芥川龍之介漢詩全集 四
四
放情凭檻望
處々柳條新
千里洞庭水
茫々無限春
〇やぶちゃん訓読
放情 檻(らん)に凭(もた)れ 望めば
處々 柳條(りふでう) 新たなり
千里 洞庭の水
茫々 無限の春
[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この大正四(一九一五)年四月一日に龍之介は「ひよつとこ」を『帝国文学』に発表している(リンク先は私の初出稿+決定稿附やぶちゃん注版)。
大正四(一九一五)年六月二九日(推定)附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一六五)所載。
書簡冒頭には『手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者に通つてゐる』とあって、かなり体調を崩している様が見て取れる。これは、実はこの年の初めに起った初恋の人吉田弥生との失恋(弥生が戸籍の移動が複雑で非嫡出子扱いであったことや吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったことなどから養家芥川家から激しい反対にあったためとされる)の痛手を遠因としており、新全集の宮坂覺氏の年譜の五月中旬の項には『一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』が、これについては『破恋の痛手から逃れるための吉原通いの影響も指摘されている』とある。その後文で『體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい』と続くことから、井川の手紙は出雲行を誘うものであったことが判明する(「五」以下の漢詩及び注を参照のこと)。それに続けて東京帝国大学英文科二年の学年末試験が済んで『せいせいした その時いゝ加減に字を並べて』として本漢詩を掲げ、『と書いた それほど 樂な氣がしたのである』と記している(本書簡は以下も続き、非常に長いものであるが、それ以降の内容は直接、漢詩とは拘わらないので省略する)。
「放情」は「放情自娯」で「情を放(ほしいまま)にして自(おのづ)から娯(たの)しむ」、自在な感懐を以って自由に楽しむの謂い。
「檻」は欄干。
「柳條 新たなり」柳の枝は新緑に萌えている。]