一言芳談 十一
十一
有云、尺摩訶衍論(しやくまかえんろん)の中(うち)に、一室に二人とも住(すむ)べからず。たがひになやまし、道を損ずるがゆへなりといへり。
(一)釋摩訶衍論、釋論第八云、言獨一不共因緣者、謂若爲修彼止輪門、一界内中二人共住不得理故、所以者何、互動煩故(釋摩訶衍論、釋論第八に云く、獨一不共因緣と言ふは、謂はく若し彼の止輪門を修せん爲めには、一界内の中に二人共、住すれば、理を得ざるが故に、所以者何となれば、互ひに動煩するが故に)。
[やぶちゃん注:「尺摩訶衍論」湛澄が注するように「釋摩訶衍論」が正しい。伝龍樹作で十巻から成る大乗起信論の註釈書。実際には八世紀前半に中国仏教圏で華厳教学を背景に成立したもの。日本に伝えられると空海がこの論の中にある密教の要素に着目、真言密教を体系化することを目的として大乗仏教と密教との峻別の典拠としたため、真言教学史の中では特に重視されてきた仏典である(以上はウィキの「釋摩訶衍論」に拠る)。
(一)全文漢文で訓点があるのを、やや送り仮名を附して訓読した。以下に注す。
・「釋論」は「釋摩訶衍論」のこと。
・「獨一不共因緣」は「獨一にして因緣を共にせず」の謂い。
・「止輪門」修行悟達の階梯の一つと思われるが不詳。識者の御教授を乞う。
・「一界内」は「いつかいだい」と読むか。
・「所以者何となれば」は「ゆゑはいかんとなれば」と読む。通常の漢文訓読では「ゆゑんのものはなんぞや」で通常の漢文ならば「所以」と「者」の間に「所以」の内容が挿入されるが、仏典では「所以者」という形が許容される。参照した松本淳氏の「日本漢文へのいざない」の「第一部 日本文化と漢字・漢文 第五章 読解のための漢文法入門 第4節 特殊な短語 (13)所字短語9 所者短語2 所謂と所以」によれば、これは『サンスクリット原典の調子を翻訳にも再現しようとした苦心のあとなのだと思』われると述べておられる。
・「動煩」「ドウハン」と音読みしているか。「心が乱れて(動)俗念に心を惑わす(煩)」の謂い。]
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