耳嚢 巻之五 道三神脈の事
道三神脈の事
或醫の語りけるは、道三(だうさん)諸國遍歷の時ある浦方を𢌞りしが、一人の漁家の男其血色甚(はなはだ)衰へたるある故、其家に立寄家内の者を見るに何れも血色枯衰せし故、脈をとり見るにいづれも死脈なれば、其身の脈をとりて見るに是も又死脈也。大きに驚きかく數人死脈のあるべき樣なし。浦方なれば津浪などの愁ひあらん。早々此所を立去りて山方へ成共(なりとも)引越すべしと、右漁夫が家内を進めて連れ退(のき)しが、果して其夜津浪(つなみ)にて右浦の家々は流れうせ、多く溺死せるもありしとや。病だに知れがたきに、かゝる神脈は誠に神仙ともいふべきやと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。動物予知で、「卷之一」の「人の運不可計事」などの話柄の場合は、何か無惨ながらもしみじみと読めるのであるが、東日本大震災以降、このような人の予知手柄の話柄には私は、何か、激しい嫌悪を感じるとだけ言っておく。
・「道三」曲直瀬道三(まなせどうさん 永正四(一五〇七)年~文禄三(一五九四)年)は戦国時代の医師。道三は号。諱は正盛(しょうせい)。父は近江佐々木氏庶流堀部親真であったが幼少の頃に両親を亡くし、永正一三(一五一六)年、五山文学の中心である京都相国寺に入って喝食(かっしき)となり、詩文や書を学んだ(この頃、姓を曲直瀬とした)。享禄元(一五二八)年、関東へ下って足利学校に学び、ここで医学に興味を抱いたとされる。名医として知られた田代三喜斎と出会い、入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修めた。天文一五(一五四六)年に上洛すると還俗して医業に専念、将軍足利義藤(義輝)を診察し、その後も京都政界を左右した細川晴元・三好長慶・松永久秀などの武将にも診療を行い、名声を得て、京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。永禄九(一五六六)年、出雲月山富田城の尼子義久を攻めていた毛利元就が在陣中に病を得た際、これを診療しており、天正二(一五七四)年には正親町天皇を、織田信長の上洛後は、彼の診察も行って、名香蘭奢待を下賜されている。「啓迪集」「薬性能毒」「百腹図説」等の著作も数多く、数百人の門人に医術を教え、名医として諸国にその名を知られた。天正一二(一五八四)年には豊後府内でイエズス会宣教師オルガンティノを診察、それを契機としてキリスト教に入信して洗礼を受け、洗礼名ベルショールを授かっている(以上はウィキの「曲直瀬道三」に拠る)。なお、底本の鈴木氏の注には子の正紹(玄朔 天文九(一五四〇)年~元和八(一六二二)年)が後を継いでおり、『彼も勅命にによって道三と号し、法印にのぼった』とあり、『父子ともに教養人で一級の医家であった。ここは父子どちらともいえないが、諸国遍歴の話は仮託であろう』と唾を附けておられる。その方が、彼らの名誉のためにもよいと私は思う。
・「神脈」神懸かったような脈診。
■やぶちゃん現代語訳
曲直瀬道三の神脈の事
ある医師が語る。
……かの曲直瀬道三(まなせどうさん)殿が、若き日の諸国遍歴の折りから、ある浦辺の村へと辿り着いた。
そこの一軒の家の前に御座った一人の漁夫、その血色、尋常でのう、甚だ衰えておるように見えたによって、道三、その男の家内(いえうち)に立ち寄り、医師なる由、告げた上、家内の者どもの様子を診たところが、これまた、何れもその血色土気色(つちけいろ)となりて、すっかり憔悴致いておる故、まずは、と脈をとって見たところが……
――これ――殆ど御座ない!……
……妻なる者の手首をとるも……
――同じように、ない!……
……若き子(こお)たちのそれを診るも……
――これも――これも――ない!……
……爺(じい)や婆(ばば)のそれも……
――これもまた、微かにしか御座ない!……
――これ――孰れも――「死脈」――である――
されば道三、咄嗟に我が身の脈を、とった……
……と……
――これもまた――纔かしか御座ない!!……
道三、大いに驚き、
「かくの如く、在りと有る人々が、偶々、死脈となることなんど、これ有り得ようはずも御座ない!!……浦近きところなればこそ、津波なんどが襲来致す懼れ、これ、有らんと存ずる! 騙されたと思うて、我らもろとも、早々にここを立ち去り、山の方へなりとも引き移るが賢明じゃ!!」
と、かの漁夫一家を頻りと説得致いて、ようよう山方へと連れ退いたところ……
――その夜(よ)
――果たして大津波が襲来致いて、かの浦の家々は悉く流れ失せ、多くの、溺れ死に致いた者が出たと申す。……
「……この小さな身内に潜む、目(めえ)に見えぬ病いでさえ……我ら凡庸なる医師にては、はっきりと診断致すこと、これ、至難の業なるに……かくも驚くべき神懸かった脈診をなさるるとは……まっこと、医聖道三翁、これ、神仙とも言うべき存在にても御座ろうほどに……」
と語って御座った。
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