芥川龍之介漢詩全集 七
七 甲
松江秋夕
冷巷人稀暮月明
秋風蕭索滿空城
關山唯有寒砧急
擣破思郷万里情
〇やぶちゃん訓読
松江秋夕
冷巷(れいかう) 人稀れに 暮月明(めい)なり
秋風 蕭索として 空城に滿つ
關山(くわんざん) 唯だ有る 寒砧(かんこ)の急(きふ)
擣破(たうは)す 思郷万里(しきやうばんり)の情
七 乙
冷巷人稀暮月明
秋風蕭索滿空城
關山唯有寒砧急
搗破思郷万里情
〇やぶちゃん訓読
松江秋夕
冷巷 人稀れに 暮月明なり
秋風 蕭索として 空城に滿つ
關山 唯だ有る 寒砧の急
搗破(たうは)す 思郷万里の情
[やぶちゃん注:これも秋で仮想の一首である。
「七甲」は前掲通りの井川書簡所載。
「七乙」は旧全集では前掲書簡の次に配されてある翌日の大正四(一九一五)年八月二十四日附石田幹之助宛(岩波版旧全集書簡番号一七五)所載。
石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)は芥川や井川の一高時代の同級生で、当時は未だ東京帝国大学文科大学東洋史学科に在学しており、この翌年に卒業後、同大史学研究室副手となって中国に渡り、モリソン文庫の受託、またその後身である財団法人東洋文庫の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。「七乙」は御覧の通り、結句の冒頭の一字が異なるだけであるが、総ての字の右に「〇」の朱圏が附されている。なお、圏点は本来は文字強調や詩の眼目となる「詩眼」の文字の脇などに附すもので、ウィキの「圏点」ではあくまで日本語で使用されると限定しているが、邱氏は「芥川龍之介の中国」の注で『中国的な雰囲気を出すために、石田に書き送った詩は一字一字に朱圏がつけられている』と記載しておられ、中国でもそうしたものとして普通に使われていたことが分かる。なお、この書簡は葉書前後に有意な消息文があるので、圏点を外した状態で示す。中国史に詳しい石田にこれを送ったところから、龍之介としてはかなりの自信作であったことが窺われる。
乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)
冷巷人稀暮月明
秋風蕭索滿空城
關山唯有寒砧急
搗破思郷万里情
關山は一寸洒落てみただけ天守閣も街も松江は大へんさびしい大概うちにゐますひまだつたらいらつしやい
「關山」関所のある山は辺塞の地の砦を意味している。
「寒砧の急」寒い晩秋の夜に打たれる砧(きぬた)の音の気忙しい、それでいて荒涼として淋しい響き。以上から流石に誰もがお分かりになっているように、これは知られた李白の「子夜呉歌」の秋の一首をモデルとしている。
子夜呉歌
長安一片月
萬戸擣衣聲
秋風吹不盡
總是玉關情
何日平胡虜
良人罷遠征
長安 一片の月
萬戸 衣を擣(う)つの聲
秋風 吹きて盡きず
總て是れ 玉關の情
何れの日にか胡虜を平らげて
良人 遠征を罷めん
「子夜呉歌」は楽府題で、本来は子夜という娘が作った呉の民謡であるが、李白はこの曲をイメージしながら、四季を歌った四首の詞を書いた。その中の秋を歌ったもので本邦でも知らぬ者とてない詩である。これは楽府の辺塞詩の銃後版で、辺塞に徴用された夫を思う妻の夜鍋仕事のワーク・ソングの形を取っている訳だが、龍之介のそれは、それに仮託させた自身の帰らぬ初恋の人への堪えがたい絶唱として響いているように思われる。]