]

耳囊 卷之五 藝州引馬山妖怪の事

 

 

 藝州引馬山妖怪の事

 

 藝州ひくま山の内不立入(たちいらざる)所あり。七尺程の五輪に地水火風空と記し、三本五郞右衞門といへる妖怪ありと語り侍傳へしを、稻生武太夫といへる剛氣の武士ありしが、兼て懇意になしける角力取(すまふとり)と、何か今の代に怪敷(あやしき)事あるべき、いでや右引馬山の魔所へ行て酒吞んと、さゝへを持て終日吞暮し歸りけるが、角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ。武太夫方へも朔日より十六日迄  每夜怪異有て、家僕迄も暇を取退(とりのき)しが、右武太夫聊か心にかけず傑然としてありしが、十六日目に妖怪も退屈やしけん、扨々氣丈成男哉(かな)、我は三本五郞右衞門也と言ひて、其後は怪異もなかりしが、中にも絕(たえ)がたかりしは、座敷内へ糞土をまきしや、甚(はなはだ)嗅(くさ)く不淨なるにはこまりし由。右武太夫方に寄宿なしける小林專助といふ者、今は松平豐前守家來にてありしが、右專助より聞しと語りぬ。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。これは知る人ぞ知る驚天動地の妖怪絵巻「稲生物怪録」の採話であるが、聴き書きという特異性と、その内容が現在知られるストーリーとはかなり異なっている点が頗る附きで興味深い(相撲取が頓死すること・怪異の期間がほぼ半分に減じていること・絵にはし難い糞土の堪え難い臭気怪異の描写があること等々)。かく申す私も、泉鏡花が「草迷宮」の種本としたのを知って以来、多様な関連本を渉猟した「稲生物怪録」フリークである。御存じない方のために、取り敢えずはウィキの「稲生物怪録」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『江戸時代中期の寛延二年(西暦一七四九年)に、備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語』。著者は恐らくは稲生と同世代と思われる三好藩同役である『柏生甫であり、当時十六歳であった実在の三次藩士、稲生平太郎が寛延二年七月の一ヶ月間に体験したという怪異を、そのまま筆記したと伝えられている。あらすじは、肝試しにより妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷にさまざまな化け物が三〇日間連続出没するが、平太郎はこれをことごとく退け、最後には魔王のひとり山本五郎左衛門から勇気を称えられ木槌を与えられる、というものである。平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、「稲生物怪録」の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある』。『その内容の奇抜さから、「稲生物怪録」は多くの高名な文人・研究者の興味を惹きつけ』、『江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花や折口信夫らが作品化している』。関連サイトも多いが、手っ取り早く絵巻の一部を見るのであれば、広島県立歴史民俗資料館HP内の「稲生物怪録と妖怪の世界-みよしの妖怪絵巻-」などがある。「たたり石」(中では岩と呼称)の画像を見られる「三好実録物語」の紹介動画「稲生物怪録」があり、また『青森県立郷土館特別展「妖怪展」関連資料「稲生物怪録」』の紹介動画では平田篤胤による文化八(一八一一)年の「稲生物怪録」を安政六(一八五九)年に今村真種が写しを入手、明治三(一八七〇)年になって友人平尾魯仙に依頼して原書の意そのままに画を書き足した明治一八(一八八五)年に完成したおどろおどろしい怪談画に洗練された(洗練され過ぎた)画像もある。なお、底本「耳嚢」の「卷之九」にはやはり「稲生物怪録」を元にした「怪棒の事」があるが、そこでは主人公を『藝州の家士、名字は忘れたり、五太夫は、文化五年八拾三歳にて江戸家鋪致勤番、至てすこやか成者』とし、怪異体験を『十五歳の時』、肝試しをする人物は『同家中に何の三左衞門』、山名も『眞定山』、妖怪の親玉の名を『石川惡四郎』と記し、末尾には『文化六年、齡七十斗にて勤番に出、直に噺けると、或人語りぬ』とある(この掉尾の叙述の年齢の齟齬はよく意味が分からない)。文化五年は一八〇八年で以下の注で見るように、実在した稲生平太郎の年齢よりも長命な上に、生年も先立つ享保十一(一七二六)年となる。これらは初期の稲生平太郎伝承の変遷を考える上で実に興味深い。またそこで考証したいと考えている。

 

・「藝州引馬山」「藝州ひくま山」現在の広島県三次市三次町の北端にある標高三三一メートルの比熊山(ひぐまやま)。頂上には中世末期の山城跡があるが、三次町「国郡志下調書出帳」によれば、これは天正一九(一五九一)年に三吉広高が比熊山の東方四キロメートルの地にあった比叡尾山城を移したものとされ、この山は当初、「日隈」の字を宛てていたものを、旧山城の名の「比叡尾」の「比」を取り、更に山容が熊の寝る姿に似るところから「隈」を「熊」に改めたとされる。近世の城郭に移行する直前の山城の形態を持った城で、俗に千畳敷と呼ばれる本丸跡や井戸・土塁・堅堀の遺構を残す。以上は、社団法人広島県観光連盟広島県観光HPの「比熊山」を参照したが、このページの解説と写真の下の方を見ると、この頂上付近にある「たたり石」(千畳敷にあり、これは本来は神様が宿る「神籠石(こうごいし)」と呼ばれるものが、転じて触ると祟りがあると言い伝えられた結果、こう呼称されるようになったものであろう。本話で稲生武太夫と相撲取が酒を呑んだのはここであろう)への登山の際の注意書きがあるが、最後に『それから「たたり石」に触れたら麓のお店で「悪霊退散・平太郎紙太鼓」を買って帰りましょう』とあり、公的機関の記載の中のこれには、ちょいと吃驚するが、悪くない、いい感じだ。訳では実在する「比熊山」に変えた。

 

・「七尺」二メートル強。

 

・「三本五郞右衞門」これは後文で「三ン本五郞右衞門」と表記されることで分かるように「やまもと」ではなく「さんもと」と読む。これは人間界とは異なる妖怪世界の異人性を際立たせるために敢えてこうした普通でない読みをなしたものであろう。

 

・「稻生武太夫」三好藩藩士稲生平太郎は「物怪プロジェクト三次」の「稲生武太夫物怪録」勉強会の部屋』の記載によれば、生年を享保二〇(一七三五)年とし、没年を享和三(一八〇三)年とする(これだと享年六十九歳。三次市法務局三次支局の庭に建つ「稲生武太夫碑」には『宝暦七年二十五歳のとき諸国武者修行に出て、宝暦十三年五月三十一歳で帰藩した』とあり、これだと生年は享保一八年で二歳増す)。これが正しいとすれば、本巻の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春には稲生平太郎は数え六十三歳で存命していたことになる。因みに根岸の生年は元文二(一七三七)年で稲生とは同世代である。

 

・「兼て懇意になしける角力取」前注のデータ元その他を見ると平太郎の隣人で知己の大関格の相撲取で、名を三井権八と言い、当時三十余歳とする。一つの伝本では、江戸帰りであったこの相撲取に三次武士の軟弱をなじられたことを肝試しの動機とする。

 

・「さゝへ」「小筒」「竹筒」と書いて「ささえ」と読む。酒を入れる携帯用の竹筒。

 

・「角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ」私の管見した複数の伝本では彼は死なない。

 

・「傑然」は、他から傑出しているさま、又は、毅然としているさま、の謂い。ここは後者。

 

・「中にも絕がたかりしは」「絕」底本では右に『(堪え)』と傍注する。彼はとっかえひっかえ起こる怪異には聊かも恐懼しなかったが、この糞便を撒き散らされた際の、その臭気にだけは閉口した、と語ることで超人的な豪胆さを逆に語るのである。これは知られた「稲生物怪録」の終盤で平生から嫌いな蚯蚓(みみず)が多量に出現するシーンに呼応していると言えよう。

 

・「小林專助」不詳。

 

・「松平豐前守」岩波版長谷川氏注によれば、松平勝全(まつだいらかつたけ 寛延三(一七五〇)年~寛政八(一七九六)年)。ウィキの「松平勝全」によれば、下総多胡藩第四代藩主で、大坂加番・江戸城馬場先門番を務めたが、寛政六(一七九四)年に病気を理由に家督を次男勝升に譲って隠居したとあり、この本文の「今は」という表現に拘るならば、本話を根岸がこれを誰かから小林専助本人が語ったものとして聴いたのは、勝全の死んだ寛政八(一七九六)年二月三日よりも前のこととなる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 安芸国比熊山の妖怪の事 

 

 安芸国比熊山の山内(やまうち)には決して立ち入ってはならぬ場所が御座る。

 

 そこには七尺ほどもある五輪塔に地水火風空と記したものがあり、そこの岩根には三本(さんもと)五郎左衛門と称する妖怪が巣食うておる、と語り伝えられておった。

 

 ここに三次(みよし)御家中の稲生武太夫と申す剛気の武士が御座った。かねてより懇意にしておった相撲取りと語らううち、

 

「今の世に怪異なんどと申すことの、あるびょうもあらず! さあ! 比熊山の魔所とやらへ行きて、酒でも呑もうぞ!」

 

と竹筒(ささえ)を持って登り、これ、日がな一日、酒を喰(くろ)うて日暮れに帰った。

 

 ところが、三日ほど過ぎて、如何なる訳かは知らざれど、かの相撲取り、ぽっくり逝ってしもうた。

 

 武太夫の方にても――その月の明けた朔日(ついたち)より十六日に至るまで――ぶっ通しで――毎夜毎夜――様々なる怪異が、これ、起こり――長く彼に附き従っておった家僕さえも暇(いとま)を願い出るや脱兎の如く逃げ退いたが――かの武太夫は、と言えば――度重なる驚天動地の怪異を――これ、聊かも気に掛けることのう、終始、毅然たる態度を以って動じずに御座った。

 

 すると――十六日目のこと――妖怪も、懼れを知らざる武太夫を、これ、すっかり持て余してしまったものか、突如、

 

――ヌッ!!

 

と、一人の偉丈夫が座敷に現われ、

 

「――さてもさて――気丈なる男じゃ! 我は――三本五郎左衛門である!――」

 

と名乗って、ふっと消えた。

 

 その後(のち)は怪異も絶えたと申す。

 

 武太夫曰く、

 

「……この半月の間の変化(へんげ)の中(うち)にも、そうさ、唯一つだけ堪えがきものが御座ったが、それは……座敷内(うち)へ糞便の混じった土でも撒いたものか……いや、あの折りの、鼻の曲がるような、曰く言い難き臭さと、その場の不浄なるさまだけは、これ、大いに困って御座ったよ……」

 

とのことで御座った。

 

 以上は、私の知れる者が、武太夫方に寄宿して御座った小林専助と申す者――今は松平豊前守勝全(かつたけ)殿の御家来衆にて御座る由――より聞いた、と語って呉れたもので御座る。

女一句 畑耕一

     時  候

   をんな
春曉のことにちいさき誓ひなる

2012/11/05

生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 三 防ぐこと~(2)

 介殼が厚ければ、敵を十分に防ぐといふ利益がある代りに、その重い目方のために、運動が非常に妨げられるといふ不便を忍ばねばならぬ。されば貝類はすべて運動の遲いのが常で、よく進行の遲い譬に用ゐられる「かたつむり」などは、貝類仲間ではなほ速い方の部に屬する。「しやこ」の如き重いものは、一定の場處に停まつて全く動かぬ。海岸の岩石には「かき」や「へびがい」が一面に附著して居るが、いづれも厚い介殼を唯一の賴りにして敵の攻撃を免れて居る。「かき」の方は鰓で水流を起して微細な餌を集めて食ひ、「へびがひ」の方は、粘液を出して微細な餌をこれに附著せしめ、粘液と共にこれを食ふ。「へびがひ」は「さざえ」などと同樣卷貝であるが、介殼の卷き方が極めて不規則である上に、岩の表面に固著して居るから、これを貝類と思はぬ人が多い。なほこれらの貝類の他に、「ふぢつぼ」や「ごかい」の石灰質の堅い管を造る蟲などが澤山に附著して居るが、これらは動物の種類が全く違ふに拘らず、敵を防ぐ方法が一致して居るために、外觀にも習性にも固著貝類に餘程似た所がある。それ故、少し古い書物には「ふぢつぼ」をいつも「かき」などと同じ貝類の仲間に入れてある。また石灰質の管を造る蟲の方は、初めて海岸へ採集に行く人がしばしば「へびがひ」の類と混同する。

[やぶちゃん注:本段落に出現する海岸動物については、分類学的な異種性を確認して頂くために特に一般的なものも含めて簡略的に示しておく。

「かき」軟体動物門二枚貝綱ウグイスガイ目イタボガキ科 Ostreidae に属する貝類の総称。

「へびがい」狭義には、

軟体動物門腹足綱前鰓亜綱盤足目ムカデガイ科に属する巻貝 Serpulorbis 属オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus

などを指すが、一般的な認識の中では形状からは、同目ミミズガイ科に属する巻貝ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi なども「ヘビガイ」と通称される範囲に含まれるであろう。

オオヘビガイ Serpulorbis imbricatus は北海道南部以南を生息域とし、沿岸の岩礁などに群生する。螺管が太く一二~一五ミリメートルに達し、最初は右巻きであるが、後は不規則に巻いて他物に固着する。和名は恰も蛇がとぐろを巻いているように見えることがあることに由来する。表面は淡褐色で結節のある螺状脈と成長脈を持つ。殻口は円形を成し、口内は白色で蓋はなく、潮が満ちて来ると、蜘蛛のように殻口から粘液糸を伸ばして有機性浮遊物を捕捉、摂餌する。その様子は大分の釘宮均氏のダイビング・サービス「Hip Diving Service」のHPにある「大分の海で見られる生き物図鑑」の「オオヘビガイ」のページでご覧あれ。……因みに、このページの下にある解説は……十年ほど前、私が同定して釘宮氏に送った文章である。

ミミズガイ Siliquaria (Agathirses) cumingi はオオヘビガイよりも遙かに小さく螺管は六~七ミリメートル以上には太くならず、初めは徐々に増大して小さく巻き込むが、その後方は巻き方が大きくなり、幾分曲った直管になる。螺管自体は巻くものの密着することはなく、従って層を形成しない。縦の螺脈の成長襞も不規則である。蓋は角質の円形で厚く縁取られており、中央は折り畳み状に螺旋している。多くは海綿の体内に棲息し、しばしば微少貝類に交じって打ち上がったものを採取することが出来る(以上の貝類学的記載は主に保育社昭和三四(一九五九)年刊の吉良哲明「原色日本貝類図鑑」に拠った)。

「ふぢつぼ」節足動物門甲殻亜門顎脚綱鞘甲(フジツボ)亜綱蔓脚(フジツボ)下綱完胸上目無柄目フジツボ亜目 Balanina に属するフジツボ類の総称。あの富士山型の殻板の中にエビが逆立ちしていると考えて貰うと、エビ・カニ類の近縁であるということがイメージし易いであろう。

『「ごかい」の石灰質の堅い管を造る蟲など』、細かいことを言うと、ここはやや文章が不十分で、『「ごかい」の中で石灰質の堅い管を形成して固着する種など』とすべきところである。ここで丘先生のおっしゃるのは非常に美しい鰓冠を持つ、

環形動物門多毛綱ケヤリムシ目カンザシゴカイ科イバラカンザシ Spirobranchus giganteus

などを指しておられるものと思われる。以下、ウィキの「イバラカンザシ」より引用する(アラビア数字は漢数字に代え、注記記号を省略した)。『体長は五~七センチメートル、体節数は二五〇ほどである。頭部に生えている二本の傘のようなものは口前葉から分化して鰓として発達した鰓冠(さいかん)であり、ケヤリムシ目に見られる特徴である。刺激を受けると鰓冠を素早く引っ込めることができる。また、鰓冠の目的は、これで浮遊生物を捕らえて口に運ぶことにもある。その鰓冠がかんざしのように見え、これがカンザシゴカイ科の特徴である。鰓冠は呼吸にも使われる。鰓冠は口の上背面の部分が左右に伸び、そこから前に鰓を発達させたものであるから、普通は上から見るとCの字形に並ぶ。しかしイバラカンザシではその両端がさらに伸びて内側に巻き込むため、左右対称の螺旋になった鰓の列が一対ある、という形になる』。『鰓冠の基部からは先端が広がった棒状の構造があり、これは虫体が棲管に引っ込んだときに入り口に蓋をするものなのでこれを殻蓋という。イバラカンザシは、この殻蓋の上の中央にある突起が枝分かれしてイバラのように見えることからその名が付いている。また、イバラカンザシ属の学名Spirobranchus の名は「螺旋状の鰓」を意味し、鰓冠が螺旋状になっていることから名付けられている。この鰓冠は色彩変異に富んでおり、赤、青、黄、緑などの個体がいる。二色以上の体色を持つものが七割であり、茶が最も多く三割の個体が有している。次いで黄、紫、橙、白、赤が多い』。『イバラカンザシは棲管(せいかん、定住場所となる管)を多くの場合にどこかに埋め込んで定住生活している。イシサンゴ目に埋め込んでいることが多い。棲管は石灰質でできており、これもカンザシゴカイ科共通の特徴である。棲管の色は灰白。棲管は定住場所に完全に埋め込まれているので、鰓冠をこの中に引っ込めると体全体を隠すことができる。ある研究によると、イバラカンザシの定住はイシサンゴに悪影響をほとんど与えない。死んだイシサンゴに定住することもあるが、普通は生きているイシサンゴを好む。そのため、大きなカンザシゴカイがいるということは、サンゴの健康の目安になる。ただし金属表面でも別の生物の死骸により表面に凹凸があれば定着できる。棲管の年間成長速度は平均〇・六ミリメートル。棲管の直径は推定年齢十二歳のもので七・四ミリメートルである』。『個体を採取して年齢が調べられたことがあり、それによると一〇~二〇年程度のものが多かった。沖縄では推定年齢四〇年の個体も見つかっている。繁殖期は夏』。因みに、この『ある研究』はイバラカンザシとサンゴは稀有の片利共生であると主張しているように読める。群体性で自然界では驚くべき種保存の生態時間を持つサンゴならば、まあ、これはそう言えるのかも知れないな。]

耳嚢 巻之五 奇物浪による事

 奇物浪による事

 

 何れの浦にてや、岩の間に檝(かい)の束(つか)の折たるありしを、漁人取揚て所持せしを、道具商ふ男買求めて、桂隱し抔になさば佳ならんと、松平京兆(けいてう)公の許へ持參せしが、最初は泥に染て何とも分らざりしを洗磨(あらひみがき)て見れば、檝の束には違なきが其木品はたがやさんと見へ、年を經たる故木目の樣子、木肌の鹽梅、誠に殊勝成品也。道具屋淺黄の服紗に入、銘など書て所々持歩て高價を求ると、京兆の物語なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:浦と浪で縁語のように浦辺の舞台で軽く連関。牽強付会なら、漂着物は漂着神であり「まれびと」であるから、二つ前の「怪病の沙汰にて果福を得し事」の「まろふど」とも繋がる……が……ビーチ・コーミングで、そう容易くは、ニライカナイの贈り物を貰えるとは……限らぬぞぇ……

・「檝の束」「檝」は「かじ」とも読み、舵の他、艪(ろ)や櫂(かい)等の意をも持つ。「束」は握りの部分。柄(つか)。特に読みの決め手はないが、暫く岩波版の長谷川氏の読みに従っておく。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版での漢字表記は『※』(「※」=「檝」-「木」+「舟」)である。

・「桂隱し」柱掛け。柱に掛けて装飾とするもの。竹・板・陶器・金属等で作り、多くは書画を描く。

・「松平京兆」松平右京太夫輝高(享保一〇(一七二五)年~天明元(一七八一)年)。上野国高崎藩藩主。寺社奉行・大坂城代・京都所司代を歴任、宝暦八(一七五八)年に老中。官位は周防守、佐渡守、因幡守、右京亮、最終官位は従四位下の侍従で右京大夫。安永八(一七七九)年、老中首座松平武元死去に伴い老中首座及び慣例であった勝手掛も兼ねた。「京兆」は「京兆の尹(いん)」で左京大夫・右京大夫の唐名。一」に複数回既出するニュース・ソースであるが、没年から考えると、執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春からは凡そ二十年前のやや古い話である。

・「たがやさん」「卷之四」の産物者間違の事 に既出。「鐵木」「鉄刀木」と呼ばれたマメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサン Senna siamea のことと思われる。東南アジア原産で、本邦では唐木の代表的な銘木として珍重された。材質硬く、耐久性があるが加工は難。柾目として使用する際には独特の美しい木目が見られる。他にも現在、幹が鉄のように固いか、若しくは密度が高く重い樹木としてテツボク(鉄木)と和名に含むものに、最も重い木材として知られるキントラノオ目科セイロンテツボク Mesua ferrea・クスノキ科ボルネオテツボク(ウリン) Eusideroxylon zwageri・マメ科タイヘイヨウテツボク(タシロマメ)Intsia bijuga が確認出来るが(これらは総て英語版ウィキの分類項目を視認したものだが、どれも種としては縁が遠いことが分かる)、これは英名の“Ironwood”の和訳名で、新しいものであるようだ。……さて……にしても……根岸はここで、なあんにも、言ってないんだけど……産物者間違の事 をも一度ようく、読んでみるとだな……本話の、これ……「たがたやさん」で、のうて……「あらめの根(ねえ)」のような、気が……儂(あっし)はしてくるんじゃ……もしや……松平さま、わざとやらかされたのでは……御座いますまいのぅ?……♪ふふふ♪……

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 奇物の波に寄って打ち上げらるる事

 

 何処(いずく)の浜なるや、岩の間に櫂(かい)の柄(つか)の折れたが喰い込んであったを、漁師が見つけて引き上げ、何とのう所持致いておったを、回村して出物を物色致いておった道具屋が目を留めて買い取り、

「柱隠しなんどに致しまするならば、これ、佳品にては御座いませぬか。」

と松平京兆(けいちょう)輝高殿の元へ持参致いたと申す。

 京兆殿の曰く、

「……見せられた当初は、泥に汚れて、これ、何ものとも分からぬ代物で御座った故、取り敢えず、その場で洗って磨いてみたところが……確かに櫂の柄には違い御座らねど……その材質は、かの銘木タガヤサンと思われての……歳月を重ねたる木目の様子と申し、木肌の塩梅と申し、これ、いや、まことに高雅にして、とりわけ勝れた逸品にて御座った。……されば、かの道具屋、慌てて我らより取り戻いての、大事大事と浅黄の袱紗(ふくさ)に包み入れ、銘なんどまで書いては、あっちゃこっちへ持て歩(あり)き致いては、高値を払わんと申す御仁を、これ、求めて御座るらしい。……♪ふふふ♪……」

とは、京兆殿御自身の物語で御座った。……♪ふふふ♪……

水を抽く影のむらさき蓮枯るる 畑耕一

水を抽く影のむらさき蓮枯るる

[やぶちゃん注:「抽く」は「ぬく」と読んでいよう。]



以上を以って「植物」の部立を終わる。以降は「時候」。

2012/11/04

芥川龍之介 江南游記 九 西湖(四) 驚天動地の「樓外樓」前共時写真及び検証写真解説挿入

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の芥川龍之介「江南游記」の「九 西湖(四)」に、驚天動地の「樓外樓」前共時写真及び教え子の撮って呉れた検証写真と解説を挿入した。

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ここに写っているのは――芥川龍之介自身である――これが驚くべき「共時写真」であることは、「江南游記」の「九 西湖(四)」をお読みになれば――分かる――

なお、現存する「樓外樓」の当該位置で中国在住の教え子のT.S.君が検証写真を撮って送って呉れた。

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彼の消息には他にも西湖の写真や彼の捉えた西湖の情感が語られてあった。私はT.S.君のお蔭で、芥川龍之介が見、しかも未だ私の見ぬ西湖の景観を、彼の心眼を通して味わうことが出来た。ここに謝意を表したい。

耳嚢 巻之五 道三神脈の事

 

 

 道三神脈の事

 

 或醫の語りけるは、道三(だうさん)諸國遍歷の時ある浦方を𢌞りしが、一人の漁家の男其血色甚(はなはだ)衰へたるある故、其家に立寄家内の者を見るに何れも血色枯衰せし故、脈をとり見るにいづれも死脈なれば、其身の脈をとりて見るに是も又死脈也。大きに驚きかく數人死脈のあるべき樣なし。浦方なれば津浪などの愁ひあらん。早々此所を立去りて山方へ成共(なりとも)引越すべしと、右漁夫が家内を進めて連れ退(のき)しが、果して其夜津浪(つなみ)にて右浦の家々は流れうせ、多く溺死せるもありしとや。病だに知れがたきに、かゝる神脈は誠に神仙ともいふべきやと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。動物予知で、「卷之一」の「人の運不可計事」などの話柄の場合は、何か無惨ながらもしみじみと読めるのであるが、東日本大震災以降、このような人の予知手柄の話柄には私は、何か、激しい嫌悪を感じるとだけ言っておく。

 

・「道三」曲直瀬道三(まなせどうさん 永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)は戦国時代の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。父は近江佐々木氏庶流堀部親真であったが幼少の頃に両親を亡くし、永正一三(一五一六)年、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食(かっしき)となり、詩文や書を学んだ(この頃、姓を曲直瀬とした)。享禄元(一五二八)年、関東へ下って足利学校に学び、ここで医学に興味を抱いたとされる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修めた。天文一五(一五四六)年に上洛すると還俗して医業に専念、将軍足利義藤(義輝)を診察し、その後も京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。永禄九(一五六六)年、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際、これを診療しており、天正二(一五七四)年には正親町天皇を、織田信長の上洛後は、彼の診察も行って、名香蘭奢待を下賜されている。「啓迪集」「薬性能毒」「百腹図説」等の著作も数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正一二(一五八四)年には豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察、それを契機としてキリスト教に入信して洗礼を受け、洗礼名ベルショールを授かっている(以上はウィキ曲直瀬道三に拠る)。なお、底本の鈴木氏の注には子の正紹(玄朔 天文九(一五四〇)年~元和八(一六二二)年)が後を継いでおり、『彼も勅命にによって道三と号し、法印にのぼった』とあり、『父子ともに教養人で一級の医家であった。ここは父子どちらともいえないが、諸国遍歴の話は仮託であろう』と唾を附けておられる。その方が、彼らの名誉のためにもよいと私は思う。

 

・「神脈」神懸かったような脈診。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 曲直瀬道三の神脈の事

 

 

 ある医師が語る。

 

……かの曲直瀬道三(まなせどうさん)殿が、若き日の諸国遍歴の折りから、ある浦辺の村へと辿り着いた。

 

 そこの一軒の家の前に御座った一人の漁夫、その血色、尋常でのう、甚だ衰えておるように見えたによって、道三、その男の家内(いえうち)に立ち寄り、医師なる由、告げた上、家内の者どもの様子を診たところが、これまた、何れもその血色土気色(つちけいろ)となりて、すっかり憔悴致いておる故、まずは、と脈をとって見たところが……

 

――これ――殆ど御座ない!……

 

……妻なる者の手首をとるも……

 

――同じように、ない!……

 

……若き子(こお)たちのそれを診るも……

 

――これも――これも――ない!……

 

……爺(じい)や婆(ばば)のそれも……

 

――これもまた、微かにしか御座ない!……

 

――これ――孰れも――「死脈」――である――

 

されば道三、咄嗟に我が身の脈を、とった……

 

……と……

 

――これもまた――纔かしか御座ない!!……

 

 道三、大いに驚き、

 

「かくの如く、在りと有る人々が、偶々、死脈となることなんど、これ有り得ようはずも御座ない!!……浦近きところなればこそ、津波なんどが襲来致す懼れ、これ、有らんと存ずる! 騙されたと思うて、我らもろとも、早々にここを立ち去り、山の方へなりとも引き移るが賢明じゃ!!」

 

と、かの漁夫一家を頻りと説得致いて、ようよう山方へと連れ退いたところ……

 

――その夜(よ)

 

――果たして大津波が襲来致いて、かの浦の家々は悉く流れ失せ、多くの、溺れ死に致いた者が出たと申す。…… 

 

「……この小さな身内に潜む、目(めえ)に見えぬ病いでさえ……我ら凡庸なる医師にては、はっきりと診断致すこと、これ、至難の業なるに……かくも驚くべき神懸かった脈診をなさるるとは……まっこと、医聖道三翁、これ、神仙とも言うべき存在にても御座ろうほどに……」

 

と語って御座った。

 

 

落葉四句 畑耕一

寐る耳にひろき空して落葉せる

まぼろしの舞ひのぼり落葉舞ひ落つる

日の面のにはかに巨き落葉かな

眞夜中のにはとり鳴いて落葉せる

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮 ~(1)

   鶴岡八幡宮

 

 午ノ時少シ晴ニ因テ鶴岡ニ至リヌ。又東鑑ニ此社ハ伊與守賴義奉勅、安倍貞任ヲ征伐ノ時ニ八幡神ニ祈テ因テ康平六年八月、潛ニ石淸水ヲ由比郷ニ勸請ス。〔下宮是也。〕其後永保元年二月陸奧守義家修復ス。其後治承四年十月十二日、源賴朝祖宗ヲアガメンガ爲ニ、小林ノ郷ノ北ノ山ヲ點ジテ宮廟ヲ構へ、鶴岡ノ社ヲ此所ニウツス。

               鎌倉右大將

  鎌倉ヤカマクラ山ニ鶴岳 柳ノ都モロコシノ里

  千年フル鶴岡へノ柳原 靑ミニケリナ春ヲシルヘニ

 新拾遺          左兵衞尉基氏

  鶴岡木高キ松モ吹風ノ 雲井ニヒヽク萬代ノ聲

 夫木集            爲實朝臣

  鶴岡アフクツハサノタスケニテ 高ニウツレ宿ノ鶯

   二王門額  鶴岡山

 本社應神天皇

 額 八幡宮寺〔竹内御門主ノ筆ナリ。〕

[やぶちゃん注:「竹内御門主」「曼殊院良恕法親王」(まんしゅいんりょうじょほうしんのう 天正二(一五七四)年~寛永二〇(一六四三)年)は陽光院誠仁親王第三皇子で後陽成天皇の弟に当たる。曼殊院門跡(現在の京都市左京区一乗寺にある竹内門跡とも呼ばれる天台宗門跡寺院・青蓮院・三千院(梶井門跡)・妙法院・毘沙門堂門跡と並ぶ天台五門跡の一)。第百七十代天台座主。書画・和歌・連歌を能くした。

 若宮仁德天皇

 額若宮大權現 靑蓮院御門主ノ筆ナリ。

[やぶちゃん注:「靑蓮院御門主」尊純法親王(そんじゅんほうしんのう 天正一九(一五九一)年)~承応二(一六五三)年)。父は応胤法親王。慶長三(一五九八)年、天台宗門跡青蓮院第四十八世門跡となる。慶長一二(一六〇七)年に良恕法親王から伝法灌頂を受く。寛永一七(一六四〇)年に親王宣下を受けて尊純と号す。後、天台座主。書に秀でた。]

 先ヅ護摩堂ニ入リ、五大尊ヲ見ル。運慶作也。義經ヲ調伏ノ時、膝ヲ折タルト云、大日ノ牛、今ニアリ。ソレヨリ舞臺ヲ過(ヨギ)リ、神宮寺へ行。本尊藥師、行基ノ作也。十二神、運慶作也。神宮寺ノ前ニ松一本有。舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ是也トゾ。神宮寺ノ東ノ山際ニ、若狹前司泰村ガ舊蹟アリ。ソレヨリ大塔五智如來ヲ見ル。新佛也。台徳公御再興ノ時作ルト也。輪藏ニ一切經幷ニ四天王ノ像アリ。實朝書簡ヲ朝鮮へ遣シ、取ヨセタル一切經也。極テ善本也。此毘沙門ノ像ハ渡海守護ノ爲二載來ルト也。高良・熱田・三嶋、若宮ノ東ノ方ノ小社是也。天神・松童・源太夫、本社ノ下、公曉ガ實朝ヲ殺セシ銀杏樹ノ西ノ小社也。松童卜云ハ、八幡ノ牛飼、源太夫ト云ハ、八幡ノ車牛ナリトゾ。本社ノ前、左二金燈籠一ツ有。延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ。右ニ寛永年中ノ金燈籠一ツアリ。

[やぶちゃん注:「舞ニ神宮寺ノ前ノ松ト云ハ」義経四天王の一人、駿河次郎清重を主人公とした謡曲「清重」。清重(シテ)が伊勢三郎義盛(ツレ)とともに源義経に従おうと山伏に身をやつして武蔵国に至るも、梶原景時(ワキ)に見破られて自刃するまでを描く。現在は廃曲。

「延慶三年庚戌七月日、願主滋野景善勸進藤原行安トアリ」「延慶三年」は西暦一三一〇年、「新編鎌倉志卷之一」の「樓門」には『前に銅燈臺二樹兩傍にあり。左の方にある燈臺の銘に、延慶三年庚戌七月、願主滋野景義、勸進藤原の行安とあり』と滋野景義と記すが、「鎌倉市史 社寺編」には「滋野景善」とあり、本文が正しいものと思われる。因みにこの人物は相模国の武将と思われるが不詳である。「藤原行安」不詳。戦国武将に同姓同名がいるが、先の滋野と連名であって時代が合わないから、全くの別人。]

 神寶

  弓矢 空穗〔矢十五本、眞羽ナリ。篦ハ黑シ。古物ニテ珍シキ形也。矢ノ根色々有、其中ニ〕

   長三寸二分

    Yanonem1_3

   長一寸一分

    Yanonem2   如此(此くのごとき)ノ形アリ。眞鍮ヲ以テ作ル。

   キセルノスイ口ノ如シ〕

[やぶちゃん注:ここまで〔 〕内全体が割注。図は底本では「如此(此くのごとき)ノ形アリ」の上、それぞれの長さを示した前行の部分とパラレルに配されているが、ここでは上記のように分けた。矢の根の図は「新編鎌倉志卷之一」の「眞羽矢」にある図の方が遙かに分かり易い。]

 衞府太刀   二腰〔二尺餘、無銘、鞘梨地〕

 兵庫鍍太刀  二腰〔二尺餘、無銘、兵庫鍍トイヘドモ古法トハ異ナリ。〕

[やぶちゃん注:「兵庫鍍太刀」「ひやうごくさりのたち」と読む。太刀の帯取の紐に銀の鎖を用いたもので鎌倉時代に流行した。兵具鎖の転訛。]

 硯箱〔梨地、蒔繪ハ籬ニ菊金具〕 一ツ

 十二手箱〔其内ニ櫛二三十バカリアリ。皆此圖ノゴトシ。〕

   昔ノモノハタヱニシテ、カバカリノ物モ目トマルコヽチセリ。

[やぶちゃん注:「タヱ」はママ。「妙」であろう。]

Kusim[やぶちゃん注:図中の①の箇所に「穴二」、②の箇所に「穴三」、③の箇所に「穴二」、④の箇所に「穴三」とあり、対応した突起が描かれている(当該画像のそれをそのまま写すことは編集権を侵害する恐れがあるため、敢てこのような方法をとった)。「穴」とあるようにこれは櫛の背の部分にある窪みを突起物で指示したものと思われる。実際に「新編鎌倉志卷之一」の「櫛圖」では、左向きに置かれた櫛の背のこちら側の平面部に同数の白い穴を描いてある。]

 十二單〔香色ノ裝束ナリ。裳ナシ。緋ノ袴アリ。麹塵ノ袍アリ。地紋麒麟鳳凰ニテ三ノハヾナリ。カバ色ノ直衣モアリ。右ノ三色ハ、八幡ノ母后ノ道具ナリト云フ。〕

[やぶちゃん注:「香色」は「こういろ」で黄褐色のこと、「麹塵ノ袍」は「きくぢんのはう(きくじんのほう)」と読む。意味はともに「新編鎌倉志卷之一」の「十二單」で詳述してあるので参照されたい。「三ノハヾナリ」の箇所には底本では『(布脱カ)』という編注が附されているが、これは「三布(みの)幅なり」と普通に読め、私には脱字とは思われない(勿論、「三布の幅なり」であってもいいのだが、「三布幅(みのはば)」という言い方の方が私は寧ろ自然であると感じる)。]

  袈裟座具 香色

   以上ハ鳩峯ヨリ勸請ノ時來ルト云。

  太刀   二腰〔銘行光、二尺餘リ、メクギ穴ナシ。〕

  太刀   一腰〔綱家、三尺餘、無銘〕

  太刀   一腰〔泰國、三尺餘、無銘〕

  太刀   一腰〔綱廣、三尺許、有〕

[やぶちゃん注:「有」の後は「銘」の脱字か。但し、「新編鎌倉志卷之一」のの同部分には、実は四振り総てに当該刀工の銘があるように書かれている。不審。]

  愛染明王 弘法ノ作也卜云。長六七寸バカリノ丸木ヲ   如此(此くのごとき)ノ形ニシテ、蓋ト身ニ分ケ、愛染ヲモ臺座マデモ作付ニ一本ニテ刻ム。鎌倉ニ古佛多キ中ニ極テ妙作ナリ。

[やぶちゃん注:「丸木ヲ   如此ノ形ニシテ」の三文字分の空隙はママ。光圀は概念図を描こうとして書き忘れたものらしい。]

  藥師  一軀

   弘法ノ作也。廚子ニ入。前ニ十二神ヲ小ク刻ミ、兩扉ニ四天王ヲ彫ル。極細ノ妙作也。

  大般若經一卷

   弘法ノ筆、梅テ細字ニテ至テ分明也。大般若一部六百卷ヲ二卷ニ書ツムル。殘ル一卷ハ鳩峯エアリトナリ。

[やぶちゃん注:「ツムル」は「詰める」の意。]

  後小松院院宣  一通

   應永二十一年四月十三日トアリ。

  賴朝直判書   二通

 其外代々將軍家、北條家ノ證文ドモ多シ。卷物二軸トナス。條々不可枚擧(枚擧すべからざる)也。今考索ノ助ニモ成ベキ事ヲ、コヽニ書シルス。

 一武藏國稻目・神奈河兩郷云々

[やぶちゃん注:これは文永三(一二六六)年五月二日のクレジットを持つ「北條時宗下文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八)のことを指している。以下に示す(文中「役」は底本では(にんべん)である)。

鶴岡八幡宮領武藏國稲目・神奈河兩郷役夫工米事、如先下知狀者、云御燈、云御供、重色異他之間、被免除彼役了、以他計略可令沙汰其分〔云々〕早任彼狀、可令下知之狀如件、

   文永三年五月二日  (時宗花押)

  武藏目代殿

「役夫工米」は「やくぶくまい・やくぶたくまい」と読み、二十年に一度行われた伊勢神宮式年遷宮造営費用として諸国の公領・荘園に課された臨時課税を言う。「鎌倉市史 社寺編」で、この鶴岡八幡宮の社領であった二郷についての当該賦役免除という特別な計らいを命ずる文書を解説して、『執権であり武蔵の国司であった北条時宗は、社領武蔵稲目(いなめ)・神奈河両郷(前者は川崎市内、後者は横浜市神奈川区内)に賦課する役夫工米にうついては、先例によりこれを免除するよう同国の目代に命じた。この両郷は前に社領として寄進され、役夫工米免除のことについて下知状が出されていた。稲目は御燈料所で、神奈川は御供料所であったと思われるが、社領の中これらの料所に限りこの頃は役夫工米が免除されたらしい。しかしその免除の文は政所で肩替りしてこれを弁済したのである。なお、稲目・神奈河両郷が寄進された月日は分明ではない』とある。]



以降、一つだけ示した文書資料の提示部の電子化は、ただテクスト化して済ませる訳にはいきそうもないので、御覧の通り、時間を要するようにも思われる。取り敢えず、「鶴岡八幡宮」の途中であるが、インターミッションを入れることとした。

2012/11/03

また九月に

 「また九月に」と先生がいつた。
 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰のうちに枝を張つてゐた。私は二三歩動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奧へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。

耳囊 卷之五 怪病の沙汰にて果福を得し事

 

 

 怪病の沙汰にて果福を得し事

 

 

 寶曆の頃、神田佐柄木(さえき)町の裏店(うらだな)に、細元手(ほそもとで)に貸本をなして世渡りせし者ありける、不思議の幸ひを得し事ありしと也。其頃遠州氣賀(けが)最寄に有德な(うとく)る百姓ありしが、田地も六十石餘所持して男女の僕も不少(すくなからず)、壹人の娘ありしが容顏又類ひなく、二八の頃も程過て所々へ聟の相談をなしけるに、年を重ねて不調(ととのはざ)る故父母も大きになげき、格祿薄き家より成共(なりとも)聟を取らんと種々辛勞(しんらう)すれど、彼娘は轆轤首(ろくろくび)也といふ說近鄕近村に風聞して、誰(たれ)有て受(うけ)がふ者なし。彼娘の飛頭蠻(ひとうばん)なる事父母もしらず、其身へ尋れどいさゝか覺なけれど、たまさかに山川を見𢌞る夢を見し事あれば、かゝる時我首の拔出けるやといひて、誰見たる者はなけれども一犬影に吠るの類ひにて、其村はさら也、近鄕近村迄も此評判故聟に成る者なく、富饒(ふねう)の家の斷絕を父母も歎き悲しみが、伯父成る者江戶表へ年々商ひに出しが、かゝる養子は江戶をこそ尋て見んとて、或年江戶表へ出て、旅宿にて色々人にも咄し養子を心懸しに、誰あつて養子に成べきといふ者なし。旅宿の徒然に呼し貸本屋を見るに、年の頃取𢌞し等も氣に入たれば、かゝる事あり承知ならば直に同道して聟にせんと進(すすめ)ければ、彼若者聞て、我等はかく貧しきくらしを成し、親族迚も貧なれば支度も出來ずといひければ、支度は我等よきに取賄(とりまかなは)ん間可參(まゐるべし)と進ける故、祿も相應にて娘の容儀も能(よく)、支度もいらざるといへるには、外に譯こそ有べしと切に尋けれど、何にても外に子細なし、但(ただ)轆轤首と人の評判なせる也との事故、轆轤首といふ者あるべき事にもあらず、縱令(たとへ)轆轤首也とて恐るべき事にもあらず、我等聟に成べしと言ひければ、伯父なるもの大きに悅びて、左あらば早々同道なすべしと申けれど、貧しけれども親族もあれば、一通り咄しての上挨拶なすべしとて、彼貸本屋は我家に歸りしが、いろいろ考みれば流石に若き者の事故、末々いかゞあらんと迷ひを生じ、兼て心安くせし森いせやといへる古着屋の番頭へ語りければ、夫(それ)は何の了簡か有るべき、轆轤首といふ事あるべき事にもあらず、たとひ其病ありとも何か恐るゝに足らん哉(や)、今纔(わづか)の貸本屋をなして生涯を送らん事のはかなきよといろいろ進ければ、彼(かの)若者も心決して彌々行んと挨拶に及ければ、彼伯父成る者大きに悦びて、衣類脇差駄荷(だに)其外大造(たいさう)に支度をなして、彼若者を伴ひけるが、養父母も殊外悅び、娘の身の上を語りて歎きける故、かゝる事有べきにあらず、由(よし)左(さ)ありとて我等聟に成上(なるうへ)は何か苦しかるべきと答へける故、兩親も殊外欣びて、誠にまろふどの如くとゞろめけるよし。もとより右娘轆轤首らしき怪敷いさゝかなく、夫婦目出度榮へしかど、またも疑ひやありけん、何分江戶表へは差越さず是而已(これのみ)に難儀する由、森伊勢屋の番頭が許へ申越(まうしこ)しけるが、年も十とせ程過て江戶表へ下りて、今は男女の子共も出來ける故にや、江戸出をも免(ゆる)し侍る故罷越(まかりこし)たりと、彼(かの)森伊勢屋へも來りて昔の事をも語りしと、右番頭予が許へ來る森本翁へ咄しける。森本翁も其頃佐柄木町に住居して、右の貸本屋も覺居(おぼえをり)たりと物がたりぬ。

 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特に感じさせない。富農美形故の風評被害とも思しいが、もしかすると、この娘には睡眠時遊行症、所謂、夢遊病の傾向があったのかも知れない。しかも、それも実は根も葉もない風評から来る精神的ストレスによって後付けで起こった小児性で一過性のものであった可能性も否定出来ない。何れにせよ、仮にそうであったとしても婚姻後は治癒している模様である。なお、ウィキの「ろくろ首」には『実際に首が伸びるのではなく、「本人が首が伸びたように感じる」、あるいは「他の人がその人の首が飛んでいるような幻覚を見る」という状況であったと考えると、いくつかの疾患の可能性が考えられる』として、神経内科疾患の例が述べられており、『例えば片頭痛発作には稀に体感幻覚という症状を合併することがあるが、これは自分の体やその一部が延びたり縮んだりするように感じるもので、例として良くルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」があげられる(不思議の国のアリス症候群)。この本の初版には、片頭痛持ちでもあったキャロル自らの挿絵で、首だけが異様に伸びたアリスの姿が描かれている』とあり、また。日中に於いて場所や状況を選ばず起きる強い眠気の発作を主な症状とする脳疾患由来の睡眠障害であるナルコレプシー『に良く合併する入眠時幻覚では、患者は突然眠りに落ちると同時に鮮明な夢を見るが、このときに知人の首が浮遊しているような幻覚をみた人の例の報告がある。片頭痛発作は女性に多く、首の伸びるろくろ首の記録のほとんどが女性であることを考えると、これは片頭痛発作に伴う体感幻覚の患者だったのかもしれない。また、首の浮遊するろくろ首の例の報告はそのほとんどが睡眠中に認められていることから、通常の人が体験した入眠時幻覚であったのかもしれない』と記す。

 

・「寶曆」西暦一七五一年から一七六三年。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年からは凡そ四十八年から三十四年前の話柄となる。

 

・「神田佐柄木町」現在の千代田区の昌平橋・万世橋の南にあった町。幕府御用御研師(おとぎし:刀剣の研磨師。)佐柄木弥太郎(駿河国有渡(うど)郡佐伯木(さえき)の出身で徳川家康から研師頭を命じられた二代弥太郎が江戸に移住した)の拝領町屋だったことに因む。

 

・「遠州氣賀」旧静岡県引佐(いなさ)郡(現在は浜松市)細江町内にあった村。

 

・「轆轤首」「飛頭蠻」も妖怪ろくろ首のことを言う漢語(但し、飛頭蛮は本来は特定の実在する異民族を指す言葉であったともされる)。ろくろ首の文化誌について語りたいところであるが、語り出せば私の場合、収拾がつかなくなる大脱線へと発展することは必定で、そもそも本件の「轆轤首」娘は全くの風評被害者であることからも、ここはよく書かれているウィキの「ろくろ首」をリンクするに留める(そこでは本話も語られ、陰惨で不幸な結末を迎える話が殆んどの轆轤首伝承の中でも稀有のハッピー・エンドの例として揚げられている)。

 

・「たまさか」ここは勿論、副詞で「まれに・たまに」の謂い乍ら、読者には「魂離(たまさか)か」のニュアンスも与えて、話のホラー性をわざと完全払拭しないようにしているように私には思われる。

 

・「一犬影に吠るの類ひ」は「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」という故事成語。一匹の犬が何でもない物影に向かって吠え出すと、その声に釣られて百匹の犬が盛んに吠え出すように、一人がいい加減な事を言い出すと世間の人がそれを本当だと思い込み、尾ひれが附いて次々に言い広められてしまうことの譬え。「影」は「形」とも、「百犬」は「千犬」「万犬」とも。後漢の二世紀中頃に王符の書いた「潜夫論」に基づく。「一犬虚を吠ゆれば万犬実を伝ふ」とも言う。

 

・「富饒」富んで豊かなこと。また、そのさま。「ふぜう(ふじょう)」と読んでもよい。

 

・「取𢌞」身のこなし、立ち居振舞いのことで、彼の挙措動作の如才ないさまを言っている。

 

・「はかなきよ」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『はかなさよ』とあり、筆者の際の誤字であろう。

 

・「駄荷」駄馬で運ぶ荷物。

 

・「大造(たいさう)」「大層」の当て字であるが、「大層」は歴史的仮名遣では「たいそう」となる。

 

・「由(よし)左(さ)ありとて」と一応訓じておいたが、意味が通じないので、脱落が疑われる。底本では「由」の右に『(縱)』と傍注する。これならば「縱(たとひ)」でよろしい。これで採る。

 

・「まろふど」漢字では「客人・賓人」と書き、「まらひと」の音変化(古くは「まろうと」)。訪ねて来た客人の謂い。彼の出現によって「轆轤首」の少女が救済される本話から見ると、後に民俗学で折口信夫が用いた、異郷から来訪する神を指す「まれびと」をも連想させて面白い。

 

・「とゞろめけるよし」底本には右に『(尊經閣本「とり卷ける由」)』とある。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『なしけるよし。』で、これで採る。

 

・「右娘轆轤首らしき怪敷いさゝかなく」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『右娘轆轤首らしき怪事聊(いささか)なく』とある。これから察するに本文は「右娘轆轤首らしき怪敷(あやしき)事いさゝかなく」であったと捉え、「事」を脱字として補って訳した。

 

・「またも疑ひやありけん」それでも、両親は聟を江戸に出すと、ろくろ首の風評を嫌ってそのまま戻って来なくなるのではないかという疑いがあったからであろうか、の意。

 

・「森本翁」不詳。本巻までには登場していない。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 怪しき病いの風評を恐れず果福を得た事 

 

 宝暦の頃、神田佐柄木(さえき)町の裏店(うらだな)にて、細々と貸本を致いて渡世して御座った若者があったが、その者、不思議なる幸いを得たという話で御座る。……

 

……その頃、遠州気賀(けが)の近くに裕福なる百姓が暮らしており、田地も六十石余りも所持致し、男女の下僕も少なからず雇うて御座った。

 

 この百姓には一人娘があったが、その容貌がこれがまた、類いなき美しさにて、十六をも過ぎたによって、あちこちに入り聟(むこ)の相談をなしたところが、年を重ねても一向にうまく纏まらぬ故、父母も大いに嘆き、

 

「……かくなる上は格式の低き家でにてもよい故、ともかくも聟をとらずばなるまい。……」

 

と、いろいろ算段した上、大変な苦労を致いた……が……にも拘わらず……

 

『……かの娘は……これ……轆轤首(ろくろっくび)じゃて……』

 

……という奇体な噂が、これ、近郷近在に秘かに流布して御座ったが故――誰(たれ)一人として聟にならんと請けがう者、これ、御座らなんだ。

 

 『あそこの娘は飛頭蛮じゃ』という益体(やくたい)もない噂があること、これ、遅まきながら知った父母は、吃驚仰天、ともかくもと娘自身を質いたところ、

 

「……聊かも覚えは御座いませぬ。……なれど……たまに――魂が抜け出でたような感じになって、山川を上から見廻(めぐ)る――といった夢を、これ、見ることが御座います。……もしや……そのような折りには……妾(わらわ)が首……これ……抜け出でてでも……おりますのでしょうか?……」

 

と、恐ろしきことを申す。

 

 実際には――その娘の首が抜け出て飛びゆくのを見た――なんどと申す者は、これ、誰一人として御座ない。

 

 しかし、『一犬影に吠ゆれば万犬吠ゆ』の類いにて、その村は申すに及ばず、近郷近在の諸村までも、この奇怪なる流言の蔓延(はびこ)ったが故、聟にならんと申し出る者、これ、やはり全く以って御座らなんだ。

 

 父母は、豊饒(ほうじょう)なる家系もこれにて断絶致さんとするを、ただただ嘆き悲しんでおるばかりで御座った。

 

 そんな折り、娘の伯父なる者、毎年一度は江戸表への商いに出向いて御座ったが、

 

「……かかる聟養子は、これ、江戸表にてこそ尋ね求むるに、若(し)くはない――」

 

と思い定めて、その年、江戸へ出た序で、旅宿(はたご)にては、いろいろな人にも姪の入り聟の話を致し、上手く養子縁組の話にまで誘ったり致いたのだが――これ、養子もさることながら――あまりに上手過ぎる話なればこそ――やはり、誰(たれ)一人として養子になってもよいと申す者に出逢わずにおった。

 

 そんな江戸商いの一日(いちじつ)、仕事も一段落致いたによって、旅宿(はたご)にての退屈しのぎに何ぞ読まんと思うた彼は、宿へ貸本屋を呼んだ。

 

 と――その貸本屋の男――年の頃風体(ふうてい)と申し、その挙措動作と申し――これ、大いに気に入って御座った故、

 

「……しかじかの訳にて、もし、承知ならばこそ、今直ぐにでも同道の上、聟に成さん心づもりじゃが?!」

 

と慫慂致いたところ、その若者も話を受けて、

 

「……我らは、この通り……貧しき暮しを致いて御座いますれば……その親族と申す者どもとて……これ、揃いも揃って貧なれば……聟入りはおろか……旅の支度さえも、これ出来申しませぬが……」

 

と、やや話に惹(ひ)かれた風情なればこそ、

 

「何の! 支度なんど! これ、我らがよきに取り計ろうて存ずる故! どうじゃ? ご決心の上は、今すぐにでも参ろうぞ!」

 

と頻りに勧めた。ところが逆に若者はその性急さを不審にも感じ、

 

「……先様の御家禄も相応に御座って、その娘御(むすめご)の器量も良く、しかも入り婿の支度もいらざると申さるるは……これ、何ぞ、他に……訳が、御座いましょうな?……」

 

と、逆に、切(せち)にその訳を伯父なる男に質いてきた。

 

 当初は、

 

「……いや! これといって外に……仔細なんどは……御座ない……」

 

と口を濁しておったものの、流石に隠し切れずなって、

 

「……その……実は……益体(やくたい)もない話じゃが――『ろくろ首の娘』――と……まあ、その、近在にて、人の噂が立って御座ってのぅ……」

 

と白状致いた。すると若者は、

 

「ろくろ首なんどと申すものは、これ、あろうはずも御座らぬ! なればこそ、たとえ『轆轤首じゃ』と申す風聞、これ御座ろうとも、我らこと、一向に恐るること、御座らぬ。――我らが――聟になりましょうぞ!」

 

と請けがった故、伯父なる男は、これ、大悦びにて、

 

「されば!! 早々に同道致そう!!」

 

と申したが、若者は、

 

「……我ら、貧しくて御座るが、親族もあれば、まずは一通り、かくかくなればこそ、かくなったると、その者どもへも話しおかねばなりませぬ。」

 

と、約を違えぬことを請け合って、かの貸本屋の若者は取り敢えず我が家へと帰った。

 

 しかし、この貸本屋の青年――流石に未だ経験も浅い若者なればこそ――いろいろ考えるうち、

 

『……ここで約束致いてしまってから……行く末の我が身が如何になるやらも、これ、分からぬ……』

 

と思い始め、大いに迷いを抱く仕儀と相い成った。

 

 そこで、兼ねてより心安くして御座った、町内にある森伊勢屋と申す古着屋の、その番頭へ、この度の一件を相談致いたところ、

 

「それはそれは! 何の迷うことがあろうか! 轆轤首なんどと申すあやかしのおろうはずは、これ、御座ない! たとえそれが、少しばっかり首が延びると申すが如き、ただの珍奇なる――病いとも言えぬ病い――であったとしてもじゃ、これ、何ぞ、恐るるに足らんや、じゃ!……第一、お前さん……今時、こんな、しがない貸本屋をなして、一生を棒に振る……ああっ、それこそこれ、哀れじゃ!!」

 

と、逆に背中を、ど突かれるて御座った。

 

 かの若者も、かく言われた上は、はっきりと心を決め、直ちに旅宿(はたご)へと赴き、

 

「さても――参りましょうぞ!」

 

と挨拶に及べば、かの――首の天にも昇らん程に――待って御座った伯父なる男は――首の宙に翔ばんが如く――大悦び致いて、衣類・脇差・その他諸々の品々を、ご大層に買い調えて駄馬に荷(にな)い附けるや、若者を遠州気賀の里へと連れ帰って御座った。

 

 養父母――娘の父母――も殊の外に悦び迎え、哀れなる娘の身の上を語っては嘆き悲しむ故、若者は、

 

「……そのようなことのあろうはずも御座いませぬ。御父上、御母上、たとえそのような――病いとも申せぬ病いのようなることの――事実として御座ったとしても――我ら、聟となること、これ、何の差し障り、これ、御座いましょうや!!」

 

と鮮やかに答えた。

 

 娘は勿論のこと、両親も殊の外悦んで、まっこと、歓待の遠来の貴人の客人――いやさ、妖怪轆轤首も惚れ込むが如き――異界の貴公子を迎えたが如く、これ、歓待致いて御座った。

 

 もとより、この娘には轆轤首と噂さるる如き怪しい出来事なんどは、これ、微塵も御座らず、夫婦仲も頗る良く、百姓一家も大いに栄えた。

 

 それでも、妻やかの両親は、聟を江戸に出すと、やはり、ろくろ首ならんとした昔の風評を、もしや思い出しては嫌ってしまい、そのまま戻って来ずなるのではなかろうか、という疑いが御座ったものか、暫く致いて、若者は、

 

『……何分にも如何に申したれど、江戸表へ参る儀は、これ、父母妻女の許し、これ御座無く、これのみは甚だ難儀致し候……』

 

と記した消息を例の森伊勢屋の番頭に送ってよこしたとかいうことで御座った。

 

 が、それから十年ほども過ぎた頃、今は富農の跡取りとなった――かの若者、江戸表へと下って参り、

 

「……今は、既に男女の子(こお)も出来ました故に御座いましょうか、このように江戸出をも許しが出ました故、罷り越しまして御座います。……」

 

と、かの森伊勢屋の番頭を訪ねて、昔話に花を咲かせて御座ったという。……

 

 

……これは、その森伊勢屋番頭本人が、私の元へ参らるる森本翁へ直接、話した話、とのことで御座る。

 

 森本翁も、その当時は同じ佐柄木町に住まいしておられた故、

 

「……いや、確かに、その貸本屋の若者と申す者も、よう、覚えて御座いまする。」

 

と語っておられた。

冬薔薇二句 畑耕一 

冬薔薇掌にも掬へる日の光

[やぶちゃん注:「冬薔薇」は「ふゆさうび(ふゆそうび)」又は「ふゆしやうび(ふゆしょうび)」と音読している。次句も同じ。]

   拔齒手術の後に
舌になぶる齒の肉あまし冬薔薇

洋裝と和裝と――壯烈の犧牲――《芥川龍之介未電子化掌品抄》

 [やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月一日発行の『婦人畫報』に「洋裝と和裝と」の大見出しのもとにに「壯烈の犧牲」の題で掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、私の判断で表題と副題を逆転させた(底本は「壯烈の犧牲」を表題とし、「洋裝と和裝と」を副題とする)。底本は総ルビであるが一切省略した。老婆心ながら「擧措」は「きよそ(きょそ)」「倭臭」は「わしう(わしゅう)、「就中」は「なかんづく」で、「紅茶々碗」の「茶碗」は濁らずに「ちやわん(ちゃわん)」と読んでいる。] 

洋裝と和裝と  

    ――壯烈の犧牲――
 

 このごろ男を見ると、日本の男もきれいになつたなと思ふけれども、女は、洋裝美にも和裝美にも、格別、昔よりきれいになつたと思つたことがない。殊に、冬毛皮の外套も着ずに、乘合自動車の車掌のやうななりをした女が歩いてゐるのを見ると、日本中が貧乏になつたやうな心細い氣がする。しかし、概していふと、若い娘さんの洋裝は、『新らしい年増』の洋裝よりも美しい。あれは、洋裝の下にある骨組が、テニスだの何んだのゝお蔭で、洋裝に適するやうに出來てゐるためだらうと思ふ。もう一つ、『新らしい年増』に不利なことは、いかに洋裝をしてゐても、擧措動作は一向西洋の婦人らしくない。例へば、歩きかたとか、椅子のかけかたとか、乃至はまた、紅茶々碗を置く手つきとかいふものが、どうも倭臭を帶びてゐる。 

 けれども、和裝になると、概して中年以上の女の服裝が、若い娘さんの服裝よりも、品がわるくない。元來、若い娘さんの和裝は、はでな色彩に富んでゐるし、その派手な色彩も、このごろ流行の色は、就中はでなものだから、趣味のいゝ服裝は出來にくいのかも知れない。 

 では、和裝がいゝか洋裝がいゝかといふと、どちらがどのくらゐいゝかは暫らく問はず、とにかく、どちらも惡いことは事實である。なぜかといふと、現代の日本の女は、洋裝するにはあまりに日本じみてゐるし、和裝するにはあまりに西洋人じみてゐるから、どちらにしても、ろくな感じを與へる譯がない。 

 しかし、かういふ過渡時代を經過しなければ、新らしい美は生れないのだから、みつともないなりをして歩くのも、將來の日本の文明のためには、たしかに壯烈な犧牲である。
 最後に、僕は、現代の日本の婦人のかういふ犧牲的精神に、尊敬と愛とをもつてゐることを、つけ加へておきたい。
 

私が女に生れたら? どう男を遇するか?!《芥川龍之介未電子化掌品抄》

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年四月発行の『婦人公論』に「私が女に生れたら? どう男を遇するか?!」の大見出しのもとに無題で掲載されたことから、上記の様な副題を附した。底本は岩波旧全集を用いたが、表題は「私が女に生れたら」で、アンケートや芥川龍之介の回答の趣旨から微妙にずれると判断して上記のような表題と副題を附した。底本は総ルビであるが一切省略した。敢えて述べておくと、「好い」は「よい」、「捉へ」は「とらへ」である。] 

――アンケート「私が女に生れたら? どう男を遇するか?!」に対する芥川龍之介の回答―― 


 出來るだけ温良貞淑を裝ひ、出來るだけ都合の好い夫を捉へ、出來るだけ巧みに夫を操り、出來るだけ自己を成長させます。所謂經濟的獨立などは少しも得たいとは思ひません。そんなものは得たところが、反つて少しも餘力を持たない奴隷生涯に入ることですから。

北條九代記 木曾義仲上洛 付 平家都落

      ○木曾義仲上洛 付 平家都落

東國には兵衞佐賴朝の武威日を追(おつ)て盛なり。北國には木曾冠者源義仲旗を擧げ、西海南海にも軍起り、築紫には緒方惟義、四國には河野通淸(かうのみちきよ)源氏に屬す。平家愈(いよいよ)驚きて、軍勢を東北國に遣すといへども、運の傾く癖(くせ)なれば、至る所利なくして引返すより外の事なし。去ぬる治承四年六月に淸盛の計(はからひ)として、都を攝州福原に遷さる。翌年十二月又舊都平安城に遷返(うつしかへ)す。治承五年閏二月四日大相國淸盛入道靜海西八條の亭に薨じ給ふ。春秋六十四歳なり。子息宗盛卿その跡を繼ぎて、平氏一門の棟梁たり。七月十四日改元ありて、養和と號す。同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ。木曾殿その嫡子淸水冠者義高を人質に遣して和睦す。賴朝是を鎌倉に連れて歸り、かしづきて婿とせらる。同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す。越中國礪竝山(となみやま)以下所々の軍に木曾義仲に打負て、都に引返す。俣野五郎景久、齋藤別當實盛等皆討死せり。同七月木曾義仲北國より攻上りければ、平氏大に恐惑ひ、宗盛等の一門主上を守護して、西海に赴く。然れば淸盛公の舎弟池大納言賴盛はその母池尼賴朝を助けられし恩に依つて、鎌倉より内通ありて京都に留り給ふ。平氏の一門は福原にも溜(たま)らず、筑紫に向ひ、太宰府に至る。豐後の緒方三郎惟義に襲はれ、九國を離れて、四國に赴く。阿波民部重能(しげよし)是を迎へて、讃岐國屋嶋に内裏を造り、此所に暫く止まりて南海、山陽道を打靡けり。

[やぶちゃん注:「西海南海」「西海」は九州、「南海」は四国及び紀伊半島を指す。

「緒方惟義」(生没年不詳)。惟栄・惟能とも書く。豊後大野郡の郡領大神(おおが)氏の子孫で同郡緒方荘の荘司。平氏による大宰府掌握後には平重盛と主従関係を結んでいたが、頼朝挙兵後、付近の臼杵氏・長野氏らと平氏に反旗を翻して豊後国目代を追放、以後は中北九州における反平氏勢力の中核となった。寿永二(一一八三)年、豊後国守藤原頼輔から平氏追討の院宣と国宣を受けて平氏を大宰府から追放したが、宇佐宮焼打事件で遠流された(平凡社「世界大百科事典」に拠る)。

「河野通淸」?~養和元(一一八一)年)伊予国風早郡河野郷(現在の愛媛県北条市)を本領とし、伊予権介に任じて河野介と称した。頼朝をはじめとする反平家勢力が各地で蜂起した際、伊予国内で競合関係にあった高市(たけち)氏が平家と結んでいたことから、通清も同治承四(一一八〇)年の冬に挙兵、国中を管領して正税官物を抑留した。しかし、翌養和元年には平家方の備中国の住人沼賀入道西寂に攻められて討死した(「朝日日本歴史人物事典」に拠る)。

「治承四年六月に淸盛の計(はからひ)として、都を攝州福原に遷さる」治承四(一一八〇)年六月二日に京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれて、ここに正式に行宮が置かれ、清盛は福原に隣接する和田(輪田)の地に「和田京」の造営を計画していた(和田は現在の兵庫区南部から長田区にまたがる地域。以上はウィキの「福原京」に拠る。次の注も同じ)。

「翌年十二月又舊都平安城に遷返す」「翌年」「十二月」はそれぞれ「同年」「十一月」の誤り。遷都から凡そ六ヶ月後の治承四(一一八〇)年十一月二十三日に京都へ還幸した。これは源氏の挙兵に対応するため、清盛が決断したとされる。

「同二年三月賴朝と義仲と不和に及ぶ」「同二年」では「養和二年」となるので誤り。寿永二(一一八三)年が正しい。この「不和」とは、寿永二(一一八三)年二月、頼朝と敵対し敗れた源為義三男志田義広及び、頼朝から追い払われた源為義十男源行家ら叔父が義仲を頼って身を寄せ、この二人を庇護したことで頼朝と義仲の関係が悪化したことに起因する。別説として「平家物語」「源平盛衰記」では甲斐武田氏第五代当主武田信光が娘を義仲嫡男義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したともある。義高は同三月中に鎌倉に入っている模様である(ウィキの「義仲」に拠る)。

「かしづきて婿とせらる」「かしづきて」の「傅く」という動詞は①「大切に守る」・「大事に育てる」。②「世話を焼く」・「後見する」の謂いで、意味から高校生がしばしば間違えるが、謙譲の敬語では、ない。ここは②、「婿」は頼朝長女大姫の婿である。

「同四月平家の維盛、通盛を兩大將として、十萬餘騎北國に發向す」も前の誤りを構造上受けてしまうので、「同年」は寿永二(一一八三)年の誤りであると注しておく。「四月」十七日のことであった。

「越中國礪竝山」越中・加賀国の国境にある砺波山の倶利伽羅峠(現在の富山県小矢部市及び石川県河北郡津幡町)で五月十一日に行われた倶利伽羅峠の戦い。

「俣野五郎景久」(?~寿永二(一一八三)年)相模国大庭御厨俣野郷の住人。身長六尺(約一八二センチメートル)を超える強力で相撲の名手とされる。治承四(一一八〇)年の石橋山の戦で平家方の兄大庭景親に従い、富士山北麓で甲斐源氏に敗戦、京都へ逃れた。その後、平維盛に従って六月一日、倶利伽羅合戦敗走後の加賀国篠原(現在の石川県加賀市旧篠原村地区)での篠原の戦いで敗れ、自害した。

「齋藤別當實盛」(天永二(一一一一)年~寿永二(一一八三)年)は越前国の出身、武蔵国幡羅郡長井庄(現在の埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれた。彼は義仲の父源義賢(よしかた)が義朝長男鎌倉悪源太義平に大蔵合戦で討たれた際、幼い義賢次男であった駒王丸(後の義仲)を無事に木曾へ逃がした。保元・平治の乱においては上洛し、かつての主の敵ながら義朝に忠実な部将として仕え、義朝滅亡後は関東に帰還、平氏に仕えていた。義仲は恩人である実盛を生け捕りにして殺害しないように部下に伝えていたが、『味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた』。『この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評し』(以上はウィキ斎藤実盛より引用した)、また、義仲を愛し、従ってその愛惜を共有していた松尾芭蕉が「奥の細道」の途次、実盛の兜(かぶと)を蔵する多太(ただ)神社(現在の石川県小松市在)を訪れて実盛を偲び、

   むざんやな甲の下のきりぎりす

の名吟を残しているのは周知の通りである。

「阿波民部重能」田口成良(たぐちのしげよし 生没年不詳)のこと。阿波国・讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安三(一一七三)年の清盛による大輪田泊の築港では奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られている。鹿ケ谷の陰謀では首謀者の一人であった西光の四男広長が阿波国阿波郡柿原(現阿波市吉野町)にあり、清盛の命により成良が柿原に襲撃して広長を討ち取っている。治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛、平重衡の南都焼討で先陣を務め、美濃源氏の挙兵では美濃国へ出陣するも蹴散らされて被害を蒙っている。寿永二(一一八三)年七月の平氏の都落ちの後は四国に戻って讃岐国を制圧、屋島での内裏造営を行って四国の武士たちを取りまとめた。一ノ谷合戦・屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦ったが、屋島の戦いの前後に源義経率いる源氏方に伯父の田口良連、弟の桜庭良遠が捕縛襲撃され、志度合戦では嫡子の田内教能が義経に投降したとされる。「平家物語」によれば、嫡子教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、三百艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたともされる。但し、「吾妻鏡」には平氏方捕虜として成良の名が見えており、真相ははっきりしない。延慶本「平家物語」によれば、成良は主人を裏切った不忠の者として斬罪が決められるや、怒って数々の暴言を吐き、御家人達の不興を買ったために籠に入れられて火あぶりの刑にされたともある(以上はウィキの「田口成良」に拠る)。

「打靡けり」制圧した、の意。都落ち以降の平家をひたすら西海への遁走と滅びへの勾配としか捉えない「平家物語」を主軸とした文学的仏教的読みが多いが、私はそうは思っていない。例えば上横手雅敬氏の「源平の盛衰」(講談社文庫一九九七年刊)によれば、清盛を中心とした平家には、『畿内における軍事政権の樹立が困難であるならば、太宰府を中心とする九州ないしは内海の地域的軍事政権の樹立が構想されていたと考えてよ』く、『其の後の政治的推移によって実現はしなかったものの、のちに都落ちした平氏が最初に根拠地としたのは太宰府だった。そして地域的軍事政権とは、思い切った表現をするんならば、太宰府幕府(ないしは太宰府国家)のことなのである』と述べられ、治承三(一一七三)年の鹿ヶ谷の謀議を契機とする『クーデターによって成立した平家政権は、同四年の富士川での敗戦を契機として、養和元年以来、相次いで斬新な政策を打ち出し、武家政権への脱皮をとげつつあった。ただ、それらの政策が実を結ぶには、時すでにおそく、事態の転回は、より急速であった』と、目から鱗の歴史学上の解説されておられるが、まさにここでの「北条九代記」の筆者の書き振りと、そうした真相とが軌を一にしているように思われて私には甚だ興味深いのである。]

2012/11/02

追伸 伊豆の帰りは「寿々丸」の寿司と「にし村」の和菓子で

僕は20年来、伊豆の帰りには

寿々丸
http://www.sushinosuzumaru.com/

の寿司を食い、お土産には

にし村
http://izunet.jp/shop/nishimura/index.htm

の和菓子と決めている。他の店には、もう、入らないのだ。

「寿々丸」では、がりんちょ(スズキ目サバ亜目クロタチカマス科クロシビカマス Promethichthys prometheus) を始めとする相模湾の新鮮な魚が堪能出来、

「にし村」はお母さんと気持ちのいい青年がいつも迎えて呉れるのだ。

これが――僕の温泉帰りの伊東の――お薦めの店なのである――

月のうさぎは「たいへんよくできました」

妻の労に報いて永年行きたかった富戸(川奈)の温泉旅館「月のうさぎ」へ行く。

少し値は張るが――この個室露天風呂のスケールは他の追従を許さない。料理(ここの姉妹館「なすびの花」には十年前に行ったが料理は磐石と信頼していた)と和風コテージの仕様も含め――僕の中では、先にご紹介した「箱根吟遊」を凌駕して――ナンバー1――である。

僕たちの「上弦」のコテージからの今朝の日の出――

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露天風呂のやや上部に水平線が広がり、三浦・房総・伊豆七島すべてが見渡せる(正面は大島)。
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文句なしに――お薦めである――

2012/11/01

隻手音声を聴いた!――ベトナムの片腕のギタリスト グエン・テ・ビン君の稀有の楽の音を聴け!

一昨日の夜、足の悪い父が、珍しく、藤沢で開かれる「ベトナム民族アンサンブル ベトナムの魂チンコンソンの世界」(ベトナム・枯葉剤爆弾被害者支援/自立支援プログラム)のコンサートに行く、というので一緒に付き添った。

多様なベトナム民族楽器の調べは素晴らしい。

テルミンのように不思議で、しかも恐ろしいまでの深みのある音を出す一弦琴――ダンバウ――

大きな空洞の竹筒を並べ、その一方の手前で手を叩き、その風圧で音を出す――コロンプット――

広範な音域をカバーし、琵琶よりも遙かに繊細な弦音を奏でる――ダン・ダーイ――

コンサートのファイナル・ステージ、圧倒的なパワーと迫力で演奏された楽曲「祖国の言霊」、そのメインを張る二本のハンマーによって打ち鳴らされる(その分厚く硬質な音は父や僕には縄文人の躍動する魂と聴こえた)石琴――ダンダ――

これらのベトナムの音(ね)を聴くだけでも協力費一人2500円は安価である。

しかし、驚愕はそれだけではなかった。

第二部――「チンコンソンの世界」に登場したグエン・テ・ビン君の演奏に僕は完全にノック・アウトされた――

グエン君は1970年生まれ、彼の父は彼が3歳の時、ベトナム戦争で亡くなり、7歳で母も病気で逝った。祖父母に引き取られた彼は、8歳の時、水牛から転落して右腕を骨折したが、ちゃんとした医療を受けることが出来ず、右腕は壊死し、切断された。

ギターを弾く叔父の姿を見て魅了された彼は、全くの独学で――左手だけでギターを弾く技を編み出す――

「1990年6月14日を覚えています」

とグエン君は言う。
それはアルバイトで金を貯め、20歳のグエン君が――初めて自分のギターを買った日――

彼は高卒後、独学で勉強し大学に進んだが――そこでベトナムの吟遊詩人チン・コン・ソンの音楽に出逢った。グエン君にとって彼の曲は、

「悲しいけれど、本性が強くて深く似通っていた」

と述懐する。

*ウィキの「チン・コン・ソン」(Trịnh Công Sơn 鄭公山 1939年2月28日~2001年4月1日) より
はベトナムの国民的作曲家(ソングライター)。グエン・ヴァン・カオやファム・ズイとともに現代ベトナム音楽家の大家として知られている。反戦歌を中心に600以上の歌を書き、「ベトナムのボブ・ディラン」とも呼ばれる。
ダクラク省バンメトートに生まれ、フエで育つ。1958年、サイゴン大学在学中に創作活動を開始する。1960年代に著名なシンガーソングライターとなり、反戦歌などを作曲する。1967年、ハノイの歌手カイン・リー(カーン・リー、Khánh Ly, 1945年 - )と組み、大変な人気を得る。1972年、南ベトナム政府により音楽の出版を禁止される。「お眠り坊や」で日本ゴールドディスク大賞受賞。カイン・リーは1975年の南ベトナム崩壊の前日、ボートピープルとしてアメリカ合衆国に渡る。以後二人は別々の道を歩むこととなった。ベトナム統一後、政府によって以前のチン・コン・ソンの音楽は禁止され、本人は再教育キャンプに送られた。その後1980年、映画『無人の野』の音楽を担当。1986年、ドイモイ政策の開始に伴いチン・コン・ソンの音楽も解禁される。1996年、大阪アジア文化フォーラムで日本を訪問。2001年、ホーチミン市チョライ病院で死去。62歳。2004年、故人に世界平和音楽賞が贈られた。
1970年、大阪万博にカイン・リーが出演、日本でレコードを発売する。その中の日本語の歌詞による一曲「雨に消えたあなた(美しい昔)」が、1978年の近藤紘一原作のNHKドラマ「サイゴンから来た妻と娘」の主題歌に使われた。その後、すがはらやすのり (1984)、加藤登紀子 (1997)、天童よしみ (2003) によってカヴァーされている。天童よしみは2003年のNHK紅白歌合戦に出場した際この曲を歌った。またこの曲は、関西学院大学のベトナム文化科目にも取り入れられた。

グエン君はギタリストであると同時に――ビンズォン省にある孤児院の経営者でもある――(以上の記載は一昨日のコンサート・プログラムに書かれた記事を複数参照させて頂いた)

以下、ユー・チューブで視聴出来る動画を掲げる。

「悲しい石の時」(ギター)
http://www.youtube.com/watch?v=9XLkUvOCPAg&feature=related
「悲しい石の時」(彼の左手だけの超絶技巧がよく分かる映像)
http://www.youtube.com/watch?v=AlzgqQ-ygYg&feature=related

“Dien Xua”(ギターとハーモニカ)
http://www.youtube.com/watch?v=veh4uXqueJo&feature=related

「坊やお眠り」(ギター 歌:グエン・チー・キム・リュエン)
http://www.youtube.com/watch?v=TN7vWowvfus&feature=related

……私は「悲しい石の時」の演奏を聴いて図らずも落涙した……

……彼の演奏は生で聴かなくてはその詩想は実感出来ない。――例えば、“Dien Xua”の最初にハーモニカ吹こうとする最初の彼の息の音は、僕にはベトナムの峰々を吹き抜けてゆく風の音に聴こえた。――あなたの町にグエン君が来たら、必ず聴いて欲しい。

帰りに、入り口でグエン君が見送って呉れた。
彼の左腕と握手をした。彼の笑顔は美しかった。彼の左では温かで――強かった――

鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 寿福寺 ~雨の日は御老公さま英勝寺内にて袈裟のお勉強

   壽 福 寺

 山號ハ龜谷山、英勝寺ノ南隣、源氏山ノ下也。今按ニ龜谷ハ總名ニテ、扇谷・泉谷ナドト云ハ其内ノ小名也。壽福寺ヲ龜谷山卜云へバ、東鑑ニ義朝ノ龜谷ノ御舊跡トアルハ、壽福寺ノ事ナリトモ云。詞林采葉云、是山鎌倉中央第一ノ勝地也。寺ハ源實朝建保三年ニ建立、開山ハ千光國師、天童虛庵ノ嗣法也。元亨釋書ニ詳ナリ。本尊ハ釋迦・文殊・普賢、コノ釋迦ヲ籠釋迦卜云。カゴニテ作リ、上ヲハリタリ。陳和卿トイフ唐人ノ作也。前ハ十刹ノ位ニテ有シヲ、後ニ鎌倉五山ノ第三ニ列セリ。七堂加藍ノ石ズヘノ跡今ニアリ。御當家御朱印八貫五百文有、斛ニシテ三十石餘也ト云。古昔イボナシ鐘ト云名鐘アリ。開山千光ノ唐土ヨリ取來ル也。小田原陣ノ時、鐵砲ノ玉ニ鑄テ、今ハ亡タリ。積翠庵ノ後ニ小堂アリ。法雨塔卜云額アリテ、内ニ千光ノ木像アリ。

 寺寶 松風玉〔内ニ佛舍利三粒アリ。金色ノ光リアリト云〕

 後ノ山ノ上ニ、ヱカキヤグラトテ、實朝ノ石塔アリ。四方卜上ヲ極彩色ニ牡丹・カラ草ナドヱガキタル巖窟也。今ニ慥ニ能ミユル。風霜ニアハザル故カ。石塔少モ不損(損ぜず)、又祖師塔ノ岩窟一ツアリ。又桂陰庵ト云寺アリ。住僧以天ト云。千光ノ畫像コヽニアリ。新筆ニテ唐僧隱元ガ讚アリ。坐禪堂ニ鎌倉六地藏卜云名佛ノ中ノ一躰アリ。一木ニテ蓮華座迄作付ナリ。此寺ニ石窟ヲ開テ浴室トナス。方九尺許。又石窟ヲ厨トナス。僕奴ヲ此窟中ニヲキ、以天ハ日夜禪堂ノ繩床ニノミ坐スト也。ソレヨリ出テ寺ノ南ニ歸雲洞トテ洞有。其中ヲ通リ、南方へ行コト二町許ニ山有。石切山ト云。石岨※矻タリ。強テ此ニ登テ海邊ヲ眺望スルニ、萬里ノ波濤寸眸ニ入ル。暫ク行厨ヲ設ケ、微醺吟詠而庵ニ歸ル。

[やぶちゃん注:「※」=「石」+「聿」。

「※矻」は「ロツコツ」と読み、「※」は岩石の高く危な気なさま、「矻」は岩石の固いさまを言う。]

 四日、昨夜ヨリ大ニ風雨シテヤマズ。外ニ出ガタシ。金澤稱名寺ノ僧ヲ呼テ律宗ノ衣袈裟ヲ見テ、人ヲシテ其製ヲ問シム。僧曰、大衣二十五條〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿五條四長一短〕、以上七條〔兩長一短〕、五條縵衣〔兩品〕、七條五條沙彌用之(之を用ふ)、縫目ニ葉ヲ石入、但フセヌヒ計ニ風呂敷ノ如ニスル也。褊袗〔此ハ本ノギシ覆肩ノ二衣ヲ縫合テヘンザント云也。是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾卜云ナリ。〕

[やぶちゃん注:「其製」袈裟は小さく裁断した布を縫い合わせたものを素材とし、小さな布を縦に繋いだものを条と呼んで、これを横に何条か縫い合わせて作る。ここではその条数と一部の形状が九品九生に対応していることが解説されているのだが、上品上生がなく、「以上七條」とある「以上」の意味が分からない。調べてみると、この「大衣(だいえ)」は袈裟の分類で最も正式な、衆生を教化する際に掛ける「僧伽梨」と呼ばれるものを指していると思われ、そこには実際に九種存在し、二十三条のものが本文には抜けていること、本文で中品に相当する三種の袈裟の長短(一条を構成する長条と短条の組み合わせをいう)も欠けていることが分かった。即ち、ここは「大衣」の後の「二十五條」を抜き、欠落を補い、

大衣〔九品アリ〕、下々品〔九條兩長一短〕、下中品〔十一條〕、下上品〔十三條〕、中下品〔十五條三長一短〕、中々品〔十七條〕、中上品〔十九條〕、上下品〔廿一條〕、上中品〔廿三條〕、上々品〔廿五條四長一短〕、以上七條

とあるべきところなのであり、そうすると「以上」は「大衣」は「以上。」であると私は判読するものである。

「七條〔兩長一短〕」これは「鬱多羅僧」という袈裟で、堂に於いて衆生とともに修行する際に掛ける普段着である。

「五條縵衣〔兩品〕」これは「安陀会(あだらえ)」という袈裟で、肌に直接纏い、作務や行脚の際に用いる作業着である。「縵衣(まんえ)」とは大きな一枚の布の四辺に縁を縫い着けただけの模様のない最もシンプルな縫い方を指す。なお、この割注「兩品」というのは解せない。調べてみると、安陀会の条の形状は一長一短であるから「兩条」とするところを、上の「品」に引かれた誤字と読む。

「縫目ニ葉ヲ石入」底本には『(ママ)』表記がある。一読すると、袈裟の縫い目に何かの植物の葉を縫い入れるような感じに読めてしまうが、そうではない。条を構成する長条や短条の重なる部分を「葉」と呼び、ここの仕立て方を言っているらしい(「石」は誤字の可能性が強い)。この部分の縫い方には「鳥足縫い」「馬歯縫い」「縁参」といった飾り縫いがあるが、ここではそうしたものではない極めてシンプルな縫い方を言っているものと思われる。

「褊袗」は「ヘンサン・ヘンザン」と読み、「褊衫」とも書く。僧衣の下着の一種で、垂領(たりくび:襟を肩から胸の左右に垂らして引き合わせて着用すること。)で背が割れている主に上半身を覆う法衣(下半身には以下に述べられる裙子(くんす)を着用する)。上に袈裟を掛ける。

「ギシ覆肩」「ギシ」は恐らく「祇支」で、元来は尼僧が袈裟の下に附ける長方形の布衣を言う語。袈裟を掛けるように、左肩に掛けて左肘を覆い、一方は右の脇の下に通して着用する。宗祇支・僧祇支とも書く。「覆肩」は「ふくけん」と読み(次の説明に現れる)、前の祇支の様態からも尼の反対側の右肩を覆う布衣と考えてよいであろう。後文を読むと、男僧もこれらを用いている。

「是コロ也。モハ別也。裳ヲ又ハ裾卜云ナリ」考えたこともなかったが、成程、「ころも」とは「ころ」と「裳」であったのか! 「ころも」の語源について、「日本国語大辞典」には、

①キルモ(着裳)が転呼(松岡静雄「日本古語大辞典」)。

②キルモノ(服物・着物)の義(「日本釈名」・「名言通」・「和訓栞」・「紫門和語類集」)

③クルムモ(包裳)の意。(大島正健「国語の語根とその分類」)

を挙げるが、①や③からは、光圀のように「ころ」と「も」を上下に分離する考え方はおかしくない。]

裙〔律ノ興ル魏ノ世ヨリ始ル。本ハ袖ナシ。故ニ尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ。ヘンサンニハアラズ。魏ヨリ以來袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ。〕尼ニハ制衣、僧ニハ聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕仕立ルニ古來周尺ヲ用ユ。今ノ匠尺ノ八寸ヲ以一尺トナス。周尺ハ南都ニテ六物ニソヘ用ユ。四度ノ制アリ。一ニハ袈裟ヲウチカケテ着ス。ケサノマへ象ノ鼻ノ如シト外道ノ誹謗アリ。二ニハ謠女ノ衣ノ如シト云。於是(是に於いて)改テ座具ヲ以テヲサユ。三ニハ座具ヲ肩ニカケ袈裟ノ上ニヲクコトヲソシル。於是(是に於いて)座具ヲ袈裟ノ下ニヲク。是四度ノ制也。裳ハ右マヘ、コロハ左マヘニ着ス。コロハ前後ニ紐アリ。

[やぶちゃん注:「裙」これで「クン」又は「クンス」と読んでいよう(文脈から見ると、「モ」と読んでいる可能性もある)。裙子で、僧侶がつける、黒色で襞の多い主に下半身用の衣服。内衣(ないえ)・腰衣(こしごろも)とも言う。

「律」刑罰法令としての律令は魏晋南北朝時代に発達、七~八世紀の隋唐期に整備されて当時の本邦や朝鮮諸国(特に新羅)の律令の形成へ影響を与えた。

「尼衣乳ノミ見ユルコトヲ制シテギシフクケンヲ用フ」「尼衣」は「ニエ」と読んでいるか。「ミ」は衍字か。

「袖ヲソフ間ノ水ヲモラス心ナリ」「ソフ」は付け加えるの意であろう。「水ヲモラス心ナリ」が分からない。「水をさす」で乳の覗けてしまうのを邪魔して見えぬようにするの意、という意味か? 識者の御教授を乞うものである。

「聽衣〔ヌイメヲ外邊ヲヒラクト云田。〕」底本には「聽衣」の横に『(ママ)』と傍注、「田」の右に『云カ』と傍注する。これは尼には前述のような胸を隠すための「制衣」が、男僧には「律衣(りつえ)」(自ら僧として修行し、戒律を守る為に着用する僧衣の謂い)が定められているという謂いの誤字か? 「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」の謂いが分からない。男僧の場合は、胸が見えても問題がないので、袖の部分が開放になっているの謂いか? 若しくはここは禅宗で改良された僧衣の一つ「法衣(ほうえ)」=「直綴(じきとつ)」のことを指しているか。直綴とは褊衫と裙子を腰のところで縫い合わさせた一体型の僧衣のことを指す。但し、それを「ヌイメヲ外邊ヲヒラク」とは言うまい。また「律衣」や「法衣」は褊衫を含むので、ここで明白に「ヘンサンニハアラズ」という謂いとも矛盾してしまう。ここも識者の御教授を乞うものである。

「周尺」周代に用いられたとされる尺。周尺単位は短かったという漢人の説により一尺を曲尺(かねじやく)で六寸(一八・一八センチメートル)或いは七寸六分(二三・〇三センチメートル)ほどとするものをいう。漢尺は八寸(二四・二四センチメートル)程度。

「六物」は「ろくもつ」と読む。初期仏教に於いて比丘(出家者)が所有を義務づけられた六つの生活用品、種類の袈裟と鉢(合わせて「三衣一鉢(さんねいつぱつ)」)・漉水囊(ろくすいのう:飲水から虫を除くための水濾(こ)し)と坐具(敷物)を指す。比丘六物。その形状や大きさ・材質などに厳しい制限があった。

「坐具」は本来、禅宗と時宗以外では用いない。]

 コロヲ覆肩(フクケン)卜云。左ヲギシト云。ギシハ古來ノコロ也。フクケンハ右ヲ覆也。故ニ左ヲ下ニシ右ヲ上ニス。是興正菩薩ノ制ナリ。興正ハ思圓上人也。招提寺ノ開山大悲菩薩ノ制ハ内衣ノ如ク左ヲ上ニス。周尺西大寺ニハ定テ可存(存すべき)歟。六物圖書一册靈芝ノ作幷ニ本書有、律三大部六十卷ノ内行事抄ノ内衣藥二衣篇ヨリ拔書廿部、律ノ内四律ヲ立分通大乘是ナリ。採分摘三册有。右ノ末書也。教戒議比丘ノ行事ノ作法ヲ云物ナリ。一册有。南山道宣作ナリト云ナリ。南都西大寺ノ末、眞言律ハ稱名寺ト極樂寺ト也。又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有。泉涌寺ノ末禪待ハ淨光明寺ナリ。是ハ袈裟ハ西大寺同樣ニテ、コロモノ威儀カハル也。

[やぶちゃん注:「興正菩薩」は「こうしやうぼさつ」と読む。真言律宗僧叡尊(建仁元(一二〇一)年~正応三(一二九〇)年)。興正菩薩は謚号、思円は字。興福寺の学僧慶玄の子。戒律を復興、奈良西大寺の中興開山。弘長二(一二六二)年には執権北条時頼の招聘により鎌倉にも下向している。

「六物圖書」不詳。平安時代の作とされる「仏制比丘六物図」のことか?

「採分摘」不詳。寛文七 (一六六七)年板行の「仏制比丘六物図採摘」のことか?

「南山道宣」律宗の中で最も広まり,鑑真によって日本へ伝えられた南山律宗の開祖とされる僧。

「又觀音寺ノ第子圓通寺トテ金澤ニ有」底本には「第」の右に『弟カ』と傍注するが、「弟子」でも意味が通らない。そもそもこの「圓通寺」は現在の横浜市金沢区瀬戸にあったものを指すと考えられるが(金沢文庫駅から見える廃寺)、新編鎌倉志八」には、

○圓通寺 圓通寺(エンツウジ)は、引越村(ヒキコヘムラ)の西にあり。日輪山と號す。法相宗。南都法隆寺の末寺なり。開山は法印法慧、寺領三十二石、久世(クゼ)大和の守源の廣之(ヒロユキ)付するなり。

とあって「觀音寺」なるものものが現われない。法隆寺は本来、法相宗であった(第二次大戦後に聖徳宗を名乗って離脱している)が、「觀音寺」と通称されたという記載はない(そう呼ばれてもおかしくはないとは思うが)。この部分も識者の御教授を乞うものである。]

 淸書ニハ此袈裟衣制ハ別卷ニス。宰相殿依着圖(着圖に依る)也。

[やぶちゃん注:先にも述べたが、この「鎌倉日記」にはここに示された「別卷」が存在し、そこには「宰相」光圀自身が実際に各種の袈裟を着装して図とした絵があったのである。この絵が見かったものである。そこでは本文の幾つかの不審箇所も明らかとなるであろうに。この条、御老公さまのマニアックな知的好奇心の旺盛さが垣間見られる興味深い記述である。]

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