芥川龍之介漢詩全集 五
五
波根村路
倦馬貧村路
冷煙七八家
伶俜孤客意
愁見木綿花
〇やぶちゃん訓読
波根(はね)村路
倦馬(けんば) 貧村の路(みち)
冷煙 七八家(しちはつか)
伶俜(れいべん) 孤客(こかく)の意(おも)ひ
愁見(しうけん)す 木綿(もめん)の花
[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。
大正四(一九一五)年八月二十三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七四)所載。
以下、四首連続で当該書簡に載る(以下、四首では以上の注記を略す)。
龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、畏友井川恭の郷里松江に来遊、初恋の人吉田弥生への失恋の傷心の痛手を癒した(この井川の誘いは勿論、それを目的とした確信犯である。それは龍之介自身もよく分かっていた)。本書簡は帰京した翌日に認められたそれへの返礼で、そこに忘れ難い旅の思い出を四首の漢詩で示したものである。なお、この度の直後、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載された。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で初めて公開された(リンク先はその初出形を復元した私の電子テクスト)。
書簡は『大へん世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有つた』と真心の謝辞に始まり、『非常にくたびれたので未だに眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない』(「遲しまつた」はママ)とあって以下に四首が示されている。
「羽根村」石見地方の石東地域(石見東部地域)に位置しする旧安濃郡(あのぐん)羽根村、現在の島根県大田市波根町と思われる。江戸時代は商港として繁栄したが、龍之介が訪れた当時は海浜の淋しい村落であったようである。ここで龍之介は井川と海水浴をしている。この旅で二人は仮称「松江連句」と呼ばれる連句をものしており、そこに、羽根での井川の句に、
〔駄〕 ゆく秋や五右エ門風呂に人二人 井
というのがある。これについては、以前に私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」で以下の注を附したので引用しておく。
《引用開始》
やぶちゃん+協力者新注:「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、『波根海岸で泳いだ後芥川が初めて五右エ門風呂に入ったときの、戸惑ったユーモラスな樣を彷彿させる。』と記す。これは井川の「翡翠記」の「二十」に現われる。泊まりで訪れた石見の波根海岸での、海水浴の後の場面である。該当箇所を「翡翠記」より引用する(四十八ページ)。
海から上って二人は風呂場をさして行った。
「ヤッ五右衛門風呂ごえもんぶろだね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」と龍之介が大に無気味がる。
「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏おどりをするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。
僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸つかっていたが、
「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。
《引用終了》
「伶俜」落魄れて孤独なさま。勿論、「孤客」龍之介自身を指す。]