鎌倉日記(德川光圀歴覽記) 鶴岡八幡宮~(2)
一永和年遍照院僧正一〔云云〕〔昔ハ僧正ニモ任ジタルコトヲ知ベル。〕
[やぶちゃん注:これは永和五(天授五年/康暦元・永和五(一三七九)年)年閏四月十三日のクレジットを持つ「鎌倉府政所執事〔二階堂行詮〕奉書」(「鎌倉市史 資料編第一」の四二)のことを指している。以下に示す。
安房國岩井不入計半分〔号大方分、〕事爲鸖岡八幡宮本地供々※、所被預置也、任例可有其沙汰之狀、依仰執達如件、
永和五年閏四月十三日 沙 弥(花押)
遍照院僧正御房
「※」=「米」+「斤」。「料」に同じい。この文書は鎌倉御所足利氏満が安房国平群(へぐり)郡岩井にある不入斗(いりやまず:本来は「不入斗」は一村として貢粗を納めるまでに至らない小集落をいうが、ここでは地名として意識されているようである。現在の千葉県富山町北部不入斗。旧北条氏領。)の半分を鶴岡八幡宮本地供々料(本地仏の御供料所)として遍照院賴印僧正に預け置くことを言っている。その後の文書類によれば、この八ヶ月後の十二月二十三日には頼印を管領として、その管理を委ねている。
「知ベル」は感覚的なものだが、「知(ル)ベシ」の誤りではなかろうか? ここで光圀は、僧正にも土地の管領(職)を公に文書で任ずることが行われたということが分かる、と言っているのではあるまいか? 識者の御教授を乞う。]
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ともかくも、文書を一通宛調べて注するのは時間がかかる。牛歩以下ならんことは御寛恕願いたい。