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2012/11/25

芥川龍之介漢詩全集 十一

   十一

 

叢桂花開落

畫欄煙雨寒

琴書幽事足

睡起煮龍團

 

〇やぶちゃん訓読

 

 叢桂(そうけい) 花開きて落つ

 畫欄(ぐわらん) 煙雨 寒し

 琴書 幽かに 事足れり

 睡起(すゐき)して 龍團(りようだん)を煮る

 

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。なお、河出書房新社一九九二年刊鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」によれば、この書簡の頃(十二月初旬)、動悸の岡田(後に改姓して林原)耕三の紹介で、久米正雄とともに夏目漱石を訪ね、以後、漱石のサロン、木曜会の常連となっている。まさにいろいろな意味で龍之介運命の出逢いの季節であった。

大正四(一九一五)年十二月三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一八九)所載。

この書簡は非常に長いもので、『この手紙をかくのが大へんおくれた それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない』と始まる(旧全集ではこの前の井川宛書簡は十月一日附である)。勿論、この『仕事』とはかの「鼻」の執筆であった(鷺年譜によれば、「鼻」の起稿はこの前月十一月四日、脱稿は「手帳 一」によって翌大正五(一九一六)年一月二十日、それが第四次『新思潮』創刊号を飾ったのは、同年二月十五日のことであった)。しかし、以下の書簡の叙述を読むと卒業『論文のため読む本ばかりでも可成ある(テキストは別にしても)』と記しているから、卒論の作業だけでも相当に多忙であったことが窺われる。なお、書簡中に卒論の題名については『題は W. M. as poet と云ふやうな事にして Poems の中に Morris の全精神生活を辿つて行かうと云ふのだが何だかうまく行きさうもない』と弱気なことを記しており、実際、新全集の宮坂覺氏年譜によれば、主題は“as man as artist”から“As a poet”、更に“Young Morris”と縮小され、完成稿は邦題では「ウィリアム・モリス研究」となった、とある(但しこれは惜しくも第二次世界大戦の戦火によって焼失してしまう)。

 但し、もう一つ、彼には『仕事』があった。――それは塚本文に対する恋情と結婚への願望実現のための精神的な高揚という『さしせまつた』感懐に基づく『仕事』――行動志向である。文への思慕の萌芽はこの大正四年の八月頃と考えられ、本書簡の十二日前の文の叔父で親友の山本喜譽司宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一八八)で『僕の愛を文ちやんに向ける』と、文への恋情を仄めかしているのである。宮坂年譜でもこの日の項に『文への気持ちは翌月に入って高まった』(翌月とはまさにこの書簡が書かれた十二月のことを指す)とあるからである(宮坂年譜によれば、文とはその後の大正五年二月中旬に伯母フキらに逢わせたところ、好感を持たれたことから、龍之介は結婚の意志を固めた、とある)。

 前半は当代の美術作品の辛口批評に始まり、最近読んでいるトルストイの「戦争と平和」への共感、この夏の松江の追想、新作の現代詩を記す。前文を附して以下に示す(「どこへ云つても」はママ)。

 

田端はどこへ云つても黄色い木の葉ばかりだ 夜とほると秋の匀がする

   樹木は秋をいだきて

   明るき寂寞にいざなふ

   「黄」は日の光にまどろみ

   樹木はかすかなる呼吸を

   日の光にとかさむとす

   その時人は樹木と共に

   秋の前にうなだれ

   その中にかよへる

   やさしき「死」をよろこぶ

 

漢詩は、このやや後に現われる。

 

定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ

自分でつくる氣になつてつくる詩はある 今日でたらめにつくつたのを書く

   叢桂花開落

   畫欄煙雨寒

   琴書幽事足

   睡起煮龍團

どうも出來上つた時の心もちが日本の詩よりいゝ 日本の詩も一つ今日つくつたのを書く 何だかさびしい氣がした時かいた詩だから

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

   汝のかみは黑く

   かざしたる花も

   いろなく靑ざめたれど

   何ものかその中にいきづく

   かすかに

   されどやすみなく――

   夕はほのかなる暗をうみ

   暗はものおもふ汝をうむ

もう一度眞山にのぼつておべんとうをたべたい さるとりいばらにも實がなつてさうして落ちた時分だらう 山もすつかり黄色くなつたらう 赤い土や松はかはらずにゐるだらうか

おべんとうの卵やきはまつたくうまかつた あめ蝦もたべたい 僕はくひしん坊のせいか食べものを可成思ひ出す

 

この後、自作短歌が六首記され、掉尾の段落は(「動かれて」はママ)、

 

殆この手紙をかき出した時には豫期しなかつたある感激に動かれてこの手紙を完る 大きな風のやうなそれでゐてある形のある光の箭のやうなものが頭の中を通りぬけたやうな氣がする 今まで何だか人が戀しいやうなそれでゐて独りでゐたいやうな心もちにひたされながら何かしろ何かしろと云ふ聲がたへずどこかでしてゐると思つてゐた それが今は皆どこかへ行つてしまつた このまゝで何十年何百年でもじつとして「たへず變化すれども靜止し 流轉すれども恒久なる」一切をみてゐたいやうな氣がする 何故だかしらない 唯僕の意識の中には暗い眼が浮んでゐる 何度もそれが泣くのを見た眼である 僕はこの心もちを失ふのを恐れる この眼を失ふのを恐れる かなしいやうな氣もする

平和にさうして健康に暮し給へ

                                   龍

で終わる。「あめ蝦」は直感であるが、アマエビ(甘海蝦)、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目コエビ下目タラバエビ科タラバエビ属ホッコクアカエビ Pandalus eous のことを指していると思われる。漢詩の後の追想には、松江訪問の記憶が強烈に龍之介に刻印されていることを感じさせて、個人的には非常に好きな部分である。また、掉尾の哲学的感懐に、私は――遠く龍之介の公的遺書たるところの、「或舊友へ送る手記」の「附記」にあるあの言葉――『僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。』――を、鮮やかに思い出していることを、告白しておきたい――。

 

「畫欄」花鳥の模様が装飾として彫り出された欄干。

「龍團」龍団茶。茶の進献が盛んであった宋代、福建省崇安県の南にある銘茶の産地武夷山などで摘まれた初春の新芽から製した極上の新茶で、天子に進献されたことから、龍茶・龍団茶・龍鳳団茶とも言った。]

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