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2012/11/21

耳嚢 巻之五 古人英氣一徹の事

 古人英氣一徹の事

 

 恐ながら、大猷院(たいいふゐん)樣御幼稚の節、神君の御賢慮を以(もつて)、仁智勇の三味を以御養育申上し事は、諸人の知る所也。右の内土井酒井仁智の役分、靑山伯耆守は勇氣の御見立にて、常(つねに)御面(おもて)を犯し身命を擲(なげうち)て強諫等申上(まうしあげ)し由。右三傑の内、伯耆守は成惡(なしにく)き役分也と我も思ひ人も申ける故、或時當靑山下野守へ一座なれば尋問せしに、伯耆守所業等別段の傳書もなけれど、聊(いささか)書記の申傳(まうしつたへ)なきにもあらず、誠(まこと)聖知安行(せいちあんかう)とも申奉(まうしたてまつ)るべき、大猷公なれど、直諫度々なれば思召(おぼしめし)に障りしや、百人組の頭(かしら)を勤し時御勘氣を蒙りしに、いかなる事にや一僕をも不召連(めしつれず)、御殿よりはだしにて退出なして、屋敷へも不立寄(たちよらず)舊領相州へ蟄居なしける故、貮萬石の領知(りやうち)も被召上(めしあげられ)しが、尚(なほ)御舊懇を被思召(おぼしめされ)隱居料を被下(くだされ)しをも御斷(おんことわり)申上て、終に配所にて卒去ありし由。其後御成長に隨ひ舊年の忠言共(ども)被出思召(おぼしめしいだされ)、倅へ御加恩等被下、右の趣伯耆守が墓所に申せよと難有(ありがたく)も御落涙に被爲及(およばされ)しとて、子息も感涙にむせびしと今に申傳ふる由。百人組の與力は右の筋、頭のはだしにて御番所前を退出故、草履をはかせ兩三人供をして、一同に伯耆守が落着の所迄至りし也。尤(もつとも)頭の事なれば供をなせしもさる事ながら、御番所を明け候段不屆(ふとどき)とて一旦改易有しが、程なく被召歸(めしかへされ)、今に其子孫百人組の與力を勤(つとむ)る者兩三人有(あり)。吉例にて毎年正月年始に右與力參る時、草履一足宛(づつ)紙に包(つつみ)持參なす由、物語りありし也。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。「卷之一」からしばしば登場する一連の大猷院家光絡みの武辺物語の一。

・「土井酒井」老中土井利勝(元亀四(一五七三)年~寛永二十一(一六四四)年)と酒井忠世(元亀三(一五七二)年~寛永十三(一六三六)年)。次に注する本話の主人公、老中青山忠俊(天正六(一五七八)年~寛永二十(一六四三)年)と三名で、家光の傅役(ふやく・もりやく)となった。土井利勝は、系図上では徳川家康の家臣利昌の子とするも、家康の落胤とも伝えられる。幼少時より家康に近侍し、次いで秀忠側近となった。家康の死後は朝鮮通信使来聘などを務めて幕府年寄中随一の実力者として死ぬまで幕閣重鎮として君臨した。酒井忠世は名門雅楽頭系の重忠と山田重辰の娘の嫡男として生まれ、秀忠の家老となる。元和元(一六一五)年より土井・青山とともに徳川家光の傅役となったが、家光は平素口数少なく(吃音があったともある)、この厳正な忠世を最も畏れたとされる。但し、秀忠の没後は家光から次第に疎まれるようになり、寛永十一(一六三四)年六月に家光が三十万の軍勢を率いて上洛中(彼はそれ以前に中風で倒れているためもあってか江戸城留守居を命ぜられていた)の七月、江戸城西の丸が火災で焼失、報を受けた家光の命によって寛永寺に蟄居、老中を解任された。死の前年には西の丸番に復職したが、もはや、幕政からは遠ざけられた。

・「靑山伯耆守」青山忠俊は常陸国江戸崎藩第二代藩主・武蔵国岩槻藩・上総国大多喜藩主。青山家宗家二代。江戸崎藩初代藩主青山忠成次男。遠江国浜松(静岡県浜松市)生。小田原征伐で初陣を飾り、兄青山忠次の早世により嫡子となった。父忠成が徳川家康に仕えていたため、当初は同じく家康に仕え、後に秀忠に仕えた。大坂の陣で勇戦し、元和二(一六一六)年に本丸老職(後の老中)となった。忠俊は男色や女装を好んだりした家光に対して諫言を繰り返したことから次第に疎まれ、元和九(一六二三)年十月には老中を免職、に岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)四万五千石より二万石の上総大多喜(おおたき:現在の千葉県夷隅郡大多喜町)に減転封されたが、それも固辞して相模国高座郡溝郷に蟄居、同今泉村で死去した。秀忠の死後、家光より再出仕の要請があったが断っている。但し、百人組の頭であったのは遡る慶長八(一六〇三)年のことであり、石高なども合わず、本話は事実とはやや反する。

・「御面を犯し」主君の面目をも顧みず、忌憚なく諫める。

・「成惡(なしにく)き」は底本のルビ。

・「爲及(およばされ)」は底本のルビ。

・「當靑山下野守」ここは本文の記載時でのことを述べており、青山忠俊の七代後裔に当たる青山宗家当主である青山忠裕(明和五(一七六八)年~天保七(一八三六)年)を指している。執筆推定下限の寛政九(一七九七)年春時点では、忠裕は西丸(徳川家慶)附の若年寄であった。後、文化元(一八〇四)年、老中。

・「聖知安行」「生知安行」が正しい。生まれながらにして物事の道理に通じ、安んじてこれを実行することを言う(「礼記」中庸篇に由る)。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では極めて面白いことに、ここは『聖智闇行』となっている。岩波版長谷川氏注では、『ここに家光の所行を闇行とするに何か筆写者の意をこめるか』とある。激しく同感するところである。

・「百人組」鉄砲百人組。二十五騎組(青山組)・伊賀組・根来組・甲賀組の四組からなり、各組に百人ずつの鉄砲足軽が配された。組頭は、その鉄砲隊の頭領。平時は主に江戸城大手三之門に詰め、将軍が寛永寺や増上寺に参拝する際の山門前警備に当たった。参照したウィキの「百人組」によれば、『徳川家康は、江戸城が万一落ちた場合、内藤新宿から甲州街道を通り、八王子を経て甲斐の甲府城に逃れるという構想を立てていた。鉄砲百人組とは、その非常時に動員される鉄砲隊のことであり、四谷に配されたという』とある。

・「倅」青山宗俊(慶長九(一六〇四)年~延宝七(一六七九)年)。青山忠俊長男。父が蟄居になった際、父とともに相模高座郡溝郷に蟄居したが、寛永一一(一六三四)年に家光から許されて再出仕、寛永一五(一六三八)年、書院番頭に任じられて武蔵・相模国内で三千石を与えられ旗本となった。寛永二一(一六四四)年に大番頭に任じられ、正保五(一六四八)年には加増されて信濃小諸藩主となった。寛文二(一六六二)年、大坂城代に任じられ各所に移封、延宝六(一六七八)年に大坂城代を辞職して浜松藩に移封となっている(以上はウィキの「青山宗俊」に拠る)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 古人の英気一徹の事

 

 畏れながら、大猷院(だいゆういん)家光様が御幼少の砌り、神君家康公の御賢察を以って、「智・仁・勇」の三種の趣きに依って御養育申し上げたことは、これ、諸人の知るところではある。

 その三種の内、土井利勝殿と酒井忠世(ただよ)殿は、それぞれ「智」と「仁」の、青山伯耆守(ほうきのかみ)忠俊殿は「勇気」の御教授手本の御担当となられ、これ、主君の意に背くことを厭わず、身命(しんみょう)を抛(なげう)って厳しき諫言など、常に申し上げなさった由。

 

 さても、この三人の傑物の内、伯耆守忠俊殿のお受けになられた「勇」――これ、どう考えて見ても、誠に成し難き役回りではある、と、いや、これ、私も思い、また、知れる人々も申すことの多く御座ったれば……ある時、当代青山家御当主であらせらるる青山下野守宗俊殿と、たまたま同席致いた折り、周りの者どもともに、お訊ね致いたところ、宗俊殿の仰せらるるには……

 

「……我が祖たる伯耆守の事蹟に就いては……特にしっかとした伝わっておる書付や家伝も、これ、御座らねど……全く、それに関わるところの文書(もんじょ)の類いが、全く以って御座らぬ訳でも、これ、御座ない。……誠に、生知安行(せいちあんこう)とも申し奉るべき大猷院様ではあらせられたものの……これ、我が祖忠俊の直諫(ちょっかん)の度重なって御座ったれば……思し召しに、これ、障ることもあられたものか、忠俊、百人組頭(かしら)を勤めておった折り、遂に御勘気を蒙って御座った。……

……すると……

……どうしたことか分からねど……一僕をも召し連れずして……勤務しておった御殿より……裸足にて退出致いて……己が屋敷へも寄らず……旧領の相州へと徒歩(かち)だちのまま向かうと、そのまま、蟄居致いて仕舞(しも)うた。……

……そうして、二万石の領地も、これ、召し上げなされたれど……それでも大猷院様、旧懇の誼(よしみ)と、隠居のための家禄を下されなさったれど……それをも、お断り申し上げ……遂に、配所にて卒去致いた……。

……その後(のち)、大猷院様、御成長に随い、過ぎし日の我が祖伯耆守の忠言なんどを思い出され遊ばさるるに、倅たる青山宗俊に、何と、御加恩なんどまでも下賜下され、

「……以上の我らが趣意、伯耆守の墓所に、申せよ。……」

と、有り難くも……大猷院様ご自身……御落涙、遊ばされ……

……子息たる宗俊儀も、これ、感涙に咽(むせ)んで御座ったと……今に、伝わって御座る。……

……さても、百人組の与力は、これ、先の我が祖の出奔の際、頭(かしら)が大手三の門御番所より、裸足のままに退出致いたが故、三人の配下の者が、その後を追うて草履を履かせ、両三人ともども、伯耆守に供をして、一同、伯耆守の落ちた相模の蟄居所まで、同道致いたと申す。……

……これに就きては、

――頭(かしら)の供を致いたは、これ、尤もなることと雖も、御番所を明けたままに致いたは、これ、不届(ふとどき)――

と相い成り……彼らもまた、一旦は改易となって御座った……が……ほどのう、役に召し返され、今に、その子孫、百人組の与力を勤めて御座る者、これ、その数通り、両三人、御座る。……

 吉例と致いて、毎年正月年始には、この彼ら、その三方(さんかた)所縁(ゆかり)の三人は、これ、草履を一足ずつ、紙に包んで持参致すを、例となして御座ると申す。……」

 

 これ、その青山下野守宗俊殿自身、物語りなさったことにて御座る。

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