一言芳談 二十五
二十五
又云、聖法師は功德に損ずるなり。功德を作らむよりは、惡をとゞむべきなり。
〇功德に損ずる、佛をつくり、寺をたて、その外興福(こうぶく)の事にかゝる人、はじめの心ざしよけれども、事にふれて欲心(よくしん)もおこり、わが身にはうるはしく、後世のつとめするひまもなくて、はてには名聞におちて、道心も退轉するなり。
[やぶちゃん注:『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注に貞享五(一六八八)年刊書林西村市良右衛門蔵板「一言芳談句解」に(新字を正字に代え、踊り字「〱」は正字化、一部の記号を省略した)、
『功とは、春夏秋冬の、おしううつるをいひ、その四時の行年行年も、かはらぬが德にてあれ共、今の世の人は苦行するを功德とのみ、おもひさだめしなり。經陀羅尼書寫するも、くどくのはしにては有也。まことの功德はしる人まれに、しらぬ人もなし』
とある、とする。
「惡をとゞむべきなり」『死のエピグラム 「一言芳談」を読む』の大橋氏注には『止悪修善。』とある。これは、「断悪修善」ともいい、悪業を断ち止めて善業をおさめること、不善の行ないをしないようにして十善等を修めるよう努めることを言う。しかし、そうだろうか? これが知られた「止悪修善」であるなら、明禅はわざわざ「功德を作らむよりは」という条件文を附さなかったはずである。寧ろ、これは等価で『作善(さぜん)をしようとすることよりも、悪を行わぬように堰き止めるが肝心じゃ!――作善しようとするな! 悪を防ぎ止めよ!――』と私は言っているように思われる。]

