一言芳談 十七
十七
明禪法印云、ひじりはわろきがよきなり。
〇わろきがよきなり、よき名をうればさはり多し。萬は無能なりとも、まことだにあらば往生はすべきなり。
[やぶちゃん注:そもそも末法が始まっているならば、この世には教のみが存在して行も信も在り得ない。「末法燈明記」に従うなら、そのような行も信もない破戒僧、姿だけが僧であるものだけが世に満ち満ちているはずである。だとすれば、私に言わせればそのような世界で「よき名をう」る僧とは即ち悪僧の最たるものであろう。そんな宗教人面をした有象無象は現代にこそ満ち満ちているではないか(残念なことに「末法燈明記」はそのような僧尼でも敬えと言うのだが……。リンク先は私のテクスト、現代語訳もある)。「萬は無能なりとも、まことだにあ」る僧の方がまだましである、と私は今、現代の宗教界を見ても、激しく、そう、思うのである。これを読んだ私の教え子は、『僧に限らず、人というのは「わろき」が当然。しかし同時に、「まこと」を持ち合わせていない人などひとりもいないのではないか、と思います。逆に言えば、「平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ない」のだと信じます。』という消息を呉れた。引用の言葉は無論、「こゝろ」先生の言葉。謂い得て妙とは、これをいうのである。]

