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2012/11/06

耳嚢 巻之五 藝州引馬山妖怪の事

 藝州引馬山妖怪の事

 

 藝州ひくま山の内不立入(たちいらざる)所あり。七尺程の五輪に地水火風空と記し、三本五郎右衞門といへる妖怪ありと語り侍傳へしを、稻生武太夫といへる剛氣の武士ありしが、兼て懇意になしける角力取(すまふとり)と、何か今の代に怪敷(あやしき)事あるべき、いでや右引馬山の魔所へ行て酒呑んと、さゝへを持て終日呑暮し歸りけるが、角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ。武太夫方へも朔日より十六日迄毎夜怪異有て、家僕迄も暇を取退(とりのき)しが、右武太夫聊か心にかけず傑然としてありしが、十六日目に妖怪も退屈やしけん、扨々氣丈成男哉(かな)、我は三本五郎右衞門也と言ひて、其後は怪異もなかりしが、中にも絶(たえ)がたかりしは、座敷内へ糞土をまきしや、甚(はなはだ)嗅(くさ)く不淨なるにはこまりし由。右武太夫方に寄宿なしける小林專助といふ者、今は松平豐前守家來にてありしが、右專助より聞しと語りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。これは知る人ぞ知る驚天動地の妖怪絵巻「稲生物怪録」の採話であるが、聴き書きという特異性と、その内容が現在知られるストーリーとはかなり異なっている点が頗る附きで興味深い(相撲取が頓死すること・怪異の期間がほぼ半分に減じていること・絵にはし難い糞土の堪え難い臭気怪異の描写があること等々)。かく申す私も、泉鏡花が「草迷宮」の種本としたのを知って以来、多様な関連本を渉猟した「稲生物怪録」フリークである。御存じない方のために、取り敢えずはウィキの「稲生物怪録」を引いておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)。『江戸時代中期の寛延二年(西暦一七四九年)に、備後三次藩(現在の広島県三次市)藩士の稲生武太夫(幼名・平太郎)が体験したという、妖怪にまつわる怪異をとりまとめた物語』。著者は恐らくは稲生と同世代と思われる三好藩同役である『柏生甫であり、当時十六歳であった実在の三次藩士、稲生平太郎が寛延二年七月の一ヶ月間に体験したという怪異を、そのまま筆記したと伝えられている。あらすじは、肝試しにより妖怪の怒りをかった平太郎の屋敷にさまざまな化け物が三〇日間連続出没するが、平太郎はこれをことごとく退け、最後には魔王のひとり山本五郎左衛門から勇気を称えられ木槌を与えられる、というものである。平太郎の子孫は現在も広島市に在住、前述の木槌も国前寺に実在し、「稲生物怪録」の原本も当家に伝えられているとされる。現在は、三次市教育委員会が預かり、歴史民俗資料館にて管理している。稲生武太夫の墓所は広島市中区の本照寺にある』。『その内容の奇抜さから、「稲生物怪録」は多くの高名な文人・研究者の興味を惹きつけ』、『江戸後期に国学者平田篤胤によって広く流布され、明治以降も泉鏡花や折口信夫らが作品化している』。関連サイトも多いが、手っ取り早く絵巻の一部を見るのであれば、広島県立歴史民俗資料館HP内の「稲生物怪録と妖怪の世界-みよしの妖怪絵巻-」などがある。「たたり石」(中では岩と呼称)の画像を見られる「三好実録物語」の紹介動画「稲生物怪録」があり、また『青森県立郷土館特別展「妖怪展」関連資料「稲生物怪録」』の紹介動画では平田篤胤による文化八(一八一一)年の「稲生物怪録」を安政六(一八五九)年に今村真種が写しを入手、明治三(一八七〇)年になって友人平尾魯仙に依頼して原書の意そのままに画を書き足した明治一八(一八八五)年に完成したおどろおどろしい怪談画に洗練された(洗練され過ぎた)画像もある。なお、底本「耳嚢」の「卷之九」にはやはり「稲生物怪録」を元にした「怪棒の事」があるが、そこでは主人公を『藝州の家士、名字は忘れたり、五太夫は、文化五年八拾三歳にて江戸家鋪致勤番、至てすこやか成者』とし、怪異体験を『十五歳の時』、肝試しをする人物は『同家中に何の三左衞門』、山名も『眞定山』、妖怪の親玉の名を『石川惡四郎』と記し、末尾には『文化六年、齡七十斗にて勤番に出、直に噺けると、或人語りぬ』とある(この掉尾の叙述の年齢の齟齬はよく意味が分からない)。文化五年は一八〇八年で以下の注で見るように、実在した稲生平太郎の年齢よりも長命な上に、生年も先立つ享保十一(一七二六)年となる。これらは初期の稲生平太郎伝承の変遷を考える上で実に興味深い。またそこで考証したいと考えている。

・「藝州引馬山」「藝州ひくま山」現在の広島県三次市三次町の北端にある標高三三一メートルの比熊山(ひぐまやま)。頂上には中世末期の山城跡があるが、三次町「国郡志下調書出帳」によれば、これは天正一九(一五九一)年に三吉広高が比熊山の東方四キロメートルの地にあった比叡尾山城を移したものとされ、この山は当初、「日隈」の字を宛てていたものを、旧山城の名の「比叡尾」の「比」を取り、更に山容が熊の寝る姿に似るところから「隈」を「熊」に改めたとされる。近世の城郭に移行する直前の山城の形態を持った城で、俗に千畳敷と呼ばれる本丸跡や井戸・土塁・堅堀の遺構を残す。以上は、社団法人広島県観光連盟広島県観光HPの「比熊山」を参照したが、このページの解説と写真の下の方を見ると、この頂上付近にある「たたり石」(千畳敷にあり、これは本来は神様が宿る「神籠石(こうごいし)」と呼ばれるものが、転じて触ると祟りがあると言い伝えられた結果こう呼称される。本話で稲生武太夫と相撲取が酒を呑んだのはここであろう)への登山の際の注意書きがあるが、最後に『それから「たたり石」に触れたら麓のお店で「悪霊退散・平太郎紙太鼓」を買って帰りましょう』とあり、公的機関の記載の中のこれには、ちょいと吃驚するが、悪くない、いい感じだ。訳では実在する「比熊山」に変えた。

・「七尺」二メートル強。

・「三本五郎右衞門」これは後文で「三ン本五郎右衞門」と表記されることで分かるように「やまもと」ではなく「さんもと」と読む。これは人間界とは異なる妖怪世界の異人性を際立たせるために敢えてこうした普通でない読みをなしたものであろう。

・「稻生武太夫」三好藩藩士稲生平太郎は「物怪プロジェクト三次」の「稲生武太夫物怪録」勉強会の部屋』の記載によれば、生年を享保二〇(一七三五)年とし、没年を享和三(一八〇三)年とする(これだと享年六十九歳。三次市法務局三次支局の庭に建つ「稲生武太夫碑」には『宝暦七年二十五歳のとき諸国武者修行に出て、宝暦十三年五月三十一歳で帰藩した』とあり、これだと生年は享保一八年で二歳増す)。これが正しいとすれば、本巻の執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春には稲生平太郎は数え六十三歳で存命していたことになる。因みに根岸の生年は元文二(一七三七)年で稲生とは同世代である。

・「兼て懇意になしける角力取」前注のデータ元その他を見ると平太郎の隣人で知己の大関格の相撲取で、名を三井権八と言い、当時三十余歳とする。一つの伝本では、江戸帰りであったこの相撲取に三次武士の軟弱をなじられたことを肝試しの動機とする。

・「さゝへ」「小筒」「竹筒」と書いて「ささえ」と読む。酒を入れる携帯用の竹筒。

・「角力取は三日程過て子細はしらず相果ぬ」私の管見した複数の伝本では彼は死なない。

・「傑然」は、他から傑出しているさま、又は、毅然としているさま、の謂い。ここは後者。

・「中にも絶がたかりしは」「絶」底本では右に『(堪え)』と傍注する。彼はとっかえひっかえ起こる怪異には聊かも恐懼しなかったが、この糞便を撒き散らされた際の、その臭気にだけは閉口した、と語ることで超人的な豪胆さを逆に語るのである。これは知られた「稲生物怪録」の終盤で平生から嫌いな蚯蚓(みみず)が多量に出現するシーンに呼応していると言えよう。

・「小林專助」不詳。

・「松平豐前守」岩波版長谷川氏注によれば、松平勝全(まつだいらかつたけ 寛延三(一七五〇)年~寛政八(一七九六)年)。ウィキの「松平勝全」によれば、下総多胡藩第四代藩主で、大坂加番・江戸城馬場先門番を務めたが、寛政六(一七九四)年に病気を理由に家督を次男勝升に譲って隠居したとあり、この本文の「今は」という表現に拘るならば、本話を根岸がこれを誰かから小林専助本人が語ったものとして聴いたのは、勝全の死んだ寛政八(一七九六)年二月三日よりも前のこととなる。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 安芸国比熊山の妖怪の事

 

 安芸国比熊山の山内(やまうち)には決して立ち入ってはならぬ場所が御座る。

 そこには七尺ほどもある五輪塔に地水火風空と記したものがあり、そこの岩根には三本(さんもと)五郎左衛門と称する妖怪が巣食うておる、と語り伝えられておった。

 ここに三次(みよし)御家中の稲生武太夫と申す剛気の武士が御座った。かねてより懇意にしておった相撲取りと語らううち、

「今の世に怪異なんどと申すことの、あるびょうもあらず! さあ! 比熊山の魔所とやらへ行きて、酒でも呑もうぞ!」

と竹筒(ささえ)を持って登り、これ、日がな一日、酒を喰(くろ)うて日暮れに帰った。

 ところが、三日ほど過ぎて、如何なる訳かは知らざれど、かの相撲取り、ぽっくり逝ってしもうた。

 武太夫の方にても――その月の明けた朔日(ついたち)より十六日に至るまで――ぶっ通しで――毎夜毎夜――様々なる怪異が、これ、起こり――長く彼に附き従っておった家僕さえも暇(いとま)を願い出るや脱兎の如く逃げ退いたが――かの武太夫は、と言えば――度重なる驚天動地の怪異を――これ、聊かも気に掛けることのう、終始、毅然たる態度を以って動じずに御座った。

 すると――十六日目のこと――妖怪も、懼れを知らざる武太夫を、これ、すっかり持て余してしまったものか、突如、

――ヌッ!!

と、一人の偉丈夫が座敷に現われ、

「――さてもさて――気丈なる男じゃ! 我は――三本五郎左衛門である!――」

と名乗って、ふっと消えた。

 その後(のち)は怪異も絶えたと申す。

 武太夫曰く、

「……この半月の間の変化(へんげ)の中(うち)にも、そうさ、唯一つだけ堪えがきものが御座ったが、それは……座敷内(うち)へ糞便の混じった土でも撒いたものか……いや、あの折りの、鼻の曲がるような、曰く言い難き臭さと、その場の不浄なるさまだけは、これ、大いに困って御座ったよ……」

とのことで御座った。

 以上は、私の知れる者が、武太夫方に寄宿して御座った小林専助と申す者――今は松平豊前守勝全(かつたけ)殿の御家来衆にて御座る由――より聞いた、と語って呉れたもので御座る。

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