耳嚢 巻之五 杉山檢校精心の事
杉山檢校精心の事
杉山檢校凡下(ぼんげ)の時、音曲(おんぎよく)の稽古しても無器用にして事行(ことゆく)べしとも思われず、其外何にても是を以(もつて)盲人の生業(なりわひ)を送らん事なければ、深く歎きて三七日(さんしちにち)斷食して、生涯の業を授け給へと丹誠を抽(ぬき)んで、江の嶋の辨天の寶前に籠りしが、何の印(しるし)もなければ、所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來(うちきた)る波に遙(はるか)の汀(みぎは)に打上られし故、扨は命生(いき)ん事と悟りて、辨天へ歸り申ける道にて、足に障(さは)る物あり。取上見れば打鍼(うちはり)也。然らば此鍼治(しんぢ)の業をなして名をなさんと心底を盡しけるが、自然と其妙を得て今杉山流の鍼治と一派の祖と成しとかや。
□やぶちゃん注
○前項連関:水神龍女が福を授けた話から、同眷属とされる弁財天(元はインドの河川神で、本邦では中世以降に蛇神宇賀神と習合、弁才天の化身は蛇や龍とされる)が同じく福を授ける同類譚で直連関。
・「精心」底本では右に『(精進)』と注するが、このままでもおかしくない。
・「杉山檢校」杉山和一(すぎやまわいち 慶長一五(一六一〇)年~元禄七(一六九四)年)は伊勢国安濃津(現在の三重県津市)出身の検校。鍼の施術法の一つである杉山流管鍼(かんしん)法の創始者で、鍼・按摩技術の取得教育を主眼とした世界初の視覚障害者教育施設とされる「杉山流鍼治導引稽古所」を開設した人物。以下、参照したウィキの「杉山和一」より引用する(アラビア数字を漢数字に代えた)。『津藩家臣、杉山重政の長男として誕生。幼名は養慶。幼い頃、伝染病で失明し家を義弟である杉山重之に譲り江戸で検校、山瀬琢一に弟子入りするも生まれつきののろさや物忘れの激しさ、不器用さによる上達の悪さが災いしてか破門される。実家に帰る際に石に躓いて倒れた際に体に刺さるものがあったため見てみると竹の筒と松葉だったため、これにより管鍼法が生まれる。(この話は江の島においては江の島で起こった出来事と伝えられ、躓いたとされる石が江島神社参道の途中に「福石」と名付けられて名所になっている。)その後、山瀬琢一の師でもある京都の入江良明を尋ねるも既に死去しており息子の入江豊明に弟子入りすることとなった。入江流を極めた和一は江戸で開業し大盛況となった。六十一歳で検校となり、七十二歳で綱吉の鍼治振興令を受けて鍼術再興のために鍼術講習所である「杉山流鍼治導引稽古所」を開設する。そこから多くの優秀な鍼師が誕生している。将軍綱吉の本所一つ目の話は有名である。和一は江戸にも鍼・按摩の教育の他、当道座(盲人の自治的相互扶助組織のひとつ)の再編にも力を入れた。それまで当道座の本部は京都の職屋敷にあり、総検校が全国を統率していたので、盲人官位の取得のためには京都に赴く必要があった。和一は元禄二年に関八州の当道盲人を統括する「惣禄検校」となり、綱吉から賜った本所一つ目の屋敷を「惣禄屋敷」と呼び、これ以後、関八州の盲人は江戸において盲人官位の取得が出来るようになった』。この「本所一つ目」の逸話については、「杉山検校遺徳顕彰会ホームページ」の「杉山和一総検校ついて」のページに『老いてもなお江戸から毎月江ノ島詣でを続ける検校の身を案じて、また昼夜にわたりそばにおいておきたい綱吉自身のため、綱吉が本所一ツ目の土地を与えてここに弁財天を分社して祀らせた。これには次のような逸話がある』として記されてある。それによれば、元禄六(一六九三)年、将軍綱吉が「何か欲しいものは無いか」と尋ねたところ、杉山和一が「目が欲しい」と答えたところ、綱吉は本所一ツ目(現在の両国駅近くの墨田区千歳一丁目)に宅地を与え、その際、『「望みによって一ツ目を与える。本所一ツ目一八九〇坪、外川岸付き七九二坪を町屋(町屋を作らせ地代は私費に充てる、但し処分は官の許可要する)として与え、弁財天をこれに勧請し、老体のことゆえ江ノ島の月参りはほどほどにするがよかろう。弁天社は古跡並み(徳川氏入国以前の社寺を古跡とし種々の特典がある)にし、江ノ島への願いは朱印状(将軍の朱印を押した書付、絶対の権威がある)をあたえる」』と述べたという(引用に際し、アラビア数字を漢数字に代えた)。『この弁才天は江戸名所図会にも記載されており本所一つ目弁財天として江戸中の信仰を集め、大奥からの船での参詣も多かった』。現在の江島杉山神社がある場所一帯で『ここが惣録屋敷や鍼治講習所があったかつての弁才天跡地で本社の奥に江の島の弁天洞窟を模した洞穴があり、弁財天が祀られている。またここの弁天様は人面蛇身で、杉山検校の関係もあって鍼術の守神であり、学芸上達・除災を祈る人が多い』とある。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、和一の死後、四十三年後である。
なお、江ノ島の福石や杉山検校墓などについては、私の「新編鎌倉志卷之六」の「江島」の項や私の注を参照されたい(写真附)。
・「凡下」江戸期における盲人の階級呼称の一つ。検校・別当・勾当・座頭の四つの位階(更にそれが七十三段階に分かれていたとされる)の最下層の座頭(ざとう)の一階級(もしくは同位階内の集団の通称)かと思われる。
・「三七日」岩波版長谷川氏注に『行(ぎょう)の一くぎりの期間七日を三度重ね。』とある。
・「生涯の業」の「生涯」は底本では「生害」で、右に「生涯」を傍注する。改めた。
・「室前」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『宝前』。こちらで採る。
・「所詮死なんにはしかじと海中へ身を投しに、打來る波に遙の汀に打上られし故、扨は命生ん事と悟りて、」このエピソードは初見。話としては膨らんで面白くはある。
■やぶちゃん現代語訳
杉山検校の精心の祈誓の事
杉山検校が未だ凡下(ぼんげ)の座頭であられた折りのこと、音曲(おんぎょく)の稽古を致いても、これ、全くの不器用にて御座ったがため、上達する見込みがあるようにも到底思われず、その外の目の不自由なる者の生業(なりわい)と致す業(わざ)にても、これ、何を以ってしてもものにならざることと深く嘆かれ、三七(さんしち)二十一日の間、断食をなして、「――何卒、一生の業(わざ)を授け給え――」と丹精を込めて、江ノ島の弁天の宝前に籠もられては、覚悟の祈誓をなさって御座った。
が、行が明けても、何の験しも、これ、御座らなんだによって、
「……かくなっては……最早、死ぬしか……御座るまい……」
と、江ノ島の海中へと、その身を投じられた。
――が――
――気が付けば――打ち寄せる波に、遙かな浜へと打ち上げられて御座った故、
「……さても――未だ生きよ――とのことならん……」
と悟って、弁天の社(やしろ)へと今一度戻り、命を救うて下された御礼を申し上げんとした、その途次、
――チクリ――
と、何やらん、足に鋭く触るるものが、これ、御座った。
取り上げて見れば、これ、鍼(はり)で御座った。
「……然らば! この鍼を用いた鍼治(しんじ)の業(わざ)を成して名を成さん!」
と決定(けつじょう)なされた、とのことじゃ。……
その後(のち)、心底を尽くして鍼治の修行に励まれたが、自ずと、鍼術の妙技処方を会得なされて、今に杉山流の鍼治として一派を成された、とのことで御座る。