鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(4)
なかなか手強かった文書類を一気にやっつけた。
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一武藏國平井〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。
寄進 鶴岡八幡宮
武藏國平井彦次郎跡事
右、為當社領寄附也者、早守先例、可被致沙汰之狀如件、
應永十九年三月二十七日
左兵衞督源朝臣(花押)
「鎌倉市史 社寺編」には「武藏國平井彦次郎跡」を『(東京都西多摩郡郡内か)』とする。]
一六郷保〔云云〕。保内卜云ハ昔ヨリ有來リタルコトナルベシ。
[やぶちゃん注:これは、応永一九(一四一二)年)年三月十七日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六二)のことを指している。以下に示す。
寄進 鶴岡八幡宮寺
武藏國入東郡難波田小三郎入道跡事
右、爲同國六郷保内原郷替、所寄附之狀如件、
應永七年十二月廿日
左馬頭源朝臣(花押)
「入東郡」は後の埼玉県入間郡。「六郷保」は現在の東京都大田区にあった荏原郡。この文書は鎌倉公方足利満兼が、従来、鶴岡八幡宮寺に寄進していた六郷保内原郷の代替寄進地として、入東郡内の難波田小三郎入道の跡地を寄進する、という内容である。この「保」とは、平安時代後期(十一世紀後半以後)から中世にかけて新たに生まれた所領単位である。以下、ウィキの「保」を引用する。保は『人名や地名を冠して呼ばれ、「荘」「郷」「別名」と並んで中世期を通して存在した。保は別名』(べちみょう 「別納(べちのう)の名(みょう)」ので十一世紀の半ば以降、公領の荘園化を防ぐため国衙が在地有力者の私領確保の欲求に妥協しつつ開発を認め、官物・雑公事の納入を請け負わせたことから成立した土地制度上の一呼称)『とともに国衙から一定地域の国衙領の占有を認められ、内部の荒野の開発と勧農、支配に関する権利を付与されたものを指したが、保は別名とは違って在家(現地住民)に支配が及んでいたと考えられている。ただし、国守が負っていた何らかの負担を土地に転嫁する際に採用された所領形式とする異説もある』。『保司と称された開発申請者は在地領主とは限らず、有力寺社の僧侶や神官、知行国主や国守の近臣、中央官司の中下級官人など、在京領主と称される官司や権門関係者も多かった。このため、保司の中でも在地系の「国保」と在京系の「京保」に分けることができる。国保と京保の違いは官物の扱い方にあり、前者は国衙領として国衙に納入されるのに対して、後者は直接官司や権門に納められていたため形式上は国衙領のままであったものの実質において彼らを領主とする荘園と大差がなかった。便補保は国衙が封物確保の義務を免除される代わりに便補の措置のために官司・権門側に認めた京保の一種と言える。勿論、在京領主が直接京保を経営するのは困難であったから、現地の有力者に公文職などを与えて在地領主して経営にあたらせる方法が取られた』。『国保・京保ともに、国司(国守)が交替するごとに再度承認の申請をする必要があり、時には再申請を認めず国衙領として回収しようとする国司との間で紛争が生じることもあった。これに対して、中央から太政官符・宣旨などを得て立券荘号して正式に荘園として認められるものや、保の形態のまま為し崩し的に寺社領・諸司領・公家領などとされて国衙の支配から離脱する事例もあったが、依然として国衙領として継続した場合もあった』とある。]
一常陸國那珂東國井郷内〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永二一(一四一四)年八月廿日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六五)のことを指している。以下に示す。
寄進
鶴岡八幡宮
常陸國那珂東國井郷内〔佐竹左馬助跡、〕事
右、去十六日於社頭依下人狼藉、收公之、爲武藏國津田郷内方丈會※所不足分、所寄附之狀如件、
應永廿一年八月廿日
左兵衞督源朝臣(花押)
「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。これは「鎌倉市史 社寺編」に、『佐竹義人の下人が常陸国那珂東国井郷(水戸市内)の内の地を没収して、これを武蔵国津田郷(埼玉県大里郡大里村[やぶちゃん補注:現在は熊谷市。])の内の方丈会料所不足分の補として当社に寄進した』ことを示す文書とある。佐竹義人(さたけよしひと 応永七(一四〇〇)年~応仁元(一四六八)年)は守護大名、常陸守護、佐竹氏第十二代当主。関東管領上杉憲定次男で佐竹義盛の養子。関東管領上杉憲基の弟。家督相続の恩があって一貫して持氏派であったが、永享の乱後は実家上杉氏との関係改善を図って存命を図った。]
一上總國周東郡〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年一月一日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六六)のことを指している。以下に示す。
奉寄進
鸖岡八幡宮
上総國周東郡大谷村〔岩松左馬助入道跡、〕事
右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、
應永廿四年正月一日
左兵衞督源朝臣(花押)
これについて「鎌倉市史 社寺編」には、上総国周東郡大谷(おおやつ)村は現在の千葉県袖ケ浦町(旧君津郡小糸町)内とし、『これは禅秀に与(くみ)した岩松満国の所領を没収したものの内である』と記す。上杉禅秀の乱は同応永二四年年一月十日に氏憲(禅秀)が持氏の叔父満隆や持氏の弟で養嗣子であった持仲とともに、まさに鶴岡八幡宮の雪ノ下の別当坊で自害して終結するのだが、この寄進状はその後にクレジットを遡って発せられたものであろう。]
一常陸國北條郡宿郷〔云云〕
[やぶちゃん注:これは、応永二四(一四一七)年閏五月二日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕寄進狀」(「鎌倉市史 資料編第一」の六七)のことを指している。以下に示す。
奉寄進
松岡八幡宮
常陸國北条郡宿郷〔右衞門佐入道跡、〕事
右、爲天下安全、武運長久、所奉寄附之狀如件、
應永廿四年閏五月二日
左兵衞督源朝臣(花押)
「常陸國北条郡宿郷」は現在の茨城県つくばみらい市、旧筑波郡内にあった「右衞門佐入道」故上杉禅秀の没官領を寄進する内容である。]
一相摸國小田原關所〔云云〕 永享四年持氏ノ證文ニアリ。關所昔ヨリ久シキコトカ。
[やぶちゃん注:これは、永享四(一四三二)年十月十四日のクレジットを持つ「鎌倉御所〔持氏〕御教書」(「鎌倉市史 資料編第一」の八〇)のことを指している。以下に示す。
松岡八幡宮御修理要脚事、所寄相模國小田原關所也、早三ケ年之間宛取關賃、可令終修造功之如件、
永享四年十月十四日 (花押)
信濃守殿
これは八幡宮の営繕修理費用の分担を小田原の関所に当て、大森頼春に銘じて小田原関所の三年分を割り当てて修造を終らせた旨の文書である。大森頼春(?~応仁三(一四六九)年)旧駿河国駿東郡領主。応永一三(一四〇六)年にも鎌倉公方足利満兼による円覚寺修繕のため、伊豆国三島に関所を設置して関銭を徴収した記録がある。上杉禅秀の乱鎮圧の功によって鎌倉公方足利持氏より箱根山一帯の支配権を与えられた。応永二四(一四一七)年頃に小田原城を築いている(ウィキの「大森頼春」に拠ったが一部誤りを正した)。]
一持氏ノ證文ニ朱字ニ書タルアリ。永享六年トアリ。
[やぶちゃん注:これは、永享六(一四三四)年三月十八日のクレジットを持つ「足利持氏血書願文」(「鎌倉市史 資料編第一」の八五)のことを指している。以下に示す。
於于鶴岡
大勝混合尊等身造立之意趣者、爲武運長久、子孫繁榮、現當二世安樂、殊者爲攘咒咀怨敵於未兆、荷關東重任於億年、奉造立之也、
永享六年三月十八日
從三位行左兵衞督源朝臣持氏(花押)
造立之間奉行
上椙左衞門大夫
底本には最後に『コノ文書ハ、血ニ朱を混ジテ書シタルモノナリ』という編者注が附されている。この「咒咀怨敵」(呪詛の怨敵)とは将軍足利義教のことを指す。「上椙左衞門大夫」については「鎌倉市史 社寺編」には持氏の側近上杉『憲直か』とする。]
一武藏國久良郡〔云云〕 今按ニ和名抄ニ久良ト書テ、久良岐卜倭訓アリ。社僧云、綸旨甚多カリシヲ、度々ノ囘祿ニ悉燒失シヌトナリ。
[やぶちゃん注:これは、まず貞治四(一三六五)年七月二十二日のクレジットを持つ「将軍家〔足利義詮〕御内書」(「鎌倉市史 資料編第一」の三三)のことを指している(御内書(ごないしょ)は、室町幕府の将軍が発給した私的な書状形式の公文書で、形式は差出人が文面に表記される私信と同様のものであるが、将軍自身による花押・署判が加えられており、私的性格の強い将軍個人の命令書とは言え、御教書に準じるものとして幕府の公式命令書同様の法的効力を持った)。以下に示す。
鸖岡八幡宮雜掌申、武藏國久良郡久友村郷事、故御所一円御寄附狀分明也、無相違※樣可有計御沙汰候、謹言、
貞治四年七月二十二日 義詮(花押)
左兵衞督殿
「※」~「辶」+(「寿」-「寸」+「友」)。「違」か。底本には末尾に、鶴岡八幡宮文書原本には最後の宛名が欠けているため、東京大学史料編纂所架蔵の相州文書に拠って補った旨の注記がある。この文書及び関連する資料について「鎌倉市史 社寺編」には、『鶴岡八幡宮雑掌は社領武蔵国久良岐郡久友郷(横浜市内)のことについて幕府に訴えるところがあった。このため』この文書が発給されて『久友郷を当社に安堵するように命じている。この久友郷は尊氏』(「故御所」)『によって寄進されたものであるが、金曾木(かなそぎ)重定・市谷孫四郎等の跡』(前出文書)『や鶴見郷などと共に別当領ではなかったと思われる。こえて応安元年(一三六八)八月二十一日、足利金王丸(氏満)は武蔵国箕田郷の地頭職の内の河連村(鴻巣市川面)を当社に寄進した。なおこののち同六年四月二十八日、義満は久友郷を鶴岡八幡宮雑掌に渡付するよう氏満に命じている。(『資料編』一の三三・三五・三八)』とある。]
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