鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 覚園寺
覺 園 寺
二階堂ノ内也。山號ハ鷲峯山卜云。律宗也。泉涌寺ノ末也。七貫百文ノ御朱印有。本尊藥師・日光・月光ハ澤間法眼作ナリ。十二神ハ運慶作。相模守平貞時、永仁四年二建立、開山ハ心惠和尚、諱ハ知海、願行ノ嗣法也。黑地藏又ハ火燒地藏卜モ云。堂前ノ山根ニアリ。義堂・絶海唐土ヨリ取來ル佛也。毎年七月十一日ノ夜、鎌倉中ノ男女參詣ス。或云、有時此地藏ヲ彩色ケレドモ、一夜ノ内ニ又本ノゴトク黑クナリケリ。毎日毎夜地獄ヲメグルニヨリ、火焰ニフスボリ、黑クナルトナン。罪人ノ苦ミヲ見テ堪カネ、自ラ獄卒ニカハリ、火ヲタキ、罪人ノ煩ヲ休メラルヽト也。鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ。
此寺ニ源次郎・彌次郎ガ塔卜云有卜舊記ニ見へクリ。住僧ニ問ヘバ曰ク、此レ俗説ノ僞也。開山ノ石塔ヲ誤テ云也ト。山根ニハワムネノ井アリ。山上ニワメキ十王、ダゴツキ地藏卜云テ石佛アリ。見ルニタラヌ物也ト云。山上ニ弘法ノ護摩堂ノ礎ノ跡アリトゾ。爰ヲ出テ東北ノ側ニ大平寺ノ跡、今ハ畠ニナリテアリ。
寺寶
心惠嘉元四年自筆ノ状、判有。源尊氏自筆梁牌二枚
[やぶちゃん注:以下の説明は、底本では三字下げ。]
一枚ニ文和三年十二月八日、住持沙門思淳謹誌トアリ、則自筆ヲ染ノヨシ證文有。
院宣、綸旨、將軍家ノ證文數通
[やぶちゃん注:「澤間」は「宅間」の誤り。平安期からの似せ絵師(肖像画家)の家柄の鎌倉・室町期の絵仏師としてしばしば登場する。
「彩色ケレドモ」「彩色シケレドモ」の脱字か、若しくは「彩色」を「いろどり」と訓じているか。
「鳴呼此等ノ妄鋭辨ズルニ足ズ。何ゾ愚民ヲ塗炭ニヲトシ入ルヤ」地蔵の業火による黒焼きというホラーの伝承、黄門様はお好みではないらしい。このようにダイレクトな感懐が語られるのは本作では珍しいことである。
「源次郎・彌次郎ガ塔」初耳である。この伝承についてご存知の方の御教授を乞うものである。
「ダゴツキ地藏」団子窟(だんごやぐら)、別名地藏窟のことであろう。「鎌倉攬勝考卷之九」末の挿絵を参照されたい。この部分の叙述から光圀は百八やぐら群を踏査していないことが分かる。……黄門様、鎌倉に来てここを見なかったのは、一生の不覚と存じます……。]
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