耳嚢 巻之五 死相を見るは心法の事
死相を見るは心法の事
又彼尼人相をよく見しとて、元壽も相學を心懸し故暫く右の物語をなせしに、或日老婦の相を見て、御身は心のまゝに好きこのむものを食し心に叶ふ事のみなし給へ、來年のいつ頃は命終(みやうじゆう)なんと言しが、果してしるしありしを聞(きき)、元壽も人の死生時日(ししやうじじつ)を相學にて計る事は、相書(さうしよ)にはあれど知れ難き事也、御身如何して知るやと尋ねて、その奧意(あうい)を聞(きか)んと切(せち)に尋ければ、是は我心に思ふ事、傳授口達(こうたつ)なしたりとも用に立難(たちがた)し、自然と我心に悟道なしければ、傳授も成(なり)がたしとて分れぬ。度々彼(かの)尼が庵を尋求(たづねもとめ)しも、右相學の奧祕(あふひ)を聞(きか)んとの事也しと、元壽物語りける由。奇尼もあるものなるかな。
□やぶちゃん注
○前項連関:数奇の、いや、実はやはり奇なる尼の物語の続。通しで四話目となる。藤田元寿が何故、この尼に興味を持ったかという、その真相がここで明らかにされる。根岸もこれには驚いた(従ってこの尼の能力を信じた)ようで、珍しく文末に詠嘆の終助詞「かな」が用いられている。
・「心法」とは本来、心を修練する法、精神修養法を言うが、ここは一種、生まれつき具わっている心の不可思議なる働き、という意で用いている。
・「相學」人相・家相・地相などを見、その人の性格や運勢などを判断する学問。ここでは主に人相学。
・「口達」「こうだつ」とも読む。口頭で伝達すること。言い渡すこと。また、その言葉。
■やぶちゃん現代語訳
死相を見る能力は天然自然の心法である事
また、かの尼は人相をよく見、元寿も相学を学んでおったによって、逢えばきっと、この相学についての話しとなるが常で御座った。
そんな、ある日のこと、かの尼より、
――とある市井の老婦人の相を見、
「……おん身は心のままに、好きなものをお食べになり、心になさりたいと思われることのみ、なさいませ。……来年の、これこれの時節には、命終(みょうじゅう)をお迎えになられましょうほどに……」
と告げましたところ、果たして、その通りと相い成りました――
という話を聞かされた。
元寿、これを聴くや、
「……相学にて人の生死(しょうじ)の時日(じじつ)を測ることの出来るとは、確かに相学書には、かくあれど……その法は、これ、如何なる書にも具さには書かれて御座らねば、容易には習得出来ざるものにて御座る。……にも拘わらず、御身は、如何にして、命終(みょうじゅう)の予兆を知ることが、これ、お出来になるので御座る?」
と、その奥義を承らんと、切に訊ねたところが、尼は、
「……いえ、これは自然に我が心に感ずるので御座いますれば……恐らくは、その折りの些末な心の内の閃きや、直ちに感じた面影を、これ、伝授口伝(くでん)致しましたところで、それは何の役にも立ちますまい。……いつの頃からやら、存じませぬが……自然、そのようなことの分かる『何か』が、我が心の……不遜ながら、我らの悟りのようなるものとして……在った、ので御座います。……されば、伝授しようにも、これ、伝授出ぬものにて、御座いますれば……」
と、その場は別れたと申す。
その後も、度々、元寿が、かの尼の庵を訪ねたのも、これ実は、この相学の奥義を、何とかして訊かんがためで御座った、と元寿自身が語ったと申す。
……いや、やはり不思議なる尼も、御座ったものじゃ。