北條九代記 賴朝卿奥入付泰衡滅亡 パート5〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉
寄手の大軍木戸口に詰寄せ、畠山、小山兄弟、三浦の人々、猛威を振うて攻戰(せめたたか)ふ。其聲山に響き谷に渡り、夥しとも云ふ計なし。されども城中の兵要害に向ひて強く防げば寄手厭(あぐ)みてぞ思ひける。此所に小山七郎朝光(ともみつ)、宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)、郎従紀(きの)権守波賀(はがの)二郎大友以下の七人、安藤次(あんどうじ)を案内者として潛(ひそか)に伊達郡(だてのこほり)藤田の宿より會津の方に向ひて、土湯嵩(つちゆのだけ)、鳥取越(とつとりごえ)を、大木戸のうへ、敵城(てきじやう)の後(うしろ)の山に登りて、時の聲を作りければ、「すはや搦手(からめて)より破るゝぞ」とて、城中周章慌忙(あはてふため)きて我も我もと落ちて行く。朝霧の紛(まぎれ)に、秋の山影灰暗(ほのぐら)く、岩路(がんろ)露に濕(うるほ)ひて、滑(なめらか)なる苔の上に衝伏(つきふ)せ、切倒(きりたふ)し、親討たれ、子討たるれども、落留(おちとゞま)る者更に無し。
[やぶちゃん注:〈阿津樫山攻防戦Ⅳ〉
「吾妻鏡」文治五(一一八九)年八月十日の条の頭の部分を示す(後は次の〈阿津樫山攻防戦Ⅴ〉の回で示す)。
〇原文
十日丁酉。夘剋。二品已越阿津賀志山給。大軍攻近于木戸口。建戈傳箭。然而國衡輙難敗傾。重忠。朝政。朝光。義盛。行平。成廣。義澄。義連。景廉。淸重等。振武威弃身命。其鬪戰之聲。響山谷。動郷村。爰去夜小山七郎朝光。幷宇都宮左衛門尉朝綱郎從。紀權守。波賀次郎大夫已下七人。以安藤次爲山案内者。面々負甲疋馬。密々出御旅舘。自伊逹郡藤田宿。向會津之方。越于土湯之嵩。鳥取越等。攀登于大木戸上。國衡後陣之山。發時聲飛箭。此間。城中大騒動。稱搦手襲來由。國平已下邊將。無益于搆塞。失力于廻謀。忽以逃亡。于時雖天曙。被霧隔。秋山影暗。朝路跡滑。不分兩方之間。國衡郎從等。漏網之魚類多之。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
十日丁酉。夘剋。二品已に阿津賀志山を越え給ふ。大軍、木戸口に攻め近づき、戈(ほこ)を建て、箭(や)を傳ふ。然れども、
國衡、輙(たやす)く敗傾(はいけい)し難し。
重忠・朝政・朝光・義盛・行平・成廣・義澄・義連・景廉・淸重等、武威を振ひて身命(しんみやう)を弃(す)つ。其の鬪戰の聲、山谷に響き、郷村を動かす。爰に去ぬる夜、小山七郎朝光、幷びに宇都宮左衛門尉朝綱が郎從、紀權守・波賀次郎大夫已下七人、安藤次(あんどうじ)を以つて山の案内者と爲(な)し、面々に甲(よろひ)を疋馬に負はせ、密々に御旅舘を出でて、伊逹郡藤田宿より、會津の方へ向ひ、土湯(つちゆ)の嵩(だけ)、鳥取越(ととりごえ)等を越え、大木戸の上、國衡が後陣の山に攀じ登り、時の聲を發(はな)ち、箭(や)を飛ばす。此の間、城中、大いに騒動す。搦手も襲ひ來るの由を稱す。國平已下の邊將、搆塞(こうさい)に益無く、謀(はかりごと)を廻らすに力を失ひ、忽ち以つて逃亡す。時に天曙(あ)くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡(あと)滑らかにして、兩方を分かたざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し。
・「伊達郡藤田宿」現在の福島県伊達郡国見町。
・「土湯の嵩」saitohpb氏のブログ「つれづれなるままに」の「石那坂の戦い(4)」の『「土湯嵩」について』に、『阿津賀志山の山陰は湯ノ倉大森山なり。(信達二郡村誌付録)とあり、当時小坂、鳥取辺の山に、地元の人が「土湯嶽」と呼び慣らしていた山があったことが伺える。(宮城県側に下れば小原温泉がある。)室町幕府が羽州探題をおいてからは「羽州街道」とされた道がある。難所であるその山を越え、東に鳥取越~山崎峠~石母田峠と五〇〇メートル級の山峰が阿津賀志山の北を巻いて大木戸に至る。(「安藤次は、自ら朝光らの武将を誘い、この作戦の郷導となる」二郡村誌付録)「吾妻鏡」八月十日の条記述には何の疑問もない』とある(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更させて頂いた)。
・「鳥取越」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注には、現在の『国見町小坂峠へ上ると鳥取股根ケ窪に地名が残るし、阿津賀志山の裏へ出られそうである』と記しておられる。因みに、阿津賀志山から遙か四十キロメートル南西方の福島県福島市の「土湯」温泉町には「鳥取越」の地名があるが、ここではない。
・「搆塞」要塞。
・「時に天曙くると雖も、霧に隔てられ、秋山、影暗く、朝路、跡滑らかにして、兩方を分けざるの間、國衡が郎從等、網を漏るるの魚の類ひ、之れ、多し」ここは映像が鮮やかに浮かんでくる名調子の場面。「兩方を分かたざる」とは敵味方が不分明であることをいう。
・「大木戸」現在の福島県伊達郡国見町に残る阿津賀志山二重(ふたえ)防塁遺跡の北側の阿津賀志山山麓に、国見町大木戸地区の名があるが、ここか。個人のHP「おじいちゃんのひまつぶし」の「福島の遺跡・史跡 阿津賀志山防塁」に所載する地図を参照されたい。リンク先では防塁の写真も見ることが出来る。
以下、「北條九代記」本文注。
「宇都宮左衞門尉朝經(ともつね)」とあるが、「吾妻鏡」でお分かりの通り、「朝綱」の誤り。小山(結城)朝光とは親族である。
「波賀(はがの)二郎大友」とあるが、やはり「吾妻鏡」でお分かりの通り、「大友」は「大夫」の誤り。]