北條九代記 勝長壽院造立
〇勝長壽院造立
木曾冠者義仲京都に入て、平家追落の賞として、左馬頭に補(ふ)せられ、押して征東大將軍となり、悪行頗(すこぶる)平家に越えたり。賴朝是を聞きて舍弟蒲(かばの)冠者範賴、九郎義經に六萬餘騎を差添へて上洛せしむ。義仲打負て、都を落ち、江州勢多の邊にて郎等皆討たれ、粟津原(あはづのはら)にして流矢にあたりて死す。年三十一歳なり。範賴、義經二手に成て、一の谷に向ひ、義經搦手(からめて)より後の山を廻り鴨越(ひよどりごえ)より攻入て火を放つに、平家敗軍し、通盛、忠度、敦盛等討死す。三位中將重衡は生捕られ、先帝、建禮門院、淸盛の後室二位の禪尼は宗盛、知盛、教盛、教經等に伴ひ、讃岐國屋嶋に赴きたまふ。義經四國を平げて、長門國に赴く。阿波民部重能降参す。平家敗軍して、舟に取乘(とりの)り、赤間が關檀の浦にして戰ひ破れ、二位の禪尼は寶劍を腰に差し、先帝を抱き奉りて、海底に沈み、知盛、教盛、教經等皆悉(ことごとく)身を沈め、宗盛、淸宗、建禮門院は生捕られ、平家此所に滅亡す。時に元曆二年三月二十四日なり。九郎義經生捕を連れて、鎌倉に下る。建禮門院は都に捨てられ、大原の芹生(せりふ)に引籠りて尼になり、阿波内侍と共に行ひ給ふ。義經は自立(じりふ)の心ありとて、腰越より追返(おひかへ)され、宗盛父子を江州の篠原にて是を斬り、我が身は西海に赴かんとせしかども、風波荒くして、叶はず。奥州に下りて、衣川の城に居住す。秀衡死して後に文治五年閏四月賴朝の仰によりて、泰衡が爲に自害せらる。生年三十一歳、その郎從十餘人皆此所に討死す。去年壽永二年の冬後白河法皇より故主馬頭義朝竝に鎌田兵衞政淸が首級を東の獄門より尋ね出して鎌倉に下させ給ふ。賴朝大に喜び給ひて、自ら鎌倉の勝地を求め、十一月に鶴ヶ岡の東に方(あたつ)て、勝長壽院を建立し、佛工定朝(ぢやうてう)に仰せて、丈六金色の彌陀の形像(ぎやうざう)を作らしめ、大伽藍の造營落慶供養あり。義朝、政淸が首級を葬り、佛事作善(さぜん)殊更に精誠を盡し給ひけり。
[やぶちゃん注:「芹生」は現代音「せりょう」と読み、現在の京都市左京区大原の西方、大原川(高野川)の西岸にある草生の南の古名。
「十一月に鶴ヶ岡の東に方て、勝長壽院を建立し」前の部分に「去年壽永二」(一一八三)年とあるのを受け、ここはその翌年、改元して元暦元(一一八四)年の「十一月」である。但し、「十一月」二十六日に行われたのは土地に縄張りをして基礎造りを始める地曳始の儀(地鎮祭)で、その後、文治元(一一八五)年二月十九日に事始め(本格起工)が行われ(ここで「吾妻鏡」は本建物を『南御堂』と呼称している)、同四月十一日が立柱(起工式)が行われ、五ヶ月後の九月三日に義朝と鎌田正清の首級が、ここ『南御堂の地に』埋葬されたとある。成朝作の阿彌陀本尊が安置されたのは同十月二十一日で、この頃は堂と門が立っていたに過ぎなかったと考えられている。
「定朝」成朝(せいちょう)の誤り。定朝は平安後期の仏師で、成朝はその流れを汲む。
「丈六」これは仏像用語で、これで一丈六尺の意。釈迦の身長が一丈六尺(約四・八五メートル)であったとされるのに因む。座像の場合は半分の八尺に作るが、それも丈六と言う。]