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2012/11/07

耳嚢 巻之五 あすは川龜怪の事

 あすは川龜怪の事

 

 越前福井の家中に、名字は何とか言し、源藏といへる剛勇不敵のおのこの者ありしが、右不敵の志(こころざし)故國詰申付ありて福井へ至りしに、右福井にあすは川といへる有、九十九(つくも)橋迚(とて)大橋有しが、右川に大き成(なる)龜住て人を取る事もありし由。然るに源藏或日かの九十九橋を渡りしに、誠に尋常にあらざる大龜川の端に出居(いでゐ)たりしを、かれ人をとる龜ならん、憎き事也と刀を拔持(ぬきもち)て、裸に成て右河中へひたり、難なく右龜を屠(ほふ)り殺して、其邊の民家を雇ひて引上げ、殼は領主へ差上、肉は我宿へ持歸りて酒の肴にせんと、召仕ふ主人より附人(つけびと)の中間へ調味の儀申付晝寢せしが、彼中間つくづく思ひけるは、かゝる大龜なれば毒も有べき間、主人へ奉らんも如何なれば、川へ捨て其譯を申さんと、則(すなはち)捨(すて)て後主人へ語りければ、源藏大に憤りて、情なくも右中間を切殺しぬ。然るに大守より附人なれば、源藏取計ひ不埒也とて、預けに成(なり)て一室に押込られ居たりしが、かゝる剛氣の者ながら大守の咎(とがめ)に恐れ入(いり)て少し心も弱りしに、源藏ふせりし枕元へ深夜に來る者有て、一首の歌をよみて、

  暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧

源藏が頭を敲く者あり。其痛(いたみ)たへがたければ起上るに行方なし。かゝる事二夜程なれば源藏も心得て、歌を吟ずる折から頭をはづし枕をさし出せしに、右枕は微塵にくだけける故大きに驚きけるが、右の趣大守へ聞へければ、大守聞給ひて、それは不思議なる事也、源藏が殺せしは雄龜にて、雌龜の仇をなす成(なる)べしとて、一首の返歌を詠じ給ひ、封じてあすは川へ流し給ひければ、其後は源藏へも仇をなさゞりし由。源藏も夫より節を折(をり)て實躰(じつてい)に歸りければ、巧(たく)める惡事にもあらずとて、大守よりも咎ゆりて無滯(とどこほりなく)勤仕(ごんし)しけると也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:本格怪奇譚で連関。この九十九橋は柴田勝家は,信長の死後,要領の良い羽柴秀吉に北ノ庄で滅ぼされた。

・「あすは川」足羽(あすわ)川。福井県今立郡池田町と岐阜県県境にある冠山(かんむりやま)を水源として北流、福井市に入って西に向きを変え、福井市中心部を通って同市大瀬町付近で九頭竜川水系日野川に合流する。

・「越前福井の家中」福井藩三十二万石。藩主は越前松平家。越前藩とも呼ばれる。

・「九十九橋」福井県福井市の足羽川下流部に架かる北国街道の橋。戦国期以来、福井城下の足羽川に唯一架かる橋であり、北半分が木造、南半分が石造りの橋として有名であった(参照したウィキの「九十九橋」にある「ゑちぜんふくゐの橋」の絵。半石半木の構造がはっきりと描かれている)。この特異な構造については、福井の城下町に近い北側を壊し易い木造にすることで、敵の侵入をしづらくするためとする防衛説の他、石造であると橋桁数が多くなって水流を妨げるため、当時の通常時の主流域部分に相当する河川敷の北半分を加工がし易く、且つ軽いために桁数を減らせる木材で架橋した、とする土木技術面での説がある。なお、長さが八十八間(約一六〇メートル)であったことから米橋とも呼ばれた。この記述から推測するに、百間に満たないことから「九十九」(「つくも」の語源は「づぐもも」=「次百」の約とも言われる)でと命名されたものであろう(一部のネット記載の中には金沢の河川には多くの橋があることからの命名というもあるが、上記の通り、足羽川では唯一架かる橋であるから呼称としてはやや不自然であるので採らない)。なお、この橋には本話とは異なる二つの怪談が伝えられている。大魔王氏の「超魔界帝国の逆襲」の「九十九橋」などによれば、この橋は戦国時代の勇将柴田勝家が天正六(一五七八)年三月に織田信長の命により築造したものであるが、その架橋の際に勝家は石工頭の勘助という男に、石材四十八本を切り出すよう命じ、もし期限までに納付出来ない場合は死罪に処すると申し渡した。ところが勘助は四十七本までは切り出せたものの、残りの一本は寸法が短く柱に適さなかった。病いに臥せっていた勘助の母はそれを知って、「私の命は残り少ないから、用意した石棺の中に生きながらに私を入れ、その石棺を台として柱を立てれば、寸法の不足を補う事が出来よう。」と自ら人柱になると申し出、勘助は泣きながら母親の意に従ったという。この人柱は、旧橋の水際から西南二本目の柱と伝えられている。また、架橋を命じた柴田勝家は信長の死後、羽柴秀吉によって北ノ庄で滅ぼされたが、その勝家の命日に当たる旧暦四月二十四日の丑三つ時になると、柴田軍の首の無い武者たちの行列がこの橋を渡るという噂が現在もあるとし、その行列を見た者は、一年以内に高熱を発して死ぬとも伝えられているそうである。この前の人柱伝承からは「九十九」は橋脚が「一本足りず」(=「九十九」)人柱を建てた、という謂いにもとれるように思われるが、如何?

・「預け」刑罰の一つ。罪人を預けて一定期間監禁謹慎させること。預かる人によって大名預け・町預け・村預け・親類預けなどの別があった。

・「暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧」分かり易く書き直してみると、

  暮毎(くれごと)に訪(と)ひ來(こ)しものを足羽(あすは)川明日の夜波(よなみ)のあだに寄るらむ

か。「あすは川」から男(雄亀)を殺された「明日」(翌日来)を引き出し、「夜波」は「夜」と「寄(る)」を掛け、「あだ」は「空(あだ)」(空しい)と夫を殺された「仇(あだ)」をも掛けるか。「らむ」は婉曲である。

――昨日まで夜毎に愛しい人が通って来てくれた……しかし、あの日の、明けた次の夜(よ)からはもう、寄り呉るる者とてもなくなった……ただ、あだ波だけが寄せてくる……私は……あなたに仇(あだ)を討つ……

・「咎ゆりて」の「ゆり」は自動詞ラ行上二段活用の動詞「許(ゆ)る」で、許される、の意。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 あすわ川の亀の怪の事

 

 越前福井の御家中に――名字は何とか申したが、失念致いた――源蔵と申す剛勇不敵の男が御座った。その比類なき剛毅と主家忠信が買われ、特に国詰を申し付けられて福井御城下へと召されて御座った。

 さて、当地には足羽(あすわ)川と申す川があり、そこに九十九橋(つくもばし)とて大きなる橋が掛かって御座ったが、この川には、これ、大きなる亀が巣食うており、橋を渡る人を襲ってはそれを喰らう、との専らの評判で御座った。

 ところが、ある日のこと、源蔵、この九十九橋を渡ったところ、誠に尋常ならざる大亀が、これ、川端に出でて甲羅干しをしておるのを見つけた。

 源蔵、

「奴(きゃつ)めが、人を喰らう亀ならん! 憎(にっくき)きことじゃ!」

と、刀を抜き放つや、裸になってかの川中に飛び込むと、一刀のもと、亀を屠(ほふ)り殺してしまった。

 そうして、近所に住む町人どもを雇い入れ、川より亀の遺骸を引き上げると、

「奴(きゃつ)の甲羅は殿へ差し上げ、肉は我らが屋敷に持ち帰って酒の肴に致さん。」

と言上げ致いて、立ち帰って御座った。

 屋敷に着いた源蔵は、召し使って御座った附け人の中間――彼は殿より直々に附け下された附け人で御座った――に調理の儀を申し付けると、自分は昼寝をしに奥へと入った。

 しかし乍ら、この中間、つくづく思うことには、

『……かかる年経(ふ)りて人馬をも喰らう妖しき大亀なれば……これ、その身に毒のあらんとも限らぬ。……そのような危うきものをご主人さまへ肴として差し上ぐるも如何なれば……川へ捨てて、かくも思慮致いた故と申し上ぐるが、よかろう。』

と、そのまま亀の肉を捨てて、昼寝より目覚めた源蔵にことの次第を語ったところが、源蔵、烈火の如く憤って、非情にも、即座に、その中間を一刀のもと、斬り殺してしまった。……

 然るに、この中間、殿直々に下された附き人で御座った故、

「――源蔵が取り計らい、これ、不埒千万!」

とて、預けと処断され、源蔵は御家中の家士が屋敷の一室に押し込めらるる仕儀と相い成った。

 源蔵も――かかる剛毅の者乍ら――流石に殿のお怒りと、そのお咎めに恐れ入って、すっかり消沈して御座った。……

 ところが、そんなある夜のことで御座った。

……源蔵が寝ておる枕元へ深夜、立ち来たる者がある。

……そうして、その者

  暮毎にとひ來しものをあすは川あすの夜波のあだに寄覧

……と、一首の歌を詠むそばから……源蔵の頭を

――ゴッ! ゴッ!

……と叩く。

……その痛みたるや、とてものことに耐え難きものなればこそ

――ガバッ!

と、起き直って見るも

……そこには……誰も……御座らぬ。……

 かかる仕儀が二晩も続いたによって、三日目の夜(よ)、源蔵も心得て、かの妖しき者の出来(しゅったい)致いて、歌を吟じ始むると同時に、枕より頭を外すと、その枕を打ち下ろして参ると思しい方へと向けたところが、枕は

――バリバリッ!

と音を立てて粉微塵に砕け散って御座った。

 流石の源蔵も吃驚仰天、文字通り、胆を冷やいて、明け方まで、まんじりともせず、起き直って御座ったと申す。……

 尋常ならざることなればこそ、翌日にも、この一件は殿のお耳へも達することと相い成ったが、殿は、

「それは不思議なことじゃ……源蔵が殺いたは雄亀にて、連れあいの雌亀が仇をなしに参ったに、これ、相違ない。」

と申され、殿ご自身、一首の返歌をお詠み遊ばされ、これを書き封じた奉書を足羽川にお流しになられたところ――その後は源蔵のもとへも仇(あだ)をなす如き怪事は、これ、絶えてなくなって御座った。

 源蔵も、それより、暴虎馮河非情無比の性(しょう)を正いて、実直なる質(たち)に自らを矯(た)めたが故、

「――悪逆非道の性根より成した所行にては、これ、あらず。」

と、殿よりもかのお咎めへのお許しも御座って、その後、滞りなく、忠勤致すこと、これ、出来申した、との由にて御座る。

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