北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート6〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
その中に金剛甥當が子息下須房(かすばう)太郎秀方(ひでかた)生年十三歳になりけるが聞ゆる大力の兵にて、只一人蹈止(ふみとどま)り、押掛(おしかゝ)る寄手に馳合(はせあ)うて、當るを幸(さいはひ)に切(きり)ければ、我は甲(かぶと)の眞額(まつかう)を喉(のんど)まで打割り、或は鎧をかけて胴切にし、膝を薙伏(なぎふせ)せ、首を打ち落す。孟賁(まうほん)が勢を以て趙雲(てううん)が膽(たん)を張る。寄手大勢なりといへども、秀方一人に切立てられ、辟易して見えし所に、小山行光が郎等藤五郎行長進寄(すゝみよ)りてむずと組み、その容顔(ようがん)の美麗にして幼稚なるを見て、強力(がうりき)の年にも似ざるを感じながら、良(やゝ)久しく組合(くみあ)うて、遂に是を討取りたり。金剛別當秀綱は目の前に子を討たせて、なじかは生きてかひあらんと獅子奮迅の怒(いかり)をなし、敵を撰ばず切て廻る。既に氣疲(きつか)れ、力撓(たわ)みて、小山七郎朝光に組まれて、遂に首をぞかかれける。
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の続き(後は以下の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。(前略)
其中金剛別當子息下須房太郎秀方。〔年十三。〕殘留防戰。駕黑駮馬。敵向髦陣。其氣色掲焉也。工藤小次郎行光欲馳並之剋。行光郎從藤五男。相隔而取合于秀方。此間見顏色。幼稚者也。雖問姓名。敢不發詞。然而一人留之條。稱有子細。誅之畢。強力之甚不似若少。相爭之處。對揚良久云々。(後略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。(前略)
其の中に金剛別當が子息下須房太郎秀方〔年十三。〕殘り留まりて防戰す。黑駮(くろぶち)の馬に駕し、敵に髦(たてがみ)を向けて陣す。其の氣色、掲焉(けちえん)なり。工藤小次郎行光、馳せ並ばんと欲するの剋(きざみ)、行光が郎從藤五男、相ひ隔たりて秀方に取り合ふ。此の間(あひだ)、顏色を見れば、幼稚の者なり。姓名を問ふと雖も、敢へて詞を發せず。然れども、一人留まるの條、子細有りと稱して之を誅し畢んぬ。強力の甚しきこと若少に似ず、相ひ爭の處、對揚すること良(やや)久しと云々。(後略)
・「下須房太郎秀方」諸資料の読みでは「かすぼう」とも「かすほ」ともともある。「かすふさ」でもよさそうである。――puer eternus――プエル・エテルヌス――私としてはこれ、独立して示してやりたかったのである。
・「其の氣色、掲焉なり」「掲焉」は既出。その気迫たるや、一目瞭然である、の意。
・「藤五男」ある資料の読みでは「とうごおとこ」とあるが、私は「とうごだん」と読みたい。
・「子細有り」相応の覚悟を持った名将の子息ならん、と。
・「對揚すること」対等に組み戦うこと。]
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