一言芳談 十八
十八
又云、居所(きよしよ)の心にかなはぬはよき事なり。此処にかなひたらんには、われらがごとく不覺人(ふかくじん)は、一定執着(いちぢやうしふぢやく)しつとおぼえ候なり。
〇一定、さだめて執着(しふぢやく)すべし。
[やぶちゃん注:岩波版では最後が「一定執(いちぢやうしふ)しつとおぼえ候なり。」となっている。『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』及び国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像によって訂した。
「不覺人」覚悟のできていない人。不心得者。ここでは、仏法の「覺」(悟り)に対する「不覺」であるから凡夫の意味でよい。「ふかくにん」とも読むが、『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』は「じ」、国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の国立国会図書館デジタル・ライブラリー版の同慶安元年林甚右衛門版行版現物画像の草書崩し字はどうみても「し」で「に」ではない。――さてもこの章は訳したい。
〇やぶちゃんの現代語訳
また、明禅法印はこうも云われた。
「……住んでいるところに満足しないことはよいことである。「住んでいるところに満足している」と思ってしまうと、我々のような凡夫の場合は、そこ――「満足している住んでいるところ」――即ち――現世――に必ずや、逆に執着してしまうに違いない、と思われるからで御座る。……」
これは一種の鮮やかなパラドックスである。住むことに住居に満足しないというのは住居への執着のように見え乍ら、そのじつ「住居」はその外縁を大きく広げて「現世」を住居と見る時、それは執着を捨てるという無限遠に広がるのである。]

