耳嚢 巻之五 梶金平辭世の事
梶金平辭世の事
御當家御旗本の豪傑と呼れ、神君の御代戰場にて數度武功を顯はしたる梶金平死せる時辭世の歌とて人の咄しけるが、豪氣無骨の人物忠臣の心を詠じたるには、聊(いささか)人の批判賞美をも不顧(かへりみざる)所面白ければ爰に記しぬ。
死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。
・「梶金平」梶正道(天文二〇(一五五一)年~慶長一九(一六一四)年)。底本の鈴木氏注に、『九歳の時から家康に仕え、永禄七年今川氏真との戦闘に負傷をしながら敵の首級をあげ、九年以後は本多忠勝の手に付けられ侍大小として出陣毎に先手を勤めた。天正三年長篠の役、十二年長久手の戦にも活躍、十八年の小田原の陣には大手口に突入して殊勲をあらわした』。『関ヶ原役の後、同輩たちは多く直臣に復帰することを願ったが、金平は家康の特志により本多家に止まった』とある。ウィキの「本多忠勝」の「家臣」の項には、梶勝忠とあり(正道は恐らく「しょうどう」と読み、如何にも法号っぽい)、『関ヶ原の戦いにおいて、愛馬・三国黒を失いながらも徒立ちで奮戦する忠勝に自分の馬を差し出し窮地を救った逸話が残っている』とある。彼の関連では「耳嚢 卷之四」の「剛氣の者其正義を立る事」の私の注を参照されたい。
・「御当家」徳川家。
・「辭世」底本では「辭制」であるが、右に『(辭世)』と傍注するのを採った。
・「死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば」一応読みを附すと、
死にともなあら死にともな死(しに)ともな御恩に成(なり)し君を思へば
「な」は「無」で、形容詞「無し」の語幹。「あら」は感動詞。「とも」は「たくも」のウ音便「とうも」の転訛であろう。「たく」は希望の助動詞「たし」の連用形、「も」は「とも」(格助詞「と」+係助詞「も」)と同義で、「~という風にも」の意、「も」は一つを挙げて他を類推させる用法で、ここでは「生きんとも」がその対象となる。「君」は無論、神君家康公である(直接は事実上の主君は本多忠勝であるが、忠勝自身が徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられる家康の功臣であるからその忠信はダイレクトに家康に向かう)。言わずもがなであるが、死ぬことを恐れているのではなく、八面六臂の活躍をしながらも忠義を尽くし切れたかどうかを死の床にあっても自問する、金平の恐ろしいまでの忠信の吐露である。
――死にとうはない……ああっ! 死にとうない、死にとうない!……無辺広大なる御恩を受けた、上さまのことを思うと、な……
■やぶちゃん現代語訳
梶金平辞世の事
御当家御旗本の内でも豪傑と呼ばれ、神君家康公の御代、戦場で数度に亙る武功を立てた梶金平正道殿、御逝去の砌りの辞世の歌とて、人の教え呉れたが、如何にも豪気無骨の人物、その忠臣の心にて詠じたる感懐、聊かも他者の批判や評価なんど、これ、気にすることのなきところ、まっこと、面白う御座れば、ここに書き記しおく。
死にともなあら死にともな死ともな御恩に成し君を思へば