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2012/11/11

北條九代記 義經の妾白拍子靜

僕は昨日から今日まで、源義経に添えられる悲恋の女のサブ・ストーリー――ではない――「靜」という一人の女性(にょしょう)と一緒の時間を持てたことを――とても嬉しく思っている。

――いや――「靜」の視点から、その世界を見ること……これって……考えて見たら僕はずっと……そう、言ってきたじゃないか……漱石の「こゝろ」で……さ……



      ○義經の妾白拍子靜

 

北條四郞時政上洛して、平氏の一類所々に隱ゐたるを搜出し、或は生捕、或は押寄せて、討取りければ、平氏の餘黨は一夜の宿をも假す人なく、影を隱すべき栖もなし。小松三位維盛の子息六代は遍照寺(へんぜうじ)の奧にして尋ね出しけるを、高雄の文覺上人使僧を關東に下して申預り、出家せしめ給ひぬ。伊豫守義經の妾(おもひもの)靜(しづか)女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行(しゆぎやう)是を藏王堂の邊にして捕へたり。都に上(のぼ)せて北條に送渡す。關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す。その母磯禪師(いそのぜんじ)も伴うて下りしに、筑後途權守俊兼、民部丞盛時を以て、義經の事を尋ね問(とは)るゝに、靜が申す所分明ならず。「伊豫守殿は何がしとかや、名も忘れて候吉野山の僧坊に立入り給へば、大衆起りて討奉らんと計ると聞きて、山臥(やまぶし)の姿に成て、大峯に入る由にて、靜をば一の鳥居の邊に棄てて、山深く入り給ふ。女は峯に入る事結界の故に泣々京都の方へ向ふ所に雜色(ざつしき)の男等衣裳財寶を取て逃失せしかば、道に迷うて捕へられ候。是より外には義經の御行方は知らず」と申す。先(まづ)鎌倉に留めて、安達新三郞に預けらる。賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙(ならび)なしと聞く。この次に𢌞廊に召出し舞を見ばや」とありければ、御使を立てらるゝに、別緖(べつしよ)の愁(うれへ)に沈みて、病に罹り候由を申す。重て使を遣し、偏に大菩薩の奉幣(ほうべい)に擬せられし由返す返す召されしかば、力及ばず、澁りながら、鶴ヶ岡にまゐりて、𢌞廊に舞臺を構へ、工藤左衞門尉祐經は鼓を打ち、畠山次郞重忠は銅拍子を仕る。白雪(はくせつ)の袖を𢌞(めぐら)し、黃竹(くわうちく)の歌を上(あ)ぐ。靜が歌舞の有樣類(たぐひ)なくぞ覺(おぼ)されける。

 

  吉野山みねの白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

  しつやしづしづの苧環(をだまき)繰返し昔を今になすよしもがな

 

その聲の美しさ、空に滿ち雲に通ひ、梁塵宛然(さながら)飛ぶかとぞ上下の感興を催しける。賴朝仰せける樣は、「八幡宮の御寶前にてその藝を施すには關東の萬歲をこそ祝ふべきに、憚る所なく、義經を慕ふて離別の曲を歌ふ事の奇怪さよ」と有ければ、御臺政子申させ給ふは、「君既に流人とし、伊豆におはします時、我に契の淺からざりしを、時宜の恐(おそれ)ありとて、北條殿潛(ひそか)に引込められしに、暗き夜の雨に燭をもとらず、獨(ひとり)淚に搔(かき)曇り、又石橋の戰(たゝかひ)に御行方を聞かまほしく、夜となく晝となく魂を消し、胸を冷し候ひける。今の靜が心の内誠に往初(そのかみ)に較べて、さこそと思ひ候ぞや。内に動く物思の外にあらはす風情となる、いとど哀(あはれ)に覺えたり」とのたまふに、賴朝憤(いきどほり)解け給ふ。卯花重(うのはながさね)の御衣(ぎよい)を脫ぎて、簾(みす)より押出させ給へば、靜は是を賜り打被(うちかづ)きてぞ入りにける。工藤祐經、梶原景茂(かげもち)、千葉常秀、八田朝重(やたのともしげ)、藤(とう)判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。笑語(せうご)興に入り、郢曲(えいきよく)妙を盡し、靜が母磯禪師も藝を施し、慰めければ、皆數盃(すはい)を傾けたり、梶原三郞景茂醉(ゑひ)に和(くわ)して、しどけなく靜に向ひて艶言を通(つう)ぜしかば、靜大に怒りて、淚を流して申しける樣、「伊豫守殿は鎌倉殿の御連枝(ごれんし)、我はかの妾(おもひもの)なり。御家人の身として普通の女性(によしやう)に戲(たはむ)るゝ如くに存ずる歟(か)。義經牢寵(らうろう)し給はずは、和殿達(わどのたち)に見(まみ)ゆる事は有るまじ。況や艶語(えんぎよ)を通ぜられんや。是(これ)つけても、あな痛(いたは)しの伊豫守殿や」とて引被(ひきかづ)て臥(ふし)ければ、景茂は面目なく、人々皆興を消して歸られたり。文治二年閏七月二十九日靜卽ち男子(なんし)を產生(さんしやう)す。是伊豫守殿の御子なり。女子ならば母に給はるべし。男子たる上は將來其心根(こころね)計(はかり)難しとて、安達新三郞に仰せて、由比浦(ゆひのうら)に棄てしむ。新三郞行向ふに、靜更に之を出ざす。衣に纒(まと)ひ、抱き臥して、叫喚(さけびよば)ふ、時移りければ、安達も哀(あはれ)を催しながら、磯禪師を責(せめ)しかば、力及ばず、赤子を渡す。御臺政子哀(あはれ)がり給ひて、申し宥(なだ)めらるれども、叶はずして刺殺(さしころ)して埋(うづ)まれ、八月十五日靜は暇(いとま)給はりて都に上る。樣々の重寶(ちようはう)共御臺、姬君の御方より給はりけり。

 

[やぶちゃん注:「北條四郞時政上洛」は文治元(一一八五)年十一月二十五日。同日、行家・義経の追補の宣旨が下された。以下に見るように、これは静捕縛の十二日後で、「吾妻鏡」では、その間に、

 

十八日の条に前日に捕縛された静の供述(後注参照)に基づき、更なる(これより前から捜索は行われていた)吉野の僧徒による義経の山狩りの記事が載り、静については、『靜者。執行頗令憐愍相勞之後。稱可進鎌倉之由云々。』(靜は、執行(しぎやう)頗る憐愍(れんびん)せしめ、相ひ勞はるの後、鎌倉へ進ずべしの由を稱すと云々。:静御前の儀は、金峰山寺寺務職が頗る気の毒に思い、労わって休ませた後、取り敢えず、鎌倉へ護送致すに若くはなし、という意見を京へ伝えた、とのこと。)とある。

 

同二十日の条には、義経・行家が京都を出立して、先の六日に大物の浜から船に乗り込んで出帆せんとした際、暴風に遭って難破したという噂の立っているところに、帰京した八島時清によって、二人は現在も死んでいない、という情報が齎されたとある。同条は続けて、義経とともに九州へ落ちようとしていた平時実(義経に接近した平時忠の子で、父時忠同様、流罪の判決を受けながらも執行が猶予されて未だ京都にいた)の捕縛記事が載る(なお、この時実は文治二(一一八六)年一月に上総国に配流されるが、文治五(一一八九)年には赦免されて帰京し、建暦元(一二一一)年には従三位に叙されている)。

 

同二十二日には、

 

〇原文

辛丑。豫州凌吉野山深雪。潛向多武峰。是爲祈請大織冠御影云々。到着之所者。南院内藤室。其坊主号十字坊之惡僧也。賞翫豫州云々。

 

〇やぶちゃんの書き出し文

廿二日辛丑。豫州吉野山の深雪を凌ぎ、潛(ひそか)に多武峰(たふのみね)へ向ふ。是れ、大織冠の御影(みえい)に祈請せんが爲なりと云々。

到着の所は、南院の内、藤室(ふぢむろ)、其の坊主は十字坊と号するの惡僧なり。豫州を賞翫すと云々。

 

ともある(「多武峰」は現在の奈良県桜井市南部にある山及びその一帯の地域名。「大織冠」は藤原鎌足で、伝承によれば多武峰には、鎌足長男の僧定恵が父の墓をここに遷したとされている。「藤室」南院藤室という多武峰に林立していた寺の一つらしい。現在の多武峰観光ホテル付近にあったという。「惡僧」は「豪勇の僧兵」の意。)。

 

「遍照寺」右京区嵯峨広沢西裏町にある真言宗の寺院。通称、広沢不動尊。

 

「高雄の文覺上人」この「平家物語」の「六代斬られ」で知られる六代(彼は平清盛の祖父正盛から数えて直系六代目に当たる)平高清捕縛と、文覚による助命嘆願(六代は彼の弟子であった)は「吾妻鏡」の同年十二月一七日の条に、その頼朝による許諾(文覚へ御預け)は同十二月二十四日の条に載る。六代はこの後、文治五(一一八九)年)に剃髪して妙覚と号し、建久五(一一九四)年五月に鎌倉に下向、大江広元を通じて頼朝に異心無く出家した旨を伝え、同六月十五日には頼朝に謁見、「吾妻鏡」の記載からは、その後に関東の一寺の別当職に任ぜられたものかとも思われる。その後も僧として諸国行脚したが、頼朝の死の直後、庇護者であった文覚が三左衛門事件で土御門通親襲撃計画の謀略に連座して隠岐に配流されると、六代も文覚坊の宿所であった京の二条猪熊猪熊にて捕縛され、鎌倉へ護送の上、逗子の田越川畔にて処刑された。享年二十七歳であった。

 

「伊豫守義經の妾靜女といふ白拍子は義經歿落して、吉野山に捨てられしを、吉野の執行是を藏王堂の邊にして捕へたり」静捕縛の記事は文治元年十一月十七日の記事の現われる。以下に示す(以下、「吾妻鏡」の補注は「・」で示した)。

 

●主題 アリア 静の捕縛と最初の供述

 

〇原文

十七日丙申。豫州籠大和國吉野山之由。風聞之間。執行相催惡僧等。日來雖索山林。無其實之處。今夜亥剋。豫州妾靜自當山藤尾坂降到于藏王堂。其躰尤奇恠。衆徒等見咎之。相具向執行坊。具問子細。靜云。吾是九郞大夫判官〔今伊與守〕妾也。自大物濱豫州來此山。五ケ日逗留之處。衆徒蜂起之由依風聞。伊與守者假山臥之姿逐電訖。于時與數多金銀類於我。付雜色男等欲送京。而彼男共取財寳。弃置于深峯雪中之間。如此迷來云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文(「伊與」を「伊豫」に変えた)

十七日丙申。豫州、大和國吉野山に籠るの由、風聞の間、執行(しぎやう)、惡僧等を相ひ催して、日來(ひごろ)山林を索(もと)むと雖も、其の實無きの處、今夜亥の剋、豫州が妾(せふ)靜(しづか)、當山藤尾坂(ふじをさか)より降(くだ)り藏王堂(ざわうだう)に到る。其の躰(てい)尤も奇恠(きかい)なり。衆徒等、之れを見咎め、相ひ具し、執行坊に向ひ、具さに子細を問ふ。靜、云はく、「吾は是れ、九郞大夫判官〔今の伊豫守〕が妾也。大物(だいもつ)の濱より豫州、此の山に來たり、五ケ日逗留の處、衆徒蜂起の由、風聞するに依りて、伊豫守は山臥(やまぶし)の姿を假り、逐電し訖(をは)んぬ。時に數多(あまた)の金銀の類ひを我に與へ、雜色男(ざふしきをのこ)等を付けて京へ送らんと欲す。而るに彼の男共財寳を取り、深き峯の雪中に弃(す)て置くの間、此くの如く迷ひ來たる。」と云々。

 

以下、「吾妻鏡」注。

・「執行」「しゆぎやう(しゅぎょう)」とも読み、寺社で諸務を行う僧の統括責任者。

・「藤尾坂」吉野山中千本にある。

・「藏王堂」中千本にある金峯山寺(きんぷせんじ)本堂のこと。

・「執行坊」先に執行(しぎょう)の執務室。現在は蔵王堂の下に在る。

・「大物の濱」現在の兵庫県尼崎市の海浜部の旧地名。古くは猪名(いな)川の河口港として栄え、義経が平家追討のために船出した地として有名。現在は内陸化してしまった。

 

「白拍子」平安末から鎌倉にかけて流行した白拍子という歌舞を演じた主に女性(子供)の芸人。今様や朗詠などを歌いつつ、水干・立烏帽子に佩刀という男装にて舞ったことから男舞とも言われた。ウィキの「白拍子」によれば、『古く遡ると巫女による巫女舞が原点にあったとも言われている。神事において古くから男女の巫が舞を舞う事によって神を憑依させた際に、場合によっては一時的な異性への「変身」作用があると信じられていた。日本武尊が熊襲征伐において女装を行い、神功皇后が三韓征伐の際に男装を行ったという説話も彼らが巫として神を憑依させた事の象徴であったという』。『このうち、巫女が布教の行脚中において舞を披露していく中で、次第に芸能を主としていく遊女へと転化していき、そのうちに遊女が巫以来の伝統の影響を受けて男装し、男舞に長けた者を一般に白拍子とも言うようになった』とある。

 

「都に上せて北條に送渡す」吉野の執行が静を京の北条時政の元へ護送したのは、捕縛から十九日後の十二月八日であったが、その直後に時政によって尋問が行われ、一週間後の十五日に鎌倉にその内容が伝えられた。

 

●第一変奏 静の北条時政による尋問とその供述

〇原文

十五日甲子。北條殿飛脚自京都參着。被注申洛中子細。謀反人家屋等先點定之。同意惡事之輩。當時露顯分。不逐電之樣𢌞計略。此上又申師中納言殿畢。次豫州妾出來。相尋之處。豫州出都赴西海之曉。被相伴至大物濱。而船漂倒之間。不遂渡海。伴類皆分散。其夜者宿天王寺。豫州自此逐電。于時約曰。今一兩日於當所可相待。可遣迎者也。但過約日者速可行避云々。相待之處。送馬之間乘之。雖不知何所。經路次。有三ケ日。到吉野山。逗留彼山五ケ日。遂別離。其後更不知行方。吾凌深山雪。希有而著藏王堂之時。執行所虜置也者。申狀如此。何樣可計沙汰乎云々。

若公御平愈云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十五日甲子。北條殿が飛脚、京都より參着す。洛中の子細を注し申さる。謀反人が家屋等先づ之を點定(てんじやう)す。惡事に同意の輩、當時露顯の分、逐電せざる樣、計略を𢌞らし、此の上、又、師中納言殿へ申し畢んぬ。次に豫州が妾出來す。相尋ぬるの處、「豫州都を出で西海へ赴くの曉、相ひ伴はれて大物の濱へ至る。而るに船、漂倒(へうたう)するの間、渡海を遂げず、伴類、皆、分散す。其の夜は天王寺へ宿す。豫州、此れより逐電す。時に約して曰く、『今一兩日、當所に於いて相ひ待つべし。迎への者を遣はすべきなり。但し、約日を過ぎば、速やかに行き避(さ)るべし。』と云々。相ひ待つの處、馬を送るの間、之に乘り、何所(いづく)とも知らずと雖も、路次(ろし)を經ること、三ケ日有りて、吉野山へ到る。彼の山に逗留すること五ケ日にして、遂に別離す。其の後、更に行方を知らず。吾、深山の雪を凌ぎ、希有にして藏王堂に著くの時、執行(しぎやう)、虜(とら)へ置く所となり。」てへれば、申す狀、此くの如し、何樣(いかやう)に計ひ沙汰すべきかと云々。

若公、御平愈と云々。

 

・「點定」土地・家屋・農作物を没収又は差し押さえすること。

・「師中納言」公卿吉田経房(永治二(一一四二)年~正治二(一二〇〇)年)。藤原光房の子。彼は頼朝に高く評価されて初代関東申次(新設の朝廷職で鎌倉幕府方の六波羅探題とともに朝廷・院と幕府の間の連絡・意見調整を行った)の濫觴となったと考えられている。ただ、平氏政権下に於いて極めて順調に出世し乍ら、何故、彼がここに至って同じく順調に新幕派の地位就けたのかは、よく分かっていない。参考にしたウィキの「吉田経房」によれば、経房はその兄と二代に渡って『伊豆守であり、伊豆国の在庁官人であった頼朝の義父・北条時政と交流があったという説がある。また経房と頼朝の関係を見ると、二人ともかつては上西門院の側近で面識があったと考えられ』、その辺に真相がありそうではある。

・「若公」源頼家。十一日に急病を発していた。

 

 

「關東に下すべき由仰に依て鎌倉に遣す」前の時政の伝令を受けて、翌文治二(一一八六)年一月廿九日の条に、

 

 

●第二変奏 頼朝による静の鎌倉護送指令

〇原文

廿九日戊申。豫州在所于今不聞。而猶有可被推問事。可進靜女之由。被仰北條殿云々。又此事尤可有沙汰由。付經房卿令申給云々。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿九日戊申。豫州が在所今に聞かず。而うして猶ほ推問せらるべき事有り、靜女を進(まゐ)すらべきの由、北條殿に仰せらると云々。

又、此の事尤も沙汰有るべき由、經房卿に付して申さしめ給ふと云々。

 

とある。最後の部分は、後白河法皇に対する義経探索の徹底要請の謂いである。因みに、実は例の頼朝の後白河法皇に対する、かの有名な驚天動地の評言『仍日本第一大天狗者。更非他者歟。』(仍つて日本第一の大天狗は、更に他者(たしや)に非ざるか。)は、正に静捕縛の文治元年十一月十七日の前条同月十七日の条の最後に現われている。

 

以上を受けて時政は、

 

 

●第三変奏 時政の静鎌倉護送了解

〇原文

十三日辛酉。當番雜色自京都著。進北條殿狀等。靜女相催可送進。(以下略)

 

〇やぶちゃん書き下し

十三日辛酉。當番の雜色、京都より參着し、北條殿の狀等を進ず。靜女を相ひ催し送り進ずべし。

 

と送っている。この次項の二月十八日には『豫州隱住多武峯事風聞。依之彼師壇鞍馬東光坊阿闍梨。南都周防得業等。有同意之疑。可被召下之云々。』(豫州多武峯に隱れ住む事風聞す。之に依りて彼の師壇鞍馬の東光坊阿闍梨、南都の周防得業(すはうとくげふ)等、同意の疑ひ有り、之を召下さるべしと云々。)と義経の動向がパラレルに語られ、臨場感を高めている(「東光坊」は鞍馬寺の塔頭で義経の牛若丸時代の学問所と伝えられている。「得業」は名前ではなく仏門で定められた課程を修了した者のこと)。

 

「その母磯禪師」磯禅師(生没年不詳)は白拍子の租ともされる人物。静御前の母で礒野禅尼とも。以下、ウィキの「磯禅師」によれば、『出身地は大和国磯野(現在の奈良県大和高田市礒野)とも讃岐国小磯(現在の香川県東かがわ市小磯)ともいわれる。自身も白拍子であり、『貴嶺問答』によると京の貴族の屋敷に白拍子の派遣などを行っていた』。鳥羽天皇の御世、藤原信西がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い水干に鞘巻をさし、烏帽子の男装で舞わせたのが白拍子の始まりと「徒然草」にあり、静御前に白拍子を伝えたとする。但し、「徒然草」は磯禅師や静御前が生きた時代から一五〇年も後に書かれたものであるからその信憑性はないに等しい、とある。『奈良県大和高田市礒野は礒野禅尼の里といわれ』、本文に示された総てが終わった後、『静はここに身を寄せたとも伝えられる』とある。

 

「その母磯禪師も伴うて下りしに……」静磯禅師の鎌倉下向は、先の時政の手紙参着から三十一日後の文治二(一一八六)年三月一日であった。この日は奇しくも諸国惣追捕使・地頭職が補せられた、幕府の地固めのエポック・メーキングな日でもある(以下の前略部分がそれ)。

 

●第四変奏 静及び母磯禅師鎌倉参着

〇原文

一日己夘。(前略)

今日。豫州妾靜依召自京都參着于鎌倉。北條殿所被送進也。母礒禪師伴之。則爲主計允〔行政〕沙汰。點安逹新三郞宅招入之云々。

 

〇やぶちゃん書き下し文

今日、豫州が妾靜、召に依りて京都より鎌倉に參着す。北條殿送り進ぜらるる所なり。母の礒禪師、之を伴ふ。則ち主計允(かぞへのじよう)が沙汰として、安逹新三郞が宅(いへ)を點じて、之を招き入るると云々。

 

・「主計允」二階堂行政(生没年不詳)。代々政所執事を務めた二階堂氏の祖。当時は藤原姓であったが、後に鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂と称した。

・「沙汰」は主担当。

・「安逹新三郞」安達清経(生没年未詳)。安達景盛の子、安達盛長の孫に当たる。当時は雑色の頭領であったが、義経と不和になった頼朝の命によって、以前から京都で義経の監視及び報告の任務を任ぜられた人物でもある。

・「點じて」は、指定して、の意。

 

「筑後途權守俊兼」藤原俊兼(生没年未詳)。頼朝の右筆。

 

「民部丞盛時」平盛時(生没年不詳)。同じく頼朝の右筆。彼らは一応、政所上級官僚として庶務に当たったようであるが、実際には頼朝の個人的秘書としての性格が強い。

 

「義經の事を尋ね問(とは)るゝに、靜が申す所分明ならず……」以下は、同年三月六日の条に基づくが、読んでお分かりの通り、先の京での陳述と大きく異なる点が着目される。静は義経を庇うために、証言をぬらりくらりと二転三転させては、「記憶に御座いません」と、何処かで聴いたような攪乱を謀ろうとしており、ここに静のひたむきな愛だけでなく、彼女の聡明さをも読み取るべきである。

 

●第五変奏 幕府による静への尋問とその供述

〇原文

六日甲申。召靜女。以俊兼盛時等。被尋問豫州事。先日逗留吉野山之由申之。太以不被信用者。靜申云。非山中。當山僧坊也。而依聞大衆蜂起事。自其所以山臥之姿。稱可入大峯之由入山。件坊主僧送之。我又慕而至一鳥居邊之處。女人不入峯之由。彼僧相叱之間。赴京方之時。在共雜色等取財寳。逐電之後。迷行于藏王堂云々。重被尋坊主僧名。申忘却之由。凡於京都申旨。與今口狀頗依違。任法可召問之旨。被仰出云々。又或入大峯云々。或來多武峯後。逐電之由風聞。彼是間定有虛事歟云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

六日甲申。靜女を召し、俊兼、盛時等を以つて、豫州の事を尋ね問はる。「先日、吉野山に逗留の由、之を申す。太だ以て信用ぜられず。」てへれば、靜、申して云はく、「山中に非ず、當山の僧坊なり。而るに大衆蜂起の事を聞くに依りて、其の所より山臥の姿を以つて、大峯に入るべきの由を稱して入山す。件の坊主の僧、之を送る。我、又、慕ひて一の鳥居の邊に至るの處、女人は入峯(にふぶ)せざるの由、彼の僧、相ひ叱するの間、京の方へ赴くの時、共に在る雜色等、財寳を取りて逐電するの後、藏王堂に迷ひ行く。」と云々。重ねて坊主の僧の名を尋ねらるに、忘却の由を申す。凡そ京都に於て申す旨と今の口狀、頗る依違(いゐ)す。法に任せて召し問ふべきの旨。仰せ出ださると云々。

又、或ひは大峯に入ると云々。或ひは多武峯に來たりて後、逐電の由、風聞す。彼れ是れの間、定めて虛事有るかと云々。

 

 

「依違」曖昧な態度をとること。

 

この記載の後、「吾妻鏡」では同三月二十二日の条に、

 

●第六変奏 静懐妊の明示

〇原文

廿二日庚子。靜女事。雖被尋問子細。不知豫州在所之由申切畢。當時所懷妊彼子息也。産生之後可被返遣由。有沙汰云々。

 

〇やぶちゃんの書きし出し文

廿二日庚子。靜女の事、子細を尋ね問はると雖も、豫州の在所を知らざる由、申し切り畢んぬ。當時、彼の子息を懷妊する所なり。産生(さんしやう)の後、返し遣はさるべきの由、沙汰有りと云々。

 

『賴朝卿御臺所鶴ヶ岡にまゐらせらる。御臺の仰に、「かの靜と云ふ白拍子は今樣の上手にて舞の曲は世に雙なしと聞く。……』以下は、同年四月八日の条に基づく。

 

●第七変奏 鶴岡八幡宮寺上宮廻廊に於ける静の舞の一件

〇原文

八日乙夘。二品幷御臺所御參鶴岳宮。以次被召出靜女於𢌞廊。是依可令施舞曲也。此事去比被仰之處。申病痾之由不參。於身不屑者。雖不能左右。爲豫州妾。忽出揚焉砌之條。頗耻辱之由。日來内々雖澁申之。彼既天下名仁也。適參向。歸洛在近。不見其藝者無念由。御臺所頻以令勸申給之間被召之。偏可備 大菩薩冥感之旨。被仰云々。近日只有別緖之愁。更無舞曲之業由。臨座猶固辞。然而貴命及再三之間。憖𢌞白雪之袖。發黃竹之歌。左衛門尉祐經鼓。是生數代勇士之家。雖繼楯戟之塵。歷一﨟上日之職。自携歌吹曲之故也。從此役歟。畠山二郞重忠爲銅拍子。靜先吟出歌云。よし野山みねのしら雪ふみ分ていりにし人のあとそこひしき。次歌別物曲之後。又吟和歌云。しつやしつしつのをたまきくり返し昔を今になすよしもかな。誠是社壇之壯觀。梁塵殆可動。上下皆催興感。二品仰云。於八幡宮寳前。施藝之時。尤可祝關東万歲之處。不憚所聞食。募反逆義經。歌別曲歌。奇恠云々。御臺所被報申云。君爲流人坐豆州給之比。於吾雖有芳契。北條殿怖時宜。潛被引籠之。而猶和順君。迷暗夜。凌深雨。到君之所。亦出石橋戰塲給之時。獨殘留伊豆山。不知君存亡。日夜消魂。論其愁者。如今靜之心。忘豫州多年之好。不戀慕者。非貞女之姿。寄形外之風情。謝動中之露膽。尤可謂幽玄。抂可賞翫給云々。于時休御憤云々。小時押出〔卯花重。〕於簾外。被纏頭之云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

八日乙卯。二品幷びに御臺所、鶴岡宮に御參。次(ついで)を以つて靜女を𢌞廊に召し出さる。是れ、舞曲を施さしむべきに依りてなり。此の事、去ぬる比、仰せらるる處、病痾(びやうあ)の由を申し參らず。身の不屑(ふせう)に於いては、左右(さう)に能はずと雖も、豫州の妾として忽ちに掲焉(けちえん)の砌りに出ずるの条、頗る耻辱の由、日來内々に之を澁り申すと雖も、彼は既に天下の名仁(めいじん)なり。適々(たまたま)參向して、歸洛近きに在りて其の藝を見ざるは無念の由、御臺所、頻りに以つて勸め申さしめ給ふの間、之を召さる。偏へに大菩薩の冥感(みやうかん)に備ふべきの旨、仰せらると云々。

近日、只だ別夜緖(べつしよ)の愁(うれ)ひ有り。更に舞曲の業(なりはひ)無きの由、座に臨みて猶ほ固辭す。然れども貴命再三に及ぶの間、憖(なまじ)ひに白雪の袖を𢌞らし、黃竹の歌を發す。左衛門尉祐經、鼓(つづみう)つ。是れ、數代勇士の家に生れ、楯戟(じゆんげき)の塵を繼ぐと雖も、一﨟上日(いちらふじやうじつ)の職を歷(へ)て、自(みづか)ら歌吹(かすい)の曲に携はるの故に、此の役に從ふか。畠山二郞重忠、銅拍子(びやうし)を爲す。靜、先づ歌を吟じ出だして云はく、

 

  吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき

 

次に別物(わかれもの)の曲を歌ふの後、又、和歌を吟じて云はく、

 

  しづやしづしづの苧環(をだまき)くりかへし昔を今になすよしもがな

 

誠に是れ、社壇の壯觀、梁塵も殆々(ほとほと)動きつべし。上下皆興感を催す。二品、仰せて云はく、「八幡宮寳前に於いて藝を施すの時、尤も關東の萬歲を祝ふべきの處、聞こし食(め)す所を憚らず、反逆の義經を慕ひ、別れの曲を歌ふは奇恠(きかい)なり。」と云々。

御臺所、報(こた)へ申されて云はく、「君、流人として豆州に坐(おは)し給ふの比(ころ)、吾に於いては芳契有りと雖も、北條殿、時宜を怖れて、潛かに之を引き籠めらる。而れども猶ほ君に和順して、暗夜に迷ひ、深雨を凌ぎ、君が所に到る。亦、石橋の戰場に出で給ふの時、獨り伊豆山に殘り留まりて、君の存亡を知らず、日夜、魂を消す。其の愁ひを論ずれば、今の靜が心のごとし。豫州多年の好(よしみ)を忘れ、戀ひ慕はずんば、貞女の姿に非ず。外に形(あら)はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽(ろたん)を謝す。尤も幽玄と謂ひつべし、抂(ま)げて賞翫し給ふべし。」と云々。

時に御憤り休(や)むと云々。

小時(しばらく)あつて御衣(おんぞ)〔卯花重(うのはながさね)。〕を簾外に押し出だし、之を纒頭(てんとう)せらると云々。

 

・「身の不屑に於いては、左右に能はず」「不屑」は不肖で不幸の意、自身が囚われの身となっていることを言う。「左右に能はず」捕縛者である頼朝の命に服さないということなど出来ようはずもないところであるが、の意。

・「豫州の妾として忽ちに掲焉の砌りに出ずるの条」「掲焉」は「けつえん」とも読み、目立つさま、著しいさま。『義経のたかが愛人として、あからさまに会衆の面前に晒され出でるということは』の意。

・「偏へに大菩薩の冥感に備ふべきの旨」頼朝(若しくは政子)が、『これはもう屹度、神仏ながらも八幡台菩薩さえそなたの妙技に感じ給うに違いない』と静を引きだすためにヨイショしているのである。いや、懼れ多い神仏の名を出して、最早、彼女に拒絶出来ないようにする目的もあろう。巫女の系譜を引く白拍子ならばこそ、また猶更に出坐の拒否は出来なくなったとも言えようか。

・「近日、只だ別緖の愁ひ有り。更に舞曲の業無き」「別緒」は情緒・感情の意で、悲嘆限りなき感懐にうちひしがれて、の意。懐妊の悦びも束の間、咎人となった義経、その別離を言う。「更に舞曲の業無き」とは、『それ故に、とても生業(なりわい)の舞いや歌なんどはとてものことに、つこうまつること、これ出来申さず』と言うのである。

・「憖ひに」自分の意志に反して無理に行うことを言う。

・「黃竹の歌」は呉歌西曲(ごかせいきょく:六朝時代に長江流域で流行した歌謡で、「楽府詩集」の清商曲辞に属するものが大多数で,五言四句を基本形式とし、主題は殆んどが恋歌。)の一種と思われる。

・「左衛門尉祐經」工藤祐経(?~建久四(一一九三)年)。頼朝の寵臣。曽我兄弟に父河津祐泰の仇として討たれる彼である。

・「一﨟」六位蔵人の首席。極﨟(ごくろう)。工藤は当初、平重盛に仕えて宮中での実務も豊富な上(頼朝の寵愛はそこにもあった)、歌舞音曲にも通じて「工藤一﨟」とも呼ばれた。特に鼓は彼の得意中の得意であった。

・「上日」「じょうにち」とも読み、本来は古代の官人が宮中へ出勤した日、また、その日に出勤することを指した。ここではかつて朝廷へ蔵人として勤務していたことを指している。

・「銅拍子」禅宗で法会に用いる銅製のシンバル。

・「吉野山峯の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ戀しき」は、「古今和歌集」の第三二七番歌壬生忠岑の、

 

 み吉野の山の白雪踏み分けて入りしにし人のおとづれもせぬ

 

の本歌取りで、消息文さえ寄越さぬ遁世者を雪山に消えた義経に代えている。

・「別物の曲」別離を主題とした今様の舞。

・「しづやしづしづの苧環かへし昔を今になすよしもがな」「伊勢物語」第三十二段の、

 

 いにしへのしづのをだまきくりかへしむかしを今になすよしもがな

 

の本歌取りである。「しづ」は「倭文」という字を宛てる日本古来の織物の糸で、梶や麻などの緯(よこいと)を青や赤などに染めたものを用いたこれで織ることで、乱れ模様を織り出した。「苧環(をだまき)」は、その「倭文(しづ)」を織るための績麻(うみを:紡いだ麻糸。細く裂いて糸として縒(よ)った麻糸。「うみそ」とも言う。)を内側を空洞にして丸く巻いた巻子(へそ)のこと(現在の毛糸の巻いたものをイメージしてよい)。ここでは「靜(しづ)」という名をその色鮮やかな色の「倭文(しづ)」に掛け、更には彼女の白拍子、「妾(おもひもの)」としての愛人身分の「賤(しづ)」をも響かせている。

・「梁塵宛然(さながら)飛ぶかとぞ」「梁塵を動かす」か歌声の優れている譬え。昔、魯の虞公という声のよい人が歌を歌うと、梁(はり)の上の塵までもうきうきとして動いたという「劉向(りゅうきょう)別録」に載る故事に基づく。

・「和順」(人を信じ)心穏やかに従うこと。

・「外に形はるるの風情に寄せ、中に動くの露膽を謝す」政子は『――見せて呉れた舞と、その立ち姿の――外へと十二分に放たれた、その美しき風情――これ、謂いようもない上に――その心の内に動いた――その静の素直にして一途な思いにも――私(わたくし)は「ありがとう」と言うてやりとう存じます』と述べているのである。この政子の台詞は殊の外――恐らくはこの静の舞と歌声と響き合うほどに――至高の誠意と美しさで輝いている。……私は政子が大好きである。……

・「幽玄」奥深く計り知れぬほどに美しいこと。

・「卯の花重」重ねの色目で、夏の初めの装束。かなり後になるが、永正三(一五〇六)年に書かれた「女官飾鈔」には小袿が葡萄〔表・蘇芳/裏・縹(はなだ)〕表着が紅〔表・紅/裏・紅〕とある。

・「纒頭」祝儀として貰った衣服を頭に纏ったところから、歌舞・演芸などをなした者に褒美として衣服・金銭などを与えること、また、そのものを言う。 

 

「奉幣」神に幣帛(へいはく:榊の枝に掛けて、神前にささげる麻や楮(こうぞ)で織った布。のちには絹や紙も用いた。)を捧げ祀ること。

 

「白雪」白雪曲。春秋戦国時代に遡る琴の名曲。

 

「工藤祐經、梶原景茂、千葉常秀、八田朝重、藤判官代邦通等靜が旅宿に行向ひ、酒宴を催して遊びけり。……」このシーンは鶴岡の舞の一件から凡そ一月後の「吾妻鏡」文治五年五月十四日の条に基づく。

 

●第八変奏 静、梶原景孳茂の酔狂を咎む

〇原文

十四日辛夘。左衞尉祐經。梶原三郞景茂。千葉平次常秀。八田太郞朝重。藤判官代邦通等。面々相具下若等。向靜旅宿。玩酒催宴。郢曲盡妙。靜母磯禪師又施藝云々。景茂傾數盃。聊一醉。此間通艶言於靜。靜頗落淚云。豫州者鎌倉殿御連枝。吾者彼妾也。爲御家人身。爭存普通男女哉。豫州不牢籠者。對面于和主。猶不可有事也。况於今儀哉云々。(後略)

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十四日辛夘。左衞門尉祐經、梶原三郞景茂、千葉平次常秀、八田太郞朝重、藤判官代邦通等、面々に下若(かじやく)等を相ひ具し、靜が旅宿に向ふ。酒を玩(もてあそ)び宴を催す。郢曲(えいきよく)妙を盡す。靜の母磯禪師、又、藝を施すと云々。

景茂、數盃を傾け、聊か一醉す。此の間、艶言を靜に通ず。靜、頗る落淚して云はく、「豫州は鎌倉殿が御連枝、吾は彼の妾なり。御家人の身として、爭(いかで)か普通の男女と存ぜんや。豫州、牢籠せずんば、和主(わぬし)に對面(たいめ)すること、猶ほ有るべからざるなり。况や今の儀に於いてをや。」と云々。

 

・「梶原三郞景茂」(仁安二(一一六七)年~正治二(一二〇〇)年)は梶原景時三男。源平合戦及び後の奥州合戦でも戦功を挙げて建久元(一一九〇)年には左兵衛尉に任ぜられたが、正治元(一一九九)年の御家人六十六名による梶原景時糾弾の連判状によって父とともに鎌倉を追われ、後、父に従って京へと登る途中、駿河国にて在地武士団の襲撃を受けて討死にした。参考にしたウィキの「梶原景茂によれば、彼の『子孫は、子の景永が陸奥国の早馬神社に下向し(既に景時の兄景實が開いていた)、室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった』とある。

・「千葉平次常秀」(生没年不詳)千葉常胤の孫。上総千葉氏の祖。源平合戦及び後の奥州合戦でも祖父常胤とともに戦って戦功を挙げ、建久元(一一九〇)年の頼朝上洛に従った際、祖父に譲られて左兵衛尉に任ぜられている。

・「八田太郞知重」(長寛二(一一六四)年~安貞二(一二二八)年)頼朝古参の重臣八田知家嫡男であるが、承久の乱以後の行跡は不明。

・「大和判官代藤原邦道」「吾妻鏡」には多数登場するが詳細不詳。

・「郢曲」は平安から鎌倉にかけての日本の宮廷音楽の内で「歌いもの」に属するものの総称。語源は春秋戦国時代の楚の首都郢で歌唱されたという卑俗な歌謡に由来する。参照したウィキの「郢曲」によれば、『平安時代初期には朗詠、催馬楽、神楽歌、風俗歌など宮廷歌謡の総称であったが、平安時代中期には今様(今様歌)を含むようになり、平安末期からは神歌(かみうた)、足柄、片下(かたおろし)、古柳(こやなぎ)、沙羅林(さらのはやし)などの雑芸をも包含し、歌謡一般を指す広い意味のことばとなった』とし、『鎌倉時代に、前代の今様を受けて鎌倉を中心とする東国の武士たちに愛唱されたのが、早歌と呼ばれる長編歌謡で』、これは「源氏物語」「和漢朗詠集」といった本邦の文芸作品や仏典・漢籍を出典とする七五調を基本とする歌謡で、本話柄よりも遙かにあとではあるが、永仁四(一二九六)以年前成立の歌謡集「宴曲集」は歌謡作者明空の編纂による。現在の研究でも早歌は「郢曲」の範疇に含めることがあり、あるいは、公家の郢曲にかわる「武家の郢曲」ともいうべき性格を有する歌謡であったとも考えられている。『その詞章には、武家ならでは思考法や美意識の反映がみられ、後代の曲舞や能楽の成り立ちにも多大な影響をあたえることとなったといわれている』とあって、このシークエンスを想像する際、非常に参考になる。

・「御連枝」貴人の兄弟姉妹。

・「今の儀」景茂が静を口説いたことを指す。

この記載以降の「吾妻鏡」の静―義経関連記事を順に見ると、

 

同五月二十七日の条には、夜、静が、南御堂に参籠していた大姫の仰せによって参上、芸を奉って禄を受けている。同月十七日に『常に御邪氣の御氣色あ』ってそれを退治するため十四日間の参籠に入っていた。この日は、やや早いのだが、その参籠最後の夜であったと記す。……当時、大姫は数え九歳……義高との悲恋に重いPTSDとなった彼女は、傷心の静と、そこで、何を思い、どのような言葉を交わしたのであろうか?……想像してみたくなるシークエンスではないか。……

 

同六月七日の条には、義経、伊勢神宮に参詣、その後に大和に姿を現したなどの風聞が書かれ、

 

同六月十三日の条には、義経の母(常盤御前)・妹の捕縛と鎌倉への護送伺の記事が載る。「玉葉」によれば、この時、常盤は義経が岩倉にいると証言したため捜索が行われたが、すでに逃げた後であったとし、この二人も鎌倉へ送られた形跡はなく、釈放されたものとみられ、これが常盤に関する記録の最後となる(ウィキの「常盤御前」に拠る)。

 

同六月二十二日の条に、義経、仁和寺・石倉(いわくら)・比叡山に潜むとの風聞、

 

それから一月半ほどが経った同閏七月十日の条には、義経を手引きしたとする小舎人童(こどねりわらわ)五郎丸なる者が捕えられ、尋問の結果、先の六月二十日まで比叡山に隠れていたことが判明、その白状の中で、比叡山僧兵俊章・承意・仲教といった者が義経の味方をしていることが明らかとなった。そこでその事実を天台座主であった全玄及び副官たる慈円に伝達、後白河法皇にも同じ報告を奏聞した旨の記載があり、またこの日、「義経」という名は摂関家兼実の子息三位中将良経と同じ名(音)である故、憚って「義行」(よしゆき)と呼び名を改める由記載がある。咎人は名前さえ勝手に変えさせられたのであった。

 

同二十六日の条には、先の五郎丸の白状に基づいて、義経に味方する叡山の僧を差し出すよう、座主全玄に連絡したところ、彼らは既に逃亡したとの答えであったが、にも拘わらず、未だ十一日の段階では延暦寺に潜んで居るかのような噂が絶えず、その旨、後白河法皇へ奏聞、それを受けて十六日に公卿の僉議(せんぎ)があり、比叡山の全域とその末寺及び荘園の全てに触れを出された。すると、逃亡した僧の共犯者として三人の僧が差し出されので、一時、叡山への軍兵派遣が検討されたが、下手をすれば、それは『法滅の因』ともなるとのことで、取り敢えず沙汰やみとなったとある。なかなかに緊迫のレベルが高いことが分かるが、最後に十七日附で近江・北陸に義経逮捕の院宣が下された旨、文書が引用明示されて、この条は終わっている。

 

「文治二年閏七月二十九日靜卽ち男子を產生す。……」以下に「吾妻鏡」を示す。

 

●第九変奏 静、男子を出産し、殺害さる

〇原文

閏七月小廿九日庚戌。靜產生男子。是豫州息男也。依被待件期。于今所被抑留歸洛也。而其父奉背關東。企謀逆逐電。其子若爲女子者。早可給母。於爲男子者。今雖在襁褓内。爭不怖畏將來哉。未熟時斷命條可宜之由治定。仍今日仰安逹新三郞。令弃由比浦。先之。新三郞御使欲請取彼赤子。靜敢不出之。纏衣抱臥。叫喚及數剋之間。安逹頻譴責。礒禪師殊恐申。押取赤子與御使。此事。御臺所御愁歎。雖被宥申之不叶云々。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

廿九日庚戌。靜、男子を產生(さんしやう)す。是れ、豫州の息男なり。件の期(ご)を待たるるに依りて、今に歸洛を抑へ留めらるる所なり。而るに、其の父、關東を背き奉り、謀逆を企て、逐電す。其の子、若し女子たらば、早く母に給はるべし。男子たるにおいては、今、襁褓(きやうほう)の内に在りと雖も、爭(いかで)か將來を怖畏(ふい)せざらんや。未熟の時に命を斷つの條、宜しかるべきの由、治定(ぢぢやう)す。仍りて今日安逹新三郞に仰せて、由比浦に弃(す)てしむ。之より先、新三郞御使、彼の赤子を請け取らんと欲す。靜、敢へて之を出ださず。衣に纏ひて抱き臥し、叫喚數剋(すうこく)に及ぶの間、安逹、頻りに譴責(けんせき)す。礒禪師、殊に恐れ申し、赤子を押し取り、御使(おんし)に與(あた)ふ。此の事、御臺所、御愁歎、之を宥(なだ)め申さると雖も叶ずと云々。

 

・「礒禪師、殊に恐れ申し」は御使清経の権幕へではなく、間接的な頼朝への畏怖表現である。

 

「八月十五日靜は暇給はりて都に上る。樣々の重寶共御臺、姫君の御方より給はりけり」これは文治二(一一八六)年「九月」十五日の誤り。

 

●終曲 アリア 静と磯禅師の帰洛

〇原文

十六日己未。靜母子給暇歸洛。御臺所幷姬君依憐愍御。多賜重寳。是爲被尋問豫州在所。被召下畢。而別離以後事者。不知之由申之。則雖可被返遣。產生之程所逗留也。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

十六日己未。靜母子、暇を給はりて歸洛す。御臺所幷びに姬君、憐愍(れんみん)し御(たま)ふに依りて、多く重寳を賜はる。是れ、豫州の在所を尋ね問はれんが爲に召し下され畢んぬ。而るに別離以後の事は、知らざるの由、之を申す。則ち、返し遣はさるべしと雖も、產生の程、逗留する所なり。

 

ここに最後に大姫が登場していることを見逃してはならない。大姫は確かに静の一片の氷心――確かな女の真心――を……つらまえていたのである。……静は……静かに去ってゆくのである…………]

 

 

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