鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(3)
一武藏國金曾木彦三郎、市谷孫四郎〔云云〕 基氏ノ判形アリ。今按ニ俗ニ金杉ト云ハ、金曾木ノコトカ。
[やぶちゃん注:これは、一つは正和元(一三一二)年)年八月十一日のクレジットを持つ「鎌倉將軍〔守邦親王〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の一七)のことを指している。以下に示す。
寄進
鶴岡八幡宮
武藏國金曾木彦三郎重定所領事
右、依將軍家仰、奉寄如件、
正和元年八月十一日
相模守平朝臣(花押)
「金曾木」当時、金曽木重定が領していた豊島郡小具(おぐ)郷で、現在の東京都荒川区にあった。旧北豊島郡尾久町(おぐまち)。
「相模守平朝臣」は第十二代執権北条煕時(ひろとき)。光圀が『基氏の判形あり』とするのは不審。両者の花押は似ても似つかず、第一、基氏では時代も違う。
次の「市谷孫四郎」の寄進に関わる文書は鶴岡八幡宮編「鶴岡八幡宮年表」によれば神田康平氏旧蔵とする文書にある由、記載がある。
「金杉」東京都台東区下谷にあった旧地名で金杉があるが、これを言っているか?]