一言芳談 二十一
二十一
又云、凡夫は、なに事もまさしくそのことに、のぞまぬほどなり。意樂(いげう)はいみじき樣(やう)なれども、事にふれてうごきやすきなり。
〇凡夫は、なにごとも、ひとりある時は欲にもたへたるやうなれども、媚(こ)びたる色にむかへば、愛心もおこり、富貴(ふつき)の樣子をみれば、うらやむ心も出で來るなり。
〇意樂、平生(へいぜい)の心入(こゝろいれ)なり。樂(らく)の字、ねがふとよむ時はげうの音なり。
[やぶちゃん注:「意樂」は梵語“EsAya”(阿世耶)の漢訳。何かを成そうと楽欲(ごうよく)する意識を起すこと、何かをしようと心に欲すること。念願。心構え。また、心を用いて様々に工夫をすること、また、その心をもいう。湛澄の注に「ねがふとよむ時はげうの音なり」とある通り、「樂」を「ガウ(ゴウ)・ゲウ(ギャウ)」と音する場合は、「好む・愛する・願う・望む」の意となる。
「のぞまぬほどなり」は「望まぬ」ではなく「臨まぬ程なり」で、「まさしくそのことに直面しない状態にある」という意である。これは非日常としての事象との直面という汎用評言でると同時に、究極のそれであるところの死との直面を指すと考えてよい。
「事にふれて」漱石の「こゝろ」の、あの植木屋での「先生」の言葉である。『平生はみんな善人なんです、少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざといふ間際に、急に惡人に變るんだから恐ろしいのです。だから油斷が出來ないんです』。
本条は、「意樂」以外は難しいというわけではないものの、古語の基本的な抽象言語が圧縮されて使用されているため、意味を採り難い。以下に私の勝手な訳を示す。
――明禅法師はまた、次のようにも仰せられた。
「……凡夫というものは、如何なる折りにても、まさに、その対象・事態に直面しない状態にあるのです。即ち、人というものは、平生の心がけは如何にも殊勝に見えても、いざという間際になると、忽ち、その心は軽薄に動きやすくなるものなのです。……」]

