生物學講話 丘淺次郎 第五章 食はれぬ法 四 嚇かすこと~(1)
四 嚇かすこと
[「かに」が威嚇する態]
敵が攻めて來たときにまづ示威的の擧動を示してこれを退けんとするものがある。鼠の如き小さなものでも、追ひ詰めると嚙み附きさうな身構へをして、一時敵を躊躇させ、その間に隙を窺つて急に逃げ出すが、大概の動物はこれに似たことをする。龜や貝類の如き厚い殼を具へたもの、「くらげ」・珊瑚・海綿の如き神經系の發達して居ないものなどは別であるが、その他の動物は、たとひ日頃弱いものでも危急存亡の場合には威嚇的の態度をとるもので、それが隨分功を奏する。折角摑まへた蟲が食ひ附きさうにするので驚いて手を放し、蟲に逃げられてしまふといふやうなことは、動物を採集する人でなくとも、子供の頃の經驗でよく知つて居るであらう。「べんけいがに」や「いそがに」なども、これを捕へようとすると兩方の鋏を差上げ、廣く開いて今にも挾みさうにしながら逃げて行く。「えび」の類も敵に遇ふと、その方へ頭を向け威張つて睨みながら徐々と退却する。また敵を嚇かすには身體を大きく見せて威嚴を整へることが有功であるから、「ひきがへる」などは敵が來れば空氣を腹に呑み入れて、體を丸く膨ませる。「ふぐ」類が食道に空氣を詰め込んで、球形に膨れるのも、やはり護身を目的とする一種の示威運動である。
[やぶちゃん注:「べんけいがに」軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目短尾)カニ)下目イワガニ上科ベンケイガニ科ベンケイガニ
Sesarmops intermedium。
「いそがに」イワガニ上科モクズガニ科
Varuninae 亜科イソガニ Hemigrapsus sanguineus。岩礁や転石海岸の潮間帯・潮下帯に棲息し、我々が海で見かける最も一般的なカニの一種。]
[蛾の幼蟲]
この種の運動で特に面白い例は蝶蛾類の幼蟲に見られる。「すずめてふ」〔スズメガ〕・「せすぢすずめ」などの幼蟲は大きな芋蟲であるが、その中の一種では頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである。子供らはこれを目といふが、無論眞の眼ではない。しかし敵に遇へば、この芋蟲は體の前部を縮めて短く太くするから、以上の斑紋は恰も眼玉であるかのやうに見え、全體が怒つた顏のやうになる。小鳥や「とかげ」などは驚いてこれを啄むことを斷念し、よそへ餌を求めに行くから、芋蟲は命を拾ふことになる。或る人が試にこれを鷄に與へた所が、牡雞でもこれを啄むことを躊躇したものが幾疋もあり、終に一匹が勇を鼓してこれを食ひ終つた。されば強い敵に對しては、一時これを躊躇せしめるだけの功よりないが、稍々小さな敵なればこれを恐れしめて首尾よくその攻撃を免れることが出來る。かやうな蛾の幼は眼玉の如き斑紋のないものでも、敵に會へば急に體の前部を縮めて太くしたり、反り返つて腹面を見せたりして、敵を嚇かさうと試みる。
[やぶちゃん注:「すずめてふ」昆虫綱鱗翅(チョウ)目スズメガ科 Sphingidae に属する種群を指しているように思われる。なお、同科は、
ウチスズメ亜科 Smerinthinae
スズメガ亜科 Sphinginae
ホウジャク亜科 Macroglossinae
に分かれ、世界では一二〇〇種ほどが知られている。成虫・幼虫共に比較的大型になり、成虫の四枚の翅は体に対して小さく、三角形になっていて、高速で飛行する。また同科の幼虫は「尾角」と呼ばれる突起を持っており、ウィキの「スズメガ」には、『体型は非常に特徴的で、多くが腹部の末端に「尾角」と呼ばれる顕著な尾状突起を有している。その為英語圏ではスズメガの幼虫を horned worm (角の生えた芋虫)と称す。尾角の形状・色は種類によって異なるが、その用途は良く分かっていない』とするが、『体色は多様で、食草に良く似た緑色をしたものや褐色のもの、黒色のものなどが存在する。また、同じ種の幼虫でも同じ体色を有すとは限らず、個体差が顕著に現れる事も多い。例えばホシヒメホウジャク
Neogurelca himachala
sangaica やエビガラスズメ Agrius convolvuli、モモスズメ Marumba gaschkewitschii
echephron などは、個体により顕著な体色の相違が現れる。また、ビロードスズメ Rhagastis mongoliana などの幼虫は眼紋を腹部に持つ』とある。「みんなで作る日本産蛾類図鑑」の「ビロードスズメ Rhagastis
mongoliana (Butler, 1875)」のページにある強烈な幼虫画像と本書の上記挿絵を比較すると、非常に良く似ており、丘先生がここで「頭から第四番目の節の邊に眼玉の如き著しい斑紋が左右一對竝んである」というのは、このビロードスズメ
Rhagastis mongoliana である可能性が極めて高いものと思われる。少し意外なのはウィキの記載が尾角の機能を『良く分かっていない』とするところであるが、一般に蝶や蛾の眼紋が一種の擬態であることは広く知られているので、ここは突っ込まないことにしたい(昆虫類は既に述べている通り、私の守備範囲でなく、実は生理的に苦手でもあるので)。
「せすぢすずめ」スズメガ科ホウジャク亜科コスズメ属セスジスズメ
Theretra oldenlandiae
oldenlandiae。ウィキの「セスジスズメ」によれば、『成虫はハンググライダーのような翼形をした、茶色いガで』、前翅に暗褐色と肌色の帯が入り、背中には二本の肌色の筋が縦に走る。『幼虫は、いわゆるイモムシと表現される体型で、全体が黒っぽく、気門より少し背側にオレンジか黄色の連続した眼状紋を持つ。付け根がオレンジで先端が白い尾角を持ち、歩く時は尾角を進行方向に平行に振る。非常に珍しいが、黄緑色の幼虫も存在する』とある(リンク先に眼紋の鮮やかな幼虫の写真有り)。『セスジスズメの幼虫は作物の葉を食い荒らす害虫であり、成長スピードが非常に早く、数日で数倍の大きさに成長』し、数日にして『畑が全滅することもある』と記す。]
[うちすずめ]
「うちすずめ」と稱する蛾は、後翅に蛇の目狀の大きな黑い斑紋がある。翅を疊んで居るときは、前翅に被はれて居て少しも見えぬが、敵に遇ふと急に翅を二對とも廣く開くから、後翅の表面が現れ、遽に紅色の地に大きな眼玉の如きものが二つ竝んで見えるので、小鳥などは膽を潰して逃げる。これも強い敵をも防ぐといふわけには行かぬが、一部の敵に對しては十分に身を護るの役に立つことである。蛾の類には、前翅が目立たぬ色を有するに反し、後翅が鮮明な色彩と著しい斑紋とを呈するものが隨分多いから以上の如きことの行はれる場合は決して稀ではなからう。
[やぶちゃん注:「うちすずめ」スズメガ科ウチスズメ亜科ウチスズメ Smerinthus planus planus。「みんなで作る日本産蛾類図鑑」の「ウチスズメ Smerinthus
planus planus Walker, 1856」の解説と画像を参照されたい。こりゃ、凄いわ。]