「仮名手本忠臣蔵」という祝祭又は生贄の原初的美学或いは女性文学としての「仮名手本忠臣蔵」像について 附 文楽の属性たるウィトゲンシュタインの鏡像理論
月曜から火曜、大阪国立文楽劇場に於いて「仮名手本忠臣蔵」の通し狂言を始めて見る。
〇アリア 塩谷判官切腹の段――「遅かりし由良之助」ではなく「ヤレ由良之助、待ちかねたわいやい」であることの意味――
それは幕藩体制下に於ける国家による都合のいい経済的統制を目的とした、合法の強制組織集団抹殺の事実の提示である。国家は常にそれを強いることで幻想の「国家」自身の存在の自己保全を図ろうとする(それは現代の政治でも全く以って同じことであることは今の原発事故以後の日本を見れば一目瞭然である)。
そこで、腹を切るに至る塩谷判官のシークエンスが仔細に描写されるが、それはたかが一個の惨めでちっぽけな存在としての「一個の人間の死」が――されど「一個の死」として世界に革命を起こすという予兆が示される。
大星由良之助の参上を待ちに待って遂に腹に小刀を突き立てた瞬間、由良之助が到着するが、それは正に「仮名手本忠臣蔵」という『祝祭』のための、確かな始まりなのであって、塩谷にとっては、それは「遅かりし由良之助」なのでは、断じて、ない。
正しく祭りの最初の血の開花が、そこに揚がるところの、その絶妙のタイミングに合わせて大きな星が煌めくように図られているのであり、塩谷にとっては、
「待ちかねたわいや、よくぞ参った由良之助」
という快哉以外の何ものでもないのである。
この瞬間、「仮名手本忠臣蔵」という神話は起動する。
この――公なるが故に、理不尽極まりなく無効な「生贄」としての死者塩谷判官を中央に据えたシークエンスとしての構図が――ここに「仮名手本忠臣蔵」という民衆の神話の、驚くべき構造主義的祝祭の始まりとして鮮やかに起動するのである――。
〇第一変奏 早野勘平腹切の段――勘平は糞の「葉隠」ぢやあないが死んで生きるといふパラドクス又は女は総て巫女なること――
伝承の四十七士の中には幽霊がいる。史実では刃傷事件の第一報を赤穂へもたらし、義盟に加わるも家族から再仕官を勧められて板ばさみになり自害した萱野三平重実である。本話の早野勘平のモデルであることは言わずもがなだが、会場で行われていた「忠臣蔵資料展」の絵図に、下半身が透けた姿で描かれている彼を見た時、言い知れぬ感慨が僕の胸を叩(う)った。
彼も塩谷同様――否――公的に葬られる有名の塩谷判官と対等に――無名の猟師に流浪した勘平は――確かに等価なものとして――舞台の中央で――塩谷と同じく腹に小刀(さすが)を突き立てて自害する――その自害は正に塩谷と同じか、それ以上の高速度撮影の如き時間の延長の中でしみじみと描かれるのである。
しかも彼は愛する妻「おかる」と、その直前に理不尽にも別れ、女郎に売られる彼女を――「おかる」の父を殺した(という誤認の強烈無惨な)自責の念を押し隠しながら黙って送る――のである!
これは公的に抹殺された塩谷の慚愧の念を遙かに超えるものだ!(そしてそれを観る我々は既に知っていて、しかも我々観客は、恐るべきことに(!)何も出来ずに、手を拱いて見るばかりではないか!)
勘平は遅すぎた、まさにとんでもない(!)「遅かりし」郷衛門の言葉によって冤罪を雪がれ、血判を押して「魂の四十七士」として銘記され、
「ヤア仏果とは穢らはし、死なぬ死なぬ、魂魄この土に留まつて敵討の御供する」
と末期の粋な言葉を放って、あっけなく、
「儚くなりにけり」
となるのである――(僕には義太夫に文句がある。あのシーンの、この「儚くなりにけり」は、あんな、軽薄で軽い抑揚の謠であっては、決して、ならぬ!! それが伝統だというのなら、再考を願いたい。勘平の死は、あんな三十分の刑事ドラマの被害者の死ぬような愚劣なシーンじゃ、断じて、ない!!!)
閑話休題。
ここに民衆の側の――何ものにも捕らわれない――「個としての確かな自死」の様態が絵が描かれるのである。
勘平の死は無名兵士の、しかし、民衆から永遠に忘れられることない、革命の戦士の「一個の自由意志の自死」なのである――勘平は実に――塩谷を軽々と越えた――「仮名手本忠臣蔵」神話の公的モデルを換骨脱胎した――非人間的現実への人間の情を武器とした反世界変革の美しき自死モデルであるのである――。
そして――ここには塩谷切腹では隠された(台詞には現われる)残された愛する女たちの巫女性が提示される。しかし、それは「おかる」ではない(「おかる」は夫の死を知らぬ。まだ、男のために身を売った彼女は、身を売りながら悲しいかな未だ愛する男を守る巫女たり得ぬのである)。それは「おかる」の母、与一兵衛女房である。夫と婿の死骸を前に本段の後半が進むことを想起せよ! あなたは二人の人間の死骸を前に、どう「生きる」か? それを考えれば、かの老母の巫女性は全きものとして「在る」ことが分かるはずである――分からぬとなれば――あなたは「仮名手本忠臣蔵」を観たとは言えぬ。――
〇第二変奏 祇園一力茶屋の段――おかる、仇討して真正の巫女となること――
知っての通り、自死せんとする(これも自死起動システムの変形である)「おかる」の手からもぎ取った由良之助の刀は(それは「おかる」にとっての「個の自由の太刀」である)、床下に潜む逆臣九太夫を刺し貫く。この瞬間、「おかる」は真に愛する勘平の仇を討ったのである――そうして薄幸の美女「おかる」は「仮名手本忠臣蔵」神話の比類なき永遠の処女――「仮名手本忠臣蔵」磐石のミューズとしての――巫女となったのである。――
〇第三変奏 山科閑居の段(1)――戸名瀬(となせ)・小浪・お石によるイザイホー――
山科の由良之助の閑居をはりばる訪れた加古川本蔵の妻戸名瀬と大星力弥の許嫁小浪母娘、迎えた由良之助の妻お石は、祝言の話を切り出した戸名瀬に、「師直に媚びへつらった本蔵の娘を我が家の嫁に迎えることは出来ぬ」と厳しく言い放って、奥へ入ってしまう。
取り残された二人。戸名瀬は、このまま帰れば夫の面目も立たず、また、自身が小浪の継母なれば、この婚儀を粗略に扱ったと思われるも我が身が立たない。――ここが凄いのだ――戸名瀬は死んで本蔵に詫びる決意をし、小浪も、
「去られても殿御の家、こゝで死ぬれば本望ぢや、早う殺して下さりませ」
と母娘心中を図ろうとするのである。
――戸名瀬が手を合わせて念仏を唱える小浪に――刀を振り上げた――その瞬間、
「御無用!」
の声が響く――
――それ以前から、上手の柴の戸の外には尺八を吹く虚無僧が一人――
己の生への未練の幻聴かと再び挙ぐる太刀一閃、
「御無用!」
――その直後にお石が奥より出でて止めに入っては、
「倅力弥に祝言させう」
と申し、三方を持ち出し、本蔵を恨む真意を述べる。
――刃傷に及んだ際、本蔵は塩谷を背後から止めに入って抑えた。即ち、塩谷の刃傷を遂げさせなかった――故に本造は仇であるという謂いである――相応の引き出物を出せというがこの三方である――その引き出物とは――お石云う。
「コレこの三方へ本蔵殿の白髪首」「それ見た上で盃させう。サヽヽいやか、応かの返答を」
と来るのだ。……母子は途方に暮れる……
――この女だけの、双方の鬼気迫る畳み掛けの複合シークエンスは凄絶の一語に尽きる。これを観ただけで僕は今回の通し狂言「仮名手本忠臣蔵」を観た本懐を遂げたと思った。
これは――時を――人を――動かすための無名者としての個の挑戦である――そうしてそれは「仮名手本忠臣蔵」という男系叙事詩を完膚なきまでに蹴散らすところから生まれる女系叙事詩なのだ――僕はそこに久高島の筆頭巫女ノロを選び出すイザイホーの儀式を幻視した――双方ともに命を張った凄絶なる覚悟の応酬であり――それが「討ち入り」へのダイナミズムとなって討ち入りは成就するのである――この女たちなくしては討ち入りは成就しないのである! (……因みに我が妻にはこの時、睡魔の襲ってしばしば櫓を漕いでいたのではあるが……)
〇第四変奏 山科閑居の段(2)――或いは生贄の宵宮祭り――
……途方に暮れる戸名瀬と小浪……そこに、
「加古川本蔵が首進上申す。お受けとりなされよ」
虚無僧が笠を脱ぎ捨てる。それは秘かに後を追ってきた加古川本蔵その人である。
その後、本蔵は由良之助や力弥のことを「日本一の阿呆の鑑」と罵詈雑言の果て、三方を踏み潰す。
夫と子を完膚なきまでに辱められたお石は遂に切れて、長押の槍を手に執って本蔵に勝負を挑む。
――本蔵、お石の槍を叩き落とす!
――力弥、奥より飛び出でて槍を拾う!
――力弥、本蔵の右脇腹、ザッくと一突き!
と、奥より声、
「ヤア待て力弥。早まるな」
と槍引留めて由良之助、手負ひに向かひ、
「一別以来珍しゝ本蔵殿。御計略の念願届き、婿力弥が手にかゝつて、さぞ本望でござらうの」
――由良之助はホームズなのである。
……本蔵はあの刃傷の日、師直が横死せねば、塩谷も切腹にまでは至るまいとの配慮から判官を抱き止めたであったが、予想外の切腹開城御家中離散という事態に、己が行いを一生の誤りと悔いており、しかもそれが娘小浪の婚儀解消に相い成らんとするを、娘がためにわざと力弥の手に掛かるように、お石を激昂させたのであった……
(因みに、こうした現実にはちょっと有り得ないと思われる蜘蛛の網目のように複雑に張り巡らされた人間関係や、壮大どころか驚天動地、条理も情理もあるまいことか、遙かに超絶したシュールとも言える機略計略の真相暴露譚は寧ろ、「文楽」的日常とさえ言えるのである)
またしても――舞台中央に瀕死の本蔵である。
由良之助による祝言の許諾を受けて、本蔵が「引き出物」として懐ろより差し出したは、師直の屋敷の絵図面……
最後に――死にゆく父の前で力弥と小浪は祝言を挙げ――はたりと息絶えた父の遺骸を後に
――たった一夜の契りの初夜を交わすために下手に手を取って入る力弥と小浪……
――討ち入りの儀を本格始動させるために本蔵の形見の虚無僧姿となって上手へ去ってゆく由良之助……
正にこれら数々の舞台中央に捧げられた生贄があって「仮名手本忠臣蔵」という祝祭は確実に「討ち入り」という本宮祭を迎えることが出来るのである。
〇アリア ……討ち入り後なら……あれしかあるまい……
大詰「花水橋引揚の段」であるが、これは映画的余韻である。芝居として大団円のためにはなくてはならないが、少なくとも僕には特筆すべきものはない。
しかし、アリアは必要だ。
僕は客席に沈み乍ら、独り夢想した。
『……僕なら……ここに芥川龍之介の「或日の大石蔵之助」をうつ』……と……
●附 文楽の属性たるウィトゲンシュタインの鏡像理論
今回、私は人形遣と人形の関係について、天啓とも言える事実に思い至った。
それはあのウィトゲンシュタインが言った、興味惹かれながらも永く僕にはどこか腑に落ちなかった――鏡に映った我々の姿を、我々の存在自身が説明するのである――という鏡像理論が、正にすっと心に座った、のである。
文楽の面使いは――人形遣によって人形が演じられている――のではないのだ――面遣が人形を演じているのである――
「人形はその役の『生き身』」なのであり――「面遣はその『生き身を説明する役』」なのである――
……という、多分、これは僕だけの中で目から鱗なのだろうと思われるが……いや、確かな目から鱗であったのである。
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