鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鳥合セ原/頼朝屋敷
烏合セ原
八幡ノ東門ノ出口北ノ畠也。昔相摸入道鳥ヲ合セ、犬ヲイドミ合セシ所ナル故ニ云トナリ。
[やぶちゃん注:「相摸入道」北条高時。]
賴朝屋敷
烏合セ原ノ向ヒ、八幡東門ノ東也。東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、安房・上總ヨリ武藏ヲ經、鎌倉へ打入玉フ。同九日、細事立ラルベキトテ奉行ヲ大庭平太景義ニ仰付ラル。御屋作ノ事、知家事兼道ガ山内ノ宅ヲ大倉ノ郷ニウツサレ、是ヲ建立ス。同十二月十二日、大倉ノ御館へワタマシ、賴朝・賴家・實朝・平政子、ソレヨリ賴經・賴嗣・宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王迄、此屋敷ニ居ラル。治承四年ヨリ守邦迄、百五十年餘也。其廣サ八町四方有卜云。今見ル處ハ、分内セバキ樣ナレドモ、法華堂ナド、賴朝ノ持佛堂卜云へバ、此邊總テ屋敷構へノ内ナルべシ。
[やぶちゃん注:「東鑑ニ治承四年十月六日、兵衞佐殿、……」「吾妻鏡」治承四(一一八〇)十月六日の条。
〇原文
六日乙酉。著御于相摸國。畠山次郎重忠爲先陣。千葉介常胤候御後。凡扈從軍士不知幾千万。楚忽之間。未及營作沙汰。以民屋被定御宿舘云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
六日乙酉。相摸國に著御す。畠山次郎重忠、先陣たり、千葉介常胤、御後に候ず。凡そ扈從(こしよう)の軍士、幾千万を知らず。楚忽(そこつ)の間、未だ營作の沙汰に及ばず、民屋を以つて御宿舘に定めらると云々。
・「楚忽の間」急に決まったことであるため。
「同九日、……」「吾妻鏡」治承四十月九日の条。
〇原文
九日戊子。爲大庭平太景義奉行。被始御亭作事。但依難致合期沙汰。暫點知家事〔兼道〕山内宅。被移建之。此屋。正暦年中建立之後。未遇回祿之災。淸明朝臣押鎭宅之符之故也。
〇やぶちゃんの書き下し文
九日戊子。大庭平太景義、奉行として、御亭の作事を始めらる。但し、合期(がふご)の沙汰を致し難きに依りて、暫く知家事〔兼道。〕の山内宅を點じ、之を移し建てらる。此の屋は正暦年中建立の後、未だ回祿の災(わざわひ)に遇はず。晴明朝臣の鎭宅の符を押すの故なり。
・「合期」「期に合ふ」の字音読み。諸作事や貢献・納租などを所定期間内に完了すること。
・「知家事」は「ちけじ」と読み、政所の役職。別当・令・案主(あんじゅ)の下の四等事務官。
・「兼道」不詳であるが、個人のHP「北道倶楽部」の「奈良平安期の鎌倉 頼朝の父義朝の頃」のページの「知家事(兼道)が山内の宅」に鋭い考証が載せられてある。そこでは「知家事兼」道の邸の解体された木材が、大倉まで、どのルートで運ばれたかの考証までなさっておられ、極めて興味深い。
・「正曆年中」西暦九九〇年から九九五年。
「晴明朝臣」安倍清明。
・「鎭宅」鎮宅法。仏教で新築・転居の際に新居の安全を祈るための密教の修法。除災のためにも行う。家堅めの法ともいう。
「同十二月十二日、……」「吾妻鏡」治承十二月十二日の条の当該部。
〇原文
十二日庚寅。天晴風靜。亥尅。前武衞將軍新造御亭有御移徙之儀。爲景義奉行。去十月有事始。令營作于大倉郷也。時尅。自上總權介廣常之宅。入御新亭。御水干。御騎馬〔石禾栗毛。〕和田小太郎義盛候最前。加々美次郎長淸候御駕左方。毛呂冠者季光在同右。北條殿。同四郎主〔義時〕。足利冠者義兼。山名冠者義範。千葉介常胤。同太郎胤正。同六郎大夫胤賴。藤九郎盛長。土肥次郎實平。岡崎四郎義實。工藤庄司景光。宇佐美三郎助茂。土屋三郎宗遠。佐々木太郎定綱。同三郎盛綱以下供奉。畠山次郎重忠候最末。入御于寢殿之後。御共輩參侍所。〔十八ケ間。〕二行對座。義盛候其中央。著致云々。凡出仕之者三百十一人云々。又御家人等同搆宿舘。自爾以降。東國皆見其有道。推而爲鎌倉主。所素邊鄙。而海人野叟之外。卜居之類少之。正當于此時間。閭巷直路。村里授號。加之家屋並甍。門扉輾軒云々。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十二日庚寅。天晴れ、風靜か。亥尅、前武衞將軍、新造の御亭に御移徙(わたまし)の儀有り。景義、奉行として、去る十月、事始め有り。大倉郷の營作せしむるなり。時尅に、上總權介廣常の宅より新亭に入御す。御水干、御騎馬〔石禾の栗毛〕。和田小太郎義盛、最前に候じ、加々美次郎長淸、御駕(おんが)左方に候じ、毛呂冠者季光、同じく右に在り、北條殿、四郎主、足利冠者義兼、山名冠者義範、千葉介常胤、同太郎胤正、同六郎胤賴、藤九郎盛長、土肥次郎實平、岡崎四郎義實、工藤庄司景光、宇佐美三郎助茂、土屋三郎宗遠、佐々木太郎定綱、同三郎盛綱以下、供奉し、畠山次郎重忠、最末に候ず。寢殿に入御の後、御共の輩は侍所〔十八ケ間。〕に參じ、二行に對座す。義盛、其の中央に候じて著到すと云々。
凡そ出仕の者三百十一人と云々。
又、御家人等、同じく宿舘を搆へる。尓(しか)りしてより以降、東國、皆、其の有道を見て、推して鎌倉の主と爲す。所は素より邊鄙にして、海人野叟の外、卜居(ぼくきよ)の類ひ、之れ少なく、正に此時に當るの間、閭巷(りよかう)、路を直し、村里に號(な)を授け、加之(しかのみならず)、家屋、甍を並べ、門扉、軒を輾(きし)ると云々。(以下略)
・「時尅」定刻。
・「加々美次郎長淸」弓馬術礼法小笠原流の祖として知られる小笠原長清(応保二(一一六二)年~仁治三(一二四二)年)。甲斐源氏一族加賀美遠光次男。高倉天皇に滝口武士として仕えた父の所領の内、甲斐国巨摩郡小笠原郷を相続し、元服の折に高倉天皇より小笠原の姓を賜ったとされる。源頼朝挙兵の際、十九歳の長清は兄秋山光朝とともに京で平知盛の被官であったとされ、母の病気を理由に帰国を願い出て許されたが、主家である平家を裏切って頼朝の元に参じた、と伝えられる。治承・寿永の乱でも戦功を重ね、父と同じ信濃守に任ぜられた。海野幸氏・望月重隆・武田信光と並んで「弓馬四天王」と称された(以上はウィキの「小笠原長清」を参照した)。
・「毛呂冠者季光」毛呂季光(もろすえみつ 生没年未詳)。大宰権帥藤原季仲の孫で武蔵国入間郡毛呂郷(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)に住した。頼朝の直参。以下、ウィキの「毛呂季光」によれば、『子の季綱は頼朝が伊豆国の流人であった頃、下部(しもべ)らに耐えられない事があって季綱の邸あたりに逃れていたところ、季綱がその下部たちの面倒を見て伊豆に送り返した。この事から頼朝に褒賞を受け』、『武蔵国和泉・勝田(埼玉県比企郡滑川町和泉・嵐山町勝田)を与えられており、季光の准門葉入りも、貴種性だけでなく流人時代の報恩に拠るものがあったと思われる』とある。
・「北條殿」北条時政。
・「同四郎主」北条義時。
・「山名冠者義範」(生没年未詳)新田義重の庶子。山名氏祖。ウィキの「山名義範」によれば、上野国八幡荘の山名郷を与えられ、山名氏を称した。父義重は挙兵した頼朝になかなか従おうとしなかったために頼朝から不興を買って幕府成立後は冷遇されたが、逆に義範はすぐさま頼朝の元に馳せ参じたため「父に似ず殊勝」と褒められ、源氏門葉として優遇された、とある。
・「工藤庄司景光」(生没年未詳)は頼朝に呼応して安田義定らと甲斐で挙兵、富士山北麓の波志太(はしだ)山で平氏方の俣野(またの)景久を敗走させた。八十歳頃の建久四年(一一九三)の富士の巻狩りで大鹿を射損じ、間もなく病没したという。通称は荘司(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・「宇佐美三郎助茂」宇佐美祐茂(うさみすけもち 生没年未詳)。工藤祐経の弟。伊豆田方郡(現在の静岡県)宇佐美荘を本領とする宇佐美氏祖。頼朝の挙兵時から従い、奥州攻めや京都入りにも加わった。通称は三郎。名は「助茂」とも書く(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
・「土屋三郎宗遠」(大治三(一一二八)年?~建保六(一二一八)年?)。土肥実平の弟で相模国土屋(現在の神奈川県平塚市土屋)を本拠地とした土屋氏始祖。頼朝の挙兵から側近として仕え、石橋山の戦いで敗れた頼朝に従い、安房に逃れた七騎落の一人とも言われる。同年九月の甲斐源氏との連携作戦では北条時政とともに頼朝の使者となって重要な役割を果たしている。以後、有力御家人の一人として活躍したが、承元三(一二〇九)年五月、宿怨から梶原家茂(梶原景時の孫)を和賀江島近くで殺害し、侍所別当和田義盛のもとに出頭、身柄を預けられた。宗遠の主張には十分な正当性が認められなかったが、翌月、将軍源実朝は故頼朝の月忌にも当たっていたため、特に彼を赦免している(以上は、ウィキの「土屋宗遠」に拠った)。
・「侍所〔十八ケ間。〕」侍所の主部で儀式を行うために設けられた、長大な大きさの部屋の固有名詞のようである。十八間は約三七・八メートルに相当する。・「有道」正道に叶っていること。正しい道に叶った行いをしていること。
「八町」約八七三メートル弱。]