芥川龍之介漢詩全集 三
三
寒更無客一燈明
石鼎火紅茶靄輕
月到紙窓梅影上
陶詩讀罷道心淸
〇やぶちゃん訓読
寒更 客無く 一燈明らかなり
石鼎(せきてい) 火(ひ)紅ゐにして 茶靄(ちやあい)輕(かろ)し
月 紙窓(しさう)に到り 梅影上(のぼ)る
陶詩 讀み罷(や)みて 道心淸し
[やぶちゃん注:龍之介満二十二歳。
大正二(一九一三)年十二月九日附淺野三千三宛(岩波版旧全集書簡番号一一五)に所載。
淺野三千三(あさのみちぞう 明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は三中の後輩。後に東京帝大薬科に進学、薬学者となって金沢医大薬専教授を経て、昭和一三(一九三八)年には東京帝大教授となった。地衣成分の研究や結核の化学療法剤の研究などで知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
詩の前には例によって『惡詩御笑ひ下され候』とあるが、当該書簡文にはその前の中間部に、漢文についての興味深い龍之介の所感が記されている箇所がある。当該部分を引用する。
此頃又柳宗元を少しづつゝよみ居を候小生は最柳文を愛するものに候昌黎が柳州の文をよむに先だち必薔薇水を以て手を洗へる誠にうべなりと思はれ候短かけれど至小邱西小石潭記に柳々州の眞面目を見るべく讀下淸寒を生ずる心地せられ候
・「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の自然詩人。唐宋八大家の一人。
・「昌黎」同じく中唐の詩人で唐宋八大家の一人で、柳宗元とともに宋代に連なる古文復興運動を起こした韓愈(七六八年~
八二四年)の別名(昌黎(現在の河北省)の出身であると自称したことに由る)。
・「柳々州」柳宗元の最後の任地柳州(現在の広西壮(チワン)族自治区)に因んだ呼称。因みに中国語では記号「々」(しばしば勘違いしている高校生がいるが、これは漢字ではない)は本来ないので(現代では非公式には用いられるらしい)「柳柳州」と書くのが正しい。
・「小邱西小石潭記」は「小邱の西の小石潭に至る記」と訓読する。掲載書を所持しないので、中文サイト「大紀元文化網」に載るものを、一部表記を本邦で表記可能な漢字及び当該正字に直して示す(外の中文サイトを見ると表記の異なる部分があるが、取り敢えずこれで示す)。
從小丘西行百二十歩、隔篁竹、聞水聲、如鳴佩環、心樂之。伐竹取道、下見小潭、水尤淸冽。全石以爲底、近岸、卷石底以出、爲坻、爲嶼、為※2、爲岩。靑樹翠蔓、蒙絡搖綴、參差披拂。[やぶちゃん字注:「※1」=「山」+「甚」。]
潭中魚可百許頭、皆若空游無所依。日光下澈、影布石上、※3然不動、俶爾遠逝,往來翕忽、似與游者相樂。[やぶちゃん字注:「※2」=「亻」+「台」。]
潭西南而望、斗折蛇行、明滅可見。其岸勢犬牙差互、不可知其源。坐潭上、四面竹樹環合、寂寥無人、淒神寒骨、悄愴幽邃。以其境過清、不可久居、乃記之而去。
同游者、呉武陵、龔古、余弟宗玄。隸而從者、崔氏二小生、曰恕己、曰奉壹。
・「坻」は中洲。
・「※2」は、ごつごつとした岩の謂いであるが、次に「岩」とあるから、それよりも小さい川岸の石のことか。
・「※3然」、「※3」は進まないさまをいうが、別な中文個人ブログ月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「恬然」と表記し、「静止的様子」(割注原文は簡体字。以下同じ)とある。この割注は非常に分かり易いので以下『』はそれを引用させて戴いたことを示す。
・「俶爾」『忽然』。
・「翕忽」『飄忽』。急に出没するさま。忽然と同義。
・「斗折蛇行」『形容水流弯曲』。なお、これは本文から生まれた四字熟語「斗折蛇行(とせつだこう・とせつじゃこう)」として、斗(北斗七星)の如く折れ曲がり、蛇の如くうねりながら進むことから転じて、道や川などに曲折が多く、くねりながら続いていくさまをいう。
・「犬牙差互」『形容岸涯如犬牙交錯』。
・「隸」は月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「隶」で『跟随』と割注する。これは本邦では「跟随(こんずい)」と読み、(「跟」はかかとの意で、人のあとについていくことをいう。
「茶靄」石製の鼎(かなえ:焜炉。)で沸かしている茶の、立ち登る湯気。
「道心」ここでは、下で形容する「清らかな」に相応した泰然自若とした心境を謂う。
「梅影上る」梅の枝影が映る。
この詩には静謐さと同時に強い寂寥感が漂うが、旧全集のこの詩の載る次の書簡、二十一日後ではあるが、年も押し詰まった大正二(一九一三)年十二月三十日附の盟友山本喜譽司宛(岩波版旧全集書簡番号一一六)の手紙に、これを解く非常に重大な鍵があるように私は思う。やや長くなるが全文を示したい。
あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひましたあしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます
廿日に休みになつてから始終人が來るのですどうかすると二三人一緒になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歳暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません
今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ちをして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります
君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど
伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい
あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら
お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません
「佇みて」と「昨日まで」とをもつて噴い海べをあるくのもいゝでせう
こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら
君の話しが出ました 平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど
廿二才がくれる 暮れる
大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある
何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい
三十日夜 龍
喜 譽 司 梧下
・「伊藤」三中時代の同級生。
・「四葉會」不詳。
・「平塚」平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年。三中時代の同級生。第六高等学校(現在の岡山大学)に進学したが、後に結核に罹患、千葉の病院で病没した。龍之介にとっては非常に大切な友人の一人であり、その死を受けて龍之介は、大正一六(一九二七)年に彼をモデルとした「彼」を発表している。リンク先は私の詳細注を附したテクストである。是非、お読み戴きたい。
・「平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません」芥川龍之介の同性愛傾向は生涯通底しており、彼の精神発達史を考える時、避けて通れない非常に重要な一面で、彼には自身の同性愛史を綴った未定稿作品(「VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」)もある(リンク先は私の電子テクストで別ページの詳細注も附してある。やはり、是非、御一読あれ)。
・「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」本詩の結句『陶詩 讀み罷みて 道心淸し』は、決して字面だけの上っ面のものでは、これ、ない、ということが、私には実感されるのである。
この書簡は本漢詩と直接の関連はないものの、複雑なコンプレクス(心的複合)と掻き毟られるような煩悶の只中にあった若き日の芥川龍之介像を髣髴とさせる、非常に貴重な書簡である。]
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