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2012/11/16

北條九代記 伊豫守義經自殺


      ○伊豫守義經自殺


伊豫守義經、備前守行家は賴朝卿に背き奉りて自立(じりふ)の志あるを以てその行方を尋搜(たづねさぐ)り討取るべきの由仰せ觸れらる。是に依て諸方に忍び給へども、足を留むる所なし。行家は和泉國小木郷(おぎのがう)の民家に入て、二階の上に隱(かくれ)ゐたるを、常陸房昌明(ひたちぼうしやうめい)聞付けて討取りぬ。義經の家人堀彌太郎景光は糟屋藤太に京都にして生捕(いけどら)れ、佐藤忠信は中御門東洞院にして誅せらる。其外一族餘黨悉く伏誅(ふくちう)す。義經は妻子を相倶し、山臥の姿に成りて、伊勢美濃を經て、奥州に下られしを、秀衡卌(かしづ)き奉り、衣川の館(たち)にいれまゐらせ、暫(しばらく)安堵の思(おもひ)を延(のべ)られしに、文治三年十月二十九日秀衡逝去せられたり。日比重病に罹りしかば、子息泰衡以下を召して遺言しけるは、「伊豫守殿を大將軍とし國務を勤め侍らば、陸奥出羽の兩國永代を持(たも)つべし」となり。然るを賴朝卿宣旨を以つて、「義經を討ちて奉るべし」と使節度々に及びしかば、泰衡忽(たちまち)に心を變じ、家人郎從數百騎を遣し、衣川の館を攻ければ、郎從共は戦うて討死し、義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり。新田冠者高平(たかひら)を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける。泰衡が弟泉三郎忠衡は義經に同意したりとて、人数を遣して攻討(せめうち)けり。

[やぶちゃん注:「和泉国近木郷」「近木」は「こぎ」と読む。近木荘(こぎのしょう)。現在の大阪府の南西端の旧日根郡内にあった荘園。頼朝叔父行家は、この神前清実(かむさききよざね)の屋敷に潜伏していたがは元暦二(一一八四)年五月、地元民の密告によって露顕、北条時定の手兵によって捕らえられて斬首された。


「常陸房昌明」(生没年未詳)は「しょうみょう」とも読む。当初は延暦寺の僧であったが武芸に優れ、平家滅亡後は北条時政に従い、京都警備に当たった。ここにある源行家追討、奥州藤原攻め、承久の乱で活躍、法橋(ほっきょう)を称し、承久三(一二二一)但馬守護に任ぜられた。常陸房は通称。


「堀彌太郎景光」(?~文治二(一一八六)年)出自不明。「平治物語」では『金商人』とあることから、金売り吉次の後身とも伝えられる。当初、義経都落ちに同行したが、後に別れて京都潜伏中に文治二(一一八六)年九月二十日に捕縛され、義経が南都興福寺の聖弘得業に匿われている(前出)こと、義経の使者として後白河法皇の近臣藤原範季と連絡をちっていたを白状している。その後に斬首されたとも言われるが定かではない。


「糟屋藤太」糟屋有季(?~建仁三(一二〇三)年)。相模国大住郡糟屋荘(現在の伊勢原市一帯)荘司糟屋盛久の子。妻は比企能員の娘。石橋山の戦いでは大庭景親に従っていたが、その後、頼朝に臣従したと見られ、寿永二(一一八三)年には源義経率いる源義仲討伐軍に属して、宇治川の戦いに加わっている。文治二(一一八六)年、失脚して都落ちした義経探索のため、比企朝宗の手勢に属して上洛、義経の郎党佐藤忠信・堀景光を捕縛した。奥州合戦に従軍、頼朝死後の正治二(一二〇〇)年に起った梶原景時の変では景時討伐軍に属して賞を受けている。建仁三(一二〇三)年九月二日に比企能員の変が勃発、能員の娘婿であった有季は比企一族とともに北条義時軍と戦って討死にした。参照したウィキの「糟屋有季によれば、この時、『有季が頼家の子一幡を逃がすべく小御所に立て籠もり、敵方に命を惜しまれて逃げるように呼びかけれられたが答えず、最後まで奮戦して討ち死にした様子が』「愚管抄」に記されている、とある。

「佐藤忠信」(応保元(一一六一)年?~文治二(一一八六)年)は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治(藤原忠継とも)を父とする。以下、ウィキ佐藤忠信」によれば、治承四(一一八〇)年、奥州にいた義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により兄継信と共に義経に随行、義経の郎党として平家追討軍に加わった(兄継信は屋島の戦いで討死)。元暦二(一一八五)年の壇ノ浦の戦いの後、義経が許可を得ずに官職を得て頼朝の怒りを買った際、この忠信も共に兵衛尉に任官しており、頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例が無い。身の程を知ったらよかろう。その気になっているのは猫(狢・狸とも)にも落ちる。」と罵られたとする。文治元(一一八五)年十月十七日、『義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられ、義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して来て応戦している』。同年十一月三日、『都を落ちる義経に同行するが、九州へ向かう船が難破し一行は離散。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏』、文治二(一一八六)年九月二十二日、『人妻であるかつての恋人に手紙を送った事から、その夫によって鎌倉から派遣されていた御家人の糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。精兵であった忠信は奮戦するも、多勢に無勢で郎党』二人と共に自害して果てた。室町初期に書かれた「義経記」では『忠信は、義経の囮となって吉野から一人都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物の一人となって』おり、この名場面から、後の浄瑠璃や歌舞伎の演目として名高い「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」が誕生した。継信・忠信兄弟の妻たちは、息子二人を失い、『嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めんとそれぞれの夫の甲冑を身にまとい、その雄姿を装って見せたという逸話があり、婦女子教育の教材として昭和初期までの国定教科書に掲載された』とある。


「卌(かしづ)き」本字を「かしづく」と読む例、不詳。識者の御教授を乞う。


「義經叶はずして、妻子を殺して自害せらる。年三三歳なり」現在の知見では義経の生年は平治元(一一五九)年で高館(たかだち)での自害は文治五(一一八九)年閏四月三十日とされるから、享年三十一歳である。

「新田冠者高平を使として、義經の首級を鎌倉にぞ送りける」「新田冠者高平」は藤原泰衡の家臣。「吾妻鏡」の文治五(一一八九)六月十三日の条を見ておこう。
〇原文
十三日辛丑。泰衡使者新田冠者高平持參豫州首於腰越浦。言上事由。仍爲加實撿。遣和田太郎義盛。梶原平三景時等於彼所。各著甲直垂。相具甲冑郎從二十騎。件首納黑漆櫃。浸美酒。高平僕從二人荷擔之。昔蘇公者。自擔其糇。今高平者。令人荷彼首。觀者皆拭雙涙。濕兩衫云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十三日辛丑。泰衡が使者新田の冠者高平、豫州の首を腰越の浦に持參し、事の由を言上す。仍りて實撿(じつけん)を加へんが爲、和田太郎義盛、梶原平三景時等を彼の所へ遣はす。各々、甲直垂(よろひひたたれ)を著し、甲冑の郎從二十騎を相ひ具す。件の首は黑漆(こくしつ)の櫃(ひつ)に納(い)れ、美酒に浸し、高平が僕從二人が之を荷擔(かたん)す。昔、蘇公は、自ら其の糇(かて)を擔(にな)ふ。今、高平は、人をして彼(か)の首を荷(にな)はしむ。觀(み)る者、皆雙、涙を拭ひ、兩衫(りやうさん)を濕(うるほ)すと云々。
・「蘇公」「蘇」は夏・殷の頃、現在の河南省済源県の西南にあった(春秋時代に狄(てき)に滅ぼされた)国の名であるが、「自ら其の糇を擔ふ」(「糇」は「糧」に同じ)の出典は不明。識者の御教授を乞うものである。

「忠衡」藤原忠衡(仁安二(一一六七)年~文治五(一一八九)年)。藤原秀衡三男、藤原泰衡の異母弟。通称の泉三郎・泉冠者とは、秀衡の館であった柳之御所にほど近い泉屋の東を住まいとしていたことに基づく。忠衡は父の遺言を守り、義経を大将軍にして頼朝に対抗しようと主張するが、意見が対立した兄の泰衡によって誅殺された。「吾妻鏡」の文治五年六月二十六日の条には、『廿六日甲寅。奥州有兵革。泰衡誅弟泉三郎忠衡。〔年廿三。〕是同意與州之間。依有宣下旨也云々。』(廿六日甲寅。奥州に兵革有り。泰衡、弟の泉三郎忠衡〔年廿三〕を誅す。是れ、與州に同意するの間、宣下の旨有るに依りてなりと云々。) とあり、そこには「兵革有り」とあることから、忠衡の誅殺には軍事的衝突が伴ったと見られている(以上はウィキ藤原衡」を参考にした)。


「人数を遣して攻討けり」の主語は兄藤原泰衡である。]

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