洋裝と和裝と――壯烈の犧牲――《芥川龍之介未電子化掌品抄》
[やぶちゃん注:大正一四(一九二五)年一月一日発行の『婦人畫報』に「洋裝と和裝と」の大見出しのもとにに「壯烈の犧牲」の題で掲載された。底本は岩波版旧全集を用いたが、私の判断で表題と副題を逆転させた(底本は「壯烈の犧牲」を表題とし、「洋裝と和裝と」を副題とする)。底本は総ルビであるが一切省略した。老婆心ながら「擧措」は「きよそ(きょそ)」「倭臭」は「わしう(わしゅう)、「就中」は「なかんづく」で、「紅茶々碗」の「茶碗」は濁らずに「ちやわん(ちゃわん)」と読んでいる。]
洋裝と和裝と
――壯烈の犧牲――
このごろ男を見ると、日本の男もきれいになつたなと思ふけれども、女は、洋裝美にも和裝美にも、格別、昔よりきれいになつたと思つたことがない。殊に、冬毛皮の外套も着ずに、乘合自動車の車掌のやうななりをした女が歩いてゐるのを見ると、日本中が貧乏になつたやうな心細い氣がする。しかし、概していふと、若い娘さんの洋裝は、『新らしい年増』の洋裝よりも美しい。あれは、洋裝の下にある骨組が、テニスだの何んだのゝお蔭で、洋裝に適するやうに出來てゐるためだらうと思ふ。もう一つ、『新らしい年増』に不利なことは、いかに洋裝をしてゐても、擧措動作は一向西洋の婦人らしくない。例へば、歩きかたとか、椅子のかけかたとか、乃至はまた、紅茶々碗を置く手つきとかいふものが、どうも倭臭を帶びてゐる。
けれども、和裝になると、概して中年以上の女の服裝が、若い娘さんの服裝よりも、品がわるくない。元來、若い娘さんの和裝は、はでな色彩に富んでゐるし、その派手な色彩も、このごろ流行の色は、就中はでなものだから、趣味のいゝ服裝は出來にくいのかも知れない。
では、和裝がいゝか洋裝がいゝかといふと、どちらがどのくらゐいゝかは暫らく問はず、とにかく、どちらも惡いことは事實である。なぜかといふと、現代の日本の女は、洋裝するにはあまりに日本じみてゐるし、和裝するにはあまりに西洋人じみてゐるから、どちらにしても、ろくな感じを與へる譯がない。
しかし、かういふ過渡時代を經過しなければ、新らしい美は生れないのだから、みつともないなりをして歩くのも、將來の日本の文明のためには、たしかに壯烈な犧牲である。
最後に、僕は、現代の日本の婦人のかういふ犧牲的精神に、尊敬と愛とをもつてゐることを、つけ加へておきたい。