一言芳談 二十二
二十二
明禪法印云、しやせまし、せでやあらましとおぼゆるほどのことは、大抵(おほむね)、せぬがよきなり。
〇しやせまし、せでやあらまし、なすべきかなやむべきかなり。兼好の詞(ことば)に、あらためて益なき事はらためざるをよしとすとありし、おなじ心なり。
[やぶちゃん注:冒頭注で示した通り、卜部兼好は「徒然草」第九十八段に、
尊きひじりの言ひ置きける事を書きつけて、一言芳談とかや名づけたる草子を見はべりしに、心にあひて覺おぼえしことども。
として、五条を引用、その冒頭に本条を、
一、 しやせまし、せずやあらましと思ふ事は、おほやう、せぬはよきなり。
として引用している(本作での順列上も筆頭になる)。曹景惠氏の「徒然草における『一言芳談』の受容について」(岡山大学大学院文化科学研究科紀要十九巻一号 二〇〇五年三月発行)によれば、原文と「徒然草」掲載のものとを比較した『稲田利徳氏は「第一条で、原文の、「おぼゆるほどの事」を「思ふこと」とするのは、現実の生活次元の問題にとらえてしまっている。原文の「しようかしまいかと迷う程度のことは」と、迷う対象の価値を問題にしているのとはずれる」と説かれている。「しようかしまいかと思うことはだいたいはしない方がよい」、というこの第一条は一見、消極的な生き方を勧めているかのようでもあるが、桑原博史氏は「しようかと思っている事柄は、多く人間の欲望心から生ずるものであり、「迷いの常体を脱するように心の欲望のままには行動しないこと」こそがこのこと言葉の意味するところであると解釈されている』。『稿者の理解はこの桑原氏の見解に近いが、さらに連れずれ草百二十七段の「改て益なきことは、改ぬを力とするなり」という文言や第百十段の「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。(中略)一目なりとも遅く負くべき手に就くべし」という叙述と、九十八段第一条の趣旨との間によく通い合うところがあることに留意して置きたい』とある。第百十段は兼好が双六の上手にその必勝法を問うたその答えに現われるもの。以下に全文を示しておく。
双六の上手といひし人に、その手立(てだて)を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か、疾(と)く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目(ひとめ)なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。道を知れる教へ、身を治め、國を保たん道も、亦しかなり。
老婆心乍ら注すると、「おそく負くべき手」とは、負けないように打つ――即ち、双六の戦略の中で、どの打ち方をしたら早く負けになってしまうだろうかという負けプロセスの手を読み、それの手を用いることなく――一目(いちもく)でも『遅く』負けそうな手に従う――のがよい、というパラドクシャルな謂いである。]