一言芳談 十四
十四
明遍法印云、他力の強緣(がうえん)にあへる事を思ふに、生死(しやうじ)を出離せむことは、今生(こんじやう)にあひあたれり。此緣にあひながら、むなしくすぐしては、一定(いちぢやう)またうけさげられぬとおぼゆるなり。しかれば、生死をわかれざらんこと今生にあるなり。
〇一定(いちぢやう)またうけさげられぬ、一定とは推量の詞なり。受けさぐるとは人界より三惡道などへおつることなり。
慈鎭(じちん)和尚の歌に云、このたびをかぎりにはせんとおもふかな、身もうけがたく法もえがたし。
[やぶちゃん注:解脱を得られなければ、三世を永遠に輪廻し続ける外ない。湛澄の注は「三惡道」(地獄・餓鬼・畜生)「など」(これは暗に修羅道を指すのであろう)と殊更に示して恐怖を煽るが(但し、実際にはこれは「うけさぐ」の意味を忠実に示したものではあろう。「うけ」はカ行下二段動詞の連用形で恐らくは「天から宿命的なものとして~を授かる」の意、「さぐ」はカ行下二段動詞「下ぐ」で、輪廻の中で人間(じんかん)道の現世から下位の三悪道及び修羅道へ転落させられることを指していよう)、しかし、これはそこが三善道(天上・人間・修羅)であっても実は大差はない。より煩悩の少ない天上道に生れたとしても、それは輪廻の柵の中にあって、煩悩の苦界に在るという点で、救われていないという点では大した変りはないどころか、本質的には総て等質であると言える。だから「今この瞬間」と明遍は言うのである。この絶対他力の切れることのない強靭な「緣」に接したと思ったその瞬間に「生死を出離せ」よ――そこに猶予は――ない――のである。
「慈鎭」慈円。]