鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 法華堂/東御門
法 華 堂
西御門ノ東岡邊ノ小杉森是ナリ。眞言宗ナリ。此本尊ハ阿彌陀也。今ハ雪下ノ供僧相承院ニ有。今ハ道心者ノ僧居之(之れに居す)。如意輪觀音ノ木像アリ。運慶作也。僧謂テ云。
昔由比太郎持忠卜云者ノ娘、七歳ニシテ死ス。其骨舍利五粒ニナル。ソレヲ拾ヒ、此觀音ノ腹中ニ納ム。分身シテ三升計ニナル。頭ワレテ溢レ出ルト云傳フ。今モ五粒ハ此像内ニ有、分身セシ三升計ノ舍利ハ相承院ニ有ト。此寺ハ相承院持分也。報恩寺ノ本尊ナリシト也。地藏脇立ニ有。又報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有。寺ノ上ニ賴朝ノ墓有土石。如意輪堂モフケイ寺トモ云。賴朝ノ持佛堂ナリト云。
[やぶちゃん注:「持忠」は「時忠」の誤り。
「報恩寺ノ開山キウジト云ル唐僧ノ像トテ脇立ニ有」「新編鎌倉志卷之二」の「法華堂」の項に、
異相なる僧の木像あり。何人の像と云事を知人なかりしに、建長寺正統菴の住持顯應、此像を修復して自休が像也と定めたり。兒淵に云傳へたる自休は是歟。
とあるから、この「キウジ」は「ジキウ」の誤字であろう。
「如意輪堂モフケイ寺トモ云」底本では「如意輪堂トモフケイ寺トモ云」の「ト」の脱字と推定されているが、「フケイ寺」の呼称は不詳。識者の御教授を乞うものである。但し、昭和五十五(一九八〇)年有隣堂刊の貫達人・川副武胤「鎌倉廃寺事典」の「法華堂」の記載を管見しても「如意輪堂」、「フケイ寺」に相当するような呼称は出て来ない。]
東 御 門
法華堂ノ東ノ谷也事ハ、西御門ノ所ニ見へタリ。
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